丹後の地名
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水銀地名−女布

水銀地名:女布

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雨引神社(舞鶴市城屋)  五十里村(舞鶴市天台) 日量里(与謝郡伊根町) 碇峠(伊根町・丹後町) 大君(地名・舞鶴市) 笠水=真名井(舞鶴市七日市) 白雲山(舞鶴市京田) 大日山(舞鶴市女布) 高野(高浜町) 建部山(舞鶴市喜多) 新井崎(伊根町) 耳鼻(伊根町) 女布(舞鶴市) 糠田部村(舞鶴市喜多) 吉野山(丹後) 井光(吉野郡川上村)

伊伽利姫  猪刈神社(丹後町三山) 金峰神社(舞鶴市女布) 白杉神社(舞鶴市白杉) 手力雄神社(=幸谷神社舞鶴市京田)  禰布神社(舞鶴市女布) 藤森神社(舞鶴市京田) 正勝神社(舞鶴市京田) 宮崎神社(舞鶴市喜多) 結城神社(舞鶴市青井)

浦島伝説(伊根町)  徐福伝説(伊根町新井崎)  上山寺(丹後町上山) 蘇斯岐屯倉(丹波国) 金峯山菩提寺(舞鶴市女布・廃寺) 吉野連(姓氏録)


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水銀地名:舞鶴市女布

舞鶴には丹生関係の地名が幾つかある。丹生地名は変化が多くて正体が見抜けにくいものも多い。北から見れば浦入(浦丹生)うらにゅううらにゅううらにゅう大丹生おおにゅうおおにゅうおおにゅう二尾におにおにお(下安久二尾。匂ケ崎においがさきにおいがさきにおいがさき公園がある)・女布にょうにょうにょうである。これらが怪しそうと気付かれることであろう。

地図をひらいて見られよ、ほぼ一直線に等間隔に並んでいる。何断層というものか、それに沿ってあるように思われる。これらの地名群を朱の角度からとりあげた書を見ないのだが、どう見ても過去の朱の産地を指す地名と思われる。

 若狭国境の青葉山等の火山灰による赤土は舞鶴ならどこでも見ることができる、これは火星表面の赤茶色、鉄の赤土だ。水銀朱の赤土というものは、どこにでもあるというわけでもなく、大変高価で貴重であったという。

 日本の水銀鉱床は中央構造線沿い、当地に関係深いところなら特に紀ノ川・吉野川流域にあるのだが、そのずっと北側にも、当地の女布あたりを中心に大きな楕円を描いて但馬から近江・越前を含む範囲、若狭湾岸地域とも呼ばれているが、そこにも集中分布しているのが、以前から知られている。
この地域は十分に予測されるにもかかわらず、水銀鉱床そのものはまだ知られていないそうである。しかし舞鶴あたりに水銀鉱山があるとか、あったとかいう話は、まだどんな書にも書かれていない。

 舞鶴市十倉(とくら)に新しく温泉が湧出している。温泉を求めて地下1300メートルまで掘ったそうである、そこからはハワイ沖太平洋海底の岩が出た、その石が入口に展示されている、何かの変成岩だろうが私にはわからない。
今取り上げようとしている水銀地帯は、地質的には古生代の夜久野岩類(夜久野オフィオライト)と分類される、この辺りでは舞鶴層群と呼ばれる古生代の堆積層の間に挟まれている。太平洋の中央海嶺で作られた斑糲岩・橄欖岩・玄武岩類である、2億年前は太平洋の底にあったものである。斑糲岩は鉄を含むそうである。これらの岩の上に分厚く火山灰が乗っている、所によっては10メートルは超えるだろう、たぶん新生代の幾度かの火山活動によるものであろう。水銀はどの層にあるのか、もちろん私にはわからないが、たぶんこの夜久野層であろうか、それともグリーンタフ時代のものであろうか。

 大浦半島の舞鶴湾の入口東側に位置する浦入は現在火力発電所が建設されているが、ここは浦入遺跡で知られる。その南隣が大丹生である。二尾は舞鶴銅鐸の出土地で知られる。女布は西舞鶴地区の発祥の地であり、女布遺跡で知られる。
いずれも古代人の活躍した超重要地域であるが、これがすべて朱の産地と重なる。
思えば弥生は稲作文化ではあるが、また渡来文化であり、金属文化でもあった。当地の渡来人と金属文化を見落としてはなるまい。

「夜久野岩類」 「変はんれい岩」 「朝来山」 「海洋の時代」 「標本写真」 「はんれい岩」 「フリズナ」 「岡田由里の漣の化石」
女布:水銀地名


女布周辺は朱の文化の一大中心地

女布」の地名、一体どう読まれるだろうか。難読地名と言えるだろう。正しく読める人はまずいない。もしかなり正しく読めたなら、地名とか古代史にも強い方であろう。

当地ではニョウと呼ぶ。えっ、それって日本語ですか、などと驚かれるが、さきほどの地名で言えば、二尾と大変に間違われやすい地名である。区別するために「高野の女布」と呼んでいる
同じこの女布の字を書いても、メフとかヒメフと読む所もある。どれが本来の正しい読み方なのかは誰にもわからない。

『加佐郡誌』は、

 〈 女布は古代には彌布と書いたが中古から今の名に改められた。ニョオはアイヌ語の村と言ふ意味のものであると高野村民政制度沿革調査書(手記)にあるけれども辞書には見えないから信じがたい。  〉 
としている。

女布は丹生の地だとするのは、『丹生の研究』昭45(松田寿男著)である。大事な文献もすっかり忘れられているような向きも見えるので、長くなるがそのまま引用させてもらう、しっかり頭に入れておこう。
 〈 丹後の伊加里姫社
 こんどは、イカリという地名が失われて、イカリ姫祭祀だけが記録に残ったと認められる地点である。それは「丹後史料叢書」(昭和2年活字本)の第1輯に収めてある「丹後風土記残欠」の加佐郡の神社すべて35座を紹介した項に紹介されている伊加里姫社にほかならない。同じ書の加佐郡田造郷の項には、この郷に笠水(うけみず)があり、その傍らに2社があって、東を伊加里姫命、西を笠水神と伝えている。同じ叢書の第4輯所収の「丹後旧語集」には、神名は伊加利姫とある(p.84)。伊加里・伊加利が井光であるのは、いうまでもなかろう。しかしこの伊加里姫神社は現在すでに亡く、ただ笠水社のみは「加佐郡誌」(大正14年・同郡役所刊)に中筋村字公文名に鎮座するとある。粟島神社(舞鶴市伊佐津)
 国鉄西舞鶴駅から、舞鶴線と平行して直南する国道をほんの500〜600mたどると、その西側に高野川を背にして一神社がとり残されている。社名は笠森神社となっているが、おそらく笠水の訛であろう。この神社の手前100mほどで国道から東に、伊佐津へむかって200mくらいはいると、そこに淡島神社がある。この神社がむかしの伊加里姫神社ではあるまいか。社前にはいま“三柱神社”と刻んだ石柱があり、淡島・稲荷と荒神とを祀るといわれている。イカリがイナリと誤られたのか、あるいはそれが淡島神と化したのか、速断はできない。このあたりは高野・伊佐津両河の河尻に位するから、往古に比べて地情は大きく変っていると認めるべきである。したがって適当な試料はとうてい入手すべくもない。しかし私は昭和37年11月6日の調査で、吉野族が祖神の井光姫を奉じてこの地に進出したとする推論に可能性を与える試料だけは拾ったつもりである。淡島神社の南にある公文名の小学校附近では水銀0.0003%、公文名の南の七日市から西に折れて山にとりついた京口のものは0.0006%、笠森社の西の高野由里、およびこの部落と宮津線の鉄路をはさんで対面する中西では、それぞれ0.0006%、そして京口および中西とX字を措いてその底点にあたる山中に存在する女布(にょう)の部落から採ったものは実に水銀含有0.009%であった。 

 〈 丹後の丹生
 丹後の舞鶴湾の咽喉部に大丹生がある。いまは舞鶴市域に加わっているが、近ごろの市域のことであるから、東舞鶴港から1時間も船にゆられなければ行きつかない僻地で、もとの行政区画の京都府加佐郡西大浦村大丹生と表示する方がふさわしい。訪れてみると、この大丹生は、舞鶴湾口の狭い海峡に面しているが、それでも小さな入海を抱いて波静かであり、海岸から2.5kmの谷奥まで楔形に耕地が拡がる。この谷のなかを大丹生川が流れているが、河の左岸つまり南側は黒色の土壌であるのに、右岸は水銀の鉱染をうけて赤い土があらわれ、それは部落の北にそびえる赤坂山につづいている。この土壌には水銀0.00051%が含まれ(昭和34年7月30日採取)、この僻地に大丹生が存在する理由を頷かせた。
 大丹生部落の南隅には海辺の白砂の上に大丹生神社が鎮まる。しかしこの社名は明治になつて郷名に基いて呼称されたもので、実体は山王社にほかならない。この村には別に海辺から約1kmの奥に今は奥の宮と呼ばれている熊野社がある。それからさらに奥に進んだ丘陵面に宮の尾という地名も残っているが、これ以上むかしの大丹生の人たちに信仰された神の正体を捜ることはできない。丹生の実状に即したニウヅヒメ祭祀は、すでに村民の生活が変つている以上、追求できなくなってしまった。古記録はむろんない。ただ古老(堂本松之助・上林新吾の両氏)に訊ねて、大丹生に対比して考えられがちな小丹生の名がどこにもないことは、確かめることができた。
 ところで、大丹生の北、舞鶴湾の湾口部に湾に面して浦丹生という小部落がある。これは丹後半島の東北岸に見出される蒲入(がまにう、与謝郡本庄村)とともに、丹後のどこかに丹生を設定しなければ解けない名称である。この疑問に対して、私は舞鶴市の南郊に位する女布(にょう)をまず取上げた。ここは国鉄西舞鶴駅から西南に2kmをはなれ、もと丹後国加佐郡中筋村に属していた。私は昭和37年11月6日に、前章で紹介した丹後の伊加里神社を探求に行ったとき、偶然足を踏みいれることができたが、そこは300m級の丘陵に包まれて北向きの姿を見せる別天地であった。部落の背後の山のかなたには、真言系修験の形跡を留める高野(こうや)の地があり、またこのあたり一帯の山の腰には水銀の分析値0.009%を示した試料が得られたほどの土壌が歴然としている。したがって、朱砂の産出を意味するニフという地名を漢字で女布と表記したと考えることができる。
 その後、友人の永江秀雄氏の指教によって、私は女布と称する地点がこの附近になおいくつか存在することを知った。京都府竹野郡網野町木津の下和田に女布(にょお)谷がある。これと山すじ1つを距てた西側の熊野郡久美浜町には、旧の田村の関部落に女布(にょお)という小字があり、女布権現山(343m)がそびえ、“女布の赤土”が有名であったという。しかしこれらの女布を丹生の異字とする考えにブレーキをかけたのは「出雲風土記」であった。この書の意宇郡の条に、神武官が配されていた48の官社を挙げてあるうちの1つ売布(めふ)社がそれである。今日、同名の社は上記の竹野郡や熊野郡の女布にも鎮座しているし、但馬・出雲にかけて分布している。この神社の正体を究明してみないと結論を急ぐことにはできないと、痛感している。
 それよりも、私は次の2事実から丹後における丹生の存在を主張する。その1は、竹野郡網野町の郷に鎮座する武内大字賀神社の社地が、郷の小字として丹生土(にうど)と称されること、その2は、竹野郡豊栄村(いまは丹後町に編入されている)の岩木に丹生神社が厳存することである。この2事実は、網野町郷に住む後藤宇右衛門氏が、氏の郷土の地籍図(昭和2年7月再製、竹野郡郷村大字郷「字限図」)から前者を、また網野町立野家に蔵される「丹苛府誌」(写本)から後者を発見して、私に教示されたもので、昭和42年11月5日に行った私の現地調査にも同氏は導者の役を買われ、たいへんお世話になった。
 このとき丹生土から採った試料は、水銀含有0.0010%であった。この地点名が朱産の現実に基く命名であることは疑いをいれない。この土地の隣りに小字を入道という土地があるのも丹生土の靴転としておもしろいし、ここには真言宗明光寺址がある。思うに丹生土の名は、但馬の丹生に隣して丹生地(兵庫県城崎郡香住町奥佐津地区に所在)があり、あるいは紀伊の有田の丹生と有田川の流れをはさんで丹生図(にうづ、和歌山県有田郡吉備町の御霊地区にあり、東丹生国と西丹生図に分れている)があるのと同様な事情にあったが、その附近に存在した丹生の本地はすでに亡んでしまったのであろう。
 次に岩木の丹生神社は、丹後半島の大山である依遅尾山(540m)から西に続く山すじの一つが竹野川の河原にひろがる水田地帯に没入しようとする先端に乗り、裾に岩木の人家をまとわらせている。祭神はミズハノメと伝承されているが、それは丹生氏がここまで運びこんだニウヅヒメが、後に大和系の変化を受けて水の女神に変ったものと認めねばならない。この点では土佐にたった一つ残っている丹生神社(高知県土佐市宇佐町井ノ尻、後述)と同一ケースである。また土佐の場合は隣地の竜に所在する独鈷山青竜寺(真言宗)の護持を受けながら、高野明神を祀った形跡をもたないが、丹後のこの丹生神社もまた社地に隣接する宝蔵寺(現在は曹洞宗、もとは真言宗)に保護されながら、丹生高野両所明神への変化は認められなかった。だから、これと並んで山陰道にもうひとつ現存する丹生神社(兵庫県香住町浦上)がニウヅヒメ祭祀をそっくり残しながら、高野明神を女性神の形に変えて伝えている(後述)のとは事情がちがうように見てとれた。なお現地採取の試料は水銀含有0.0005%であり、附近からは0.0010%の水銀を含有していた試料もえられた。丹生神社(香住町浦上)
 この方面には調査の旅をわずか4度くりかえしたにすぎないが、私は越前の中央部から若狭にかけての一帯、さらに舞鶴湾の周辺をふくめて丹後半島に及ぶあいだで、水銀の鉱徴を示す紅色土壌を至る所で目にした。きわめて特異な朱砂地帯であるといってよかろう。このような地方で古くから朱の採取と使用が見られたことは確実であり、そのうちの若干部分には丹生氏の植民が行われたにちがいない。それにしても、丹後には丹生や大丹生はあっても、小丹生は、その痕跡すら認められないのである。したがって本章でまっさきに取上げた舞鶴湾頭の大丹生は、前節の越前海浜の大丹生とともに、その発足の当初から大丹生と呼称されたとしなければならない。「丹生大明神告門」と共に天野大社に伝わった「丹生祝氏文」に「紀伊の国の伊都の郡に侍える丹生の真人の大丹生の直、丹生の祝、丹生の相見の神奴等」云々とあるなかに顔を出している大丹生氏の一派が、上述両地の開拓に関与したと解せられる。なおこの「丹生祝氏文」は写本として伝わっているが、その訓読は「紀伊続風土記」(巻48:活字本U・P.142)に「丹生真人とは下の三姓、大丹生直・丹生祝・丹生相見の三姓の神奴をいふなるべし」とあるのに従った。 
女布の水銀含有率0.009%というのは、驚くべき高率で、地下には水銀鉱床があると推定して誤りのない数値である。この10分の1、いや100分の1であっても水銀鉱床のある数値であるそうだ。
中筋小学校付近で0.0003%、京田で0.0006%、高野由里中西で0.0006%。限りなく0に近い預金利息みたいな数字ばかりで恐縮。ところであれは%なんてやめてppm単位にしたらどうだろう。100万円預金して1円利息がつけば、1ppmである。ついでにこうした超低金利で家計が失う金額も公表すべきであろう。05年までの15年間で280兆円にものぼるという(『日経新聞』060310)。銀行や企業や大蔵省の大失敗をわれわれの金で尻ぬぐいしてやっていることになる。しかも礼もいわないようなものばかりである。尻くらいは手前でふけよな。

 女布の水銀は90ppm、飛び抜けて高い、全国探してもこんなに高い所はまずない。京田と中西は6ppmである。これでも問題ない数値であるそうである。
 冗談はおいて、ご丁寧に調べていただきまして、誠に有り難うございました。地元の一人として厚く厚く御礼申し上げます。
 いずれも過去には確かに水銀が採取されていて何も不思議のない数値を示す。もっとも、それを証明する明確な証拠はないが、次のような状況証拠が数多く残る。女布周辺が水銀文化の一大中心地であったのが実によく理解できよう。
女布:水銀地名

藤森ふじもりふじもりふじもり神社(舞鶴市京田丸山)

『丹生の研究』は、伊佐津の淡島神社(粟島・三柱神社)をそれでないかとしているが、この神社は違う。
 真名井の池から南へ1キロばかりも行ったところ、現在は京田きょうだきょうだきょうだの公民館の西隣に鎮座している。モリさんと呼ばれる小さなホコラがそれである。
藤森神社といい、伊伽利いかりいかりいかりを祀る。祠の脇、石灯籠の隣に立てられている、生け垣の木の葉で見にくいが明治十二年の石柱には「伊加理姫神社」と書かれている。
同書は『丹後国風土記』残欠を引くが、それには次のように記される。何度も同じ所であるが、便宜のために再度掲げておく。
伊加里姫神社(藤森神社)
 〈 笠水(訓宇介美都)。一名真名井。白雲山の北郊に在る。潔清は麗鏡の如し。たぶん豊宇気大神の降臨の時に湧出た霊泉であろう。其深さは三尺ばかり、其廻りは壱百廿二歩である。炎旱に乾かず、長雨にも溢れない、増減を見ない。其味は甘露(中国で帝王が仁政を行うと、天が感応して降らすと考えられた甘い水−引用者注)の如しで、万病を癒す麗機がある。傍らに二つの祠がある。東は伊加里姫命或いは豊水富神と称する。西は笠水神即ち笠水彦笠水日女の二神である。これは海部直等の祖神である。(以下五行虫食)(原文は漢文)  

「室尾山観音寺神名帳」には、
 〈 正三位  伊加利比売
従五位上 伊加利  〉 
が見える。現在西舞鶴東部の天台てんだいてんだいてんだいと呼ばれる集落は、かつては五十里いかりいかりいかり村とよばれていた。『旧語集』に、古五十里村ト云とある。府道より天台に入る橋の名この天台という地名には何か過去がありそうだが、そのあたりまで筆が進んだ時点で取り上げてみたいと思う。
 また、大川神社の南側に碇山いかりやまいかりやまいかりやまがある。この付近の八田地内には碇サンも何軒かある。
正三位伊加利比売明神は当社であろうし、従五位上の伊加利明神は、この二所のいずれかであろうか。

このイカリ、何の事だか当社の地元ではいまだ明確に解明された書を見ない。もう30年も前に『丹生の研究』が解明したことである。先にも引用した通りである。
遠路にもかかわらず足を運び資料を持ち帰り分析調査してくれている。仮にも当地の郷土史に覚えある者ならしっかりと覚えおこうではないか。

もう一度あらためて書いてみよう。これはずいぶんと古いもので、神武東征時代にまで話は遡る。熊野より大和へ入ろうとする神武一行は吉野で、ひかる井戸の中から出てきた、尾のある井光(井氷鹿)いひかいひかいひかなる人物に出会う。是即吉野首部始祖也とされる。
この地は、現在の地図で示せば、奈良県吉野郡川上村井光いかりいかりいかりである。昔は井光村、碇村と書かれた。この地の水銀含有率は0.0060%、0.0078%であるという。所謂"二桁ppm"の地である。本家本元の地、当然ながら極めて良好の地ではあるが、当地の女布(0.009%)よりは若干少なく、逆に女布がいかに高い水銀含有率を示す地であるかが再認識させられよう。

 ついでに引いておくが、こうした0に近いようなものではあるが、その数値の語る郷土の歴史はいいかげんなものではないのである。もっともっと真剣になって受け止めねばならぬ性格のものである。『鬼伝説の研究』(若尾五雄・1981)は次のように書いている。

 〈 水銀のことでもう一つ問題になるのは、松田壽男氏の丹生の研究において、○・○○四などと水銀量を表示することに対して、非難することである。…。○・○○四と松田氏が表示するのは、歴史家としての考案によってかく表示するなら問題はあるが、この表示は鉱山会社の研究所員の矢嶋博士の指示により行なっていたもので、水銀の所在を決める最上の方法であるから使用していたのである。理科系のこうした方法は、文科系のものと違い、何人もそれを正しいとし、実験上も確実にあてはまることを示すものでなければ使用しないもので、この指示は間違いない。

一般に農業と鉱業との差異は、前者は再生がきくということである。つまり一年たてば植物はまた生えて来る。それに対して、鉱物は採れば採るに従って減っていくばかりで、終にはなくなってしまう。そこに、こうした土地の歴史や民俗を調べる人が注意しなければならない問題がある。つまり過去の状態を現在の採集だけで調べて行くと、誤って解釈される危険性がある。その地に現在住んでいる人たちは過去の職業とは別の職業をしていることによって、過去とはその生活様式がすっかり変ってしまっている。だから過去の職業をとらえることが難しいのである。もしそれを追求しようと思えば、地理学、考古学的な採集も行う必要がある。

一般に、民俗学の採集はそのほとんどが、聞書である。ところで、聞書だけでその土地の昔のことが全部わかるかどうかということは、疑問である。たとえば鋳物師村、金屋、鍛冶屋という地名のところの採集を読んで見ると、その特長であるべき鋳物、金属、鍛冶の話はほとんど採集されておらず、農業のことばかり詳しく報告されている。これではほんとうに民俗採集が行なわれたと言えるかどうか。それというのも、村が成立した時と採集の時との時間的な経過が、村の産業の内容をまったく変えてしまっている場合があるからである。一つには柳田国男が、農業だけに自分の研究の中心を置き、自己の研究だけのために民俗学会員を動員したことも、大きな原因であった。民俗学としては、もっと広い視野で研究すべきであったと思う。民俗学会員も、柳田国男の説にとらわれることなく、独自の視野において研究すべきであった。  〉 
水銀・水銀というが、そんなものどこにあるんだ、あらへんやないかと、思われるかも知れないが、もうないのである。恐らく縄文の昔から採取していて、何千年にもなるのだから、もう掘り尽くしたのである。『日本の地名』(谷川健一・1997・岩波新書)には、
 〈 水銀鉱床は一般には浅い所にしかなく、また小規模にしか産出しないために、これを採りつくすと他所に移動するか、やむなくその場所にとどまって農業をするほかない。農業は降雨と密接な関係が生じるところから、水銀鉱山の神を祀った丹生神社も祭神を雨神または水神に変えるほかなかった、と矢嶋澄策は説明している(『日本水銀鉱業発達史』)。.  〉 
この地には現在ではない物だが、過去にはあったのだと実証するためには矢嶋博士の方法をとるより方法はないのであろう。理科系的にはそうしかないであろうし、文化系的に進めるならば、というか高価な微量分析機など持っているはずもない者は私のような方法しかないでしょう、と口はばったいようなことを言わねばならない。
「井光神社」(奈良県吉野郡川上村)
   「奈良県内の鉱山一覧」


 当地に祀られる伊加里比売命の古里は実にここである。ここから水銀採掘のためやってきた吉野の人々が祀った水銀の女神のやしろが、この伊伽利姫神社である。
当地の水銀を見落としているから有名な書にそう書かれていてもわからない。これで再び千年以上もの長い長い、眠れる森の美女もその正体が明確になった。水銀を神格化したものが伊加利姫である。

女布:水銀地名

白雲山(舞鶴市京田)は吉野族が命名

白雲山(舞鶴市京田)

先に引いた残欠の笠水(一名真名井)の記事だが、この記事が新撰姓氏録の吉野連の話によく似ているというのである。
どこの人かも存じ上げないが、世の中にはずいぶんと面白い発見をなされる、詳しい人がいるものです。迂闊な現地人としては誠に恐れ入る次第で、当地に住む一人として深く深く感謝申し上げます。

次のホームページはぜひ参照して下さい。さあ行ってらっしゃい。
「丹後と吉野につながり発見?」


『新撰姓氏録抄』(第二帙。大和国神別。地祇。(第十七巻)。吉野連)に、山号額・善福寺のもの

 〈  加彌比加尼ミヒカネミヒカネミヒカネ之後也。諡神武天皇行幸吉野。到神瀬。遣V人汲V水。使者還曰。有光井イヒカノイヒカノイヒカノ。天皇召問V之。答曰。妾是自天降来白雲別神之女也。名曰豊御富。天皇即名水光姫ミヒカヒメミヒカヒメミヒカヒメ。今吉野連所V祭水光神是也。  〉 
真名井の主池・一升池(舞鶴市公文名・七日市)二つの文章をトクと読んで比較していただきたい。
読みにくいかも知れない。先ほどから引用する『丹生の研究』に、ちゃんと訳されている、もう至れり尽くせりなので、それも引いておく、

 〈 吉野連は加弥比加尼(かみひかね)の後なり。神武天皇が吉野に行事して、神瀬に到り、人を遺して水を汲ませしに、使者は還りて曰、井光女ありと。天皇は召して之に問うに、汝は誰人なるかと。答えて曰く、臣は天より降来せる白雲別神の女なり、名を豊御富(とよみとみ)と曰うと。天皇は即きて水光姫と名づけたり。今、吉野連が祭る所の水光(みひか)の神が是なり。
 と読まれる。但しこの書の一本には神武天皇云々の上に諡という字が冠されている。これに従うならば、諡神武天皇の5字で断句しなければならないから、この5字は加弥比加尼に直結し、加弥比加尼と神武天皇とが同一人物になってしまう。依って註の1字だけは衍字として訳出しなかった。  〉 
真名井三合池(舞鶴市公文名・七日市)
これは指摘されるまで、はっきりとは気が付かなかった。姓氏録を整理していた時にチラっと頭をよぎった記憶はあるが、そのままになっていた。資料は多くの人の目で読むことが大切だ。とんでもない大事を見落とすことが避けられる。
豊御富と豊水富は発音が同じだ。水漬く屍みづくかばねみづくかばねみづくかばねという歌があったが、水はミと読む。

 残欠の記事を読んで、なぜ何でもないような低い山に白雲山と古代から立派な名があるのか、なぜその山を起点にして笠水の位置を示すのかと、以前から不思議には思っていたのだが、おかげ様で、これで私の頼りない頭にも理解できそうである。真名井五合池(舞鶴市京田)

『中筋のむかしと今』によれば、当地の言い伝えにも、
 〈  真名井の清水に 「三つの池があり、東側から一升、三合および鉄道の西側に五合と、昔から呼び伝えられている。その由来は「白雲山(京田・白雲山善福寺ではないかと思われる。)から三本の矢が射られ、その落下地点から清水が涌いたと言い伝えられている。」  〉 
白雲山は、ここに祀られる伊加里姫(豊水富・豊御富=水光姫)の父親(白雲別神)の降臨地だった。この丘陵地はイカリ族の聖地だったのだ。
 姓氏録は吉野連の自己申告書に基づいて作成しているのだろう、残欠がこれほど似るというのは偶然ではない。海部氏の作成になるものと私は考えていたが、女布の東部一帯に住む吉野族の強い影響があったのであろうか。

白雲山は女布の東側、京田境の比高10メートル程度の低い丘陵である。この支脈のどこからどこまでが白雲山かわからないが、本来は降臨地点が白雲山であろう。かつてはここには森脇宗坡の白雲山城と呼ばれる山城があり、現在はその東麓に白雲山の山号を持つ善福寺(安国寺末。応永24年建立)がある。
真名井の案内板
真名井の清水に建てられた案内板(写真)は、剥がれた部分が多く読みにくいが次のように書いてある、そのまま引いておく、

 〈  この真名井の清水は伝説によりますと、「白雲山〔場所不明〕の北郊に笠水、またの名を真名井という所があって、豊受大神が降臨になったとき、そこから甘露で鏡のようにきれいな霊泉がわき出た。そのわき口は公文名・七日市の両字境の大きな池であるといわれ、わき口の広さ三尺〔およそ一b〕ばかり、面積百二十二歩〔およそ四〇三平方b〕である。この霊泉は日照り続きや長雨続きに関係なく、年中増減しない、また、万病に効くといわれている。近くには、二つの祠があって、東側に豊水神・即ち伊加里姫命、西側は笠水神・即ち笠水彦命、笠水姫命の二神をそれぞれ祭っている」〔丹後風土記・笠水神社由来〕
 清水がわき出るその池の主な池は、付近に八尺池・五合池・おぶろ池などがあります。江戸時代に田辺城内に御水道が設けられ、その御用水は城下町へも供給され非常に大切にされました。現在は大和紡績が工業用水として一部利用しており、多くの家庭も愛用しています。中筋小学校児童等による池への緋鯉、川下へのシジミ稚貝の放流は、本会の美化活動の一環であります。私達はこのきれいな真名井の清水を大切に扱い子々孫々に伝え残してゆかねばならないと思っています。何卒皆様方のご支援、ご協力をお願い申上げます。昭和六〇年十二月一日 高野川を美しくする会  〉 

現在の真名井の源泉には三つの池ある。一升池(一番上の写真)・三合池(次の写真)・五合池(左の写真)である。大きなもので5メートル四方くらいの池である。お互い近くに直線状に並んでいる、たぶん古い時代の真倉川の川筋にあたるのであろうか、JRの鉄道線路がこれらの池の真ん中を走り分断している。

 古代からこの姿だったのか、ずっと位置も変わらずにあったのか定かではない。残欠の記事からは、一つだったようである。
122歩という半端な数字は実際に池の周囲を廻って計測したのだろう。「歩」がどういった単位なのかわからないが、出雲国風土記などの「歩」と同じものとすれば、この数値は正しいようである。「あしあしあし」という単位は6尺=1.8メートルとされている。これで計算すると周囲220メートルとなる。実際にはシロウト探偵としては、よその田んぼの中を、鉄道線路を横切って巻き尺使って測ってみるわけにはいかない、住宅地図などからおよその数値をはじくと、三つの池の間は90メートルの距離がある。たぶん川のように細長い池だったと思われる。122歩はぴったりの数値なのである。

『中筋のむかしと今』の言い伝えは三本の矢だから、三つ池となった時代の物であろう。少し時代が下るのだろうか。
 現在の真名井は一升池から流れ出る水が綺麗な小川になって、田の中を150メートルばかり流れ下り、府道74号線(舞鶴綾部福知山線)のきわまで来て池になっている、ここを通常は「真名井の池」と呼んでいる。一升池から「真名井の池」へ続く水路

源泉は田んぼの中にあって、観光地でもないので路はない、細いあぜ道を歩いたり田んぼを踏みつぶしたりしながらでないと行けない。周囲は多くが休耕田になっているようだが稲が植えてある田もある、この池の主らしき大きな蛇もいるし、ヌートリアが住み着いているのだそうである。一番上の一升池のたもとの柿ノ木下には写真でも少し見えるがヌートリア獲りの大きな「ネズミトリ機」が仕掛けてある。池の周囲には何というのか踏むとガチャンと締まる金属製のワナが何カ所も仕掛けられている。ニンジンが一番好きなようですな、柿も喰います、稲も立って喰とります。まあ今日の朝一匹捕れましたので見てくださいといって、一升池からヌートリアを引き上げて見せて下さった。こいつはネズミでなかったですか、ネコよりも大きいですね。南米のものです、兵隊の毛皮にするため飼っとったものを戦後になって川のふちに放したんです、水陸両用です、ほら水掻きがありますやろる、雑食ですから何でも喰いますしねずみ算式に増えます、なんぼ獲っても減りません、まだ何匹かそこに穴を掘っておりますということであった。府の保健所の仕事だろうか、駆除してあげて下さい。
府道ぶちに立っているのが先の案内板である。さて、この案内板を見てもらってもわかるように、山の名前などは地元の人でも知らない。村役で山仕事に出かけている山ですら知らない。単に「山」であって普通は名はない。もし名があれば特別な山である。白雲山と名があるのは、何か特別な理由があるはずである。

いつだったか福井市の下一光(いかり)にお住まいの竹内様方から、現在はそこにはおられないそうであるが、メールをいただいたことがある。
「一光は竹内姓ばかり、とても多いのですが、…。私たちはあるいは吉野の水銀採掘集団の末裔かも…」と書かれてあった。
 それは気が付かなかった。タケやタカならその可能性は高いと私は思った。
伊加利姫を祀った末裔が舞鶴にもあるはずであるが、どのあたりになるのか見当もつかなかったのである。伊加利姫神社の付近には嶽サンや高田サンがある。あるいは末裔かも…、と考えた。

女布:水銀地名


          

丹後風土記残欠と呼ばれる書は江戸時代の偽書との説が昔からあり、正面切って取り上げる書は少ない。風土記集等には掲載されることはますはないようである。参考として勘注系図に引かれた条文が掲載されていればいいほうである。しかしこんな話が出てくると再び考えなおさねばなるまい。私はこれが偽書とは考えてはいない。
 真名井の「其廻壱百廿二歩」とある、思わず戦慄が背中を走る、ブルブルとくる。現代のノンフィクション系の作家ならやるかも知れないが、古い時代の偽作者が机上ででっち上げられるような記事内容ではない。

 まず、幾つかの先行する資料を編集して書かれた書であることがわかる。たとえば伽佐郡 本字笠、與佐郡 本字匏とか、竹野郡 今依前用とか、何か先行した資料があってはじめて書ける記事である。真名井の位置も白雲山からと笶原山から示される。真名井については少なくとも二資料あったのだろう。

 また加佐郡内の35座の神社を列記するが、東舞鶴地区は東を出発点にして時計回りで書き上げていく、西舞鶴地区も同じ、ところが川筋・大江町地区になるとこの原則は守られない。とたんに比定作業が困難になる。なぜこんな事になったのか、編者はこの地区に無知であったのか、などと考えたが、これはたぶん元資料が違うのだ。編者はそれに手を加えなかったのだ。忠実に元資料に従ったのだ。だから全体は統一のとれないことになった。

有り難いことに元資料にあまり手を加えていない、元資料の中には、頼りないものもあるが、真実も含まれると考え取り上げさせてもらっている。また当時、当郡についての複数の資料が集まる所といえば、郡役所しかなかったと思われる、この書は郡役所の制作になる。もっとも当郡だけではなく丹後の全郡についても少し触れているので、まとめは国庁になるのだろう。

 郡役所の事務屋さんが古い手元の資料や提出された資料類を、そのままつぎはぎしたといった性格のものに思われる。
文才や学識ある人物が、それら地元の元資料によりながら、新たに書き下ろしたといった性格の書ではない。

 しかも私は風土記ですとこの書自体は名乗っていない、発見者が勝手に風土記と名付けただけのものである。だから論理的には偽書ともいえない。伊予部馬養の丹後風土記とどう関係するのかとかの問題はあるのだが、もう少しこの加佐郡の誇りにしていい文書を信用していいと思うのである。

しかし思えばどんな書もすべて偽りの書である。真実が書かれた書などどこにあるだろう。そんなものは人類の最終までも書かれることはない。神ならぬ人間、偽りだられの人間になぜ真実の書がかけよう。書ける道理はない。真実は自分の頼りない頭で考えていかねばならぬものである。それが頼りないが人間であることの証でもある。
偽書と切り捨てた時、その中に幾分かは含まれる真実も切り捨てることになろう。産湯と一緒に赤子まで捨てるような超愚かな産婆を演じてはまるまい。偽りと真実を一つひとつ確かめながら謙虚に読んで学んでいくより手がない。まずはしっかりと地域に伝わる史料を理解することから始めたいと思う。
丹後の郷土史家の重鎮たちはみな当然にもこの残欠を重視している。そんなモノは偽書だから無視しろという人はない。私の知る限りの話ではあるが…。
しかしそれがいつの間にかなぜか無視されている。おかしな話である。残欠は舞鶴の事が中心に書かれているのだから、舞鶴人がもっともっともっと取り組まねばいかんと思う。舞鶴人のええかげんな事大主義的な所かも知れない。『市史編纂だより』(47.10.1など)に、

 〈 古丹後風土記の奥書とその実像  井上金次郎
…私はこれらを含めて、当市唯一の古代地歴書である丹後風土記残編を、この際再認識して、これを十分に活用することによって史的空白を埋めるとともに、考古学的成果の上に立って、ややもすると無味単調に叙述されやすい古代史を地方色豊かに色どって欲しいと思う。またこれは古くから市民に知られ、親しまれてきた伝承内容をもつものだけに取り上げ方如何によっては市史をより身近かなものにすることが出来よう。….

…ところで最近出版された日本歴史大辞典の中て加佐郡内の郷名の考証では和名抄とこの風土記残編が史料として紹介され、その他の事項でもかかわりあいがある事柄については、丹後風土記残編を引用し、解説しているところをみれば、「偽書云々」という時代は過ぎて、史料価値が定着したことを証明している。
 それにしても、加佐郡すなわちいまの舞鶴市域の?々の事蹟についての研究、考証はほとんどなされず、細々とした学界での風土記研究も、その対象(はすべて前述の五国風土記に限られているのはさびしい。それは戦前の単一的な古代伝承説話の研究は、戦後ややもすれば神学的なものの反動につながるとして敬遠され、あるいは消される傾向にあったのが原因だが、ちかごろはこれら古代史料の神々の存在を抽象的にとらえず、古代政治機構の中で考古学的成果をとらえて説明しようとする努力がなされるようになった。しかしなかには、古代人特有の夢のような説話から神々の特性である情緒的なものを排除するあまり、これの持つ人間的、唯心的な面を徹底的に排除し、うるおいのないものになっているのが見受けられる。
 このような風潮の中で、中世以前「風土記逸文」として引用された浦島子伝や比沼天女の説話が時流に乗り、新しい角度からの解明がなされるようになってきた、この風潮は各地で忘れられていた民話の蒐集となりつつあり、それに伴い「風土記残編」の持つ内容は、今日的を問題に多くの示唆と新しい解釈を要求していると思われる。これについて考えられるのは、今後の残編の研究は伝承史実を冷静に判断し、他の風土記の使用例をも比較し、一行毎の成文の是非から総合的な検証を行なうことが最も必要だということである。
 そういう意味から、その大半の記述が舞鶴市域という狭少性のゆえをもって、だれからも顧みられない市の最古の地誌「丹後風土記残編」の実像を再検討、再評価することによって、風土記の真価がその伝承者の息吹とともによみがえり、私たちになんらかの光を与えることであろう。


<「丹後風土記」について>
       顧問  池田 儀一郎

…これらの命令によって、報告された文書がいわれる風土記で、現在、当初の姿を残しているのが播磨・常陸・出雲・豊後・肥前の五ヵ国、そのうち完本は[出雲風土記」だけであって、他はいずれも欠本である。[丹後風土記」のごときは、わずかに加佐郡の一部分をとどめているに過ぎず、しかも後世の偽書であろう、というような汚名まで着せられているのである。
 次に平凡社の大辞典がのせている「丹後風土記」の簡単な解説を掲げてみる。
 「丹後風土記」一巻。神亀天平年間成。釈日本記に散見すれど欠脱あり、全編不伝。嘉永年間、鈴鹿連胤・長享奥書の写本現存すれど偽書とさる。(後注)誠に芳しからぬ解説である。しかし、加佐郡は現在の舞鶴市の地域であり、こういう汚名があつても、味読する興味には余り変わりはない。「舞鶴市史」にこれを取り上げるべきは当然のことであろう。ところで、丹後五郡のうち、加佐郡だけの記事があへて、他の四郡(中郡・与謝郡・竹野郡・熊野郡)の記述が無いのはどういうわけなのであろうか。この四郡の記述は散逸したのかと思われるが、初めから報告をしなかったのかとも考えられる。全国六十に近い国、五百ばかりの郡という行政区画があったにしては、余りにも残っている風土記の数が少なすぎる。…
  〉 
池田儀一郎は真下飛泉の実弟。しかしその期待はやはりまったく果たされなかった。庶民くささを漂わせる風土記の世界などは市史は感心がないのであろうか。『舞鶴市史』は各説編以外は古代史だけでなく全体に庶民の目を失い、上ばかりをみている(ひらめ)の書である。30年以上も昔の指摘が今でも通る。郷土史といえば田辺城と幽斎様ばかりではどうにも出口はなかろうと思われる。

女布:水銀地名


          

地名を表記する漢字が『丹後風土記残欠』において書き改められている問題について。
他国の風土記には見られないことだが、先にも引いたが、笠→加佐。匏→与謝。田庭→丹後。領知→志楽。高椅→高橋。荒蕪→志託。蟻道→有道。彼来→枯木。仕丁→与保呂。と漢字を改めていて、それを記録している。残欠は何故こんなことをしたのであろうか。
それはそもそもの風土記が作られた契機に関係がある。風土記撰進の勅は、
『続日本紀』(新日本古典文学大系)に、
 〈 (和銅六年)五月甲子、畿内と七道との諸国の郡・郷の名は、好き字を着けしむ。その郡の内に生れる、銀・銅・彩色・草・木・禽・獣・魚・虫等の物は、具に色目を録し、土地の沃土+脊、山川原野の名号の所由、また、古老の相伝ふる旧聞・異事は、史籍に載して言上せしむ。  〉 
地名は好字を着けよ。そう天皇から命じられたから、こう書き改めたと思われる。この勅命に対応したものと思われる。
これが好字かどうかは別としよう。この時代に郷もおかしいといわれるのだが、それも置いておこう。 この勅命によって地名を書き換えているのである。残欠は序文に、

 〈 国中に所在の山川海野、其産する所の禽獣、草木、魚亀等は悉くこれを記すを得ず。但し其一二を郡毎の条の下に記す。(以下三行虫食)  〉 
勅命を十分に意識して記している。古代の天皇制官僚の意識である。これははるかに後の世の何物とも知れぬ偽作者が考えつくような芸当だろうか。明治以降の天皇制国家の官僚の偽作というならあるかも知れないが、忘れられた天皇さんなど誰が意識していただろうか。

女布:水銀地名


勘注系図にも記事があるそうである。「海部氏系図から邪馬台国の謎を解く」(金久与市氏『丹後文化圏』所収)に、

 〈 天村雲命は丹波に還って、丹波の伊加里姫を娶り倭宿祢命を生んだ(舞鶴市京田に伊加里姫を祀る藤ノ木神社が所在)。『(勘注−引用者注)系図』は"神武"(倭宿祢命のこと−引用者注)の時に祖神から伝来の神宝を携えて丹波から大和に遷り、この地で、白雲別命の女豊水富トヨミホノトヨミホノトヨミホノ命を娶り、笠水彦命を生むと、記している。奈良県当麻町に白雲別命、豊水富命の父娘を祀る長尾神社が鎮座)倭宿祢命の別名を天御蔭命と称す。(舞鶴市森に同命を祀る弥加宜ミカゲミカゲミカゲ神社が所在)  〉 
 国宝・勘注系図は非公開で、公開の形になっているその一部以外はその内容はわからない。古くからのこの系図の研究者である金久氏だからこそのものである。
 しかしどうだろう、ここに登場するのは金属神ばかりではないか。一つ目の産鉄神(鍛冶神)と水銀の女神との間の子が笠水彦命というのだから、笠水彦も金属神だろう、笠水神社も金属精錬集団の神社だろうということになる。笠のサとは鉄のことになる。

勘注系図では笠水彦命−笠津彦命−建田背命と続く。上安の高田神社は建田背命を祀るし、境内には兵主神社があり、ずいぶんと金属の匂いがしている。それらが海部氏の祖というのだから、丹後海部氏はその名に負う通りに単なる海の氏族ではあるまい。

海部氏と海の名が付いている、祖神・火明命は海神の側面ももつが、途中はどうも鉄の神のように見える。金属精錬集団こそが海部氏本来の姿であったろうと思うのだが、与謝に移る以前の「加佐郡における海部氏」の究明は、何か新しい知見を生みそうである。
 勘注系図は公開されたという。私は不勉強でまだ全文を知らない。しかし、丹後海部氏は海王であるよりも製鉄王である。これが海部氏の素顔。ここ加佐の地ではそのような判断しかできない。

長尾神社については、『奈良県の地名』に、

 〈 長尾神社(ながおじんじゃ) (現)當麻町大字長尾
 竹内街道と長尾街道の交差地に鎮座。水光姫命・白雲別命を祀る。旧村社。創建不詳。「延喜式」神名帳葛下郡の「長尾神社 大、月次新嘗」とされる。式内長尾神社は貞観元年(八五九)正月二七日、従五位下より従五位上に昇叙(三代実録)。「大乗院雑事記」によると、当社は平田庄内に三町三段の地を有していた。
 嘉吉三年(一四四三)の放光寺古今縁起(王寺町有文書)には、放光寺の南の鎮守で、伊勢の内宮・外宮の垂迹であるとし、ほかに諏訪・住吉・熱田を祀るとある。現祭神は江戸期の社記によったもので、それによると、水光姫は吉野連の親で、大字竹内の「三石」という所に三角磐があり、ここに同神が降臨したと伝えている。近世には竹ノ内村・八川村・尺土村・木戸村・長尾村の五村の氏神であった。  〉 
   長尾神社(當麻町長尾)
京田にも真名井池の南100メートルばかりの所に、三角みすみみすみみすみという小字名が残る。何か関係あるのだろうか。

「真名井」という池は本来は天上界の池である。青い空を水鏡に写して宝石のように輝く三つの池の写真をみられれば、まさに天から落ちてきた池だと納得されよう。

茅屋の近くに防火用水がある。プランクトンでも発生しているのか緑色の水を湛えている、ここで試してみるが、決して真名井の池のようには空の色を写さない。澄んだ水でないとあのようにはいかない。

 せっかくの宝物ではあるが、何の保護も取られていないようである、鉄道線路に分断されて三つの池を一度に見渡すことはできない、すでに一つの池はもう瀕死の状態である。中筋地区は1万人が住むという、急激に人口が増えている。もしこんな池をほったらかしにして保護もせずに殺したら、とこぞの保健所のようなもの、保護が必要な子供を見殺しにしたこととなり、世の人々に深く恨まれよう。

 ここで天照大神と素戔嗚尊が誓約をしたと伝えられる。誓約はウケヒと読む。だからかどうかは知らないが、真名井はこの地でもウケ井とも呼ばれている。あるいは元々真名井はウケ井とも呼ばれたから、誓約の話がくっついたのかも知れない。

また『先代旧事本紀』には、「天之真名井三處を掘る」とか、天之真名井を「又は去来いさいさいさ真名井と云う」と見える。紀は去来いざいざいざ之真名井とも書いている。

 舞鶴の真名井の近くには伊佐津いさづいさづいさづとい地名が残る、西舞鶴駅(伊佐津無番地)のある場所やその東側がその地である。西舞鶴駅前(舞鶴市伊佐津)伊佐の津(港)という意味であり、古くはこの辺りまで海が入り込んでいて港になっていたのであろうか、それをイサ港と呼んだのである。このイサ地名はあるいはここの真名井をイサの真名井とも呼んだためかもわからない。
 真名井とは何のことであろうか。誰も正確には答えられない。マナ娘のマナだとか、太平洋の島々ではマナというのは霊力のことであるという。マラのことだろうか。魔のことだろうか。
 マナ島という島がフィリピンがどこかにあるそうで、ダイビングが好きな知り合いがこの島を気に入り、自分の娘にマナという名をつけたというメールを貰ったことがある。マナはたいていこの二つの説明だが、どうももう一つぴたりと来ないように感じる。真名井通り(西舞鶴一の繁華街だった)

マナイはヌナイとも呼ばれた(紀)。ここで天照大神と素戔嗚尊が誓約をする話には玉と剣が出てくる。これらを真名井に濯ぎバリバリと噛み砕いてブっと吹いたら三女五男の神々が産まれたというのである。ヌは瓊で玉、ナは刀のナで刃のことではなかろうか。玉と刃物を産み出すにはこの真名井が必要と考えられていたのではなかろうか。記紀は、何をむつかしい事を言ってはりまんにゃナ、大先生はこれだからかないませんナ、ワシらはそんなむつかしい事はいちいち考えてはおりまヘンデ、玉の泉、鉄の泉のことですガナといっているように感じられる。丹後の場合は玉と鉄はごく近い所で作られているように思われる、あまり分業が発達してはいなかったかも知れない。真名井は玉や鉄器の生産民の信仰に基づく泉名ではなかろうかと考える。真名井通り(買い物に行きましょう)


 舞鶴の真名井は古来からの泉の名よりも、現在では商店街の名としてのほうがよく知られている。
駅前から北へ向かって続く1キロ足らずの西舞鶴のアーケードのある商店街通りを真名井通りと呼んでいる。
 この日は特別に賑わっていた。えびす市の大売り出しとか。一昔前までは先に進めないほどの人出があったというが、もう昔日の面影はない。いつもはどうですかと聞くと、猫の子一匹通りませんとのこと。全国の例にもれず、我が町の真名井商店街も昼間からシャッターを下ろした店が増える。青色吐息のようである。
これが一の商店街ですかぁ。これでぇ…。これがぁ…。何もないところなんやね。舞鶴という町全体がそうやもんねえ。と他所からの訪問者はよく言う。ええまもなく病院もなくなります。と私は言えなかったが、商店主の皆さんはがんばっておられるが、いくらがんばっても商店街だけを復興する手だてはない。町全体村全体をしっかりされることであろう。女布:水銀地名


与謝郡・竹野郡のイカリ地名と浦島太郎・徐福伝説

丹後のイカリは、この地のほかにもかなり見られる、まず与謝郡伊根町に見える。日量里と書かれる。『丹後旧事記』に、

 〈  日量里いかりのさといかりのさといかりのさと
浦島太郎旧里今もいかり峠いかり山などといふ所あり村は村名替てなし一説城地は本庄村なりと伝ふ。  〉 
『丹哥府志』に、

 〈 ◎上山村
谷内村の奥山の半腹にあり、是より碇峠を越て菅野谷へ出る、又野間の庄吉野村へ出る金剛童子の道あり、又三山村へ出る道あり  〉 
 子供でも知っている超有名な浦島太郎を祀る式内社・宇良(うら)神社の地・伊根町本庄がイカリだともいう。おじいさんになって、死んでしまった浦島さんはこのイカリの地に葬られたという。

朱と浦島太郎がピッタリと重なってしまう。浦島さんは何か水銀と関係があるように思える。竜宮城に行く話だから、海民の伝承とばかり考えていたのだが、浦島太郎と水銀はやはり深い関係があるようである。まさかと思いながら試しにと、GOOGLEを繰ってみると、ヒットした。

 「竜宮城−浦島太郎と蓬莱山幻想」

改めて読み返してみると、雄略22年紀は、(小学館・日本古典文学全集による)
(管川の水江浦島子)
 〈 (二十二年の)秋七月に、丹波国余社郡管川つつかはつつかはつつかはの人水江浦島子、舟に乗りて釣し、遂に大亀を得たり。便すなはすなはすなはをとめをとめをとめ化為る。是に浦島子、でてにし、相遂ひて海に入り、蓬莱山とこよのくにとこよのくにとこよのくにに到り、仙衆ひじりたちひじりたちひじりたちに歴りる。ことことことは別巻に在り。  〉 

逸文風土記は「蓬山」としている。この蓬山について小学館版風土記の注釈には、

 〈 蓬莱山の略。神仙の山。「竜宮」とでるのは室町期のお伽草子「浦嶋太郎」以降のことである。当話でも他に「海中博大之嶋・仙都」と出る。  〉 
とある。虫麻呂の『万葉集』は、常世に至り、としている。これらが本来の形だ、浦島は竜宮城へ行ったのではない。子供の頃のおとぎ話の記憶が、うっとしい五十ヅラ下げる齢になってもまだ鮮明に生き続けていたようだ。メモリをクリアしておかねばならない。浦島太郎は龍宮城へ行ってはいない、と。

夢の中で流れる時間と、現実世界の時間は、確かに違っている。夢の中ではアっという間もなく過ぎても、その時間は現実社会では何十年にも当たることがある。楽しい夢の中で過ごせたのだから浦島さんは幸せだったと思う。
こういった幸運な人はめったにはないだろう。たいていはの人は悪夢の中で貴重な人生の時間を過ごすのである。そして夢が覚めたら何十年もの人生をまったくムダに過ぎていたことに気づく。見慣れたはずの現実世界は、見知らぬ世界になっており、そこに一人取り残されて、ただ呆然と立ちつくすのである。このページを読んで頂いている皆さんは、そんな不運な浦島さんではありませぬでしょうね。
伊根町野村

浦島伝説の筒川つつかわつつかわつつかわ(紀は管川としているが。ツツカワと読んでいる)の里は、現在は伊根町野村のむらのむらのむら(右写真)と呼ばれるところだそうで、ここには朱丹とかイカリ谷の小字がある。あるいは()村は()村ではないのか。碇峠

 ここから竹野郡丹後町上山・久僧に越える峠がいかりいかりいかり(左および右下写真)と呼ばれ、その北に碇山(555メートル)がある。峠を越えた丹後町側が碇高原と呼ばれる。現在はそこに、府が経営する碇高原総合牧場がある。碇峠遠景

筒川をどんどんどんどんとさかのぼると写真上の碇峠にさしかかる、古くよりよく利用された大切な峠という。丹後町側の行商のオバチャンたちが魚を携えて、筒川側からは農産物を携えて、この峠で日時を合わせて物々交換をしたという。越えたところは広大な牧場である。すぐ右へ回ると上山寺に達する。碇高原牧場(狂牛病はありません)

碇峠(342メートル)は伊根町と丹後町の境の稜線にある。写真(右上)の峠は伊根町側から見ている。中央の鞍部が碇峠で、右手(北側)が碇山、左手(南側)が笠山あるいは笠岳(496メートル)である。
筒川小学校の校歌に歌われるように、とりよろう 太鼓 権現 笠 碇 …順番がバラバラなようだが、笠と碇は碇峠を挟んで隣り合う山である。こんなことからイカリとカサは何か関係がある地名なのかも知れない。『伊根町誌』は、碇高原の碑(クリックすると拡大しまい)

 〈 中央高台の台面である太鼓山から碇峠にかけては、緩かな地形をなして碇高原とよばれ、冬は積雪が多くきびしいが夏は涼しく、牛の飼育に適し、優良な「筒川牛」を産出する大きな要因となっている。  〉 
碇高原牧場浦嶋公園宇良神社
「丹後の伝説」(風土記記載の筒川の嶼子伝説)


「とりよろふ」は、万葉集にある舒明の歌、香具山に登って大和国の国見をしたときのものと伝えられるものにただ一度だけ出てくる句である。意味不明とされる。畑井氏は「とり鎧ふ」だとしている。

 筒川牛というのがどんな牛なのか知らないのだが、上の牧場の牛がそれではなかろうか。この筒川あたりの牛を呼ぶ。600頭もいたというが、農家には今は1頭もいないのではなかろうか。廃牧場かな、と思える施設がほったらかしになったりしている。

弘計億計の二皇子は雄略に命をねらわれ、丹波国余社郡に難を避けたと伝えられる。人に困み事へて、牛馬を飼牧す、と億計が語ったという(顕宗即位前紀)。その牛なのかも知れない。
スルドイご指摘にまこと驚嘆。ここもまた億計・弘計と関係がありそうだとは、これは見落としていた。私はこんな牛がいることも実は恥ずかしながら知らなかった。野村だったか確か牛の銅像があった。「何じゃ、何で但馬牛がこんな所におるんじゃ」くらいの認識しかなかった。以上は名著『伊根町誌』の受け売りである。碇高原の碑

 実在人物なのかどうかわからないが、このオケヲケが何か水銀と関係があるのでは、と私は感じてはいた。.丹波童と呼ばれたそうであるから、この両天皇はあるいは丹後出の天皇なのかも知れない。

舞鶴の大内郷に彼らの伝承が伝わる(残欠)。ここには五十里村があったし、邇保崎のすぐ近くであった。舞鶴には伝説として彼らに関するものがいくつかある。
大宮町の三重や五十河いかがいかがいかがにも三重長者・五十日真黒人いかがまくろひといかがまくろひといかがまくろひとという人がいて、両皇子はここに匿われていたという伝説がある(丹哥府志など)。

ここに水銀があったという話は聞かない、しかし倭武やまとたけるやまとたけるやまとたける命の足が三重に勾りなした、従って三重というと古事記にある。
これは三重県の三重で、丹後の話ではないが、三重県の三重は現在の四日市市の水沢の式内社・足見田神社の地・三重郡芦田あしみたあしみたあしみた郷の地ではないかと、『青銅の神の足跡』は分析している。足が痛いとは吹革を踏んで痛む、あるいは水銀の毒によるものかも知れない。地図によれば、滋賀県との境に近い入道ケ岳(906)のすぐ麓である。三重に曲がったのが本当ならば水銀かも知れない。
「三重国三重郡三重郷・水沢・足見田神社・入道岳」
「播磨国賀毛郡三重里」



 丹後の三重(大宮町三重・丹波郡三重郷)はどうかは誰も論じてはいないようだが、同じ地名なら似たような事情があったのではなかろうか。「大宮よいところウランの町」と歌われるという、丹後半島の基盤・花崗岩に含まれたものが風化して自然濃縮したようだが、ここは丹後半島の胚芽のような場所であり、1億年以上の年月のあいだに何かほかにも濃縮された鉱物があっても何も不思議ではない、ここもあるいは何かそんな物と関係のある地名なのかも知れない。
五十河は物部連の祖・伊香我色雄命のイカガであり、このカガはカグ(銅)のこととも指摘される(畑井弘氏)。イ(厳)が付いているから強力な産銅の集団がいたのかも知れない。

 両皇子はさらに丹後を逃れて播磨の縮見しじみしじみしじみへ行く。縮見は現在の兵庫県三木市、ミキと呼んでいるが、本来はミナギであるが、その美嚢みなぎみなぎみなぎ郡の中心が縮見であった、ここは金物の町として全国的に大変に有名な所である。
私らの子どもの頃には肥後守というナイフがあった。皆一本は持っていたと思うが鉛筆削り用にも何にもかにも使えて安い物で便利なものだったが、それはここの産であった。
播州打刃物市とかうたって月一回くらいだろうか、舞鶴のスーパーでも売り出している。城屋の坂根正喜氏などは「オヤジが愛用しとったで、ワシも使うんじゃ」とわざわざ三木まで農用刃物を買いに行く。

『丹生の研究』も、丹生山はむかし播磨国美嚢郡の名山だったと認めてよい。と書いている。今は神戸市北区となっているが、丹生山がありここにも水銀がやはりある。加佐という所もなぜか近くにある。

 縮見三宅首は忍海部造細目という(顕宗即位前紀)。細目はホソメと読んでいるが、播磨風土記に志染村の伊等尾いとみいとみいとみとなっていて、細目はイトメかも知れない。現在もその地名があるが、このイトミはイイトミ(飯富)だろうと『青銅の青の足跡』は推理し、袁祇や細目と鉄の関係が暗示されていそうだという。また丹後半島東部の海岸が彼らの根拠地であったことも暗示するとしている。播磨国では天日槍や秦氏が西部諸郡に忍海漢人は東部諸郡と東西に対称的な分布を見せるという。丹後半島も見落としているが意外とそうなのかも知れない。忍海は凡海とも大海皇子の大海とも同じで、凡海郷にオケヲケの伝説がないかと気にしていたのだが、和江神社にあった。大海皇子、即ち天武と水銀が何かつながりがありそうだというのもまんざらいいかげんな話でもないと思われる。
細目という一族は丹後とも関係がありそうで、『加悦町誌』(S49)は、加悦の天満宮の伝説を伝えている。
 〈 天満宮の梅形砂 丹波道主から四一代の孫といわれる細目道春の三男倉彦が、菅原是善に仕え、是善が八八一年(元慶五年)に亡くなったので、子の道真に仕えた。道真が筑紫に流された時、一緒にかの地へ行き、九十才のとき加悦に帰って天満宮を祭ったと伝えられている。ここに、「ナメクジ石」と「梅形砂」とがあり、梅形砂はその名のとおり梅の花の形をしているが、信仰の厚い者でないと見ることができないといわれている。.
  〉 
加悦谷にしても上宮津にしても大江山の北麓には細見サンが多い、細目の後裔ではなかろうかと私は勝手に考えているが、さてどうだろうか。『女工哀史』の細井和喜蔵の細井サン、与謝野礼厳・鉄幹・晶子の与謝野姓は細見姓というから、この地だけに留まらず全国の文化の先端を担ってきたのかも知れない。しかしオケヲケまでは当方当分は手が回りませんので、どなたか興味のある方があれば、この先を研究してみて下さい。『大宮町誌』が詳しいのでそのコピーを作っておきました。
「丹後の伝説」

 丹後のヒマラヤとかチベットとか呼ばれる所あたりとなり、雪はすごいものという。38豪雪の時はこのありたは軒並みに5メートル以上の積雪があったという。
右の田坪はおそらく6メートルはあったと思われる。今は太鼓山の風車がのどかに回っているが、その北の谷に今は廃村となった集落がいくつかあった。伊根町田坪大段里の碑(縦貫林道)
学校へはスキーを履いて電柱の頭を目印に滑ってゆくのだそうである。この豪雪以降山間の集落は廃村に追い込まれていったという。
田坪は昭和42年に廃村となった。『伊根町誌』は、

 〈 この三八豪雪による影響は、山間集落の過疎を促進し、田坪(昭四二)、福之内(昭四四)、吉谷(昭五二)の挙家離村による廃村の一つの大きな原因をなすこととなった。  〉 
水銀があったという話はきかないのだが、筒川や太鼓山のあたりは天然の良質な木材(杉や欅など)を産出する。地中から神代杉が掘り起こされることもあるという。火山灰に埋もれているというのだから、丹後のポンペイである。しかし時代はポンペイよりずっとずっと古く神代どころか何千万年の昔の物ではなかろうか。

『丹生の研究』は、伊根町蒲入かまにゅうかまにゅうかまにゅうにふれている、丹後を細かく見れば、入山・入谷・入地・入町・入田・入道などの小地名がやたらにみつかる。とても紹介しきれない。ニュウとは読まないでイリと読んでいるのが多いが、これらも本来は丹生のことではなかろうか。あるいはなかにはイカリがイリとなった所もあったかも知れない。

 筒川も怪しい地名で、ツツとは海神の蛇を言うとも、製鉄炉そのものだとも言われる。丹生にも何か関係がありそうに思うが、これはわからない。「神名帳」にも正三位筒明神が見えて、朱との関係でこの神社が知りたいのだが、いまだよくはつかめないでいる。
瀧沢馬琴によれば、浦島は仮名かなかなかな川で生まれたとしているという。私は読んだことがないので知らないが、そのためか神奈川県下にも浦島伝説があるそうである。浦島さんはどうやら金属と関係深そうに思われる。浦嶋神社(元伊勢内宮境内社)浦嶋神社(元伊勢内宮境内社)


「室尾山観音寺神名帳」の筒明神は大江町の日室山(日浦岳とも・内宮の例の大ピラミッドである)に祀られていたのではなかろうか。鬼退治に来たという麻呂子親王がまず日室山の筒明神に詣でたと伝える(「如来院文書」)から、何か金属と関係する社なのではなかろうか。この社は浦島神社とも呼んだらしい(小牧進三氏が「郷土と美術」に書かれている)。内宮(皇太神社)の境内八十二社という一つに浦島神社があるが、これだろうか。

グルっと境内社が本宮を取り囲んで配置されているが、ここの並びはこの周辺の神社を集めたもののように思われる。本来は内宮の元宮的な社なのかも知れないが、それと筒と浦島には何か底知れない深い関係がありそうに思われる。大ピラミッドの日浦岳は古くは筒山と呼んだかも知れない。南の方の綴喜郡が気になる。丹後は何かあの辺りと関係がありそうにも思われる。
土之宮(外宮の向かって右)
 あるいはツツはツチともなるので、外宮本殿右側に祀られている「土之宮」がそれかも知れない。はっきりとツツ系の名が見えるのはここだけのように思う。外宮は「室尾山観音寺神名帳」の頃は筒明神と呼ばれていたのかも知れない。内宮か外宮か、どちらか、あるいは両方に祀られていたのかも知れない。土之宮と並んで本殿の左側に多賀之宮が祀られている。そうするとこのタカもあるいはタツ系の名で、龍を祀るのかも知れない。
伊勢の外宮にも土宮があるそうである。ここでは土宮は現地神とその祭祀者を祀るそうである。
「ツツは蛇」

敦賀市の気比神宮は本来は北東の美しい山、天筒てづつてづつてづつ山(171メートル)を神体山として祀られていたようである。写真の背後の山が天筒山で、下の鳥居のある所が故地だという。そこに石碑があり、次のように書かれている。気比神宮の故地と天筒山(敦賀市)

気比宮古殿地の事

 気比神宮境内東北部に位置し当神宮鎮座にかかる聖地として古来より「触れるべからず 畏み尊ぶべし」と社家文書に云い伝えられているが、嘗て天筒山の嶺に霊跡を垂れ更に神籬磐境の形態を留める現「土公」は気比之大神降臨の地であり、伝教大師・弘法大師がここに祭壇を設け七日七夜の大業を修した所とも伝えられる。 
土公は陰陽道の土公神の異称で、春は竃に夏は門に秋は井戸に冬は庭にありとされ、其の期間は其所の普請等を忌む習慣があったが、此の土砂を其の地に撒けば悪しき神の祟りなしと深く信仰されていた。
 戦後境内地が都市計画法に基づき学校用地として譲渡の已む無きに至ったが土公と参道はかろうじてそのままの形で残された。大宝二年(七〇二)造営以前の気比宮は此の土公の地に鎮座され祭祀が営まれていた。此の聖域を通して気比之大神の宏大無辺の御神徳を戴くことが出来るよう此のたび篤信者の奉賛により遥拝設備が立派に完成されるに至った次第である。」

伊根浦の耳鼻

伊根町亀島の不思議な地名、耳鼻にびにびにびは確実に丹生の転訛地名である。
現在は有名な伊根の舟屋群(国の重要伝統的建造物群保存地区に撰定された)が235棟だか並ぶ伊根湾に面した漁師村である。写真で言えば真正面中央の少し入り込んだ所あたりである。
『丹哥府志』は亀の耳鼻にあたる処にあるとしている。もし亀の鼻なら半島の先端の亀山集落だろう。耳!!? 亀に耳があったのだろうか。申し上げるまでもないが、それはちがう。表記漢字から連想してはならない。地名解明の鉄則である。兵庫県城崎郡城崎町飯谷に二眉にびにびにび城があった、こう表記されたなら二つの眉にあたる処とでもしなければならなくなる。亀に眉はあったのだろうか。
備後国奴可郡の式内社に爾比都売にびつひめにびつひめにびつひめ神社が見える。これについて『神名の語源辞典』(志賀剛著)は、

 〈 爾比は丹生の訛で、付近の山から朱砂が発見されたという。  〉 
としている。伊根大浦
亀島には何軒か仁谷にたににたににたにサンというお宅がある。丹谷にたににたににたにサンだろうか。ぶりぶりぶり漁で知られる伊根の漁師村もかつては朱の産地だったのだろう。

 左写真は上写真から少し左へカメラを振ったものである。この写真の一番左手の谷間に中尾古墳という6世紀末の横穴式古墳がある。この地から今の舟屋のあるあたりに住む人たちは移住してきたと伝えられるという。『伊根町誌』は、

 〈 出土品 須恵器二九点(坏蓋八点、坏身一八点、有蓋高坏三点) 鉄製の直刀二振り、鉄小刀一口、鉄鏃十点分余、鉄製斧一口、その他鉄滓、須恵器破片多数。
 これらの出土品のうち、特に副葬品として鉄剣三口と多数の鉄鏃(やじり)や、鉄製の斧とおもわれる鉄製品が多数出土したことは注目にあたしする。鉄剣は直刀で片刃の小太刀である。鉄鏃は約六センチ〜一二センチあり、一ケ所にかたまって出土した。  〉 
鉄滓もあるということはこれら鉄製品はここで製作されたと思われる。当時の最新の技術であったと思われる。ここもまた渡来の技術を持つ鉄の地であったと思われる。さらに『伊根町誌』は、

 〈 この古墳を構築した豪族はどのような勢力をもった支配者であったのであろうか。伊根湾を眼下に見下ろし、海上を一眺できる中央の場所を選んで、海上からも仰ぎ見得る位置に構築されており、墳墓の規模や鉄剣、鉄鏃などの鉄製の武器を保有している点から考え、この土地に住居を構えた豪族で、大和朝廷とつながりのある、主として海上を支配する豪族の墳墓であったのではなかろうかと考えられる。山が海岸線にせまり、極端に平野部の少ないこの付近の地形や、古代から豊かな漁場をもち、入江をなした伊根湾の地理的な条件から、海になんらかの形でかかわりをもっていたであろう。古墳の現地に立って鳥瞰すると、支配地域は波見崎以北の、中世伊祢庄の範囲の海上を支配していたのではなかろうか。海上を支配したこの地方の当時の豪族としては、「海部直」がありその一族であるとも考えられる。  〉 
鉄のことなんかは綺麗にわすれている。特に海に関係するような副葬品はないではないか。ただ鏃は逆鉤がつけられており、この矢で射て魚を採ることもできたそうである、しかしそうした漁法がはたしてあったかどうか。主流は浦島太郎さん式の釣りではなかろうか。写真の綺麗な伊根湾内には鯨やイルカが迷い込むことがあった、天然の定置網のようなものでイワシを追っかけて一度入ると出られない。江戸初期ころから捕鯨をしていた。座頭・長須といった鯨であった。350頭の記録が残されている。イルカは一度に二千本近くが水揚げされたこともあった。


竹野郡丹後町の宇川の上流に位置する三山みやまみやまみやま猪刈神社がある。『丹後国竹野郡誌』に、
 〈 猪刈神社 無格社 字三山小字メウジ鎮座
 (神社明細帳)  祭神 創立不詳.  〉 
猪刈はイカリと読むのだろう。メウジは丹生地(にうち)の転訛か。三山は丹山か。三山にはイカリナルやイカリ笠山、入道、岡の入、ゴ入堂の小字がある。三山の南隣の小脇集落にはイカリの小字がある。
三山も小脇も廃村である。現在は人は住んでいない。豪雪のためとか言われるが、本当はそうでもないらしい、1・2回の雪にへこたれるようなヤワな村々ではない。なぜこうした村々が亡びていったのか、明らかにしていくのも郷土史家の大事な勤めであろう、これらの村々は明日の日本のすべてのふるさとの運命を先取りしているのであろうからである。吉野山上山寺(丹後町上山)
  丹後半島廃景色(2) 丹後半島廃景色(3)

碇峠を北へ越えた竹野郡丹後町上山に真言宗の古刹上山寺がある。ここの山号は吉野山である。
 先だって足を伸ばしたのであるが、確かこの辺りにあったはずだがと、見渡すのであるが、ない。寺がなくなったりする訳がない。先の23号台風で神社が流された所はたくさんあるが、この寺も流されたのか、ならばあの崖崩れの所だと見当つけて行くと、あった。見られよ、この石段を。もう一歩で流されるところであったようだ。
 さて『丹哥府志』には、上山寺の石段
 
 〈 紅葉のよし野
 上山寺の後山をよしの山といふ、山の南に吉野村あり、紅葉の名所  〉 
日本三吉野の一だそうだけれども、水銀採掘に来ていたイカリ族が彼らの故地・大和の吉野山の名をここに移したものだろうか、それとも南側は与謝郡だから、与謝の山の転訛だろうか。『丹後旧事記』に、

 〈 野間の吉野。此所は水江の吉野より等楽寺村の金剛童子と云山へ掛抜の峯入せし山伏の行場にて紅葉呼子鳥の名所なりと伝ふ。天正年中長岡忠興の妻を爰三戸野と云所に押込て一色宗左衛門を付置れし事あり。 身を隠す里は吉野の奥なから 花なき峯に呼子鳥なく 細川忠興妻。  〉 
『伊根町誌』には、
 〈 現在伊根町内にある真言宗の寺院は、本庄宇治にある平野山来迎寺と、蒲入の海雲山西明寺の二か寺の他に、湯の山の成就院のみであるが、古くはほとんど真言宗の寺院として創建され、室町未から江戸初期に曹洞宗や日蓮宗、また臨済宗に改宗したものである。  〉 

ついでにあげておくと、筒川から南に一山越えた宮津市日ヶ谷には威光寺という大寺があったという。イコウジと読むのだろうか、私はついイカリジと読んでしまう。日出の日恩寺の山号は出光山、何と読むのであろうか、イデミツだろうか、イカリだろうか。
イカリ関係は府下には、船井郡和知町坂原にイカリバナという小字がある。



「室尾山観音寺神名帳」の一番最後に掲載される従五位上猪甘(猪谷)明神は、あるいは猪刈明神ではなかろうか。
浦島伝説は丹後では、竹野郡網野町にも伝わる。今井赤坂墳丘墓、銚子山古墳の海である。この周辺も朱が関係する神社がいくつか分布する。後に取り上げます。
丹後で水銀といえば、舞鶴の周辺と伊根町・丹後町の周辺と網野・久美浜の周辺の三つのグループであろうか。網野・久美浜周辺は後に取り上げる予定。

こんな面白いホームページを見つけました。
「いかり」と水銀について(丹後に分布するイカリ地名の考察です。今読まれているこのHPとデータも内容もかなりダブリます。私はシロートですが、こちらのHPは専門家の作成です。1998年にすでに作成されていたようです。私が最初だろうかと思っていたのに、やはりすでに先人があったようです。)女布:水銀地名


金峯神社(舞鶴市女布)

女布の集落の南端に樅木の巨木があって、そこに石の鳥居がある。そこから天王山と呼ばれる裏山へ登る、フーフー言って、だいぶに登った山の尾根上に鎮座している。
天王さんと呼ばれいた、金峯神社である、江戸期には参拝者が多かったそうである。整備された土道が続いている。どなたがこんなに綺麗に掃除をして下さるのか、有り難く有り難く感謝を申し上る。
『ふるさと女布』が詳しい。金峯神社(舞鶴市女布)


 〈 金峰神社(上路神社)

 天平年間(729-748)、行基菩薩が日本国内を巡歴されたとき、この地を訪れ、山麓に金峰山菩提寺を建立され、鎮守社として須佐之男命(牛頭天王と申す。牛頭天王は薬師如来の化身にして祇園精舎の守護神であり、京都の八坂神社も同様である)を勧請し、天御中主神を奥の院として祭祀し給うの言い伝えがある。これを金峰神社牛頭天王とあがめ奉り、神託により御社の土を奉持し耕地に撒布すると、万虫たちまち消散して諸作物豊穣、守護の御霊験あらたなりとの評判がたち、近郷よりも多数の参拝者があったという。第二次大戦集結後は農業技術の進歩、農薬の普及等で、現在は参拝する人も余り見えなくなった。
 なお毎年十二月十五日の皇土さんには、来年の稲作の出来を占う松明の神事が行われる。
(本社・境内社及び祭神)
金峰神社(上路神社)
  祭神 多気理比売命 建速須佐之男命 大年命
祢布ニョフニョフニョフ 神社(奥の院)
   祭神 天之御中主命
稲荷神社       祭神 稲倉魂命
向日ムカヒムカヒムカヒ神社
        祭神 大国御魂神 聖神 韓神 大香山戸臣神 曽富理神 大山咋神 向日神
大土オホツチオホツチオホツチ神社
      祭神 阿須波神 羽山戸神 波比岐神 底津日神 大土神 御年神 香山戸臣神 底高津日神
  (注・向日神社、大土神社の祭神は大年命の子なり)

附B 天王さんの樅ノ木
 金峰神社参道、石の鳥居をくぐるとすぐ左側(菩提寺跡、薬師堂の北側)に樹齢三百年以上と推定される樅ノ木がある。樹高は約四〇メートル、胸高回りは、五・三メートル余りの巨木であって、別名、「奥寺の樅ノ木」とも呼ばれ、前記社寺の由来を象徴するかのごとき名木である。昭和二十八年台風十三号の影響で樹木が南の方に少し傾いたのではないかと言われ、一時は心配をしたこともある。また、近年になって樹勢がやや衰えてきたのではないかとも言われ、どうか無事であってほしいと祈るばかりである。ともあれ、風雪に耐え、ふるさとの暮らしをみまもり、また、近郷の「天王参り」の道標として生きてきたこの老樹を大切に保存したいものである。  〉 
金峰神社とは言うまでもなく吉野山の名神大社・金峰神社(奈良県吉野郡吉野町)ことである。吉野族の祀る神社である。「きんぷ」とか「かねのみたけ」と呼んで、地下はゴールドの鉱脈が眠ると信じられているそうであるが、水銀の採れるところは金銀銅も採掘できるそうである。本山の祭神は金山毘古神である。
 この神社が鎮座するということは吉野族ゆかりの者が住むところであったということになる。
 金峰神社は丹後には、この地を含めて三社ある。
ここからも見えるが丹波国境に聳える弥仙山みせんさんみせんさんみせんさんの山頂、これは正しくは何鹿郡に属している。
中郡峰山町安の網野町へ抜ける府道から見える神社が金峯神社であるが、これは江戸時代には蔵王大権現社であった(祭神金峰山蔵王大権現と『峰山旧記』にある)。
従って古来からの丹後の金峯神社は当地のこの神社しかないようである。この金峰神社も江戸期の文献は牛頭天王とか牛頭天王社とあって、金峰神社ではなかったのかとも考えられるが、引用文にあるように、金峰神社牛頭天王であったかもしれないし、麓の菩提寺の山号が金峰山である。やはり古くから金峰神社でもあったと考えておく。
『何鹿郡誌』に、

 〈 金峰神社。東八田村字於与岐区小字大又なる弥仙山上に鎮座、無格社にして木花咲耶姫命を祭る。古くは修験道の練行地たりしものの如し。明治初年迄は女人禁制の霊地にして、麓なる三十八社篭神社より上部は此の禁制を犯すもの一人もなかりき。参拝人は麓の谷川にて石を拾ひ、(己が年数だけの石を拾ふ)山上に運び祠辺に積み、祈願すれば、願成就すと言伝へて、此の風習今も存す。毎年卯月八日は賽客殊に多し。三十八社篭神社は安産の神と伝ふ。  〉 
「於与岐の弥仙山」
女布:水銀地名



          
水銀は毒にも薬にもなる。当社の土で田畑の虫が死んだというのは意外にも本当だったかも知れない。水銀電池や水俣病で知られるように猛毒にもなる、また中国では古来長寿の薬としてもちいられたという。始皇帝は水銀の池や川のある墓所に葬られたというが、これは長寿を願ってのことであろう(すでに死んでいる者に長寿の水銀?なにかおかしな話ではあるが…)。『ふるさと女布』は、.

 〈  大正から昭和初期にかけては、田植の終わる六月下旬ごろから七月にかけて、毎日、植え付け参りといって、近郷から金峰神社へお参りする人達が続いた。この人達を「天王参り」と呼んだ。
金峰神社の境内の土を頂いて帰り、田に撒くと病虫害に冒されないとか、または境内の木の枝を頂いて田に立てると、虫が直るとかいわれ、皆頂いて帰ったものであるが、戦後はほとんどお参りする人もなくなった。

天王さんの呪い
 天王さんの境内にある樹木の小枝を持ち帰り、稲田の畔に挿しておくと、病虫害の呪いになると伝えられている。  〉 
としている。

徐福じょふくじょふくじょふくが不老長寿の仙薬を求めて与謝郡伊根町新井崎にいざきにいざきにいざき(左写真)に来たという伝説もまんざら嘘とは笑えまい、イカリもあるし「入」の小字だらけの地であるし、耳鼻も千枚田で有名なこのニイもまた水銀産地を示す地名だからである。新井崎(伊根町)

 イカリ・ニイ・ニビ・入・浦島太郎・徐福は水銀で全部つながる。かように古くからの伝説や口碑、地名、何か頼りないようなものだが、案外にバカにはできぬものである、今だ知られざる郷土の歴史を伝えるものであることが改めて再認識させられる。

 新井崎はまた子日(ねひ)崎とも呼んだようである。『宮津府志』(天野房成・指田武正・小林玄章・宝暦13)に、

 〈 子日ノ崎
 智恩寺妙峯和尚の説に、子日の崎は新井崎の事なるべし子日新井(ネヒニヰ)こえ近ければなり、新崎は鷲崎より外にて此地よりは五里餘も北なり是非をしらず。一説には日置高石の辺なりといふ。
  夫木鈔
     はるかなる子の日の崎に住む海士は
        海松をのみ引やよるらん   よみ人不知.  〉 
IとEはどんな言語においてもよく入れ替わるので、これはありうることである。MとNもよく入れ替わるので、「室尾山観音寺神名帳」(与謝郡国内神名帳)に従二位売布明神が見えるが、あるいはこの新井崎神社がそれかも知れない。漢字を替えればここは女布の地であるかも知れない。

徐州徐州と人馬は進む…という軍歌の名曲(麦と兵隊)があったのを思い起こされる人もあろうが、××低国がヤケクソになって侵略した「行けど進めど麦また麦」の大地である。何の咎もない農民達をみさかいもなく虐殺したくらいで何の戦果も挙げられなかったというが(一兵士の従軍記録など参照)、その徐州あたりの人という。16師団(京都伏見の師団)も確か加わっていたと記憶している。東史郎氏がどこかで書いていた。これ上げます、といって氏の生原稿を貰ったが、それだったかな。どこかに埋もれているはずだから一度家捜ししてみたいと思う。

 徐福は紀元前三百年頃の実在の人物で弥生の最初の頃である、全国に徐福渡来伝承地は多い、だから史的事実であったかどうかはかなり不安である。雄略朝の浦嶋説話とセットで誰かどこかの水銀採掘集団が持ち歩いた伝説であったかも知れない。イカリ氏かあるいは彦坐命の裔という日下部首というのがそうかも知れないが、根は水銀と結びついていて、ずいぶんと古い時代の伝説であろう。

 津軽小泊(北津軽郡小泊村)の尾崎神社の徐福神像は片目であるという(『京都北山を歩く』)。メッカチは目鍜冶のことであるらしく、金属精錬民の職業病のようなものである。徐福が水銀を求めていたということは十分に考えられることである。
「尾崎神社」

しかし私はもうとてもこれ以上は徐福にかかわっておれない、これから先はどなたかさらに研究を深めて下さるようどうかお願いをしたい。偽作だ、でっちあげだは勘弁して下さい。どうか郷土の伝承を大切に真摯に取り組んで下さい。
金峰神社(奈良県吉野郡吉野町)
   弥仙山(舞鶴市・綾部市)
   水銀辰砂辰砂奈良県産辰砂
   徐福渡来伝承の地
「丹後の伝説」 (徐福伝説をまとめておきました)

 彼らの集団を一応、イカリ−吉野−大和系集団と分類しておこう。

なお新井崎には舞鶴軍港の砲台があった。『伊根町誌』に、

 〈 新井崎砲台 昭和十年(一九三五)に舞鶴港の防備のため、砲四門が据えられ、弾薬庫も造られていたが、太平洋戦争後に撤去されてミカン畑にもなっていた。現在は畑地と一部は荒廃し、コンクリートの壕がなお残っている。(図略)。  〉 
女布:水銀地名


禰布神社(舞鶴市女布)

先の金峰神社には奥の院がある、それは禰布神社と呼ばれる。金峰神社の社殿の後にホコラが二つあるが、そのどちらかがこれであろうかと思う。これはルビがふれない、何と読むのかわからない。金峯神社(舞鶴市女布)
 『ふるさと女布』は、ニョフとルビをふっているが、漢字の「祢」は禰で、ネとよむのでニとは読まない。ひらかなの「ね」、カタカナの「ネ」もこの漢字がもとである。
ニなら邇か爾なのだが、時たまこれを間違えている古文書もある。だから禰布をネフと読んで、意味がわからなければ、ニフと読んでもいいであろう、仕方がないと思う。丹生郷の訓は邇布とか爾布とか書かれている。書き間違いで邇布神社なら、それは丹生神社である。ここが丹生の地であることを直接に証明する重大な神社になるが、なぜそれなら丹生とかかないのか。『加佐郡誌』のいうように、もし古代は「彌布」ならミフであったことになる。禰布神社と思われる祠の狛犬
兵庫県城崎郡日高町には、当社と同じ「禰布」という地名がある。但馬国分寺の近く、円山側左岸である。ここではこの字をニョウと呼んでいる。これだから地名はややこしい。一筋や二筋ではいかないやっかいな代物である。頼りない頭はいよいよ混乱してくる。
MとN。IとEが入れ替わりやすいのはどの言語でもいえることで、ニフがネフ・メフ・ミフ・ミブとなっても別に不思議ではない。ニフ→ニョウ→メフは十分ありえる転訛ではあるが、出雲風土記の売布神社を知って、『丹生の研究』は、そう断定するのをためらっている。
丹生関係の地名や神社名は変化が激しく、一瞬ためらわさせられる。

さて、混乱のついでに向日と大土神社。これらの神社は昔からこの名だったのだろうか。江戸期の文献には見えない社名である、明治期あたりにこの名に改称していないか。大土は丹後の他にもないことはないが、明治期の改称である。
『古事記』の大年神の末裔に大土神=土之御祖神が見えるが、それなのかどうかわからない。向日はない、白日の間違いか。
 大江町天田内の豊受神社(外宮)に、土之宮・風之宮が祀られているが、それと関係があるかも知れない。たぶん鍛冶関係の神様だろう。伊勢のどこかにも大土神社があったと記憶しているが、もう思い出す力もない。ツチは蛇かも知れない。
韓神からかみからかみからかみ 漢神とか曽富理そふりそふりそふり神とかは韓国の神であろう。波比岐はひきはひきはひき神は羽鞴はぶきはぶきはぶきで製鉄の神かも知れないと谷川健一氏は書いている(『青銅の神の足跡』補注)。女布から北へ引土ひきつちひきつちひきつちの地名がある。このヒキもあるいはフキかも知れない。土蜘匹女の匹もこれかも知れない。女布から東になる福来ふきふきふきは、絶対にこのフキだろう、福来にも徐福伝説が伝わる。
「丹後の伝説」

この禰布神社を祀る集団がむつかしい。こんな字をわざわざ書くからには丹生氏以外の集団による開発になるのだろうか。物部系集団と一応分類しておこう。一応というのは、吉田東伍博士の説に従ってという事で、私は竹野郡の伝承から天乃日矛系ではなかろうかなどとと考えている。後にもう一度分析してみますので、それまで待って下さい。
「女布・売布の地名(全国)」 「女布神社」(竹野郡式内社)

女布:水銀地名

(4)真言宗のお寺がたくさんあった

真言宗の本山、高野山は全山水銀鉱床であるという。コウヤサンではなく、タカノヤマと本来は呼ぶのであろうが、空海以前から朱の大産地・大聖地であったそうである。

 丹後には古来より七仏薬師信仰と呼ばれるものがあって、この関係の寺院が古い縁起をもつ。私はこれが金属採掘の集団、あるいは何か水銀や金属に関係があるのではないか、絶対そうに違いないと探っている。下心をいえば笠評君と法隆寺を何とかつなげたい。しかし、お寺には弱いので、現在のところはまだまだ書くほどのものにはなっていない。
 私の力に余る問題なので、簡単にどんな寺院が、この周辺にあるかだけを書き上げておく。ちょっと有りすぎるのでないかと思えるほどにある。

金峰山菩提寺(舞鶴市女布)


金峯神社への登口に金峯山菩提寺の跡地がある。写真の樅の巨木の向こう側である。これは丹生系・紀州系のニフ集団の人たちの菩提寺だろうか。それとも吉野系の人びとの菩提寺だったのだろうか。たぶん後者だろう。モミの巨木(舞鶴女布)
『丹後国加佐郡寺社町在旧起 上』に、

 〈 女布村 金峯山菩提寺は真言宗田辺円隆寺末寺なり、開基退転故時代知れず、本尊薬師、行基の作。  〉 
『旧語集』は、元来天台宗也としている。ここに天台宗は関係ないと思うが、そう書かれている。
現在は廃寺で存在しないのだが、集落の南端にある大きな樅木の根本に薬師堂があり、その左側の広場が跡地だという。金峰神社はこの樅木から登る。
『ふるさと女布』は、

 〈 金峰山菩提寺(法光院)
 真言宗(円隆寺智恩院末寺)
本尊 薬師如来(伝・行基作)
開山 行基菩薩
巡礼歌 第十二番
 み吉野の外に一つの金峰山  雪ちる春を花かとそ思ふ
略縁起
 金峰山菩提寺は天平年間(729-750)行基菩薩の創建との言い伝えがある。元来天台宗であったが、その後、山伏持ちとなり、建武二年(1335)観覚法印が真言宗法光院を基立したと伝えられる。その後、堂宇が荒廃したので、ときの将軍足利尊氏が堂宇を建立したと伝えられるが、元禄三年(1690)火災に罹り全焼した。この時、本尊の薬師如来と後光の五如来を搬出したので、今に残っているという。翌年元禄四年、中興の開基印算法印が厨と方丈を再建した。明治の代に至り、檀家無き寺は廃寺にするようとの達しがあり、村人達はこの由緒ある寺をなんとか存続させたいと種々陳情した結果、廃寺は免れたが、その後無住となり、建物も老朽化して維持困難となったので、昭和二十七年解体し、薬師堂を建立、現在に至っている。
境内 百六拾九坪
鎮守社 金峰神社(天平年間行基菩薩勧請と云伝)
耕地 四畝三歩(大谷)
山林 九反壱畝拾歩(大谷、桂ケ谷)
宅地 壱畝弐拾歩(大谷)  〉 
女布:水銀地名


慈慧山円隆寺(舞鶴市引土)
円隆寺多宝塔(舞鶴市引土)

円隆寺もこの観点から再検討されねばならない。ここも元は天台宗であったという。先の金峯山菩提寺の本寺である。このお寺の北隣に現在は朝代神社が鎮座している。




西紫雲山満願寺(舞鶴市万願寺)
満願寺(舞鶴市万願寺)
現地の案内に、

 〈 満願寺
 鎌倉時代初期、建保六年釈弁円上人によって創建された約八百年の古刹、往昔は、七堂伽藍で荘厳を極め多くの塔中僧坊を重ね、さなかせら補陀落浄土を出現したと伝えられている。
 観音大士が京洛の西方此の地に人々を救う為現われて紫雲たなびいたので「西紫雲山」と名付け弁円上人の心願満つるが故に寺を「満願」と号した。又、万人の願いを聞き届けて下さる寺として字合格おめでとう。「万願寺」とした。
永禄年中(室町時代)野火で堂宇悉く焼失したが寛文年中(江戸前期)本寺円隆の院主、宥宣大僧都によって中興された。現在の本堂は、明和四年(江戸中期)に改築されたものである。
 本尊十一面観世音菩薩座像は諸願とくに眼病に霊験あらたかな、み仏として広く近在の崇敬を集めてきた。三十三年目毎に開扉される秘仏である。堂内の、本尊ならびに守護仏・不動明王立像、毘沙門天像の三躰は創建時作、いずれも市指定文化財である。
平成十四年壬午年(二〇〇二)九月二十八日
御開扉記念
真言宗御室派 西紫雲山 不動院 満願寺
正親町天皇勅願寺
国西国観音霊場札所第三十三番満願結願所  〉 


水清山仁寿寺(舞鶴市境谷)
案内板













大光寺・日光寺(廃寺)(舞鶴市福来)
これらの廃寺は細川忠興創建の現在の大泉寺(舞鶴市倉谷・臨済宗)の前身であるとも言われる。『舞鶴市民新聞』に、大泉寺の案内(クリックして下さい)

 〈 *松本節子の舞鶴・文化財めぐり(108*
大泉寺「薬師伝説めぐり」
日光寺に発する興味深い開創伝説
一帯に色濃く残る村の歴史

 大泉寺は、慶長二年(一五九七)に、細川忠興によって禅宗臨済の寺として寺基をととのえるまで、どんな寺であったかを伝える確かな記録はのこっていませんが、興味深い開創伝説が、地域に語り伝えられてきました。
 時はいつのころかさだかではありませんが、天清川の北、福来・上安間の山塊、天王山の台地にその名をのこす「大光寺」という寺が、大泉寺の前身といわれ、また、はるか昔にその寺は、福来南の山地中腹の「ダン」とよばれる地にあった「日光寺」という寺であったと伝えます。
 このように、この地域には、口伝えによる伝承がいくつかありますが、この日光寺が、七仏薬師の寺であるという伝承を、はじめて文章化したのは、大泉寺七世の梅珪(ばいけい)和尚で、江戸時代中期のことです。
 現在、福来の八幡神社境内にある福来薬師堂の薬師如来由来書の原本は、今も尾崎家に伝わる梅珪和尚の手になるもので、正徳五年(一七一五)に書かれています。
七堂伽藍誇った薬師の霊場
 「夫丹之後州伽佐郡大内庄福来村薬師如来者同国高野郡斎大明神造立七佛安置于国中七箇寺則其一寺一尊也云」薬師堂(舞鶴市福来)
 丹後の国の加佐郡大内庄福来村の薬師如来は、昔、丹後の国の七ヵ寺に安置された七仏薬師のうちのひとつであるといわれている、と記し、そのあとに、薬師如来を祀った丹後の七ヵ寺を記しています( 第一に義郡加悦庄滝村の施薬寺、第二に加佐郡河守庄清薗等、第三は竹野郡宇川庄願興寺、第四は同郡同庄吉永村神宮寺、第五は同郡溝谷庄等楽寺村等楽寺、第六加佐郡大内庄福来村日光寺、第七同郡白久庄多禰寺村多補寺。そして、
 「日光春者(は)昔七堂伽藍而(として)如来の霊験益(ますます)新(あらた)也」と記します。
 こうして、この地に建てられ七堂伽藍を誇った薬師の霊場も、そののち、国内が乱れるにつれ戦火にまみれ、すたれてしまいました。
 時は流れ、正徳五年の秋のある日、福来村の人、安久平左衛門(現尾崎家の先祖)が、山中から薬師の尊像をみつけ出し、二間四面の草堂をたてて祀ったといいます。
大泉寺の寺基は遠く七、八世紀
 七仏薬師の信仰が、奈良時代の鎮護国家の祈願に始まるものとされることから、大泉寺の寺基は、遠く七・八世紀にまでさかのぽることになります。
 かつて、大泉寺の信仰域であったとされる清道、天台、福来、倉谷は、そのどこをとっても古代につながる伝承をもち、それぞれに六・七世紀にかけての古墳をもつ地域でもあります。また、小字地名に、古代の条里制にかかわる「坪(つぽ)」のつく地名が多いことなどから、古く開かれた土地であったとみられます。
 このことから、古代寺院の存在の可能性はあり、「ダン」の地に、薬師信仰の寺があったとしても不思議ではありません。
 大泉寺の開創伝説にかかわる地、日光寺のあった南の山、また通称「元薬師」の地、現在の薬師堂、大光寺のあった北の山などを歩いてみました。…

女布:水銀地名

(5)大日だいにちだいにちだいにち山(舞鶴市女布)

山と呼ぶより岡の方がいいような場所である。大日山と呼ぶ。『ふるさと女布』は、

 〈 大日・大日ノ下
 地籍は主として横波で大日山の南側の田畑を言う。寺院に関する地名か、むかし寺があったとか。昭和初期、大日山頂に高野村忠魂碑を建設した際、壷および鉄剣の一部が出土している。一説には古墳との見方もあって、この清浄の地に牛をつないではいけないと言う伝えがある。なお明治の末ごろ、共同事業として山を開削し、桃および柿を栽培したが、病虫害甚しきため不成功に終ったようである。  〉 
女布遺跡を見下ろす絶景の地である。千石山から東へ低い支脈が延びる、その先端部である。忠魂碑が建てられているのが下からも見えるが、ここが女布大日山古墳。
たぶん大日如来を本尊とする、真言宗系の大日寺があったのであろうか。現在「城南会館」という大きな集会所が建設された。
 大日如来

あるいは真言宗以前からの太陽神祭祀の場所であったかも知れない。位置的にはこの方がいいように思える。
女布:水銀地名


手力雄たぢからおたぢからおたぢからお神社
(舞鶴市京田大嶋)と幸谷こうだにこうだにこうだに京田きょうだきょうだきょうだの地名

 女布の東隣が京田である。その京田集落の一番の谷奥の西隅に鎮座している。これがまた水銀と関係深いやしろである。手力雄神社(幸谷神社)である。『ふるさとのやしろ』が面白い、
幸谷神社(舞鶴市京田)
 〈 京田の村の西端にある幸谷神社は、『丹哥府志』には「手力雄」大明神として載っている。室町時代の寛正六年(一四六五)に領主長尾重速の嫡子、小法師丸を願主として再建された記録や、その後の数枚の棟札が残っているが、いつの再建か、またなぜ手力雄神を祭っているのかを知っている人には、めぐり会えなかった。
 手力雄神(古事記では手力男神)は、昔の小学校国史で肇国神話を習った世代には、なじみ深い神様である。古事記には、この神は、「佐那の県にいます」とあり、今も伊勢の五十鈴川の上流に佐那神社がある。
 丹後地方では、大江町の元伊勢、皇大神社境内に「天手力雄神社」があるが、村の鎮守様に、この神を祭るところは珍しい。幸谷神社の東南約一キロの十倉の山崎神社は「一の宮」といい、天照大神の荒御魂をまつっているが、あるいは両社に関係があるのかも知れない。
 明治三十九年には、中筋村村社に昇格した。社殿の中には大正十三年、海軍からもらった砲弾が飾られているが、これも力強い神にあやかったものだろう。戦争中には、武運長久を祈る人達のお参りが多かったが、今は五穀豊穣の神としている。境内の山すそをシロサカといい、サカモモの木の下に千両箱が埋もれているという伝承もあり、山城跡でないかとの説もある。  〉 
九社の一で、残欠に手力雄社、「神名帳」に、正一位田力男明神とある。当時は大川神社と並ぶ大社であったことがわかる。現在は幸谷神社と呼ばれている。
『ふるさとのやしろ』が書くとおりに、『古事記』天孫降臨の段には、座佐那那縣也とある。瓊瓊杵の伴をして久士布流多気に一緒に降りてくる。
『先代旧事本紀』にも、手力雄神、此者佐那之県に坐なり。とある。大江町皇太神社の手力雄神社


なお、「神名帳」の正一位田力男明神を大江町内宮の元伊勢内宮(皇太神社)本殿右側に祀られる手力男社に比定する説もある(右上の写真)。内宮と呼ばれる以前は手力雄神社と呼ばれたとするのである(籠神社の『元初の最高神と大和朝廷の元始』)。しかし残欠の列記の流れからすれば、やはりここ京田の当社を比定せざるを得ない。
 ほかに丹後で手力雄神を祀る神社は、大江町内宮のすぐ下にある天岩戸神社と宮津市波路はじはじはじ鍵守かぎもりかぎもりかぎもり神社(右下の写真。社の右手に大きな岩があるのが見えるだろうか)のみである。どちらも境内に大岩があり、その連想でこの祭神にしたのではないかといわれている。鍵守神社(宮津市波路)
京田にはそんな岩は見当たらず、あるいは太古からの祭神なのではなかろうかと思われる。鍵守はたぶんカグ守であろうか。銅の守護神を祀るのではなかろうか。籠守は河守ともなるようである。
 元伊勢内宮(皇太神社)(加佐郡大江町内宮)

『青銅の神の足跡』に、

 〈 佐那は伊勢の多気郡多気町にある。…『地名辞書』は佐那について「相可村の南、度会外城田村の西北にして西は丹生村に接」すると説明している。この外城田というのは、五百木部浄人の家があった場所であって伊福部氏の有縁の地である。また丹生は有名な伊勢白粉の原料である辰砂の産地である。こうした鉱山や金属精錬の氏族にかこまれている佐那は、その地名からして、さなぎと関連をもっている。この地には佐那県主の祖の曙立王を祀る式内社の佐那(郡)神社がある。土俗、大森社という。穴師神社に穴師寺もまたこの地にあるところをみれば、いっそう丹生鉱山との関係が推察される。丹生にみならず佐那からも水銀が採れた。その廃鉱のあとが今にのこっている。  〉 
「さなぎ」とあるのは銅鐸のこと。佐那は伊勢では最も早く登場する地名という。式内社・佐那神社(二座)は同町の仁田に鎮座。JRのさな駅・佐那小学校がある。ここが当社の古里である。千何百年の眠れる森の獅子である。水銀や銅の関係の伊勢系の集団である。
シロサカというのは白雲城への大手だったのだろうか。黄金埋蔵伝説の地は何か金属採掘の過去があったような所にあると私は感じているが、それはその筋の研究者に分析願うより仕方がない。千両箱が埋まっているというのだから金も採れたのかも知れない。ずっと後の中世の山城の城主もやはりここの水銀などの金属は重視していたのではなかろうか。
佐那神社(三重県多気郡多気町・式内社)(適当なものがありません)
『丹生の研究』に、

 〈 伊勢水銀の産地は今の多気郡勢和町の丹生にうにうにうすなわち旧の飯高郡丹生村である。ここには丹生水銀鉱山が経営され、隣村の佐奈にも水銀鉱山の旧坑が残っている。  〉 
『白鳥伝説』はさらに重大な発言をする、

 〈 ホムツワケ(ホムチワケ)の出生の物語は金属精錬の実態をそのままなぞっているのである。この物語はホムツ部の置かれた伊勢の佐那から起こったと私は考えているのである。そこは古代から近世にいたるまで日本の水銀製造の中心となってきたところで、水銀中毒による犠牲者が少なくなかった。ホムツワケが物を言わない原因は、水銀中毒で喉をおこされたことを暗示している。また物言わなぬ皇子が物を言うようになったのは、鍛冶氏族のもっとも尊崇する神が白鳥だったからにほかならない。  〉 
『古事記』の口のきけない本牟智和気ほむちわけほむちわけほむちわけの御子の物語によく似た話を、後にこの地の口碑に探ってみよう。この地がまさしく佐那だと納得されると思う。
『書紀』に活目入彦五十狭茅尊、一つ目の垂仁天皇、たいへん面白いが、本牟智和気を育てる後妻が、丹波の四女王である。これはいつかもう少し研究してみていい課題であろう。
地名の京田は、興田(慶長郷村帳)とも記される、コウ谷があるから、コウ田というのが本来でないかと思える。西隣する旧高野村の高はあるいはコウと読むのかもわらず、これはどうしても解明したい地名ではある。この地名はあちこちに見られるが、意味は今だ絞り込めない。わからない。
参考までに、中世に同じ「興田」と書かれるのは船井郡八木町の神田こうだこうだこうだである。園部川の近くである。
京田辺市に興戸こうどこうどこうどの地名がある。興戸に北接するのが田辺、南接するのが多々羅たたらたたらたたらである。何か当地によく似ていて、この興戸が解明できれば京田も解明できるだろう。興戸も興田も同じ意味だと思う。昔からの他力本願でマークしている所である。この辺りなら郷土の研究も進んでいるのでないか、どうか解明していてくれと祈りながら、HPを探してみた。
コードについて『地名の研究』は河渡、家々に近い洗い場、とにかく交通の衢のこととしている。案外にこんなところが正解かもわからない。
神功伝説の里−興戸−

ついでにつまらぬ話をすれば、「興」という地名は福知山市にある。オキと読む。この興は日置ひおきひおきひおきのオキだと私はかつてから言っている(『丹波文庫』に書いたら澤潔氏の賛同を得た『西丹波秘境の旅』かもがわ出版)。
さて、『稚狭考』1767に、
 〈 丹後田辺にてひをきむらあり、宮津にてひやうき村あり、本は此地(大飯郡高浜町日置−引用者注)へき村と号す、転音なり。  〉 
とある。これは小浜市の町学者の書であるが、田辺のひをきむら(日置村)を書いている。同時代の地元の書にはまったく見えないし、田辺に日置があったなどといった事はどんな書にもない、これは『稚狭考』の記憶違いではないかとも思えるのだが、宮津の「ひやうき」は浦島さんの古里であり、この地とは朱で結びついていた。もし『稚狭考』の記憶違いでなければ、ここは田辺の日置村であるかも知れない。


『古事記』によれば、佐那造さなのみやつこさなのみやつこさなのみやつこ日子坐王ひこいますおうひこいますおうひこいますおうの孫にあたる曙立王あけたつおうあけたつおうあけたつおうの子孫という。

このあたりの一帯は本当にどうなっているのだろう、万国博でもあったのか。こんなにこの種の集団が全国から集中する地は他には見られない。
 伊勢水銀のHP
女布:水銀地名


正勝まさかつまさかつまさかつ神社(舞鶴市京田大角)
 さあもう何でも出てこいという気持ちになるが、京田には正勝神社も鎮座する。今度は播磨−但馬系集団の登場であるらしい。近江−和邇系もすこし顔を出す。いよいよただごとではない。『ふるさと女布』は、

 〈 当勝神社祭(九月十日)
 空山の入会権について真倉と、京田、七日市、公文名、女布が争った時期があり、その争いに勝つようにと、京田の善福寺の山上にある当勝神社に祈願したと伝えられている。
 何時ごろから始まったか知らぬが、当勝神社へ九月十日の朝、各字より掃除に行き、午後、京田、七日市、公文名、女布の人達が集まりお祭を行った。女布よりは当日の午後、日役が敷物や酒肴を運び、みんながお参りしてこども相撲も行われ、賑やかな祭りであったという。
 昭和の初期から各字毎にお祭りをするようになった。女布は日原神社の境内に当勝さんをお祀りしていたので、それからは日原神社で当勝神社のお祭りも行うようになった。
 なお、毎年、但馬の当勝神社へ代参でお参りし、お札を頂いて帰り、小宮さんの当勝神社へ納めている。  〉 
同書によれば、女布では現在も正勝代参は厳守されているという。當勝神社(九重神社境内)當勝神社(九重神社境内社)

京田、十倉、公文名、女布と、京田近隣のあちこちに祀られているが、元は白雲山の古墳を境内に抱える神社であるらしい。(写真は七日市・九重神社の境内社)この神社の起源は古墳時代に遡ることになろう。発掘調査をまとう。さて白雲山を探すのだがこの社が見つからない。大きな山でもないのに見つからない。一体この神社はどこにあるのだろう。
善福寺の上の白雲山尾根筋は現在は墓地になっており、新しいお墓がたくさん作られている。その墓地の中、尾根上に5メートルばかりの丸い空き地があったが、あれがそうだったのだろうか。當勝神社(京田)


右は京田の當勝神社。この神社の下には立派なお家がある。旧中筋村の村長さんお家だそうであるが、そこの娘さんが教えて下さった。どう書けばいいのか位置はN35°25′25.8″E135°19′37.8″(誤差3M)。幸谷神社の東側、この谷の入口、白雲山山上ではなく高田さんとおっしゃる元村長さんのお家から石段がついていて少し登ったところにある。鳥居前が少し広くなっていてここで昔は子供相撲が行われたそうである。白雲山から東側をのぞむ(赤い屋根は善福寺)
サカキ・サカモギの木の下に千両箱が埋まっているとトクと教えられながら大きくなったのだそう、こちらには現在は住んではおられないそうで、帰ってきた時は根掘り葉掘り昔のことを聞いております。とのことであった。我々の世代は自分が大きくなったふるさとの事は案外に知らない。目の前にあるものすら知らない。
ある日、ふと本を読んでふるさとの事が書かれてあるのを知り、こんなことすら知らなかったのかと己の無知さかげんに愕然とする。こんなことでは身につけたはずのほかの知識もかなりあやしいぞと足元から揺れる。大きなめまいにおそわれる。ふるさとにはそうした力もある。
郷土に対する無知無関心これは当世代だけの責任ではなかろうが、早急に克服したい課題である。

本社は兵庫県朝来郡山東町粟鹿の當勝まさかつまさかつまさかつ神社である(写真下)。但馬一宮であった名神大社・粟鹿あわがあわがあわが神社の南側、丹波但馬の国境で丹波では最高峰になる粟鹿山(962メートル)の麓に鎮座する。当勝神社(朝来郡山東町)


 産鉄系の社と思われる。マサはマサゴのマサで、特に品質の良い砂鉄が真砂(まさ)と呼ばれる。
勝はカチと読み鍜冶のことなのかも知れない。
この神社に奉納された石の鳥居には舞鶴繁栄会とか書かれた物があった、意外に舞鶴とは関係深い社かも知れない。また鍜冶誰兵衛とか奉納の石燈籠などもある。鍜冶師の神様なのではなかろうか。

日子坐王終焉の地、日下部宿祢の神社。丹後とは関係深い西隣の但馬国の神天目一箇神社(藤社神社)、しかし丹後で祀られている當勝神社は、現在はなぜかほかにはない。唯一この地から西へ真壁峠を越えた久田美くたみくたみくたみの熊野神社の境内社に政勝神社があるのみ。祭日は9月18日、これはラッキー、よく保存していてくれたものです。熊野神社(舞鶴市久田美)
諸書で取り上げられることの多い中郡峰山町鱒留ますどめますどめますどめ天目一箇あめのまひとつあめのまひとつあめのまひとつ神を祀る藤社ふじこそふじこそふじこそ神社(右の写真。藤社神社の境内社に天目一社がある)の祭日と同じ。やはりにらんだとおりの金属系の氏族。粟鹿神社も大江山麓の大江町北原に粟賀神社があるのみである。ここは北原遺跡がと呼ばれる多量の鉄滓の分布する遺跡がある。
有名な生野銀山の麓に鎮座ある當勝神社は、恐らく名神大社の粟鹿神社や夜夫神社・水谷神社の系統でないかと考えられるが今手元に資料がない。
       當勝神社(兵庫県朝来郡山東町粟鹿)のHP 
             粟鹿神社(同町粟鹿)のHP  
             「伝説の大江山」(平家の落人が開いたと伝える北原(奥北原)へ通じています。その途中、木地屋(きじや)集落の跡や、多量の鉄滓(タタラで鉄をふいた残りかす)の散布している北原遺跡があります。昔、ここでタタラを吹いていたのでしょう。このあたり大江山系で最も深い谷、幽すいな感じのするところです。地元の人々は、この谷を魔谷と呼んでいます。の記事があるが、北原の粟賀神社は現在はどこかへ合祀されたかないようである。)


粟鹿神社については
『角川地名辞書』に、

 〈 粟鹿神社<山東町>
朝来郡山東町粟鹿にある神社。延喜式内社。旧県社。祭神は彦火火出見尊とも、四道将軍の一人丹波道主に任ぜられた日子坐王ともいう。また粟鹿大明神元記によれば大国主命の子天美佐利命を合祀するという。社蔵の田道間国造日下部足尼家譜大綱によると、日下部氏が但馬国造に任ぜられたとあり、その祖が日子坐王である。大国主命を祖とする神直が粟鹿大神の祭祀をつかさどり、また但馬国造に定められたという(粟鹿大明神元記)。天平9年の「但馬国正税帳」に「粟鹿神戸租代六十六束二把」「粟鹿神戸調I二匹四丈五尺直稲百六十五束」と見え(寧楽文)、大同元年の神事諸家封戸にも「粟鹿神二戸」とある(新抄挌勅符抄)。貞観16年3月に正5位下を授けられたが、これには「禾鹿神」と記す(三代実録)。「延喜式」神名帳には但馬国朝来郡九座のうちで、「粟鹿神社〈名神大〉」とある。弘安8年の但馬国大田文には当国二宮で、定田は52町小45歩(鎌遺15774)。しかし、南北朝期の「大日本国一宮記」や室町期の「延喜式」神名帳頭注には、一宮で上社は彦火火出見、中社は籠神、下社は玉依媛(豊玉媛)という(群書2)。天正年間に豊臣秀吉に社領を没収されたが、慶安2年に粟鹿村内で朱印地32石を与えられた。境内には17世紀頃と推定される勅使門(市文化財)がある。例祭は10月17日。瓶子渡しという特殊神事がある。本殿の背後には円形の塚があり、日子坐王の墓と伝える。  〉 

女布:水銀地名

高野と野村寺・ワサの地名・由里の地名

女布も含めて、千石山麓の高野由里たかのゆりたかのゆりたかのゆり野村寺のむらじのむらじのむらじ城屋じょうやじょうやじょうやの地域は加佐郡高野たかのたかのたかの村であった。
なぜ高野という地名があるのかはわかっていない。高野山金剛峰寺の高野ではないかともいわれているし、一般にはあり得ることだし、昔はコウヤと呼んだという話も聞いた覚えがあるが、本当にそうだったか確認はとれない。高野がその表記に使われた漢字の意味通りなのか、あるいは違うのか私もわからない。資料がなく、誰をも納得させられる話は書けそうにない。一般的な話とするなら、古代の鉄などに興味がある人ならタカとあれば鉄と見るのではなかろうか。

 『日本国家の成立と諸氏族』所収の「勘注系図」によれば、十七世孫丹波国造明国彦命の注文に「葬加佐郡田造郷高野丸子山」と記しているそうである。ここに高野の地名が見える。丸子山古墳は野村寺にある。勘注系図のこの墓所の書き入れはいつの時代のものであろうか。私にわかるわけもない話である。日本最古といわれる本系図は貞観六年までは記録されているので、勘注系図も仮に貞観年中の作としてもこれでも判断できない。
高野丸子山古墳に葬られた十七世孫丹波国造明国彦命は高野の人であろう。古墳の学術調査はされていない。明国はアカクニと読むのだろう、だから赤国彦と書いても同じである。ここは赤い国であったと勘注系図もやはり記録するのである。
高野山麓の丹生氏など援助により、空海が金剛峰寺を建立していくのは、これより40年ばかり早いからである。高野のどこかに高野明神がどこから祀られていたかも知れない。それはあり得ることではある。たとえば青葉山の南麓に高野(大飯郡高浜町)という地名がある、文字通りに高い野という場所で、紀州の高野山とは何も関係がないと私は考えていたのであったが、やはり高野山との関係が伝説として残る地だそうである。
「幻の大寺・一乗寺」
野村寺は野村路とも書かれ、野村寺というお寺があったわけではない。なぜ野村なのかわかっていない。伊根町の野村と同じ地名であり、あるいは丹村ではないかとも考えられる。あるいは単なる野という地名だったかもわからない。この野に美称の高を付けて高野と呼んだかも知れない。これも資料なく憶測しか書けない。
城屋には和佐谷さんというお宅がいくらかある。愚妻もここの和佐谷なのだが、このワサという名が昔から気になっていた。たぶんこの辺りの地名から発生したうじ名だと思うが、何の事かと問うとワサビが採れた谷だという。そんなバカなことではあるまいと考えるのだが、紀州にも和佐という地名があり、赤ヤケした土地に和佐水銀鉱山跡があることを『丹生の地名』は触れている、元は丹生村だったという。どうも朱に関係ありそうな場所である。ワサ・アサ・カサと丹は何か関係ありそうに思える。
早稲谷と書いてワサタニに読む隣町所(綾部市故屋岡町八代の小字)や、若狭には和佐谷という谷が幾つかある。柳田国男をワサとは輪のこと、ワッカとかワッパとかとこの辺りでは呼ぶが、その輪のことだと書いている。紀州の和佐鉱山の土蜘蛛退治の伝説も紹介している。阿波国那賀郡和射わさわさわさ郷(徳島県海部郡日和佐町)に式内社・和射神社がある。私・辺・愛宕などはワと呼んだりアと呼んだりする。アとワはあまり区別がないようで、案外にアサ谷かも知れない。
高野の入り口というか一番東に向いて谷口に位置しているのが由里ゆりゆりゆり村である。ユリという地名はたくさん見られるのだが、何のことかはわかっていない。
私はフル(村)の転訛かと考えていたのだが、これは丹波大県主の油碁理のコの脱落だという説がある。最近出てきたようである、私は初めて知った。すごい説だ。当たっているなら天才だこれは。全文を引かせてもらった。「丹後の伝説4」
そうかも知れない、そうならピタットと合う。ただユリという地名は小地名でもやたらに多い。京都府全体ならちらっと先頭一致で調べただけでも200は確実にある。恐らくもっともっと多いだろう、たぶん何百とある、千箇所ばかりはあるだろう。それらをひとつひとつ当たってみるわけにもいかないし、「岼」と和製漢字で書く所もある、これなら山地の平らな所というような意味かも知れない。もっともさらにタイラはタタラでないのかと疑えばいよいよわからなくなるが、はたして全部が油碁理かはわからないが、これは面白い説である。
女布:水銀地名


城屋の雨引神社と揚松明神事と大蛇退治伝説 

 千石山の北西麓に雨引あまびきあまびきあまびき神社(舞鶴市城屋じょうやじょうやじょうや小字キノフ)が鎮座する。無形文化財の勇壮な揚松明あげたいまつあげたいまつあげたいまつ神事(8月14日)で有名な社であり、舞鶴の人なら知らない者はない。
普通は蛇神サンと呼ばれ、雨引のほか、天曳、天引などとも書く。祭神は水分神である。雨引神社(舞鶴市城屋)
『舞鶴市史』

 〈 雨引神社 神社の祭礼で催される神賑のほかに、特殊な神事を伴う場合がある。城屋の雨引神社には、場松明で名のある卜占神事が特殊神事として継承されてきている。社名は「天曳」(旧語集)「天引」(丹後旧事記)とも表記していた。祭神は社名が象徴するように農耕水利を司る水分神である。この場松明は「旧語集」に「大松明ノ祭 珍鋪祭ニテ年の豊凶を試」(城屋村の項)すとあり、早くからその名があがっていた。
 場松明の起源については二説あるが、一般に流布されているのは大蛇退治説であり、他は雨乞い説である。因みに雨乞い説については、明治三十九年の「神社明細書」に天保のころを起源としている。同種の神事は小倉に近年まで継承されていたほか、京都市左京区花脊広河原地区などでも継承されていて、揚げ松、松上げ、柱松と称して盆の精霊火の一つであるともいわれている(民俗学辞典)。
 同社の社頭を流れる高野川の上流を日浦ヶ谷に入ると、大蛇退治で有名な森脇宗坡(巴)が弘治年間(一五五五−一五五八)に娘の仇を討つために騎乗した馬が残したと伝承される馬蹄の跡と称するものを、岩の窪みに見ることができる。この岩は影向石と同じであり、神の憑り代で、恐らく雨引神社の原型をなしたものではなかったかと考えられる。伝承に従えば、娘を呑んだ大蛇を討ったあと、これを三断にして頭部を肥ったのが城屋の雨引、胴部は野村寺の中ノ森、尾部は高野由里の尾の森の各神社となったといわれる。
 場松明はこの大蛇の供養、または大蛇の物凄さを象徴したものとされるが、この起源説は場松明に付会したものと思われる。
 一方、雨乞い説は、旱天が続き農民が困窮していたところ「一偉人(中略)辛シテー神池ヲ発見ス 又神ノ告ヲ得テー松明ヲ点シ大ニ神ヲ祭り以テ雨ヲ祈ル 是ヨリ風雨順ニ五穀豊熟ス 村民依テ其神霊ヲ祭リシト云フ」(各神社明細書)とあり、これが起源説となっている。なお雨乞いのために火を焚く習俗は全国各地に見られる。
 大蛇退治と類似の伝承は全国に分布しているが、当市では布敷の池姫神社の創祁、与保呂の日尾神社にまつわる蛇切石の伝承、地理的には二社の中間に位する上根の船繋岩の伝承などがある。これらの伝承は大蛇(竜)がモチーフになっていて、大蛇の威を鎮めることにより農耕が進捗する様子を伝えている。そして、ともに岩が大きな役割を果たしていることが注目される。
 先の雨引神社の祭神は水分神といい、非人格神の性格が強く、池姫神社は市杵比売命とするが、「旧名千滝雨引神と号之(中略)祭神は竜神」(加佐郡誌)とし、「丹哥府志」(布鋪村の項)にも同様のことを伝えている。この神もまた明治以前には固有の名を持たなかったと考えられる。そして伝承内容はやはり雨水に関係している。  〉 
雨引神社(今日は揚松明の日)
鎮座地のキノフという地名は何のことだろうか。まさか「昨日キノフキノフキノフの花は、今日ケフケフケフの夢」の昨日ではなかろう。昨日・今日・明日といってもなぜそういうのかはわかっていない。頼りない話である。

 このキノフはわからない、全国に類例がない。全国にただ一つという地名は解明できない。あれこれ想像はできるが、それが正しい解釈か普遍性妥当性があるかと問われても確認の方法がない。雨引神社
鎮座地の小字名は大変に重要で、その神社を知る上で欠かせない要素である。確実な証拠というものが、もしあればそれなら誰でも正しいことがいえる。誰でもわかる事を郷土史家がわざわざ書くことはない。確実な証拠がないから言えないというなら、永遠の謎においておかねばならない。「私はイラクへ石油を盗みに行きますのやで」とはどんなバカでも言わない。明確な証拠はないのである。情報過多と言われる同時代史を読み解こうとする学者ですら、明確な証拠はないのである。ましてや遠い誰も知らない過去のことである。明確な資料などはあることはきわめてまれである。確実な証拠が見つかるまでは何も言えないというのなら、郷土史家は何も仕事ができないことになる。雨引神社参道に立ち並ぶ幟
確実な証拠なしで、もっともここならまったくの証拠なしで、その土地に刻まれた、地名を歴史を解明しなければならないわけである。郷土史家たろうとする者の本当の力が試される、その現場とはこんな所である。己が無知で無力なのを味わいながら、愚かな推論を組み上げ、模索して、また組み上げ、また潰すことを重ねて行くより道はない。しかしどうあがいても己が甲斐性相応な答えしかないのである。勉強し研究して己が力を磨くより打開の道はない。大蛇の村にしては蛇つくりのウデがも一つのようで…
何度も何度もそれを繰り返しているのである。たくさん繰り返す者がより正しい解釈にたどりつくように私は思っている。暗号解読用のコンピューターと原理は同じであるが、都合の悪いことに、人間の場合は演算途中で主観が割り込みをかける。これは好きだ嫌いだである。この好みは個人のものというより社会的に作られたものである場合が多い。たとえばはっきり言って、中国は好きだが朝鮮はいやだ、どうも朝鮮らしいとなるともう演算ヤメとなってしまうことが多いのではなかろうか。こうした主観、知らず知らずのうちに社会的に作られている己が主観のゆがみを補正する回路がその個人にそなわっているかどうかで、だいぶに郷土史はちがったものに見えてくるだろう。
中世のあるいは山城関係の地名ではなかろうか。山城専門家の故岡野氏が何かこのキノフや城屋の地名について触れてはいないだろうかと、手元のわずかな資料を読み返してみたが、見あたらない。
辺(家・戸)ならわかる。柵は山城のことで千石山には山城があった、周辺の山々にもあったようである。柵の辺とか家・戸とかを指すのではないかとも思うが、この解釈は自信はない。陽明校跡地(城屋キノフ)
 明治11年編という『京都府地誌』によれば、城屋の小学校(陽明校)が「喜野尾」にあったという、ここは現在の小字キノフのことである。雨引神社から北へ百メートルばかり行った府道沿いに記念碑(写真)がある。喜野尾ならノ尾のことであろう。山城のあった尾根を指していると思われる。キノオ→キノウ、現代仮名遣いではキノウだが、歴史的仮名遣いでキノフと表記したのかもわからない。意外に最近に起きた変化なのかも知れない。雨引神社の裏山に柵・城があったという現地調査は現在のところはまったくないようである。こんな証拠地名があるのに気が付かないのであろうか。誰か登られるといいであろう。頂上まではいかなくてもいい、千石山から伸びてきた支脈の人工によって平に削られたように感じられる少し広い所が城跡である。下からだいたいの見当がつくような場所にあると思われる。この山は愛宕神社があって今は愛宕山と呼ばれている。柵の尾(?)を見上げる・雨引神社参道から。
東舞鶴にある木ノ下とか殿の地名は、山城に関係する地名である。柵ノ下であろうし、殿はその山城のお殿様が住んでいた所である。
城屋という地名も、こうした地名だろうか。城屋じょうやじょうやじょうやと音で読むのも類例がない珍しい地名である。 恐らくシロヤと本来は読むのであろうかと思う。白屋しろやしろやしろやと書く場合が多いようで、朝来にも白屋がある、今の国立工専のある谷が白屋であるし、志楽の鹿原の金剛院への入り口に小字白屋がある。田辺藩内にシロヤが二つもあると紛らわしいとかいう理由で、こちらはジョウヤと呼ぶようになったかも知れない。若狭にも白屋がけっこう見られる。たいていは峠の麓の峠口のかなりの軍事的要衝のような場所で、陣屋とかいう地名と同じ城屋敷のことなのかも知れない。周囲の山々には中世の山城がありそうな所である。山城に兵達が常時籠もっていたわけではなく、平時は麓にいたわけで、それを城屋敷・シロヤと呼んだのかも知れない。城屋サンと書いてシロヤさんと読むお家が舞鶴には一軒だけある。本来はシロヤだろうと見当をつけていたのであるが、文久三年(1863)の『大日本国細図』に右のような地図があった。藩の資料などはつかわない民間の調べのようでように思われる、けっこう間違いも多い地図で、何時の時代のどんな資料が元になっているのかも分からないが、この地図によれば城屋はシロヤ(丹後国図の一部)江戸時代はシロヤであったのではなかろうか。久田美の小字に白屋口しろやぐちしろやぐちしろやぐちがある。これがどこなのか場所を私は知らないのだが久田美の付近には白屋というところはないので、あるいはこの白屋は城屋のことを指しているのではなかろうか。
舞鶴にいくつもシロヤがあってややこしいのでこちらはジョウヤと呼ぶようにしたのかも知れない。「クラミ」とあるのは久田美の間違いか。「原」は桑飼下の原、原谷と呼ばれる所であろうか。明治四十年の大洪水まではここには大宿場街があったという。桑飼下の原(「まいづる田辺 道しるべ」)
上福井から下東へ出る峠は大丹峠とも読める。これは大舟峠で、丹と舟が似ていて同じように使われた可能性が見える。

『白屋のあれこれ』(松岡徳二・平10)に、これは舞鶴朝来の白屋であるが、

 〈 「白屋」という地名の墨跡発見  〉 

 〈 白屋がいつ、どのようないきさつで生まれたのか、何故白屋なのか、このことは私たち白屋に住む者にとって、知りたいことの一つです。先祖から永く住み継いできた最も身近な場所でありますし、村うちのことなら隅からすみまで知りつくしている筈で、簡単にわかるべきだと思うのですが、不思議なことにいくら探してもどこからも何も出てきません。何故だろうかと考え込んでしまいます。
 歴史書に出てこないのは、行政区域が最末端だからでしょうか。また特筆するような事件のない、平和な寒村だったということでしょうか。更に文書がないのは、天災あり、人災あり、また鼠害、虫害その他もろもろあって、村でも個人でも、何百年も書類を保存することは非常にむずかしいことですから、無いのが当然なのかも知れません。

 私が知った「白屋」という地名を書いたものが出てきた最も古いものは、正慶元年(一三三二)十一月八日のものです。…  〉 
 長年住んで居られて意味不明なのだから、私にわかるわけもないわけで、しかしちょっと心配になってくる。1332年頃に城はシロと呼ばれたのかということである。シロは代であろうから、普通は何もないが、柵か建物を作る場所として空けられているような所のことで、立派な建造物はなかった空き地のことあろうかと考える。曲輪と呼ばれるような場所がシロではないのかと思うが、どうだろうか。古代なら柵だが、中世になるとシロと呼ばれたかも知れない。

こんな小字名の地にあるということは、この神社が古くからここに鎮座あったとは思えないのである。ここから高野川を遡って3.4キロも行った所に奥の院と呼ばれる磐座のある場所がある。ここが古い鎮座地であろうと推定されている。
 さて祭神水分神であるが、この祭神をこの名のままに祀るのは丹後一宮・籠神社くらいであろう。その分身の和貴宮(宮津市宮本)と加悦奥の一宮だけしか私は知らない。
吉野山の金峯神社のすぐ近くに吉野水分神社がある。さてこれも水銀と関係あるのかと思ったのだったが、
『丹生の研究』は、
 〈  水分神社の原始形態は、古代の要路が峠を越える境上に据えられた3体の磐石であったと推定されるから、社殿が営まれるようになったころには、すでに峠の上から"山の口"の部分に移されたようで…  〉 

 〈 4社の水分神社を特祭するのも飛鳥中心時代の遺習であり、往時に大和朝廷が四方四隅に配して、それぞれ他郷への境上を守る神としたのが水分神にほかならないといえるであろう。  〉 
としている。雨引神社もかつては丹後・丹波国境の分水嶺にあったのだろうか。それとも「室尾山観音寺神名帳」に、正三位雨引とあるように、あるいは通称蛇神さんと呼ばれるその名から、この水分神を勧請したものなのだろうか。たぶん後者で本来の祭神は蛇神であろう。

森脇宗坡は舞鶴の女布城の城主、また久美浜町女布の城主でもあった実在した人物であった。彼は本来は武将というものでなくて、水銀や金属の生産者と見て間違いなかろう。女布や売布の地名を残した未知の生産者と深く関係する氏族の末裔であろう。…と私は考えている。カンというか、そうしたものに基づいてそう判断するわけであるが、伝説を考える場合は、退治されたものと、それを退治したものは同じもの、と見て大きな間違いはないようである。城屋の大蛇と森脇宗坡は同じものなのである。
本当の話は言うまでもないが、大蛇退治をしたのは中世に実在した森脇宗坡ではなかったのである。森脇サンたちの遠い祖先であった(名は伝わらない)と思われるが、江戸期くらいから宗坡に仮託してして語られることとなったのであろう。
『丹後の山城』(岡野允・昭54)は、

 〈 この土豪に関しては色々の物語がある。即ち城屋の雨引神社の神事「揚松明」の由来(大蛇退治)と円隆寺奥の院なる愛宕権現の建立縁起である。子孫は江戸時代の大庄屋家、字女布の森脇庄左衛門家である。家宝に大蛇の鱗や左記古文書などがある。大蛇鱗は開けづ箱入りで代々当主も未見の由であったが渋谷市文化財保護委員の懇願で初公開された。それによると長サ九センチ巾二センチの黒味がかった色をしていたという。尚退治した抜いた時は鼈甲色であったと伝えている。
「家蔵古文書」
源胤伝  森脇宗坡守 城主
一、由来は永禄年中の頃、四国土州に於いて三人の兄弟御座候也、然るところ古乱世のみぎり別離に成り給ふ。一人は土州に残り遊ばし、一人は勢州の津に御座候。
宗坡之守様は源氏の武士にて丹波を心ざし成され候処が丹波は赤井悪右衛門殿切鋪の事故手にも入らず、よんどころなく田辺領女布村之村落え落付き、近在五ケ村(真倉、十倉、京田、七日市、女布)切取致し山城を築き城主と成り給ふ。
それより三十余年も御座候処へ細川越中守様御越しなされ右山城を切落され、その節より百姓と成る。慶長年中に到って御子息に相続なりて宗坡様は丹波高槻村を心ざし成され云々(注−高槻は梅迫付近の村)
亦別の伝来文書には
「愛宕権現勧請に対し宗坡無礼の言辞があったので神慮により、その居城火災の幻示なされたので叡慮を覚り愛宕社新殿文禄元年より工事にかかり年中に普請成就」とか
「宗坡子供三人男子二人女子一人有り(丹波)志賀に嫁にやった娘が大蛇に呑まれたので城屋谷に馬上で乗りつけ鉄砲で打果した」ともある。また
「天正年中(半行虫喰)責来りて度々戦有りし時丹後一国(半行虫喰)依て山城の城主と取合に付、宗坡(半行虫喰)今安相模挨拶にて和睦致し処(半行虫喰)候へ共是非に及ばず候その後は女布云々」
(森脇宗家過去帳写)…
  〉 
『熊野郡誌』(大12)は、

 〈 女布城址。大字小字城ノ尾といひ、田村字三原に通ずる間道あり、池の谷を左右に眺めつつ進み行かば、古城址あり、誰の城跡たるを知らず、丹後旧事記丹後一覧記等に依れば、天正年間森脇宗坡の居城たりしといふ、山上八畝歩ばかりの平地あり、展望殊に宜しく、眼下に丸山野中安養寺を俯瞰し、遠く眼を放てば川上谷須田新庄の諸部落は、連山を境して山麓に散在せるを見る。
  〉 
現在に伝わる形の城屋の大蛇退治伝説は、この宗坡の子孫たちが後に広めたものと思われる。

宗坡に限らず、これら実に多くの中世の山城の城主たち、その子孫を名乗られる方々は現在も多いのだが、彼らの職業を問うた郷土史家はいないようである。農民だ、武士だと決めてかかっているようであるが、それは江戸期以降の史観ではないのか、田が何町とかそんな資料しか残されていないので、それも無理からぬことではあるが、本当にそんなはずがあるのか、農民が山城を作るだろうか。私はとても手がまわらない。中世郷土史家の登場を待とう。

城屋のあたりには現在のところは何も製鉄遺跡は見つかっていない。しかし須恵器の窯跡は発見されている。発掘調査されたわけではないので、これらが古代の製鉄に関係するもかは不明である。遠所遺跡にも須恵器窯跡がある。須恵器を焼いた窯は炭焼窯に転用され、その炭で鉄が作られた。垂仁紀にも「近江国の鏡谷村の陶人(すえびと)は天日槍の従者」とあるように、須恵器も高温を扱う技術であり、金属生産と繋がった技術である。
「城屋窯跡」

女布:水銀地名



          

「登尾峠を歩いて城屋まで越える」 (城屋の瀬ケ谷という所から何鹿郡へ越える峠を登尾のぼりおのぼりおのぼりお峠とよぶ。
 綾部市側は峠の上までみんな協力してバンバンの道が出来ているのに、お前とこ側はちっともよい道にならんやないか、何をしとるんじゃと、私なども非難されるのだが、これは私などに言われても何ともならないのである。上のリンク先に見える親戚の市議の和佐谷も心を砕いていますが、「対処的にはコチョコチョやっているが、抜本的にはすぐにはどうにもならない」ということのようです。道どもはすぐにつくれるが、用地をあけてもらえないようである。登尾峠(綾部市側から・行き止まりと書かれている)
 私のロシア語の先生は志賀里の村一の貧乏人のせがれだったそうで、ウソかホントが本人がそう申されたのですが、さて晩のおかずもない、舞鶴の海辺まで行けば、そこで地曳き網を引いている、それを手伝えばいくらか魚がもらえるそうな、という話を聞いて、この登尾峠を越えて二尾の海岸まで網引きの手伝いによく行ったそうである。魚をもらって城屋の村まで戻ってくると、そこにワルガキがいて、勝手にワシの村を通るなと言って通してくれない。実はこんな事なのだと説明をすると、そのワルガキは、そうとは知らなかった悪いことをした、そんな重い物を持って峠を越えるのは大変だろう、皆に手伝わせるから待っとれと、近所の手下のカギども集めてきて荷物を担がせ、峠の上まで送ってくれたそうである。
もし出合いなはったら礼を言うといておいとくなはれ、という事であったが、はてまたどうしたものか、このかつてのワルガキ氏、御存命であられたら100才くらいだろうか。)



          
ついでなので書いておこう。私は自称地名研究家なので、書きたくなってしまった。「登尾」という地名はあちこちに見られる、たいていは山の峠の場所である。すべてノボリオと読んでいるが、私はこれは本来はトオと読むのでないかと考えている。トウゲのトウである。山の稜線がタワんだようになって、低く垂れ下がったようになっている場所であり、こうした所はタワ(乢・田和など)とも呼ぶしタオ(田尾・垰など)やタオリやトウともなる。こんな所は越すのに好都合なので峠道にもなる。
このトウという地形地名に「登尾」という漢字を当てたのではなかろうか、その「登尾」をいつの世にかノボリオと読むようになったのではと、考えるが如何か。
柳田国男は次のように書いている(『地名の研究』)。

 〈 タワ・タヲ・トウと云ふのは山峯績きの中で、両側の谷の最も深く入込んで嶺の其為に低く残って居る部分、従って山越に便なる箇所である。陸軍などの人は御職掌がらか鞍部と言はれて居る。タワ・タヲの如きは所謂標準語として承認せられたことのある語で、新撰字鏡にも出て居る。  〉 
『峠に関する二三の考察』にも書いている、興味のある方は読まれよ。

         

水分は特に奈良県南部に集中する神社である。。3社1棟式と言われる水分神社特有の社殿からは、水銀とは結びつきそうにもないようである。
吉野水分神社(奈良県吉野郡吉野町)
宇陀水分神社(奈良県宇陀郡菟田野町)
都祁水分神社(奈良県山辺郡都祁村)
葛木水分神社(奈良県御所市)

しかしまったく関係がないかといえば、多少は関係はあるだろう。なにしろ目と鼻の先にあるし、これを水銀の神社とする説も確かにある。
それに水分神は転訛して「みこもり(御子守)」となり俗に子守りの神としても信仰されているが、その子守社も水銀とする説がある。これは伊根町新井崎の西の山を蝙蝠岳(311m)といい、加佐郡大江町血原の対岸が河守(川守)と呼ぶように、水銀と関係がありそうな位置に分布をしている。小森、古森、高森といった地名や社名は、籠もるという意味かも知れないし、水銀との関係が隠されているかも知れない。揚松明(舞鶴市城屋・雨引神社)

 揚松明の火祭は稲作の雨乞い神事か
 右の写真は『火祭りの里 城屋』のもの。雨引神社前庭に立てられた高さ16メートルの大松明の先端部をめがけて、地区の若者たちが下から火のついた小松明を投げ上げる。まもなく大松明に火が移り、大松明全体が燃え上がる(毎年8月14日)。
実によく燃える、何が燃えているのかと言えば、これは大麻で出来ている。麻薬のマリファナの原料である。以前はここで栽培していたのであるが、260本も盗まれるという事件があってから、よそから殻だけを購入しているそうである。
 何故大麻ではなく稲ワラにしなかったのかと以前から考えているのだがわからない。よその同じ祭礼も大麻なのだろうか。麻薬的な興奮を得るため最初から大麻が意図的に使われたのではないかと勝手に想像して、本来は稲作とは関係がない祭礼ではとも考えているのだが、わからない。
この祭礼そのものについては、下のページを。世界樹との関係でも書いております。
「世界樹伝説と揚松明」
「揚松明神事の伝説」
女布:水銀地名
「写真館」




(9)天武天皇


(10)神功皇后と高野丸子山古墳


(11)口碑

廃坑跡か?「アナンボ」
鉱毒問題か?「大蛇に毒を吹きかけられた話」


(12−1)他の地の女布・売布の地名の示す意味。
女布という地名は当地だけの限られたものではない。山陰に点々と分布するなどと書かれた書もあるが、私は10個ばかりしか知らないのである。
「女布・売布の地名」のページにあります。
(12−2)如意寺が分布している
ついでに、ではあるが、女布地名と関係あるのかどうかわからないが、如意寺とか如意といった名が分布している。どこでもあるというものでもなく、案外にありそうな場所にある。参考までに挙げておく。
「如意寺等の分布(丹後国)について」のページにあります。

(13)虚空蔵・蔵王・妙見を祀る

愛宕神社(愛宕山山頂)愛宕山(天香山。舞鶴市引土)には虚空蔵が祀られている。頂上に愛宕神社(左写真)が祀られているから愛宕山と呼ばれるのだろうが、実はその隣に、隣といっても200メートルばかり西になるが、こちらがこの山の本当の頂上ではないかと思われる所に虚空蔵菩薩を祀る石の祠がある。虚空蔵のもとに金属ありと言われるが、この地のほかには虚空蔵は宮津市由良の由良嶽や同市山中にも虚空蔵嶽があるそうであるが、これら虚空蔵を祀る山は花崗岩で金属であっても何も不思議でないところではある。

舞鶴の天香山の虚空蔵にも十三参りという行事が伝えられている。「ふる里みてある記」(舞鶴市民新聞h16.5.7)は、虚空蔵菩薩を祀る石祠(愛宕山山頂)

 〈 …この山の麓には、半田・上地・中地・下地からなる「引土村」があるが、町と接する下地の「講中」によって毎年四月に祭礼が行われ、現在十戸の参加で継承されている。
 元来、十三参りとは、陰暦三月十三日(いまは四月十三日)に十三歳の男女が盛装し、福徳、智恵、音声を授かるため、嵯峨法輪寺の虚空蔵菩薩に参詣すること。昔は、喜多村からも御馳走を持ってここに集い、村人が芝居をしたことも…。
 この日、祠の奥では参拝者も招き入れて神酒を交わす小宴を。料理は元気が出るホルモンで最高潮! 十三参りには、小石十三個を持って供えればご利益あり、とか。智恵の輪はボケ防止? 帰り道は、振り向かずに真っ直ぐ山を降りる。….  〉 
由良が岳も同じように小石を持って十三参りをする風習がある。途中にはこんなものもあった

 なぜ虚空蔵のあるところ金属ありなのか、日頃の不勉強のため私の力ではうまく説明できそうもないので、『山の名前で読み解く日本史』(谷有二)を引いておこう。

 〈 虚空蔵尊のもとに金属あり
ただ、面白いことに虚空像尊が祀られているところに金属があると言われている。
例えば、山形県南部の白鷹(しらたか)山(九九四メートル)は虚空蔵山とも呼ばれる。ここから流れだす吉野川は古代からの一大金属地帯で、下流の熊野神社には金山彦が祀られて、開基が大同元年(八〇六)、一つ目権五郎が植えた松などの伝説がまとわりついている。「吉野・熊野」の名称が絡んでいるところを見ると、やはり修験が関与していると見なければならない。
 宮城県栗駒町の虚空蔵山(一四〇四メートル)麓には著名な金鉱山があった。山形県出羽三山の北に一〇九〇メートルの虚空蔵山があって、山麓を巡る立谷沢からは金銀銅を出す鉱山があった。
 福島県会津地方、柳津の軽沢銀山には虚空蔵尊が祀られ、宮城県本吉郡柳津(現在の津山町)の、虚空蔵様の下を流れる北上川には金鉱がたくさん見つかっている。茨城県東海村柳津の虚空蔵様は一つ目伝承と大同二年伝承(…)があって砂鉄が採れる。豊臣家の軍資金伝説が付きまとう兵庫県の多田銀山も、古代から楊津(やないづ)と呼ばれる地名だった。
 鉱物の産地を考えると、古代から、天から隕石が降って、それから金属が抽出されたという相当に古い話を思い出さずにはおかない。日本では妙見神を北極星に、金星を虚空蔵神にたとえるから、それを求めた修験が虚空蔵様ないしは妙見様を祀っただろう。柳津のように同じ地名があるのは、鉱物を求め修験が移動したことを物語っているのであろう。.  〉 
虚空蔵と金属の関係は若尾五雄氏の説らしいが、氏は次のように書いている(『鬼伝説の研究』)。

 〈 それでは、山が妊る種はどこから来たかというと、私は、天からその種は来た、つまり山に鉱石のあるのは、天上の星から降って来て、山中に妊もったものというのが、古代人の考えではなかったかと思う。鉱山のある所に、妙見神、虚空蔵尊がよく祀られているのは、このためと考えている。  〉 
あまり関係のない話で申し訳ないが、愛宕神社の脇には古木が多く、ウロの空いている樹木がけっこうある。千回登山とか愛宕神社ならありそうなものだが、この日は誰もいなかった。山頂にいたアライグマ
 ゴソゴソと何か音がするので、誰かいるのかと探してみると、木の上にアライグマがいた。
 本来は外来の動物でペットが逃げ出して野生化したようだが、こいつが上手に木に登るとは知らなかった。クマというよりもネコらしいから木登りは得意なのかも知れない。川のそばを走っている姿しかこれまで見たことがなかった。
母親のアライグマが変な人間が来よったぞ、こいつは超ヤバイと思ったのか、子供のアライグマが二匹を咥えてほかの木のウロに移していた。こっちを向いているのが母親(父親かも知れないが)のアライグマで後には二匹子供のアライグマがいる。アライグマ
ウロのある木はタブの木のようである。この山頂の辺りにはたくさん生えている。もう少し探せばあるいはイグアナがいるかも知れない。こうした動物は外来種といわれて、古来の自然環境を破壊するため駆除されることとなる。しかし人間こそが最大の最悪の外来種である自覚と罪の意識も持たねばなるまい。アライグマが太平洋を泳いできたのではない、ペットとして持ち込みその管理ができなかったは最悪の外来種である。本当に駆除すべきなのはどの動物なのであろうか。とクマさんの言葉を代弁しておこう。この山にも防空砲台をつくる予定はあったという。
 このあたりは、たぬき・いのしし・あなぐま、何でも一通りはいます。ごきぶりにむかで、私の家は古いので大きなむかでがいっぱいいます。あれに噛まれるといたいんですよ。ですから家のあちこちにいっぱい火箸が置いてあります。寝室にもいます。寝ようかなと思っていると天井からどさっと頭の上におちてきます。ひばしでつかんで外に出すんです。スプレーをシューとかけて弱らせることはありますれど、殺したりはしません。でもコンクリートの中で生活するよりずっといいですね。
舞鶴人はいやされかたがハンパでなくすごいでしょう。アナグマと言ったと記憶しているがこれはアライグマの間違いではないのかと思う。

愛宕山の東南麓に当たるが天狗岩と呼ばれる大岩がある場所があるという。たぶん古くは何か祭祀が行われたと思われるが、私は行ったことがないので、詳しくは書けないが、そこに小男稲荷社があった(現在はさらに東南の茶臼山に移転している)。小男稲荷神社(舞鶴市引土折原)
どうみても愛宕山は金属と関係があると考えざるをえないわけだが、そうするとこの「小男」も気になる。少名毘古那から一寸法師に至るまで小さな人の物語が残されている。これは一体何なのであろう。
小子門という門が平城宮にあったという、小子部氏は名門の門号氏族なのである。有名な小子部螺贏の物語も残されている。越中国婦負郡小子郷もある。少子明神(正五位)(若狭神名帳所載大飯郡坐神二十所)もあった。少年たちからなる天皇親衛隊ではなかろうかといった説もあるが、雷を捕らえたといった伝説を残しているし、小人は鍜冶が上手だと他国でも言われている、ここの小男稲荷本来は銅に関係がある鍜冶師を祀ったなのではないかと、私は考えている。小子部氏の本拠地は大和国十市郡飫富郷の子部神社の地(奈良県橿原市飯高町)とみられる。この地は小子部氏の同族多氏の本拠地でもあったと『日本古代氏族辞典』はしている。飯高というのは本当は飯富・飫富なのだが、字を間違えてこうなったと言われるところで、まさに多氏なのである。多氏がでてくると億計弘計が繋がってくる。大内郷に億計弘計がいたという残欠の記事も案外に馬鹿にはできないのである。大江山の鬼は酒呑童子、鬼ケ城の鬼は茨木童子という。童子とは子供のこと、小さ子のことである。小さ子は鬼でもあったと思われる。
「小男稲荷」
女布:水銀地名


(14)宮崎神社(舞鶴市喜多)

 これからは北へ移動して西舞鶴湾に面した地域になる、湾の西側に並ぶ集落の神社である。もとは田辺郷だったといわれる地であるが、喜多に宮崎神社が鎮座している。
 九社の一ではあるが、残欠にはない。「室尾山観音寺神名帳」の正三位「宮嶋」あるいは「宮前」とされる社かも知れない。宮崎神社(左)と御山神社(舞鶴市喜多)
『丹哥府志』は、

 〈 【三宅神社】(延喜式)
三宅神社今訛りて宮崎明神と称す、祭六月十八日  〉 
と、式内社の三宅神社に比定している、もしそうなら従二位か正三位の三宅明神であろうが、この比定はまたどうした根拠があるのだろう、単に訛でそうなったというのだろうか。重大な事を書いているのだが根拠は示されない。
『京都府の地名』は、

 〈 旧語集の喜多村の項に「以前ヌカタベ村」とあり、慶長検地郷村帳に高二二五・九八石「糠田部村」がみえる。享保三年(一七一八)の領中郷村高付に「喜多村」と記されるので、時期は明らかでないがこの間に改称されたものであろう。
  〉 
現在は喜多きたきたきたと呼んでいるが、元は糠田部ぬかたべぬかたべぬかたべ部・額田部ぬかたべぬかたべぬかたべであった。この集落の裏山は、田辺富士とも呼ばれる、姿麗しい建部たてべたてべたてべである。建部山(下の船は北朝鮮船・核実験の翌日である。この船は何も関係がないだろうが、格クラブ入りなどは超愚かな選択であろう)
 喜多の北隣は大君おおきみおおきみおおきみという集落である。由緒ありげな地名で、ずいぶん気にはしているであるが、何の文献も残されてはいない。解明されてはいない。
この名を聞くと私は思い出してしまうのだが、額田女王ぬかたのおおきみぬかたのおおきみぬかたのおおきみである。彼女でおなじみの額田氏について、何度も引く『青銅の神の足跡』は、大和国生駒郡平端村大字額田部について、

 〈 この額田部という土地は額田部氏の居住地とみなされるが、額田部氏は天目一箇神を奉斎して金属の鋳造を専業とした技術者の集団とみなされる。  〉 
佐用郡佐用町仁方にかたにかたにかたで、

 〈 私の想像するところでは、こに仁方は額田部の居住したことを示す額田に関連があるかも知れない。額田部湯坐ゆえゆえゆえ連は『新撰姓氏録』によると、天津彦根命の子の明立天之御影命の後とあって、天之御影命=天目一箇命ゆえに、天目一箇命を祖神として奉斎する人びとの群れであったわけである。  〉 
また額田は土処田ぬかたぬかたで産鉄場をさす、あるいは土型ぬかたぬかたぬかたで鋳物の型を作る部民の説をあげている。
ここの額田部がどの系統かわからない。鳥取氏・委文氏と同族系かも知れないし、先に引いた『青銅の…』にもあるように、天目一箇神の末裔で、東舞鶴の式内社・弥加宜神社の系統かも知れない。建部山あるからあるいは後者だろうか。近江一宮・建部大社の建部であろうが、何か水銀や金属の精錬と関係あると思われるが不勉強につき目下の処は、よくわからない。ここは大変な所のようだ。
銅剣358本・銅矛16本・銅鐸6の多量の青銅器が出土した荒神谷こうじんだにこうじんだにこうじんだに遺跡の地は出雲国出雲郡健部たけるべたけるべたけるべ郷の地である。出雲国風土記によれば、宇夜都弁うやつべうやつべうやつべ命の神社があったから以前は宇夜里うやのさとうやのさとうやのさとといったのだか、景行天皇が倭健やまとたけるやまとたけるやまとたける命の御名代と定めた。神門臣古祢を健部と定めた。その健部臣らがずっとここに住んでいるので健部という。とある。
この健部郷の北、宍道湖に臨む地を宇夜江うやえうやえうやえという。姓氏録によれば、ここの宇夜江で鳥取連の祖の天湯河板桁あまのゆかわたなあまのゆかわたなあまのゆかわたなくぐいくぐいくぐいを捕らえた。この鳥を見せると、もの言わぬ皇子、ホムツワケがしゃべれるようになったというのである。健部郷には鳥取部が多く見いだせるそうである。
鳥取氏・委文氏、それに近江系といっても、お互いに何か関係はあるように感じられる。尾張氏、伊吹部氏、水銀や青銅器が全部関係している。
出雲の地には額田部氏も多かったようである。ぬかたべと書かれた刀の柄が発見されたという記事があったと記憶するが、いま見あたらない。
喜多には仁屋という小字がある。どうよむのだろう。兵庫県美方郡美方町新屋にいやにいやにいやは金銀銅鉄の鉱山があったことで知られている。
丹後では額田・建部の地名は他にはない。神社は加悦町後野の愛宕神社境内社に、建部神社(祭神大己貴命)があるのみ。

建部山(舞鶴市喜多)
   近江一宮・建部大社(滋賀県大津市)


この地は糠田部と大君の地名が隣同士で並んでいるので、どうしても気になってしまうのだが、両方くっつけると、万葉集でおなじみの額田王である。天武紀に、天皇は初め鏡王かがみのおおきみかがみのおおきみかがみのおおきみ王の女、額田姫王ぬかたのおおきみぬかたのおおきみぬかたのおおきみを娶して十市皇女を生む、とある。ではその鏡王とはどこの人なのか。蒲生郡竜王町鏡の鏡神社の神官だとする説がある。ここなら三上神社と目と鼻の先である。ここは野洲郡との境目であり、祭神は天日槍である。
女布:水銀地名



(15)結城神社(舞鶴市青井)

 大君、吉田、その北が青井で、村の入口に結城ゆいきゆいきゆいき神社が鎮座する。九社の一である。残欠に伊吹戸いぶきべいぶきべいぶきべ社。イブキドと訓がつけてある書があるが、イブキベと読むのだろう。芭蕉の句だったかにもイブキド神何とかがあったと思ったが、ここはイブキベだと思われる。「神名帳」には名が見えない。
伊吹部である。近江の伊吹山の南麓、岐阜県不破郡垂井町伊吹の伊富岐神結城神社扁額社がこの氏族の本社である。『青銅の…』には、銅鐸を作った採鉱冶金の氏族であることがるる述べられている。それはあまりに多いのでここに引くこともできない。
伊富岐神社伊富岐神社(岐阜県不破郡垂井町伊吹)
『新撰姓氏録抄』に、

 〈 伊福部宿禰。   尾張連同祖。火明命之後也。  〉 
とあるように、火明命の末裔氏族であり、丹後海部氏とも同族になる。手力雄神を祀る伊勢の佐那とも関係深いようだ。
丹後では、熊野郡久美浜町の川上谷川口に位置する油池ゆうけゆうけゆうけが元は伊吹であり、式内社の意布伎いぶきいぶきいぶき神社が鎮座する。同町三分さんぶさんぶさんぶに意布伎神社、三原佐内みはらさないみはらさないみはらさないに伊吹神社がある。谷川健一氏の論に従えば、これらの土地は将来銅鐸が出土するかも知れない。この他にはこの社はない。銅鐸の話をすれば、青井の東から二尾銅鐸、西からは由良銅鐸が出土している。久美浜町は西に気比銅鐸が知られる。

女布:水銀地名


(16)白杉神社(舞鶴市白杉)
ついでにさらに足を伸ばしておこう。大事な場所がある。青井の先が白杉しらすぎしらすぎしらすぎ。白杉の先端部、海へ突き出す岬を金ケ崎かねがさきかねがさきかねがさきといい、金所という小字もある。ここには白杉鉱山があった。『舞鶴市史』は、

 〈 白杉鉱山 金ヶ岬南南東の海岸にある。10米内外の二本の坑道によって、昭和三十一年ごろ採掘されていた。接触交代鉱床で、鉱石は、黄銅鉱、磁硫鉄鉱、黄鉄鉱などである。  〉 
白杉右写真は坂根正喜氏の空撮。

白杉神社はもとは、蔵王権現・金剛蔵王菩薩=金剛童子である。境内に古墳を抱えるのだから、蔵王はない、もっと古い古墳時代からの社だろうが、何も資料はない。
なお白杉神社は安閑天皇を祀るので、丹波国の蘇斯岐そしきそしきそしき屯倉は白杉ではないかとの面白い説が地元にはある(岡野充「突飛な話」『舞鶴地方史研究20』)。白杉神社
 申し上げるまでもなく、本社の金峰山寺蔵王堂(奈良県吉野郡吉野町)は、この先の金峰神社と一体のもので、その金峰神社が安閑を祀るからであろう。全国の蔵王はこの祭神が多く、170社ほどあるという。先の中郡峰山町の金峰神社も安閑である。安閑が祀られていても何も蘇斯岐屯倉の根拠にはならないのである。
 誠に又とはない当地と金属を結びつける古代史の大ロマンに水をかけるようなニベもないことを言おうとするのではない、岡野氏の息子さんは青年団の大先輩である、私は決して岡野説を否定しようとするのではない。
蘇斯岐屯倉は『地名辞書』以来、中郡大宮町周枳か亀岡市三宅町に比定される、どちらもたいした根拠は見いだせない。蘇斯岐屯倉などの安閑の屯倉は朝鮮での譲歩と加耶諸国の滅亡の直後に設置されている。鉄が不足したであろう。蘇斯岐屯倉も鉄の屯倉であり、あわてて開発されたものであろう。
どこだと言われれば亀岡が有力だろう。吉田東伍も、国郡沿革考に周枳郷は安閑紀に見ゆる蘇斯岐屯倉の地なるべしと曰へり、疑ふべし。としている。式内社の三宅神社(同市三宅町)があるからである。ところが式内社の三宅神社は、もう一つ加佐郡にもあるし、さらに三宅郷(残欠)までもある。丹波でこれだけ揃うのは加佐郡だけである。従って亀岡よりもさらに有力な地である。蘇斯岐屯倉かあるいは正史には記載されていない何か屯倉があったのである。理由なしには地名は生まれない。
私は白杉とは考えないが、広く田邊郷の周辺はぴったりと当てはまる地ではあると考え続けてはいる。もし田邊が元は田部であり、この田は炭田・油田の田であった、あるいは案外に額田部であったなら、この地は、蘇斯岐屯倉であるかも知れない。もし池内の布敷が本来はソシキと読むのであれば、この地こそ蘇斯岐屯倉であるかも知れない。故岡野氏の地元で言えば、鈴木神社は蘇斯岐神社でなかろうか、高田神社は田縣神社ではなかろうか。
地名の研究はキリのない、むなしい夢だ。百を追っかけて、たいてい百ともに駄目なのだが、はかなくも悲しい夢を追う材料は多い。これはまたの機会、河辺あたりに進んだ時に考えて、もがき苦しむこととして、先へ行こう。
故岡野氏は白杉地名は蘇斯岐の転訛でなかろうかと、苦労して分析しておられる。
白杉は全国探してもここにしかない地名で、恐らく白須賀の転訛であろうかと私は考えている。
先の峰山の金峯神社、和泉式部が詣でたという歌があるとかで、藤原保昌任国よりも古かるべしと『峰山旧記』がいう古社であるが、その東側は杉谷という所である。杉谷古墳群やカジヤ古墳でおなじみの土地である。天正年間の文書にすでに杉谷と書かれるらしいが、ここには須賀神社が鎮座する。ここは杉谷ではなく、本来は須賀谷であろうか。
この須賀神社は旧称三宝荒神だそうである、又明治期の改称だ。困った事をしてくれる。しかしどうもこれでは頼りない話である。私は杉谷は本来はこの南に位置するすげすげすげという集落と関係する地名ではないかと思う。菅弥生遺跡や古墳も多い地である。杉谷は菅谷ではなかろうかと思っている。九曾きゅうそうきゅうそうきゅうそうという、たぶんクソだと思うが、こんな面白い小字もある。九社や加佐と似ている。似たところには似た地名があるものである。
須賀の地名は砂鉄を意味していそうだということは昔から知られている。
 いつもの『青銅の神の足跡』は、『播磨風土記』を引く、穴師あなしあなしあなしの里(兵庫県宍粟郡安富町安志おんじあんじあんじ)は、本の名は酒加すかすかすかの里である。安志から西へ5キロばかり行った同郡山崎町の須賀沢から銅鐸が出土しているとして、

 〈 このスカという地名が問題であり、語源としては洲処すかすかすかに由来するとされている。そこはとうぜん砂鉄の採れる可能性をもっている場所であって、横須賀など海浜に多い。静岡県浜名郡白須賀しらすかしらすかしらすか村(現在湖西市白須賀)から銅鐸一個が出土している。また伊勢河芸郡栄村(現在鈴鹿市磯山)からも銅鐸が出土しているが、そこと隣り合わせる上野という集落の海岸は白須賀と呼ばれている。  〉 
スカは

 〈 すなわち砂鉄に縁由をもつ語なのである。  〉 
としている。

 白杉からいつの日にか、銅鐸が出土してもおかしくないようである。蔵王権現社境内の横穴古墳も当然に鉄を経済基盤とした古墳であろう。この神社と関係があると私は考えるのだが、『市史』は、

 〈 白杉古墳は耕地の乏しい臨海地で、農耕より漁労を営んだ白杉集落に接して位置し、海人部との関係を考える上に注目すべきものである。  〉 
としている。これらの古墳は谷間に位置していて、海からは見えにくい。海を意識して作った古墳とは思えない。白杉には入江がなく、古墳が造営できるほどもの船は着けられない。後背地がなく、水の補給さえ苦労しそうな場所である。この地に鉄があることが抜け落ちていて、それならばと海人部を考えたのかもしれないが、それはまず考えられないと私は思う。
「白杉古墳」
「白杉古墳」(フロートでリンクが張れない。ここにありますから探して下さい)


四所駅この上下福井から白杉までを四所ししょししょししょと呼んでいる。旧加佐郡四所村である。四つの集落より成るから四所だとされるが、集落は四つどころではないので何かほかに、未だ知られない意味がありそうである。宮津市栗田半島の獅子ししししししとか、大飯郡大飯町父子ちしちしちしだとか、こうした系統の地名かも知れないし、あるいは高野山の四所明神からの地名かも知れない。四所ももう少し考えてみなければならない大事な地名だと思う。
 上福井にKTRの四所駅がある。四所は死所に通じるのか、出征する兵士はこの駅を通過するのを避けて、歩いて西舞鶴駅まで行ったという。江戸期に刑場があったからとか話はあるが、それよりももっと古い地名だろうと思われる。
蔵王権現
   金峰神社(奈良県吉野郡吉野町)
   金峰山寺蔵王堂(奈良県吉野郡吉野町)
   安閑天皇を祀る全国の170社ほどについて


女布:水銀地名

(17) もう一度朝代神社と朝禰神社
朝代神社が西舞鶴全体の産土社として尊崇されているのは、それだけの古い過去があったからである。弥生後期の当地開闢以来の西舞鶴地域の産土社であった九社を、この朝社は江戸中頃から代表してきたわけである。尊崇を集めて当然なのである。
アサはフルスペックで言えば朝原であったろう。笠原の変化である。



(付録)白雲山北麓の戦争遺跡
女布川女布の村から流れ下る女布川の流路がおかしい。これは何かあったのだろう。それも最近の出来事だろうと考えていた。女布川は現在の城南会館の脇を流れて北流している(右写真・北から女布の方を向いている)。ここは千石山の忠魂碑のある支脈(大日山)のすぐ麓で、この尾根筋は低くなるが東の女布の下森神社の低い台地へと続いている。川が低いが尾根筋を越えて流れる。山を越えて川は流れたりはしない。先行谷でもないかぎりはそんな馬鹿なことがあるだろうか。これは人間が川筋を変えたのだろう。川と呼ぶよりミゾといった感じの広さしかない。これでは大雨には耐えられそうにもない。たぶん軍の仕事だろうからそんなことまでは考えてはいない。これは計算し直して拡張すべきと思われる。
それに大日山の北麓、城南会館のあたり一帯(あやべの地名が残るあたりである)、その東の女布・京田境の支脈(何という名の山か知らない。白雲山城があった山である。城山とでも呼ばれるかも知れない)の北麓、それにさらに東に白雲山の北麓も、何かかなり大規模に土取りをしたような跡が残っている。この土を取ったにちがいないと考えていた。
いろいろと文献にあたってみると女布川については流路を変更したと書かれた書があった(書名が思い出せない)。かつては東に流れていたとあった。現在の大和紡績社のありたへ流れていた。これは藩政期300年の昔に下流の洪水対策として堤防が作られていたという。なぜだれが何のためにこの古い流路を変えたのかは書かれていなかった。そのほかの疑問に答えてくれる書はなかった。白雲山(西側より)
 白雲山の麓でうろうろとしていたら、そうなんですよ、この山(白雲山)は、もっと北側へ延びていた、今の城南中学校の接するあたりまではあったんです、軍が来て取ったんです。という。城南中やその西の大和紡績のあるあたりには軍の施設があったことは市史などにも書かれているから私は知っていたのですぐ理解できた。ここの土を取ってその辺りの田を埋め立てた、そう1、2メートルばかり埋め立てましたかな。
白雲山には鉄塔がたってましたから、軍もここまでしかよう取らなかったんです、なかったらもっと取ってたでしょうな。ということであった。日中戦争がはじまったころでしたかな、昭和16年ころです。今はもう鉄塔はありません、どんどん取りますで。ということであった。名勝白雲山も善福寺や墓地があるあたりまでなくなるかも知れない。
 この辺りと戦争との関わりを少し書いておこうかと思う。こんな書は今のところない。忘れてしまわないうちにどなたか地元の方で記録される方はおられないだろうか。
しかし何か地元に記録があるだろう、とその後も気にはしていたのだが、今のところは次のようなことしか私は知らない。
『郷土史・中筋のむかしと今(下)』(平成15・中筋文化協会編)の「歴史年表」にも、(写真も)
(青い目の人形)
 〈 昭和17〜18 (戦争) 京田・白雲山の鼻切取り、現城南中学校敷地など埋立(海軍益田部隊) この山には墓地があり、多くの人骨が出土、昭和19年に慰霊碑が建てられた(現・善福寺)


青い目の人形力□ルちゃん
 昭和二年五月十一日、アメリカ国際児童親善会寄贈ノ人形到着、中西校長綾部駅迄、尋常五、六児童駅迄出迎フ。五月十三日、アメリカ人形歓迎会ヲ催シ一同記念撮影ヲナス。(中筋校誌から)
 アメリカ産まれのセルロイドのキューピー人形は、日本でも国民的なアイドルとなり、日米両国の親善使節としての任務を果たしていた。
 しかし、暗黒の時代への時流の中で、太平洋戦争の勃発を機に、可愛いい姿は憎しみの対象となり、次々と焼却されることになった。戦争は人間だけでなく、人形の運命をも狂わせたのである。中筋校の人形も焼却されたのであろうか。

                     野□雨情作詞アメリカ人形歓迎風景
   青い目の人形
青い目をした お人形は
アメリカ生まれの セルロイド
日本のみなとへ ついたとき
いっぱい涙を うかべてた
わたしは言葉が わからない
迷子になったら なんとしよう
優しい日本の じょうちゃんよ
仲よく あそんでやっとくれ
仲よく あそんでやっとくれ(木村峰翠編「大正琴アルバム」から)  〉 
こうした人形が日米関係の悪化を心配した米民間の団体から日本全国の子供達に送られた歴史がある。日本からも返礼に日本人形が送られたという。その人形をいまだ大切に保管している所もある。立派なもので人形というようなものではない、もうこれは人間である、それぞれにはパスポートがついている。彼らは己が愛娘を送って来たのだ。いかに強い願いが込められたものかを感じることができる。平和と友好、文化と教育の町・舞鶴には残念ながら一体も保管されていない。こうした写真が残っているだけ、中筋はよい町のようである。

 〈 当時、小学生と戦争の関わりは、いろいろとプログラム化されていたのだと思います。校長先生以下全教員の引率のもと繰り返された、毎月八日と十二月八日の大召奉戴日の必勝祈願の氏神参拝は、その中心的行事だったのではないでしょうか。当時、中筋国民学校には高等科(一・二年)がありましたが、上級生の記憶がない中で、唯一今も鮮明に覚えているのは一人の高等科二年生の男子生徒が「出征」するのを全校総出で見送ったことです。少年志願兵だったのでしょうか。終戦直前だったでしょうが、あれは誰だったのか、また、どのような事情であったのか、令でも知りたいと思うことがあります。
 その「出征」の日、校長先生以下全員が、公文名の見通しのよかった線路わきの畦道に並んでの見送りです。西舞鶴駅を発車した上り列車の窓から身を乗り出して、何か叫びながら、白い手拭を振っていたイガグリ頭とタスキ掛けの涙ぐましい勇姿が、皆の「バンザーイ」「さいならー」の叫び声と共に、今も瞼に浮かびます。

   痛こんの戦争加担

 「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ筆ムルコト宏遠ニ……。」明治天皇の名で教育理念や国民道徳を説いた教育勅語である。明治二十三年に発布され、昭和二十三年に国会で排除、失効が決議された。奉安殿(中筋校)
「父母二孝二兄弟二友二夫婦相和シ……一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ……」(父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲良くし、夫婦互いに睦び合い……万一危急の大事が起こったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家のためにつくせ=昭和五年・文部省訳)などと続く。
 戦前戦中の学校では、天皇の写真「御真影」と一緒に奉安殿にまつられ、朝礼で校長が重々しく読み上げ、こどもが暗唱させられた。国家主義や戦時体制を支えたとされる。(平成十四年一月、朝日新聞)
  このように皇国史観に基づく教育が進められ、国を挙げて戦争に突入、内外で多くの犠牲をだした。かってこどもたちにこうした教育を行い、戦場に送り出した元教師、貫井正信氏は不本意ながら戦争に加担したことが悔やまれる教育ひとつでこどもはどの方向にでも導けると、次のように語られている。
  「戦入が激しさを増すにつれて『この戦争は聖戦として教えよ』との軍からの要請も強まりました。こどもたちに『聖戦』などと言っても分かるはずがない。お国のために頑張っている兵隊さんのおかげで私たちは元気に暮せるんだと繰り返し、慰問文を書かせたり、校庭に豆を植える毎日でした。」また、「こどもたちは、恐ろしいまでに私の教えたことを吸収しましたね。将来何になりたいかを聞くと男の子は『兵隊になって日本を守る』といい、女の子は『銃後の務めを果たします』という。教育の威力と怖さを痛感しました。」
  そして終戦を迎え、「多くの子に間違ったことを教え、戦場に送り出した責任を取って先生を辞めるつもりでした。しかし、教師の絶対数が足りないため教職にとどまるよう言われて続けることになり「ざんげをしながら、これから本当の教育をしてゆこうと心に決めました。」と話を結ばれた。(昭和六十一年八月・毎日新間)  〉 
舞鶴幼稚園に送られたベティ人形歴史は二度繰り返される、ヘーゲルだったかよく引かれるが、げに、教育改革・・憲法改革…着々と、愚かな歴史もやはり二度も繰り返させるかも知れない。奉安殿の台座は今も残っているようである。この上にまた建てるのであろうか。福知山幼稚園のヘレン僕は日本のために兵隊になって戦います。愛国心はだれにもでもある子供にだってちゃんとある。本来はそんなものなのである。こうした素朴で純真な気持ちが悪用されてとんでもない侵略戦争を正当視するようになっていく。繰り返されてはいませんか。繰り返したら恥ですよ。次の核戦争に誰かがもし生き残っていればの話であるが。
舞鶴や近隣には一体も残っていないと思っていたが、残されていた(左は福知山幼稚園のヘレン。右は舞鶴幼稚園のベティ)。舞鶴市郷土資料館の特別展に展示されていたもの。彼女たちのパスポートも残されている。そのキャプションに、


 〈 青い目の人形
野口雨情の「青い目の人形」の歌が大王時代に流行した後、昭和2年にアメリカから青い目の人形ベティ・メイが舞鶴にやってきました。当時、アメリカで提は日米間の摩擦を解消するために、民間で田本に人形を送ろうという運動がおこりました。この時、アメリカから日本に12739体の人形が贈られ、舞鶴には11体の人形がやってきました。日本からはその返礼の日本人形が贈られました。しかし、これらの友情の人形は第二次世界大戦中に敵国の人形として、ほとんと燃やされてしまいました。現在、残っているのは全国で約300体あまりです。舞鶴幼稚園でなぜこの人形が残ったのかわかっていませんが、この人形を守った人々がいたことは確かです。  〉 
web上に辞典があるが、それには、

 〈 (語源)American Blue-eyed Doll。(意味・説明)(1)[歴]1927. 3.27(昭和 2)アメリカの児童から日本の子供たちに贈られた約1万2千体の人形。カリフォルニアの日本人移民排斥運動など日米関係の悪化を憂慮して、親日家の宣教師シドニー・ルイス・ギューリック(Dr. Sidney Lewis Gulick)(1860〜)が提唱し、アメリカ国内の約260万人の募金で日本の子供たちに贈ったもの。日本全国の小学校に配られた。第二次世界大戦中に大半は焼却などで破棄されたが、戦後に約300体弱が発見されている。贈られた人形の数は、11、970体とも12、739体とも。返礼として日本の児童らが1銭づつ募金して茶道具など調度品を添えた市松人形58体を贈り、全米の都市を巡回して公開。この返礼人形は44体が現存。  〉 
日本の残存率2.5パーセント。アメリカは75パーセント。比較外のケタ落ちというものであろうか。美しい国だなあ。情けない怖ろしい国だなあ。子供達はきっと愛国心をもつ子に育つことだろう。いずれも軍都だが、それでもファシストばかりではなかった、わずかながらもまともな人もいたのだという証明。感謝!

『ふるさと女布』にもまとめて書かれていないが、部分的に次のように記録されいる。.

 〈 藩政時代の反収三俵は現在七俵余に向上はしたが、昭和十二年に日出紡織(のち大和紡績)舞鶴工場の進出により、女布の耕地八一、○四六・三五平方メートル(約 九町歩)を敷地に転用売却したので、耕作面積は半減した。

〔小字クク立・九九立・コク立〕…小字馬場の一部で舞鶴乳業の南側を言う。なおクク立山には太平洋戦争中、海軍設営隊の対空砲が設けられていた。.

〔小字新川〕 女布川の下流、大和紡績社宅附近で河川工事に関する地名。藩制時代、河川の付け替えによってできた川。

〔小字農ノ下〕
 意味不明。小字横波の一部で岡垣の下附近を言う。ここの西側山麓に海軍設営隊の病院があった。

一九四二(昭17)…小字八田及び小字馬場の一部を海軍用地に貸す協定成立。
一九四三(昭18) 小字大所の大部分を海軍用地に貸す協定成立。  〉 
女布も農地の半分以上を軍に取られたと思われる。
女布:水銀地名








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水銀地名:女布
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金峰山菩提寺(舞鶴市女布)
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雨引神社の揚松明と大蛇退治伝説(舞鶴市城屋)
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