丹後の地名

河梨(こうなし)
京丹後市久美浜町河梨


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京都府京丹後市久美浜町河梨

京都府熊野郡久美浜町河梨

京都府熊野郡久美谷村河梨

河梨の概要


《河梨の概要》



丹後の一番西に位置している。河梨バイパスから見ると谷の下の方に見える集落。
中世の「丹後御檀家帳」に「一 くみの川なし 家参拾軒斗」と見え.る。
河梨村は、江戸期~明治22年の村。口馬地(馬地)村の枝郷。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、元禄10年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年久美谷村の大字となる。
河梨は、明治22年~現在の大字。はじめ久美谷村、昭和26年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。
国道178号は当地を通っていたが、昭和48年南側山腹に新バイパス国道(現国道312号)が開通した。
小字七日仮屋(なぬかかりや)は、昔、産屋を建てた場所であると伝える。『京都府熊野郡誌』
 〈 出産に対しては河梨に小字七日仮屋という地名あり、昔産の穢ありとて産婦をして七夜の間仮屋に住ましめしといふ、産屋を建てし事は古代の風習にして、其の遺産の存せし事を知らる。  〉 


《河梨の人口・世帯数》 147・38

《主な社寺など》

熊野新宮神社
熊野新宮神社(河梨)
集落の一番奥の方にある。今の国道312号バイパスと河梨トンネルができる以前の河梨峠越えの道ぞいにある。この道は大正9年に改修されたという元国道312号である。
『京都府熊野郡誌』
 〈 熊野新宮神社 式内村社 久美谷村大字河梨小字大谷鎮座
祭神 事解男命 速玉男命
由緒 古社にして霊験最も著しく、嘉永二年藤右衛門に関する順拝記あり、明和八年社殿再建に際し、久美浜代官所に差出せる芝居興行の願書によれば、普請祭礼入用等も往古は郡割たりし事を記し、神馬の足蹄岩等は人口に膾炙せる處なれど、神社に関する文書に乏しく、詳細を知る能はず。元熊野三社権現といひ九月初卯の日を以て祭日となしゝも、近年陽暦に変更し十月十三日を例祭日と定む。
一 氏子戸数 五十二戸
境内神社
 稲荷神社 祭神 倉稲魂命
 三柱神社 祭神 素盞嗚命命
 山神社  祭紳 大山祇神
 大武神社 祭紳 素盞嗚命
 大正元年十月許可を得、小字東谷より移転し境内杜となす。
一 馬蹄岩 神社を距る事凡三丁余にして、小字イノ谷といへる道路の傍に、大なる岩石四個あり、大なるものは長さ十三尺巾十尺にして、何れも人馬の足跡を印し、熊野新宮の休息せられし旧跡なりといひ伝ふ。延享二年供養の爲の碑を建てしが、今其の一片を存せり。  〉 

臨済宗南禅寺派恵福山聴泉寺
聴泉寺(河梨)
『京都府熊野郡誌』
 〈 恵福山 聴泉寺 久美谷村字河梨小字寺
臨済宗南禅寺派
本尊 観世音菩薩
脇立 薬師如来
由緒=玄圃和尚の創建せられし処なりといへば、天正年間の創立たりし事を知らる。殊に後丘より湧出す泉は渾々として尽きず、自然美妙の音楽をなす、以て寺号の起る所以なり。  〉 

「万燈山十二燈」の火祭行事(8月23日)
←写真はいずれも『心のふるさと丹後Ⅱ』(坂根正喜氏)より。
古くから伝わる民俗行事で、由緒など確かなことは不明である。
午後3時頃から愛宕講の人が愛宕山に登り、太刀宮の神主から愛宕神社の灯明の火を受け、万灯山に運ぶ。頂上には高さ約10メートルの三角形の櫓を組み、左右の2辺に各々6本ずつ結んだ棒の先にたいまつの束をくくり付け、日暮になるとこのたいまつに愛宕山から運んだ火を点火し、山頂に立てるもの。
やがて子供たちがその火をたいまつにつけて山を下り、川端の農道で縄にくくて振り回す、という。

万燈山という山は各地にあるので、けっこうあちこちで同様の行事が行われていたと推測できるが、現在でも見られるのは多くはない。





《交通》


《産業》
冬の農閑期を利用して和紙製造を行ってきたが、昭和に入って減少し現在は生産する者がなくなったという。

河梨の主な歴史記録


『丹後国御檀家帳』
 〈 一くみの川なし  家三拾軒斗
 杉  谷  殿   せ ん き う 庵  〉 


『丹哥府志』
 〈 ◎河梨村(神谷村の次、是より河梨峠を越て豊岡へ一里)
【熊野三社権現】(祭九月初卯)
【寿福山長泉寺】(臨済宗)  〉 


一足伸ばすと
『謎の古代氏族鳥取氏』(山本昭・大和書房)
 〈 …但馬国にはもう一社天湯河板挙命を祀る式内社がある。『和名抄』城崎郡三江郷の久久比神社である。南の出石郡中嶋神社とは僅か四キロメートルを隔てた谷で、神社前の道は東の河梨峠を越えて丹後国の久美浜町に通じている古道である。この久久比神社の社名と祭神について、『地名辞書』は「下宮(神社の地)は山中にて江浜にあらず、鳥取部の祖湯河板挙が鵠を獲し故跡とすれば稍疑惑なきに非ず」と、神社の立地からうけた疑問を述べている。神社の本殿は、室町時代は永正四年の建造にかかり、重要文化財の指定を受けている。社名と祭神についでの伝えは、地元でも判然としないようで、社記には、「もと胸形(宗像)大名神と称され、木の神久久遅(くくぢ)命を奉祀した式内社であるが、神社の創立年代は詳らかでない。一説には天湯河板挙命を祀るといわれる」。祭神の木の神久久遅命とは、伊邪那岐・伊邪那美の二神から生れた「久久能智神」を指しているのであろう。
『古事記』に「次に木の神、名は久久能智神を生み」とある。中近世に至って林産業を生業とした集落が安全と繁栄を希って木の神を祀ったものであろうか。しかし、古来からの奉祀神はかすかながらも伝えられ、「一説」の形ではあるがたしかに遺されている。このとき『神名帳』の社名「久久比」が大白鳥の鵠(くぐい)に由来するものか、あるいは木の神「久久能智」を示しているのかは判らない。ただ、丹後国へ越える国道沿いの河梨峠から流れ、久久比神社前に至る谷川には驚くほどの量の砂鉄のあること、そして峠を東に下った久美浜町でも川床におびただしい砂鉄の堆積していることを付け加えておきたい。
 但馬国と丹後国にまたがるこの山地は実に豊かな砂鉄の包蔵地なのである。久久比神社に天湯河板挙命を奉祀した鳥取氏は、出石郡の鳥取氏族と同様に、この山地や川床に堆積した砂鉄を対象とする集団であったと思われる。  〉 

河梨峠を西に下ったところに鎮座する式内社・久々比神社の本殿。重文だそうで、立派なもの。ここもミエの内だそう。
久々比神社(豊岡市下宮)
境内に案内板があった。案内板
コウノトリ伝説
 日本書紀によれば垂仁天皇の御宇二十三年の冬十月、天皇が誉津別皇子をともない宮殿の前に立たれた時、鵠(くくい)(コウノトリの古称)が大空を鳴きながら飛んでいったもその時、皇子が「これは何んという名の鳥だ」とお問にになったので、天皇は大変に喜ばれ、家来の者に、「誰かあの鳥を捕まえて献上しなさい。」とおっしゃいました。
 天湯河板挙が「私が必ず捕らえて献上します」と申し出て、この大鳥が飛び行く国々を追って廻り、出雲国で捕らえたともいわれる。但馬国で捕らえたともいわれる。コウノトリを捕らえ、献上したのである。その時に皇子は三十歳であったが、まだ言葉を話すことができず、まるで赤ん坊の泣き声のような声しか出なかったが、この日初めて人並みの言葉をお話になられたのである。
 このようにコウノトリは霊鳥なのでその棲んでいる土地を久々比(くくひ)と呼び、その後この土地に神社を建て、木の神「久々遅命(くくのちのみこと)」をおまつりした。これが久々比神社の始まりであった。
 ところで、その頃の豊岡盆地は「黄沼前海(きめさきのうみ)」といって入り江であった。下宮はその入り江の汀であった。また、そのあたりは樹木繁茂し、木霊のこもるところ、神自ら鎮まり座す景勝の地であった。私たちの先人がこの自然の神秘と霊妙を感待して、木の神 「久々遅命」を奉斎し、その御神徳の宏大にしたのも当然のことであろう。

こうして天湯河板挙(あまのゆかわたな)命は鳥取造のカバネを賜ったと垂仁紀は伝える。
鵠(くぐい・くぐひ)は白鳥の古称と広辞苑にある、クークーと鳴くからククヒだし、コーコーと鳴くからコウノトリで、このテの鳥は鶴などもだいたいこうした鳴声である、広辞苑の言う「白鳥」はスワンのことなのか、それともシラトリのことで、だいたいこの種の鳥は白いので総称的なものかは不明である。
コウノトリは赤ちゃんを運んできてくれるとか、西洋の方の話だが、若い夫婦(たぶん)がお参りに訪れていた。
久々比神社
西洋の伝説もよろしいが、ナニセ子の数が少ない、このままでは大資本だけが栄えて日本は亡ぶしかない。
しかし日本の伝説も知っておくべきかと思うのである。
垂仁は片目の鍜冶大王。誉津別命は日葉酢媛の子ではなく、前妻の狭穂媛命の子。垂仁は水銀を求めただけでなく、白鳥という鉄霊も求めて全国を探し回った。丹波も探して遂にここでそれを得たという(あるいは出雲国とも)。出雲国が強大であったのも、天日槍が居を構えたのも、丹後王国が栄えたのも、すべてこの資源あったがためと思われる。大和の鉄王が興味を持ったのもそのためである。
同じ山の西斜面と東斜面であって、河梨とも関係がないとは思えないのである。河梨はコーノトリ鉄穴師だろうか。
久々比神社の参道
参道を流れる御手洗川か。砂鉄は今もあるのか…




河梨の小字一覧


河梨(こうなし)
神谷口 岡阪 岡道ノ上 岡道ノ下 クロノ下 カジヤ口 シヤカンダ カジヤ 大防谷 大坊谷 大坊ノ下 大坊松ノ下 西ヲサ 大防ノ下 大坊道ノ下 イナバ 大坊ノ尾 寺ノ下 ユリノ下 車谷 フカタ 札場 上車 上車下 ユリ谷 上車谷口 ユリ谷口 ァフイゼ カイマガリ カイコノ谷口 寺ノ上 寺ノカミ カイコ 清水 堂ノ前 中路 ハシモト ダンノ下 ダン ダンノシモ キヤジ谷 シイノキ 椎木川原 平田 岡 古ヤノ元 岡ノ下 岡ノ上 御堂 ミドウ 御堂ノ上 イセキ イセキ道ノ下 鳥井ガハナ 宮ノ下 宮ノ越 大ナル 大ナルトシナシ口 トシナシ口 トシナシ スベタ口 スベタ タイキアナ 大タキ 大ナル道ノ下 大ナル川向 サヲアシ口 サヲアシ 引舟 宮ノ向 トリカハナ 竹ノ垣 谷口田 六地蔵 アミヤンバ ユルズミ アカツチ口 アカツチ 峠 ハラ谷口 クズレ口 クズレ 大畑ケ 小谷口 小谷 水タキ 水タキセイシテ口 水タキセイシラ口 セイシラ ニウダ口 ニウダ イノキ ヒジリバ ホリガハナ 地京 イノ谷口 地京口 イノ谷 ヤマトガキ 壱本玉 杉ノ谷 フルヤノ元 ヲイノ下 ヲイノ上 ヤブノ下 家ノ元 橋本 堂ノ上 細谷口 堂ノ下 大畑 カアタ口 カアタ ガウダ口 ガウダ チヨ田 大カン谷口  大カン谷 下カフタ スナタ イ子口 大田 アカハゲ 今西 ヒナタコ マヘ田 不動ノ前 イリヨウ クラカケ口 コエクビ クミノコ谷 クズレ岩ノ下 シヤカマ口 トウゲ サガリ松 ハラ谷口向 タキノ穴 エボシイ岩 小タキサガ 水ノ本 大バラ アカハケ ミトウサガ 鍛冶屋口 仲田 大谷 水滝 水 木水 神谷口道ノ下 神谷口道ノ上 玉子坪 コモイケ 大防松ノ下 大坊下 大防道ノ下 大防ノ尾 大防尾 フカ田 中嶌 スナ田 ユリ下 アフイセ カイマカリ カイコ谷口 キシヤ谷口 引舟口 クズレ口 クズレ ホシガハナ フルヤ元 下川原 中田 五反田 キシノ下 スミ田 カキカハナ 善勝寺前 ハラ谷口 スヘ田口 カシヤ 西長 カシヤ口 深田 下河原 上車谷上 下ガウダ 長田 大バタ ホソ谷口 仲地 藪ノ下 カハラ 古ヤモト 山ト柿 古ヤ元 ミドウノ上 ミドウサカ 小タキサガ 水ノ元 大バウ セイジラ口 クズレ岩ノ下 グミノ小谷 前田 フドウ前 岸ノ下 カキケハナ イリヨヲ エボシ岩 タヌキアナ

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



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