丹後の地名

木橋(きばし)
京丹後市弥栄町木橋


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京都府京丹後市弥栄町木橋

京都府竹野郡弥栄町木橋

京都府竹野郡
弥栄村木橋

京都府竹野郡鳥取村木橋

木橋の概要


《木橋の概要》



竹野川西岸の「弥栄あしぎぬ温泉」や「道の駅・丹後あじわいの郷」があり、弥栄町観光の中心か、遠所遺跡もある一帯である。
あしぎぬ温泉(木橋)
あじわいの郷(木橋・鳥取)
南接して橋木の地名があり、同地とは元は同一の村だったものが後に独立し前後をひっくり返した地名としたものかと推測されている。
木橋村は、室町期~戦国期に見える村名で、暦応4(1341)年の縁城寺文書や、「丹後国田数帳」に「一 木橋村 廿五町三段四十五歩 八幡領」とあり、「丹後御檀家帳」にも「きはし 家数百弐拾軒斗」とある。木橋には、一色氏の部将吉岡伊予守の居城があったという。
近世の木橋村は、江戸期~明治22年の村名。宮津藩領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年鳥取村の大字となる。
木橋は、明治22年~現在の大字名。はじめ鳥取村、昭和8年弥栄村、同30年からは弥栄町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《木橋の人口・世帯数》 417・114


《主な社寺など》

遠處遺跡・遠所古墳

日吉神社
日吉神社(木橋)
『丹後国竹野郡誌』
 〈 日吉神社 村社 字木橋小字宮山鎮座
 (神社明細帳) 大 山 咋 神
   創立不詳、寛文十庚戊年九月又享保十九甲寅年九月五日再建、元社名山王権現と称す明治二年十一月日吉神社と改称せらる、尋て明治四年五月村社に列せられ、明治四十四年五月三十日神饌幣帛料を供進し得へき神社に指定せらる
  一社  殿  梁行 六尺七寸   桁行六尺二寸
  一上  屋  仝 三間四尺五寸  仝 三間七寸
  一拝  殿  仝 二    間  仝 五  間
  一境内坪数  二千五百四十三坪
  一氏  子  八十七戸
境 内 神 社
 天満宮
 祭神 菅原道眞公
 創立不詳、明治十六七年頃、宝徳二年七月十三日並永暦五年八月と記載せる鰐口二つ元天神山土中より掘り出す
 鰐口銘
 表 奉納、?口、十王堂、
   宝徳二年七月十三日藤原家次 (直径六寸)
 裏 奉懸、河守郷天神賽前
   干時永正五八月日、願主花田女敬白
 奥茂神社
  祭神 大歳神
 創立不詳.該村氏神日吉大神の御祖神なるを以て鎮祭せりと口碑に云、延享三丙寅年九月六日再建  〉 

『弥栄町史』
 〈 日吉神社 字木橋
祭神 大山咋命 元村社
神社明細帳によれば、
創立年代は不詳であるが、寛文十年九月(約三百年前)享保十九年九月五日(約二百四十年前)等の再建あるいは改築の棟札があるので、古くから祭杞されていたものであろう。元社名山王権現といったが、明治二年十一月日吉神社と改称して、明治四年五月村社に列せられ、明治四十四年五月三十日神饌幣帛料を供進し得べき神社に指定された。昭和二年丹後震災によって倒壊し、昭和四年十月十日竣工再建復興したものである。その他の由緒は不詳であるが、神域に入り鳥居の左右を見ると、珍木根上りの老松がある。今米寿にとどく老人の幼少の頃から今と余り変らない老大木であったという。その根上りの立派さは稀に見る珍木である。なお少し登った左手に周囲三メートルに余る椎の老木がある。高さ四メートル余りの所に直径十五センチ位の檜の大木が寄生している。当に天然紀念物的珍木である。老樹巨木欝蒼と昼も暗いまでに茂り、社頭に立ってよく整備された高い石段を仰ぐと幽玄な雰囲気は自ら襟を正させ、伊勢神宮における西行法師の「何事のおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
の歌を彷彿たらしめるものがある。
社殿 梁行 三メートル六十六センチ
   桁行 三メートル六十六センチ
拝殿 梁行 三メートル六十六センチ
   桁行 三メートル六十六センチ
割間拝殿梁行三メートル九十六センチ
   桁行 九メートル八十五センチ
神輿庫梁行 三メートル六十六センチ
   桁行 三メートル六十六センチ
境内坪数 二千五百四十三坪
享保十九年甲寅の再建札に、
遷宮導師縁城寺不動院覚導
奉山王社再営伏神事繁栄国土安穏氏子中息災延命諸願成就
大工棟梁 竹野郡溝川村住人
     梅田文左衛門藤原重次
仕手大工 溝谷 新井孫治郎
     島村  杢右衛門
木挽 黒部村     善六
この棟札で昔神仏混淆のため遷宮の神宮も場合によっては僧侶であったことがわかる。なお当社の古いことを立証するかのように昭和四十三年神社山麓のプール整備工事現場から古代の土器が発掘され目下鑑定中である。
境内神社
奥茂神社(奥の院と称す)
神社明細帳によると祭神大歳神その他不詳とある。いい伝えによると当社の祭神は氏神日吉大明神の御祖神であるので、祭礼の際には必ず、一廻りして本社に御幣を納める慣例になっている。
天満宮 祭神 菅原道真
竹野郡誌によれば、
明治十六年頃宝徳二年七月十三日宝正五年八月と記載せる鰐口二個天神山土中より発掘されたとある。直径六寸位
金公口銘
奉納 金公口十五堂宝徳二年七月十三日 藤原家久
奉懸河守郷天神賽前永正五年八月願主花田女敬白
等の文字がある。  〉 

日吉神社(木橋)
鳥居は道路面から少し高いところにある、本殿は背後の山の上にある。三八豪雪の時はこんなに雪が積もったそう(『京丹後市の災害』より)


曹洞宗泉流山大慶寺
大慶寺(木橋)
曹洞宗大慶寺には宝永元年銘の梵鐘がある。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 太慶寺 曹洞宗 字木橋にあり
 (丹哥府志) 泉流山大慶寺 曹洞宗
 (同寺調文書) 本尊阿弥陀如来、往古は平僧地なりしが、宝永元年丹後国宮津町曹洞宗智源寺の末寺となり、開山定山和尚二世孤嶽千芳和尚安永ニ年に堂宇を建設せられたり、檀家八十餘戸  〉 

『弥栄町史』
 〈 泉流山大慶寺 木橋
本尊 阿弥陀如来 曹洞宗
往古平僧地であったが、宝永元年(約二百六十年前)丹後国宮津町曹洞宗智源寺の末寺となり、法地の格式を得、開山定山和尚二世孤嶽千芳和尚安永二年に(約二百年前)堂宇を建築、さらに丹後震災により倒壊、昭和十六年七月十二日着工、翌十七年十一月十日落慶で再建し現在に及ぶ。  〉 


木橋城趾
東部の城岡には木橋城址があり、中世の砦跡や土塁が残り、この地より発掘された宝徳2年銘の鰐口は町文化財。
『弥栄町史』
 〈 木橋城
字木橋の城山にあり、二層よりなり、上層は円形約五畝歩ほどある。現在は原野となっている。
天正三年まで吉岡家の祖吉岡伊予守の居滑であったといわれている。吉岡長左衛門氏の伝える系図の抜萃によれば、
「吉岡伊予守は木橋の城主で、長享二年正月死亡。其の子伊予守高善落城して民家に下る。現在長左衛門は伊予守より十七代なり」
という。城跡に古城本九跡の碑あり。  〉 


《交通》


《産業》
弥栄あしぎぬ温泉
「小高い丘の上にある日帰り専用の温泉です。見晴らしのよい露天風呂のほか、ジャグジー・打たせ湯・寝湯などがあり、男湯・女湯を毎日入れ替えています」とある。


木橋の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 竹野郡網野郷
一 木橋村  廿五町三段四十五歩  八幡領  〉 

丹後国御檀家帳
 〈 一きはし     家数百弐拾軒斗
かうおや
            
 吉岡治郎左衛門殿   岡本利右衛門殿
 岡嶋七郎兵衛殿    し ん 蔵 主
 せ い 蔵 主    ゑ い し ゆ う
 助 八 郎 と の    小 浩 郎 殿
 弥 五 郎 殿    介 兵 衛 殿
 孫 右 衛 門 殿    衛  門  殿
 治郎右衛門殿   吉岡小治郎殿
 た い け い 寺    こ ん 屋 と の
 又 治 郎 殿    弥 太 郎 殿
 弥 治 郎 殿    与 三 郎 殿
 左 衛 門 介 殿    孫 三 郎 殿  〉 

『丹哥府志』

 〈 ◎木橋村(鳥取村の西南)
【山王権現】
【泉流山大慶寺】(曹洞宗)
 【付録】(荒神)  〉 

『中郡誌稿』
 〈 按、此村もと竹野郡に属せしならん其証は延喜式に当村撥枳神社を竹野郡に出たし縁城寺寺地図面にも仁王門前東方の石橋に註記して「往古此橋竹野中両郡境」とあるを以て知るへし或は想ふ隣村竹野郡木橋村あるは何の時か一村を二分し文字を転倒して区別せしものにあらさるか又按、縁城寺寺地はもと竹野郡なりしが寛文年中丹波郡となりたること古記に明文あり…略…  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【橋木】橋木村が、昔、竹野郡であったことは、揆枳(からたち)ノ神社が延喜式に「竹野郡発枳ノ神社」とあることからも明らかである。しかし、『延喜式』には、丹後分国の際、新しく生まれた丹波郡の大野神社が、発枳神社と同じく竹野郡に、三重神社、木積神社が与謝郡に登載されており、これは誤りて分国前に所属していた郡にのせられたものであろうといっている。だが、橋木の場合、竹野、中両郡の境界については、明治三十四年の縁城寺所得山林絵図面に、勅使門の東側の村道の石橋が、往古の両郡堺であったと記されている。昔の部落は、勅使門の東側から和田野へ通じる道路にそった谷合いにあったのではなかろうか。
なお、宝暦頃、撥枳神社の祭には、和田野村の神子を雇って神事を行なっており、縁城寺の裏山の外は木橋村である。『中郡誌稿』は、木橋と橋木はもと一村で、これを二分して文字を転倒して区別したものではなかろうか……といっている。しかし、矢田村から平野つづきの川上で、三方を丘陵にとり囲まれたこの部落が、当時、村の口と思われる石橋で、両郡の境界線がひかれていたことは珍らしい例である。
ところが、丹波郡七郷のうちの口枳郷がハチキで、揆枳にあたるとか、あるいはまた、丹波郷に属していたなどの諸説が正しいとするならば、『和名抄』のできあがった時、すでに竹野郡ではなく、丹波郡に所属していたといえよう。しかし、『縁城寺年代記』を眺めてみても、古くから縁城寺に関係の深い興法寺、願興寺、岩倉山明光寺、仲禅寺、上山寺などは、ほとんど竹野郡である。慶長六年京極丹後守高知の『拝領郷村帳』は、丹波郡のうちの縁城村へ(寺をおとしたか)とあり、元和八年、峯山初代高通の『郷村帳』は、ハッキリ縁城寺村とある。そして、延宝八年(一六八〇)の『郷村帳』になって、はじめて「橋木村」の名がみえているから、この間六十年程の間に縁城寺村が橋木村に改名されたことになる。縁城寺村は、木橋村の東南(表)に当たるところから、木橋を反対にして橋木とつけたものであろうか、その他、別に橋に縁のありそうな土地ではない。また、ハチキは発枳(からたち)の音読であり、手扁または木扁で、撥枳とか撥(木偏)枳とか書かれているし、縁城寺の山号も『峯山旧記』は、発信貴山を用いないで、撥枳山と書いている。では撥枳村といった時代もあったのであろうか。
橋木村城山(『丹後旧事記』)『峯山旧記』によると、新宮城という。元亀の頃(一五〇一)まで、一色の部将中村式部太夫が居住し、大永、天文の頃、山中貞太郎が城主であったというが、伝記は明らかでない-とある。
また『丹哥府志』は「山中貞太郎の守り本尊という薬師如来像が、不動院(縁城寺の塔頭)にある」といい、山中の居城を裏付けしている。しかし、どうしたものか、天正十年一色氏滅亡の時の戦記にはのっていない。もし、この軍に関係があったとすると、丹波郡の石丸、赤坂の諸砦ではなく、竹野郡の和田野城方面の諸城の一翼であったものといえようが、山中貞太郎の伝記は明らかでない。  〉 

木橋の小字一覧


木橋(きばし) アブラデン アワラ アシアライ イワバナ イケンタニ イノシリ イモンタニ エンジヨ オオナル カマダニ カジダニ カンダニ カナクソ カミジ カドンタニ ゴンダニ ゴタンダ サカネ シモジ シモガタニ ジゾウトウゲ シミズ シイガタニ スナダ タンノウ タカギシ ダンジ チワラザキ チハヤデン ツツミダニ トチガサク トオリダニ ドウノウエ ナカジ ナカンタニ ナコダニ ニシガオク ニシタニ バベト ハシギダニ ハカンド ブスダニ ブロ フルヤノタニ マエダ マツガシタ ミヨウガダニ ミヤノコシ ミナミダニ ミドノオテ モリガタニ ヤマサキ リヨウデン ルスデン ロウダニ ワダノタニ ヲクモノタニ ヲテジ ヲケソ


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『弥栄町誌』
その他たくさん



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