朝代神社と朝禰神社
朝代神社と朝禰神社このページの索引 朝代神社(舞鶴市朝代) 朝白神社(綾部市睦合町) 朝禰神社(舞鶴市倉谷) 喜藤神社(=朝禰神社。舞鶴市倉谷) 愛宕山(=笶原山・天香山・西舞鶴) 千石山(舞鶴市高野) 千石山(宮津市長江) 千石山(遠敷郡上中町) 朝代(舞鶴市) 朝代(舞鶴市高野由里) 朝代(泉南郡熊取町野田) 笠原(大飯郡高浜町) 元伊勢(舞鶴市) 笠沙の御前 久士布流多気 |
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故なくして存在するものはない。地名もそうであって、故なくして生まれた地名はない。地名は歴史の化石にたとえられる。その地域の歴史が解明されないと、地名も理解できないものである。地名の研究は地方史とか郷土史といったものと深く結びつく。地名は同じものが全国に分布する場合がほとんどで、日本全体の歴史の知識も不可欠である。
地方(もっとも中央もそうであるが)の古い歴史は、残された確かな手かがりが少なく、地名だとか、伝説だとか、遺跡や神社の研究といった切り口から解明が進められる。 遠い過去は誰も行って見た者はなく、もとより頼りない話であるが、そんなことより手段がない。 古い地名が現代人に理解できないということは、古い社会は、現在では普通に考えられているような「常識」の通用しない世界であったのだろう。 比較的新しい地名は、説明なくても理解できるであろうから、古いものに絞って取り組んでみたいと思う。
アサシロという社名が以前から気になっていたので、順番としては、ここからはじめたいと思う。
旧府社で現在の西舞鶴地区の最大の神社であろう。同地区では唯一ご神職が常駐される神社である。 JR西舞鶴駅から駅前道をまっすぐに西側へ五百メートルばかり歩くと、愛宕山に突き当たるが、その東麓、古刹 これほどの神社ではあるが、古い資料にはこの社名は見えず、慶長の頃あたりから城下町の武家・町方の産土社として崇敬され、城下の発展と伴に勢いを増した比較的に新しいものかとも考えられる。 江戸後期に当社の祭礼に使われた芸屋台や祭礼絵巻はJR西舞鶴駅内に展示されている(一部)。もっと立派な所から見られれば何だと思われるかも知れないが、当郡内ではこれほど立派なものはほかでは見られないのである。祭礼は現在まで続いていて、例祭日(11月3日)には華やかなりし昔日の面影を偲ぶことができる。 さて朝代とは何のことだろうか。 一般に言われているのは、読んで字の如く、朝は太陽、代は形代だから祭神、 『丹後田邊府志』が、 〈 朝代とは日之少宮の別号なり 〉 と書くので、江戸期の文献はじめ皆そんなことを書く。今以てこんな話を信じて疑わず、これ以外の説は聞かないようだが、これはもう改めるべきだろう。 神社の宣伝や氏子人の信念・信仰として、そうだとするなら別にどうこうと申し立てる気はないが、郷土史の話として、本当のところはどうなんだろうと考えれば、この説はずいぶんとおかしな話である。 アサシロというのは、何もそんな意味は持たない。 朝代とは アサシロさんと呼ばれていた当時の人々の発音だけをこのような漢字で表しただけのものである。隣の綾部市の上林五津合町には アサシロはアサの 「文字はかりもので、言葉が大切なのである」(中郡誌槁)。その通りである。借り物の表記文字の漢字を見て、その意味を想像してはならない、あくまでも発音言葉から意味を探らねばならない、私が今更述べるまでもなく、こんな分野の研究の常識である。 本当に日之少宮ならそう呼べばいいし、伊奘諾なら伊奘諾神社と呼べばいいではないか。何をわざわざ学者先生に解説して頂かないとワケのわからない、わかりにくい、持って回ったような社名などつける必要があったのか。 暇人や変人が当地にはたくさん住んでいたのだろうか。地名や神社名はもっと単刀直入、そのものズバリに表現される。 当社は朝代神社ではなく、アサ神社とするのが本来である。 尚、綾部市の朝白神社については、私の手元にまったく資料はなく、説明できない。当地から丹波へ越える古い京街道沿いにあり、鬼住峠越えで丹波へ出た所に鎮座している。この鬼住といい、何か当地と関係のある神社かも知れない。 何を馬鹿げたことを言うか、そんなことを言うなら、証拠をあげろと言う向きもあるかも知れない。 一応挙げておこう。当社江戸期の『朝代大明神縁起』(『舞鶴地方史研究3』所収)に、 〈 朝社とも書也 〉 ちゃんとそうある、当社自身が私はアサヤシロですよと告白している。 それに大阪府の熊取町野田にも同じ朝代という地名がある。ここも同様に、明徳二年の文書に朝社と見え、朝代とは「あさやしろ」のこととされている(『大阪府の地名』)。 もう朝代←朝社は、まず間違いないのである。 一般に「〜代」とあればヤシロの変化形である可能性があると、覚えておこう。(当地では 稲代神社 須代神社 などがある。) こんな神社名の変化の文書記録が残っているのは、たぶんそれほど古くはない出来事だったのであろう。明徳二年は1391年、南北朝の北朝の年号である。その頃はまだアサヤシロと呼ばれていた、当地と彼の地では多少ずれるかも知れないが、だいたいはこの事以降の近世のできごとだったのであろうか。 ここまではさほど問題はない、しかし本当の問題はこの先である。 ではそのアサとは一体何物であろうか。朝だから太陽だろう説を除けば、この大切な問題を問うた者はないし、答えた者はましてない。 実のところ我々は(郷土史研究家を名乗る者のほとんどは)これくらい頼りない。それくらいの知識も知恵もない。何も知らない。知らないことすら知らない。一体何を研究したというのだろうか。最近の高校生は第2次大戦の相手国を知らないと笑ってはいられない。彼らとおおかたの郷土史家も大差ないかも知れないのである。 ここは取りあえず途方に暮れて、この社前を引き返すより手はない。 しっかりせえよ、過去を失う者は未来も失うぞと、ご先祖様がうしろで笑っているような気がするのである。 たぶんアサは古代にまでさかのぼれる名でだろう。アは接頭語で単にサ神社でなかろうか、加佐郡のカサと関係のある名ではなかろうか。少し周囲をめぐってみよう。何かもう少し手かがりが得られるに違いない。 私もみじめにも、これくらいを精一杯がんばってゴニョゴニョつぶやくくらいである。 『舞鶴市史』 (朝代神社) 〈 朝代神社 西地域の朝代に鎮座の朝代神社は、江戸期田辺藩町方の産土神として崇敬されてきた。祭神は「朝代大明神は日之少宮なり、日本紀に伊奘諾尊と称し奉る」(丹後田辺府志)とし、社伝に天武天皇の元年(六七二)九月に淡路島より奉遷したとしている。同社は享保年間(一七一六〜一七三五)に類焼したためか資料に乏しいが、文献上の初出は「丹後田辺府志」所収の「朝代大明神之事」である。 七日市の九重神社の「九重神社略記」(明治三十九年、京都府神職会加佐郡支部が郡内神社の祭神、由緒、氏子数等を調査した各神社明細書)および女布の日原神社のお旅所という下森神社に関する「御旅所略縁起」(同)によれば、慶長十六年(一六一一)に同社の名が見える。また「旧語集」には「慶長元丙申年(一五九六)朝代社」(見海寺の項)と見えるが、これについては速断をさけたい。更にまた隣接の円隆寺との関係を指摘する向きもあるが、まだ推測の域を出ていない。 同社は、代々玖津見氏が神主職を継いだが、その任免は京都神楽岡にあって唯一神道を標ぼうし、自らは神祇管領長上を僭称して、平安期以来の白川伯家の勢力をしのいだ吉田(卜部)家によった。明和九年(一七七二)以前の編とされる「神祇管領吉田家諸国社家執奏記」(文化四−一八二二年開版)には「田辺朝代社同大河社」の名が、丹後国十一社の中にあげられている。寛政年間(一七八九−一八○一)に神主玖津見氏が位階昇進のために氏子から金銭の寄進を得ている(朝代神社の新資料について・舞鶴地方史研究第三号)のも、この間の事情を物語っていよう。 なお、同社の秋の祭礼には太刀振が吉原から、太神楽が平野屋からそれぞれ奉納されるほか、各町から芸屋台、太鼓やぐらが神賑 として出るのを例とした。また「祭礼絵巻」一巻(林五峯)は個人の所蔵品であるが、貴重な祭礼の資料である。 〉
ところでこの朝代神社には、知られていない前史がありそうである。
周辺を探ると何となくそんな風に感じられてきた。 現在の朝代神社の鎮座地から南西の方向になるが、 水田面からはほんの少しは小高いだろうか、野村寺地内の民家が建ち並んぶ中の数軒だけが高野由里小字朝代になっている。 詳細な地図を見ないと、どこが朝代で、どこが野村寺なのか、よそ者にはまったく判断はできない状態である。正直地図を見てもわからない。 上の写真は、背景は千石山、北側から南向きに写っている。左側手前の民家の並ぶあたりが朝代である。 地図は緑が野村寺、青が高野由里である。上の写真に合わせて南北が逆にしてある。中央の逆T字形に突き出している、その頭と首のあたりが朝代である。現地を見てもなぜこんな線引があるのか見当もつかない。何か古い歴史が隠されていそうである。 『加佐郡誌』は、 〈 (朝代神社) 祭神 伊奘諾命 由緒 天武天皇白鳳(但し私年号)元年九月三日(卯ノ日)淡路国日之少宮伊奘諾大神を当国田造郷へ請遷したものである。其後の年代は詳でないけれども現地に遷し奉った。東の大華表を潜って南に西に石燈を迂曲して北の方の社殿の前に出る。之れは陰陽流行の理を象ったものであると云ふことである。 境内神社 天満神社(祭神 菅原道真公) 稲荷神社(祭神 保食神) 松尾神社(祭神 大山咋神) 祇園神社(祭神 素盞鳴尊) 疫神神社(祭神 少名彦神 煩宇須神) 多賀神社(祭神 伊奘諾尊) 大国神社(祭神 大国主神 龍蛇神) 工匠神社(祭神 手置帆負命 彦狭知命 〉 要するに、いつのころか、田辺郷内のどこからかかはわからないが、朝代神社は、その地から現在地に遷座したと記している。 何か根拠があってのことであろうが、それが本当なら、ここ高野由里朝代こそ朝代神社の故地ではなかろうかとする説がある(渡辺祐次編『舞鶴市内神社資料集』)。氏はこれは愚説と謙遜されるが、なかなかの卓見ではなかろうかと私は思う。田辺郷内を探しまわってもここしか該当しそうな地はない。
愛宕山の東麓に朝代神社はあり、その辺りの地名を朝代(舞鶴市朝代)という。現在はそうであるが、朝代神社は元々から現在地の愛宕山麓にあったとは考えられないのである。
朝代神社が鎮座する ここがどんなにたいへんな所か少しみてみよう。 『加佐郡誌』は、関ケ原の戦いの直後に、領主細川忠興が再建した当時のものという、笶原神社の棟札の全文を掲載している、慶長5年11月のものである。 〈 丹後州紳座郡田邊城外西嶺有笶原神宮焉、豊受大神神幸之古跡而所謂爲眞名井原與佐宮三處之一而此嶺別有天香或藤岡之名焉 … 〉 『丹後風土記』残欠に、長い漢文なので少し読みやすく訳しておく、 (田造郷) 〈 田造郷。田造と号くる所以は、往昔、天孫の降臨の時に、豊宇気大神の教えに依って、天香語山命と天村雲命が伊去奈子嶽に天降った。天村雲命と天道姫命は共に豊宇気大神を祭り、新嘗しようとしたが、水がたちまち変わり神饌を炊ぐことができなかった。それで泥の真名井と云う。ここで天道姫命が葦を抜いて豊宇気大神の心を占ったので葦占山と云う。ここに於て天道姫命は天香語山命に弓矢を授けて、その矢を三たび発つべし、矢の留る処は必ず清き地である、と述べた。天香語山命が矢を発つと、矢原山に到り、根が生え枝葉青々となった。それで其地を矢原(矢原訓屋布)と云う。それで其地に神籬を建てて豊宇気大神を遷し、始めて墾田を定めた。巽の方向三里ばかりに霊泉が湧出ている、天香語山命がその泉を潅ぎ〔虫食で読めないところ意味不明のところを飛ばす−引用者注〕その井を真名井と云う。亦その傍らに天吉葛が生え、その匏に真名井の水を盛り、神饌を調し、長く豊宇気大神を奉った。それで真名井原匏宮と称する。ここに於て、春秋、田を耕し、稲種を施し、四方に遍び、人々は豊になった。それで其地を田造と名づけた。(以下四行虫食)(原漢文) 『…残欠』全文は右のホームページにもあります→丹後風土記残欠 『舞鶴市内神社資料集』(渡辺祐次編)に 〈 この宮(笶原神社−引用者注)は現在は神明山麓に鎮座あるが近世の文化文政ごろまでは山名そのままで神明山(矢原山)山上が宮地であった事が紺屋町絵図で判る。 〉 もう忘れられてしまったようだが、 元伊勢(真名井原與佐宮)とも呼ばれる破格の地である。 この山の東麓にある桂林寺(舞鶴市紺屋・曹洞宗)は天香山の山号を持つ。 その地に祭神の異なる朝代神社が、古代から鎮座していたとは思えない。『加佐郡誌』の記事、のちに引っ越してきたものだという部分は信じてもいいと思える。 現在でこそ愛宕山麓には多くの神社仏閣が甍を並べるが、古代よりあったと言えるものは、真言宗の巨刹・円隆寺のみである。しかしお寺だから、どう転んでも仏教伝来以前の古代にはさかのぼれない。笶原神社の門前寺的に、神宮寺的に成長したものであろうか。そのほかは、よそから引っ越してきたり、この地にずっとのちに創建されたものである。 朝代神社にしても、由緒をまるまる信じたとしても天武以降の歴史しかない。仏教伝来よりずっと後である。愛宕山はもっと古い歴史のある地である。 しかし暮れない日はない。何事にも落日がやってくる、古代の衰頽と近世の勃興の中で、尊崇される神社も代わったのである。笶原神社に取って代わるように、庇を借りて母屋を取ってしまったように、朝代神社はここで近世になって成長できたのであろう。 さてその田辺郷内の元の地、高野由里朝代、私もそうでないかと考えている。もう少し見ておこう。 野村寺との字の境界線が何とも複雑で不思議で、千石山からT字形に野村寺地内に突き出している。何かここにあったのでないかと思わせる地割りになっている。千石山頂上へはここから登山道がついていて、高野由里や野村寺自治会が毎年草刈りをして、この道を管理している。 多分ここは、現在地へ遷る前の 登山道がここから続くということは、本来は千石山の頂上にまつられていた、本来は高野由里村のものであったのでなかろうか。
朝代神社はこの高野由里朝代から直接に現在地へ移転したのではなく、現鎮座地から東へ1キロばかり行った、大内町の伊佐津川にかかる二ツ橋のたもとに鎮座あったことがあるようである。
『丹後田辺誌』によれば朝代神社の御旅所が 〈 二ツ橋右之方土手道中 〉 にあったそうである。ここは現在は大内町の集会所と「一ノ宮稲荷」が祀られている。 この稲荷さんは明治の廃城直前の田辺城中から移されたものであるらしいが、ここはもともとは朝代神社の御旅所で、倉谷の村地であったという。 現在は伊佐津川で離れてしまっていて、何んでここが倉谷村か見当がつかないけれども、朝代がここへ移った頃はまだ伊佐津川はここになかったのだろう。もう少し西の今俗に言う伊佐津街道から静渓川のあたりか、城の西堀の鉄道線路あたりを流れていたのではないかと思う。 ここ倉谷村に朝代神社が鎮座した時代があったと考えねばならない。この地か、あるいは現在では川になっている地であろうか。 柳田国男は「神社のこと」で、 (御旅所) 〈 いはゆる御旅所即ち臨時祭場の古くからあるものは、実際それが元来の神社の地であつて、今日の神社の方は却つて支度所のやうなものであったのを、後々祭以外の日の用途が多くなって、先づこの方の建築を立派にした為に、是が本宅の如く思はれるに至つたといふことゝ、次には祭場の神の来臨が、以前は夜間にごく少数の人の手を以て実現せられたのを、後々きらびやかな行粧を以て賑々しく行はれるやうになつたのは、中世の都市興隆に基く新しい文化であって、其本質からいふと、是も一種の神態であり、即ち神態の場所の移動するものだったといふこと等で、この推測は多分当つて居ると思ふ。 〉 と書いている。この地に朝代の神は来臨したのである。その神を神輿に迎えて、現在の朝代神社のある場所へ運び、そこで神事が行われたのであった。 現在ではその歴史が忘れられ、神様がここへ旅をする理由がわからなくなっているが、神様は人里の神殿に常時納まっていたのではない、天上(あるいは山の奥とか海の彼方)こそがその住まいであって、本来は祭の日だけに降りてきた、祭が終われば天上世界へ返られたものであったということがわかれば理解できるのではないかと思う。 神様は有り難いとともに厄介なもので、お気にめさないと天罰があたる。用がすめば早々にお引き取り願う方が何かと気が楽であった。古来人間ほど勝手な生き物はないらしい。
面白いことに、同じアサと名乗る神社が同じ倉谷地内にある。朝禰神社である。現在の朝代神社から見れば東方2キロばかり、先の御旅所からなら1キロ足らずの所、市街地平野を夾んで向かいの 元は現在の余内小学校の敷地あたりの田の中にあったという。祭神は大宇賀之売命である。 ここ倉谷地区は田邊郷に東接する加佐郡大内郷になる。 『丹後国加佐郡旧語集』に (朝禰神社) 〈 朝寝大明神。氏神祭六月六日ヨリ七日 湯立斗 前々ハ神楽 八月廿五日 夜祭。 当社ハ元来天神の下田の中に有り。其後近所元宮と云所江移又其後東山寺の西森の内江移。是ヨリ百弐十余に成。武左衛門依頼今の山上に移し山を社地とス。拝殿造営同十九甲寅年二月十三日新宮江奉遷座当日神楽奉幣因玄社参群集す社参之人に饌酒饗終日宴す。元の宮跡を神領とす八畝斗之地斗代一石一斗ニ而百姓に預ケ毎年神納始終武左衛門成功なり。亀井氏なり尾崎とも名乗。 〉 アサ 佐武ケ岳のサか、この山に山城が築かれたとき、麓に降ろされたかとも考えたが、様子が少しおかしい。もし佐武ケ岳から降ろされたものなら、降ろされた場所がおかしい。山から離れすぎるし、この神社が嫌っているふうにも伝えられる。 もう少し山に近い場所にあったならば、かつてこの山頂にあった、アサのサはサブのことと言えて楽になるが、ここはもう少し考えねばならない。 この社も古い資料には見えない。『丹哥府志』の喜藤明神。「室尾山観音寺神名帳」の正三位大宇賀明神はこれに当たるかも知れない。 『丹哥府志(巻之八)』は、 〈 ◎倉谷村 【喜藤大明神】(祭六月七日) 【大龍山東山寺】(臨済宗) 【曹渓山大泉寺】(臨済宗) 【付録】(観音堂、天満宮) 〉 喜藤大明神は、朝禰神社としか考えられない、倉谷には他にはそれらしき神社がない。祭日も合う。朝禰は亦名か本名を喜藤というらしい。 しかしどう読むのだろう。キフジだろう、キジ山ともフジ山とも呼ばれる山か。丹後にはゴロゴロとある名だ。これとアサ嶺は同じなのか。あり得ることではある。 『ふるさとのやしろ』に (朝禰神社) 〈 「佐武の朝霧…」と舞鶴小唄で知られる佐武ガ岳の北西麓に鎮座する倉谷地区の氏神「朝禰神社」は「丹後国加佐郡旧語集」(一八六〇年)では「朝寝大明神」と書かれている。夜更かし朝寝坊族の守り神のような名だが、次のような話が伝えられている。 西地区の平地をはさんで、西の愛宕山麓にある朝代神社の姉に当る神様で、姉妹が互いに氏子の領分を歩いてきめることにしたが。朝早く起きて回った妹の神様は田辺のほとんどを氏子にしたが、姉神は朝寝したため倉谷一円しか回れなかった。このことから朝寝の神様と呼ぶようになったというのだが、どうやら朝代の姉でアサネと掛けた作り話くさい。 祭神は「大宇賀能売神(おおうかのめのかみ)」で稲の神様。アサネのネはイネのネかも知れない。旧語集によると、もとは古天神(北野神社)の下田にあり、そこから近くの元宮へ移り、さらに東山寺の西森の内に移り、百二十年後の享保十九年(一七三四)大庄屋の亀井武左衛門の願いにより、現在の山の中に社殿拝殿を造営して移したという。 平地にあった神様が、山の中に移されたためお怒りになり、そのため村人の中に腹痛にかかるものが続発した。神の怒りをいずめるため、村人が交替当番制で、毎晩常夜灯を点灯することにしたという。この習俗は戦前まで続いていた。 〉 佐武ケ岳の麓に大き過ぎる鳥居が建っている。石の鳥居だけがぽつんと建っている。何か不気味な雰囲気にのまれる。本殿はここからまだずっと奥である。農業用溜池があり、まだその山奥、恐ろしい薄気味悪いような谷間に鎮座していた。 確かに神様もこれでは怒りそうな場所である。朝日夕日の照るよき所に構えるのが本来である。 谷間の出口の扇状地であろう、斜面の田畑になっているが土道の参道が続く。最近ではこんなところにまで、新建材の新しい住宅が建ち並びはじめている。そう言えば、この参道途中に立派な石の灯籠がたっている。 朝代とは姉妹で、朝禰が姉とある。どこまで信用していいのかもわからない話であるが、ごく近くで同じ村内で同じアサを名乗る同士なのだから、何か関係がないのもおかしいなことではある。 『丹後旧語集』(享保20年・1736)には、上福井にも、朝寝明神 6月10日祭也 とあるが、現在はどこにあるかわからない。 上福井の朝寝神社と大君に日原神社があるが、その社名から、これらも本来は九社の一であろうと思われる。
さてこれから先の話は私の想像説である。九社の伝えが残るのみで、他には何の文献も言い伝えもないが、両社の歴史はほぼこんなことであっただろうと考えていいだろう。
朝代と朝禰は姉妹というよりは、一体の同じものである。朝禰は千石山の頂上にあった時代の名を残している、朝代は下の宮で、参道を下った高野由里朝代にあった。一本の参道が両ヤシロをつないでいた。わざわざ頂上にまで登るのが大変なので下でお参りしてよかった。一体のものの頭と足のようなものである。 アサネは朝禰とも朝寝とも書かれるが、どちらも当字である、 正しくはアサ 「嶽」は大きな山をいう。今はだいたい岳と書き、ガクとかタケ・ダケとか読む。ゴクとは読まないが、獄はゴクだから、漢字辞書もない時代に、ゴクと読んでも不思議ではないし、センガクでもよい。朝禰=浅嶽=千石という等式が生まれる。 千石山は浅嶽山で、アサ山である。また喜藤山とも呼ばれた。キジ山、フジ山、キフジ山とも呼ばれた。氏子の先祖が降臨した山であった。 この北麓にいた氏子は二手に分かれて倉谷方面へ移住した。一方は下の朝代を、他の一方は山頂の朝禰を、それぞれに押し戴いて。どういう理由だったか、いつの時代だったか、資料はないが、両社とも九社の一だから、だいたい他の社と同じ時期だったかも知れない。 やはりアサ、キジ、フジは皆つながる名でありそうだ、元は同じものであった。カサもまた同じ系統の地名になる。 だいたいおわかり頂けただろうか。評、郡を大村、カフルと古朝鮮語で呼ぶことは先に書いた。カは大の意味、フルが村である。韓国のカンも同じ意味で、大きい国という意味である。韓は当字である。韓国のハンナラ党という政党の名を聞くが、これもたぶん カサのカはその大という意味の美称であり何ほどの意味はない、アサのアは単なる発音上の接頭語で意味はない、本体のサだけが意味がある。カサとアサも同じなのである。カサなんてそれでは韓国のことではないかと、ピンとこられた人もあろうが、この地は弥生遺跡がある。この弥生人がどこから来たかを示していそうである。弥生人というが彼らは今の我々の先祖であって、我々がどこからきた者かを示す地名である。天から降ってきたなどと考えでもしないかぎりこう考えることになる。 クシとかクジ、キジかキシもカサも同じである。少し発音に訛がでたという程度のちがいである。アサ、アソとなっても同じ。母親をハハとかカカとか、おカーちゃんなどと、KとHの発音は入れ替わりやすいので、ヒジとかフジも同じである。KとHがダブってキフジとなっても、隣の福知山市のようにHKとなって、フクジでも同じ系統の地名になる。だいたいこんなことを頭に入れておいて、さらに地名を探ってみよう。 事のついでだが、福知山(福智山)市の市名のもととなるフクチ山とはどこにあるのだろうか、どんな書にも書かれていない。私はたぶんお城のある山ではなかろうかと考えている。この山と呼ぶか、丘と呼ぶのがいいのか、市内からならどこからでもよく見え、再建された福知山城を頂に載せている。横山とか 『常陸風土記』が駿河国の福慈岳と今の富士山を書くように、フクジとはフシのことであり、フジとはクジで、クシフル岳のことである。 私のカンを裏付けるものは、私が見落としているだけで何か絶対にあるはずと、図書館で立ち読みした、そんなことで恐縮だが、『福知山史略』(明治初期)に、「福知山城起ハ古ヘ吹風山ト云し頃、山上ニ八幡宮有依之八幡山ト云、…」とある。吹風山は何と読むのか。同書は和泉式部歌集の、丹波なる それなら吹風はフクチと確かに読める。福知山城を載せる山が本当に吹風山なのか、何とも他の資料はないが、たぶん『…史略』の言うとおりなのではなかろうか。お城の山こそが福知山であろう。この吹風山にあったという八幡神社は今は一宮神社(イキュウさん)の本殿のに移されている、たぶん左隣の大原神社もここにあったであろう。参考に『発掘から推理する』(金関丈夫2006・岩波現代新書)は、 〈 方位の名と風の名は、しばしば通用(例えばハエは、南でもあり南風でもある)されている。ニシ、ヒガシのシも、アラシ(嵐)、ツムジ(旋風)のシ、コチ(東風)、ハヤチ(疾風)のチと同様、風の意である(琉球では、方角の東はただのヒガである)。 〉 舞鶴鉱山(別所鉱山)は横山鉱山とも呼ばれた。これは加賀藩の横山氏というのが来てこの鉱山を開発したからである。もし福知山の横山が古代の地名ならば 千石山は高野地区を象徴する山であるが、本来はもっと広く西舞鶴地区全体の聖山であったと思われる。高野のド真ん中にどんと座っている。 私は未だに登ったことがない、登り道までは聞いているのだが。聞くところによれば山頂には磐座があるという。その磐座が各々の神社の本来の故地であろう。 『火祭りの里 城屋』は 〈 標高三百二十三米。旧高野村の城屋、野村寺、高野由里、女布の四ヵ字が山裾にに広がる高野のシンボル山でもある。千石山の底面を水田にすると、昔の収穫で千石の米を穫るることが出来るから千石山の名がついたとか、伝えられている。 〉 この山の向かいの山城にいた今安相模守が千石取りだったからだとかも聞くが、何石取だったかは資料により違う。私の手元の資料は三百石である。 城屋・野村寺・由里三村の慶長頃の石高が合わせて千百石だったともするが、なぜ女布の石高が入らぬのか合点がいかない。いずれも千石の漢字に付会した他愛もない説である。 ついでに見ておけば、宮津市長江にも千石山(下写真)がある。 『角川地名大辞典』は、 〈 宮津市、若狭湾に臨む長江にある山。標高312.3M。山名の由来は、江戸中期、山全体に黍豆類が作られ、およそ1、000石に収穫になったことによる(丹哥府志)。また一説に、畑作すれば1、000石になるであろうという見通しから名づけられたともいう(宮津府志)。西麓には戦国期の奥波見城跡がある。 〉 張り合いのないことである。それらは千石という当字の漢字を見てつくった無理なお話である。 宮津の千石山の北隣には笹ヶ尾山(371メートル)がある。これから判断するとここもやはり浅嶽山、センガク→千石であったろう。古名はアサ山、あるいはサ山であろう。隣の笹は当字で単にササとサを二つ繰り返したもの、おメメ・おテテというようなもので、意味はサと同じであり、千石山と同じ意味の名を持つことになる。麓の北側を犀川が流れる、サビ川なのではなかろうか。サビは鉄の古語である。この山は伊根町側から見るとドキッとする美しい姿をしている。神の山であったろう。 「丹後半島の山々」 若狭にも千石山(682メートル)がある。 上中町の 写真は県内最古の初期横穴を持つ 全長67メートル。500年ころ。前方部にも後円部にも横穴式石室があり、その壁面は赤色顔料が塗布されているという。「本石室は日本海側では最も古式に属し、半島文化の移入や古墳の変遷を究明するうえで重要な古墳である」と案内板に書かれている。しかし文化だけが来たのではないと思われる。
さて話をそもそもの出発点に、もどさねばならなくなったようだ、これらずいぶんと古い地名のようだ、いっきに郷土史の始まりの頃にまで遡ってみよう。
私は地名研究家を臆面もなく自認しているだけの者で、ここはあまり出る幕でもなく、古代郷土史家にお願いしたいのだが、なかなか見あたらないので少し書いてみようと思う。 そもそも歴史は支配者の支配の道具・飾りとして用いられてきたもので、郷土のことなどにはもとより関心はない。その当時の支配者がいかに古来よりの正当な支配者であるかを宣伝するがためのものである。私たちのとりくむべき郷土史というものはこんなものとはちがうのである。 学校でならう歴史も単なる過去の事実らしきものの羅列で、理想も思想も哲学も失った死せる記録の暗記学である。こんなものともまたちがう。 郷土からも郷土の一般大衆からも遊離したものになりはてていた歴史を、わたしたちは郷土の建設に役立つものへ、郷土の記録を集めて編纂していかなければならない。 それがこの郷土に住む郷土史家のつとめであると思う。郷土人がやらない限りは誰もやってはくれないのである。そうした判断から資料を出しているのだが、古代史一般ともなると、資料も多すぎるし、難しすぎる、学説によって深刻に説が分かれる。頭が痛くなる、痛くなり過ぎる、読むのも見るのもたいへん過ぎるかも知れない。 これは今も昔も同じようである。『郷土と美術』(昭和14年12月号)に、 〈 郷土教育断片(久美小学校 四方隣十郎) どなたかの御意見の様に、これまでの小学校教育は、日本歴史を学ぶが郷土史は何も知らない 天を仰いで足の地につかれ教育でした。御誌が当地方の郷土史の研究普及に努め郷土文化の発達のためにお尽し下さることは誠に感謝に堪えませぬ。 先年私は萩と土佐に旅しまして、大内学、南学、薩摩学が薩長土三地方に発達し、明治維新に際し数百年間養はれて来た精紳が期せずして発露して、偉人傑士が輩出したことを知りまして、郷土の良き教育的雰囲気の地方民に与へる感化の偉大なことに深く感激いたしました。 〉 郷土史家の目指す目標が見える。 さて、『与謝郡誌』(大正12)は、 〈 本郡(与謝郡−引用者注)は北方に開きて遙かに朝鮮を望み、日本海環流によりて両者の関係を密接ならしめ彼此相往来して出雲に於けるがごとく我が太古の幾部を形成せしものなるべきも、今はそれにつきては全く知ることを得ず。 〉 と書く。この郡誌が名著と評されるのは、こんな史眼を奥に秘めているからであろうが、本当に今はそれにつきては全く知ることを得ずなのだろうか。何か無理にそう言っているいるような文章に私には見える。 先祖たちは何の痕跡も残さない完全犯罪者だったのだろうか、そんな事ができるのだろうか。与謝郡ではないが、竹野郡式内社の溝谷神社は新羅大明神と呼ばれるではないか、氏も何度も訪れてそう呼ばれるのはよく知っていた。丹後二宮・大宮売神社はお新羅さんと呼ばれるそうではないか、そう述べているその足もとに腐るほども残っているし、永浜氏がそんなことは知らないはずはないが、知ってはいるのだが、それに今だ気がつかないフリをしているのが正解なのではなかろうか。私にはそのように見える。 大正12年は関東大震災の年である。朝鮮人が多く虐殺されたと聞く(判明しているだけで六千数百人)、千田是也氏は朝鮮人に似ているとかであやうく「自警団」に殺されそうになったという。恐ろしいこの記憶を忘れないようにとコレヤ(KoreaだろうかKoreanだろうか)と名乗ったそうである。日本人であることが嫌になってしまったのだろう。折口信夫も同じであったらしく、朝鮮人になってしまいたいと言っている。 せっかくの史眼で何かただならぬ気配を確かに感じ取ってはいるのに、郷土史家自らが、郷土の古代史を封印・抹消しては、どうにもならないではないか。 歴史を見るという作業も案外に大変なものである。簡単にすぐにも見えるというものでもないようである。見るためにはそれなりの見る姿勢が必要のようである。 さて溝谷神社には「新羅大明神」の神額が残っているので、間違いはないのだが、大宮売神社はどうだろう。『丹後半島の旅 上』(沢潔著)に、次のようにある。 〈 大宮売神社は通称新羅神社とよばれている。 糸井通浩氏は『日本の中の朝鮮文化』30号(1976)の「新羅大明神考」−丹後古代史の断面−に於いて、溝谷神社の本来の祭神である新羅大明神(スサノオ)とは、農耕神・穀霊神としての豊宇加能売(豊受大神)であると考えて誤りなかろうという傾聴すべき論考ををのべている。長くなるので詳細は省くが、要するに農耕神の性格をもつ天日槍神及びその集団は、豊宇加能売を祭祀する集団でもあったのである。また、溝谷神社に新羅大明神としてスサノオが祭祀されていることの背景には、その当時、新羅系封じ込めの大和勢力の策謀があったのではないかと想像されるとも同氏は語っている。傾聴すべきことばである。 峰山の荒山にあった新羅神社といい、また大宮売神社(通称新羅神社という)の宮司さんから聞いた弥栄町山中(小金山付近?)にあった新羅大明神を祀った高原寺(?)といい(大宮売神社の宝物殿にはその木札が陳列してある)、また掛津にある新羅大明神を祀った白滝神社など、みな溝谷神社の新羅大明神(豊受大神)につながってくる。 〉 出羽弘明氏のHP 京都府の新羅神社(1) (3) (4) このHPにもあるが、大宮売神社の島谷宮司さんは面白い方のようで、金達寿氏の著作によれば、「丹波や丹後の古代文化にしても考えれば考えるほど、朝鮮渡来のそれを抜きにしては考えられない」「悠久な太古から朝鮮東海岸よりの移住民によって文化が発展し、弥生時代稲作民による祭祀的呪術的な権力をもつ豪族王国が生まれて大丹波国をなし、(大宮売神社は)その祭祀の中心地であったとは考古学者の通説である。」と神社略記に書かれたそうである。 私は糸井氏の論考は読んだことがないので知らなかったのだが、豊受大神は天日槍系の農耕祭神ではないかとの論考。やはりそうか。私もそうでなければおかしいとは考えていたのだが…。近江余呉湖にも丹後とよく似た羽衣伝説があり、豊受は息長系とでもいっていいような祭神かも知れない。 これらを読ませてもらうと、一つ時代が進んだの感がする。江戸期のご隠居様インデリ風な郷土史から、近代的な批判精神を持つ郷土史へと何世紀かの歴史を越えてきたようなものが感じられて、私は何かホっする。 もとよりいかなる偏見も持たないということは無理である。社会生活を営む人間である限りは、何物からも自由で真に客観的という事はあり得ない。私たちはその時代の精神として、その時代のスポークスマンとして書いている。31世紀の人間として書くこともできないし、11世紀の人間として書くこともできない。意識はしなくとも21世紀初頭の人間として書いている。それ以外は書けないのである。郷土史もそうした歴史的制約を受ける。 しかし時代精神といっても、実は一様のものではない。その社会における立場がいろいろ違うからである。より客観的であろうとする精神もあれば、そうではなく古いカダのきた精神もある。その上これら諸精神が一人の精神の中に同居している。社会が複雑である以上は時代の精神も複雑である。 テロと見るか解放者と見るか、立場でその見方は違う。社会進歩と民族解放の側に立場を置くか、口先だけは勇ましい改革進歩平和自由民主主義だけれども、実は…の立場に置くかで、見方は違う。時代の精神もいろいろある。どちらの側に自らを置こうとしているか。過去の古い偏見の側かそれともそれを乗り越えようとする側か。立場は生き方であるから、歴史の見方はその人間の生き方そのものである。自らの生き方を問いつつ書かねばならないであろう。カビのにおいする史料ばかりを見ていれば正しく歴史が書けるというものでもない、自分を見る目が必要のようである。あるいは自分を問うために、その時代の精神を問うために歴史を書いてみようなどど思っているのかも知れない。 つまらぬ話が多くて申し訳ないが、もう少々お付き合い願いたい。新羅というような郷土に伝わる重要な情報・記録を封印し欠落されたままで、歴史とか郷土史とかが書けるのだろうか。まず正しく歴史が見えるだろうか。そんな単純な疑問を私も持ち続けてきた。 永浜氏の時代は皇国史観・侵略史観そのもので、特高につかまり牢獄にブチ込まれる覚悟をしなければならなかっただろう。総力戦の侵略戦争であった。物質的なものはもちろんとして、国民一人一人の内面精神面でも総動員を受けたのであった。そうした時代を考えれば、氏はよく書いているのかも知れない。 今でもそうだがまして当時なら地方の郷土史を発掘する作業は大変なことで、この大先輩は田を売り、山を売り、疲労困憊、最後は広告の裏に原稿を書いていたという。(舞鶴文化懇話会会報2による)大貧乏神とも戦わねばならなかった。地方文化と貧乏生活は腐れ縁、切っても切れない関係だそうで、地方文化の発展に貢献して儲けたろなどとはたくらまないほうがいいようである。 戦後はそんな時代ではなくなったハズなのだが、意識的か無意識的か、この欠落が続く所が多いようである。誰がとは言わない、どこかの人のことではなくて自分自身がという事である。否定されたハズの皇国史観・侵略史観は乗り越えらているのか、最低限は侵略者の帝国の過去の亡霊の史観ではないかと絶えず問いながら進めなければなるまい。それが大日本帝国、東四郎氏に表現を借りれば、大日本低国を復活させないための、三発目の原爆が落とされないための、岸壁の母を生まないための、当地の史家の最低の心得であろうかと私は考えている。 さて、『神皇正統記』の有名なくだりに、 〈 異朝の一書の中に、「日本は呉の太伯が後なりと云。」といへり。返々あたらぬことなり。昔「日本は三韓と同種也」と云事ありし、かの書をば、桓武の御代にやきすてられしなり。 〉 さいわいに地名や神社名までは、やきすてられない。不便だ、田舎臭いなどと粗末にしてはなるまい。私たちの命より何十倍もの長い歴史を危うく生き残ってきたものである。本来ならば、調査し整理し研究し解明し、保存の手当をして、子孫へと引き継ついでゆかねばならない貴重な遺産である。 私たちは貴重な遺産の値打ちもわからないほどの馬鹿者ではないはずである。仏教遺跡を爆破した何とかいう者どもと大差ない者ではないはずである。どうかテロ集団のようなことは言わないでもらいたい。 歴史学は近代は近代日本建設のための学問であったから、なかなかその立場にある史家たちは解いてはくれないようであるが、言語学の方から発言がある。 金沢庄三郎の『日鮮同祖論』は、 〈 次に、丹後国加佐郡のことであるが、丹後国は和銅六年に丹波国の五郡を割いて始めて置かれた国であるから、天武天皇白鳳五年紀には丹波国訶紗郡と見え同国与謝郡も顕宗天皇紀に丹波国余社郡とある。この与謝の地は四年間天照大神の鎮座ましました処で(倭姫世紀)、天椅立は伊射奈芸大神が天に通ふため作り立てたまうものといふ古伝説(丹後国風土記)もあり、此辺は古代史上研究すべき値の多い地方である。天橋立は、嘉祥二年三月興福寺の大法師等の奉賀の長歌にも匏葛天能椅建践歩美、天降利坐志志大八洲と詠み、又釈日本紀にも兼方案之、天浮橋者天橋立是也といっているが、丹後国風土記には与謝郡郡家ノ東方ノ隅方ニ有二速石里一、此里之海ニ有二長ク大ナル石前一、長二千二百二十九丈、広サ或所ハ九丈以下、或所ハ十丈以上、二十丈以下、先ヲ名ケ天椅立、後ヲ名二久志浜一、然云者ハ、国生大神伊射奈芸命、天ニ為二通ヒ行ント一而椅ヲ作リ立タマウ、故云二天椅立一、神ノ御寝坐間ニ仆伏キ、仍怪二久志備坐一、故云二久志備浜一、此中間云二久志一、自v此東ノ海ヲ云二与謝海一、西海云二阿蘇海一と見えて、二神の故事を語り伝へている。この由緒ある土地に、加佐郡・久志浜・与謝海・阿蘇海など、天孫降臨の筑紫にあると同型の地名を発見することは、偶然の暗合とは考へられない。 〉 天孫降臨の地とは『古事記』では、天照大神の孫の 〈 竺紫の日向の高千穂の そして 〈 此地は韓国に向ひ笠沙の御前にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地 〉 といったという。 金沢庄三郎は、この 加佐とは、こうした時代の地名ではないかと考えたのは、氏が最初で、また最後のようである。こんな大事な見逃せないヒントをくれた書であるのに、地元ではまったく無視していて、どんな文献にも紹介されることはない。 実はかつて『丹波文庫』で紹介したことがあるが、これは私が書いたものであった、少数の発行部数で、ほとんど目にされることはなかったと思う。 加佐郡のカサとはクシフルの事である。金沢庄三郎はそう明示していないが、文意を拾って行くと、そういうことになる。 目から鱗が落ちる 私にはそんな衝撃の体験であった。カサの正当な理解はこれ以外にはない。これ以外の理解を一度にタコかイモに追いやる、恐ろしく卓越した理論であった。言われてみれば、確かにその通りだなと気が付く。 最も古くは、加佐とか訶紗とか、そう書かれているのは、これが元々は日本語ではなく、漢字では正確には書き表せないという事を知っていた人たちが書いたからではなかろうか、今風に言えば片仮名で、発音だけが書いてあるナウイ表記だ。 この書は昭和4年の発行で、れっきとした東洋言語学者の話題の著作だから知らないはずはない。検索すると西舞鶴図書館にもある。ひょっとして、不確かな資料だとか、あるいは韓国だとか、日鮮同祖などというのが気にくわない、引用するだに、さも恐ろしげなものに写ったのかと気になる。 もしそうだとしたら、超馬鹿げた話である。彼を越える言語学者が当地にいるのか。あるいは自分は天から降ってきた者の子孫だなどと、まさか超時代遅れの勘違いをし続けているのでもあるまい。それとも書かれていることが理解ができなかったのか。 しかし実際それも無理なかったのである、そんな事を書けば、桓武に焼き捨てられるかも知れない、それは冗談だが、桓武の亡霊にとり憑かれているのか、古代史の学者でもわかっていない、多少はわかっているのかも知れないが、あまり明確には言わなかった。少し前まではそうであった。 自称他称の郷土史家、地名研究者よ、私も含めて、しっかり仕事をしよう。どうやら私たちの肩に、この解明は残されている。文明の末端にいるような土地柄を象徴するかのように、こんな地名の理解も今になって私たちがやらねばならない。70年遅れてはじめよう。ご先祖たちはナウイ課題を残してくれている。現在にこそふさわしい作業だと思う。 俗物がなるほどと合点するだけ十分に自然な、俗物に一発で理解できたはずの地名も、こんなにも古くなると、だいぶに勉強をしないと手がつけられない。 地元の故老に問うてもこれは知らない。勉強しようにも文献は多くはない、朝鮮も勉強しないとならない。もともとからが研究人の少ない分野のようだ。 だから日本の地名も歴史も今以てよく理解できない。日本は東アジア世界の一部であり、地名すらそこから見なければ理解できない国である。そんな歴史認識を失ったデラシネの日本人社会の長年の盲点部分に私たちは今立っている。 久士布流多気の麓に位置しているのだから、笠沙のカサとはフルネームで呼べば、カサハラとかカシハラであり、クシフルと同じ意味である。 隣町・高浜町に 何か記紀の読み方、歴史のとらえかたを根本的に間違えているのではないか。情けない国情、何が先進科学技術大国だ、世界有数の経済大国にして、極端に空疎な精神性、いまだ地名もまともに理解できないという深い政治的世俗的理由を示す好例として紹介しておく)。 始源の聖地となる地にはこの地名がつく。クシ・ヒジ・フジ等の地名もフルネームではクシフルである。聖山・磯砂山の別名の 大変なのは、この神話の笠沙の 『倭人伝』でいう奴国、その心臓部を流れる川である。その流域には日本最古の水田遺跡の板付遺跡、三種の神器を副葬され奴国王墓とされる須玖岡本遺跡…、 もう大変な土地である、御は接頭語だからカサ川である。奴国王の本拠地がカサ(カシハラ)だ。地図をひらけば、ここにはなんと舞鶴という地名までもある!さらにこの御笠川を遡れば邪馬台国に行けるという。躰の震えは止まりそうにもない。 恐縮ながら事のついでにつまらぬ話をつけ加えると、奴国は中国文献に最も早く登場する日本の国である。『後漢書』の倭奴国、後漢の光武帝よりもらったと思われる「漢委奴国王」の金印の奴国、筑前儺県・那津、この奴国のナは奈良のナと同じで土地とか国を意味するのでなかろうかと思う。古語でナヰと地震の事を言う。古い朝鮮語もナであるという。 韓国の第一党にハンナラ党がある。ずいぶん古くからある言葉であろうと思われる、近くては彼らの祖国が日本の植民地となり、その祖国を追われ逃れた人々が、ふるさとの地をこうハンナラと呼んだという。このナラは日本の奈良と同じで国のことといわれる。ナもラも国を意味している。ハンはハングル(偉大なる文字)やハンガン(漢江)のハンで、これは韓国の韓で大のことかと私は考えていたのだが、ハナで一つのことだともいわれる。そうかな、大という意味も含まれるというより本来は大だろうと私は考える。大は面積的に大きいという意味よりも偉大という意味であろう。かの国のナショナリズムに支えられる党派なのだろうか、一つの祖国党よりも偉大な祖国党とでも訳するべきか。この国もどこかの自称大国と同じで大が大好きなようである。小国あるいは亡国コンプレックスのなせるものなのだろうか。ハンナラはクンナラとも発音されたと思われるが、これは日本では 百済は本来はソウル南郊が故地といわれる。支配層は北の高句麗系、住民は南の漢族である。伯済と呼ばれていた。ハクサイもクシフルの転訛と思われる。百済王家は大和王家と何やら古いつながりがありそうである。また桓武の生母・高野新笠は百済・武寧王の子孫という。桓武天皇は、百済王らは朕の外戚なりとして優遇した。 「このあたりを何と呼ぶか」と中国人に問われて、「ああ、ここかい。 須玖岡本の奴国王墓は支石墓である。南朝鮮には万を超える支石墓が残るという。彼らがどこから来たのかはこれが物語る、この地のカサ地名が物語るものと一致する。さてこの時点は国王なのか神官なのか。本職というか、本来の職業は神官である。聖なる地の神を祀る最高の神官である。神のしもべであった者がやがては世俗世界の国王となり、神の子と考えられ、なれの果ては自身が神とされるようになる。 卑弥呼のいた所もクシフルであったろう。そんな地名の残る場所こそ、幻の邪馬台国があろう。 つならぬ余談はおいて、天橋立の内海は 次にそうした地名を西舞鶴地区で探してみよう。 私たちの目の前には、先人未踏の丹後地名研究の広大な地平がたち現れてきた。解明を待っている。しっかり立ち向かおうではないか。 注意。この地のアサは、絶対にクシフルの転訛だ、とばかりは言えない。これでまず間違いはないと判断はしているが、このページはクシフル←カサ地名にこだわったので、アサとカサとクシフルを無理にも結びつけた感はなきにしもあらずである。 アサ・アザの名は鉄と関係があるとはよく言われることである。ここのアサも製鉄関連の名である可能性が実は強く残る。サとかソとかスエとかは鉄をいう古代朝鮮語でもある。現在のところは朝代も朝禰も産鉄に関する神社だったようだと決定するだけの資料はない。この決定は難しい。気温が0度と予想した場合は、雨になるか雪になるかは決定できない。高野由里朝代の周辺からいつの日にか鉄滓でも出土すれば、アサは鉄であったことになる。次からのページ以降を参照して下さい。 |
資料編の索引
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