朝代神社(あさしろじんじゃ)
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京都府舞鶴市朝代 京都府加佐郡舞鶴町朝代 |
朝代神社の概要《朝代神社の概要》 舞鶴市の中央部。西舞鶴市街地の西に位置する愛宕山の東麓にある。江戸期田辺城下の総産土社として尊崇され現在に到る。下の挿図を見れば当時とそう大きくは変化がないようである。 「田辺府志」に「朝代大明神は日之少宮なり、日本紀に伊奘諾尊と称し奉る」とあり、日之少宮(伊奘諾尊)を祭神としている。 草創については「加佐郡誌」は、「天武天皇白鳳(私年号)元年九月三日(卯ノ日)淡路国日之少宮伊奘諾大神を当国田造郷へ請遷したものである。其後の年代は詳でないけれども現地に遷し奉った」としている。 さてさて、どこの村人が自らの氏神として、こんなごたいそな社を祀ったのであろうか。かなり眉唾物の縁起であるが、そうなっているからとりあえずそのままの引用である。 残欠になく、式内社でもなく、「室尾山観音寺神名帳」にもなく、「田辺府志」以前の記録にはどうやら見えない社である。あるいは江戸期になってから作られた偽作っぽいものではなかろうか。当社は代々、玖津見氏が神主職を継いだが、その任免は吉田家によっていたとされる。その玖津見氏がどこの村の誰ともわからない。どこかの星から落ちてきたような神主さんで、何で遠く何の関係もない京都の吉田家に任免されねばならないのか。もうぜんぜん村の鎮守ではない。 「朝社登茂書也」と記した「朝代大明神縁起」が伝わる所から推理すれば、朝代はアサヤシロのヤが脱落したもので、アサ神社ということであり、アサとは古くは砂鉄をそう呼び、元々はそうした産鉄系の神社かと思われる。詳しくは「朝代神社と朝禰神社」参照。 元々は田造にあった神社であったが、何かのきっかけで田辺城下の総産土とまで崇敬されるようになり、その途上で「縁起」もそれらしく書き換えていったものなのではなかろうか。田舎町には不似合いななかなかの策士殿がござったのであるが、カッコつけすぎでこの地の歴史にあわずかえって破綻が出ているようなところである。 朝代社の秋の祭礼は旧九月九日で、旧語集に「卸祭礼九月九日(原注・初メ三日ノ由)神事之日、大内町二橋西之橋詰ニ御輿ヲ鎮メ神楽祝ヲ奏シ諸芸ヲ勤、仮ノ行宮トス」とある。 ここが御旅所でここが元々の鎮座地と思われ、おそらく倉谷村の一部の人々の社であったものと思われる。現在は11月3日であるが、祭礼には太刀振りが城下の東吉原町・西吉原町から、大神楽が平野屋町からそれぞれ奉納されるほか、城下の各町から「芸屋台」「太鼓やぐら」が出されるのを例としたのである、城下あげての大イベントであったが、それらのなかには現在にも伝わるものもある。 ↓初詣風景 ↓吉原の太刀振り 幕末の「朝代神社祭礼絵巻」(林五峯)の先頭部分に傘鉾を先頭に太刀振りの踊子たちの祭礼行列が描かれている。これは今も同じである。 朝代神社の主な歴史記録《田辺府志》 〈 朝代大明神之事 朝代大明神は日之少宮(わかみや)なり、日本紀に伊奘諾尊と称し奉る、地神の第五代なり、日本紀曰伊奘諾尊神功既畢霊運当遷是以構幽宮於淡路之洲寂然長隠者矣と是なり、其後また一度天に登り報命給て日之少宮に留宅とあり、往古此田辺の境に垂迹し給ふ、朝代とは日之少宮の別称なり、此社南に向へり、是を陰を背にし陽を前にし給ふ也、伊勢国にも伊奘諾宮あり、是も南に向へり。立る所の流義唯一神道といふなり、其こゝろは伊奘諾冊天より降り給ふたゞ天の一源水にして餘神の分迹化神と同じからず、なほたふとみあがむべきなり、垂迹の時代古記にあれども神道も秘伝の大事あれば今つぶさに爰にしるさず。神道伝受は吉田にあり、天神第一代国常立尊其弟天御中主尊五世の孫、天児屋根尊天照皇太神の勅をうけられ神籬正印を授り給ふを神道の組といふなり、天児屋尊十二世雷大臣命仲哀天皇の時卜部姓を給ひ、十八世にして常盤の大連中臣とあらたむ、二十一世孫大織冠中臣をあらため藤原とせり、従弟右大臣清丸に博へり、是を大中臣といふ、… 〉 《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 朝代大明神 田辺武家町屋の産宮なり 神主 久津見日向 神子 坂根宮内卿 天武天皇御宇(672-686壬申の乱起る)淡路国日若宮を勧請し奉る 本社二間四方小宮八社拝殿三間四方長床五間二間 華表の額(鳥居の額)は時明院御筆なり 宮地三百拾五坪 領主代々寄附し給う 九月九日祭りなり 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 夫当社ハ人王十四代天武天皇御宇(御在位十四年)白鳳元年九月三日御鎮座本社淡路国日ノ若宮(伊奘諾尊ヲ祭奉ルナリ御譲位之後日之若宮ト称奉也江州多賀大明神ト同社ナリ)御祭礼九月九日(初メハ三日の由)神事之日大内町二橋西之橋詰ニ御輿ヲ鎮メ神楽祝ヲ奏シ諸芸ヲ勤仮ノ行宮トス 享保八癸卯年神職玖津見駿河守直高依願橋詰ノ家ヲ調御旅所ヲ設ケ九月朔日ヨリ燈明ヲ立ル 京極家ハ外曲輪ヲ渡リシ御家御在城以後二ノ丸ヲ渡リ於大番所祭礼御見物御輿暫輝桟鋪前ニ鎮居神職祭式ノ事有御祭礼年々賑々敷相成 小宮八社(享和元年辛酉年二月竜蛇社勧請以来九社) 松尾大明神(大酒解ノ命 子酒解ノ命 二座合テ一社) 大国天社(大己貴尊ヲ祭奉ル) 祇園牛頭天王社(素盞尊ヲ祭奉ル) 粟嶋大明神(少彦名命ヲ祭奉ル) 稲荷大明神(保食神ヲ祭奉ル) 多賀大明神(伊奘諾尊ヲ祭奉ル・朝代大明神御一体 二座相殿) 恵比須神社(事代主命命ヲ祭奉ル) 職人祖神(手置帆負ノ命彦狭知命ヲ祭奉ル二神一座に祭ル) 竜蛇社(享和元年辛酉年二月従雲州大社勧請本社之左西北之隅山ヲ平均南向之社是ナリ。 〉 《丹哥府志》 〈 【朝代大明神】 田辺府志曰。朝代大明神は日之若宮なり、白鳳元年九月三日淡路の国より移し祭る、祭九月三日仝九月九日を用ゆ、祭日神輿を舁き出す、神輿の前後宮津祭と略相似たり、大橋の橋詰に御旅處といふ處あり、神輿を鎮座する處なり、元禄十丑年命をうけて初て城内に入る、蓋田辺の産砂なり。 〉 (丹後田辺誌) 〈 大内町 朝代明神御旅所 享保八癸卯年五月廿三日朝代神主和泉相願毎年祭礼之節御旅所二ツ橋右之方土手道中神輿差置申候依之橋詰右之方家代地遺候者御所ニ上司申与申候間御免下候ハハ代地?立可申由願書差出 右之趣ニ御旅所ニ致候様子相尋候只今迄之立家ヲ引払四方ニ土手ヲ致小松ヲ植鳫木ヲ付候迄之由郡代中被申聞江戸表エモ其段申上ル 同年六月廿日朝代御旅所相願候?願之通被仰出申渡 〉 (京都府地誌) 〈 朝代神社 郷社々地東西十八間南北二十七間面積四百九十九坪半町ノ南方朝代町ニアリ伊奘諾尊ヲ祭ル祭日四月三日十一月三日田辺府志曰朝代大明神ハ日ノ若宮ナリ白鳳元年九月三日淡路国ヨリ移?祭ル祭日九月三日今九月九日ヲ用リ祭日神輿ヲ?出ス神輿ノ前後宮津祭ノト略ホ似タリ大橋ノ橋?と御旅所ト五処アリ神輿ノ鎮座スル処ナリ元禄十丁丑年命ヲ受ケテ初テ城内ニ入ル蓋田辺ノ産沙ナリ 〉 《加佐郡誌》 〈 祭神 伊奘諾命 由緒 天武天皇白鳳(但し私年号)元年九月三日(卯ノ日)淡路国日之少宮伊奘諾大神を当国田造郷へ請遷したものである。其後の年代は詳でないけれども現地に遷し奉った。東の大華表を潜って南に西に石燈を迂曲して北の方の社殿の前に出る。之れは陰陽流行の理を象ったものであると云ふことである。 境内神社 天満神社(祭神 菅原道真公) 稲荷神社(祭神 保食神) 松尾神社(祭神 大山咋神) 祇園神社(祭神 素盞鳴尊) 疫神神社(祭神 少名彦神 煩宇須神ワズラヒノウス) 多賀神社(祭神 伊奘諾尊) 大国神社(祭神 大国主神 龍蛇神) 工匠神社(祭神 手置帆負命テオキホオヒ 彦狭知命ヒコサシリ) 〉 《舞鶴市史》 〈 朝代神社 西地域の朝代に鎮座の朝代神社は、江戸期田辺藩町方の産土神として崇敬されてきた。祭神は「朝代大明神は日之少宮なり、日本紀に伊奘諾尊と称し奉る」(丹後田辺府志)とし、社伝に天武天皇の元年(六七二)九月に淡路島より奉遷したとしている。同社は享保年間(一七一六〜一七三五)に類焼したためか資料に乏しいが、文献上の初出は「丹後田辺府志」所収の「朝代大明神之事」である。 七日市の九重神社の「九重神社略記」(明治三十九年、京都府神職会加佐郡支部が郡内神社の祭神、由緒、氏子数等を調査した各神社明細書)および女布の日原神社のお旅所という下森神社に関する「御旅所略縁起」(同)によれば、慶長十六年(一六一一)に同社の名が見える。また「旧語集」には「慶長元丙申年(一五九六)朝代社」(見海寺の項)と見えるが、これについては速断をさけたい。更にまた隣接の円隆寺との関係を指摘する向きもあるが、まだ推測の域を出ていない。 同社は、代々玖津見氏が神主職を継いだが、その任免は京都神楽岡にあって唯一神道を標ぼうし、自らは神祇管領長上を僭称して、平安期以来の白川伯家の勢力をしのいだ吉田(卜部)家によった。明和九年(一七七二)以前の編とされる「神祇管領吉田家諸国社家執奏記」(文化四−一八二二年開版)には「田辺朝代社同大河社」の名が、丹後国十一社の中にあげられている。寛政年間(一七八九−一八○一)に神主玖津見氏が位階昇進のために氏子から金銭の寄進を得ている(朝代神社の新資料について・舞鶴地方史研究第三号)のも、この間の事情を物語っていよう。 なお、同社の秋の祭礼には太刀振が吉原から、太神楽が平野屋からそれぞれ奉納されるほか、各町から芸屋台、太鼓やぐらが神賑 として出るのを例とした。また「祭礼絵巻」一巻(林五峯)は個人の所蔵品であるが、貴重な祭礼の資料である。 〉 《社前の案内》 〈 社記 御鎮座 舞鶴市朝代十三 神社名 朝代神社 御祭神 朝代大神(伊奘諾尊) 御神徳 御祭神は日本民族の祖先神であり初めての夫婦神として結婚の道を開かれて人間生活に不可欠なあらゆる物をお産みになりました。また禊ぎ祓えにより罪穢を祓い清新と発展の方向を示された貴い神様であります。 御由緒 当神社の御創建は約千三百年前の天武天皇白鳳元年九月、淡路国日ノ少宮をお遷したのに始まります。近世に入り、城下町田辺(舞鶴)の氏神様として歴代藩主の崇敬篤く、神輿・鳥居などの奉納が続き、士民を挙げての秋の祭礼は大いに賑わいました。また、昭和三年には府社に昇格、「朝の参りは朝代さんよ」や「日毎夜毎の朝代参り」などと民謡にも唄われ、広く崇敬されております。 江戸期の大火に類焼し、元文四年に再建の御本殿(付・再建文書)が平成五年に舞鶴市の文化財に指定されております。 境内社 塩釜神社 祇園神社 稲荷神社 工匠神社 天満宮 恵比須神社 など 例祭日 お日待祭 二月二十二日 春期例大祭 五月三日 水無月大祓 六月三十日 秋季例大祭 十一月三日 也 〉 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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