旧・東舞鶴市(ひがしまいづるし)
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京都府舞鶴市の東部 京都府東舞鶴市 |
旧・東舞鶴市の地誌《旧・東舞鶴市の概要》 現在も「東舞鶴」は通称としてよく使用されている。単に「東」とか、古い人は「新舞鶴」とも呼ぶが、本当はだいぶに範囲が違うが同じような意味で用いられていた。「新舞鶴」は現在は死語で意味のわかる市民は多くない。何で新舞鶴小学校と名があるのか、児童はもちろんとして教師でも意味がわからなくなっているという。 東舞鶴は正確には中舞鶴から舞鶴市の東側全域を指す、大浦半島も含める広域地名である。行政的地名ではないかも知れないが、通称としてはそうした意味で用いられている。 これらは鎮守府のお膝元にあり海軍(国)と府の要請で押し切られたような自治体で現在の舞鶴市ができる以前の「大型合併による広域自治体」であった。 名の通りの市民のための市民の自治による自治体か、それとも本当は国や権力のための出先機関かの問題を誕生から持っていたと思われる。市民自治の発意でできたものではなく、最初から軍都として整えるための上からの要請とあるが、強制に近いような大きなカッコつきの地元自治体であったと思われる。 (現在の八島商店街。07.12.30.19:30。舞鶴一の繁華街であったが、普通の日でなく大晦日も近いという夕方でご覧の通りに人影はみごとに消えた。「誰もいないナ」と小3の子に言うと「だって夜やもん」ということであった。) 東舞鶴は昭和13〜18年の短命な自治体であった。中舞鶴町・新舞鶴町・倉梯村・与保呂村・志楽村が合併して成立した。大字は合併各町村の22大字を継承した。市役所は浜(現在の立体駐車場マイコムの地)に設置した。 昭和14年舞鶴鎮守府が復活、国鉄小浜線新舞鶴駅は東舞鶴駅と改称した。 ←昭和13年ごろの東舞鶴市役所(五条通り敷島) 舞鶴町が市制を施行して舞鶴市になったのは、昭和13年8月1日。その同じ日、中舞鶴町、新舞鶴町、倉梯村、与保呂村、志楽村が、合併して東舞鶴市が誕生した。東舞鶴市の市庁舎は、昭和10年に完成した新舞鶴町役場の庁舎を引き継いだものである。その後、東舞鶴市と舞鶴市が、昭和18年5月27日合併し、舞鶴市が誕生。市役所は両市の中間の余部下にあったかつての中舞鶴町役場に置がれた。昭和23年12月市役所は余部下から北吸に移った。(『ふるさと今昔写真集』より。キャプションも) ↑私くらいの年配者なら記憶あるでしょ。警察だったところ、今の「マイコム」の場所。 同15年には府立東舞鶴中学校・東舞鶴高等女学校が、小学校の教室を仮校舎として開校し、翌16年新校舎に移転した。同17年の戸数1万5、174、うち農業1、085、工業1、654、商業1、603、林業85、職工5、085、水産業14、公務・自由業2、853、交通業・その他2、580、無職35、人口は4万9、810(市町村合併史)。という。 (同時刻の三条八島の交差点。この界隈は舞鶴の顔・メーンストリートであるが、ご覧のようにゴーストタウン化している。おったおったと私は人影や車を見て写しているので、うっかり写そうものならまったく誰もいない繁華街になっている。鉄砲を付けた船の飾りはこの通りだけのようだが、人影のないのはどの通りもみな同じでシャッター通りの様子。 「ヒドイとは聞いとったが、それにしてもヒドイな。こんなにビトうなっとるとは知らなんだ。かわいそうにな。小さい所は皆つぶれろと言うこっちゃな」と年寄りは言う。 「おもんないのー、正月やいうのに」と若者は言う。 「もっともっと国の力を引っ張ってきて開発せなあかんのですよ。福知山やら園部やら見てみなさい。どんどんようなっとりますで。違いますワナ。ああしてやらなあかんのですわ」とどこぞの自称実力者氏はいう。 府北部の雄を自認する町の、その中でもその雄の界隈がこれでは。政治屋さんどものいう「元気な活力ある地域の建設」とは要するにこうしたことのようだ。大本営の言う「神武景気以上の好景気」とはこうしたことなのだ。何事もメタルの裏面があり、その負の側面が地方に、弱者にしわ寄せされることを地方人としては決して忘れてはなるまい。もっとも商店街のすべてがこうだというわけではない、近くに新しく出来た大型スーパーはごった返していた。だからこうした従来からの古い商店街は市民からもソッポを向かれているという面もあるのだが、なぜソッポを向かれるのか、ただ小さい所帯では値段的に対抗できない、商品の取りそろえもできないということだけか、もう少し分析が聞きたいものである。国のよい政治のおかげで市民の貧困化はいっそう進むので、一円でも安い所へますます客は流れるだろう。戦略も研究も準備もないままのこの商店街に明日はあるのか。町の発展にかけた先人達の永年の努力も今まさに潰えようとしている。しかし今からでも遅くはないかもしれない。しっかりと未来を見据えて開拓精神を燃やして進むより道はない。大金持ちやその代弁者=頼りないクソ政治屋。クソ学者どもの尻馬に乗っていたのでは未来はないだろう。これはもう一地方の問題というよりも国の問題であろう。地方だけにとどまる問題ではない。国がおかしくなっているのだ。) 京都駅から1.5キロくらいの所に私の従兄弟の果物屋があった、一時は手広く商いをしていたようだが、「私どもの商店街は全部廃業してしまい、今では新聞配達とかデイ・サービスの運転をしています。何分にも元気で居りますので、ご安心下さいませ」という年賀状が届いた。 ご安心もできない状態のようであるが、さて、話を戻して、昭和17年東大浦・西大浦・朝来の3ヵ村も合併して、31大字を継承した。昭和18年軍の要請により舞鶴市に合併した。 上の写真のように東舞鶴も一つの正念場を迎えている。「舞鶴は(物価が)高いというイメージが定着してますから…」とか「舞鶴は高いので舞鶴に入港した時はできるだけ艦からは出ないようにしてます」とか海自隊員は言う。舞鶴所属の隊員ではなくたまに入港する他所の所属する隊員がみなそう言う。物が高いのは全国的にすでに名高いのである。彼らもそんなに高給取りでもないので一部を除けばみな安い店を探している。鉄砲付けた船のイルミネーションや「艦隊入港大歓迎」の幟や軍艦旗の小旗を立てたくらいではもうだませないのである。ほうけたような案内はつくるが肝心の安い店の案内書は作られた事はなく、彼らは彼ら同士で連絡を取り合い安い店を探す。そうして情報は瞬時に携帯で流され彼らの間で共有されていく。そんな探す時間がもったいない、高くてもここで買う方が時間的にトータル的に得やないかと私など考えるが、彼らはそうではない。たいへんな努力と経費をかけて安い店を探す。こうした点は彼らは偉い努力家であり、将来の日本を変えることであろう。 最近のガソリン価格にも見られるようにそのイメージは正しいのである。同じ店の支店同士であっても奥丹後よりも舞鶴店が高い価格を舞鶴では付けている。「ここらでは一番高い」と市民の間でも言われる。店員に秘密で聞けば「ええ、ウラでね、みなでね談合しとるんです。ボクらはよう知ってます。出る所へ出て話せといわれたら、なんぼでも話しますよ」とガソリンスタンド店員はいう。店員ですら黙っていかねるような闇カルテルがありそうである。そうだろうと思う。こんな違法をして暴利をむさぼっているのが実は舞鶴商人どものようにも聞こえる。またほかのある店員に聞けば、小売店は全部赤字ですよ、元売りがメチャしくさるんです、という。元売りの方に闇カルテルがあるという口ぶりであった。国や市でもいいから真剣に目を光らせればいいのだが、そんな気はない。私は権力なき市民であるからこれ以上は調査できない。 ガソリンは舞鶴だけでなくあちこちにいろいろの段階で闇カルテルがありそうで、高い所ではみな市民達がそうウワサしあっている。「ここらは高いですやろ、カルテルがあるんでしゃろで」という。「隣の町は安いですで、そこまで行きはるとええですわ。私らもそうしとります。」と教えてくれる。 ガソリンについて書けば舞鶴では「今度あそこにカルテル破りの店ができたさかいに、だいぶに値が崩れてきたみたいやで」と言われている。そうしたまともな店にがんばってもらおう。私もそこで入れている。もう従来からの高い店では絶対に入れないでおこう。役人どもは何もしない月給ドロボーばかりなので市民自らがこうしていくより舞鶴は安くよい町にはならないのである。高い所ではもう絶対に買うなと私もいうより方法はない。市や海自などの公共団体も舞鶴では買うなよ。オマエらが談合値で買うから値が高いのだぞ。 古い商店街はどの町でもシャッター通りになっているという。そうした今の日本全国の一般的なことと、東舞鶴は自衛隊を相手にした町、自衛隊でもっとる町と言われ、そして「舞鶴でも特に東は高い」と言われ続けた町という特殊な事情がある。 その結果がいよいよ合わさって出てきたので、この逆波はもうちとやそっとでは立ち直せないほどの大三角波である。軍に甘ったれ、経済観念のない軍人さん相手に交通も情報もなかったのをいいことにしてきた時代はもうはるかに過去のことである。自衛隊員といえば、昔は農家の次男坊や三男坊でたいてい田舎の子で経済の知識はあまりなくそこそこの物を売っていればそれで満足してくれたものであるが、しかし今は異常な経済人であり都会人のハイセンスを身につけている。相手がずいぶんと違ってきている。 過去には経験のない非常事態であり、はたして沈没せずに乗り切れるか、確かなウデを発揮してもらいたい。 ついでに自衛隊員について書けば、これは舞鶴のことしか私にはわからないが、とにかく最近は風紀がたるみきっている。彼ら舞鶴の隊員の犯罪が毎日のように新聞紙面に載っている、同僚の金を盗んだ、少女に暴行、などなど。これらは表へ出た氷山の一角であろうから、恐らく連日何か起きているような異常状態と思われる。 これは上部がたるみきっている為であるが、そうこうしている所へ舞鶴所属のイージス艦「あたご」が衝突事故を起こした。この前配備されたはがりの最新鋭イージス艦で北朝鮮のミサイルをアメリカへ向かう分まで撃ち落とすと言われていた。撃ち落としたのは漁船であったわけであるが、何を寝とるのか艦長がおかしいのでないのかと思いながら、あるタクシー運転手に問うと、「あたごの艦長はゲテやといわれてますで」という。やっぱり。 ゲテというのゲテモノのことで、どないにもなにらぬカスみたいなチンピラ的な者をそう呼ぶのであるが、そんな者ばかりを相手にしているタクシー運転者からそう呼ばれるとしたらその程度はもう相当なものである。 「あんたが乗せはったんですか」。「私ではないんですが、同僚が言う話です、酒飲んで乗ってきたそうですが、偉そうにしね、あたごの艦長はひどいゲテやでと言うとりましたわ。普通艦長やいうたかて、偉そうにしてゲテる人はおってないですが、あたごだけは別やそうですで」。 これは事故前のことだそうである。やはりな。そういうことか。「あんな最新鋭艦の初代艦長ですさかいに、エリートコースをきた人でっしゃろな。ほやけど頭は子供ですわ。前も見んと運転しとるんですな」という。 オイオイ大丈夫なのか。確かに子供が(というか幼児が)起こしたような事故である。私の子供たちは自転車に乗り始めた頃、ぜんぜん前を見ずに乗るのでキモを潰した覚えがあるが、車にしても前が当たるなどはヘタクソの最たる者のやることで、一般社会ならこんな幼稚な事故をおこそうものなら、たちまち要注意人物の烙印が押される。ブラックリストのトップに据えられる。幼児に武器満載の船を任せて大丈夫なのか。これは防衛庁や政府の問題だ、任せた者の問題だ。前を見て運転できる者かどうかの基本的なテストもしていない。特に海自にここ事件が多いのであるが、これはやはり大変な事態が進行しているぞ。政府にはこんなものを運営できる能力がないということだ。平和ボケなら少々はいいのだが、これはボケというよりタルミだと思われる。昔の軍隊もこうした奢りとタルミが多々あったようだが、それでも中には大変にしっかりした軍人もいたように記録される、焼け石に水をかけるようなことでたいして効果もなかったのではあったが、それでもいたことはいたのであるが、現在はそうしたしっかりした者がない。危険だ危険すぎる。どこかの市のような迷走ぶりである。 これは面白い話を聞かせてもらいました。そっそく書かせてもらいまっせと言ってきたのであるが、何かとんでもない欠陥がここに透けてみえる。(上の写真は事故後のもので衝突の傷跡が残る) 普通の船同士が衝突したのとはまったく違う事故である。こんな船が事故を起こせば大臣や総理の首も飛びかねない大問題の大事故である。まあそうした性格も認識できないのが、今の総理あたりであろうと思われるが、そこが問題なのである。何だ漁船と衝突したくらい問題ではないだろうが…何をうるさく言ってるんだ。そうした誤認識しかないと思う。ここを変えない限りはまずだめだろう。当面は海自は要注意要警戒が続く。 さらに続き。事故を起こすのは舞鶴の船ばかり。舞鶴湾でよく事故かを起こさなかったことだ。と言われる。 ドーと来よるで、逃げるンやで、と舞鶴の小さな船は軍港時代からの慣行で、自衛隊の船を見れば、まず逃げているので事故になっていないだけなのかも知れない。 ベトナムで起こしたのも舞鶴の船、しかも先にわいせつ事件を起こした船であった。艦外を見るモニターくらいはちゃんと見とれよ、何をしとるんだと思うが、しかし艦内や、艦橋に何台も備えてあるコンピューターの端末モニターに映しだされているものは、女の裸の写真や動画ばかり、…だとか、私が確認したわけでないので、確かな話ではないが、そんなウワサが市民の間に流れている。 そんなのは私のパソコンだってあるし、誰のパソコンにもかなりの枚数がコピーされてあるだろうが、危険な水域に入ったら消して本来の機能に切り替えてしっかりと見てないととんでもないことになる。 まああんなモノらが乗っとるんやで事故も起こるわいや、と元海自隊員を指してこう言う市民も多い。一般の市民感覚から見ると自衛隊員や元自衛隊員はちょっとおかしいのが目に付くのである。軍隊教育というのは何かすばらしいなどと大きな勘違いをしている向きもかなり多いのであるが、所詮は人殺しの勉強であって、人として本当にまともになるわけはないのである。教育というのではなく、凶育・狂育であって、自衛隊や警察などには息子はやるなと言われる。さらに日本の場合は自国を守るとか自国民を守るというよりもアメリカ軍を守る軍隊であるから、まともな人間がまともな神経でやっていけるわけがない。 なんぼ船がよくても乗っ取る者があれでは…とささやかれている。これらは隊員の責任というよりは政治の責任であろう、ここまで悪くしたのは政治屋ども責任である。やはり総理か大臣、多くの防衛政治屋ども、政府与党にしっかりと責任を取ってもらおう。 ガソリン価格。08年3月28日の調査。レギュラー。久美浜−154.154.154。峰山−154.150(よくわからなかったがセルフか)。大宮−156.150(セルフ)。野田川−154.154.154.150(セルフ)。宮津−155。国道を走る車から店頭に張り出されていた価格表を見たものである。宮津市内を除いて全店価格を張り出していた。舞鶴市内は156.152(セルフ)でほぼ統一されているようである。少なくとも2円の差がある。どの町が一番高いか。どの町が丹後の雄か。どこが一番サボリで月給ドロボー職員の多い町か。くだらぬ役人とほうけた議員をかかえるクズどもの町か。何をほざこうがその日頃のお仕事ぶり、ご努力ぶりを、本当はいかに役にも立たぬモノどもであるかを一目瞭然に語りかける。こんなモノどもにこれ以上税金を払い続けるのは本気で嫌になる。わずか2円であるがこれは雄弁である。 市民はこうした価格を比べながらどこで給油をするか考え一円でも安いものを入れる。舞鶴の税金で走っている公用車は全車、野田川あたりまで行ってセルフで給油すべきである。絶対に高い舞鶴市内のガソリンを入れるべきではない。納税者が死ぬ思いで、努力した金で税金を納めているのに、それを使うオマエらが高いガソリンをヘッサラで購入するのは絶対に許されない不実行為であろう。 ↓メーン・ストリート、三条通り。東舞鶴駅前から海岸まで 旧・東舞鶴市の主な歴史記録《舞鶴市史》 〈 東舞鶴市の誕生 舞鶴海軍の膝元、新舞鶴町、中舞鶴町を中心に、加佐郡東部町村の合併による〃軍港都〃の建設は、早くから関係者の間で提唱されていた。この合併構想はもともと海軍側の要請であり、他方、町村の強化策として京都府でも強く推進していたものであった。 【合併の気運】 合併話の発端は、まず郡制時代の大正十一年ごろにさかのぼる。当時の根本加佐郡長が、新・中両舞鶴町は当然合体して軍港街の建設に適進すべきだと、両町に倉梯村を加えた合併を計画、狭間中舞鶴町長らもこれに共鳴し、合併に関する意見書を印刷して町民に配布したほか、三町村でそれぞれ委員会を設けて、数回準備会を開くなどしたが、いつしか立ち消えとなった。 次いで昭和二年三月、時の舞鶴要港部司令官が両町合併を慫慂した。しかし、この時の中舞鶴町は、舞鶴町をも含めた三町合併による市制実施を主張して、海軍の意を受け入れなかった。続いて翌三年四月、海軍は折から東上した新舞鶴町長に合町の速進をうながし、更に同年五月、六月二度にわたり、要港部経理部長の斡旋で両町委員を会同、協議させた。ところが、中舞鶴町民は両町合併に強く反対したためこの問題は進捗せず、ついに、海軍は同町との絶縁を迫るにいたった。窮地にたった中舞鶴町理事者・町会議員は次のような嘆願書を岡田海軍大臣に提出する一幕もあったが、結局、この合併も日の目を見ずに終わった。… 〉 関連項目「新舞鶴」「浜」 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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