丹後の地名

橋爪(はしづめ)
京丹後市久美浜町橋爪


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京都府京丹後市久美浜町橋爪

京都府熊野郡久美浜町橋爪

京都府熊野郡海部村橋爪

橋爪の概要


《橋爪の概要》



川上谷川流域の久美浜高校や海部小学校があるあたりの集落。橋爪・安田・西橋爪より成る。当地から海士にかけて弥生後期の橋爪遺跡がある。
中世の「丹後御檀家帳」に、「一 あまのはしつめ 家八拾斗」とあり、また「一 屋すだ 家拾軒斗」とある。
橋爪村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、元禄10年幕府領、宝暦13年但馬出石藩領、天保6年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年海部村の大字となる。
橋爪は、明治22年~現在の大字名。はじめ海部村、昭和30年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《橋爪の人口・世帯数》 147・46

《主な社寺など》

橋爪遺蹟
矢須(安田)というのは今の久美浜高校のあるあたりで、学校建築に伴う調査で発見された。弥生中期~古墳中期まで途切れることなく営まれたいた集落遺蹟で、かなり広い範囲と交易していたことが判明した。
『久美浜町史・史料編』
 〈 橋爪遺跡 遺跡番号二六
字橋爪小字矢須に所在する。遺跡は川上谷川右岸の河岸段丘上に立地する。調査は過去五回行われ、弥生中期と弥生後期末の遺構が検出されている。遺構は溝と土坑が主体で竪穴住居などは検出されていない。第二次調査土坑SK一八六は上面幅一・三メートル、深さ二〇センチの不整方形状の穴で、この底面から弥生中期中葉の土器が一括出土した。また同調査で検出した溝SD二一ではⅣ層を中心に弥生中期後葉の土器が出土した。またこの溝の上層では弥生後期中葉の土器が出土した。またこの調査の包含層から石包丁、偏平片刃石斧、柱状片刃石斧、太型蛤刃石斧などの石器類、山陽に分布の中心が見られる分銅形土製品などが出土した。溝SD二一Ⅳ層出土の弥生土器は丹後地域の弥生中期後葉(畿内第Ⅳ様式併行)の典型をなすもので、鉢・高坏・壺などに凹線紋を多用する。甕はタタキによって整形した後、ハケメとヘラミガキで外面を調整している。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 橋爪遺跡(はしづめいせき)
所在地:久美浜町橋爪小字矢須
立地:川上谷川中流域右岸扇状地
時代:弥生時代中期~古墳時代前期
調査年次:1967年(府教委)、1980、81、87(府センター)、1998年(久美浜町教委)
現状:調査範囲は全壊(久美浜高校)
遺物保管:市教委、丹後郷土資料館
文献:C036、C046、C066、C123
遺構
橋爪遺蹟は、久美浜高校の敷地内にあり、校舎建築に伴い過去5回の発掘調査が実施された。
1967年の第1次調査では、弥生時代後期の包含層が確認された。第2次、第筋5次調査では居住域の中心と思われる部分を調査した。第3次調在では遺蹟の縁辺にあたり、古墳時代前期の多数の木器、加工木を含む層を確認している。
第2次、第5次調査では弥生土器の伴う多数の柱穴と多数の溝状遺構を検出したが、遺構の性格を把握することができていない。その多くは、竪穴住居等の建て替えなどに伴うものと椎測するに過ぎない。第2次調査で検出されたSD21は、幅2.5~3.Omを、深さ0、6mを測る丘陵裾部を南北に走る構である。第Ⅳ層から弥生時代中期後葉の遺物が、第Ⅱ層からは後期中葉の土器が出土した。
遺物
SD21出土の遺物にっいて述べる。SD21第Ⅳ層からは、多数の石器と弥生土器が出土した。石器には、核種のものがある。磨製石鏃は、磨製石剣の切先部を再加工したものである。扁平片刃石斧には、小型のものがある。柱状片刃石斧も小型である。太型蛤刃石斧は、大型品が少ないのが特徴的である。石皿(台石)、磨石、敲き石も一定量存在するが、石製穂摘み具(石包丁)は出土していない。Ⅳ層出土の弥生土器は、貼り付け突帯から構成される鉢なども存在するが、全体的には、櫛描文で飾るものはなく、凹線文での加飾傾向が強い。壺は、従来の広口壺に加え、直口壺(2)、大型で有段口縁をもつもの(6)、精製した胎土を持ち口縁端部が丸めるもり(5)などがある。甕は、内面をはけで調整したのち、底部から削り上げるものが目立つようになる。鉢も台付きのものなど器種が増え、凹
線文での加飾が目立つ。高坏も口縁部や脚柱部に凹線文を施す。これらの土器群は、丹後地域の中期後葉の様相を示すものである。なお、18は、中部瀬戸内地域を中心に分布する分銅形製品である。SD21の第Ⅱ層からは後期中葉の土器がまとまって出土している。壷、甕、高杯の口縁部には、数条の擬凹線文(多条の平行沈線文)を施す、外面を丁寧に磨いて調整する壼が多いのがこの時期の特徴で、同時期の大山墳篇群出土の墓ヘの供献土器と集落の土器を対比できる資料である。
ほかに、後期後半の遺物も多数出土している。
意義
丹後地域において、中期後葉を代表する集落遣跡の一つである。遺構の重複状況、出土遺物の量から川上谷川流域における中期の拠点集落と考えることができる。後期前葉の断統期を挟むものの後期後葉まで集落は継続している。後期中葉には、集落の東側の丘陵上に、墓地(276:茶臼ケ岳7、8号墓)が営まれている。  〉 

『丹後の弥生王墓と巨大古墳』「弥生大形墳墓出現前夜の土器様相 高野陽子」
 〈 この時期(弥生前・中期)に注目される資料としては、吉備地方に分布が集中し、祭祀性の高い遺物とされる分銅形土製品が、興・観音寺遺跡や、福知山市ケシケ谷遺跡、そして丹後の久美浜町橋爪遺跡でも出土していることであろう。とくに橋爪遺跡では、分銅形土製品とともに、播磨系の土器が出土しており、瀬戸内海から播磨を経由し、加古川を遡り、北近畿に至るルートが、中部瀬戸内系の土器の流入の基本ルートであったことをよく示している。  〉 

茶臼ヶ岳古墳群
茶臼ヶ岳古墳群の発掘調査


氏神は海士の矢田神社


浄土真宗本願寺派白蓮山光徳寺
『京都府熊野郡誌』
 〈 白蓮山 光徳寺 海部村大字橋爪小字宮ノ谷
真宗本派本願寺末
本尊=阿弥陀如来。
由緒=延宝三年三月釈教徳の開基に係れる所にして、口碑の伝ふる処によるに、当寺は御陵守菩提の為め惣道場を開き、阿弥陀仏画像を安置す。安永八年白蓮山光徳寺と称し、摂州富田本願寺末なりしが明治八年本派本願寺末に属せり。  〉 

海部小学校
海部小学校
平14年3月閉校となった。昭20年には中舞鶴校の学童集団疎開を受け入れてくれた。

《交通》


《産業》


橋爪の主な歴史記録


『丹後国御檀家帳』
 〈 ―あまのはしつめ  家八拾斗
 孫 左 衛 門 殿    助 左 衛 門 殿
 かへしする人、此方のやとせられ候方、此人の方ニ而
とゝのへ申候
 〆
一屋すだ      家十軒斗
 藤 左 衛 門 殿    まごさへもん殿
 〆  〉 


『丹後旧事記』
 〈 人皇十三代成務天皇の臣下即位四年甲戌諸国に立長置稲置神服連の府跡海部の矢須の里を国府とす此代葛野浦日村味鎌麿を朝子長者と號くと倭国史に見えたり。本朝歴史伝に曰く大矢田宿禰は成務、仲哀、神功の三代に仕て神功三韓征伐の後新羅に留り鎮守将軍となる新羅毎年八十艘の貢を入れる。  〉 


『丹哥府志』
 〈 ◎橋詰村  〉 




橋爪の小字一覧


橋爪(はしづめ)
ヨウコフ 矢須田 大ザイミ 宮尾下 宮尾口 宮尾谷 一本松 小谷口 竹ノ下 小谷 酒屋敷 立木口 立木 ユルガ下 イト向 古川 上小森 下小森 堀ノ後 立長 平ケ坪 ヘラ町 ゾブ 八反田 永助 宮ノ谷口 宮ノ谷 ヨウ中 通リ谷 鳥居崎 アワラ ユウカフ 宮ノ尾 宮ノ尾下 宮ノ尾谷 宮ノ尾谷口 平ケ坪

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



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