丹後の地名

赤坂(あかさか)
京丹後市峰山町赤坂


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京都府京丹後市峰山町赤坂

京都府中郡峰山町赤坂

京都府中郡丹波村赤坂

赤坂の概要




《赤坂の概要》
峰山市街地から伸びる網野街道沿いにある。赤坂今井墳丘墓が街道沿いにある。
赤坂村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、元和8年からは峰山藩領。明治4年峰山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年丹波村の大字となる。
赤坂は、明治22年~現在の大字名。はじめ丹波村、昭和30年からは峰山町の大字。平成16年から京丹後市の大字。
赤坂峠が以前より東へ移され、大耳尾谷に付替されている。大耳尾はオミオ、耳の字が気になる、古くはミミ族の地だったのかも知れないが読みはミオで、ミオは二尾や丹生を思い浮かべる。
三尾銅山が奈良県吉野郡東吉野村にある、ここは井光(いかり)の北5㎞くらい丹生川上神社中社のすぐ近くである。ミオや赤坂の地名からみて、このあたりも水銀地帯だったと一応は推定すべきであろう、車から眺めての話だが、削り取られてむき出しの新しい山肌の斜面に少しそうした色合いが見えるような箇所がある、舞鶴でいえば二尾や和田あたりと似てるなと感じる色が山肌の土にある。網野久美浜、福田川上流に繋がる当地一帯も水銀地帯と見ておくのがいいと思われる。

《赤坂の人口・世帯数》 339・126

《主な社寺など》

赤坂今井墳墓

大耳尾(おみお)古墳群

式内社・咋岡神社(篠箸社)
咋岡神社(赤坂)

丹波郡式内社の咋岡神社。観音寺神名帳の「丹波郡二十九前」に、従三位 咋岡(クイオカ)明神と見える。
元々は久次の咋石嶽の頂上にあったが、麓の神所段に降ろされ荒れていた、一色氏の将飯田越前が吉原庄嶺山、吉原山城のふもと(北谷町)に移し、その後赤坂村へ移したという。「峰山古事記」も峯山藩初代京極高通の時、峯山町経営のために篠著明神を赤坂村へ移したことを記す。久次村に神所段(しんしょだん・じんじょだん)という所があり、ここが咋岡神社の旧鎮座地という伝承がある。峯山町建設に際して移転させられたため、藩主はじめ旧鎮座地の北谷町一帯に住む家中の者が氏子となり、藩から毎年御神料米一二俵が下賜され、祭礼には藩主代として家老代参があったと伝えている。祭礼に水口祭があり、丹後国峯山領風俗問状答に「水口祭り神事執行仕候。一社伝来の旨候て、神官其祭式を勤申候。是則百穀能成の祈祷に御座候。農家苗代へ水を入候時、此祭の御神札、水口に竹に挟申候」とある。
山城国綴喜郡にも同名の式内社がある。元々がクシ山にあったのだから、クシ岡神社ということであろう。クシはヒジやフジの元で、それらより古い元の姿をのこしていて、この山の方が比治山よりは古い聖山かも知れないが、意味は何度も言っているようにクシフル(大(ク)ソフル)のことである。クシフル岡の神社という名で、ソフル神社のことである。篠箸というのはハシはクシの転訛か、シノの「ソの」ということか、丁寧にソのソフル神社と言ったものか。
天孫(天皇さんの祖先神)が天降ったという、クシフルタケは、一に「日向の()の高千穂の添山峰(そほりのやまのみね)」というのと同じか。豊宇賀能売命ではなく、山麓の人々の祖先神が天降った峰の伝承があったものと思われるが、今には伝わらない。神話であって天(あま)降るというのは海(あま)を渡ってやってきてここに住み着いたということを言ったものである。綴喜郡もそうであっただろうし、日本のあちこちにいたるところにこうした山があった、何も天皇さん一族だけに限った伝承ではなかったと思われるが、それらは次第に抹消されていき、天皇さんだけが神になっていった。今でも天皇さんは神様だと信じている日本人も多い。
丹後もこうした古社が多く、なんでチョーセンをありがたがって拝んで味方するんじゃと警察が怒ったとも伝わるが、ベンキョーが足りんのぉ、オマエらの大親分もご同様ではないか、それを崇拝し拝んでいて気がつかない、いかにもオマエららしい間抜けな話ではないか。

『峰山郷土志』
 〈 【神所段(じんじょだん・久次)】苗代部落・近く神所段という所があり、その付近に「神主(かじ)やしき」、「お燈明田(とうみょうだ)」の地名が残っている。『大日本地名辞書』によると、赤坂の咋岡神社(祭神豊受大神)は、古代は比治山のふもとである神所段というところの山にあったが、天正年中に峰山の山祇山(やまずみやま)に移し、元和年中、今の赤坂村に移し、京極氏の氏神と崇め-とある。
また、古老の語るところでは、神所段は真名井大明神の故地で、雄略天皇は二十二年の七月七日(四七九)勅使大佐々に命じて、豊受大神の神霊をこの地から伊勢の度会にお迎えして(九月に伊勢着)外宮としてまつられたが、その跡に分霊をとどめておかれたのを、後、咋岡神社跡(久次部落の西北裏山の中腹)の上に移し(一説、大宮屋敷)、さらに、現在の社地に移したという。
咋岡と真名井の関係は全く複雑であるが、祭神が豊受大神(一名豊宇賀能売命)であるこは変わらない。
【咋岡(くいおか)神社(式内社、赤坂、祭神 保食神)】『延喜式』丹波郡九座の一、咋岡神社である。
宝暦三年(『峯山明細記』)
篠箸大明神 一尺八寸社、上屋二間に三間、境内 八間幅七間、山左右にあり。祭礼毎年九月九日、峰山、田町の神子内膳を雇って神事を勤めるが、禰宜はなく、村支配。
(追加)宝暦六年九月、藩から今西大炊(後の今城)に祠官を仰せつけられ、同十年八月、今西河内相継…(『峯山明細記』参照)。
また、咋岡神社が峯山藩主はじめ、北谷町の家中(藩士町)の氏神となったことは、初代高通の項で述べたし、御山蔵王権現の祠官今西越後が篠箸大明神の祠官を兼ねたことも、安村稲代神社の項で説明した。
文化七年(『丹後旧事紀』)
吾歌佐歌村、祭神 篠箸大明神、豊宇賀能売命
咋岡神社は、むかし久次村の咋石嶽にまつっていた豊宇気持命であったが、一色の武臣飯田越前が神領や神殿の破却するのを惜んで、峯山に遷し、その後赤坂村にまつった。宇気持ノ神の化身が豊宇賀能メ命である。一説に、この遷宮は天正年中で、飯田越前守は一色義道の武臣である。
といっている。神主は今城越後または日向で、神子は不明であった。
(注)『丹後旧事記』の別本によると、久次村を「比治の真奈為原」に、破却を惜みて…の次に「祭日を替えて、同体の神なりと赤阪村に祭る…」とあり、どちらかを誰かが添作したものと思われる。
天保十二年『丹哥府志』は、「久次村は咋(くい)がなまって久次(くじ)となり、今久次(ひさつぎ)と読む」と村名を解説し、咋岡神社は、「この久次村の久次ヶ嶽にあったが、応仁の頃(一四六六~一四六七)一色義直の臣、飯田越前が赤阪村にうつしてまつり、そのわけはしらない。今は篠箸大明神といい、峯山家中の産砂神で、祭は九月九日である」として、天正年間(一五七三~一五八三)以前に久次から直接赤阪に移したように書いている。
天正十年、吉原城主一色五郎義清の頃、赤坂砦を守っていたのは飯田越前であるが、約百年前の応仁年間といえば、おそらく飯田越前の父祖にあたる。
慶応四年(『社寺奉行書上』)
篠箸大明神二坐、保食命、草野姫命(御霊は二柱とも実幣)、『延喜式神名帳』にのっている咋岡神社はこれである。
「社記」咋石嶽の頂にあって、年数を経たので、神殿がたいへん荒れていたのを、天正年間、一色義直の家臣飯田越前が神徳を尊敬し、吉原ノ荘山祇山の艮(東北)の林に移し、神舎を建ててまつっていたが、その後峯山県(慶応四年四月から十一月まで)の主が、陣営をはじめて造営した時、さしつかえることがあって、今の地へうつしたのである。
(注)峯山県の主とは、初代高通の元和八年(一六二二)造営をいう。また天正頃は一色義直でなく義道であろう。
明治二年(『峯山旧記』)
祭祖 篠箸大明神、豊宇賀能売命。応仁年間、吉原城主一色四郎義遠(後、四郎義清と改める)の家臣飯田越前が、咋石嶽から勧請して、吉原城鎮護の神として、一色、細川、代々産土神にまつったが、京極家が入国して、元和八年十月、社と付近にあった民家を赤阪村に移して、御館と家中屋敷を経営し、この時、殿様と北谷町の藩士の氏神としたという。
神主は今城日向(もと今西姓)、神子は妻内膳、祭 九月九日、境内社 若宮荒神および石亀明神。
いずれにしても、一色義直(応仁)、義道(天正)は、丹後一色党の宗家であって、吉原山城との直接関係はない。『峯山旧記』は、応仁説に従って、一色義遠(四郎義清)をとりあげて、時代を合わせたものであろう。
また、『丹波、丹後式内神社取調書』から「咋岡」の由来をしらべてみると、引例の中に、久次嶽の頂に二間四面の平な大岩があり、その岩の面に人の死んだ形があるのを、宇気持神の死んだお姿であるとして、この霊石を御神体におまつりしたもので、奇霊石岡(くいしおか)神社の意であるといっている(真名為神社の蓼照)。
明治六年二月十日、村社列格。
明治十二年(『神社御届』)
中御宮 一尺八寸社、御家城(上屋)三間に二間、境内 三畝一二歩、境外 一反五畝一八歩
〔境内社〕若宮社 三尺四面、明治五年鼻の森字若宮から今の地に移す。石亀社 一間四面
明治十七年(『府・神社明細帳』)
祭神 保食大神、社殿二間に二間六尺四寸八分、境内 一、〇四六坪、官有地第一種
〔境内神社〕佐田神社 六尺四寸四面、祭神 猿田彦命、由緒不詳。若住(わかずみ)神社 三尺四面、祭神 天熊人神、由緒不詳。社掌兼勤麻奈為神社、中沢義治
この『明細帳』によると、咋岡神社は奇井嵩(くしいだけ)の麓の神所段(苗代近く)にあったといっている。また、若住神社の前身が若宮荒神であろうか。
(頭注付記)拝殿(瓦葺)二間に二間六尺四寸、大正六年二月二十六日以前から存在したことを届出。
大正四年十一月十二日、神饌幣帛料供進指定。
昭和二年三月七日、震災により一部倒壊。
…  〉 


飯田越前守の居城と伝える中世赤坂城趾
赤坂今井墳丘墓の岡にあったものらしい。昇ってみたが埋め戻されたか別に何もない。
赤坂今井墳丘墓の岡(赤坂)
『峰山郷土志』
 〈 赤坂城趾(『丹後旧事記』)赤阪村、飯田越前守、赤阪イノ谷という所あり、飯谷か。『一色軍記』に「赤坂砦、飯田越前守……」。『峯山旧記』には「吉原四郎義遠一説一色義清の家士、飯田越前守が居城し、後土御門院応仁年中、久次村の咋石ヶ嶽から、昨岡神社を吉原城大部屋の谷の馬場前に移して祭った」とある。吉原山が落城した天正十年は、応仁から百十数年後に当たるが、赤坂砦の将は飯田越前守の子孫で、やはり越前守を名乗っていたにちがいないが、花々しい戦歴は残っていない。この砦が、細川興元の部将正源寺大炊介の手によって攻略されたのは、天正十年九月(一説、五月)十六日であった。…  〉 

赤坂今井城


《交通》


《産業》



赤坂の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎赤阪村(峯山の北、是より矢田村、橋木村へ出る)
【咋岡神社】(延喜式)
咋岡神社は元久次村(咋訛りて久次といふ、今久次をひさつぎとよむ)久次ケ嶽にありしが、応仁の頃一色義直の臣飯田越前赤阪村に遷し祭りその伝をしらず、今篠箸大明神といふ。峯山家中の産砂なり。(祭九月九日)  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【赤坂】赤坂の村名については、宝暦三年『峯山明細記』、天保二年『峯山古事記』は阪の字を用い、文化七年へ『丹後旧事記』は城趾の部では阪を、神社の部では「吾歌佐歌村」と仮名読に漢字をあてはめている。しかし、『一色軍記』や、『峯山旧記』は、土扁の坂の字を用い、その後、明治以降は主として坂の字である。赤坂の語源が何から起こったものか、今のように高い切通しの赤坂峠はなかったろうし、その他に、赤土をむき出した坂があったとも思えないが、とにかく、坂に関連をもつことは明らかである。
赤坂村の地域については、初代高通の項その他で述べたように、『峯山古事記』は「京極主膳正高通様の御館地に成り、
御家老三上三郎兵衛様、木村佐五左衛門様その他の給人衆(俸禄を受ける家来)は、古殿町に仮り住居をし、今の御館地にあった篠箸社と、その下から北谷町付近にある村家を、今の赤阪村の処へ引かせ、御館表御門並びに侍屋敷、鉄砲町、御組長屋等の御普請が行なわれた」とある、これは、北谷町(赤坂峠と桜尾山の谷間一帯)にあった赤阪村の一部の民家を、峠の北へ追い出したものか、あるいは、赤阪村全体が北谷町にあったものを今(天保二年)の赤阪村の位置へ移したという意味なのか、不明瞭ではあるが、赤坂田地四百四十六石二升を作る一村全部が北谷町(北浜という)に住まって、石丸村方面まで耕作に出たとは思えない。赤坂村の一部の民家が、北谷町に存在していたとみるべきであろう(赤坂-咋岡神社の項参照。
また同じ『峯山古事記』によると、峰山小学校下の表御門から、もと国警(今の法務局)および土木工営所前を迂回した表町の坂道が、桜尾山の金峰神社(現在)の下で折れ曲って桝形をつくり、この桝形の小峠が赤坂と峯山の地境で、この小峠を越えて、赤阪村大部屋ノ谷の北浜へ出たことがわかる(但し、一般の通路は、小学校下から不断町の小峠を越え、裏門へ出た)。
この大部屋ノ谷の北浜一帯を、居館や侍屋敷など、すなわち家中町造営ののち、北谷町と称し、明治三、四年頃、北谷町と表町を合わせて吉原町と改めたものである。赤坂村の民家は、こうして現在の咋岡神社付近へ引越しを命ぜられたが、峯山藩との関係はもっとも深く、したがって、峯山町とのつながりも、ことに密接であった。  〉 

『中郡誌稿』
 〈 大日仏
(峰山明細記)赤阪村 一辻堂一間半四面 本尊大日 村支配
(実地聞書)大日仏丈二尺石像也頭頂扁平なるを以て著るし伝説に当村移転の時宝冠だけ元地にのこり石原家に伝へたりと又其後京極家霊験のあらたなるを聞き旧地へ引戻したれども不思議に赤阪村の方へ倒るるより遂に復た当村へかへしたりと  〉 


『京丹後市の考古資料』
大耳尾古墳群


 〈 大耳尾古墳群(おみおこふんぐん)
所在地:峰山町赤坂小字大耳尾
立 地:竹野川中流域支流、大糸川右岸丘陵上
時 代:古墳時代後期
調査年次:1990年(峰山町教委)
現 状:消滅(工業団地)
遣物保管:市教委 文献:B045
遺構
 大耳尾古墳群は、竹野川中流に注ぐ支流、大糸川で形成された谷筋を望む丘陵上に位置する。工業団地建設事業に伴い、4基の古墳が調査された。 大耳尾2号墳
 1号墳は、丘陵部先端に造営された径24m、高さ4mの円墳で、基底部は地山整形、墳頂部は比較的多量の盛土を施している。さらに墳丘裾は丘陵斜面に盛土し幅3m前後のテラスを作り出している。
 埋葬施設は木棺直葬の主体部3基を検出した。最初に埋葬された第1主体部は、長さ5.48m、幅1.5mの規模を測る。木棺痕跡は検出できなかったが、輪郭に残る朱の痕跡から規模は長さ3.7m、幅0.65mを測る組合式木棺と推定される。棺内からは、鉄剣1、鉄鏃、土玉が出土している。
 第2主体部は、墓壙長5.68m、幅2.54mを測り、朱塗りの組合式木棺が納められていた。棺内からは鉄剣1、鉄鏃、墓壙上から須恵器群(杯身、蓋、高杯、ハソウ、壷)、土師器壷、砥石が完形で、さらに周辺から破砕された須恵器片が出土している。
 第3主体部は、墓壙長4.68m、1.96mの規模で長さ3.65mの舟形木棺が納められていた。棺内からは瑪瑙製勾玉、水晶製丸玉、管玉、臼玉、小玉など玉類が、棺上からは、棺内に落込んだ状態で須恵器杯身、蓋、鉄鏃、刀子が、さらに棺外からは、須恵器杯身、蓋3組、無蓋高杯2、装飾付ハソウ1が出土している。さらに墓壙上からは、須恵器提瓶、壷、甕が出土した。玉類や棺外の須恵器辞は墓壙北側にあり、北頭位と考えられている。
 2号増は径23mの円墳であり、背後に結3mの切り離し溝を作り、裾部を削りだした土で墳丘の半分を盛土する。4つの埋葬施設が確認され、それぞれの主体部は墳頂部縁を巡るように配置されている。
 第1主休部は墳丘の東側に南北方向に作られている。墓壙の規模は不明で、木棺は長さ3.0m、幅0.7m程度と推定される。棺内からは、鉄刀、管玉、小玉、轡や金具など馬具類、鉄鎌、刀子、鉄鏃、砥石が、棺外からは杯身、杯蓋9組、無蓋高杯1、ハソウ1、角杯1、墓壙上に杯身、杯蓋2組が合わさった状態で出土した(巻頭図版23-3)。
 第2主体部は、木棺長3.3m、幅0.8mを測る。棺内からは、杯身、杯蓋2組が転用枕の状態で検出されているほか、碧玉製管玉、ガラス小玉、刀子などが出土している。さらに棺上からは、須恵器杯身、杯蓋、無蓋高杯、鉄鏃が出土している。第3主体部は、木棺長1.9m、幅0.3mを測る舟底形木棺と推定される。棺内からは、須原器杯身、杯蓋1組、管玉2、小玉1、刀子、鉄鏃、小玉が出土している。第4主体部は、木棺長2.9m、幅0.6mを測る。礫と粘土による小口押さえが設けられる。棺内から杯身、杯蓋が転用枕とされた状態で出土したほか、管玉、勾玉が出土。棺上からは刀子が、棺外から無蓋高杯、ハソウが供献された状態で出土している。
遺物 角杯出土状況
 出土遺物には鉄製品、玉類、須恵器などがある。
 2号墳第1主体部から出土した鉄刀は、長1.1mを測る。同じ埋葬施設からは、内湾楕円形鏡板付轡が出上している。錆化が進んでいるが、Ⅹ線撮影の結果、鏡板に鋲が施されていたことが判別した。鉄鏃は全体で200点近くを数える。片刃の長茎鏃と柳葉形のものがある。
 須恵器には、杯身・杯蓋、高杯、ハソウ、提瓶、壺、甕のほか、装飾付須恵器(ハソウ)、角杯がある。装飾付ハソウは、1号墳第3主体部棺外から出土したものである。ハソウの肩に大きな耳を持つ鹿3頭を表現した装飾を付け、1頭は完存、1頭は顔を欠損し、1頭は完全に失われていた(巻頭図版23-3)。角杯は三角錐の先端部を曲げて角形にしたもので、底部先端は平坦である(巻頭図版23-3)。
意義
 大耳尾古墳群は、竹野川中流域に所在する古墳時代後期初頭の古墳群である。出土した須恵器の形態的特徴から、1号墳は5世紀末、2号墳は6世紀初頭~前半の築造と考えられる。
 この時期の径20m級の古墳2基の存在は、竹野川流域では太田2号墳(32)についで有力な古墳群と位置づけられる。埋葬施設は全て木棺直葬で、舟形木棺と組合式木棺が併用されている。地山削り出しにより墳丘を造成する古墳が多い中、比較的多量の盛土を用いて墳丘を達成している点が特徴となる。  〉 

角杯はたいへん貴重な出土物で、遙かな騎馬民族とのつながりを証明する。何ともロマンあふれる出土物である。
Web上の「角杯を求めて」に、
「角杯は新羅・加耶ではよく見られるものですから、日本列島の角杯の出現背景には新羅・加耶との交渉があると考えられます。地方で出土しているということは、地方勢力が、当時の中心勢力とされるヤマトを通さずに朝鮮半島とのパイプを持っていたということを示しているのだと思います。
ただ、日本各地に伝わった角杯は先端が平坦になったりなど、遊牧民文化とはかなりかけ離れていたはずの新羅・加耶の角杯よりもさらに変化しています。遊牧民文化のなれの果てと言えるでしょう。」とある。
われらはアメリカのなれの果てではなく、騎馬民族のなれの果てのよう。「日本を取り戻す」というのは何のことか、歴史をベンキョーして言っているか、シロートの思いつき発言としか思えないが。なれの果てが、どう何をどう取り戻すというのだろう。立派な騎馬民族に戻るというのか、今のようにアメリカの属国よりはそれはずいぶんとよいが…
若狭美浜町の国道27号沿いの獅子塚古墳(前方後円墳32m)からも2点出土している。
『考古学西から東から』(森浩一・中公文庫)に、

 〈 三方郡美浜町の獅子塚古墳は、明治年間に一括遺物をだした前方後円墳であるが、一九七八年道路の拡張工事で再発掘され、古式の横穴式石室の構造が判明した。近畿とその北部を含めると、若狭は和歌山県とともに古式の横穴式石室の点在するところであり、それらの古墳の被葬者の性格を鮮明に復元する必要がある。遺物のなかに、日本には稀な角杯(かくはい)形須恵器が含まれていて、環日本海地帯では新羅、とくに慶州の古墳に多い器種である。大和との関係という定式的視点だけでなく、北九州・出雲・朝鮮半島などとの関係という新しい視点にたつと、この角杯形須恵器が重要な意味をもつことになり、それを製作したらしい須恵器窯址も付近でつきとめられてきた。  〉 

『福井県の地名』は、
 〈 被葬者は、耳別の一族のものといえよう。「古事記」の開化天皇の段では、その子日子坐王の子室毘古王は若狭耳別の祖とあり、皇統譜の伝承に記載される人物を祖とすることからも有力な地方豪族であったと考えられる。当古墳築造に際して南にある興道寺(こうどうじ)窯が開かれたことは確実であり、出土の角坏二点も同窯跡で焼かれている。ちなみに角坏を副葬した古墳としては、岐阜県関市陽徳寺(ようとくじ)一号墳に一点が知られるのみで、きわめて特異な副葬品といえよう。さらに古墳以外の角坏の出土例としては石川県羽咋郡志賀町中村畑遺跡がある。  〉 

綾部市豊里町の長砂南遺跡からも出土した。ここは土師器製のもの。「舞鶴市民新聞2002.6.18」に、
 〈 *由良川 考古学散歩97*一日の終わりに*
 一日の作業が終わって、その日に出土した遺物が運び込まれてくる。発掘調査が行われていればごくありふれた光景だ。だが、その日はちょっと違っていた。綾部市豊里町にある長砂南遺跡の発掘調査を行っていた平成十二年(二〇〇〇)三月三日のことだった。
「角抔(かくはい)が出ました」。聞きなれない遺物の名前を言いながら調査の担当者が現場からもどってきた。私は自分の耳を疑った。角杯は知ってはいるが、まさか身近で出土するとは思ってもいない。全国的に見ても十数例しか出土していないからだ。京都府内では峰山町に一例だけある。
 「これです」。差し出された土器はまさしく角杯だ。だが、今度は自分の目を疑った。私の知っている角杯のほとんどは須恵器という硬質の土器なのだ。しかし、そこにあるのは土師器という軟質の土器なのである。
 そのとき、以前に読んだ新聞記事を思い出した。土師器で出来た角杯は富山県利田横枕遺跡で一例あった。土師器製では佐賀県切畑A遺跡での出土以来、二例目というから、長砂南遺跡の土師器製の角杯は三例目ということになる。その後、兵庫県山東町柿坪遺跡にも土師器製の角杯があることを知った。それでも全国で四例しかない稀有な土器である。
 「住居跡から出ました」。担当者の説明に、私の常識を疑った。日本では普通に角杯といえば須恵器製=古墳の副葬品=祭祀用品という思い込みがある。土師器製の四例を調べてみると、すべてムラの中からの出土だった。土師器製はムラでの祭祀用品なのだろうか。
 角杯はユーラシア大陸の遊牧民族が儀式に使った牛の角製の酒器(リュトン)がルーツという。大陸で角製から金属製に変わり、さらに朝鮮半島に伝わった段階で土器になった。五世紀後半から六世紀に日本へも伝わり、須恵器製以外に日本独自のものとして土師器製の角杯も作られるのである。角杯を通して世界と通じていたという事実は疑う余地もない。  〉 


赤坂の小字一覧


赤坂 アソダ 赤坂 井ノ谷 家ノ下 家向 今井谷 家ガ坪 今井 今井小谷口 打越 大谷口 大谷 大耳尾 大畑カへ 岡 後谷 オテエ谷 後谷口 上 笠ケ谷 国広 ケ上越し前 小耳尾 コサアコ 五反田 小畑カへ コヲザコ 下ノ谷 青水谷 下ノ谷尾 青水谷口 砂田 千束 銭亀 谷丁田 土橋谷 就田 土橋谷口 土橋 峠ノ谷 通り谷 殿町 谷 ナカセビ 中谷口 中谷 西木 登尾 広畑 東谷 平越前 ブロ 船山 ホエカ谷 松賀谷 麦ケ谷 山崎 ユリカク ランマク

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京都府与謝郡与謝野町
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 若狭・越前
市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん



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