丹後の地名

河守鉱山
(こうもりこうざん)
福知山市大江町仏性寺


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京都府福知山市大江町仏性寺

京都府加佐郡大江町仏性寺

京都府加佐郡河守上村仏性寺

河守鉱山の概要




河守鉱山の入り口

《河守鉱山》

現在は「鬼の交流博物館」などが建つ「酒呑童子の里」のあるあたり一帯は、かつて河守鉱山があった所である。山の中のたいらで広い場所はそうで、現在もその施設が残り、他の用途に転用されたり、あるいは使われないままに残骸となって朽ちている(簡単な案内板でも付けておかれるとよいと思うが、現在は何もない)。

河守鉱山坑道入り口ここは二瀬川渓流の上流で、この上が千丈ケ原になるが、そこに発電用ダムがつくられた(大6年完成)。その折りに鉱脈の露頭が発見された。
昭和3年、日本鉱業が買収し、同社の本格的操業は昭和8年以降である。朝鮮戦争の特需などで26年ころから景気がよくなり、新しい頼光鉱脈の発見、近代式選鉱場の完成などと続き、最盛期は昭和35年頃。しかし昭和44年休山。昭和48年閉山となった半世紀ばかりの鉱山であった。主に銅鉱とクロム鉄を産出した。何かわからない、鉱山跡
ネコの子一匹いない今となればウソみたいな話となるが、一時は400人・100世帯、児童数200人の物成小学校があり、従業員住宅がたちならび、売店・映画館・グランド・保育園・理髪店から診療所・駐在所などの諸施設をかかえる、府下第一の銅鉱山として活気に満ちあふれた。という。


《物成小学校》物成小学校跡(仏性寺)

鉱山の従業員ばかりでなく、下請業者の従業員も多く、そうした子どもたちもいたという。
「その人たちは、鉱山の住宅には入れてもらえず、臨時に建てられたバラックに住み、家庭訪問をしても、家のわからない子があったり、一週間もたたないうちに、またどこかへ転校していく子もありました」(『大江町風土記』)。
物成校は授業中に火事となり校舎2棟を全焼した。

 〈 火事
 「先生、火事や。」と、だれかが言った。みんなが、いっせいに外に目を向けた。そうして、みなそれぞれに、
「先生火事や、火事や。」というと、先生が
「おばちゃんが、ゴミ焼きでもしとってんやろ。」といわれた。そのことばで安心していたら、先生が、
「火事だから早く……逃げてください。」
といわれ、先生は、あわてる私たちをとめて、ひなんしました。
  場所は、色々なところへいきました。やっと危くない場所をみつけたら、泣いている子もいました。なぜ泣くのか私にはわかりません。
 学校が燃えることは悲しいことですが、そんなに泣かなくてもいいんじゃないかと、はっきりしない気持で、学校を見ていました。
 そうして、明日からの勉強はどうなるのかなと思いました。昭和四十二年六月二十日の悲しいできごとでした。
         (物成小6 岩間尚子)
『大江町風土記3』より  〉 
物成校跡
翌43年暮、河守鉱山は休山となり、児童数は激減、本館だけが新築されたが、教室はついに建てられることがなかった。
『大江町風土記3』は、
 〈 鉱山の休山は、新しい鉱脈が、見つからなかったのが原因と言われていますが、むしろ、日本鉱業の海外進出、石油産業への切りかえという、会社の経営と大きく関係していたようです。
 この休山は、作文にもあるように、地元にも、親たちにも、子どもたちにも、大きな不安と心配をあたえました。そして、物成校で学んだ子どもたちは、悲しみや不安をかかえたまま、今日は何人、明日は何人と各地へ散っていきました。  〉 

45年の新入生は4人だった。これほど急激に減ったのは全国でも例がない。過疎化日本一。これは物成校だけの話ではなく、明日の皆さんの地域の小学校の話でもあります。今は問題なくとも、資本の都合次第で明日はまったくわからない。資本は資本家個人のためのもので、社会全体のためのものではありません。




河守鉱山の主な歴史記録

《大江町誌》
 〈 第二節 鉱床と鉱山
 金属鉱床の大部分は、火山の噴出・深成岩や半深成岩の貫入など火山活動に伴ってできたものであるが、当町内の鉱床はすべてこれである。
 現在町内で採掘を続けている鉱山は皆無である。

   (一) 大江山地域
 この地域の鉱山開発の歴史は比較的新しい。明治四十年ごろ広島県の人某が、作業員一○人ばかりを投入して、金時斧砥石付近の山中で金山開発を試みたが成功には至らなかった。この地に本格的な鉱山が出現したのは大正期以降である。
 河守鉱山は、大江山岩体を母岩としており、銅を主とする鉱床とクロム鉄鉱鉱床を有し、埋蔵量もかなり多かったのでこの地域の代表鉱山としてさかえた。河守鉱山の南に隣接する仏性寺鉱山では銅鉱とモリブデン鉱を産出した。
 また、大江山岩体は東側の地域で蛇紋岩化が進んでおり、蛇紋岩化の著しい部分は熔成燐肥の原料として採掘されている。中ノ茶屋では、河守鉱山閉山の昭和四十四年ごろから蛇紋岩の採掘が開始ざれ現在に及んでいる。
 (註)@大江山岩体
   大江山連峰に沿って分布する超塩基性岩には三つの岩体がある。その最大のものが赤岩山千丈ヶ原の岩体で、下見谷層を貫き宮津花崗岩につらぬかれたいも状のレンズ体をしている。最大幅五キロメートル、最大延長一○キロメートルに及ぶものである。

 (イ) 河守鉱山   大江町字仏性寺に開かれたこの鉱山は、大きな鉱床を持った町内唯一のもので主として銅鉱とクロム鉄鉱を産した。
 沿革  鉱山入口左側の山際道路ぞいに「藤原吉蔵氏碑」がある。碑には、大正六年、千丈ケ原に発電用貯水池建設工事が行われた際、同氏によって鉱脈の露頭が発見され、河守鉱山が誕生し発展したいきさつが記されている。
 この鉱山は、大正六年大江山鉱山と称して銅鉱石を採掘したのに始まる。昭和三年に日本鉱業 (当時久原産業)の手に移った。創業以来業界の不況などによって再三休山に追いこまれたが、昭和八年十一月操業を再開すると共にクロム鉄鉱の採掘も開始した。河守鉱山が新しい技術を導入し、朝鮮動乱の経済好転の波に乗って着々と業績を伸ばしたのは昭和二十六年ごろからである。昭和二十八年には、月産二○○○トンの生産能力を持つ比重選鉱場を設置している。最盛期を迎えた昭和三十六年には、月産八○○○トンの重選併用全泥優先浮遊選鉱場を新設し、昭和二十六年に開さくを開始していた搬出入用の第六竪坑は四四○メートルの深さに達した。この竪坑が、目標の地下五○○メートルに達したのは翌昭和三十七年のことである。向山の竪坑は昭和三十九年に開さくをはじめて四十年六月に終了している。
 このように鉱山の規模は拡大され、従業員住宅は山内にたちならび鉱山人口は増加していった。売店・映画館・グランド・保育園・医療機関などの諸施設も整備されて、河守鉱山は京都府第一の銅鉱山として活気に満ちあふれたのである。
 昭和三十八年の年間産出粗鉱量は一一万八○○○トンにも及んだ。昭和四十一年の河守鉱業所「採鉱慨要」によると、従業員数は二一九名で世帯数は一六二である。坑道延長は六万九九二四メートルに達し、産出した精鉱の累計(昭和一二〜昭和四一年末)は、銅鉱一四万四三九四トン、硫化鉱三万四一六六トン、クロム鉄鉱二六○○トン、銀推定一四トンとなっている。これらの精鉱は主として九州の佐賀関精錬所に送られたのである。
 やがて河守鉱山では主要鉱脈を掘り尽くすこととなり、懸命の探鉱も効なく折からの鉱山合理化の影響を受けて、昭和四十四年遂に休山となった。休山後は兵庫県猪名川町多田鉱山の鉱石処理のみを続けたが、同四十八年閉山した。残っていた鉱山諸施設の撤去を行い、坑口処理を完了してから十有余年が経過したが、幸いなことに鉱毒の流出やその被害を聞かない。現在この鉱山の社宅跡に大江町山の家が開設されている。
 (註)A比重選鉱  比重の違いを利用して鉱石と脈石を分離する選鉱方法
 (註)B浮遊選鉱(浮選) 細かく砕いた各種鉱物の混合物から、目的の鉱物だけを、水、又は他の液体の表面に浮遊させて分離回収する方法。起泡剤・捕集剤などが使われる。
 地質・鉱床 河守鉱山の南には、粘板岩・珪岩・輝緑凝灰岩などからなる古生層(下見谷層)があってこれが鉱床の下部に張り出してきている。北側には、鉱床の母岩である蛇紋岩・橄欖岩があり、さらにその北側には花崗岩類がほぼ東西に広く分布している。
 銅を主とする鉱床 鉱床は、蛇紋岩の中のさけめをうずめてできた鉱床(裂罅充填鉱床)と、輝緑岩岩体を鉱染した鉱染鉱床からなっている。鉱脈は、古生層と蛇紋岩の接触部付近にもぐりこんだ斑糲岩岩体の周辺に発達しており、東西一五○○メートル・南北七○○メートルの範囲が開発された。斑糲岩岩体を挟んで北側に位置する鉱脈群を本鉱床、南側のものを向山鉱床といい、本鉱床は東西一二○○メートル・南北三○○メート化 向山鉱床は東西四○○メートル・南北二○○メートルの範囲に分布した。鉱脈の主要なものは二十数条あり、走向延長はそれぞれ約二○○メートルで、脈幅はところによっては一メートル内外に及ぷものもあったが、平均一二センチメートルの細脈であった。銅の品位は良好で八〜一○%程度のものが多く、場所によっては一五%前後のものを産した。
 鉱染鉱床は、短径五〜一五メートル・長径一○〜六○メートル・上下に五○〜一五○メートルの輝緑岩岩体が部分的に鉱染されたもので、大小種々なものが広範囲に分布していた。鉱染部の銅品位は○・五〜三・○%であったが、鉱山では一・二%前後以上のものを採掘の対象とした。
 クロム鉄鉱鉱床 鉱床は二つの鉱床に分かれ、橄欖岩・蛇紋岩岩体の南縁部付近に産した。埋蔵量少なく、昭和八年に採掘を開始して同十七年には終了している。
  産出鉱物 主として黄銅鉱・磁硫鉄鉱・クローム鉄鉱であったが、次に産出鉱石を列記する。
・鉱脈鉱石
 黄銅鉱・磁硫鉄鉱・キューバ鉱・硫砒鉄鉱・鉄閃亜鉛鉱・方鉛鉱・合ニッケルマッキーノ鉱・含コバルトペントランド鉱・自然蒼鉛・輝水鉛鉱・黄鉄鉱・磁鉄鉱・銀鉱物・クローム鉄鉱
・鉱染鉱石
 黄銅鉱・磁硫鉄鉱・含ニッケルマッキーノ鉱・鉄閃亜鉛鉱・チタン鉄鉱
・脈石鉱物 滑石(タルク)・石英・方解石・板温石・緑泥石・その他粘土鉱物



鉱山については自然編(上巻)でふれたので詳細は省略するが、かつて町内には福知山鉱山、仏性寺鉱山及び河守鉱山(日本鉱業株式会社河守鉱業所)の三鉱山があった。福知山鉱山は大正九年に、仏性寺鉱山は昭和二十年ごろそれぞれ閉山して廃鉱となった。大江町発足後も町内唯一の大手企業として操業を続けたのは河守鉱山であるが、この鉱山も昭和四十八年には閉山となった。類別表に計上される当町の鉱業とは砕石業(町内三か所)のことである。
 河守鉱山(日本鉱業株式会社河守鉱業所) 既述のように、この鉱山は大正六年、千丈ヶ原ダム建設工事中に鉱脈露頭が発見されたのにはじまる。昭和三年に日本鉱業が買収し、同社が本格的な操業を開始したのは昭和八年以降である。
 鉱区は、大江山連峰南側の橄欖岩・蛇紋岩地帯に属する約三六○ヘクタールと、試掘区約三○○ヘクタールの区域であった。産出鉱石は黄銅鉱をはじめ磁硫鉄鉱などその種類も多く、銅及び銀がその中心であった。
 同鉱山は、昭和二十五年朝鮮動乱ごろからしだいに隆盛となり、三十五、六年ごろが最盛期であった。このころ、第六立坑が地下五○○メートル坑まで完成し、三億円の巨費を投じて近代的選鉱場も建設された。山内には、独身寮二棟のほか多数の社宅・医務室・供給所・会館・保育所・理髪所・クラブ等の福利厚生施設も整備された。昭和三十六年の山内人口は、一八一世帯七六五名に達し(別表参照)地元からの鉱山通勤者も相当数にのぼった。
河守鉱山は税収の面で大きく町財政をうるおしてきた。月産六、○○○トンの生産に伴う鉱産税をはじめ法人税・固定資産税・町民税など鉱山とその従業員から収納する町税は、町の税収総額の二割を超えていた。
 昭和四十三年八月二十一日、突如、河守鉱山は休山の運命に逢着した。鉱脈の個渇と経営の合理化がその理由であった。翌四十四年三月三十一日、鉱山では休山式を行い、残務要員数家族を残して、その他は新しい勤務地に転勤のため住みなれた山を去ったが、その転出先は北海道から四国・九州の日本全国にわたっていたばかりでなく、遠くインドネシア・南米にまで及んでいた。
 以後、河守鉱山は「多田鉱業所河守選鉱所」と改名して多田鉱業所から搬入される鉱石の選鉱を続けたが、昭和四十八年五月三十一日全面閉山となり、鉱床発見以来五五年余の歴史に終止符をうったのである。
 (註)1 河守鉱山が閉山して九年を過ぎた今日の現況は、坑道は閉じられ、建物はほとんど取りこわされ、社宅跡には雑木が生い繁って往時の面影は全くない。しかし山内に居住した人達と地元の人達との間には今なお親交が続いている、という。
  2 休山に際して、町は鉱山の主要建物の寄贈を受けた。昭和四十四年七月十八日、その建物の一部を転用して町営の「大江山の家」を開設したが、建物が老巧化したのでこれを廃し、四十八年八月二十八日「京都府青少年山の家」を現在地に新築した。旧会館は五十六年、全面的に増改築を行い(経費二、七五四万六千円)「自然環境活用センター」として生まれ変った。新装の同センターは、多目的ホール・休憩室等を設け、都会の児童・生徒を中心に、竹細工、藁細工等の研修の場として利用されている
  〉 

《図説福知山・綾部の歴史》(写真も)
 〈 府下最大の鉱山から「鬼の里」へ ●河守鉱山
 大江山・三岳山それに鬼ケ城の周辺には、古い鉱山跡がいくつかみられ、金屋・金山など鉱山の存在を思わせる地名も残っている。大江山の中腹、北原の魔谷や、福知山市天座の奥にある火の谷などには、明らかなタタラの跡も確認されている。
 福知山地方は、地質学的に極めて興味深い地域であるといわれる。舞鶴帯を中心に、北には丹後但馬帯、南に丹波帯の三つの地質区にまたがっており、狭い地域に多種多様な地層や岩石が分布し、地下資源の豊富な地域である。
 大江山には蛇紋岩や橄欖岩など、鉄やマグネシウム分が多くて珪酸分の少ない火成岩である超塩基性岩が分布しているが、蛇紋岩のさけ目を埋めるように金属鉱床が見られる。
 大江山の代表的な鉱山が日本鉱業株式会社河守鉱山であった。大江山字仏性寺に開かれたこの鉱山の端緒となったのは、大正六年(一九一七)に千丈ケ原に発電用貯水池建設が行なわれたとき、鉱脈の露頭が発見されたことである。今も発見者である藤原吉蔵の碑が立っている。
 同年から大江山鉱山として採掘をはじめたが、昭和三年(一九二八)日本鉱業株式会社(当時久原産業株式会社)の手に移った。その直後、業界の不況で一時休山に追いこまれたが、昭和八年に操業を再開、以後着々と業績を伸ばし、日本鉱業傘下の有力鉱山となっていった。最盛期は昭和三〇年代の後半で、三六年には月産八、〇〇〇トンの大規模な選鉱場が新設された。三八年の年間産出粗鉱量は一二万トンに及んでいる。二六年に開鑿を開始した搬出入用の第六竪坑は、三七年には深さ五〇〇bに達した。この時の坑道総延長は七万bであり、従業員も二〇〇名をこえ、山内人口一、〇〇〇人といわれる京都府下最大の鉱山であった。それぞれの鉱道に、酒呑童子坑、頼光坑、公時坑などの名がつけられていたという。
 この河守鉱山で採鉱したのは黄銅鉱が中心であったが、ほかに磁硫鉄鉱・クローム鉄鉱・銀鉱などであった。精錬は遠く大分県の佐賀関へ送っていた。
 主要鉱脈を掘り尽くしたこと、それに折からの鉱山合理化の影響をうけ、昭和四四年に休山し、しばらく兵庫県の多田鉱山の鉱石処理を続けていたが、昭和四八年に閉山した。
 なお、この河守鉱山のすぐ近くの及谷にも、水鉛(モリブデン)を採掘する仏性寺鉱山があった。昭和九年から操業、第二次大戦中は兵器生産に欠かすことのできない特殊鋼の原料を採掘する鉱山として栄えたが、昭和二〇年の終戦と共に閉山している。
 河守鉱山の跡地は、いま酒呑童子の里として建りつつある。地域の個性を形成し、活性化をめざす大江町の鬼伝説を生かした町おこしの拠点として、日本の鬼の交流博物館や大江山グリーンロッジを軸に、大江山の豊かな自然とも結び、新しいリゾートゾーンに生まれ変わろうとしている。(村上政市)  〉 
河守鉱山選炭場(昭40年代)

鉱山従業員の子供達
↑鉱山従業員の子供たち(大江町・昭和40年代・日本の鬼の交流博物館提供) 鉱山ではこうした子供たちの元気な歓声が鳴り響いていた。

『目で見る福知山・綾部の100年』より(キャプションも)

河守鉱山全景↑(大江町・昭和43年)大正6年から採掘をはじめた河守鉱山は、京都府下最大の鉱山として主に黄銅鉱を採掘していた。昭和44年に休山、続いて48年に閉山した。

河守鉱山社宅↑(大江町・昭和44年頃) 河守鉱山は、最盛期の山内人口1.000名に近く、従業員の住宅が並んでいた。現在の鬼の交流博物館のあたりが社宅であった。

お別れ運動会↑(大江町・昭和48年)閉山によって、子どもたちが次々と転校していく中で開かれた物成小学校の運動会。楽しさと淋しさの入りまじるお別れの運動会となってしまった。


鬼の交流博物館内の案内
 〈 河守鉱山
 この鬼の交流博物館のあたり一帯は、かつて河守鉱山のあったところである。
 大江山は古来、地下資源に恵まれ、文字通り宝の山であった。鬼嶽稲荷神社の下の谷−−奥北原の魔谷にはタタラの跡があり、いまも金糞石(鉄滓)がたくさん残っている。
 河守鉱山は、大正六年(一九一七)に千丈ケ原に発電用貯水池建設工事が行われたとき藤原吉蔵氏(現在鬼の交流博物館の手前に同氏の碑が残る)によって鉱脈の露頭が発見され、同年銅鉱石を採掘したのにはじまる。昭和三年(一九二八)日本鉱業株式会社による本格的な採鉱がはじまって以来、昭和四四年(一九六九)休山、昭和四八年(一九七三)に閉山されるまで、京都府下最大の鉱山として知られていた。
 主要な鉱石は銅鉱とクロム鉄鉱であったが、竪坑は地下五〇〇メートルにまで達し、坑道延長は七万メートルに及んでいる。年間の産出粗鉱量が最大だったのは閉山寸前の昭和三十八年で、一二万トンにも及んでいる。
 休山直前の従業員は二二〇名、山内人口は一〇〇〇名を超えていた。
 この河守鉱山の閉山は、大江町の過疎化を一層はげしいものにしたのであった。


大江山の南斜面、とりわけこの博物館から千丈ケ原にかけての一帯は、近畿地方では珍しい蛇紋岩地帯である。蛇紋岩というのは、鉄やマグネシウム分の多い超塩基性の火成岩で黄銅鉱やクローム鉄など鉱床の母岩であり、鉱脈は、この蛇紋岩と粘板岩の接触部に存在していた。
あたりに撒布している蛇紋岩片は、地中より掘り出されたものの細片である。


大江山の鬼は鉱山師?
 大江山には三つの鬼伝説が伝わっているが、これら伝説の鬼には、山人・製鉄民・渡来人それに都から排除された人々など、多様なイメージが交錯している。そして、こうした鬼伝説の担い手として、大江山修験の影が見えかくれする。
 大江山の鬼の現像をめぐって、いろいろな考えが出されているが、その中で今注目をうけているのが、「鬼」=「鉱山技術者集団」=「タタラ師」説である。
 製鉄には鉱毒がつきもの、そんな汚水が流れてくる里の農民たちには、製鉄の民への恐怖や嫌悪感があったであるう。鉄は人々に富をもたらす反面で、農民たちにとっては命の水を汚すものでもあった。タタラ師たちの炎に焼けただれた表情は、鬼とまちがうものであったのだろう。
 大江山は地下資源の豊富な山で、まさに宝の山であった。山中深く鉱滓が散布するタタラ跡が残っているが、その名も魔谷、火の谷である。両麓の、加悦町と大江町に金屋という集落があるのもおもしろい。この地名は、古代タタラ師たちの信仰あつかった「金屋子神」に由来するものといわれる。近代に入ってからも、ここ日本の鬼の交流博物館一帯にあった河守鉱山(黄銅鉱)のほか、ニッケル鉱山(加悦町)や仏性寺鉱山(水鉛)もあった。
 麻呂子親王に討たれた大江山の鬼たちが、「風と火と水を自在に操る」と表現されているのも興味深い。また麻呂子親王がこちらでは金丸親王・金麿親王・金屋皇子などと呼ばれている。
 酒呑童子物語の中で、そのすみかが「鉄の築地(ついじ=土台)に鉄の門」と表現されていること、それに酒呑童子の出生地とされる新潟、国上山の弥彦神社は、製鉄民の崇敬をうける「目一つの神」をまつるというのも興味疎い。
 鬼伝説から鬼の正体を短絡的に決めつけることは戒めなけれはならないが、大江山の鬼の背後には鉱山がひそんでいるようにみえる。
  〉 



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在りし日の河守鉱山(鬼の交流博物館展示写真)
【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『大江町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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