丹後の地名

鱒留(ますどめ)
京丹後市峰山町鱒留


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京都府京丹後市峰山町鱒留

京都府中郡峰山町鱒留

京都府中郡五箇村鱒留

鱒留の概要




《鱒留の概要》

竹野川の支流鱒留川の最上流に位置して、磯砂山系と久次山系に挟まれた久美浜街道(国道312号)沿い。国道が東西に走り、一番奥の比治山峠(今はトンネル)を越すと久美浜町に至る。磯砂山の方へ入って技村に大路(呂)村・大成村がある。今では寒村という感じだが、元祖元伊勢の地に当たり、たいへん重要な地になる。鱒留(益富)は何のことであろうか。
柳田国男「木思石語」で、白米城伝説の地として(福岡県嘉穂郡大隈町 益富城祉(筑前伝説集)をあげている。山梨県北巨摩郡須玉町の増富温泉。金峰山山麓で、武田信玄の金山探しで発見されたといわれ、「信玄の隠し湯」の一つ。世界屈指のラジウム含有量を誇るそうである。
地名の由来は、ここでは藤社明神の使いの鱒が竹野川をさかのぼり当地で留まったことによるとも、豊受大神に仕えていた河上摩須郎女が住んでいたことによるともいう。鱒を捕えて食すと腹痛をおこすと言い伝えられていて近年までは誰も鱒を捕えなかったという。かつては実際に鱒は遡上していたようである。

『中郡誌稿』
 〈 (一)名義、沿革
(実地聞書)鱒川を逆のほりて此村まで来る之を藤社明神の御使なりともいひ又参詣する者也といふ(下の棟札の文参考)固より俗伝なれと昔日敬神の情厚きより魚鳥に付会して自然にかかる伝説を胚生する事諸国に例多し但し此処のは村名の文字に付会したる者なる事無論也(神女の古伝によれは益富の方面白し)
(五箇村誌草稿)鱒留川源泉を大成清水原及みそろ谷に発す比沼山川、茂地川、大ケ谷川を合し尚吉原に至り久次川(殿川)を合して流る竹野川の上流なり幅広きところ二十間程鮭鱒の漁あれど多からず鮎其他河魚を産す  〉 

しかしそうしたことよりも、マスは『古事記』に記録が見える。「丹波河上摩須郎女」は、開化の皇子とされる「丹波比古多多須美知能宇斯王(丹波道主命)」の妃で、「比婆須比売命(垂仁后)」、「真砥野比売命」、「弟比売命」、「朝廷別王」を生んだという。
垂仁皇后を生む丹波河上摩須郎女は熊野郡川上郷の人とするのが普通だが、しかしこの摩須はマスドメのマスかも知れない、丹波道主命は四道将軍と紀はするが、記ではそうした話はなく彦坐命をそうだとしている。丹波道主命はこのあたり丹波郷以前のオオモトの丹波の首長だった人とするならば、摩須郎女もまたここの人だったのかも知れない。
摩須郎女はマスノイラツメと読まれるが、郎女をオトメと読んでマスオトメ→マストメの説がある。ここには乙女神社がある、ここが摩須郎女を祀るのかも知れない、あいはオトメが地名になることはあるまいから、その母親かオバのトベ、女首長を意味するトベがいたとしてマストベ→マスドメだったかも知れない。
マスはマナイと関係ある言葉だったかも知れない。崇神紀の丹波氷上の氷香戸辺(ひかとべ)と同じように、ここ丹波丹波の比遅麻奈為には真名井乙女あるは真名井戸辺と呼ばれた女首長がいたのかも知れない。

中世は益富保で、石清水八幡宮領。同じく八幡宮二箇保とともに「二箇益富保」と一括される場合が多い。
「丹後国田数帳」では、丹波郷の後に「益富保 廿四町弐段三百五十八歩」と見える。江戸期の鱒留村は「慶長郷村帳」「延宝郷村帳」では益富村と書かれていた。

近世の鱒留村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文・延宝期に一時幕府領となり、享保年間からは幕府領。
明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年五箇村の大字となる。
鱒留は、明治22年〜現在の大字名。はじめ五箇村、昭和30年からは峰山町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《鱒留の人口・世帯数》 285・94



《主な社寺など》

金谷1号墓

鶏塚
『中郡誌槁』
 〈 (五箇村誌草稿)鶏塚、字鱒留の大石これなり正月元日に一番早く来たりしものはここにて鳥の聲をきき長者になるべしとの俗説あり明治二十年頃道路新設の時この大石を取除きたり惜むべし
(実地調査)此塚あるによりて此所の小字を塚沖と称す開発されたる石槨なり其名称伝説は諸国の例と同じ近傍今なほ稀に祝部土器破片を得
(五箇村誌草稿)尚古くより火の雨を避けたりといふ石穴なるもの鱒留久次等に散在す  〉 

藤社(ふじこそ)神社
藤社神社(鱒留)

小字大光田(おこうだ)(御供田とも記す。この地を通称真奈井ともいう)に鎮座。祭神は保食之神。丹波郡式内社の「比沼麻奈為神社」比定説がある。丹波の比遅麻奈為は豊受大神の故地で、伊勢外宮の故地、すなわち元伊勢である。こここそが丹後各地の元伊勢のその元の元伊勢、元々伊勢、大元伊勢、本家元伊勢の地かも知れない。山裾の狭い場所で真名井の井もない、元はこの地に祀られたのではなかったかも知れない。

社頭の案内板藤社神社案内板
 〈 藤社神社(ふじこそじんじゃ)
 当社は、「止由気宮儀式帳」などの記録によると、崇神天皇の時代、比治山に降臨された豊受大神を祀ったのが始まりとされ、古老によると、丹波道主命の創始とも伝えられています。雄略天皇二十二年に伊勢に奉遷された後も引き続きその地に祀ったと伝えられ、五穀豊穣養蚕守護神として篤く信仰されています。
 内陣は、正徳四年に再建され、明治四十年本殿を改築しましたが、昭和二年当地方を襲った丹後大震災により大半が破損しました。復興に際し、その由緒によって、昭和五年伊勢神宮の式年遷宮造営に関わる社殿の扉、柱等の古材を下賜いただくことになり、昭和十一年九月神明造りの本殿並びに、回廊、水屋、弁天池の真名井祠、和奈佐祠を建造、現在に至っています。
祭神  保食神(豊受大神)
境内社 和奈佐夫婦祠
大山祇社 武大神社
天目一社 天満神社
平成十一年三月 峰山町教育委員会  〉 

藤社神社本殿(鱒留)

何とも興味引かれる超古社で、そのおもしろさはトリハダものである。
フジコソのフジはヒジやクジと同じで、クシフル(()ソフル)のクシの転訛と思われ、このあたり聖地一帯の総称名であろう。
おもしろいのは「コソ」であるが、社の字をコソと読んでいるように、日本では神社を意味する言葉で使われる。べつにここだけでなく、肥前国基肄郡姫社(ひめこそ)郷、あちこちにあるが比売許曾(ひめこそ)神社、天日槍と関係する神社のようで、コソは日槍族が持ってきたもので、たぶんは日本最初に人を祀った神社をコソと呼んだのではなかったろうか。
『三国遺事』などによれば、新羅の始祖王を「赫居世」という、カクキョセイとか日本では読んでいるが、「居世」とか「居西」とか漢字では書かれるが、これがフジコソの「コソ」で、コソは本来は尊称、特に王の尊称のようで、赫王様という意味になる。コソは現代朝鮮語でも人に対する特別の尊称として使われているとか。普通は「様」と訳されているが、最上級の尊称のようで、日本語で言えば神でも人でもあるという天皇陛下の「陛下」に当たる尊称でなかろうか、赫居世とは赫陛下のことと思われる。
「赫」は赤で、光明でアルであろう。蘿井のそばへ天から降りてきた卵から彼は生れ、その卵の形が瓢のようであった。瓢を朴といったので、男の子の姓を朴と呼んだ。皇后となる女児は、彼女が出てきた井戸の名(閼英(アルオル)〔蛾利英井(アリオル)とも書く〕)で名前にした、あるいは井に住む竜から出てきたという。彼らは国号を徐羅伐(ソラボル)・徐伐(ソボル)とし、あるいは斯羅(シラ)・斯盧(シロ)とも呼んだという。
赫や卵はアルでその類語が丹後に多いタカタケタクタコなどである。
マスやマナとアルアラ、あるいはソと何か関係するのでなかろうか、あるいは類語ではなかろうかと考えるのだが今のところは私にはわからない。
蘿井はネオルと読むそうだが、蘿は日本ではアザミである、オルは井のことで高句麗語でもこう呼ぶ、日本ではオロチのオロであろうか、井戸の主がオロチであろうか、枝村の大路(大呂)はあるいはこの意味かも知れない。五箇の枝村の茂地(持・母智)の奥にアザミ原という所があり、その奥にアザミ原山があり、その頂上には「男池」と呼ばれる一辺20メートルばかりの真四角な池があるという、女池ではなくこれが本当の真名井ではなかろうかという話もある、別に磯砂山に真名井が一つしかないと考える必要はないわけで、これも祀る集落が違ったもう一つの真名井ではなかろうか、どうやら日本でもアザミ井=真名井であることに興味引かれる。
たぶんその地にあったと思われる阿佐美神社が五箇の天満神社に合祀されていて丹波道主命の娘、比婆須比売の妹、薊瓊入姫命を祀っている。笶原神社神額
丹後西舞鶴笶原山麓の式内社笶原神社、元伊勢とされるが、その神明鳥居に清和天皇の宸筆という「総社笶原魚居匏宮」の神額が掲げられている、「匏宮」に注目しよう。→
地元の郷土史家でも、まして彼らに教えてもらった「観光ガイド」には、しっかり読める人がないようで、「笶原」からしてまず読めない悲惨さのようだが、ソウジャ・ヤハラ・マナイ・ヨサの宮と読む。郷土の活性化などといってもその足元の文化力がもう崩壊してしまっている、地域崩壊そのものの悲しき様を見る気になって、一生懸命にこうして書いて発表してはいるがもう興味を持ったり、危機感をもって読む人もないようで、いつかの未来に期待するしかないようである。
「匏」はかの国では卵、すなわちアル(光明)を意味していて、「朴」に当てられているという。日本では伊勢外宮の元宮とされる吉佐宮の吉佐に匏が当てられ、与謝郡は匏郡と書いたともいう。漁師の水筒として使われた匏なので海人と関係あるなどとも言われるが、その歴史はずっと古く、渡来人と関係するとみなければなるまい。

藤社神社の末社群(鱒留)
一番手前↑が天目一社で、天目一箇神が祀られている。

天目一社柳田国男が『中郡誌槁』を引いて「一目小僧その他」に書いていたので私は興味があったのだが、次のようにある。
 〈 …もし景政景清以外の諸国の眼を傷つけた神々に、春と秋との終の月の缺け始めを、祭の日とする例がなほ幾つかあったならば、歌聖忌日の三月十八日も、やはり眼の怪我といふ怪しい口碑に、胚胎してゐたことを推測してよからうと思う。丹後中郡五箇村大字鱒留に藤杜神杜がある。境内四杜の内に天目一社があり、祭神は天目一箇命といふ。さうしてこの本社の祭日は三月十八日である。今まで人は顧みなかったが、祭の期日は選定が自由であるだけに、古い慣行を守ることも容易であり、これを改めるには何かよくよくの事由を必要とし、かつそんな事由はたびたびは起らなかった。故に社伝が学問によって変更せられた場合にも、これだけは偶然に残った事実として或ひは何物かを語り得るのである。  〉 

元々からここに鎮座していたのかは不明だが、祭日や祭神は元のままのようである。
川下の新治城下には片目の魚の伝説があるし、菅にはカラナシ(韓穴師か)の小地名がある、この谷は韓鍛冶のようで、それらの大元の神社がこの社だったのではなかろうか。

『丹後旧事記』
 〈 婦父社。丹波郡土形里桝富村。祭神=和奈佐老父、和奈佐老婦、豊宇気比売命。神記曰、和奈佐翁者土形里長也豊賀志飯女養為吾児世富後田畑神崇七月七日祭礼日本紀巻伝見監土伝可見。  〉 

『丹哥府志』
 〈 【藤社大明神】(祭九月廿八日)
藤社大明神は蚕の神なりとて凡村々蚕を養ふものみな此神を祭らざるはなし。  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【藤社(ふじこそ)神社(五箇、鱒留、大光田、祭神 保食之神)】鱒留村は、寛永二年(一六二五)から、宮津藩主京極丹後守高広の領下となり、寛文六年(一六六六)高広の子高国流罪の後、天領(御料所)に加わったため、宝暦三年の『峯山明細記』および明治二年の『峯山旧記』その他、峯山藩記録に、その資料を残していないが、延喜式内社の比沼麻奈為神社、すなわち、伊勢外宮の故地として、長らく久次村の比沼真名井原豊受大神宮(古名)と論争をつづけて来た社である。
延享二年(一七四五)『鱒留村明細帳』では「一、社 式社八頭荒神、宮建 三尺社、藤社大明神 宮建 五尺社。外に小祠二社、八頭荒神宮守これなく候。八幡宮の宮守これなく候」とあり、当時「藤社」の神号であったことがわかる。延享二年は宝暦三年の八年前で、だいたい『峯山明細記』当時の姿であるとみてよい。
天保十二年『丹哥府志』では、祭九月二十八日、藤社大明神は蚕の神であるといって、どこの村々でも、蚕を養うものは、みな、この神をまつらないものはない−と記している。
明治二年『御料所旧記』は「久美浜代官管下の天領地域内の神社、中郡十ヵ村十四社の中に……比治麻奈為神社、式内 藤社大明神、祭 九月二十八日、鱒留村。蔵王大権現、祭 九月二十八日、同大路分」と、はっきりと『延喜式』による比治麻奈為神社の名をうち出している。
しかし、その翌明治三年、中郡の天領のうち、新治、鱒留、谷内、明田、久住の五ヵ村の社掌を兼ねていた新治村九丹大明神の神主安達数馬から、久美浜県御役所に提出した『調書』には、次のように記している。
明治三年(『神社調』)
藤社神社 祭神 不二相分一(あいわからず)、宮殿 五尺社、上家 二間半に二間、拝殿 四間に二間、……祭日 九月十五日、社地 平地二五〇坪、横 一〇八間
〔摂社−本社と末社の中間の格式〕八柱明神 天忍穂根命、天津日子根命、天之穂日命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘売命、狭依毘売命、多岐都比売命、上屋 二間に一間半、祭日 九月十五日、社地 山中にあり。
また、同氏による別書には、式外八柱明神の摂社として藤社大明神をあげ、祭日十一月亥日、祭神、勧請年記は両社とも不詳としており、末社に吉野、乙姫、八柱の三明神と、八万宮(八幡か)を載せていて、式内社としてはとりあげていないことになる。
明治十七年(『府・神社明細帳』)
村社 藤神社、祭神 保食之神、社殿 二間二尺に二間半、籠屋 二間半に四間半、境内 二、〇七二坪、官有地第一種……社祠掌 行待政治
〔境内神社〕一、大山祇社、祭神 大山祇神、由緒不詳、建物四尺に三尺
一、武大神社、祭神 須佐之男命、由緒不詳、建物 五尺七寸に六尺三寸
一、天目神社、祭神 天目一箇神、由緒不詳、建物 四尺二寸四面
一、天満神社、祭神 道真朝臣命、由緒不詳、建物 二尺五寸四面
一、稲荷神社、祭神 受持神外四座(不詳)、由緒不詳、建物 二尺三寸に一間半
この処が士形の里であることは、『丹後旧事記』に記してある。『風土記』にいうところの伊去奈子山のふもとで、真奈井ノ神をまつり、社号の藤は泥、または比治から転じた語であって、五穀養蚕の神で、社殿は享保三年閏十月(一七一八)(または同四年正月)、再建の棟札があるが、その他は不詳である、と。
(頭注付記)明治三十九年三月七日許可、国有林反別 三町八反八畝歩、境内編入。明治四十年十一月十四日許可、神殿再建、回廊新築、拝殿新築。明治四十二年四月十二日、八柱神社を合併。
明治十七年の『明細帳』に、はじめて藤社神社の「社」の一字を省いて「藤神社」としている。
昭和十一年『五箇村郷土誌二』には、前記藤神社の由緒に添えて「雄略天皇二十二年秋七月、伊勢山田原に遷座ありし外宮の本地、すなわち、比沼麻奈為神社の本社なり」と書き加えている。
社格、大正元年村社に指定。社掌 金刀比羅神社、毛呂清春兼勤。
建物、神殿 二間半四面、回廊付、拝殿 四間四面、境内 二、〇七四坪、弁財天池(伊勢外宮の下御井の地形に似ている)
一、享保四年午正月再建の棟札あり。
一、明治四十年十一月、神殿再建、回廊、拝殿新築許可。
一、昭和十一年八月、神殿、拝殿、改築。伊勢外宮の御用材の払下げを受けて造営(社殿の扉も同じく)。村式祭九月二十八日、氏神例祭 十月十日、蚕飼育の頃、子、午の日ごとに蚕祈祷を行なう。
神事 太刀振り、三番叟、神符 天女が鱒に乗って波に浮かび、藤の枝をよじ上る神姿に、桑の葉の上に繭を配した図柄である。
お猫さん 養蚕期に、独狗祠の小石を借り、「お猫さん」と称して家にまつって、ねずみの害を除く風習がある。なお『五箇村郷土誌』および『中郡誌稿』に社蔵棟札(霊廟および鳥居重創)二枚の写しをのせている。その一つ、
丹後州中郡五箇庄鱒留郷藤社大明神霊廟重創上梁文
神昔乗鱒留在此郊墟攀藤而結社永守我村盧夫神之垂跡不可執一辺随縁又赴感如月印清川霊廟久朽腐老幼共悲辛択材運斤斧棟宇此一新願常蒙擁護災生月悉消除嘉禾歳合穂郷閭楽有余
正徳四年甲午五月吉祥日
全徳寺見住 孝巖謹記
藤社大明神
現在の規模(昭和二年三月七日、震災被害なし)
〔神社名〕藤社神社、本殿 一〇尺四寸に六尺三寸、昭和一一年九月二一日改修瓦葺。拝殿 一三尺六寸に一六尺八寸、上屋 一九尺に一七尺
〔境内社〕一、大山祇社 瓦葺 四尺に五尺。一、武大神社 瓦葺 八尺四面。一、天目社 同六尺五寸四面。一、天満神社 五尺に六尺。一、社務所(現存しない)、境内 一三、九一九・五坪、山林 六、二二〇坪、宅地 一五四坪、畑地 一五〇坪〔
社宝〕藤社神社真影 一巻その他
主な年中行事 公式祭、三月二十七日。例祭、十月十日、太刀振り  〉 

乙女神社(大路)
乙女神社(大路)

現地の案内板(乙女神社
 〈 「丹後風土記」には日本最古の羽衣伝説が記載されていますが、それとは別に、狩人の三右衛門(さんねも)と一人の天女が織りなす羽衣伝説が地元には伝わっていて、天女と三右衛門の間には三人の美しい娘がいたとされます。天女は三右衛門に隠された羽衣を見つけ、娘を残し天に帰ってしまった後、毎年七月七日の夜に星となって三右衛門と三人の娘に会いにやってくるそうです。この乙女神社は、天女の娘の1人が祀られているとされ、お参りすると美女が授かるといわれています。  〉 

『中郡誌稿』
 〈 乙女神社
(丹哥府志)乙女大明神、風土記に所謂天女八人の一なり
(五箇村誌草稿)乙女神社、大路、田畑タナバタ神の姉天女八人の内の一人熊野郡より来る内殿は名工岡田藤四郎の作なり
(五箇村誌草稿)岡田藤四郎氏 大路の名工乙女神社の奥殿を作る結構緻密行人の此社を過ぐるもの皆之を賞すといふ死後家に社殿の雛形を見る今ありやなしや五箇校の成るや六ケ敷合せ口など皆氏の力によるといふ  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【乙女神社(鱒留、大路〈大呂〉、祭神 豊宇迦能売命)】
天保十二年(『丹哥府志』)
乙女大明神、『風土記』にいう天女の一人である。
明治三年(『神社調』)
乙姫神社、祭神 不二相分一、二尺四寸社、上家 一丈一尺に九尺……社地 平地一OO坪、九丹神社 安達数馬報告。
明治十七年(『府・神社明細帳』)
無格社 乙女神社、祭神 豊宇迦能売命、由緒 ここは和奈佐夫婦の住まれた土地で、この神を祭って来たという。社殿 二尺四寸に二尺一寸、上屋一間二尺六寸に一間半、境内 一、三一四坪、官有地第一種、受持社掌 行待政治。
(頭注付認)合併 吉野神社、明治四十二年四月一日許可
(注)権現山にあった吉野神社に合併した。
昭和十一年〔『五箇村郷土誌二』)乙女神社、祭神 豊宇賀能売命、由緒 同上、豊受大神に奉仕した八乙女をまつる。乙女大明神、『風土記』にいう天女八人の一である。
現在 乙女神社、小字エベスドウ、祭神 豊宇賀能売命、社殿は本殿一五尺に一二尺(奥殿は大路の名工岡田藤四郎作)、例祭 十月六日(者、七月七日)、境内 四反三畝二四歩
〔境内社〕吉野神社、祭神 大山祇神、火産霊神
〔境外社〕八柱神社、祭神 豊受大神御伴神、本殿 四間に三間、境内六五坪
乙女神社の由来(『報告』)『日本紀』神代の巻の宇気持神と月読命の出来事、および崇神天皇三十九年に豊宇賀能売命が天降ったこと、さらに、雄略天皇二十二年七月七日に伊勢の山田原に遷幸したことなどを記し、また、文化七年『丹後旧事記』中の「婦父社 丹波郡土形里、桝富村、祭神 和奈佐老父、和奈佐老婦、豊宇気比売命。神記に曰く、和奈佐翁は土形ノ里の長なり。豊賀志飯女を養いて吾が児となし、世富みて後、田畑ノ神とあがむ。七月七日祭礼……」を例として、七月七日の七夕の星祭りは、田畑ノ神の祭りを誤り伝えたものであることを述べ、そのうえ、わなさ夫婦の養女となった天女は、三人の娘をうんだが、その娘から羽衣のかくし場所を聞いた母の天女は、早速天上へまい上って行ったので、腹をたてた老夫は三人の娘を追い出してしまった。そこで、三人の中、一人はこの土地にとどまり(乙女神社)、他の二人は丹波ノ里(多久神社)と、竹野郡の舟木ノ里(奈具神社)にとどまり、里のものは、この神たちの徳をしたって神社にまつった−という、七夕伝説をとりあげている。
この由来をみると、乙女神社は比治山の池に水浴していた八人の天女の一人豊宇賀能売命をまつったのか、それとも、その三人の娘のうち一人をまつったのか、それとも母と娘二神であるのか、どうもはっきりしないが、これはつまり保食の神豊宇賀能売命の分身(分霊)を三箇所にまつったことを意味するものであろう。が、その田畑ノ神と養父母の和奈佐老夫婦をまつったという婦父社については、『丹後旧事記』以外の記録には見当たらないようである。ただ、大正元年『中郡一斑峰山案内』には、藤神社の前身としてとりあげている。婦父と藤は同音(フジ)ではあるが、婦父とは天女の養父をさしているのか、あるいは、天女と養父わなさの二人なのか、それとも『丹後旧事記』のいう天女とわなさ老夫婦の三人をさしていたものか、なお研究の余地があるし、なお、藤神社の祭神についても、『五箇村誌草稿』だけが「田畑ノ神及びワナサ老夫婦」と記していて、他のほとんどは、保食之神だけをあげている。
大路ノ里 田奈畑祭(たなばたのまつり)
「崇神天皇三十九年壬戌秋七月七日、豊賀志飯比売の天降の日をもって祭礼とする。故に後俗(のちの人)二星に誤まる(牽牛星・織姫星)、婦父社真名為神社の所を見るべし(『丹後旧事記』)。」田奈畑祭は、八月六日から七日にかけて・和奈佐の末といい伝えられる大路の三右衛門(安達貞蔵)の家で行なわれている。また、乙女神社の境内は楓の巨木が多く、紅葉の季節ともなると、五色の葉を重ねて、仰ぐ目にもまことに鮮かに見事である。
【吉野神社(同、大路、祭神 大山祇神、火産霊命)】明治二年『御料所旧記』にある「蔵王大権現、祭九月二十八日、鱒留村大路分」とあるのがこの社であって、山祇社に吉野金峰山の蔵王権現を勧請したのであろう。
明治三年(『神社調』)
吉野明神、祭神 不二相分一、宮殿 一尺社、社地 山中に御座候……九丹神社 安達数馬
明治十七年(『府・神社明細帳』)
無格社 吉野神社、祭神 大山祇神、火産霊命、由緒不詳、社殿 一尺五寸五分 四面、上屋 五尺四面、境内 一、四四九坪、官有地第一種……祠掌 兼勤、行待政治……。
(頭注付記)明治四十二年四月一日許可、乙女神社に合併。
【八柱神社(同、大路、祭神 豊受大神御伴神】
明治三年(『神社調』)
産神 八柱明神、祭神 五男三女神、二尺八寸社、上家 二間に三間、社地 平地 四間半
明治十七年(『府・神社明細帳』)
無格社 八柱神社、祭神 豊受大神御伴神、由緒不詳、社殿 二間四面、境内 六五坪、民有地第一種……祠掌兼勤、行待政治…。
昭和十七年(『五箇村郷土誌二』)
同上、例祭十月十日、神事 毎年湯立の神事あり、河辺村から巫女が来て行なう(釜の湯を笹に浸し、これをうち振って浄め、豊年を祈る)。  〉 

八幡宮(大成)
『中郡誌稿』
 〈 八幡神社
(五箇村誌草稿)八幡神社大成にあり創立の由来記大成小倉儀平所持せり
(村誌)八幡神社無格社……面積五百四十坪村の南方にあり誉田別命を祭る祭日八月十五日  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【八幡神社(同、大成、祭神 誉田別命)】
明治三年(『神社調』)
八万宮、祭神 大神天王、三尺社、上家 二間に一間半、社地 山中に御座候 間数不相知……九丹神社安達数馬
明治十七年(『府・神社明細帳』)
無格社 八幡神社、祭神 誉田別命、由緒 勧請年月その他不詳。社殿 一間五尺五寸に二間二尺、境内 二三四坪、官有地第一種…祠掌兼勤、藤神社行待政治……。
(頭注付記)一、籠屋 二間半に五間半、右新築の件、明治二十二年四月十六日許可。
昭和十一年(『五箇村郷土誌二』)
同上、建物 二間に三問、草葺、明治四十二年新築、摂社 地蔵、境内 一五〇坪、例祭 旧八月十五日、神事 河辺村の巫女が来て毎年湯立の神事を行なう。
由緒、年月不譁、当地小倉儀右衛門所蔵の由(同誌、八幡神社の項参照=昭和十一年編)。
また、その他として「この土地の木地屋木椀つくり)は皆八幡宮を氏神とし、隣りの兵庫県藤ヶ森にも八幡宮があり、また、出雲に大成という処があるが、小倉姓の故郷ではないか」と付記している。
湯立の神楽  新暦九月一日、または二日の二百十日に、河辺の巫女が来て神事を行ない、釜の湯に笹をひたし、それをうちふって豊年を祈願し、村では、強飯をむして参詣者にわけ与え、この年に犢を産んだ家は酒を買ってふるまう習慣がある。湯立とは、昔の探湯の遺風である。
は、寛文五年の木地挽運上上納の記録があるから、八幡宮を勧譜したのは、寛文十三年頃であったろう(寛文十三年九月二十一日に延宝元年と改元)。当時から木地作りに使用したロクロの棒(二本の中一本)と、最初につくられた木地椀(神具)二箇などが、小倉富雄宅に保存されている。なお、ロクロ棒一本と鹿皮の矢筒等は、郷土資料として出品したまま紛失してしまったという。  〉 

曹洞宗安達山全徳寺
天和2年の丹後国寺社帳に「洞宗 鱒留村 全徳寺」と記される。

『中郡誌稿』
 〈 善徳寺
(村誌)全徳寺東西二十七間南北二十八間面積三百四十七坪村の東北に有曹洞宗智源寺末派なり僧円山素明禅師開基創建す
(実地聞書)円山和尚の学深かりし僧にして円山録五冊の著あり云々もと慶徳院より分れたるものなりと云  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【安立山全徳寺(曹洞宗、鱒留、本尊 華厳釈迦如来、木像)】『丹哥府志』には、「安立山善徳寺…」とあり、『村誌』は「同、全徳寺…」、曹洞宗智源寺派末で、僧円山素明禅師によって開基創建されたとある。素明和尚は、永平寺派の中本山智源寺(宮津)の住職で、全徳寺を創建したのは享保四年(一七一九)のことであり、もと、慶徳院(五箇谷一円の寺であった)から分かれたともいう。しかし、慶徳院は享保以前、元禄八年(一六九五)にはすでに臨済宗に転宗していたから、分派したとしてもそれ以前の曹洞宗の頃ではなかったろうか。また、慶徳院は藩命によって転宗したが、全徳寺に隠居していた高僧霊源が、この命に従わなかったともいい伝えられているが、霊源は天明六年(一七八六)三月九日、嵯峨の鹿王院で亡くなっているから、元禄時代は九十年も前のことになる。全徳寺や、新治の十方院が、曹洞宗のまま残ったのは、当時この二村とも御料所すなわち幕料地で、峯山藩の命令が及ばなかったからではなかろうか。昭和二年三月七日の震災被害は軽微で、現在建物は次のようである。…  〉 


わらび堂
『峰山郷土志』
 〈 【比治山地蔵堂(わらべ堂、一名藁火堂、鱒留、本尊 地蔵尊、堂三間に二間)】『五箇村郷土誌』によると、この地蔵は、江戸の八百屋お七の恋人吉左が、仏道に入って、お七の霊を弔うために建立した日本三ヵ所の地蔵の中の一つであるといい、また、ある年のこと、久美浜の代官が通りかかって、この堂で休憩していると、花のような美女がどこからともなく現われ、美味な茶湯をすすめて消え去ったので、里の者に問うたが、誰も「知りません」と答えた。これは必ず地蔵尊の化身であろうと、厚く信仰し、田地を寄進したという。
今も「地蔵田」として、その収穫で、毎年地蔵まつりを行なっている童堂の名は、ここから起ったのである。また、この堂を藁火堂とよんだのは、お堂の藁を松明にして比治山峠を越えると、狼など害獣におそわれる心配がないからであるといい、あるいはまた、お堂の藁を焼いても、おとがめを受けないからだともいわれている。
比治山峠は中郡と熊野郡を結ぶ嶮所で、「送り狼」といって旅人に尾行する狼が住んでいたが、この地蔵堂側の大榎まで来ると、地蔵尊の威厳に恐れて引きかえしたなど、この峠にのこる昔話は多い。新道が開さくされた時、旧道の側にあったお堂は、現在地に移されたが、明治四十三年頃、何か霊験があったというので、急に参詣者が増え、上屋を新築し、老人が交替で堂守をつとめた。久美浜代官が寄進したという田地は、高一石成りで、全徳寺によって管理されていた。
この天和元年(一六八一)の火事の相手の吉左について『丹哥府志』は小姓吉三郎木像の項に、吉三郎は同三年お七が火あぶりの刑に処せられた後、その霊をなぐさめるため、諸国の名勝や、有名な寺々を回わったが、丹後の成相寺に参詣し、ついに髪を剃って名を西運と改め、念仏修行者となって再び江戸へ帰り、毎日托鉢に一生を送ったよしを記している。
地蔵堂二ヵ所、大路二間半に二間、大成同  〉 


鱒留城と陣の森
久美浜街道に近い南側の田の中に、樹木の茂った塚があり、陣(いくさ)ノ森とよばれる。天正10年5月、吉原城落城の日、奥吉原口で細川方の沢田仙太郎に首を与えた、一色方大谷刑部左衛門成家討死の地と伝える。
『峰山郷土志』
 〈 笠縫団太郎 桝富城主笠縫団太郎は、天正十年九月(一説、五月)長尾城に加勢中、細川興元軍に破られ、城将楠田掃部頭と城を脱したが、途中で楠田とはぐれ、二箇付近まで引きかえして来たとき、比治山を越えて乱入した細川方の松井佐渡守の先手に出会い、桝富、五箇が落城したことを知って、その場で切腹した。しかし、笠縫自刃の場および桝富城の跡は不明である。  〉 

鱒留城


《交通》


《産業》




鱒留の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 丹波郡
一益冨保 廿四町弐段三百五十八歩内
 十二町一段百七十九歩       八幡領
 十二町一段百七十九歩      大方殿様
  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎鱒留村(久次村の次、鱒留村より比治山嶺を越へて熊野郡佐野村に至る、久美浜より宮津の街道也)
風土記に云、天女の居る所其家豊にして土形富めりよって土形の里といふ、即ち此村なり。今土形の名山に残りて比治山といふ、鱒留一に益富に作る。
【桝富里】
元々集に豊宇賀能売命の神像なりとて
天のはらふりさけ見れは霞たつ  家路まとひて行衛知らすも
【藤社大明神】(祭九月廿八日)
藤社大明神は蚕の神なりとて凡村々蚕を養ふものみな此神を祭らざるはなし。
【安立山善徳寺】(曹洞宗)
【陣の森】(大谷刑部左衛門討死の地、出図)
天正十年夏五月、吉原落城の日(一色義道の弟吉原越前守義清の城、今峰山是なり)大谷刑部左衛門吉原より遁れて但馬の方へ趣かんとす。沢田仙太郎これを追ふて奥吉原の口に至り、曰、「貴殿は定めて一色氏の部将ならんと見受たり、我は長岡玄蕃頭興元の臣沢田出羽守の嫡子沢田仙太郎今茲年十七歳初ての出陣なり、請ふ一戦せん」と呼はりければ、刑部左衛門馬を駐めて曰、「我は元将軍足利利家の臣大谷刑部左衛門なり、平岡長尾の戦に長岡玄蕃頭、松井佐渡守、有吉将監を敗軍に及ばせしは某の力なり、今但馬の方へ趣かんとす命を惜むにあらず蓋世の成敗を見んと欲するなり、されども汝がいさましく初陣と名乗りたるに感じたれば汝に首をとらせんと欲す、いざ来れ」と二打三打うち合せて馬より飛下り、西面して掌を合せ仙太郎に告て曰く、「某が帯たる太刀は辱くも将軍義輝公より軍功によって賜る所、則ち太刀の折紙兜の内に入置たり、請ふ是を添へて実検せられよ」と念頃に申聞せ遂に仙太郎の為に討たれける。興元其事を聞て、討つも討たるるも珍らしき武士なりと大に観賞せられ、仙太郎を治郎介と名を改め父出羽守の如く老臣の列に加へ、網野村に於て高千石を賜ふ。
【わらび堂】
 【付録】(八大荒神)  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【鱒留(ますどめ)(大路、大成)】鱒留村は、元禄八年以来、宮津領、あるいは御料所(幕料−天領)に属し、その所属は新治と同じである。正応の『丹後国田数帳』には、丹波郷の中に益富保二十四町二反−とあり、領主は八幡と大万殿様で、八幡領は神領で、大万殿様は足利氏の一族であろう。また地域の関係は、五箇と同じく『地名辞書』は神戸郷に、『地理志料』は口枳郷に属していたであろうといい、天保の頃は五箇の庄の中であった(『丹哥府志』)。また、益富の名は、いうまでもなく『丹後風土記』の比治山伝説にちなんだ目出度い名であろう。
慶長七年、京極高知の『郷村帳』は、益窟(内、大呂村、大成村)とし、元和八年宮津城主京極高広も、延宝三年(同、永井信濃守)の『郷村帳』も同じく益富であるが、宝永二年(同奥平大膳太夫)の『高辻帳』は、鱒留の文字に改めている。その起源は、竹野川を経て益富川をさかのぼって来る鱒(今でも時々見うける)を、藤社明神のお使いであるとしたことに始まったようで、鱒に乗って川を上った神は、この明神の社の下から、藤のつるをよじのぼられたのであるといい、また、鱒はこの社の下で留って、上流へはのぼらないし、この部落の者が鱒を捕を捕らえて食うと腹痛をおこすといって、誰一人捕える者はいなかったといい伝えている。当時、宝永二年(一七〇五)頃の川が社の下から上流へはさかのぼれない状態にあったかもしれないし、なお、卵を産みにやって来た鱒を保護するために、もうけられた一つの制約であったとしたら、いっそう温い里人の思いやりがうかがわれておくゆかしい。事実、鱒はもっと上流まで上っていたにちがいない。
『丹後旧事記』の足利末期割拠諸侍の条に「桝富村笠縫団太郎」と城主の名をかかげているが、『旧事記』を書いた文化七年頃は、桝富の文字を用いていたのであろうか。当時、鱒留は天領であったが、桝富の字は見当たらない。
『五箇村郷土誌』は、『丹後旧事記』の説として鱒留は、天女が和奈佐の家で美酒をつくり、それを買って富貴になったから、桝富の里と呼んだと記している。これによると『丹後旧事記』は、益々富んだという意味は、とりあげていないことになるし、なおかつ、マスドメの起こりは、豊受大神に仕えていた川上の摩須郎女の住んでいた場所として、マスオトメ村を佳字をもって仮りに鱒留村としたように説明しており、その上、土俗の説として、藤社の神が鱒に乗り、藤をよじ−と、鱒はこの神の使徒であって、鱒の留る村であるとつけ加えている。摩須郎女は、豊受大神への奉仕をやめて、丹波道主命に嫁し、八乙女を生み、八乙女もまた豊受大神に奉仕したといういい伝えは、すでに述べた。

笠縫団太郎、桝富城主笠縫団太郎は、天正十年九月(一説、五月)長尾城に加勢中、細川興元軍に破られ、城将楠田掃部頭と城を脱したが、途中で楠田とはぐれ、二箇付近まで引きかえして来たとき、比治山を越えて乱入した細川方の松井佐渡守の先手に出会い、桝富、五箇が落城したことを知って、その場で切腹した。
しかし、笠縫自刃の場および桝富城の跡は不明である。
【大路(大呂)】慶長七年『郷村帳』によると、益富の内として、大呂村、大成村がある。大呂の呂(りょ、ろ)は、陰に属する音律で、大呂(たいりょ、たいろ)は、音楽の十二律のうち十二月に属する音律で、陽気の大いに動き出そうとするのを陰が拒ぎ抑えているという意味である(富山房『大字典』)。もし、タイロ(リョ)をオオロと読み替えたとすると、大呂村は益富村の北ではなく、南にあたるが、この谷間の奥深く大成部落を経て、沓(くつ)峠で兵庫県に接する出石街道にあたるわけで、南から起こる陽の気を、ここで一応しめくくっている地形であり、そのうえ、雪深い山間部を十二月にたとえて音律の大呂になぞらえた村名であるともいえる。しかし、天保十二年『丹哥府志』では、大呂村は大路村と変わり、鱒留村より南へ入る−とあるが、大路の路に替えたわけは不明である。ただ、むずかしい語源の大呂をさけて、同音で、しかもわかりやすく、そして、出石街道にちなんだ大路の字をあてはめたのではなかろうか。大呂千軒(千軒は六十戸)と呼ばれた昔もあった土地である。
また、丹波郡の同じ山間部に小西村があり、その寺の山号を、宝暦の頃、小盧(しょうろ)山とよんでいる。小盧の盧と大呂の呂の間に何か結びつきはないであろうか。また、盧は場所を現わすものかどうか、研究がとどかなかった。
大路の三右衛門(さんねも)の家に伝わる七夕(田畑)伝説については、別項で述べたから省略するが、この家の裏山を「城の尾とよび、山上に防塁の跡が残っている。また、村を隔てた北の山上に、愛宕の社がある。笠縫団太郎の桝富城(位置不明)
と何か関連がないであろうか。ここは他国勢の侵略にそなえる要所でもある。
【大成】 大成の語源は、山間の平らな土地を一般に「なる」というところから出たのであろう。平なことをナルイといい、平坦にすることをナラスまたは、ヒキナラスという。
慶長七年、『京極高知拝領郷村帳』の益富の内大成村として、丹後国十二万三千百七十五石の内に、この村名がのっている。しかし、笠次兵五所蔵という慶長七年九月の『丹後国中郡五ヶ内益富村御検地帳』の小字名の中には、大呂、大成の区分けはみえない。平家の落武者がこの部落の清水ヶ原にかくれていて、源氏方に討伐されたというが、幾人かは生き延びていたものであろうか。鎌倉時代の矢や矢筒(鹿皮)を保存している民家があった。
また、山向うの但馬から、沓峠をこえて住みつい木地屋(ロクロで木地椀をつくる)を業とする木地屋族(まき)(小倉姓)と、木地屑が流れて来るのをみて、谷の奥に人が住みはじめたことを知り、その土地が但馬領になることを心配して、鱒留から移住したという田中姓がある。
木地挽きの記録としては、田中武治所蔵の歴代代官年貢上納手控に「寛文五年、木挽運上(運上=営業税)、高二百五十八石八斗五升(鱒留上納高)五ツ五分、毛付六ツ七分一厘一毛。同八年二石四斗・木地挽運上、元禄二年一石同上、同三年一石同上、四石炭焼運上、同六年運上物山手木地挽炭焼、同八年山手木地挽運上、同十三年一石同上。宝永元年一石同上……(『五箇村郷土誌』)」とあって、寛文五年(一六六五)に木地挽きに対する運上(税金)を代官に納めていることがわかる。額は前後をみて約二石程度であったろう。また、延享二年(一七四五)の『鱒留村明細帳』によると「木地挽二人これあり候」とあるから、この程度の人が従事していたであろう。
「大路の山の維の子、鳴くと鷹がつかむぞ」これは、郷土一円に古くから伝わる子守歌であるが、雉の子と木地挽の子をかけたもので、稼業にいそがしい母親が、泣く子をおどしすかした素朴な歌である。八幡宮は、この族(まき)によって勧請されたというが、旦那寺は、やはり但馬である(大成、八幡神社の項参照)。
鱒留は、明治十七年、新治、菅、五箇、久次、二箇の五ヵ村とともに、連合戸長役場を五箇に置いたが、明治二十二年、町村制施行にあたり、新治、菅をのぞく四ヵ村が合併して「五箇村」をつくった。…  〉 

『京丹後市の考古資料』(写真も)
 〈 金谷1号墓(かなやいちごうぼ)
所在地:峰山町鱒留小字金谷
立地 :竹野川上流域、支流鱒留川左岸丘陵上
時 代:弥生時代後期後半
調査年次:1994年(府センター)
現  状:消滅(国営農地)
遺物保管:市教委
文  献:C102
遺構
 金谷1号墓は、竹野川支流の鱒留川の上流、川に平行にのびる丘陵尾根の先端に立地する。1994年、国道改良工事に伴う事前調査としで発掘調香が実施され、その結果、弥生時代後期後葉の墳幕が1基確認された(巻頭図版9−2)。
 調査報告によると、1号墓は東西15mの方形墓で、高さ2mを測る。三方の地山を削りだし、裾に平坦なテラスを造成することで墳丘基底を作り山す。残る尾根上の一方は幅9.9m、深さ0.3mの溝で丘陵と区画する。東側墳丘裾テラス部分は、地山を一段掘り下げた後に排土を低位の表土に盛り平坦面を拡張している。堆積土中から完形個体の壺などが出土していることから祭祀関連の遺構と考えられている。
 埋葬施設は墳頂部平坦面に8基、墳丘裾テラスに9基の計17基造られている。その多くが、先行する埋葬施設を一部壊して造る、いわゆる切り合い関係にある。採用された棺は舟底状木棺6、箱型木棺10、土器棺1基となる。墳墓築造の契機となった第1主体部は、5×2.7m以上の墓壙規模を持ち、外法3.9×0.9mの舟形木棺が納められていた。舟底状木棺には舳先が緩やかな角度を持つものと舳先と艫がほぼ同じ角度で立ち上がるものの2種類ある。また、箱型木棺と確認されたものはすべて長側板が小口板を挟み込む、いわゆるH型木棺である。
遺物
 副葬品は、第3主体部からガラス勾玉、ガラス管玉、緑色凝灰岩製管玉、環状鉄製品(小型円環)が出土しているほか、鉄剣が副葬される埋葬施設も存在し、豊富な副葬品を持つものが多い。また、墳丘裾テラスに造られた周辺埋葬施設からも翡翠勾玉や滑石製勾玉、ガラス小玉など(第11主体部)が出土しており、第10、15主体部では墓壙上面で行われた祭祀に使用された可能性のある未製品の鉄刀の素環部や鉄斧などの鉄片が出土している。また、第12主体部および第17主体部では、墓壙内に破砕供献された甕が出土している。
意義
 金谷1号墓は、鱒留川上流地域における弥生時代後期後葉に築かれた台状墓である。噴頂に複数の埋葬施設をもち、丹後半島の弥生時代墳墓で多く採用される組合式箱型木棺のほかに、舟底状木棺が採用されたことが初めて確認された事例として特筆される。
 舟底状木棺は、丹後地域において弥生時代後期後半〜古墳時代前期前半の中心的埋葬施設に多く採用されている。丸木舟もしくは準構造船の下部構造を模したものと考える意見もある。中心的埋葬施殻に多く採用され、副葬品に鉄器の保有率が高いことなどから、舟底状木棺を採用した集団は鉄製品、鉄素材を入手するシステムの中核的役割を担った集団であるとする説がある。
 また、第3主体部から出上した環状鉄製品は、断面が扁平であることから、中部高地に分布のある帯状螺旋系鉄釧を再加工し小型円環としたものである可能性が指摘されている。東海地方との交易によりもたらされた可能性があり、当時の丹後を取り巻く鉄器流通ルートの一端を窺い知ることができる。  〉 



鱒留の小字一覧


鱒留 石ケ坪 井根ノ下 石本 蛭子堂 大光田 追掛 大下 大木ノ谷 大路 奥大路 大成 鹿島 上谷 狩生谷 久保田 木谷 三本松 白石 四反田 下谷 待従谷 大道の下 大膳名 大セン名 丁田 塚沖 寺谷 中河原 夏焼 広畑 比沙門 比治山 藤木 歩□ 明光 ヤセガ谷 和久河原



昭和15年の『郷土と美術』 比治の里人
(小字名) 赤阪 ○宮ノ下 ○かいしろ(カジリ) ○宮田 ◎おぼそ ×家の後 くつ谷 こじき谷 ○ゑびす堂 侍従谷 ×ゑひくら(大路方面) わだがい ×芝原 ×溝向 深田 ◎石がつほ ×川原 中川原 ×まとば ◎宮の下 ◎おこう田 清水尻(ウミヅガヘリ) ◎官  ○藤木  大泉庵(大シヤウナ) ○だうもと(堂ノアざ   中谷  塚沖  大下阪根   川戸 ○蜜珠庵 誘ウシご ◎山の神の下 めいこ ○だうもと(堂ノアゼ) 中谷 塚沖 大下阪根 川戸 ○宝珠庵(ホウシバ) 中の谷 ちかうべ ○堂のおく ◎ひぢ山、小比治山 梅がつぼ ×まふせぎ かりう谷 ×茶やがしり ○あまが谷 横枕 西の口 長田 堂の上 ×山伏 ほゑすみ ○ばゞ ○びしや門 ×すいしやう庵谷 大木の谷 ○五反田 内ごもり かしま ○香神の下 久保田 ×六人まち ×くやうほうでん ○四反田 さこがはな(サギガハナ) 大石の元 ×宮がい 寺多羅 ×三つ橋 ○香神のわき 福谷   夏やけ  ×あし谷(鱒留本郷方面)

ずいぶん古い史料である。慶長検地帳 慶長七年九月の益富村御検地帳らしい。
「此検地帳は徳川時代に村役を勤めた家でもあったのか、明治の初期に石屋をしてゐた老母が張寵の上に貼ってしまふのを現所蔵者の養父が見つけて「これは村の大切な文書だもらっておく」と危い所を取止めて保存せられ居たのである。本文書作製当時の字名と現今と比較して見ると、既に亡びたのもあり、×印がそれである、又呼称が変化して( )内のものになったのもあり、中々面白い。次に◎
印は極めて重要な史蹟開係のもので、○印は神社寺庵古墳史蹟田制などの参考地で何れも部内史料として大切なものである。」と注記がある。



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん



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