丹後の地名

平野屋(ひらのや)
舞鶴市平野屋


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京都府舞鶴市平野屋

京都府加佐郡舞鶴町平野屋

平野屋町の地誌




《平野屋町の概要》
平野屋通り
西舞鶴市街地中央部の商業地域で、北端を国道175号が東西に貫通、中央を南北に平野屋通が走り、北から下横町通・上横町通が交差している。駅の方から来るなら真名井通りのアーケードのある商店街の続きの、平野屋通り両側町である。
細川時代から地子銭免除の町屋であったといい、「丹後旧語集」によれば、細川氏の田辺城築城早々、平野屋・本町角に山本又左衛門なる者が町屋を建てはじめたという。地名の由来は、16軒の鍛冶屋をはじめ、火を扱う諸商人が多かったことから、火習屋が転訛したとする説がある。

↓ロシア風ネギ坊主の飾りをつける作業が進む。松尾寺本堂の屋根に付いているのと同じ起源のものと思われる。
平野屋に直交する上横町通り
平野屋町は、江戸期〜明治22年の町名。田辺城下の1町。享保12年の丹後国田辺之図による町屋は、南北158間・幅3間、家数145軒。寛保3年には平野屋町138軒・平野屋吉原46軒とあって(平野屋町文書)、町尻の吉原にも当町支配の町屋があった。
明治2年舞鶴町に所属。同22年舞鶴町の大字となる。昭和13年からは舞鶴市の大字。
明治37年官設鉄道舞鶴線の開設によって、当地は舞鶴駅と魚市場を結ぶ直通道路沿いの町となり、以後商業の中心地が江戸期以来の竹屋から当地へ移った。昭和20年舞鶴市第2次建物強制疎開により、上横町通に面する三ノ丸〜竹屋町の南側の建物が撤去されている。



《人口》106《世帯数》48

《主な社寺など》
平野屋通と本町通の交差点の路地に細川幽斎を祀った八幡社と秋葉社を合祀した祠があり、同祠棟札によれば、はじめ細川氏が町人頭山本又左衛門に下賜した土地であるという。(鎮守八幡神社)

地内に伝わる太神楽は氏神朝代神社例祭の神輿巡行の3番目に供奉する由緒を持っている。

《交通》
平野屋通り



平野屋町の主な歴史記録


《舞鶴市史》
 〈 細川時代のヨコ町が平野屋町と名称変更
平野屋町の町名の由来は、故老の話しでは鍛冶屋が多かったため「火習い屋町」と称したといわれる。天保十一年「商売人附」によると、全戸一五八軒中、職別の延べ職人数は七二軒で鍛冶職は一七軒であった。開業年は嘉永六年調べでは、慶長・承応各年中より代々職業しているという古い鍛冶職もいた。また当町の販売商品別延べ商人数一三四軒中、魚商売二六軒、荒物二六軒がこれに続いている。その他領内行商が二五軒と多い。

平野屋太神楽 (平野屋)
 江戸末期に描写された「朝代神社祭礼絵巻」に出ているこの太神楽は、城下町の代表的なものである。
 元禄六年(一六九三)の文書によって、昭和初期に改められたという氏神の神輿行列順序は、大傘、吉原の太刀振り、平野屋の太神楽、神社旗、猿田彦、御幣となっている。
 現在の輿(道具台)は、享保十七年(一七三二)の大火にあって焼失したものを再調したとして、台裏に「文化三丙寅年(一八○六)九月吉日再造之」の墨書があり、棟には金幣を立て、幣幹正面に大麻を掲げ、猿田彦の朱塗面を飾る。
 獅子頭一対二頭は屋根下の前面に飾り、後部に大太鼓、右側に小太鼓を取りつけ、笛を交えて合奏し、陰暦九月九日の重陽の節に行うとしている。
 奉納芸は「二本・手鞠・扇・三本・傘・材木・剣」の各曲に加え、伝来の囃謡を添えるものである。  〉 

《まいづる田辺 道しるべ》
 〈 ・平野屋町
 城下で最初に開けた町。
 町内には十六軒の鍛冶職を始め、火を扱う職人が多く居たことから火習屋(ヒナラヤ)と呼ばれ、これが転訛して「ひらのや」の町名になったと云われる。
 家数 一五四軒(享保十二年)
    平野屋吉原四十六軒(寛保三年)
 町長 南北一五八間(二八七メートル)
 道巾 三間(享保十二年)(五・四五メートル)  〉 

《舞鶴市民新聞(96.11.1)》
 〈 伝統芸能の火を絶やすまい!!
「獅子の舞」では悪鬼退治
23年ぶり“平野屋太神楽“
各町内を練り、朝代神社に奉納

 江戸時代より域下町の町衆らによって行われてきた伝統芸能の平野屋太神楽が、二十三年ぶりに復活する。平野屋町の人たちが、太神楽の火を絶やすまいと町を挙げて取り組んできた。三日、朝代の朝代神社へ奉納される。
 平野屋町に伝わる太神楽は、朝代神社の祭礼の際、雌雄一対の獅子が黄金の玉を奪い合う「獅子の舞」を踊り、悪鬼退治を行う。演目には「曲取り」や「囃子」などがある。獅子のはか、輿屋台や太鼓、笛、高張り提灯の行列が朝代神社まで各町内を練り歩く。記録によると、元禄年間(一六八八〜一七〇三)以前に行われていたとされ、現在の輿屋台は文化・文政年間(一八〇四〜一八二九)に作られたものという。
 昭和四十八年までは数年ごとに奉納されていたが、それ以後は財政難や人口の減少などによって途絶えていた。しかし、伝統芸能の振興を対象とした府と市の補助金や町内からの寄付金を得て、「平野屋太神楽保存会」(松田正之助世話人)が獅子頭と衣装などを新調。町内の間からも太神楽を伝えていこうとの機運が盛り上がり、二十三年ぶりの復活が決まった。
お年寄りの指導で本番さながら練習に励む
  若い人へ受け継ぐ
 毎鶴信用漁業協同組合平野屋支店二階で九月中旬から、お年寄りから小学生の約三十人が練習を続けている。獅子の舞はお年寄りから指導を受け、笛や太鼓の音にあわせて本番さながらに熱演。今回から初めて女性が太鼓をたたけることにし、女子児童が練習に励んでいる。太神楽に詳しい坂根哲夫さん(81)=平野屋=は「獅子を見ていると昔のことが懐かしく浮かんでくる。若い人が受け継いでほしい」と、練習を見守っていた。
 太神楽の一行は三日午前四時、平野屋会館前を出発、各町内を練り歩いた後、同六時に朝代神社へ奉納する。  〉 

平野屋町の小字


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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