安養寺(あんようじ)
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京都府京丹後市久美浜町安養寺 京都府熊野郡久美浜町安養寺 京都府熊野郡佐濃村安養寺 京都府熊野郡上佐濃村安養寺 |
安養寺の概要《安養寺の概要》 佐濃小学校(廃校になったという。昭和20年には舞鶴明倫と余内の145名疎開児童を受け入れてくれた学校)の裏側の小さな谷間の集落。佐濃谷川の支流安養寺川が北流し、集落は同川に沿ってある。 地名は村内の寺名が転化したもの。禅宗普門山安養寺は、もと真言宗の大刹で、江戸期には当時の寺より1町程隔てた地に山門の跡があったという(丹哥府志)。 「丹後国田数帳」に「佐野郷廿五町九段百二歩内 六町八段百五十歩 安養寺」と寺名が見える。 安養寺村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、享保2年からは幕府領。元禄4年の大洪水で村の形が変わってしまったという。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年上佐濃村の大字となる。 安養寺は、明治22年~現在の大字名。はじめ上佐濃村、昭和26年佐濃村、同33年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。 《安養寺の人口・世帯数》 106・30 《主な社寺など》 八木神社 安養寺のお寺の少し手前である。小字札の木に鎮座していた八木(やぎ)神社は、通称猫荒神といい、猫の守神とされるという。神殿に小石が置いてあり、鼠が荒らすとこの石を借りて家に置けば描の代りになるというが、いまは石などはなかった。 『京都府熊野郡誌』 〈 八木神社 無格社。祭神=国常立命。 由緒=不詳。崇敬者人数=四十一人。 〉 案内板があった。 〈 由緒 当区においては古来より三玉神社(小字信池。奥津彦命・奥津姫命)・産魂神社(小字上末。産魂姫命)・八木神社(小字札木。祭神不詳)の三柱を祭祀していたが数年来より区民より之を合祀せんとする発議あり爾来数多の論議を重ね神官田中正治氏の諒解を求め漸く昭和四十六年合祀の爲境内地を選定し三月にその造成を行い社殿の設計造営については当区出身峰山町岸本工務店能勢正治氏に依頼し着工し仝四十七年二月上棟式四月遷座祭を行い茲に三社合祀新社殿造営落成を迎う此の間当区出身京都在住奥田正之氏より境内地七拾八坪・仝大阪在住奥田吉治氏より大鳥居壹基の寄進あり 更には当区並びに区民を始めとし広く縁故者・近隣寄進者等より数多の金品の寄進を納受し総額参百伍拾万円の浄財を以て新しい社殿を造営し奉り永く後世に伝授す 維時昭和四十七年壬子年四月十五日 建設委員 … 〉 府中の飯役社の近くに根子宮があるが、これは奈具社のことだと言われている。当地のネコもやはり奈具のことかと思われる、ナキが八木となったのだろうか。ニッポンがヤポンになるようにナキがヤキになることはないことはなさそう。当社も奈具社なのかも知れない。 また八木はハチキとも読めるから橋木の癸枳神社も奈具神社なのかも知れなくなる。上佐野にはもともとからあったような神社は当社くらいしかない、当地周辺も元々は奈具族の開発になるのかも知れない。 曹洞宗系単立寺院普門山安養寺 本尊の十一面観世音菩薩は定朝作と伝える。 『丹哥府志』は、普門山安養寺は元真言宗なり、寺より一町斗り隔て山門の跡あり、昔は大刹なりと語り伝ふ、今古記焼失して伝記詳ならず。と伝えている。 寺記は、保延四年(1138)永信霊昌が南都東大寺から移り、伽藍を建立したと伝える。のち寛文三年(1663)宮津智源寺二世橘州宗曇を請じ、曹洞宗に改宗し再興したという。 『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』には、 一 佐野郷 廿五町九段百二歩内 六町八段百五十四歩 安養寺 一 万願寺 一町 安養寺 と見えて、今も立派なお寺だが、往時の盛んなさまがしのばれる。 『京都府熊野郡誌』 〈 普門山安養寺(上佐濃村大字安養寺小字寺ノ谷 曹洞宗智源寺末) 本尊=十一面観音菩薩。脇立=三十三所観音。 由緒=当山旧記を按ずるに、保延四年三月永信霊昌大僧正南都東大寺より移り、伽藍を建立せられしと言ひ伝ふ。抑も当山は仏法最初の道場にして、七堂伽藍を有し門末六院ありしといふ。幾多の星霜を経大破に及びしが、寛文三年三月宮津智源寺二世橘州曇大和尚を請じ、曹洞宗に改宗再興せり、されば宗曇大和尚を中興の開山と唱ふ。丹後国総田数帳を見るに、佐野郷の内六町八段百五十四歩の寺領ありて、往古の盛なりし事を知らる。 境内堂宇 地蔵堂 本尊 地蔵菩薩 庚申堂 本尊 青面金剛 仏体=本尊十一面観世音菩薩は定朝の作にして、外に運慶行基の作と伝ふる五体の仏像あり、元末院の本尊なりしと言ひ伝ふ。 〉 境内広大、歴史も古い立派な寺院で、山門なのか鐘楼なのかちょっと見かけない藁葺で、文化財級かと思われる。 藁葺寺院は近頃はさっぱりと見なくなった、めずらしいので喜んで写していたら、ちょっとお茶でも飲んでいきなされ、話し好きの老師でもおられるのかと思っていたら、私よりも若そうな和尚さんだった。こんな特製のせんべいももらってしまった。 地域の将来に悩んでおられた。村が成り立たなくなります、もっとこうしたところへ目を向けてもらわないと。景気が上がった下がったなどの目先のことなどはどうでもよいことです、上がることもあれば下がることもある、景気はそうしたものです。しかし地域社会は一度失われれば二度と再生できません。景気などほっといてここに政治エネルギーを割いてもらいたい。 大資本は栄えるかも知れないが国亡ぶ。ゼニはたまるかも知れないが村は荒廃し衰亡する。佐野だけの問題ではない、日本国中どこでも同じであってエエトコばっかり宣伝してカゲは隠して見ないフリ、地域に未曾有の人災が襲いかかっている、日本社会全体に対する何度も発せられた警告だが、だれも目を塞ぎ耳を傾けず、何の対策もビジョンもない、まさに政治がない、そしていよいよ土壇場に来てしまったよう、あと三年もつか、次の三年はもつか、あやしくなってきた。このさなかにも若者がふるさとを出て行ってしまう、もう珍しくも変わったことでもない、当たり前の光景になってしまった。地域が何千万円とかけて育てた地域の宝が高校出て大きくなれば資本のもとにはいどうぞと企業戦士とかなるよう差し出される。都市も農村も国全体の有機的な繋がりのある欠かせない構成体で、農村が消えても都市だけで発展していけるというものではない。たくさん子どもがいるふるさと、それが当然となる国にもどしたいものである。 呪われた黄金崇拝、「金目でしょ」、人間社会に大昔からあった問題である、何もイカレた政治屋だけではない、多くの国民がゼニしか目が向かない、ゼニ以上に価値あるものがわからない、情けない国にしてしまった、アメリカの属国がアメリカの命令で海外で戦争する、武力やゼニ、こうしたもの大きな価値があるかのように思い込み、呆けてしまうと人間をふるさとを根底からダメにする、儲かりまっせ、景気がようなりまっせ、の悪徳商人や悪徳政治屋には決してだまされぬように…、 《交通》 《産業》 安養寺の主な歴史記録『丹哥府志』 〈 ◎安養寺村(久美浜街道、佐野村の西) 【普門山安養寺】(禅宗) 普門山安養寺は元真言宗なり、寺より一町斗り隔て山門の跡あり、昔は大刹なりと語り伝ふ、今古記焼失して伝記詳ならず。 〉 安養寺の小字一覧安養寺(あんようじ) 札ノ木 寺ノ下 寺ノ谷 下地 上地 タツチウ 岡田 ノブ池 本谷 谷峠 上末 梨ノ木 墓ノ下 菅谷 立中 信池 仲屋 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『丹後町史』 その他たくさん |
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