丹後の地名

海士(あま)
京丹後市久美浜町海士


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


京都府京丹後市久美浜町海士

京都府熊野郡久美浜町海士

京都府熊野郡海部村海士

海士の概要




《海士の概要》
アマというのは海のことだが、そこに住み生計をたてる人々もアマという。当集落は今では海からは2キロばかりも内陸になっているが、この地名ができた頃はこの辺りまでは海が入り込んでいたものと思われる。『地名辞書』ですら、当地は海がないから海部ではなく余部のことだろうとしているくらいである。川上谷川下流域の西岸の山麓に位置する。
熊野郡のクマ、久美浜のクミなど、古い耳族のことのように思えてくる、海士ぱかりでなく一帯は広く海人の拠点であったのではなかろうか。

当地には神服連海部直の館があったと伝え、地内の式内社・矢田神社は海部直の祖・建田背命およびその子武諸隈命・和田津見命を祀るとされる。
『丹後旧事記』

 〈 神服連海部直。日本古事記日本旧事記に曰く神服連海部の直は皇孫六世旦波国造、但馬国造等の祖也、大日本根子彦太瓊尊治下御世(人皇七代孝霊天皇)此館跡今も川上庄海部の里に殿垣六宮廻といふ田地の字ありと細川少将忠興順国志にあり王代の人住を我名とせる事其例多し川上の庄は凡当国の国府の始なるべし。  〉 
『和名抄』の熊野郡海部郷。高山寺本・刊本とも訓を欠くが、尾張国海部郡を高山寺本は「アマヘ」、刊本は「阿末」と訓じる、肥前国宗像群海部郷には阿末、安萬の訓注がある。郷域内の中心地の当地「海士」は、「あま」とよびならわすので、海部はアマベではなくあるいはアマと読むのかも知れない。固く信じて疑う人もないが、丹後海部は「部」、部民などではなかったのかも知れなくなってくる。
同じ「海部」と書くが明治22年の当地の自治体「海部村」はカイベと読み、籠神社の社家海部氏はアマベと読んでいる。
中世は海士郷で、「丹後国田数帳」に「一 海士郷 四十四町六段百九十八歩 佐野四郎」と見え、「丹後御檀家帳」には「一 川かみのあま 家八拾軒斗」と見える。
海士村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、元禄10年宮津藩領・幕府領に分割されるが、享保2年からは幕府領のみ。宝暦13年但馬出石藩領、天保6年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年海部村の大字となる。
海士は、明治22年~現在の大字名。はじめ海部村、昭和30年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《海士の人口・世帯数》 229・69

《主な社寺など》

神服連海部直屋敷跡
当地は丹後海部氏の伝説の地で、但馬海岸から若狭湾に至る海部族を支配した海部直は、その根拠地を当地に置いたと伝えている。
村はずれの丘陵に海部直の館跡といわれる六宮廻(ろくのまわり)(現在は楼宮廻と記し、ロウミヤマワリと読むそう)の地名が残り、また海部直の祖である建田背命およびその子武諸隅命・和田津見命を祀る矢田神社がある。

『丹後旧事記』
 〈 神服連海辺亙。日本古事記日本旧事記に曰く神服連海辺の亙は皇孫六世旦波国造、但馬国造等の祖也、大日本根子彦太瓊尊治下御世(人皇七代孝霊天皇)此館跡今も川上庄海部の里に殿垣六宮廻といふ田地の字ありと細川少将忠興順国志にあり王代の人住を我名とせる事其例多し川上の庄は凡当国の国府の始なるべし。  〉 

『丹哥府志』
 〈 【磯砂山笛原寺】(真言宗)
神服連海部直(人皇七代孝霊天皇の御宇に熊野郡川上の庄に国府を造る)の子笛連王、母を節媛といふ、人皇八代孝元天皇の仕へ奉り丹波与謝郡比治の里笛原に国府を造る、比治は今丹波郡比治山の麓五箇の庄なり。順国志に云。比治山の麓比治真名井ケ原の辺りに磯砂山笛原寺といふ大伽藍あり、伽藍の後山を比治山足占山といふ、豊宇賀能売命の天降り玉ふ處なりといふ。元亀二年将軍信長公延暦寺を焚焼せし時其僧遁れて丹後に匿る、於是丹後の寺院これが為に廃寺となる挙て数ふべからず、笛原寺の破壊せるもの蓋此時なり、今其跡に一堂あり行基以来の薬師観音の二像又弘法大師の像を安置す、堂の傍に坊あり僧徒一両人住居せり、其坊より四五丁斗の隔てて山門の跡あり礎石残る、其傍に古碑あり今読べからず。
【笛の浦】(一に府江原と記す)
笛連の府跡なりとて山中に海部の名あり、海部は其父直の姓なり。
名寄 名に高き波立よりて聞しかは  笛の浦にも風き吹なり   〉 

『京都府熊野郡誌』
 〈 神服連海部直の屋敷跡。海部村大字海士に六宮廻り(ロクノマワリ)といへる地名あり、古来海部直の屋敷跡と伝へるる処なり。伝説には矢田神社の境内に隣接せる小字宮ノ谷といへる地をも海部直の屋敷跡といへど、そは海部直の末孫たる仲原岩夫の系図に、丹後守松丸後矢田神社の神主となるとありて、神職の屋敷の在りしを誤り伝へしものならん、丹後旧事記等による順国志を引きて、今も川上海部里に殿垣六宮廻りといふ字あり、王代の人住所を以て我が名とする凡例少からずと言へり。殿垣は現今村の中央畑地の小字にして、古来建築物を忌むといへり。弥生式土器及び石器の出土せる地にして、海部族の繁栄と共に大に研究に値する処なり。六宮廻りは村外れなる丘陵畑山林等の小字にして、眺望に富む。周囲の状況、一見古屋敷跡たりし事を知らる。扶桑略記に丹後国熊野郡川上庄海部の里を国府とし館を造る依って海部直と号すといへるは即ち此の地にして、古来学者先輩の考証を経ざるも、史的研究上大に興味ある問題といふべし。  〉 

『京都府熊野郡誌』
 〈 (丹後旧事記)神服連海部直者、皇孫六世、丹波国造、但馬国造等之祖也、大日本根子彦太瓊尊天下御代(孝霊天皇)。
(扶桑略記)丹波国熊野郡川上庄海部里ヲ国府トス館造依テ海部直ト号ス
(順国史)此館跡今も川上庄海部の里に殿垣六宮廻といふ田地の字名あり、王代の人住所を我名とせること其例多し、川上庄は凡当国の府なるべし。
註 与謝郡府中籠神社宮司海部藤富氏は海部直の苗裔にして、其の祖養老年中熊野郡より転地せりと聞く。而して館跡等に就きては、村誌海士の部を参照すべし。  〉 

『加佐郡誌』
 〈 大化の新政以前に於ける本郡については、記録の徴すべきもの少きが故に、今は唯歴代の領司を列記かるに止めて置く。神服連海部直。日本旧事記に曰く、神服連海部直は、皇孫六世にして旦波国造、但馬国造等の祖也人皇第七代孝霊天皇の御世とあり。又扶桑略記に曰く、丹波国熊野郡川上庄海部里に国府の館を造れるに依て海部直と号す。此の館の跡は今も川上庄海部里に、殿垣六宮廻といふ田地の字あり。とあり。蓋し川上庄は凡当国の国府の創であらう。  〉 

『丹後路の史跡めぐり』
 〈 海部直の館跡
 旧海部村の海士(あま)は海部の本拠である。海士の六宮廻(ろくのまわり)は海部の統領神服連海部直(かむはとりのむらじあまべのあたえ)の館のあった跡といい矢田神社を祀っている。付近に殿垣などという地名もある。
海部は古代丹後海岸に大きな勢力を張った豪族で、近隣はもとより日本海の荒波をのり切って遠く朝鮮や沿海州の渤海などの国々とも交易していたらしい。
丹波道主の征討によって大和朝廷に仕え、丹波郡五箇にうつって豊受大神に奉仕し、養老元年(七一七)これを与謝郡の府中にうつして籠神社に祀り、与謝の大領に任じられて国司の下で郡司をつとめた。籠神社を氏神としている所からみて豊受大神の一族ではなかろうかとも思われる。  〉 

『丹後町史』
 〈 一、神服連海部直(かむはとりのむらじ、あまぺのあたい)
第七代孝霊天皇(前二九〇)の頃丹波の国熊野郡川上の庄海部の里に丹波の国を治める役所即ち国府をおいて地名をとって海部(あまべ)といい、丹後海岸地帯に住んでいた海部族をひきい、大きい勢刀を持った地方豪族であり、津姫神を祖とし、丹波・但馬における国造の祖であるといわれている。

一、笛連王(ふえむらじのきみ)
日本書紀によれば神服連海部直の子で、母は節名節媛といわれ第八代孝元天皇(前二一四)に仕え父の府の跡を領したが丹波比治の里(いさなご山麗)五箇の笛原に国造の役所を置いたという。この里は「笛の浦」ともいい名高い真言宗笛原寺の伽藍のあった里である。  〉 

『久美浜町誌』
 〈 籠神社祝部氏系図
海士の仲原家に伝わる古記録には次のように書かれている。
  神服直海部直
 往古海ニシテ船ノ通シ処ヲ与謝郡籠守神社底筒男命卜心ヲ合セ、此ノ海浦ヲ分陸トナス
 (中略)
古此処海ニテ有リシ故、此ノ里ヲ海士卜云 亦海部トモ書ク、部ノ字分ツト云心シテ唱ウト也 此処ニ船縻松トテ大松アリ松本卜云
 神主ハ養老年中ヲ元祖トス 此時ノ舎弟神命及由緒ヲ以テ与謝郡籠守神社ニ仕故ニ両者共氏ヲ海部ト名付ク(後略)
海部直家が祭神を与謝郡に分祀したのは、「仲原文書」によれば養老年中だということになる。
「仲原文書」を裏書きするように、宮津市府中の籠神社に伝わる「篭名神社祝部氏系図」(重要文化財)には「養老三年己未三月廿二日、籠宮に天下り給う」とあり、養老年中に海士から府中に移り住み、そこで先祖神を祀ったことを明らかにしている。また海部直愛志が養老三年(七一九)より天平勝宝元年(七四九)まで三一年間奉仕しているのに、その子海部直千鳥・弟海部直千足・弟海部直千成の三兄弟の名前の下に養老五年(七一二)より養老十五年まで奉仕したと記されている。養老年中に二組の奉仕者があるわけで、これも「仲原文書」と共通する点がある。
 養老三年という年は、平城京に遷都された和銅三年より九年後であり、丹波国から加佐・与佐・丹波・竹野・熊野の五郡を割いて丹後国を置いた和銅六年(「続日本紀」)より六年後である。ちょうど丹後の国府が与謝に設けられ、ここが政治上の中心地になった時期である。更に一国一社制が公布されたことも加わって、海部直家がこの丹後の中心地に根拠を移したのであろう。  〉 

式内社・矢田神社
矢田神社は集落の奥、小字宮の奥に鎮座、「延喜式」に名がみえる。海部直の子孫が代々祝として仕え、もと橋爪村の安田に祀っていたが中世現在地に移転したという。ヤタかあるいはヤスタのスを省略したか、それよりもたぶん安田はヤスダでなく、アタでなかろうか。アタ→ヤタ、だからアタ・ワタ・ヤタは同じことで海のことと思われる。アタ神社ともヤタ神社とも呼んでいたと思われ、古来橋爪・海士両所の氏神。
矢田神社(海士)

『丹後旧事記』
 〈 矢田神社。海部里矢須田邑。祭神=大宇賀大明神 豊宇気持 延喜式小社。
勧請同垂仁天皇の朝麻須郎なりと伝ふ近世真言宗の寺持と成て坊官誤て□(口偏に奄)賀大明神と神号す略縁記を作らんが為私意を以て斯なせしとかや此類世上に多し。

川上摩須郎。当国熊野郡川上の庄須郎の庄に館を造る開化天皇より崇神、垂仁の朝に至る。古事記に曰く旦波道主命娶川上摩須郎の女生御子比婆須姫渟葉田入瓊媛真 野媛薊瓊入媛朝廷別王以下五柱。川上摩須郎は将軍道主の命と共に当国に有て熊野郡川上の庄に伊豆志禰の神社、丸田の神社、矢田の神社、三島田の神社を祭る。  〉 

『丹後史料叢書五』「丹後国式内神社取調書」
 〈 矢田神社
【覈】海士村、国人佐治摂津云元ハ矢須田村(今橋爪村ト云フ)ニ在リシヲ何ノ頃海士村ニ遷座スト云傳ヘタリ其訳知レズ然ルニ近来マタ橋爪村ニモ社ヲ建テ祭レリト云フ【明細】海士村和田津美神社九月十三日【考案記】佐野村八幡社ヲ矢田八幡ト記セル年號無之書付一枚アリシヨリ今般双方式社ノ申立アレドモ海士村ノ儀ハ古来ヨリ矢田明神ト唱ヘ来リ且ツ文永天正等ノ棟札ニモ矢田神社トアレバ海士村ヘ決定可然【豊】海士村字宮ノ谷例祭九月十三日【道】此神社橋爪村ヨリ海士村ヘ移セリト謂モ橋爪ニ跡ナシ佐野村八幡宮正シキ社地ナリ佐野村ニ古記アリ曰矢田八幡ト云餘ハミナ応神天皇ノコトノミナレパ云ニタラネド矢田八幡ト云トバカリハ拠ベキナリソハ板列八幡菅八幡狭宮八幡ナドモミナ本ノ名ヲ冠セタルナリ此類多カルベシ)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)  〉 

『京都府熊野郡誌』
 〈 矢田神社 式内村社 海部村大字海士小字宮ノ奥鎮座
祭神=建田背命。相殿=和田津見命、武諸隅命。
由緒=式内社にして其の創立最も古し、按ずるに海士の地は往古神服連海部直の居住地にして、館跡を六宮廻(ロクノマハリ)といふ。海部直は丹後の国造但馬国造等の祖にして、扶桑略記にも丹波国熊野郡川上庄海部里爰国府とあり、されば海部直の祖たる建田背命及び其御子武諸隅命和田津見命を斎き祀れるも、深き由緒の存する処にして、また其の子孫の祝として代々仕へ来れるも、縁由する処を知るに足る。而して口碑の伝ふる処に依れば、元矢須田に鎮座ありしが、中世現地に移転せりといひ伝ふ。さればにや古来橋爪海士両所の氏神として尊崇し来れる処なり。明治四十五年幣帛神饌料供進神社に指定せられ、益々神威の発揚を見るに至れり。
氏子戸数=百貮拾戸。
境内神社。蔭森神社。祭神=淡夜別命。
     山王神社。祭神=大山祗命。
     山神神社。祭神=大山祗命。  〉 

摂津国島上郡服部郷に式内社の神服神社(本来はカムハトリだが今はシンプクと読むよう・大阪府高槻市)があり、神服氏の本貫地だろうとされる。亀岡の下矢田から府道6号線(枚方亀岡線)で、高槻の市街地に入った所の道路沿いにある。私も何度がこの街道は走ったことがあるが、確か「高槻街道」とか呼んでいたように思うが昔のことで確かではない、夜中のことゆえこうした丹後に縁深い神社があったことなどは記憶にない。
郷名から見てもわかるように服部氏の根拠地であったとされ、元々は氏の祖神を祀り、服部神社と称していたが、服部の部を省き、頭に神を加えて神服の社名にしたと伝わる、それは延喜年間(901~23)とされるから何もさして古い話でもない(『古社紀行』などによる)。
神服連とは要するに服部連のことである。服部は綾や錦などの高度な織物機織技術の集団で、漢織(あやはとり)呉織(くれはとり)の名があるように朝鮮や中国からの渡来技術者であった。一般に、いや学者センセですらもそう言うが呉は魏蜀呉の呉国ではなく高句麗(コクレ。コは美称、大日本帝國の大と同じでフツーは用いない、日常会話ではクレ)のこととも言われる。舞鶴と同じように軍港都市であった広島県呉市の「呉」もやはり高句麗のことと思われる、翻訳すれば(高)句麗市、今の国名で言えば北朝鮮市ということになるのであろうか。漢は安耶国という伽耶諸国の一国であった。これはお隣りの綾部市のアヤである。韓国や北朝鮮にも残っていない古い国名が日本にはあちこちに残っている。本当はそうした歴史を有する日本であることはたいがいの国民は知らないでいるのではなかろうか。
私が若い頃に住んでいた所が摂津国のこのあたりに近いが、そこには呉服(くれは)神社という式内社があった。クレハタオリ神社というのが本来だろう。北摂のかなり広い範囲がハトリであり、服部という電車の駅や服部緑地があった、この国はどうなってるんだ、将来もし時間ができたら調べないといかんな、若き頃、この神社の横を歩きながら思ったものである。
神服神社では百済からの渡来といい、百済・安耶系とされる、もともとは高句麗系の渡来人の祖を祀っているのであろう。「ハットリ君、キミは渡来人の末裔だな」と言われてとかいう話を何かで読んだことがあるが、気にすることもない、日本人というのは天から降ってきたかのように信じられているが、古くルーツを尋ねてみれば、たいていはそうしたもの、ワレラの先祖は一番近い所から海を渡ったのである。…
丹後は一般に新羅伽耶系(天日槍系・秦氏系)が多いように思われるが、神服氏は百済系のようで、百済びいきの大和に気に入られたのかも知れない。大和というか、もう平安京の時代に入ってだいぶしてからの話ではなかろうか。桓武天皇の生母は高野新笠といって、百済王家の血を引いた人であった。
『京都の中の朝鮮』(朴鐘鳴)は、
 〈 桓武天皇と母である高野新笠は、血のうちに流れる渡来人の系譜を強く意識していた。政治の場では、桓武朝に、高句麗出身の高麗福信、百済系の上刈田麻呂・和家麻呂・坂上田村麻呂・菅野真道(『続日本紀』の編纂者の一人)の5人もの渡来系氏族の出身者が、議政官になっている、このように渡来系の出身者が、多数高位・高官に就いた例は、この時代以外にはない。  〉 
としている、神服連はずいぶんと古い氏族かのように伝えられてはいるが、実際はそうした時代のハナシではなかろうか。
また「仲原文書」では神服直となっていて、神服連ではない。また『先代旧事本紀』天孫本紀に天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(火明命)の「六世孫建田背命。神服連、海部直、丹波国造、但馬国造等祖」とあるが、まったくの同名同姓の海部系の氏族があったのかも知れない。
倭文などが織物だけでなく金属とも関係した集団であったようにこの氏も金属とも関係が強いよう、祭神の名からもそれは窺える。本来は渡来氏だったと思われるが、どこから尾張氏と繋がるのかわからないのだが、たぶん丹後海人にワシらは尾張海人と同じの伝承があったものか、あるいは近くにいた意布伎氏のものを取り入れたのか、あるいは古い丹後王家の伝承なのかも知れない。神服氏は丹後海部集団に融合していつからか海部氏とも名乗るようになったのかも知れない。服部と名乗ったのは雄略以降の話であって、それ以前の丹波道主命などの栄光の丹後王家(丹波氏)とは元々は関係がないと思われる。新しく服部と名乗る以前の古くから水銀を求めて当地に摂津あたりから土器を携えてやってきていたものと思われる。
一方籠神社の「勘注系図」には、こうした話はまったく見られないが、十四世孫川上真稚命を竹野郡将軍山、一云熊野郡甲山に葬る、十五世孫丹波大矢田彦命を熊野郡川上郷尾土見甲山将軍岳に葬る、十八世孫丹後国造健振熊宿禰を熊野郡川上郷安田に葬る、その児丹波国造海部直都比を熊野郡川上郷海部岳に葬る、などと見える。しかしこの時代にすでに郡(評)や郷の地方制度をもった中央国家があったかは怪しく、こうした注文はずうっと後の世のものであろうか。しかし先祖がこの辺りにいたようには伝えていて、しかもこれらの系図に記された最後の年代は嘉祥年間(848~51)であり、系図はその直後に作成されたようであるが、神服氏は系図作成以後の誕生ということになる。


真言宗饒渡山宝珠寺
宝珠寺(海士)
『京都府熊野郡誌』
 〈 饒渡山 宝珠寺 海部村大字海士小字寺ノ谷
真言宗正智院末
本尊=観世音菩薩 行基の作。
由緒=天平七年の創立に係り、行基菩薩の開基なりといひ伝ふ。抑も当寺は開山後曹洞禅寺なりしが、其の大破に及ぶや、寛文の頃字大向接迎寺の後学正人、教を繕ひ頽を起し、改めて真言密寺となす。依って後学正人を中興開山と唱ふ。正人は寛文五年正月入寂せり。  〉 
「饒渡山」の山号が以前から気になっていて、誰がおられるといいのだが、と思いながら訪ねてみた。立派なお寺で法事でもひかえておられたか、何人もが忙しそうにしておられた。恐縮しながらご住職の奥様(たぶん)に教えて頂いたのだが、「おっしゃる通りです、ニョウト山と読みます」。やっぱり丹生土山だ。真言宗のお寺だし、ここは水銀の可能性が高い、しかしどんな文献にもそうした記述はない。花崗岩の山だけれどもこの山並みは女布神社の故地だし、新谷があり、古い古墳が集中し、古くから熊野郡の中心地であった、歴史の奥に水銀が隠れていても何も不思議はない。


海士城
一色氏の将、仲原氏の城跡。集落の裏山大月の尾に殿様屋敷とよぶ地があり、海士城跡がある。「一色軍記」には「海士村 仲原権之太夫」とある。仲原家系図に丹後守松丸はのち矢田神社の神主となり、その長男仲原権太夫義氏・次男仲原権太夫義幸が元和元年(1615)神主となる、とみえる人物と同一人かという。

『京都府熊野郡誌』
 〈 海士城は字海士に在り。天正年中一色家部下諸将の一人にて、山上大月の尾に、殿様屋敷といへるあり、丹後一覧集等仲間権之太夫とあるは、仲原の誤にて、仲原は海部直の子孫丹後守松丸の男中原権之太夫義氏ならん。

海士城址。大字海士に在り、仲原権之太夫居城にして、現今山上大月の尾に殿様屋敷といへるは即ち是なり、海部直の子孫なりといへる仲原岩夫の系図に、丹後守松丸後矢田神社の神主と成るとあり、其の男に仲原権太夫二男仲原権太夫義幸元和元年神主と成るとあり、此時始めて仲原姓を名乗る、丹後一覧記等に海士砦仲間権太夫とあるのは、仲原の誤りにて、砦を設け茲に篭れるは仲原義氏ならん。  〉 


《交通》


《産業》


海士の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 熊野郡
一 海士郷  四十四町六段百九十八歩  佐野四郎  〉 


『丹後国御檀家帳』
 〈 一川かみのあま    家八拾斗
かうおや
  向左衛門尉殿     鎌谷与五郎殿  〉 


『丹哥府志』
 〈 ◎海士村
【鐃渡山宝珠寺】(真言宗)
【矢田大明神】(祭九月九日)  〉 

『くみはまの民話と伝説』
 〈 水戸口の切りとり 海士 小森悦治郎
現在の海士村の北は甲山より南は市場の方まで、一面に海であったと伝えられていて、このあたりは早くより開けていたとのことです。
海士の松本、今の下地の地蔵堂の屋敷に大きな松の木があって、それが舟つなぎ場であったと聞いています。
先年海士の大火事にその松の木は焼けて株のみとなっておりましたが、昭和三十五年頃区内の道路が町道となりそのため道を拡張したので今では全く影響もありません。
なお現在の海士の耕地は大水もなくよい耕地となっていますが、これについて古い話を述べてみます。
昔湊村の水戸口は、浅くて舟の出入が困難なため、湊村の人たちがこの水戸口を切り下げ通運をはかったといいます。
それで上流の水は直ちに減って、このあたりまでよい耕地として使える様になったといいます。
今も地下三米も堀り下げると土中よりは砂・海草・根木等多量に出てくる所があります。
で当地では水戸口の切りとりが六月の二十三日であったので、その日を水戸口祭として、農家は一日休み泥水は流さぬようとの言い伝えがあります。  〉 

『くみはまの民話と伝説』
 〈 矢田神社の三番叟 海士 仲原義雄
矢田神社は今より凡そ千年の昔、延喜の頃より知られた神社で、祭神として建田背命を相殿として和田津見命・武諸隅命二神をお祀りしてあります。
この氏神様の例祭は四月十五日で、神官を招き大祭をとり行い、輿の村中の渡御もあり、その間に三番叟の舞も行われます。
この三番叟は前夜祭と十五日の昼の二回行っていました。
この三番叟は今より数百年前はじまりました。
十年余り前まで続いておりましたが、現在は一時中止の有様です。
当時は役者三名とはやし方六名余り、その他村方世話係として三名を以って組織し、毎年祭以前約十日間ほどならして、前夜祭と当日の輿の渡御の間の二回行なっております。
これにつきその内容を申しますと、三番叟をふむ役者は三名で、白キジョウと黒キジョウとセンダイの三名で、この舞子どもは祭典前日キジョウは七日間黒キジョウは五日間センダイは三日間別飯を食べて身を潔めて祭典に出たのであります。
それにつきまして昔よりの伝説を少し申し上げます。
昔、隣村に豪勢な初老の祝をした人がありました。その時に海士の三番叟が招かれて、座方一同が当家に参上して、準備も整いこれから始めるという時に、当家の主人が挨拶に出まして、
「今日は」
と言って挨拶しました。
おそれをなしたのか、「今日は」、「今日は」といいつつ後へ後へと下がり、とうとう馬屋のかんぬきをはずしい馬屋の戸をはずし、何処とも知れずに出て遠くへ行ってしまいました。
あとで大勢が探しに行ったところ、但馬出石方面に居ることがわかって、その人を迎えにいったという話が伝っています。
そのため三番叟は祭典以外どこへも行かれぬということになっています。
この様な有難い三番叟も今日では中止になっておりますが、その理由の一部を申し上げます。
この役者三名は両親がそろっておること、二つには家族親族に不幸のあった場合は一ケ年以内は出ぬということです。
この他小学生青年の若き者共、その他ハヤシ方世話係の人にも右の様なことがあった場合は一ケ年間はこの行事に出られないということであります。
いろいろの条件でこの行事も継続困難で、現在は一事中止となり、それでも時々有志者で再開の話もでていますが.現在では見こみもありません。  〉 


「仲原文書」がどこにあるのか現在は不明になっているという。『久美浜町誌』(1970)しか見た人がなく、引用した書がないとばかり私は勝手に思っていたが、『両丹地方史13』(1971.4.1)に金久与市氏がもう少し詳しく引いていた。同じ頃なので、この頃以前には確実に見られたものと思われる。氏の「古代の丹後海部考」に、
 〈 中原氏所蔵の“古記録“には次のように記されている。
    神服直海部直
 往古海ニシテ船之通シナク与謝郡籠守神社
 底筒男命ト心ヲ合此海浦ヲ分陸ト成ス此由
 緒有ヲ以人皇七代孝霊天皇原為祭賜其後人
 皇十一代垂仁天皇御宇川上庄真須良王矢須
 田ノ里ニ始テ殿造ニテ矢田神社ト奉崇賜
 天正元癸酉年ニ一色式部大輔義通海部里ニ
 奉移也古此処海ニテ有シ故此里ヲ海士ト云
 亦海部トモ書 部ノ字分ツト云心シテ唱ト
 也 此処ニ船縻松トテ大松有松本ト云 神
 主ハ養老年中ヲ元祖トス 此時ノ舎弟神命
 乃由緒有ヲ以テ与謝郡籠守神社エ仕故ニ両
 社共氏ヲ海部ト名付然処一度神家無官乃時
 有故ニ 中略 一色式部大輔義通嫡男一色
 丹後守源松丸ヲ元祖トス

 この“古記録“所蔵の中原氏は、その祖を一色義通の嫡男一色丹後守松丸という。この子孫が仲原氏を襲名し、明治の中ごろに仲原を中原と改めた。

   中原氏家系図
一色松丸-仲原権大夫義氏
      └仲原権大夫義幸-海部直源義珍
 -義晴-義重-義清-義村-義近-義珍-
 -義珍-義珍-義道-義直
       神祇伯王 安政六年正月八日
         ↓
       神祇省長官
         花山天皇孫王子が
         任命 その後世襲

             仲原静之助
               海部源義直
 仲原氏は京都の白川家(白川御殿という)の配下で、代々“伊賀“と称していた。養老年中に政治と祭祀を分離したことであった。すなわち海部直家が、与謝郡に祭神を分祀。ちょうどこのころは丹後国が、丹波国より分割、更には一国一社制が公布されたことなどにより、海部直家が、交通の便利と、丹後の国府か与謝郡に設置され、ここが政治上の中心地とをみたことを考えての遷宮に他ならなかった。
 籠神社に建田背命の始祖である天火明命を祀って、これを海部直家(系図で海部直都比のこと)の祖とした。この事は、宮津志に、「系図に籠神社神主海部直祖、天火明命、品太天皇御宇定海部直姓」とある。
 尚、籠神社税部氏系図に「児海部直千鳥
弟海部直千足
弟海部直千成 税 従養老五年至長老十五年仕奉」とあることから察せられる。  〉 




海士の小字一覧


海士(あま)
ジヤンコシ 安田奥 峠谷 ヲワサ山下 中谷 焼荒神 八幡谷 八幡上側 八幡下 八幡西側 名不知 八幡北側 松原 湿田 松原西側 番屋敷 番前 番下 宮ノ奥 安田口 垣丸 井原 アライ子 神田 友田 洗子 荒根 小田ス 登ノ垣 柳ケ坪 上桶 家ノ上 天王下 マカリノ上 寺ノ下 フセンカ チチ荒神 寺ノ谷 寺ノ奥 寺ノ上 家敷上 家ノ前 直助畑 本屋家敷 マカリノ下 惣藪 上山 下八幡ノ下 シヤンコシ 大月ノ尾 宮ノ奥口ノ切 勘蔵ノ下 半助ノ下 家敷ノ上 家ノ下 林蔵ノ下 家敷ノウラ 井戸ノ前 家ノ上下 家敷ノ上 家ノ西 嘉平ノ下 下道 家ノウラ 家敷ノ前 岡道ノ下 深田 岡道 イン居家敷 前田 常五郎西 馬ノ瀬 大下 辻堂ノ崎 地蔵下 浅町 野ケ崎 惣助下 家ノ裏 ヌレ田 六ノ廻リ 新カワラ 一本椿 五ロ口 五ロ 堤口 堤奥 石ケ谷 六マハリ 荒神 岡サカ メクリ尾 和田外 狐ツカ ノガ崎 地蔵ノ下 寺谷 四反田 六反田 古義口 高橋 油池ノ子 油池イ子 カケツ 甲山イ子 一中田 掛津 古義 岩崎 七口 長力谷 カイ谷 蛇ヌケ 瓢タン谷 七谷 瓢タン谷口 石取場 キヒカ谷 キツタノ場 ナメラ谷 ナメラ谷口 狸谷口 狸谷 本谷 七口向 来ハン 法迎寺 西ワキ 西脇 仏ケ谷 西側 白戸 赤池 別ソウ 瀬替 向山 向田 海原 藪田 荒イ子 砂子 平ケ坪 向友田 鳥居崎 札ノ辻 惣助ノ下 岡堂 別所 仏谷 永助 供芝田 江川 上上地 岩ハナ 溝シリ 大ユ田 男山 イモ子 中ノ谷 峠ノ谷 番屋敷 本屋屋敷 井戸上 家敷裏 屋敷ノ下 苗代 平右エ門下苗代 平右エ門下 稲木場 岡道ノ下苗代 隠居家敷 屋敷ノ前 辻堂崎 岡サガ ギビガ谷 溝尻 浅町下

関連情報






資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市

 若狭・越前
市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2014-2015 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved