伊加里姫神社
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京都府舞鶴市京田 京都府加佐郡中筋村京田 |
伊加里姫神社の概要《伊加里姫神社の概要》 伊加里姫神社は舞鶴市の南部。西舞鶴市街地の南部、(元)京田公民館の西隣にある小さな祠である。まずどんな地図にも記載されない小祠で、しかも目印の京田公民館も最近新しく建て替えられて位置が変わっている。国道27号線から京田の集落へ入る信号機があるが、それを東側へ入った所である。車一杯いっぱいの道であるが、鉄道線路をくぐるまでの右手にある。舞鶴の郷土史家からすらも忘れられた神社であるが、舞鶴の古代を知るうえには非常に大切な見落とせない神社である。 幸いにも舞鶴以外の人達が注目していたのでそれら先人の研究が残されている。−といっても本格的なものは松田寿男博士くらいしかないが−。 イカリは天台が元は 田中の北側の山は威光山というがこれもイカリかも知れない。丹後へいけば碇高原。… 伊加里姫神社の西側の山を白雲山という。これも吉野系の地名と思われる。この山こそが水銀のメッカなのかも知れない。イカリがイコウとなりイが落ちてコウとなったかも知れない。幸谷神社や京田(興田)はあるいはイカリということかも知れない。 伊加里姫神社の西200メートルに幸谷神社があり、手力雄神を祀る。古くは重要な全国的によく知られた水銀産地であったと思われる。 伊加里姫神社は現在は藤森神社と呼ばれている。この祠の右脇の植え込みの中に隠れているが、明治十二年の高田久兵衛氏の建てられた石柱には「伊加理姫神社」と書かれている。 村長さんをされる以前のものと思われる。高田家とは何ほどかの関係がある神社だったのかも知れない。ぜひ「根掘り葉掘り。とくと」聞いておいて下さい。 伊加里姫神社の主な歴史記録《丹後風土記残欠》 〈 伊加里姫社 笠水(訓宇介美都)。一名真名井。白雲山の北郊に在る。潔清は麗鏡の如し。たぶん豊宇気大神の降臨の時に湧出た霊泉であろう。其深さは三尺ばかり、其廻りは百十二歩である。炎旱に乾かず、長雨にも溢れない、増減を見ない。其味は甘露の如しで、万病を癒す麗機がある。傍らに二つの祠がある。東は伊加里姫命或いは豊水富神と称する。西は笠水神即ち笠水彦笠水日女の二神である。これは海部直等の祖神である。(以下五行虫食) 〉 《古事記》 〈 …其地より幸行でまぜば、尾生る人、井より出で来りき。其の井に光有りき。爾に「汝は誰ぞ。」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は井氷鹿と謂ふ。」と答へ曰しき。(此は吉野首等の祖なり。)即ち其の山に入りたまへぱ、亦尾生る人に遇ひたまひき。此の人巌を押し分けて出で来りき。爾に「汝は誰ぞ。」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は石押分之子と謂ふ。今、天つ神の御子幸行でましつと聞けり。故、参向へつるにこそ。」と答へ曰しき。(此は吉野の国樔の祖。)其地より踏み穿ち越えて、宇陀に幸でましき。故、宇陀の穿と曰ふ。 〉 《日本書紀》 〈 …吉野に至りましし時に、人有りて井中より出でたり。光りて尾有り。天皇問ひて曰はく、「汝は何人ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「臣は是国神なり。名けて井光と為ふ」とまをす。此則ち吉野の首部が始祖なり。更少しく進みたまふに、亦尾有りて磐石を披けて出づる者あり。天皇問ひて曰はく、「汝は何人ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「臣は是磐排別の子なり」とまをす。(排別、此には飫時和句と云ふ。)此則ち吉野の国樔部が始祖なり。… 〉 《新撰姓氏録抄》 〈 大和国神別。地祇。(第十七巻)。 吉野連。 加彌比加尼之後也。諡神武天皇行二幸吉野一。到二神瀬一。遣レ人汲レ水。使者還曰。有二光井女一。天皇召問レ之。答曰。妾是自二天降来白雲別神之女也。名曰二豊御富一。天皇即名二水光姫一。今吉野連所レ祭水光神是也。 〉 《勘注系図》 〈 笠水彦命(四世孫)母豊水富命、亦名井比鹿也 神渟名川天皇御宇、以天御蔭之鏡爲神寶、以奉仕矣、此命娶笠水女命、亦名與志美別、生笠津彦命矣、(笠訓宇介、)御蔭之神事、今俗稱葵神事 〉 《室尾山観音寺神名帳》 〈 正三位 伊加利比売明神 従五位上 伊加利明神 〉 《丹生の研究》 〈 丹後の伊加里姫社 こんどは、イカリという地名が失われて、イカリ姫祭祀だけが記録に残ったと認められる地点である。それは「丹後史料叢書」(昭和2年活字本)の第1輯に収めてある「丹後風土記残欠」の加佐郡の神社すべて35座を紹介した項に紹介されている伊加里姫社にほかならない。同じ書の加佐郡田造郷の項には、この郷に笠水(うけみず)があり、その傍らに2社があって、東を伊加里姫命、西を笠水神と伝えている。同じ叢書の第4輯所収の「丹後旧語集」には、神名は伊加利姫とある。伊加里・伊加利が井光であるのは、いうまでもなかろう。しかしこの伊加里姫神社は現在すでに亡く、ただ笠水社のみは「加佐郡誌」(大正14年・同郡役所刊)に中筋村字公文名に鎮座するとある。 国鉄西舞鶴駅から、舞鶴線と平行して直南する国道をほんの500〜600mたどると、その西側に高野川を背にして一神社がとり残されている。社名は笠森神社となっているが、おそらく笠水の訛であろう。この神社の手前100mほどで国道から東に、伊佐津へむかって200mくらいはいると、そこに淡島神社がある。この神社がむかしの伊加里姫神社ではあるまいか。社前にはいま“三柱神社”と刻んだ石柱があり、淡島・稲荷と荒神とを祀るといわれている。イカリがイナリと誤られたのか、あるいはそれが淡島神と化したのか、速断はできない。このあたりは高野・伊佐津両河の河尻に位するから、往古に比べて地情は大きく変っていると認めるべきである。したがって適当な試料はとうてい入手すべくもない。しかし私は昭和37年11月6日の調査で、吉野族が祖神の井光姫を奉じてこの地に進出したとする推論に可能性を与える試料だけは拾ったつもりである。淡島神社の南にある公文名の小学校附近では水銀0.0003%、公文名の南の七日市から西に折れて山にとりついた京口のものは0.0006%、笠森社の西の高野由里、およびこの部落と宮津線の鉄路をはさんで対面する中西では、それぞれ0.0006%、そして京口および中西とX字を措いてその底点にあたる山中に存在する女布(にょう)の部落から採ったものは実に水銀含有0.009%であった。 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収(神社旧辞録) 〈 幸谷神社 祭神 手力雄命 同市字京田 創建年代不詳 寛正六年再建棟札願主は領主長重連嫡子仝苗小法師丸とある。 昔大刀柄尾明神と称した。この祭天照岩戸隠の時の怪力発揮の名を負ふものとされる。土記は手力雄、寺記には田力尾載。 なお当字には土記謂ふ五十里姫祠も在る。 〉 関連項目「女布 水銀地名」 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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