丹後の地名

甲山(こうやま)
京丹後市久美浜町甲山


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京都府京丹後市久美浜町甲山

京都府熊野郡久美浜町甲山

京都府熊野郡神野村甲山

甲山の概要


《甲山の概要》



川上谷川の川口にある兜山(甲山)の麓、KTRの甲山駅があるあたりである。熊野郡総社・熊野神社が鎮座することから、当地の地名由来を神山にもとめる説もある。
戦国期の「丹後御檀家帳」に「一 かうやまの里 家五拾軒斗 東兵衛殿 かうおや」と見える。
甲山村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、元禄10年からは幕府領。村内の川崎に御城米蔵屋敷があり、川上谷川流域の村々の上納米を集め、ここから艀で蒲井村の旭港に運んだという。江戸期に開発された新田には、両津・新津・中新田・下新田・西新田・古川・新川・卯新田・本願寺新田・五宝新田・木下新田・稲葉新田などがある、明治2年には久美浜県が貧民救済事業として、人夫に1日米1升2合を給して甲山の地に3町歩の新田を開いたという 。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年神野村の大字となる。
甲山は、明治22年~現在の大字名。はじめ神野村、昭和30年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《甲山の人口・世帯数》 404・117

《主な社寺など》
岩ヶ鼻古墳
京丹後市久美浜町甲山岩ヶ鼻古墳測量調査報告
塚ヶ鳴古墳

式内社・熊野神社
熊野神社(兜山山頂)
甲山(兜山)山頂の熊野神社↑。案内板が付けられている。熊野神社の案内板
熊野神社(くまのじんじゃ)
 熊野神社は、『延喜式』神名帳に記載され、熊野郡の名称の由来にもなった神社と伝えられています。
平安時代の歴史書『日本三代実録』貞観十年(八六八)九月二十一日条に「丹後国正六位上熊野神」に「従五位下」を授ける記事があり、これは当社のことと思われます。
そもそも鎮座している甲山には祭祀遺跡もあり、「甲山」は「神山」が転じたものという説もあることから、山全体が信仰の対象となっていたのではないかと考えられています。
『丹後旧事記』など江戸時代の地誌類には、丹波道主命の勧請、川上麻須郎の造立と伝えられています。
また『熊野郡誌』には、養蚕農家が境内の小石を借り受け、家に祀るとネズミの害を逃れるという風習があったことが記されています。
 現在の社殿の建立年代は不詳ですが、昭和二年(一九二七)の丹後大震災により被害を受け上屋を再建した際の棟札が残されています。京丹後市教育委員会


熊野神社の遥拝所
山麓の雲晴神社(神崎)に熊野神社遥拝所がある。標高191・7メートルの兜(かぶと)山のテッペンに鎮座。この山は江戸時代の久美浜村・甲山村・神崎村に分属し、その頂上境界線に位置している。神崎にコクンバラ、浦明には古熊野という地名があり、当社の元社地であると伝えている。
「延喜式」の熊野郡熊野神社に比定され、祭神は伊奘冊尊。熊野郡の総社であった。熊野郡の郡名は当社より起こる。貞観10年(868)9月21日従五位下を授けられる。
「丹後旧事記」は、「将軍道主命の勧請にて宝殿は川上麻須郎造立し玉ふ、此時日間岳野辺を神戸に定め玉ふとなりと風土記に見えたり、今も神戸大明神の社残れりと順国記にあり」と記す。
また兜山の熊野神社本宮に対して、河梨の大谷に鎮座の熊野新宮神社が新宮、字品田の大宮に鎮座の熊野若宮三神社が若宮であるという。明治維新以前は、郡内の雨乞などは当社において行うのを常とした。養蚕家は当社を「お描様」と称し、境内の小石を借り受ければ鼠の害を免れるといい、返す時は小石を倍数返したという。
兜山山頂からの展望
山頂の熊野神社のすぐ脇が展望所になっている。山からの眺望は全体にあまりよくないがここからはよい、ここに展望台があったというが、今は何もない。上記遥拝所は手前にひろがる田畑の一番右手くらいに位置する。当社ものちに多くの要素がもっともらしく習合して何が何だかよくわからなくなってしまったようであるが、もともとはこの山麓に遺蹟を残している集落民より祀られたものと思われる。「こくばら野遺跡」とか何か当社と関係ありそうな地名の遺蹟など分析するしかなかろうと思われる。
郡名の元になった社であるが、出雲の熊野大社か世界遺産・熊野古道の熊野三社かそれとも当地独自のものか…。答えは出ていない。ワタシとしては熊野ではなく、元々は「久美の神社」でなかったかと考えている。

『日本三代実録』 貞観十年九月
 〈 廿一日辛亥、授丹後国正六位上熊野神、出雲国正六位上智位神、斐伊神、温沼神並従五位下、  〉 

『日本三代実録』貞観十三年六月
 〈 八日癸未、授丹後国正五位下籠神従四位下、  〉 

「室尾山観音寺神名帳」「熊野郡八十四前」
 〈 従一位 熊野明神  〉 

『丹後旧事記』
 〈 熊野神社。川上庄甲山村。祭神=天神七代地神五代 熊野四十八王子 大膳職豊宇気持命 同豊宇賀能売命。
 当社は崇神天皇十年癸巳九月勧請也当国土形里国府に定の道主命下向ましまして当郡川上麻須郎の女を娶り給ふ是に四柱の女君有て五十狭茅尊の皇后次妃と成のよろこびのあまり将軍道主命の勧請にて宝殿は川上麻須郎造立し玉ふ此時日間岳野辺を神戸に定め玉ふとなりと風土記に見えたり今も神戸大明神の社残れりと順国記にあり。  〉 

「丹後国式内神社取調書」
 〈 熊野神社
 ○【三実】貞覿十二年九月廿一日授丹後国正六位上熊野神従五位下
 ○【姓氏】熊野連饒速日命孫味饒田命之後也
 ○【田志】齋大明神ト云ハ市場村ノ中ニ神ニ事フル家アリ女子ヲ生ル時神箭飛来リテ彼家ノ棟ニ立テリ四五歳ノ時宮ニオクリ奉ル山中ニアレドモ獣モヤプルコトナシ成長シテ交接ノ心生ル時大蛇出チ眼ヲイカラス其時郷ニ帰ルコリヲ齋女ト云フ此齋女アル宮ユエニ世人斎明神ト云フ
【考證】在熊野村【覈】久美郷久美濱村川上郷神崎村甲山村三ケ村立合所権現山ノマス舊事記ニ甲山村トノミ云ルハ疎ナリ【明細】久美濱三月廿六日【考案記】品田村河梨村甲山村モ確証ナケレド品田村ニハ古ク地頭ヘ差出ス守札等ニ式内熊野神社ト記シ来リ且ツ社地形勢至極宜敷ケレバ品田村ニ決定可然【道】品田村若宮三社ト称ス出雲国意宇郡熊野坐神社是ト同神ナリ
(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)  〉 

『京都府熊野郡誌』
 〈 熊野神社 式内村社。久美浜甲山神崎堺界中央小字甲山鎮座。祭神=伊奘冊尊
由緒=式内社にして、崇神天皇の代旦波道主命川上麻須郎女を娶り、五女を挙げ給ふ。子女皆垂仁天皇の皇后皇妃に立ち給へるを祝ひて勧請し、宝殿は川上麻須の造立に係れりとは、丹後旧事記等に説ける処にして、維新前郡中の雨乞等を為すには、必ず当社に於て行ふを例とせり。当社は山上に鎮座せられ、郡の総社なりといふ。四方の展望絶佳にして北は洋々たる日本海小天橋を眼下に見下す等得難き風趣あり、貞観十年従五位下を授けらる。抑も当社は郡名の起源にして、往古は地方崇敬の中心たりしなり。
編者按ずるに、甲山は元神山なりしを、後世甲山と記せるものならん。且つ熊野神社は本宮新宮若宮の三社あるを普通とす。字河梨に在るを新宮といひ、字品田に在るを若宮といひ、当社は其の本宮たり。而して両部神道の盛なるや、熊野権現を唱へ来りものにて、今尚権現山と称するを例とす。伝説によると字神崎にコクンバラといへる地あり、浦明にては古熊野といふ、当社の元社地也といへり。
三代実録、貞観十年九月廿一日辛亥授丹後国正六位上熊野神従五位下
神名帳考証 熊野神社 在熊野村 饒速日命歟姓氏録云熊野連饒速日尊命味饒日命之後也
一 崇敬者 六百五十人
霊験 一般養蚕家にてはお猫様と唱へ、当社境内の小石を借受け来りて奉安すれば、鼠の害を免るといふ。而して返済の際は小石を倍数とし持行くを例とす。  〉 

式内社・丸田神社
丸田神社(甲山)

社前の案内板には、丸田神社案内板
式内社 丸田神社 大字甲山小字亀石
祭神  宇気母智命(豊受)
由緒 当神社の創立は古く垂仁朝の時川上麻須の勤勧請による。当社は神体山甲山(カブトヤマ)山上の式内社熊野神社(奥宮)の里宮として大膳職(食物)の神を祀ったもので、式内社中丸田神社と言うは当社のみである。
境内社には蛭児神社が祀られている。当社は背後に甲山(カブトヤマ)の磐座(イワクラ)(人喰岩)を拝し前面の鳥居燈籠参道は海(現在は川)ら向って造られている。神社と磐座との中間に古代祭祀遺跡があり、正面の対岸には矢田神社の御旅所拝岩(オガミイワ)がある。尚甲山(コウヤマ)(兜山)は神山(コウヤマ)の転訛であり亀石(カメイシ)は神石(カミイシ)(人喰岩)の転訛と言われる。
熊浜町教育委員会
久美浜町文化財保護委員会


丸田神社の社前
社前は川上谷川の河口部になる。かつてはここは海が入り込んでいた。というより海はずっとずっと入り込んでいた。上流に海士や島の地名がある。
人喰岩(兜山)
当社の神体岩・亀石「人喰岩」。当社からは拝めないが、兜山の南側斜面の頂上近くにある、国道178号やかぶと山公園に行く道からは見える。いくつか岩があるが、こうした不気味な恰好の岩なのですぐわかる。登山道から道がある、行ってみると、こんな感じで展望がよい↓。
しかし、あまり近ずきすぎると、飢えていそうなので、ガブリと喰われかも!ご注意を?

丸田神社は関にもあり、蛭児神社として祀られている。当社も蛭児が祀られているそう。神額の代わりかこんなものが正面にある↓丸田神社
「室尾山観音寺神名帳」「熊野郡八十四前」
 〈 従一位 丸田明神  〉 

『丹後旧事記』
 〈 丸田神社。甲山村。祭神=丸田大明神 日臣命。延喜式竝小社。
 垂仁天皇の朝川上麻須郎建立と伝ふ。

川上摩須郎。当国熊野郡川上の庄須郎の庄に館を造る開化天皇より崇神、垂仁の朝に至る。古事記に曰く旦波道主命娶川上摩須郎の女生御子比婆須姫渟葉田入瓊媛真 野媛薊瓊入媛朝廷別王以下五柱。川上摩須郎は将軍道主の命と共に当国に有て熊野郡川上の庄に伊豆志禰の神社、丸田の神社、矢田の神社、三島田の神社を祭る。  〉 

「丹後国式内神社取調書」
 〈 丸田神社
【覈】甲山材【明細】同上九月九日【未定考案記】関村丸田神社ノ方甲山村ニ比スレパ由緒モアレバ決定可然【道】関村ニ丸田神社アレドモ式内トハ定ガタシ【豊】関村字矢ノ谷例祭九月九日
(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)  〉 

『京都府熊野郡誌』
 〈 丸田神社 村社 神野村大字甲山小字亀石鎮座
祭神=宇気母智命。
由緒=当社の創立は最も古く、垂仁天皇の朝川上麻須の勧請に係れりといふ。大日本地名辞書にも「延喜式丸田神社は神野村大字甲山に存す」といへるは即ち当社なり。往古は祭礼にも神輿あり、最も盛儀を尽ししが、慶長年中其の古式を廃せりとは口碑の伝ふる処なり、拝殿の造営財産の充実せると共に、大正十一年四月廿五日神饌幣帛料供進神社として指定せらる。
氏子戸数=八十四戸。
境内神社。蛭児神社。祭神=火遠理命、豊玉姫命。由緒=不詳。  〉 

加佐郡式内社・麻良多神社が舞鶴にもあり、丸田の集落があるが、マラは豊饒も意味するかも知れないが、鉄の神社だと思われる。


高野山真言宗熊野山甲山(こうさん)寺
甲山寺(甲山)
熊野神社の神宮寺のよう、案内板に、甲山寺の案内板
 〈 熊野山 甲山寺 真言宗
本尊 阿弥陀如来(阿弥陀三尊仏)
当寺は天平八年四月行基の開山による創立と伝えられ甲山(かぶとやま)(兜山)山上式内熊野神社の別途寺である。本堂本尊は熊野神社の本地仏阿弥陀如来を安置し庫裏には天正年間兵火により焼失した利剣山大磐寺の本尊石造不動明王(秘仏)と祀っている。庫裏及前庭や後の庭は宝暦年間の造営である。当寺と熊野神社の中間に山上での祭祀に用いた閼伽(アカ)の井(升池(マスイケ))がある。
京丹後市教育委員会  〉 

『京都府熊野郡誌』
 〈 瀬野山 甲山寺 神野村大字甲山小字山根
真言宗高野山正智院末
本尊=阿弥陀如来。脇立=観音菩薩、勢至菩薩。
由緒=当山の創立は天平八年四月にして、行基菩薩諸国遍歴の折柄、熊野神社を信仰の余り此処へ錫を留め、一宇の伽藍を建立し瀬野山甲山寺と号し、自ら三尊阿弥陀如来の尊像を彫刻安置し給へる処にして、阿弥陀如来は熊野神社の本地なりといひ伝ふ。且つ庫裡に安置せる本尊不動明王は、人皇五十二代嵯峨天皇の御宇弘法大師真言密教を弘めんがため、諸国修業の際当国に来り、当処小字七谷口に伽藍を建立し、末世の衆生を救はんと一刀三礼不動明王の尊像を石に刻み、之を本尊として利劒山大盤寺を創立し給ふ。天正年中兵火に罹り鳥有に帰せりといふ。然るに慶長年中道徳の沙門此の地に来り庫裡を建立せるも、本尊なきを歎き熊野の神に祈願しけるに、大磐寺旧跡に埋れたる不動明王を迎へよとの霊夢により今の庫裡に移し奉れりといふ。  〉 

『くみはまの民話と伝説』
 〈 甲山寺の不動尊の由来 甲山 杉本与一
甲山の東の方にヒツ谷という谷があります。昔はそこに一つの部落があって大ぜいの人が住んでいたそうです。
今はただの田んぼで、部落はありませんが、あちこちにその跡と思われる所が残っています。
その一つに大般若という寺があったそうです。当時-嵯峨天皇の御代-弘法大師が諸国を修業して廻っておられて、七ツ谷に大般若寺をお建てになって、そこの本尊に不動明王をお祀りになりました。
ところでいつの頃か、どんな変事が起きたのか、いつの間にか部落は消えてしまい、寺も勿論なくなってしまいました。祀られていた本尊の不動さんもどうなったのか一向にわからんようになってしまいました。
それからどれ程の年がたったのかわかりませんが、不思議なことが起きました。
七ツ谷の入口に一つの小さな橋がありました。一人の百姓が牛を追って来ました。その橋を渡ろうとするのですが、どうしたことか牛が橋の手前で足を止めて、打ってもたたいても動こうとしません。
そんな時にそこヘ一人のお坊さんが通りかかりました。
百姓は早速今の話しをその坊さんに聞いてもらいました。するとその坊さんは、それなら一度その橋の下を堀ってみるがよかろうと言って、どこともなく去って行きました。
村人たちはその話を聞いて、みんなで橋の下を堀って見ることになりました。
そうしたらどうでしょう。土の中からお不動さんが出て来ました。
これこそ弘法大師さんの作ったお不動さんにちがいありません。そのお不動さんが今も甲山寺にお祀りしてあるそうです。  〉 


かぶとやま 兜山(甲山)
かぶとやま
権現山ともよばれる。久美浜町甲山(こうやま)にある姿麗しい山。標高191・7m。久美浜湾の方から見るとこうした姿なのだが、位置を変えるとフツーの山になる。ここから見れば火山だろうと思うが位置を変えれば周囲にある山々と似たような山に見える。
2000~1500万年前に地下のマグマが出てきて、その時はこの山の何倍もあるほどの大きな固まりであったが、やがて浸食され、固い流紋岩が残っているのがこの甲山ということのよう。同じような山肌の山が周囲には多いから同じようにできたもののようである。
山陰海岸国立公園、世界ジオパークに属し、当山の一帯は兜山公園として整備され、山頂まで一応自動車通行が可能になっている。山頂には郡の総社である熊野神社や展望所があり、眼下に久美浜湾・日間の松原・小天橋が一望できる。山麓には蓮池や、熊野郡の三大古墳といわれる岩ケ鼻古墳もある。
山頂からの眺望
こんな案内板も立っている。


 〈 京都府選定文化的景観
文化財の名称 京丹後市久美浜湾カキの養殖景観
選定年月日  平成二十年三月二十一日
所 在 地  京丹後市久美浜町
区   域  京丹後市久美浜町河内、湊宮、
                久美浜一区の各一部
面   積  約四七〇ヘクタール
 久美浜湾は日本海の内湾にあたり、湾の周回は約二十八キロメートルに及ぶ。久美浜町を流れる多くの河川を受け入れ、水戸口と呼ばれる部分で日本海に注いでいる。
 この湾口は幅三十メートル、深さ三メートル、長さ三百メートルと狭小であることから湾内は日本海の荒波を受けにくく、一年中波は穏やかである。
 日本海に面した潟湖は、原始・古代を通じて、大陸からの文物や高度な技術の導入をはかる上で欠かせない天然の良港であったため海上交通の基点となった。隣接している函石浜遺跡から中国「新」の時代に鋳造された「貨泉」が出土していることから当時の交流の様子がうかがえる。その後、こうした潟湖は、河川による土砂堆積により姿を消したものも多いが、久美浜湾は現在まで潟湖が残る数少ない事例であり、現代では新たな生業の場として活用されている。
 湾内の波が穏やかなことに注目した地元有志は、昭和十二年に試験養殖に成功し、昭和二十五年頃からカキ棚を作って養殖を開始した。
 その後養殖拡大方法の研究がなされ、昭和三十四年には久美浜湾に適した養殖技術が完成した。
 現在湾内四箇所でカキ棚が敷設され総数は合計三百基を超える。 特に河内湾は海底までの深さが数メートルと浅いこともあり、海面から杭を打ち込み、それに棚を敷設する昔ながらの方法が残っており、当地の文化的景観を特徴づける大きな構成要素となっている。
 波穏やかな久美浜湾内にカキの養殖筏が列をなして浮かぶ風景は、京都府北部を特徴づける良好な文化的景観となっている。
京丹後市教育委員会  〉 



はす池
はす池(甲山)
蓮の花の見頃だと思って行ってみたのだったが、何もなかった。
『京都府熊野郡誌』
 〈 蓮池
一に奥の池ともいひ大字甲山に在り、周囲七百貳十間面積一万六千二百三拾坪を有し、郡内第一の池にして古来蓮を以て著名なり、之れ蓮池の称ある所以にして、盛夏の頃文人墨客の杖を曳くもの多かりき。されど近来蓮は殆んど其の跡を絶ち、菱を産する事多く、且つ養魚場に適し、魚族の自然集合せる等天然の恵沢を有せり、魚族は鮒鯉鰻鯰等主なるものにて、年々漁獲の量亦少からず。
○遊甲山池(八首の内) 大橋竹處 但馬広谷村人

○庚申夏六月十六日甲陽池観蓮(六首の内) 齋藤畸菴 但馬城崎人
…  〉 
古代の入海の名残りの池のようで、写真で言えば正面奥の小さな山のような所の山頂に塚ヶ鳴古墳、ずっと右手には51メートルの前方後円墳・岩ヶ鼻古墳がある。池から水路を堀り久美浜湾に排水してしだいに埋立てて新田を開いてきた。大正末期には池の周囲は1300メートルあったが、現在は大幅に減少しているそうである。


《交通》


《産業》


甲山の主な歴史記録


『丹後国御檀家帳』
 〈 一 かうやまの里  家五十軒斗
 東 兵 衛 殿    かうおや  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎甲山村(浦明の次、又久美浜に出る、抑久美浜の西山内村より久美浜東甲山村に至る凡数村松江をめぐりて相連る)
【瀬野山甲山寺】
【丸田神社】(延喜式)
丸田神社今丸田大明神と称す。(祭九月九日)
【熊野神社】(延喜式)
熊野神社今熊野権現と称す。風土記云。旦波道主命の妻は川上磨須良の女なり、垂仁天皇の朝に其五女皆召されて后妃となる、於是川上磨須良道主命と共に神籬を造りて天神七代、地神五代熊野四十八皇子を祭る、蓋喜を表するなりと云々。(祭九月廿六日)  〉 


『京丹後市の考古資料』
 〈 岩ヶ鼻古墳(いわがはなこふん)
所在地:久美浜町甲山小字小字岩ケ鼻
立地:川上谷川下流域右岸丘陵先端部
時代:古墳時代前期
調査年次:1971~72年、2003年(同志社大学考古学研究会測量調査)
現状:完存(市指定史跡)
遺物保管:なし
文献:FO52、F262
遺構・遣物
墳丘長51m、後円部径31m、後円部高さ5m、前方部長24m、くびれ部幅17m、前方部幅20m、前方部高さ3.5mを測る形の整った前方後円墳である。墳丘は、基壇状の低い一段目に二段目が構築された二段築成と考えられる。葺石は現状では確認できず、埴輪も採取されていない。
意義
眼下には川上谷川の下流域および古代の潟湖が広がり、その立地は、網野銚子山古墳や神明山古墳墳との共通性が指摘できる。築造時期も同時期の4世紀の後半と推定される。川上谷川の中流域には、全長42mを測る前方後円墳茶臼山古墳が存在する。前方部が岩ヶ鼻古墳ほど広がらない形状から岩ヶ鼻古墳に先行する可能性が考えられる。丹後半島部では、蛭子山古墳、網野銚子山古墳、神明山古墳の3基の大型前方後円墳に目を奪われがちであるが、川上谷川の2基の前方後円墳の存在は当地城の状況を考える上で非常に貴重である。  〉 
『京都府熊野郡誌』

 〈 大字甲山小字岩ヶ鼻の車塚 此の古墳は小字岩ヶ鼻の丘陵に沿へる独立古墳にして、茶臼山といひ北面せる車塚にして、本郡二個中の一なり。規模稍小なれど前方後円の古墳にして、多数の葺石等をも存したれど、現今は何れへか持去りしものゝ如し。後円は三段より成り径約四十五尺にして、前方の巾は約二十尺長さ約五十四尺なり。此の古墳は先年中川修一氏の発見せられし處にして、所有者を有せず全く洩地にして、古来非人番に管理せしめ来れる慣例ある等、何物か理由の潜めるを想像せしむ。而して古墳主に就ては従末識者の説を聞かざるも、地理上史的研究の上より神服連海部直の古墳たらん事を推考せらるれど未だ俄に断定を下す能はず。  〉 


『京丹後市の考古資料』
 〈 塚の鳴古墳(つかのなるこふん)
所在地:久美浜町甲山小字休場
立地:川上谷川河口北東側、低丘陵上
時代:古墳時代後期
調査年次:なし
現状:半壊
遺物保管:なし
文献:B023
遺構・遺物
塚の鳴古墳は、川上谷川河口にかつて存在した内海に面して伸びる幅約20m、高さ4mの低丘陵上に単独で立地する。
内海の痕跡は、現在も蓮池として残っており、周辺には「津」小字地名が分布する。
墳丘はすでに失われており、両袖式横穴式石室が露出している。玄室は長4.8~5.1m、幅2.5~2.7m、高2.8mを測る。羨道は輻1.3~1.9mを測る・玄室奥壁には、元禄三年銘のある石造聖観世音菩薩像のほか地蔵尊と大師像があり、17世紀後葉には開口し、信仰の対象となっていたことがうかがえる。出土遺物は、特に知られていない。
意義
塚の鳴古墳は、岩ヶ鼻古墳とともに川上谷川河口の内海に面した単独立地の古墳である。周辺には小規模な古墳群が見られるが、横穴式石室を埋葬施設とするものは、休場古墳群(3基)があるのみである。当古墳は、古墳分布が希薄な地域に存在するものとして貴重な事例であり、蓮池を痕跡とする内海を基盤とする有力者の墓といえる。  〉 

『京都府熊野郡誌』

 〈 大字甲山小字塚ノナル石室 浦明野に接する丘陵の一端塚ノナルに横穴式石室あり、玄室長さ十五尺四寸奥幅八尺四寸前端八尺一寸にして、高さ九尺一寸を有し、羨道十一尺三寸巾三尺七寸にして、蓋石の二三個は既に取除かるゝも、現存せるものにても約八尺平方の石材を使用せり。本郡石室中規模の大なる点に於て第二位にあり、古く口の開かれしため遺物として見るべきものなし、現今玄室の奥に石地蔵を安置せり。  〉 


『久美浜町史・史料編』
 〈 こくばら野遺跡 遺跡番号二五一
字甲山に所在する。
久美浜湾東岸の標高一一~一二メートルの段丘上に立地する集落遺跡である。一九九〇~九一年に行われた調査では、竪穴住居跡一一棟・掘立柱建物跡一五棟以上・土坑・溝などの遺構が検出されている。竪穴住居跡は、床面積一八平方メートル未満の小規模なものであり、大半の住居跡には造付けの竈と思われる焼土がみられる。また住居跡は、幅一〇メートルほどの帯状の範囲に分布しており、立地に一定の規制が存在したと推定されている。また掘立柱建物跡は、二×四または三間の側柱建物であり、主軸から五群に分類される。庇付きの建物や倉庫と考えられる総柱建物は見られない。両者の切り合い関係や出土遺物から、この集落は、飛鳥時代後期に竪穴住居主体のものとして成立し、奈良時代前期~中期には掘立柱建物に変化したことが判明する。出土遺物には、日常生活に用いられた須恵器や土師器のほかに墨書土器・円面硯・砥石・紡錘車・土錘・鉄製品などがみられる。特に土錘は多量に出土しており、同時期の内陸部の遺跡と比べて突出している。また田代弘氏は、出土遺物の中に製塩土器や製塩土器支脚が存在することを指摘している。
出土遺物に土錘が多数あることや製塩土器・製塩土器支脚が含まれること、検出された建物跡に総柱建物や庇付きの建物が含まれないことなどから、この集落は漁撈を主たる生業としていたものと考えられる。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 こくばら野遺跡(こくばらのいせき)
所在地:久美浜町甲山小字こくばら野
立地:久美浜湾東岸段丘上
時代:飛鳥時代後期~奈良時代中期
調査年次:1990~91年〔府センター〕
現状:調査範囲は全壊(国道)
遺物保管:市教委
文献:CO86、F181
遺構
竪穴住居跡11棟、掘立柱建物跡15棟以上、土坑、溝などの遺構が検出されている。
竪穴住居跡は、床面積18㎡未満の小規模なものであり、大半の住居跡には造付けの竈と思われる焼土がみられる。また住居跡は、幅10mほどの帯状の範囲に分布しており、立地に一定の規制が存在したと推定されている。掘立柱建物跡は、2×4間または3間の側柱建物でおり、主軸方位から5群に分類される。庇付きの建物や倉庫と考えられる総柱建物は見られない。
両者の切り合い関係や竪穴住居埋土、掘立柱建物柱穴からの出土遺物から、この集落は、7世紀後葉に竪穴住居を主体として成立し、8世紀前葉~中葉には掘立柱建物に変化したことが判明する。
遺物
出土遺物には、日常生活に用いられた須恵器や土師器のほかに墨書土器、円面硯、砥石、紡錘車、土錘、鉄製品などがみられる。特に土錘は多量に出土しており、同時期の内陸部の遺跡と比べて突出している。また田代弘は、出土遺物の中に製塩土器や製塩士器支脚が存在することを指摘している。
意義
出土遺物に墨書土器や円面硯が含まれるものの、土錘が多数あることや製塩土器、同支脚が含まれること、検出された建物跡に穀物を貯蔵する総柱建物や高級な庇付きの建物が含まれないことなどからこの集落は漁撈を主たる生業としていたものと考えられる。掘立柱建物を基調とする集落の出現時期がわかる資料として貴重な事例といえる。  〉 

『京都の昔話』
 〈 千匹狼
 昔になあや、浦明から関に越す道中に、日光寺いうこわえ(こわい)ところがあってなあや、そこには千匹狼いう狼がようけ(たくさん)おってなあや、日のうちはまあ、なんにもなしに通れるだけど、ちょっと暗(くろ)なるちゅうと、もうそこを通る人はみんな狼に食われちまって、通ることがでけんいうこわえとこがあって。
 それで、神崎の大家(おおや)が京まで買い物に行って、そして関までもどったら日が暮れちまって、 「もう一息すりやあ神崎着くのに、日が暮れもまって、日光越すのはこわえ。だけど、もうちょっとすりや神崎だし、いにゃ(帰ると)嫁や親らが待つとるだし、子供も待つとることだし、まあ、むりしていぬるにしよう」いうことで、日光寺峠を半分ほど来たところが、案のじょう、ウーいって狼がようけ出てきて、神崎の大家を食いきたもんだ。神崎の大家は、ふるえあがって、横にあった木にカラカラッと上がって、隠れとったら、そしたら、人間の匂いきゃあで(かいで)、狼がどんどんどんどん寄ってきて、その木の足もとのほうがみな狼でうまってしまって。それでも、木の上におるもんだで、狼は噛みつくことはできんだし、うろうろしとったら、そのうちの大将が、「肩くませえ」ってやめえた(わめいた)。そしたら、狼がつぎつぎに上になり上になりして、とうとうその大家の足もとまで肩くましてのぼってきて、もうちょっとのところでその大家に届くところになったけど、狼の数がいつぴゃあになっちまって届かんと。そしたら、大将が、
「だれぞ行って、神崎の大家呼んでこい」言ってやめえたら、
「おいしょう」言って、そのうちの一匹の狼が神崎まで呼びい行った。しばらくしたら、神崎の大家いうのを連れてもどってきた。そして、神崎の大家は肩くまの一番上にずうっと上がってきて、まさにその神崎の大家の足にガッと噛みつかあとした時に、大家も腰の刀抜いてぱぁつと投げた。ほしたらええぐあいにそれが狼に当たって、狼はころころつと下へまくれ(ころび)落ちてしまった。ほれでまあ、狼もあきらめて、みないんでしまっただし。大家はそろそろ木からおりて、走って神崎まで帰って、
「おおい、今もどったぞ」言うたら、そしたら常なら、「まあ、もどんなったかにゃあ」言って迎(むき)やあに出てくれる嫁が出てくれんだげなし。変なことだなあ思って、
「おお、今もどったがどうだいや」ってまた言ったら、
「今日はおみゃあ、屋根の上へあがっとって、はしごから足ふみすべらきゃあて、大けがして寝とるだわな」言って、納戸のほうで言っとるだし。
「ほう、そりゃ悪いことだったわな。わりや(私は)今日は、日光寺で千匹狼にぼられて、ひでえめにあって死にはずれにゃあたわいや(死にかけたよ)。とんでもどってきただ。まあ、水一杯くれえや」ちゃなことで、それからまあ水飲んで、
「まあ、ちょっとまあ、けが見せや。どうしただ」って。
「いや、まあ見てもらうようなところじゃなあで、まあ見んとってくんにゃあなあ」いうて言うたげなし。せからまあ、
「そにゃ言ったって、わら(お前)医者はんになっと(なりと)見せなしゃあにゃあだが、どうしただ」言って見たところが、肩先にけがしとる。
「ありや、こりゃあ、わりゃあはしごからあだけた(落ちた)ような傷じゃねえでにゃあか。さっきがた、木の上で『神崎の大家呼んでこい』ちゅうことを大将の狼が言ったが、わりゃなんぞその神崎の大家いった狼となんぞあれへんか(ないか)」言ったら、そしたらその、神崎の大家の嫁さんがむくっと起きてきて手ついて、
「いかにもすまんことをしとった。わしは実は千匹狼だ。じゃけど、お前が留守の間に、お前の嫁さん食い殺(これ)えてしまって嫁さんに化けて、長えことこうしていっしょに暮らえてきたんだけど、うらは千匹狼だ。まあ、こうして正体あばかれたからにゃあ、もうここにはおれんで。だけど、わしもほんとうはまっと(もっと)早よいぬるつもりしとっただけど、長え間いっしょにおる間に、つい子供の情にひかされて、こうして今までおったけど、まあ、正体見破られたからにはしゃあねえで、これからいぬるで。どうぞこの残った子を大事にしちゃって大きしちゃってくんにゃあ。またぞうよ(お金)もいるだらあけど、あの、わしは人間みたいに手水(便所)にいってこく(ひる)ことができんで、縁の下にようけ糞がこいちゃる。この狼の糞は、血の道にようきく薬だで、この糞を焼あて売んなりさあすりゃあ、この子の大きいなるまあでのぞうよにはさしつかえなきのもんが残しちゃるで。それで、どうぞ、この子は大きしちゃってくれ」と言って、その狼はとうとういんじまって。
 それで、その狼がいんだ後で縁の下めくってみたら、なるほどようけ狼の糞があって、それで、神崎には、その狼の糞を黒焼きにした神崎のおおかめ薬がある。これは、女子の血の道にようきく薬で、長(なぎ)やあこと、「神崎のおおかめ薬」って売っちゃったんだわや。      語り手・中地 誠  〉 




甲山の小字一覧


甲山(こうやま)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



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