丹後の地名

鹿野(かの)
京丹後市久美浜町鹿野


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京都府京丹後市久美浜町鹿野

京都府熊野郡久美浜町鹿野

京都府熊野郡神野村鹿野

鹿野の概要


《鹿野の概要》



佐濃谷川河口部の古砂丘海岸段丘の北端部に位置している。佐濃谷川が地内で砂丘にぶつかり西へ流れを変える。北に佐濃谷川下流の沖積平野がある。さらに北側に広がる砂丘地では海岸砂丘造林を行い、砂丘地農業が行われている、それを見物するための観光バスがよく駐まっている。もと函石浜のオンゴノ(シパコ)に居住していたものが、しだいに移住したとの伝承がある。
中世の鹿野荘で、鎌倉期~室町期に見える荘園。石清水八幡宮寺領。同宮護国寺仏像等安置次第文治4年10月20日条に、衣服用途毎年19貫200文の料所として筑前国三ヶ社・同国宇美宮と並んで当荘が見える。一方、当荘地頭職は醍醐寺三宝院が所持していたという。延文2年6月11日付の三宝院賢俊譲状には、武家恩補所職并御祈料所の一所として、丹後志楽荘内朝来村と並んで「同国鹿野庄地頭職」が見え、室町期の醍醐寺方管領諸門跡等目録にも三宝院領のうちに「丹後国朝来村・同国鹿野庄寺辺田」と見えるという。
また浦明・神崎は鹿野より分住したものと伝え、両地とも往古は八幡神社の氏子であった。鹿野荘の荘域は未詳だが、江戸期の郷帳では鹿野・浦明・神崎3か村が「鹿野庄」内とされている。
鹿野村は、江戸期~明治22年の村。「慶長郷村帳」「延宝郷村帳」には鹿野庄と見える。枝郷に神崎・浦明がある。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、元禄10年幕府領、宝暦13年但馬出石藩領、天保6年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年神野村の大字となる。
鹿野は、明治22年~現在の大字名。はじめ神野村、昭和30年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《鹿野の人口・世帯数》 127・39

《主な社寺など》

古墳群など
天王山古墳群
別荘古墳群
別荘遺蹟

八幡神社
鹿野八幡神社
そこの案内板には、
鹿野八幡神社
鹿野八幡神社の本殿は、その棟札から天保二年(一八三一)に造営されたことがわかっています。建築は、三間社・切妻造りと呼ばれる様式で、古い神殿形式の建物です。
境内にある石灯籠には、応永二十四年(一四一七年)という、久美浜町の石造物のなかでも、非常に古い年号が記されています。
この石灯籠は、室町時代初期の特色をよくあらわした、優秀な石造物です。石灯籠の火袋や宝珠には、仏の姿や梵字が刻まれていることから、仏教文化の影響を受けていることがわかります。
鹿野八幡神社の石灯籠は昭和五十八年に、神社本殿は平成三年に、それぞれ久美浜町指定文化財となりました。
京丹後市教育委員会

鹿野八幡神社

応永24年の石灯籠(かの八幡神社)鹿野は城下町のためか、道が狭いうえに、どう行けばどこへ出るのやらわけわからなくなってくる、道順は従って説明もできない、大きな車はムリ、農村の道は軽トラを基準に作られているので、それ以下のサイズがよいよう。
集落からは少し東へはずれた丘(天王山)の上に鎮座する。
祭神品陀和気命ほか五神。旧村社。
大化元年(645)2月の勧請と伝える。「丹哥府志」には「大神宮祭八月十五日」とあり、近世には祭神のうちに天照大神のあることから大神宮と号していた。
当社は至徳元年(1384)の虎若丸承祐連署請文(石清水文書)などに「鹿野別宮」とある石清水八幡宮護国寺別宮との関係が考えられるが明確でないという。
社殿の向かって左に「応永二十(割注・二丁二酉)二月十六日」と刻まれた石灯籠があるのだが、どこにそう刻まれているのかはわからなかった。
かつて鹿野村の内であった浦明村と神崎村も八幡神社の氏子で、旧暦8月15日の祭礼には、神輿かきなどの所役にあずかってきたという。
『京都府熊野郡誌』
 〈 八幡神社 村社 神野村大字鹿野小字天王山鎮座
祭神=品陀和気命、天照大神・斎主神・比売神・武甕槌命・天児屋根命。
由緒=大化元年卯の日の勧請と古老の口碑に伝ふ。往古領主の崇敬厚く、社殿境内の荘厳祭儀の厳粛なる事今尚古例を存せり。丹哥府志に曰く鹿野村大神宮祭八月十五日とあり、元来大神宮を主神と斎き奉りしが、明治以後神社調査の際八幡神社と改称せるものの如し。
氏子戸数=四十六戸。
境内神社。住吉神社。祭神=上筒之男命 中筒之男命 底筒之男命
由緒=大化年中八幡宮を勧請せるまで当社を氏神と崇敬せりと言ひ伝ふ。
     稲荷神社。祭神=倉稲魂命。
     雲晴神社。祭神=八千矛命。
 石燈篭=応永二十四丁酉二月十六日と刻せる石燈篭あり、社殿と拝殿との中央左側に安置せる処にして、郡内石燈篭中最古のものにて、大正十年を距る事実に五百四年なり。  〉 

臨済宗南禅寺派鹿野山最勝院
最勝院()鹿野

『京都府熊野郡誌』
 〈 鹿野山 最勝院 神野村大字鹿野小字愛宕根
臨済宗南禅寺派宗雲寺末
本尊=観世音菩薩
由緒=当院の縁起を按ずるに、往古は真言宗にして氏神八幡宮の傍に別荘と唱ふる地あり、七堂伽藍の道場ありしが、偶々祝融の災に罹り、廃絶せる事久しかりしが、長蔵坊といへる人仏門に帰依し天文年間七坊の一なる最勝院を再興し、地名を山号とし一宇の伽藍を建立し、宗雲寺第六世和屋大和尚を請して開山と仰ぎ、改宗して臨済宗南禅寺派に属せるなり。されば長蔵坊を尊崇して開基宝道祖権首座と唱へ来れるなり。而して現在の本堂は寛保元年六代の祖松渓和尚の再建に係れり。
境内仏堂。多門堂。本尊=多門天王。
     地蔵堂。本尊=地蔵菩薩。  〉 

右手の山には鹿野城跡や天王山古墳群などがある。
最勝院は天和二年の「丹後国寺社帳」にみえる「宰相院」と考えられる。

鹿野城跡
最勝院の背後の山の小字愛宕に鹿野城跡があり、山上の平地には愛宕神社の小祠がある。永禄元亀天正頃一色家諸将地侍居城図(「田辺旧記所引)には「鹿野 岩田肥前」とある。岩田肥前とは肥前守岩田近久をさし、享徳-康正頃死んだといわれる(「千畝録」宗雲寺蔵)。丹後国御檀家帳に「なから 家百斗(中略)一城主也 岩田殿」と記される人物と関係があると考えられている。

『京都府熊野郡誌』
 〈 鹿野城は字鹿野に在り。田数帳によるに、岩田肥前の居城にして、肥前は名を近久といひ、足利時代の古城たりしなり。檀家帳以後の文書に記載せざるは、早く落城せるが故なり。
鹿野城址。鹿野城址は神野村大字鹿野小字愛宕の山上にあり。鹿野部落に入れば、道路の屈折切割のケ所等自ら在城当時の俤を見る心地せらる。仕置場として古来人家を築けば祟ありとて住する者なく、現今畑地となれる屋敷跡あり、或は的場ありて、其の当時を推考する資料たり、城址は数段を形造れる山上にして、現今愛宕神社秋葉神社を奉祀せり、愛宕の裏手に当りて現今尚焼米を出すといふ、山上は平坦にして眺望絶佳外海に面し、一眸万里の風光誉ふるに物なし。顧れば鏡の如き内海あり、附近の老松は自ら昔を語れるものの如く、真に神境に在るが如し。史を按ずるに田数帳に曰く「鹿野庄三拾町九反三百三拾三歩内貮拾町六反貮百廿貮歩岩田肥前」とありて其の所領を明にし、久美浜宗雲寺千畝録巻上に「預修大年道盛居士香語」あり、「大日本国丹後洲鹿野庄居住奉三宝弟子肥州大守藤氏近久法諱道盛宇大年全靠与願金剛仏威力略説善男女等在生預修善因則所有功徳分分己獲之誠言乃屈浄侶于当院一日頓写妙法華経一部六万余言甘露門施食仍以備弁妙供大作仏事下略」而して年代を付記して宝徳辛未年六月廿七日とあり、辛未は宝徳三年にして、岩田肥前在世中宗雲寺に於て善因を預修せる処なり。而して千畝録中巻に、選去に際し千畝和尚の法語を録して曰く「大年盛公居士 盛大光明空却千摧百折末曾俊箇中八会箇中意水上何妨浮鉄船新円寂某人環会麼末後一句絶言詮云々」とありて其の導師たりし事を知れど、年月明ならず、されど千畝和尚は長禄二年の遷化にして、岩田肥前の善因を預修せる年代を経過せる事僅に九ケ年なり、されば此の間享徳康正年代に逝去せる事は推知するに難からず、以上の諸書により推考すれば鹿野城主は藤原氏の末裔にして、肥前守岩田近久といひ、法号を肥州大守大年道盛居士と呼びし事明にして、享徳康正の頃逝去せしものなり。所謂足利時代の古城にして、檀家帳を始め丹後旧事記等鹿野城の事を挙げざるは、早く落城して廃絶に帰せるならん。後の長良城主岩田家は或は其の一族にてもやあらんと思はるれど、徴すべき文献なきを遺憾とす。  〉 


《交通》


《産業》


鹿野の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 熊野郡
一 鹿野庄  卅町九段三百卅三歩内
  廿町六段二百廿二歩      岩田肥前
  十町三段百十一歩       浦明三郎左衛門  〉 

『丹後国御檀家帳』
 〈 一くみのかの     家三拾軒
 そ う 禰 き 殿  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎鹿野村(葛野村の東、佐野谷の下なり)
【大神宮】(祭八月十五日)
【鹿野山最勝院】(臨済宗)   〉 

『久美浜町史・史料編』
 〈 天王山古墳群 遺跡番号一六五・一六六
字鹿野小字天王山に所在する。
古墳群は佐野谷川河口付近の左岸の丘陵上に立地する。
A-三号墳は直径九・五メートルの円墳である。周溝からは須恵器広口壺が出土した。墳頂部には木棺を直葬した主体部一基を設け、鉄鏃を副葬していた。また標石もしくは枕と考えられる拳大の礫が、二点並んで出土した。古墳の時期は古墳時代後期初頭と考えられる。
A-四号墳は直径九メートルの円墳である。墳頂部には木棺を直葬した主体部一基を設け、鉄片を副葬していた。また木棺南側の盛土内から須恵器蓋杯のセットが出土したが、これは朱壷である。型式はTK四七である。古墳の時期は古墳時代後期初頭と考えられる。
A-五号墳は直径一四メートルの円墳である。墳頂部には木棺を直葬した主体部一基を設け、木棺小口部に礫を充填して押さえていた。棺内西側には土師器短脚椀形高杯が土器転用枕として二点並べて置かれていた。棺蓋上、または裏込め土上に鉄鏃、刀子、土師器短脚椀形高杯・鉢、須恵器蓋杯が置かれていた。また墳丘上、盛土内からは須恵器杯蓋・椀・子持ち壺が出土した。須恵器の型式はMT一五である。以上の出土遺物からこの古墳の時期は古墳時代後期前葉である。
A-一三号墳は長辺一七メートル、短辺一五メートルの長方形を呈する方墳である。墳頂部には箱式石棺を直葬した主体部を一基と、合口土器棺一基設けている。箱式石棺は北側側壁は三枚の板石によって構成されるが、南側側壁は板石を小口積みしている。棺内からは人骨片、土師器甕片一点、不明鉄器一点が出土した。古墳の時期は古墳時代前期末である。
A-一七号墳は直径約一六メートルの円墳である。墳頂部には割竹形木棺を直葬した主体部を一基設ける。棺内には捩文鏡一点、鉄ヤリガンナ一点、玉類三群(緑色凝灰岩製管玉一点とガラス小玉のセット。内一群は緑色凝灰岩製勾玉を含む。)が出土し、棺内には朱が一部に見られた。玉類・鏡の位置と朱の位置とが離れているので、複数埋葬が考えられる。古墳の時期は捩文鏡から古墳時代前期後葉から中期初頭と考えられる。
A-二〇号墳は長辺一〇メートル、短辺七メートルの長方形を呈する方墳とされるが、尾根の高所側は切断していない。墳頂部には箱式石棺を直葬した主体部を一基設けている。石棺は北側側壁は四枚、南側側壁は三枚の板石で構成される。蓋石の内面にはベンガラを塗付している。出土遺物はない。古墳の時期は古墳時代前期後半~中期前半であろう。
A-二七号墳は一辺二四メートルの方墳とされるが、丘陵高所側は切断していない。墳頂部には舟底状木棺を直葬した主体部を一基設けている。棺内の副葬品はなく、墓壙内に土師器高坏・器台・甕を破砕供献していた。この土師器は庄内式併行期のものである。
B-一号墳は直径一八メートルの円墳である。墳頂部に木棺を直葬した主体部二基を設けていた。第一主体部棺内には碧玉製勾玉・管玉、ガラス小玉、鉄刀、鉄鏃、刀子を副葬し、棺外には方形鏡板付轡、辻金具、環状鉄器、革金具、鉸具などの馬具を副葬し、棺蓋上には須恵器蓋杯、無蓋高坏、ハソウ、長頸壺、甕が供献されていた。第二主体部には棺内に刀子が副葬され、棺外には杯蓋が供献されていた。墳丘上に須恵器蓋坏の蓋身二セットが並べ置かれていた。この古墳の時期は古墳時代後期半ぽである。
B-二号墳は直径一〇メートルの円墳で、墳頂部に木棺を直葬した主体部を一基設けている。棺内に鉄鏃三点、刀子二点を副葬し、棺外に須恵器短頸壺、土師器椀三点を供献している。古墳の時期は古墳時代後期半ばである。
B-八号墳は直径一〇メートルの円墳である。墳頂部には木棺を直葬した主体部一基を設ける。棺内には片刃箭鏃一二点が出土した。古墳の時期は古墳時代中期前半である。   〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 天王山古墳群・経塚(てんのうざんこふんぐん・きょうづか)
所在地:久美浜町鹿野小字天王山
立地:佐濃谷川下流城左岸丘陵上
時代:古墳時代前期~後期(古墳群)、平安時代後期~鎌倉時代前期(経塚)
調査年次:1995年(府センター、府教委、久美浜町教委)、1997年(府センター、府教委)
現状:調査範囲は消滅(国営農地)
遺物保管:丹後郷土資料館、市教委
文献:B077、C110、Cll2、Cl17、C121、C144、F246
遺構
天王山古墳群、経塚の所在する丘陵は、北流していた佐濃谷川が「コ」字状に屈曲して南西方向の久美浜湾へ流れ込む川流の南側に位置する。古墳群は、A支群27基、B支群10基の計37基から構成される。A5~12、14~17号墳が丘陵最高所の標高55~60m付近に位置しており、北と東へ派生する尾根上に古墳群は分布している。A18~21号墳が位置する丘陵上には横穴式石室を埋葬施設とする鬼の釜古墳群が、さらに低位の別荘遺跡が展開する丘陵平坦面には別荘古墳群が分布する。これらは一連のものととらえられる。A6~12、14~16号墳B5~7号墳は未調査であるが、ほかの19基が発掘調査されている。
調査された古墳の中で最も古く位置づけられるのは、階段状のA27号墳であり、3世紀後葉~4世紀前葉に位置づけられる。4世紀後葉には、丘陵高所に位置するA13号墳が築造される。5世紀後葉に位置づけられる北側に派生する尾根上のAl9~21号墳とともに、組合式の箱式石棺を埋葬施設とする。5世紀中葉~後葉には、丘陵高所に位置するA17号墳が築造される。割竹形木棺直葬の埋葬施設には、玉類とともに獣形鏡と思われる小型のボウ製鏡が副葬されていた。6世紀中葉には、B1、B2、A5、A25、A26号墳のように盛土により墳丘を造成する円墳が見られる。これらには、須恵器杯や土師器高杯を転用枕とするものが見られる。古墳群は、鬼の釜古墳群へ造墓が移動し終焉するものと思われる。
経塚は、A13、19号墳およびB1号墳と重複して3基検出されている。いずれも丘陵の最高所ではなく、むしろ北側に派生する尾根上に立地する。
遺物
各古墳からは、土師器高杯、器台、台付壺、甕、椀、須恵器杯、高杯、ハソウ、子持壺、壷、甕、ボウ製鏡、鉄刀、刀子鉄鏃、馬具類、玉類が出土している。
経塚からは、外容器の須恵器甕(A13号)、土師製筒形容器、銅製経筒(A19、B1号)、銅銭、鉄刀(A19号)が出土している。
意義
本古墳群は3世紀後葉~4世紀前葉の階段状の古墳造成を契機として築造が始まり、5世紀中葉~後葉には小型のボウ製鏡を副葬するA17号墳が丘陵最高所に築造される。箱式石棺を埋葬施設とするA13号墳が4世紀後葉に築造されたことを契機に、北側に派生する尾根上のA19~21号墳が5世紀後葉に築造される。6世紀中葉には、盛土を行う円墳が丘陵各所に築造され、その後、鬼の釜古墳群へ移動し終焉する。丘陵最高所の部分が未調査であるが、全体の半数が調査された事例として古墳群全体の動向をうかがえる良好な事例と評価できる。
また3基の経塚は、銅製経筒を埋納するものが多く見られ、平安時代後期~鎌倉時代前期にかけて造営されたものと見られる。眼下に位置する別荘遺跡は、平安時代末期、中世に石清水八幡宮領鹿野荘へ勧請されたと推定される鹿野八幡神社との関係から築造されたものと評価できる。  〉 

『久美浜町史・史料編』
 〈 別荘遣跡 遺跡番号三〇五
字鹿野小字別荘に所在する。
遺跡は、佐濃谷川河口部の左岸、丘陵裾部の台地上に立地する。一九九七年、発掘調査が実施され、古墳時代中期の竪穴式住居跡二基のほかに、中世の鍛冶生産に関連した遺構が確認された。
台地上の平坦部中央より南側では、掘立柱建物跡一~六と鍛冶工房跡が発見され、鍛冶工房跡内からは掘立柱建物跡七~一四(工房棟・倉庫棟)・鍛冶炉三基が検出された。掘立柱建物跡は、鍛冶工房内の掘立柱建物跡と方向が一致するもの・異なるものの二種がある。掘立柱建物跡一・三は、鍛冶工房と方向が異なる。掘立柱建物跡三は、古墳時代中期の竪穴式住居跡二の南側に位置しており、一間×三間の総柱建物跡である。鎌倉時代中期頃の土器片が出±している。
掘立柱建物跡二、四~六は、鍛冶工房と方向を一にする。なかでも、掘立柱建物跡六は、鍛冶工房跡北側から検出され、一間×一間を測る。内部には直径〇・五五~〇・九八メートル、深さ〇・一六~〇・四メートルの土坑が六箇所確認され、大甕などを掘り据えた貯蔵庫であると考えられる。
鍛冶工房跡は平坦地南側に立地しており、建物範囲の岩盤を一段掘り窪めて整地し、建物と掘り窪めた間には排水溝が設けられていた。排水溝は、建物の建て替えのたびに新設されたと考えられる。鍛冶工房内部からは約二一〇の柱穴が確認され、約八棟の工房棟・倉庫棟跡(掘立柱建物跡七~一四)が重複して検出された。工房棟の規模は、平均二間×三間または二間×四間、倉庫棟は一間×二間と推定され、工房棟の柱穴は平均約六〇セソチと深い。これらの柱穴のいくつかからは、鍛冶滓・鞴羽口・鉄器が出土し、建物跡の床面には焼土が認めらた。また、焼土周辺の炭混じり土からは粒状滓や鍛造剥片が出土しており、焼土は鍛冶炉、建物跡は小鍛冶作業を行った工房跡と推察される。柱穴出土の土器には時期差が認められず、柱穴の位置関係から、掘立柱建物跡九・一三→一二・一四→一〇・一一→七・八の順に四回ほど建て替えが行われたと考えられる。掘立柱建物跡八の柱穴からは、平安時代末~鎌倉時代初頭の土師器皿が出土しており、これらの建物跡はこの時期のものと考えられる。
鍛冶炉は、炉本体が一部存在するもの二基、焼土のみ確認されたものが一基検出された。炉本体が残る二基の鍛冶炉は、天井部を欠損する火窪型であり、西側の鍛冶炉は直径約三五~四〇センチ、深さ約九センチの掘形内に設けられ、炉の内径は長径約三〇センチ、短径約二五センチ、深さ約七センチを測る。炉壁粘土は青灰色部分も認められ、よく焼き締まる。東側の鍛冶炉は、炉底面がわずかに遺存しているにすぎない。炉周辺からは、鉄鏃・刀子・釘などの鉄器が出土している。
また、鍛冶炉周辺からは、鍛冶生産に伴う井戸と溝が検出された。井戸は、鍛冶工房北西側に立地し、一辺約二・三メートル、深さ約六・〇メートルを測る。出土遺物から鎌倉時代中期頃には完全に埋まったものと考えられる。井戸の周辺からは柱穴が検出され、覆い屋があったものと判明した。溝は、井戸の東側から検出され、北端の池状の窪みから蛇行しながら南側の谷部に向って伸びている。溝が鍛冶工房内に通じることから、窪みは鍛冶生産に伴う水を溜めていた施設であると考えられる。
また、台地上のほぼ中央部からは火葬墓が検出された。火葬墓の掘形は長径約一・二四メートル、短径約一メートルの楕円形を呈し、深さは東側が約一五センチ、西側が約二二センチと階段状になる。土坑内部の北東端には火葬骨を納めた土師製筒形容器が安置されていた。筒形容器は筒身部と蓋部からなり、鎌倉時代のものと考えられる。口径約二一・六センチ、高さ約一五・五センチを測る。容器内には七割程度火葬骨が納められており、筒身部および蓋の内面には墨書が施されている。墨書の判読は難しいが、梵字の可能性もうかがえる。
当遺跡は、久美浜町内で初めて調査が実施された鍛冶生産遺跡である。鍛冶工房およびそれに関連する施設からは、平安時代末~鎌倉時代初頭に比定される遺物が出土している。また、工房と方向を異にする建物跡は、鎌倉時代中頃のものと考えられる。鍛冶生産関連遺物としては、鍛冶滓・椀形滓などの生産工程で排出されるもののほかに、加熱・鍛打した際に生じる鍛造剥片・粒状滓や鞴羽口、金床石、木炭などがある。出土遺物や遺構の状況から考えて、鍛練鍛冶が行われていた可能性が高い。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 別荘古墳群・別荘遺跡(ぺっそうこふんぐん・べっそういせき)
所在地:久美浜町鹿野小字別荘
立時:佐濃谷川下流域左岸段丘上
時代:古墳時代中期、鎌倉時代
調査年次:1997年(府センター)
現状:調査範囲は消滅(国営農地)
遺物保管:市教委
文献:C121
遺構
佐濃谷川下流の左岸段丘上の平坦面に立地する。遺跡のすぐ南側には、建久7(1196)年銘をもつ二尊石仏や応永24(1417)年銘をもっ石灯籠(市指定文化財)がある鹿野八幡神社が所在する。
遺跡は、古墳時代中期の4基からなる別荘古墳群と平安~鎌倉時代の集落遺跡が重複して見つかっている。1号墳は、古卿寺代中期に築造されたものであり、墳丘の約2/3が削平を受けていたが、墳丘中央部より木棺底部が検出されている。3号墳は1号墳の周囲から見つかった溝状遺構である。1号墳主軸とずれるため、別の古墳に伴う周濠の可能性が指摘されている。
別荘遺跡は、古墳時代中期の竪穴住居跡2棟、平安時代末~鎌倉時代中期(12世紀後葉~13世紀)の掘立柱建物、井戸、鍜冶工房のほか、土壙内に骨蔵器を納める火葬墓が単独で見っかっている。鍛冶工房は、掘立柱建物や排水溝が伴っており、建物内に鍛冶炉が位置している。また別荘2号墳上および古墳状遺構2北側斜面には、一石五輪塔や像容形板碑などの石造物が集められた状態で置かれていた。
遺物
別荘1号墳の埋葬施設からは、鉄刀、刀子、鉄鏃、ガラス小玉が出土している。古墳時代中期の竪穴住居跡からは、土師器甕、壷、高杯、勾玉が出土している。鎌倉時代の鍛冶工房跡からは、土器、陶磁器をはじめ、刀子、鉄鏃、環状鉄器、釘、棒状鉄製品、不明鉄製品のほか、鍛冶滓、鍛造剥片や鞴羽口、炉壁が出土している。火葬幕の骨蔵器は、内面に墨書がある土師製容器と扁平な士師器蓋のセットであり、容器内には下層骨が納められていた。墨書は判読できない。
意義
別荘古墳群は、天王山古墳群と比較して標高の低い段丘上に立地している。立地から見て天王山古墳群の一部としての評価も可能である。別荘遣跡は、両古墳群の築造時期に近い時期の竪穴住居跡と、平安時代末~鎌倉時代中期の鍛冶工房跡を中心とする遺跡である。後者の時期は、石清水八幡宮の荘園であった鹿野庄の立庄時期にあたり、近接する鹿野八幡神社の勧進も当該期と推定される。立庄にあたった在地有力者の集落および工房跡と評価することが可能であろう。  〉 

『くみはまの民話と伝説』
 〈 鹿野の由来 鹿野
昔、函石の奥小野(おんごの)という所に鹿野はあった。奥小野は五つの村に分れていたそうです。鹿野・葛野・俵野・浦野・上野とそれぞれ“野”の字をつけて分れたそうですから、鹿野ももとは奥小野であったわけです。
鹿野の土地は、昔から日本海の沖のカノが島がある。湊の沖の大島小島カノが島、そのカノが島を見直してあの砂山が全部鹿野のものであった。ということです。
その当時湊には五軒屋-有力な財閥があった。
そうした人たちとの間に訴訟問題が起きた。何回となく訴訟があった。
ところが最終的になった頃役人が立合に来たそうです。
昔も今も変らない賄ろというものがあった。二人の役人は賄ろに絹五反をもらったそうです。ところがそれが発覚して、その二人は帰る途中で、一人は自殺し一人はどうなったかとうとう帰らずじまいだったそうです。
その当時鹿野がもう一ぺん訴訟に出たら鹿野の勝がわかりながら、その費用を出したら鹿野の村中がむしろ戸になる。むしろ戸というのは丸裸以上という意味だそうです。
それに耐えられなくて、涙をのんで、そのままになったということです。
それで鹿野の土地というのは浦明の東側から、カツタノ池半分は鹿野の土地でありますが、湊との争から大きな土地が湊宮の蛙子神社の社地ということになっとるそうです。
今の鹿野には十九町七畝が社地として残ったわけです。  〉 





鹿野の小字一覧


鹿野(かの)
勝田 不動 ブロ田 竹乗リ ニカナベ 神田 林ケ谷 宮ノ谷 能ノ谷 橋ノ坪 コイゴ谷 ハサマ 川尻 松ケ下 長田 亀井 上ノ山 ヤゴ田 枯ケ坪 起返リ 大門 田中田 蔵田 東谷 別荘 越前 堂ノ向 藤ノ木 鹿地 西地 愛宕根 藪ケ谷 小丸山 四ツ辻 高鉢 ゴロガイ谷 荒岡 天神谷 長良 鳥取 日光寺谷 東外ノ 浦明岡 古里ケ山 天王山 コイゴ 鹿野川尻 天神 下坪 上坪 仲坪

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



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