丹後の地名

 五十河(いかが)
京丹後市大宮町五十河

−伝説の美女の里−

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京都府京丹後市大宮町五十河

京都府中郡大宮町五十河

京都府中郡五十河村五十河

五十河の概要




《五十河の概要》

 小野小町の里で知られる集落だが、竹野川の最上流五十河川の流域、高尾山(620m)の南麓一帯に位置する。古くは五十日と書いたという(丹哥府志)。三重郷のうちであったと推定されて、内山観音の享保9年棟札に「丹後中郡三重谷五十河村内山」、寛政2年棟札に「丹後中郡三重之庄五十河村内山」と見える。
近世の五十河村は、江戸期〜明治22年の村名。端郷に内山がある。はじめ宮津藩領、以後寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、享保2年より幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年五十河村の大字となる。
近代の五十河村は、明治22年〜昭和31年の中郡の自治体で、延利・明田・五十河・久住の4か村が合併して成立した。旧村名を継承した4大字を編成。同31年大宮町に合併。村制時の4大字は大宮町の大字に継承された。
五十河は、明治22年〜現在の大字名。はじめ五十河村、昭和31年からは大宮町の大字。平成16年から京丹後市の大字。高尾山の南東、標高約500メートルの所に、技村内山の集落がある。
明治初期までの五十河村の青年は冠祝(烏帽子儀)をすませて若連中に入ると、部屋住居をともにし、浄瑠璃・小謡・生花・碁・将棋から三味線まで習い、祭・狂言も盛んにした。また姫引などを行った(五十村村沿革誌)。活発な若衆宿があったということだろうか。

 地誌類では以上のような説明だが、例に漏れず古代史が欠け落ちていて、大事な所なのに、これでは五十河の古代は何もわからない。普通はわかったかのように書くか、無視して飛ばすかとなるのだろうが、それでは何も丹後は理解できまい。こうしたこともよくわかりまへんのや、と正直に書く方が、知ったかのように書くよりは好感がもて、将来の解明に向けてタネが蒔けるかも知れない。わからずとも、というよりまずはわからってはいないとしっかりと自覚して新たに挑戦はしてもらいたい。遠い過去と現在の間にはいくつも歴史の断層があり、今では荒唐無稽な話に聞こえるかも知れないのだが、五十河、五十日は、イカカともイカコとも読まれる、イは接頭語だろうから、カカあるいはカコ系の地名のように思われる。この与謝郡にはよく見られる名で、籠神社、香河、嘉久屋橋など。カカはヘビの古語だろうか、カコもそうだろうが、銅などの金属も意味する。ヘビ信仰を持つ金属集団が開いた地かと思われるのである。

イカガという語は、古くは伊迦賀色許男(いかがしこお)命、伊迦賀色許売(いかがしこめ)命がある。兄妹だと書かれている。
伊迦賀色許男命は、崇神天皇の三輪山伝説、「即ち意富多多泥古命を以ちて神主と爲て、御諸山に意富美和の大神の前を拝き祭りたまひき。又伊迦賀色許男命に仰せて、天の八十毘羅訶を作り、天神地祇の社を定め奉りたまひき」(記)。「伊香色雄に命せて、物部八十手が作れる祭神之物を以ちて」(紀)。三輪山を祀った氏族の筆頭格のようである。『姓氏録』でも、穂積氏や矢田部氏など実に多くの物部氏系氏族の祖神となっている。
伊迦賀色許売命は、「此の天皇、穂積臣等の祖、内色許男命の妹、内色許売命を娶して、生みませる御子、大毘古命。次に少名日子建猪心命。次に若倭根子日子大毘毘命。又内色許男命の女、伊迦賀色許売命を娶して、生みませる御子、比古布都押之信命」「此の天皇、旦波の大縣主、名は由碁理の女、竹野比売を娶して、生みませる御子、比古由牟須美命。又庶母伊迦賀色許売命を娶して、生みませる御子、御真木入日子印惠命。次に御真津比売命。又丸邇臣の祖、日子国意祁都命の妹、意祇都比売命を委娶て、生みませる御子、日子坐王」(開化記)。
日子坐王の子が丹波道主命とされ、丹後とは何とも関係深い記事の中にイカガが見られることになる。
枚方市に伊加賀という所がある、『和名抄』の河内国茨田郡伊香郷で、高山寺本は「以加古」、東急本は「以加加」と訓している、ここが伊迦賀色許男命などの本貫地と考えられている。式内社の意賀美神社が鎮座する、オカミはヘビである、三輪山の神はヘビ、そうしたことでイカカのカカがヘビである可能性が高まる。高尾山一帯にはにはヘビ伝説がなかろうか、鍜冶伝承がなかろうか。ヘビ女房の昔話などが伝わっている、ないはずはないと調べてみるとやはりあった。
この地の 大蛇伝説鬼伝説木地師伝説

近江の羽衣伝説の伊香は物部氏系のようだが、丹後の五十河も物部系氏族がやってきて開いた地ではなかろうかと考えられる、式内社比定説が強い木積神社があり、穂積氏であったかも知れない。
淀川から琵琶湖、さらに丹後へと移動する道筋は天日槍と同じルートであり、丹後を開いた古い渡来集団は、日本海直行派だけでなく、瀬戸内海まわりでやってきた集団もあったと思われる。


 内山のブナ(小町公園)
内山(落山)という枝集落が高尾山にあったが、昭和48年に廃村になった。今の常識に従って、五十河の枝村などと書くが、どちらが枝村でどちらが本村かは、実は簡単ではない。ワタシは本・枝の関係は逆ではなかろうか、などと考えるが、さてどうだろう。今の五十河の集落から北の山懐へ3qばかり入った、標高500mばかりの山腹。このまま北へ行けば宮津市の駒倉(廃村)、や京丹後市味土野に出られるようである。一帯は丹後の屋根「丹後チベット」「丹後ヒマラヤ」の本場で山は高く、丹後最高峰があり、さらに急峻である、人があまり立ち入らないため自然はよく保たれている。
内山集落の東北方数百mに長者屋敷の伝説地がある。三重長者五十日真黒人の屋敷跡といわれ、真黒人が、億計・弘計の二王子をここにかくまったという。屋敷跡と伝える所に石組の跡が残る。また内山観音堂は妙法寺の跡という。
内山のブナ林が有名だが、体長10pばかり山椒魚が生息する、「内山の山椒魚」として知られる。地元ではアンコとかコタラギとよんだ。

『大宮町誌』
 〈 内山地区
 五十河の集落から府道とは名ばかりの急な坂道を北東に登ること約三q、標高五○○mの所に内山があり、わずかに耕作されている田畑が見え、それ以外は植林地と雑草地がひろがっている。
 内山地区は大宝(七○一〜七○四)の昔、この地に真言宗の高尾山妙法寺が建立され、山内百姓として人々が住み始めたといわれている。昔はこの山懐に二町歩余りの田畑が開かれており、妙法寺が焼失した後も、その住民はあらゆる悪条件を克服して営々と近年まで農業を続けていた。
 内山の呼称について「三重郷土志」は次のように説明している。「又曰く皇係(億計・弘計三皇係のこと)御零落の故を以て落山といふ」と書いて、雄略帝の頃三重長者五十日真黒人を頼って二皇孫がこの地に落ちて来たので「落山」というという説をあげている。地名を伝説に附会することはよくみられるところであるが、昔この地を落山と呼んだのは事実とみえて、もと内山観音堂内に把られていた観音像の台座の裏に、仏像を修理した塗師の書き入れがあり、
  「奉しんじん 貞享五辰年(一六八八)(中略)いかがさとおち山村」
の文字がある。この「おち山村」が誤記でないとすれば、享保一九年(一七三四)の観音堂の棟札には「三重の庄五十河村内山」と記されているので、内山と呼ばれたのは元禄(貞享五年は元禄元年)以後のことであり、それ以前は落山といっていたようである。
 この地区は一六戸の農家がいずれも田上姓を名のり、「たうえ」または「たのうえ」と読んでいたが、昭和の初期には七戸に減り昭和十年には一戸を残すの家となった。昭和四七年九月の台風は大雨をともない府道の寸断・土砂流失などの被害をもたらしたが、この激甚災害がわざわいして最後の一戸も翌四八年ついに下山し、内山地区は完全な廃墟となった。
 内山地区の自然環境
 積雪 最も少ない年で一m余、多い年は三mを越す。
 産業 米作及び畑作
    農業と養蚕。
電気及び通信 電気及び電話はついに導入されなかった。
主要施設までの巨離
 旧五十河小学校・旧五十河村役場・五十河郵便局及び農協まで五q、国鉄丹後大宮駅へ一二q、大宮
町役場まで一一・五qである。  〉 

『中郡誌稿』
 〈 内山観音
観音堂(曹洞)
観音堂は元高尾山妙法寺の寺趾なり、文武天皇大宝二年府中国分寺より此の地に移すといふ棟札あり開山詳かならず
(村誌)字高尾山高さ凡二百五十間周囲凡三十一町本村北の方嶺上より三分し西は久住村に属し北は与謝郡須川村に属し山脈東派し高山に連次す樹木雑木草也(下略)
(実地調査)内山妙法寺は往昔真言宗にて大寺たり本尊観世音は霊験著明なりと今其観音像を拝するに新しく塗り易へ却て尊厳を失したるが如し堂傍小五輪の四方に梵字仏像を刻したる者数個并に小石仏あり堂の北畑地に妙法寺趾なりとて礎石近年に至る迄列存せりとて今も数個残れり此近傍より小仏像及花器を発掘す礎石皆焼けて赤し火災に罹りしなり此山奥にして此の如き一大寺趾あり昔日の繁栄想ふべし字内山はもと家数八軒のみにて寺への参詣人に據り衣食せしものなりしに中頃一時廃絶に帰したりしを再興し現今十三戸に及ぶ再興の時代を問ふに齢八十歳の里老答て曰く其年は申年にして六十年目を四回重子たる申年に自分の生年は当るなりと山中暦日を知らざるの趣見るべし即ち老人は文政七年甲申に生れ其より遡ること二百四十年天正十二甲申再興のこととなるなり但し真偽は如何にや同地仏像二体棟札三枚あり左の如し
一十一面観音像 木像 長一寸八尺 蓮花二寸八分
一馬頭観音像 銅像 地中発掘にして妙法寺本尊なりと云ふ
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丹後国中郡三重谷五十河村内山
于時享保十九年二月十七日
奉造立高尾山妙法寺観音堂
 世話人村中家数八軒
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丹後中郡三重之庄五十河村内山水月之道場者云(横付の二)山号於高尾山(横付の一)云(横付の二)寺号於妙法寺(横付の一)尊像者救世観音大士至霊仏也古従(横付の二)同国府中国分寺(横付の一)有(横付の二)放光来(横付の二)迎此境(横付の一)時茲大宝元年丑年乎今享保二十乙卯年迄千二百十二年也矣
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  維時 寛政二戌星六月十有七日
  奉再造観音堂并御宮殿  世話人村中

付 内山の山椒魚
(実地調査)内山に山椒魚頗る多し小児捕へて玩ぶ俗「アンコ」と呼ぶ又「コタラギ」とも称ふ春分に渓流の小石の下に卵を付く大さ指の太さにて長さ三寸計り細長き白き袋にて数個の透き通りたる點を有す秋分に水中より山に上り初め十一月頃には全く水中に居らず之を捕ふるには降雪前渓間を漁れば数十匹を獲雪降れば漸く水に入り流水中に其期を過す但し長三寸位より大なるはなし
内山は五十河の山奥にして屏風を立てたる如き高尾山の真下に当り中、与謝、竹野三郡の境盛夏の頃猶ほ涼を覚え民家一年防雪の備を撤せず幽邃閑寂真に仙境なり内山の民家より東北数町長者屋敷と称する所もあり  〉 

『中郡誌稿』
 〈 (丹哥府志)五十河村(延利村の東古名五十日今五十河に作る)
(村誌)本村昔時は丹波郡三重郷に属せしか其年号干支等不詳中郡五十河村とは村内人家続に字五十河谷と唱ふる深谷あり依て其字名を取り村名となすと云ふ然れとも何れ頃より称へ来るや年号干支等不詳
(実地聞書)字五十河谷の奥に三重長者五十日真黒人の邸趾と伝ふる地あり村落より二十町程奥にして石垣を築き十坪ほど三段になり居ると云其周囲に殿様薮といふ竹薮もありと言伝ふ(真黒人の事は三重久住等参照)
(延利村長岡田総右衛門氏談話)古来三重の荘五十河の里と称し三重以北は皆五十河の岡の宮の氏子にて部落の人民は皆同社に参詣し帰りて延利にて相撲をとり行きしものなり云々
(丹哥府志)五十日足彦尊 垂仁天皇御宇に丹波道主命の五女召されて皆皇妃となる五十日足彦尊は其第四妃薊瓊入姫の子なり道主命の孫に当り五十日村より貢を奉る
 按、五十日足彦尊書紀には見えず古事記に據れるなり又記紀共に薊瓊入姫の姉なる渟葉田瓊入姫の子膽香足姫命あり彦姫二命の御名五十河に因む歟前に三重の条に日下部族の此地方に蔓衍したるを説きたり同族は彦坐王の裔にして丹波道主命と同系なり我古代に於て開化天皇の裔三丹地方に盤據したる形迹を察すべし  〉 

内山までの道が途中崩壊しているらしく、車両通行止めのため、行ってみることができない。花崗岩の山はよく大きく崩壊する、もともとが立派な道で大型の工事車両などが入れない、通行量も少ないために回復までは何年もかかるのではなかろうか。「歩いてなら行けます」と書かれている。

 新宮。五十河の枝郷。
五十河の東側の谷に位置している。
三社神社(五十河新宮)
三社神社
『大宮町誌』
 〈 三社神社(元村社)新宮小字川向
祭神 迦具土命・興津彦命・興津姫命
内山から五十河の霧宮神社境内に移転した三柱神社の祭神と同じである。迦具土命は鎮火の神、興津の二神はかまどの神であるが、明治維新までは新宮大権現と称していた。
明治の初年の神仏分離により、神社の仏像、鰐口を廃したのに、当社には現在も観音菩薩が安置され、社前に鰐口がある。同鰐口に「三社大権現、明和七年(一七七○)井上安兵衛」の銘がある。
 神職 島谷旻夫(兼)(周枳大宮売神社神職)
 明治一七年の「神社明細帳」によると、当社はもと三柱神社と称していたが、明治一五年八月一七日に三社神社と改称許可されるとあり、内山の神社も同年月で、三社神社と称していたが、三柱神社と改称して許可されると記されている。  〉 


 〈 五十河寺跡    新宮小字尾垣
 往昔新宮に川守山五十河寺と称する真言宗の寺があったという。弥栄町和田野芦田行雄蔵の古文書(大庄屋の文書)に「川守山五十河寺」の名が見え、小字尾垣には山麓に屋敷跡とみられる水田があり山際に地蔵尊数体を祀っている。古老もここを寺屋敷と呼んでいるが、年代その他詳細は不明である。  〉 

『中郡誌槁』
 〈 三社神社、社格村社社地東西四間南北九間面積四十坪社地除地なり祭神軻遇槌命興津彦命興津姫命祭日十月三十日本村枝郷字新宮戌亥の方にあり
右四柱共神体木像たりしが明治六年社寺御改めの際神体白幣に被改三柱の神社を除く外三社共村社に被列社名も右記載之通御改めに相成候  〉 


《五十河の人口・世帯数》 143・71



《主な社寺など》

五十河遺跡

新宮窯趾。
新宮の小字貝尾(かいお)の山中に、7世紀中・後期の須恵登窯(無段半地下式)跡3基がある。
新宮窯跡の案内看板(新宮)
新宮から縦貫林道へ入る道(小野坂。昔はこんな立派な道ではなかったろうが)から、縦貫林道へ入ったところの林道脇にある。ペンキがあせて何が書かれているのかよくわからない。この看板のあたりに窯があったという。
最近、案内板が新しくなっている↓。稼働の時代もより古い窯跡としている。

新宮窯跡(しんぐうかまあと)
新宮窯跡は、須恵器を焼いた飛鳥時代前期(七世紀前半)の窯跡です。
一九七八年、丹後縦貫林道の工事にともなって三基の窯跡が発見されました。いずれも半地下式のもので、窯跡の上半分だけが見つかりました。窯跡からは、須恵器の高杯、杯蓋、杯身、台付椀、平瓶、壷、甕が見つかっています。
七世紀前半の丹後で、須恵器を焼いた窯跡は、ほかに堤谷窯跡(久美浜町丸山)やシゲツ窯跡(舞鶴市)などが知られていますが、数少ないものです。そのため、この時期の須恵器生産のようすを考える上で貴重な遺跡です。


『大宮町誌』
 〈 新宮窯跡 新宮小字貝尾三九八番地
 新宮窯跡は丹後縦貫林道成相線建設工事中に発見され、発掘調査は京都府教育委員会丹後資料館の人々により昭和四八年九月実施された。場所は新宮小字貝尾で窯数は三基確認されている。窯跡は新宮と与謝岩滝とを結ぶ古道の峠の部分にあり、この古道は平安朝の昔零落した小野小町が岩滝から登って来た道と言われ、通称「小野坂」と呼ばれて小町伝説を残している。
 調査報告は次のようになっている。
 窯跡は三基からなり、三基とも地山にU字状の溝を掘り、天上部はすさ入り粘土でかためて構築した無段半地下式登り窯であり、床面の傾斜、断面等構築の手法は同じである。灰原は残っていなく、いずれの窯にも床面等の改修補修は認められない。したがって窯内に残された遺物はその窯の最終操業時に焼かれたもので、それは操業時間の下限を示すものである。その他煙道と燃焼部の様子等を知ることができた外、土器の“ささえ台“に利用されたと思われる礫も検出された。総じて遺物は少く須恵器の焼成は全体としてあまり良質とはいえない。比較的多量に残されていた一号窯の須恵器は高杯の小型化、受部とたちあがりのない杯身、粘土粒を貼りつけた平瓶、大型甕の口縁部の作りなどの特色から大阪府陶邑古窯址群のV期TK二一七号型式に続くものに比定される。それで実年代は七世紀中頃から後半にかけてのものと思われる。  〉 

五十河と「河内の茅渟(ちぬ)県の(すえ)邑の大田田根子」との繋がりがあるのかも。久住にも窯趾があるという。
陶邑は今の泉北ニュータウンの地という。陶邑窯趾群」。東陶器(とうき)小学校というのがあるようだが、須恵器(すえき)は今の陶器のプロトタイプで、窯の中で空気に触れず千度を超す高温で焼かれるため還元されて黒や灰色をした硬い焼物になる、まだ釉薬がついていないので見た目は美しくはない。朝鮮の伽耶地方に起源があり、初期の須恵器は伽耶の「須恵器」(ここのものは陶質土器と呼ばれる)と見分けがつかないそうである、5世紀ごろに伽耶からの渡来人達がもって渡ってきたものである。須恵器のスエは「地に据えるから」などと説明されたりするが、渡来のものだから、渡来語で考えるべきと思う、スエとはソのことで鉄の意味と思われる。鉄のような色をした鉄のように硬い焼物の意味か。『中郡誌槁』の時代はそう呼んでいたようだが、丹後の人たちは今もズハリ朝鮮土器とも呼んでいて、ろくろで整形される、いうまでもなく新らたな渡来の陶工技術者たちの専門プロ集団が作ったものである。
赤い色をした焼物、弥生土器などの従来のものは土師器(はじき)と呼ばれていて、ろくろは使わず、窯は使わず野焼きで空気に触れるので酸化されて赤いわけである。低温で焼くため硬くはない、たいした技術も設備も資金も必要なく、粘土があれば誰でも作れる。


三重長者五十日真黒人(いかがまくろうど)
丹後の伝説4:「三重長者・五十日真黒人

中原神社(五十日真黒人を祀るという)
中原神社(五十河)
『大宮町誌』
 〈 中原神社(元村社) 五十河小字宮ノ東
祭神 不詳
「中郡神社明細帳」には祭神不詳とあり、もと中原大明神と称していた。古老によると祭神は、五十日真黒人(いかがまくろうど)と伝えられているという。明治六年村社中原神社と改称。祭日の一○月一○日には、太刀振り、笹囃子は霧宮神社と同社に奉納している。
〔境内神社〕
稲荷神社
祭神 倉稲魂命
由緒 不詳  〉 

 霧宮神社
霧宮神社(五十河)
さして広くはない境内だが、右が三柱神社、左に「八岐杉」と呼ばれる立派な神木がある。幹周4.5米、樹高32米とある。八岐大蛇そのもののように思われる。風の神を祀るのは防災のためではなく、製鉄に風が大切だったからであろうか。
『大宮町誌』は、八岐杉(霧宮神社境内)  〈 霧宮神社(元村社) 五十河小字背戸道
祭神 級長津彦命・級長津姫命
二神とも風の神で、風を鎮める防災の神といわれる。創立年月日など明らかでないが、もと霧宮大明神と称し、神体は木像であったが、明治六年社寺改めの際に白幣を神体とし、同年二月一○日村社となり、霧宮神社と改められた、
 神職 島谷旻夫(兼)(周枳大宮売神社神職)中原神社・三柱神社も同神職
 嘉永六年(一八五三)八月、祭礼の勇壮な太刀振りを、府中籠神社より伝授し笹囃子とともに奉納している。祭日は一○月一一日であったが、現在は一○月一○日である。
昭和五五年一二月二七日、内山の三柱神社を境内に移して祀る。  〉 


小野小町伝説 
丹後の伝説3:「小野小町
小野小町像(小町公園中)

 花の色は うつりにけりな いたづらに
         わが身世にふる ながめせしまに

伝説の美女も永遠ではない。そんな時はアッという間に過ぎて、気がつけば、わが身はすでにもう見にくく老いさらばえている。
わたしなどの同年女性などもこの気分のご様子。鏡をのぞいて、あ〜あ〜カナシの顔をしている。男だって同じことだが。
クレオパトラも楊貴妃も、どんな美女でも、誰でも皆がいずれそうなる。美しく硬い永遠の花崗岩でも1億年もすれば腐り、ボロボロと砂になる。海も枯れ、山も消える。必滅必定の宇宙法則で逃れようはない。何物にも定まった寿命というものがある、そうなれば打つ手はない。
さて、柳田国男は「一目小僧その他」で、鱒留の藤社神社の祭日が3月18日としている。
 〈 丹後中郡五箇村大字鱒留に藤社神社がある。境内四社の内に天目一社があり、祭神は天目一箇命といふ。さうしてこの本社の祭日は三月十八日である。  〉 

その少し前の所で、小野小町の忌日も、ところによってはこの日だとしている。
 〈 三月十八日  人麿が柿本大明神の神号を贈られたのは、享保八年即ち江戸の八代特軍吉宗の時であった。その年の三月十八日には人麿千年忌の祭が處々に営まれてゐる。…
我邦の伝説界に於いては、三月十八日は決して普通の日の一日ではなかった。例へば江戸に於いては推古女帝の三十六年に、三人の兄弟が宮戸川の沖から、一寸八分の観世音を網曳いた日であった。だからまた三社様の祭の日であった。といふよりも全国を通じて、これが観音の御縁日であった。一方にはまた洛外市原野に於いて、この日が小野小町の忌日であった。九州のどこかでは和泉式部も、三月十八日に歿したと伝ふるものがある。…  〉 
3月18日と9月18日(鎌倉権五郎景政は9月18日に歿すという)は天目一箇神の祭日だが、小野小町もどうも、片目、一目の一族と関係がありそうだ、観音信仰もどうもあやしいというようなことになる。

小野小町の墓(五十河ハザコ)
一般には、少し古いかも知れない辞典類では、
小野小町は平安前期の女流歌人。生没年不詳。六歌仙・三十六歌仙の一人で、出羽国の郡司良真の女。篁の孫、美材、好古らの従妹とされる。しかし系図は諸説あり確かなことは不明。
王朝女流歌人の先駆者で、在原業平や僧正遍昭らと歌の贈答をし、和歌の宮廷文学としての復興に参加した。
歌は恋の歌が多く、情熱的で奔放、現実を回避した夢幻的な性格をもち、哀調を帯びているといわれる。作品は『古今集』18首、『後斤集』4首以下、勅斤集に六十数首が収められており、ほかに『小町集』の110余首がある。
経歴不明だが、絶世の美貌歌人として広く知られ、業平と好一対をなす女性として多くの説話が語られ、さまざまな伝説や謡曲・浄瑠璃・御伽草子などの題材になった。
五十河でも取り入れられただろう謡曲『(かよい)小町』は、小町に恋した深草少将が100夜通えば望みをかなえてやるという小町のことばを信じて通いつめた99夜目にはかなくなったという話で、美女の薄情・驕慢な性格を描いている、という。
小町の生地や墓と称する場所は全国にあり、「瘡の歌」などの伝説は和泉式部伝説と重なるところも少なくない。小町の生涯を語り歩く唱導の女たちがいたことが考えられ、また小町伝説の流布には、全国にひろがる小野氏の存在も無視できない。という。

 曹洞宗永平寺派小野山妙性寺
妙性寺

天和2年(1682)の丹後国寺社帳に名がみえる。小野小町開基との伝承があり、小字ハザコの小野小町塚石塔に「小野妙性大姉」の法名を刻し、妙性寺の寺名もこの法名によったといわれる。この地に住み着いた小野氏の菩提寺か。
『大宮町誌』
 〈 小野山妙性寺 曹洞宗(永平寺)  五十河小字向地
本尊 釈迦牟尼仏
小野小町の開基と伝えられている。「丹哥府志」に「寺伝に云。小野山妙性寺は小野小町の開基なり、往昔三重の里は小野一族の所領なりといふ、小町老たる後此地に来りて卒す、法名を妙性といふ、」とある。
 当寺に小野小町の像を祀り、「当寺開基見得院殿小野妙性大姉」の位牌があり、裏面に「住昔之位牌破損矣今也正徳二年壬辰(一七一二)初冬日妙性寺現住丹流改之」と記されている。なお、全国に多くの小町伝説は残されている。
 当寺はもと内山の妙法寺がこの地に庵を建立し寛文年間(一六六一−一六七二)のころ曹洞宗に改宗した。三世眠竜和尚が本堂を建立したが後火災にて焼失し、現在の本堂は九世僊乗和尚の文政六年(一八二三)の再建である。眠竜和尚は非凡の高僧で由良の松原寺の住職を経て、舞鶴の中本山桂林寺に移り仏心寺にて没している。
 小字内山にあって廃寺となった高雄山妙法寺(真言宗)の観音堂の十一面観音を、昭和二四年より本陣内に安置している。
 なお、妙法寺の寺跡から発掘された馬頭観音(金銅)は、同寺の本尊と伝えられている。
現住職 山本貫道
 「三三所観世音菩薩曼陀羅」は、蓮藕(はすの茎の繊維)の織物であり、天保八年の作である。
八八ヶ所地蔵
愛宕川の登り口から中途の秋葉神社を経て、頂上の愛宕神社に至る参道に祀る八八ヶ所地蔵は、休心堂(むかし字向地とあった)の恵光尼が、天保六年の飢饉・天然痘のため、死亡した幼児一六名の供養のため、近在より地蔵の寄進を請うたものである。  〉 

『中郡誌槁』
 〈 小野山妙性寺
(丹哥府志)小野山妙性寺(曹洞宗)
寺記に云ふ小野山妙性寺は小野小町の開基なり往昔三重の里は小野一族の所領なりといふ小野老たる後此地に来りて卒す法名を妙性といふ其辞世とて
九重の都の土とならずしてはかなや吾は三重の里にて
 愚按するに…略…
(村誌)寺
妙性寺東西十二間半南北五間面積二百八十九坪、有税地、曹洞宗永平寺末派本村東の方に在り開基小野小町と云ふ創建年号干支等不詳
(宮津府志)小町遺跡、中郡三重村谷の内五十河村の辺小野といふ村あり俗にいふ此辺は往昔小野氏の一族の所領にて小町老年に及びて此の地に来りて卒す、則辞世なりとて
 九重の都の土とならずしてはかなや我は三重にかくれて
又此所に禅院ありて小野山妙性寺といふ、妙性は小町が法名なりといふ、是又山中村和泉式部が遺跡の例なるべし(下略、丹哥府志の「小野良実の女」より「玉造といふ文にあり」までと同文)  〉 


薬師堂(小町薬師)
「小町の墓」のすぐ隣。
薬師堂(五十河)

『大宮町誌』
 〈 五十河小字波迫
本尊 薬師如来
 小野小町の終焉の地に、小町の秘仏薬師如来を把ったと伝えられ、小町薬師ともいう。八月一六日には、小町の供養のために盆踊りをする。  〉 


岡の宮案内板
五十河から新宮へ向かう左手の山裾に看板が見える。石碑がどこにあるのかわからない、草木茫々のちょっとした山である、「この山の中ですな、この時期は何がおるかわかりませんで、気イつけなはれや」などと言われる。道も何もない。こんなところで小さな石碑を見つけるのはムリ。
岡宮は妙性寺の鎮守で、五十河は皆がこの宮の氏子だったという。
現地の案内板
 〈 岡の宮 (岡宮大明神石碑)
 丘陵の斜面を平坦にしたところに高さ一・一二メートル・幅〇・六五メートルを測り、表面に「岡宮大明神」という文字を刻む花崗岩製の石碑が立っています。
 『妙性寺縁起』には「小町が亡くなってからしばらくして、小町の墓の前で伏ししおれすすり泣きする都人がいた。いたわしことに一夜を過ごせずそのまま亡くなってしまった。のちに村人が調べてみると深草四位の少将という人であった。そこで村人は、村はずれの山に葬って岡の宮とした。今は妙性寺の鎮守としている。」とあります。深草少将を葬ったという「岡の宮」は、この石碑の建っているところと思われます。
 深草少将は、謡曲『通小町』の主人公として初めて名前のでてくる人物であり、六歌仙のひとり僧正遍照をモデルにしたという説もあります。    大宮町  〉 

小野小町が本当に五十河にいたかどうかは別として、誰も信じていないようだが、五十河に小野氏が住んでいたのは本当だと思われる、小野山の山号や小野坂などの地名も残っている。
小町の里や塚、墓と称する物は全国にあり、どれも本物と決定されたものはない、だから五十河が本物かも知れないのだが、それはおいて、小野氏は全国に多く散らばった氏族で、表の歴史に知られるのは遣隋使の小野妹子や、そのほかこの氏族は遣新羅使や遣渤海使などの外交や征夷軍事分野が強く、また小野道風・篁とか小野小町とか文芸、祭祀に関わった一族である(近くの大宮売神社の神額は小野道風筆と伝わる)。隣の滋賀県和邇村に小野神社があり、そのあたりを本貫とした和邇氏や柿本氏などと同族氏族であったが、何のために五十河の山奥(失礼)に住んでいたのであろうか。
全国に小野の地名も多いが『和名抄』によれば、隣の丹後国竹野郡には小野郷が記載される。小野を生野の誤りとする説(丹後旧事記)、宇川に比定する説(大日本地名辞書)などがあるが、いずれも推論で、残念にも詳細不明だが、三重谷の小野氏とは何ほどか関係があろう。
兵庫県小野市が播州刃物の地であるように、特に斧、まさかりがいいようで、坂根正喜氏の父親は山行きには播州手斧を手放さなかったそうだが、刃物の名品を作る古代より産鉄鍜冶を表芸に、斧神を奉じて朝日長者と猿丸太夫伝承などを持ちつつ、木地師であると同時に鍜冶氏族としてよりよき産鉄地を求めて全国を漂泊した氏族でもあったという。山師というくらいで、アテにもならない鉄探しのために、巫女も同伴していたと言われる、この小野氏の巫女が後の小野小町伝説や、彼女たちは「朝日」と呼ばれたので「朝日長者」伝説、彼女の彼氏なのだが在原業平伝説なども、丹後ばかりでなく全国各地に残すこととなったかもわからない、その可能性は強い。このあたりの山城の主たちのなかには小野氏に出自する者もなかろうか。
「大」と書いてオと読むこともあるので「大野」もあるいは「小野」かも知れない。
小野氏も元は物部氏系か、もっと元は日槍系だろうと思われるが、伊迦賀色許男や穂積氏と何か繋がりあるのかはよくわからない。

妙法寺跡
『大宮町誌』
 〈 妙法寺跡  五十河内山
 往昔内山に妙法寺と称する真言の大寺があり、火災で焼失した後その跡に観音堂(内山観音)を建立していたがそれも廃絶し、さらに、その跡地に三柱神社を奉祀した。しかし、昭和四八年に人家全部移転して廃村となり管理が行き届かず盗難に遭ったので、昭和五五年三柱神社は五十河霧宮神社境内に遷座された。
(中郡誌稿)内山観音 観音堂は元高雄山妙法寺の寺址なり。文武天皇大宝二年府中国分寺より此の地に移すといふ。棟札あり、開山詳ならず。(実地調査)内山妙法寺は往昔真言宗にて大寺たり。本尊観世音は霊験著明なりと。今観音像を拝するに新しく塗り易へ却て尊厳を失したるが如し。堂傍小五輪の四方に梵字仏像を刻したる者数個并に小石仏あり。堂の北畑地に妙法寺趾なりとて礎石近年に至る迄列存せりとて今も数個残れり。此近傍より小仏像及花器を発掘す。礎石皆焼けて赤し。火災に罹りしなり。此山奥にして此の如き一大寺跡あり。昔日の繁栄想ふべし。字内山はもと家数八軒のみにて寺の参詣人に拠り衣食せしものなりしに、中頃一時廃絶に帰したりしを再興し現今十三戸に及ぶ。云々。同地仏像二体棟札三枚あり。
左の如し
―、十一面観音像 木像長一尺八寸 蓮花二寸八分
一、馬頭観音像 銅像 地中発掘して妙法寺本尊なりと云ふ。
棟札 丹後中郡三重之庄五十河村内山水月之道場云二山号於高尾山一云二寺号於妙法寺一。尊像者救世観音大士至霊仏也。古従二同国府中国分寺一有二放光一来二迎此境一。時茲大宝元年丑年乎今享保二十乙卯年迄千二百十二年也矣。
(他の棟札は省略)

 右の「中郡誌稿」引用の棟札三枚は今も妙性寺にあり、内山観音堂の本尊十一面観音像等二体も同寺に奉祀されている。
 十一面観音は高さ五三p、台座九p、優雅な尊像である。貞享五辰年(一六八八)塗りかえたのが今は古びて却って雅麗な趣きがある。右の像の台の裏に塗師の書入があり
 「奉志ん志ん 貞享五辰年観世音師成相ニ而仁王仏師光珍一寸回いかがのさとおち山村」
とある。土中から発掘された妙法寺本尊と伝えられる銅像は火災のため欠損していて僅かに俤を残すのみである。残存部の高さは約十pで一見した所懸仏の一部仏像の如き形である。右引用の棟札にある丹後国国分寺から内山に放光があり、大宝元年に寺院が建立されたとあるのは、年代から考えて誤であるが、当時の人々は古伝としてそのまま記録したのであろう。国分寺創立の詔の発せられたのは天平一三年(七四一)であり、したがって大宝元年(七○一)には府中の国分寺はまだ存在していないはずである。しかし、妙法寺は丹後の真言の古刹として古くより尊崇され多くの参詣人のあった様を右の諸記録は伝えている。 妙法寺跡は一部畑地になっていた形跡があり、その跡地はおよそ三段に区切られており、下二段の畑跡は上の段東西二二m、南北一五m、下の段東西一六m、南北一二mあり今は林となっている。上の段には昭和五五年まで三柱神社が祀られていた。
 (村誌)三柱神社 明治十五年八月十七日 旧三社神社を三柱神社と改称
 祭神 軻偶槌神、興津彦命・興津姫命 無格社
 社地 東西三間、南北九間 面積三十坪
 社殿はおよそ二間四方で内殿(厨子)は江戸期(十六・七世紀)の精巧美麗な作りである。祠前に鳥居があり、上幅二m六○p、柱間二m、 「安政六未年八月性話人久右衛門」「領主田上喜兵衛同七右衛門同宗重郎」と記銘し、また、傍の石灯籠一対には「安政六未牟八月日」と刻む。よってこの地に三柱神社の建立されたのは安政六年頃と推定される。しかるに上述の如く廃村となり盗難も起ったのでこの由緒ある地を離れて麓の霧宮神社境内に遷されたのである。昭和五五年一二月二七日おごそかに遷座祭が執行された。
 なお、妙法寺の屋敷跡の東の隅に石を積み小祠を作り石仏二体を安置しており、その他屋敷の人口附近には往時の石垣石や地蔵・五輪塔等数体がならべられ、昔の観音党の名残をとどめている。  〉 



 内山ブナ林
丹後天橋立大江山国定公園になっている。五十河から味土野、宮津市上世屋にまたがる地域に、ブナ林(およそ67ha)がある。このブナ林の象徴とも言うべき「大ブナ」は、丹後半島の最高峰「高山」(標高702m)山頂から少しくだった標高680m地点に自生しているそうである。周囲3・6mb・樹高32m・推定樹齢約350年で単木としては、京都府下で最大巨木。
標高450m付近からブナの分布が見られ、炭焼きや芝刈りなど地域住民の暮らしや営みと深い関わりを持ちながら守られてきた優れた自然環境であることから、「丹後上世屋内山京都府自然環境保全地域」として、府の指定を受けている。ブナは、保水・水質浄化作用に優れ、豊富な下生えの植物などを育むことから、自然の豊かさをはかるバロメーターともされる。
案内板地図

 〈五十河(いがが)の自然
 大宮町は丹後半島の中央部に位置する山柴水明の地である。竹野川とその支流沿いに拓けた盆地と周囲の山地で構成され、気候は山陰型で、冬期には積雪も多いが、春から夏には穏やかな気候が続く。豊かな自然に恵まれた農業と丹後ちりめんの里である。面積は68.93平方キロでその内、山林が77%を占め特に五十河には北東部に高尾山(620m)、高山(702m)、鼓ケ岳(569m)の連峰がそびえ、竹野川の源流として豊かな自然林が展開する。
 山系の最高峰は高山(702m)と呼ばれ、半島の最高点でもある。高山を中心に展開する各尾根は平均傾斜角25度以上の急斜面で谷をはさみ込み容易に人を近ずけない。気候的には半島有数の多雪地域であり、そのためか植相は日本海側要素が濃く、高尾山、内山、高山尾根筋にはブナの美林が展開し、春にはブナの林床をオオイワカガミが覆い、京都府北部を代表する植相を呈し、自然とし
ての価値は、はかり知れぬものがあり、かけがえのない財産と云えよう。 大宮町  〉 

内山の山椒魚
『大宮町誌』
 〈 北向きの谷の渓流では一○pほどの大きさのヒゲサンショウウオ(アンコ)が棲んでいるところがある。当町で特に保護してやらねばならぬものはアベサンショウウオであろう。姫御前団地の奥の谷は小丘稜で、竹薮のある陰地の溝に棲む。この種はわが国ではこの場所と、(原色日本両生爬虫類図鑑では本町のみ)広島県三次市の二ヶ所以外は発見されていない珍種で、学術的価値の高いものといわれている。  〉 


《交通》


《産業》




五十河の主な歴史記録




『丹哥府志』
 〈 ◎五十河村(延利村の次、古名五十日、今五十河に作る)
垂仁天皇の御宇に丹波道主の五女召されて皆后妃となる、五十日足彦尊第四妃薊瓊入媛の子なり道主命の孫にあたる、五十日村より貢を奉る。
【加茂大明神】
【小野山妙性寺】(曹洞宗)
寺記に云。小野山妙性寺は小野小町の開基なり、往昔三重の里は小野一族の所領なりといふ、小町老いたる後此地に来りて卒す。法名を妙性といふ、其辞世として
九重の都の土とならずして  はかなや我は三重にかくれて
 愚按ずるに、小野小町は其生出本来詳ならず。或曰。小野良真の女なり、仁明帝承知の頃の人、年老たるに及で落魄して相阪山に死すといふ。又小野常澄の女なりとも伝ふ。或の説に冷泉家の書ものには小町は井手の里に死す時に年六十九才とありよし。徒然草には小町は極めてさだかならずといふ、其衰へたるさまは玉造といふ文にありしと袋草紙に見へたれども此説には論ありともいふ。かようなる事は考ふれどもいまだ丹後に来たる事をきかず、されども養老三年初て按察使を置く時丹波国司小野朝臣馬養丹後、但馬、因幡の三国を管す、其養老年中より小町の頃までは僅に百年斗りなり、これによってこれを見れば小野一族の所領なりといふもいまだ據るなきにしもあらず、其終焉の地明ならざるは蓋鄙僻の地に匿るならん。今其塚といふ處を見るに古代の墳墓と見へたり恐らくは其終焉の地ならんとも覚ゆ、後の人これに増補して少将の宮を拵へ又丹流と僧妙性の二字に文字を足して近號を拵ふ、これよりいよいよいぶかしくなりぬ。
【観音堂】(内山)
観音堂は元高雄山妙法寺の寺跡なり、文武天皇大宝二年府中国分寺より此地に移すといふ棟札あり、開山詳ならず。
 【付録】(岡の宮大明神、中ノ原大明神、霧ノ宮大明神、新宮大権現、愛宕大権現、薬師堂)  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 五十河遺跡(いかがいせき)
所在地:大宮町五十河小字竹エバほか
立 地:竹野川上流域左岸段丘上
時 代:縄文時代〜鎌倉時代
討査年次:1997年(府教委、大宮町教委)、
    1999年(府センター)
現 状:調査範囲は消滅(ほ場整備)
遺物保管:丹後郷土資料館、市教委
文 献:B089、C116、C132
遺構
 五十河遺跡は、竹野川上流の左岸段丘上に立地する縄文〜鎌倉時代の集落遺跡である。
 A地区では、古墳時代中期後葉の周壁溝を有する竪穴住居跡2棟、平安時代と思われる掘立柱建物跡3棟、平安時代末〜鎌倉時代初頭の墓と思われる土壙6基を検出した。土壙は隅丸長方形を呈し、埋土中に人頭大〜拳大の石が集積するものもある。またL字状の構SD01は、土壙に伴う区画溝と推定されている。
 B地区では、溝2条のほか多数の柱穴が検出されており、掘立柱建物跡の存在が推定される。
遺物
 A地区の竪穴住居跡からは土師器甕、高杯、土壙からは土師器皿、黒色土器椀、瓦質土器鍋、東播系鉢が出土している。B地区の溝からは、土師器皿、黒色土器椀、白磁椀などが出土している。このほかB地区包含層では、縄文時代前期の北白川下層式の縄文土器深鉢、石匙、サヌカイト剥片、弥生時代中期の弥生土器壷、古墳時代以降のものとされる大型石錘が出土した。
意義
 調査により本遺跡は、縄文〜鎌倉時代前期にかけて、断続的に利用された集落遺跡であることが明らかになった。南方約2qにある沖田遺跡においても縄文土器が出土しており、竹野川上流域において縄文人の足跡を示す資料として貴重なものである。古墳時代中期後葉の竪穴住居跡ほ、沖田遺跡(94)のほか、西方約1qにある新宮遺跡(205)においても見つかっており、古墳時代集落の一端を明らかにしたものとしても貴重なものである。また鎌倉時代初頭には、A地区において墓と思われる土壙があり、屋敷墓ないしは集落廃絶後の墓域として利用された可能性が考えられる。  〉 



『京丹後市の考古資料』(図も) 〈 新宮窯跡(しんぐうかまあと)
所在地:大宮町新常小字貝尾
立 地:竹野川上流域、支流新宮川左岸丘陵上
時 代:飛鳥時代前期
調査年次:1973年(府政委) 現状:半壊
遺物保管:丹後郷土資料館 文献:C042、G014
遺構・遺物
 窯跡は、東西にのぴる丘陵先端部の南斜面に3基築造されている。いずれも竈体は半地下式の無段式であり、下半が開墾により削平され、灰原も残っていなかった。窯跡内からは、須恵器高杯、杯蓋、杯身、台付椀、平瓶、長頸壺、甕が出土している。最終操業時に焼成されたと推定され、飛鳥時代前期の所産である。
意義
 本窯跡は、川からの比高差の大きい丘陵上に立地しており、完成品の運搬にはやや不便を感じる場所である。丘陵麓には、古墳時代中期後葉〜奈良時代の集落である新宮遺跡(205)が所在しており、関係が推定される。  〉 



現地の案内板↓
五十河の地図
 〈 五十河・新宮(いかが・しんぐう)五十河の案内板
五十河・新宮区はどんなところ?
 「五十河」という地名は、江戸時代にはじめてみられるものです。『妙性寺縁起』によれば、この地に来た小野小町が火事に困っていた村人たちの相談を受けて、「五十日」という地名を「五十河」に変えれば火事が治まると教えたのが由来といわれています。
 この地区では、五十河遺跡において縄文時代から生活をしていた痕跡がみられます。飛鳥時代には、須恵器を焼いた新宮窯跡が操業しています。
 この地区には、平安時代の歌人小野小町がこの地で亡くなったという伝承が残っています。小町の舎には、全国の小町伝承に関する資料を展示しています。また小町を開基と伝える妙性寺、小町の守護仏を祀る薬師堂、小町の墓、小町をしたってこの地に来た深草少将の墓と伝える岡の宮などが残っています。小町が腹痛を起こしたという「小野坂」は、現在も小字名として新宮区に残っています。
 神社は、五十河区に霧宮神社、中原神社、新宮区に三社神社があります。また霧宮神社境内には、町内でもっとも大きな杉(八岐杉)があるほか、もともと内山にあった三柱神社が遷座しています。内山にには、北近畿地方有数のの面積をほこるブナ林があり、大宮町指定天然記念物に指定されている京都府下で一番大きなブナの木もあります。  〉 

興味深い伝説が多い
内山「狼のまつげ
内山「大入道退治
新宮「鬼の牙
大蛇に息をふきかけらけたら
高原法師
負けずぎらい

五十河の小字一覧

(新宮を含む)
道畔(どうぐろ) 砂入 三ツ石 出合 砂田 大坪 荒神 三井手(みいて) 下り松 由里ケ下 西山 向西山 上西山 年田(としだ) 道見田(どうけんだ) 鳶谷(とうびだに) 紐ノ手(ひものて) 和田川 波迫(はさこ) 北垣 小野地 背戸道(せどみち) 上欠(かみかけ) 門御堂(かどみどう) 向山 林ノ尾 稗谷 西谷 小西谷 奥畑 中連坊(ちゅうれんぼう) 在地(あるち) 上野 作山(さくやま) 不生家(ぶしょうが) 石河原 上藪 道欠 下阿弥陀坊 参ノP 中阿弥陀坊 渕ケ元 上阿弥陀坊 下蝦夷ケ谷(しもえぞがたに) 中蝦夷ケ谷 上蝦夷ケ谷 苺谷 頭恵(ずえ) 高尾坂 厚朴谷(ほうのきだに) 厚朴谷口 五葉(ごよう)ノ谷 味土野谷 田志古出坂(たしこでざか) 奥高尾 南谷 南谷口 北の谷口 由里 金石(かないし) 坂前 坂向 前田 坂 内山 岡元 無蘭谷口(ぶらんだにぐち) 峠下 干潟(かがた) 中坪 閨(ねや) 柳原 蕗野(ふきや) 北ノ谷 田渡利(たわたり) 頭恵(ずえ)ノ谷 新林 奥野 宮ノ上 玉ケ谷 宮ノ西 男田(おとこだ) 宮ノ東 宮ノ口 背戸(せど) 向地 女田(おんなだ) 大藪 背戸山 城坂 茅茯谷(ちふくだに) 清水 五十河谷 砂畑ケ 馬のP 小谷 梨木ケ鼻 ふたご石 広畑 新宮谷 大石ケ平(なる) 登尾(のぼりお) 祥縁坊(しょうえんぼ) 貝尻 外ケ鼻 江ケ谷 佃 大門(だいもん) 双田 能勢谷 後谷 内林 落家 越首(こしくび) 百町(ひゃくまち) 坂西切 岡前 ヱゾガ谷 阿弥陀坊口 下阿弥陀坊口 貝下(かいしも)ケ谷 田渡(たわたり) 天王森 峠ノ下 浪谷(なみだに) 柳ケ谷 北ノ花ノ上 赤土 竹土辺(たけどべ) 丸山 塚元 小松谷 大松谷 宮ケ谷 中割 川向 中川原 治田(じでん) 方丈谷 滝谷 大滝谷 小滝口 石田 伊根山 千代谷口 蓬尾 千代谷 垣内 柿ガ谷 波谷(なみだに) 大谷 茗荷谷 割谷口 土橋 北花(ほつけ)の上 伊根の上 奥ノ手 岡坂 後ケ谷 巻谷 巻谷口 小野坂 上尾 長尾 能勢谷 段亀尾 上貝屋 沖ノ田 棚田 下貝屋 保谷(ほうだに) 高田 高尾 阿弥陀坊 貝谷


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『大宮町誌』
その他たくさん



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