丹後の地名

三坂(みさか)
京丹後市大宮町三坂


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京都府京丹後市大宮町三坂

京都府中郡大宮町三坂

京都府中郡三重村三坂

三坂の概要




《三坂の概要》

中郡中央の盆地帯の南部。国道312号の東側の岡の上に「セントラーレホテル京丹後」があるが、その岡の南の集落。
近世の三坂村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、以後寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、享保2年より幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年三重村の大字。
三坂は、明治22年〜現在の大字名。はじめ三重村、昭和26年からは大宮町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《三坂の人口・世帯数》 177・71

《主な社寺など》

三坂神社墳墓群
弥生後期(紀元0年あたり)の墳丘墓で、隣の左坂墳墓群や岩滝大風呂南墳丘墓より少し早い時期の丹後開闢の特徴がよく見られる王墓である。国道312号のすぐ脇の高台で「セントラーレホテル京丹後市」へ登る道沿いである。
平成4年に発掘調査が実施された。写真のような尾根上に階段状に立地し、6基の台状墓から構成される。埋葬施設は木棺墓35基、土器棺4基の合計39基。3号墓第10主体が盟主墳で、素環頭鉄刀、やりがんな、水晶玉16個など弥生時代後期の豪華な鉄製品の副葬は注目された。全体の出土遺物にはガラス勾玉、ガラス管玉、ガラス小玉、碧玉管玉などの玉類、武器、農具などの鉄製品、土器などで、ガラス勾玉は鉛バリウムガラスである。ガラス小玉は総数2930個。土器は墓壙内破砕供献土器などを伴っていた。
三坂神社墳墓群(京丹後市三坂)
↑『丹後の弥生王墓と巨大古墳』より
↓『京丹後市の歴史(中学校社会科副読本)』より
三坂神社墳墓群(京丹後市三坂)三坂神社墳墓群10主体(京丹後市三坂)

↓現地の案内板より
お風呂に入れる「セントラーレホテル京丹後」へ登る坂道に案内板がある。道路の左側が遺跡である。
三坂神社墳墓群案内板

三坂神社古墳群など(『京丹後市の考古資料』より)

三坂神社墳墓群案内板
  〈 三坂神社墳墓群は、弥生時代後期初頭(およそ2000年前)に造られたお墓です。
北部マスターズビレッジ造成に先立って調査が行われました。
この墳墓群は、丘陵の高い部分を削り出して6つの平坦面を造り、そこに有力者とその家族を39人埋葬しています。
 最も大きな3号墓第10主体部と呼んでいる埋葬施設(墓穴)には、ガラス管玉で作られたヘアーバンドやガラス勾玉・小玉と水晶玉の耳飾りで飾られた有力者が葬られていました。この埋葬施設からは、朝鮮半島からもたらされた鉄製のやりがんなや素環頭鉄刀が出土しています。
この主体部を含めて墳墓群全体からは、当時はたいへん貴重であったガラスで作られた勾玉・管玉・小玉が3000点あまりと鉄製品が出土しました。これらの資料から、海を越えて交易を行っていた丹後地域の有力者の姿が浮かび上がります。
 なお三坂神社墳墓群出土品は、平成12年3月17日付けで京都府指定文化財(考古資料)に指定されています。京丹後市教育委員会 〉




『丹後の弥生王墓と巨大古墳』
  〈 大宮町三坂神社墳墓群 三坂神社墳墓群は、後期初頭から前葉にかけて営まれた六基の台状墓である。六基の台状墓は、丘陵先端部を階段状に成形して、各墳頂部平坦面を確保している。各墳墓の平面形は、最高位にあり最大の三号墓が一辺一八メートルの不整形な方形を、四〜七号墓が直径一○メートル前後の半円形を、最下位の八号墓が一四×九メートルの歪な方形を呈する。六基の台状墓内からは大小三五の木棺墓と土器棺四基が検出された。造墓契機となった三号墓第一○主体部は、巨大な墓壙(五・八×三・七×二・○メートル)に、やや大きめの組合せ木棺(内法二・三メートル)を納めた埋葬施設である。被葬者は、左手に黒漆塗りの儀杖を持ち、腰に大陸製の素環頭鉄刀を差し、頭部を豪華な玉類で飾り、立派なやりがんなと弓矢を合わせもっていた。葬送儀礼にあたっては、朱をふんだんに使い墓壙内破砕土器供献を行なっている。豊富な副葬品と他を圧倒する埋葬施設および想像される荘厳な葬送儀礼は、被葬者の絶大な地位を示すものであり、首長墓(王墓)としての性格をもった埋葬施設として評価できる。また、現状では、@墳墓の立地と形状、A埋葬施設の構成、B特有の土器供献、C鉄製品・玉類の副葬という次に述べる近畿北部の後期弥生墓制の要素をすべて備えている点が注目される。… 〉

「破砕土器供献」は今でも舞鶴あたりでは、葬式で棺を送り出したあとに、瀬戸物などを戸口で割る風習があるが、この時代は割った土器片を墓壙(墓穴)内に、木棺上に撒いている、丹後、但馬、北丹波、兵庫丹波がこの風習の中心地とされる。舞鶴はこのはるか初期のヒボコ時代の風習を現在も受け継いでいるのかも知れない。

『京丹後市の歴史(中学校社会科副読本)』
  〈 三坂神社墳墓群(大宮町三坂)は、竹野川右岸の丘陵の尾根上にあり、弥生時代後期に造られた6基の台状墓から構成されています。埋葬施設は木棺墓35 基、土器棺4基の合計39 基があります。
 最も大きな墓穴の3号墓第10 主体部がこの墳墓群の盟主の墓であり、素環頭鉄刀、やりがんな、鉄鏃のほか水晶玉、ガラス玉を用いた頭飾りなどが見つかっています。この他、墳墓群全体の出土遺物にはガラス勾玉、ガラス管玉、ガラス小玉、碧玉管玉などの玉類、武器と工具などの鉄製品、土器があります。丹後の弥生時代後期の方形台状墓を知るうえで重要な遺跡です。 〉

ちょっと見られない豪華な副葬品をゴッソリと持っているただものではない墳墓であるが、ただ鏡がないのが特徴点。
「三種の神器」の1つ、鏡が1面も見られない、この墳墓の特色状況は北九州や大和とは異なり、朝鮮南部の伽耶(かや)地方と似ているといわれる。偶然の一致かそれとも移住の歴史の反映か、従来はそうした歴史は無視してきたが、今後はまじめに解明されることであろう。伽耶は加悦(かや)町などとそっくりの地名を残す丹後ではあるが、韓国の洛東江の流域にあった古代の国々で、後に新羅に併合されたため、新羅と呼ばれることもある。


鉄と玉
鉄製品は輸入品とされていて当時とすれば超高価なもの。別にとりたててそれと交換し合えるような超高価な富がありそうにも見えない地である、農産物といってもこれくらいの広さの農地などはどこでもあろう、では交易だといってもここでは海に遠すぎる、米をどんな舟かに満載して竹野川を下り朝鮮まで出かけて鉄と交換したのか?何のために?ナゾが深まり、鉄については根本的な見直しが必要ではなかろうか。祖母谷、祖父谷、猫山とかあるが、この地も鉄の地のようである。いまのところ製鉄遺跡はないが、輸入鉄を加工しただろう遺跡もない。

ガラス玉は輸入品とされ、水晶玉はその代用品といわれる、奈具岡などでも生産されていた、この周辺では一万個ともいわれるガラス小玉が副葬されるが、これは朝鮮南部の動向と一致するとされる。しかし玉は古墳時代になると消えてしまう。

実際に走ってみる↓






三坂神社裏古墳群
『京丹後市の考古資料』に、
  〈 三坂神社裏古墳群(みさかじんじゃうらこふんぐん)
遺構 三坂神社墳墓群、有明古墳群の所在する丘陵の上方(南側)に位置する13基かなる古墳時代前期の古墳群である。標高85〜100mに位置し、周辺の低地との比差50mを測り、いずれの古墳からも中郡盆地を北に眺望が開ける。1〜9号墳圃査された。
いずれも、一辺7〜16mを測る低墳丘円墳もしくは方墳である。2号墳を除く各古墳から1〜5基の埋葬施設が検出された。埋葬施殻は、木棺墓もしくは土壙墓で、棺には、組み合わせ木棺、割竹形木棺が見られる。最も高い位置にある6号墳と7号墳は、それぞれ16m×12m、16mX約8mを測る長方形の方墳である。6号墳が埋葬施股4基を、7号墳が埋葬施設5基を営んでいる。6号墳の墳丘央部には全長3〜4mの割竹形木棺を収めた埋葬施設が3基並列している。最大の第3主体部の木棺は全長4mを測り、頭部付近から勾玉1点と管玉3点が、足元から鋤先と剣および刀の切先が出土している。4号墳の中心埋葬施設は、組み合わせ木棺の両小口部分に人頭大の花崗岩で押さえるものである。9号墳には、割竹形木棺が1基納められ、棺内からは同鏃3と不明鉄製品(1〜4)が出土している。
遣物 棺内およびその周辺から出土した物には、銅鏃、鉄鏃、鉄剣、鉄刀、刀子、鋤先などの武器・工具類および勾玉、管玉、小玉からなる装身具がある。鉄製品には、意図的に折り曲げられたものや破損したものが含まれている。墳頂部および墓壙上からも少量ながら土師器が出土している。手焙り形土器や東海系の高杯などがある。
意義 平地から比高差50mを測る高い位置に営まれていること、鉄製品に意図的に破損したものが含まれるなど太田南古墳群との共通点が高く、丹後地域の前期前半の古墳群の特徴をよく示したものと言える。 〉

有明古墳群
有明横穴群
帯城墳墓群

三坂神社(三坂小字干塩)
↓三坂神社と干塩稲荷神社
三坂神社と干塩稲荷神社

『大宮町誌』
  〈 三坂神社(元村社) 三坂小字干塩
この干塩の稲荷山の地には、古くから稲荷神社があり、この山に対して小字嵯峨の地には、村社三坂神社があった。明治四二年一○月二九日に、三坂神社を稲荷山に移して、稲荷神社と合併し、改めて三坂神社と称し、稲荷神社の祭神倉稲魂命を相殿に祀った。合併の翌年四三年社増改築して、社殿内の東側にもと三坂神社内殿を置き、西側に旧稲荷神社内殿を置いた。大正八年一二月神殿の屋根替をして、元草葺を瓦葺とした。
 もとの三坂神社は、紀伊の熊野権現の一座を勧請して、一座大権現または一座明神とも称していたが、維新後に祭神を伊邪那美命とし、三坂神社と改称した。はじめは六月二八日が祭日であったが、維新後一一月九日に改め、稲荷神社に合併後は六月二〇日、現在は一○月一○日であり、神楽を奉納する。
 合併されて相殿となった稲荷神社は、もと稲荷大明神として、文明年間(一四六九‐一四八六)の創建と伝えられ、当町の稲荷神社のうちで最も古い。天明六年(一七八六)に再建されている。三坂の稲荷さんと称されて近隣の崇敬が厚く、村社三坂神社をしのぐ程であった。そのため三坂神社を合併したといわれている。
 神職 島谷旻夫(兼)(周枳大宮売神社神職)
 祭日は古くから六月二○日であったが、今は七月二○日で、にぎやかである。 〉

境内の案内板三坂神社案内板
  〈 三坂神社(旧三坂村 村社)
祭神 伊邪那美命
例祭 十月十日
 古くから神楽・楽を奉納した。
創立年代は不詳であるが、古くから三坂の里の氏神として村人の崇敬を集めて来た神社である。
 今も例祭はもちろん、春は祈念祭、秋は新嘗祭等村人により厳粛に祭の行事が行われている。
 緯線は村の南側の丘にまつられていたが、明治四十二年(一九〇九)この丘に遷座した。
 平成六年(一九九四年)丹後マスターズヴィレッジの建設に伴い、上屋を現地に移転改築した。

干塩稲荷神社 
祭神 倉稲魂命
例祭 七月二十日
 古くからこの丘に鎮座する神社である。
創立は、文明年間(一四六九〜一四八六年)ともいわれているが、定かではない。
 「文明六年(一七八六年)に再建された」と記録されている。
 本町内はもちろん、この地方では最も古い歴史を持つ稲荷神社である。
 この神社の呼称の起源については、「大昔、大津波が押し寄せて来たが、この神社の手前でぴたりと止まった。この後この神社の神威をたたえて、干塩億稲荷神社と呼ぶようになった。」と伝えられている。
 古くからこの地方一帯の崇敬を集め、例祭には参拝の人波で参道は埋め尽くされるのが常であった。
 今も、「五穀豊饒」「商売繁盛」「家内安全」「心願成就」を祈る多くの人々の信仰を集めている。
 平成六年(一九九四年)丹後マスターズヴィレッジの建設に伴い、上屋を現地に移転改築した。 〉

津波伝説が伝わるが、ここは高い、高すぎる…
近くの荒塩神社もそうだが、「塩」の表記漢字に付会したものではなかろうか。
三坂神社からの眺望
三坂神社からの眺望。向かいに磯砂山、別名比治山が見える、そのヒジと同じように、ヒシ尾ではなかろうか。聖山であった思われる。

『中郡誌稿』
  〈 神社
(丹哥府志)一座大明神(祭九月二十八日)
(村誌)三坂神社、村社にして往古熊野神社一座なし給ふを以て一座明神とも言ふ然りと雖も年暦不詳、祭日十一月九日、社地東西貮間南北貮間面積八坪、本村より南方に当り神体白絲を以てす
(河野氏口碑書留)氏神熊野大権現当国熊野郡より紀伊国熊野へ御移りの際一座有之を以て一座大権現と称し奉りしを御一新社寺御改めの際一座明神と改正す此地を字嵯峨と言ふ
(丹哥府志)干塩大明神(祭六月二十日)金麿親王夷賊退治の時其弟塩干これに従ふ恐くは塩干是ならん
(河野氏口碑書留)干塩山稲荷大明神文明年間建立 〉

『大宮町誌』
  〈 一座宮跡  三坂小字間谷通称坂裏山林八二番地
 三坂の氏神一座神社勧請の旧地は小字間谷にあり俗に盗人宮という。当社は昔紀州熊野権現を勧諸したともまた、丹後国熊野郡より紀州熊野に遷辛の途次、権現が一宿された所とも伝える。「三重郷土志」ては一座宮跡は熊野権現ではなく荒神を記った跡であろうとし、俚人がこの山を荒神山と呼んでいるのはその名残だとしている。 〉



大田鼻横穴群
墨書土器が出土した横穴墓だとは知っていたので、このあたりだろうと見当をつけて行ってみた。大田鼻横穴墓郡案内
木積山山系から西へ中郡盆地へ張り出す支脈である。この支脈に左坂墳墓群が、一つ上の、南の支脈に大田鼻横穴墓群が、もう一つ南の支脈に三坂墳墓群が、といったように次々に弥生〜古墳の遺跡が展開する。
国道312号からなら、「セントラーレホテル京丹後」の方へ入ると、こんな看板がある。→
そのまままっすぐに行けば横穴墓群があるはず。少し行けばあたりは広い農地になり、道路脇左手に溜め池が見える、その溜め池の下側であった。穴らしきは何も見えない。見れば雑草に隠れて案内板がある。
この突き当たりの斜面だが、農地にするため上部がかなり削平されたようで、当時の様子はあまり残ってはいない。
大田鼻横穴墓群跡(周枳)
↑正面に案内看板が見える、それには↓
当時の様子(案内看板)

大田鼻横穴墓群跡の案内
  〈 大田鼻横穴群跡
 この地にかつて、東から西に張り出す丘陵が存在し、その傾斜の急な南側斜面に横穴群が三〇基確認された。
 横穴群は、水田との比高差約二〜七・五mのところに花崗岩風化土を刳り抜いて築造されていた。
 各横穴の平面形は、長方形と袋状を呈する二形式があり、その規模はおよそ玄門幅1m前後、玄室の幅、長さはともに1・五m〜三mが主で、中には四mを越えるものも三基確認されている。
 玄室前面には墓道が取り付き、玄室と墓道の境には段がつき、仕切り溝があるものもあった。
 玄門部の閉塞は板戸を立てていたと思われる。横穴の築造は六世紀末から八世紀中頃にかけて行われたと推測される。
 出土遺物としては、須恵器、土師器、鉄刀等が検出された。
 大田鼻横穴群は、三〇基の横穴で構成しており、京都府内で最大級の横穴群である。平成三年三月 京丹後市教育委員会 〉

大田鼻横穴群
『日本の古代遺跡京都T』は、(写真↑も)
  〈 国道沿い右側に丹後織物会館がみえるが、この建物の裏側に一九八五年(昭和60)の発掘調査によって確認された総数二〇基あまりにのぼる府内でも最大規模の大田鼻横穴群がある。古墳時代後期から飛鳥、藤原宮のころまでつづくが、この横穴群の存在する丘陵には、帯城(おびしろ)墳墓群とよばれる弥生時代から古墳時代にかけての一大墳墓群もきずかれている。この丘陵全体が、当時の人びとにとっては、死者の丘として映っていたことであろう。
 それにつけても、この帯城墳墓群や大田鼻横穴群といった古代丹後の大規模な遺跡の確認が、現在の丹後の活性化を図るための国営農地開発事業にともなっておこなわれる発掘調査によってであるという点に、複雑な思いを抱くのは筆者ばかりではなかろう。 〉

墨書土器の話などは何も書かれていなかった。

挿図

大田鼻横穴群は、三坂小字帯城に所在し、30基の横穴で構成される京都府最大規模の横穴群。国営農地開発事業の三坂団地造成予定地に含まれることとなったため、昭和60・61年度にわたって発掘調査を実施した。28号横穴から「厨物」などと書かれた3点の墨書土器が出土した。
以下、『両丹地方史44』(87.5.30)所載の「大田鼻横穴群出土の墨書土器について・岡田 晃治」によれば、↑図も↓も
  〈 三、墨書土器について 1・2は、外方に直線的に開く浅い杯部に、面取りした脚部をもつ高杯であるが、脚部を欠いている。2は口径二九・○pを測り、杯部外面に墨書「厨物」がある。一方、1は2より大きく口径三一・六pを測り、杯部がやや外反気味である。杯部外面に不明瞭ながら墨書が認められ、これもおそらく「厨物」であろう。蓋(3)は平らな天井部に幅約○・五pの凸帯をめぐらせ、そこで段をなし、口縁端部はやや下方へつまみ出す。天井部には、扁平な擬宝珠様つまみをもち、陶邑窯TG七○の須恵器資料に類似の形態がみられる。天井部外面に墨書がある。一つは明らかに「厨」であるが、もう一つは「厨」の下に「人(?)」が書かれているようである。いずれにしても、この三点の墨書土器には、四つの「厨」の字が含まれており、このことは偶然とは考えられず、何らかの意味を持つものと思われる。以下、その意味について若干考察をすることとする。なお、この三点の墨書土器はいずれも丹塗りである。 〉

どうしてこんな所から、こんな物が、それも「厨物」とは…、これだから、何もわかっていないことになる。田数帳には「御厩保」が見える、朱塗りの土器は大宮売神社遺跡からも出土しているよう、自分たちの祖先のわずかな歴史すらわからないのに、津波があったとかなかったとか、大自然の長い歴史などがわかるとでも言うのだろうか。漢字が書かれているというのがオドロキ、平城京(710)や長岡京(784)、そして平安京(794)へといった時代である。8世紀中頃の横穴墓というから、だいたい奈良時代のもののようである。仏教が入って、こうした埋葬法も終わるという時期になる。ここに葬られた人は文字が書けたかどうかはわからないが、理解はできたのではなかろうか。知識渡来人官僚くさくなってくるが、墓から出るというのはシロートでも何とも頭が痛くなってくる…
同上論文は続けて、

  〈 当横穴出土墨書土器の場合は、官衙的性格の遺跡で用いられていた器物が何らかの理由で当横穴の副葬品として用いられたものと考えるのが自然であろう。そしてその理由としては、当横穴の被葬者が官人であったためと考えることができるのではないだろうか。しかし、厨という公の機関の器物が個人の墓に用いられるのであろうかという疑問も生じるため断定することは控えておきたい。厨の墨書土器が出土した場合、その場所もしくはその近辺に官衙的性格を有する施設や建物を想定することか一般的である。当横穴群近辺で官衙的性格を有するものとしては、国衙・郡衙などが考えられる。当横穴群は、古代の行政範囲では丹後国丹波郡に含まれる。丹後国府は現在の宮津市府中地区と考えられ、丹波郡の中心地は現在の峰山町字丹波付近と考えられるため、いずれも当横穴の所在する大宮町字三坂とは離れているが、地方官衙の場合、官人がその近くに居住する必要はないものとも思われる。昭和六○〜六一年に発掘調査が行われた字奥大野の正垣遺跡はその遺構・遺物から官衙的性格の強い遺跡と考えられており、この遺跡との関連を考えることも可能であろう。なお、厨を「御厨」と解せば、皇室の供御の魚貝・果物類を調達するために設置された所領の意があり、隣接する周枳地名との関連も考えられる。また、神撰をととのえる建物や神に供える食物を調理するところの意もあり、近くに式内社の大宮売押社が存在することも気になるところであるが、厨の墨書の出土例に類似の遺跡か認められないことなどからその可能性はいずれも低いものと考えておきたい。
以上のように、当横穴出土例だけから断定することは不可能であるが、今後資料の増加をまって改めて考えてみたい。 〉

大田鼻横穴群
『日本の古代遺跡京都T』は、(写真↑も)
  〈 国道沿い右側に丹後織物会館がみえるが、この建物の裏側に一九八五年(昭和60)の発掘調査によって確認された総数二〇基あまりにのぼる府内でも最大規模の大田鼻横穴群がある。古墳時代後期から飛鳥、藤原宮のころまでつづくが、この横穴群の存在する丘陵には、帯城(おびしろ)墳墓群とよばれる弥生時代から古墳時代にかけての一大墳墓群もきずかれている。この丘陵全体が、当時の人びとにとっては、死者の丘として映っていたことであろう。
 それにつけても、この帯城墳墓群や大田鼻横穴群といった古代丹後の大規模な遺跡の確認が、現在の丹後の活性化を図るための国営農地開発事業にともなっておこなわれる発掘調査によってであるという点に、複雑な思いを抱くのは筆者ばかりではなかろう。 〉

三坂横穴など()『京丹後市の考古資料』より

曹洞宗永平寺末護国山安心院
安心院(三坂)

『大宮町誌』
  〈 護国山安心院 曹洞宗(周枳周徳寺)三坂小字上地
本尊 釈迦牟尼如来
 院内に安置の阿弥陀如来は旧羅漢堂の本尊、千手観音は創寺の春瑞和尚の生家河野家の守り本尊であったという。
 三坂村河野久右衛門の二男は幼年より周徳寺に入門得度し、春瑞と号した。延享元年(一七四四)五月両親菩提のため一堂を建立して、当時の代官塩谷代四郎より護国院安心院の号を受け、菩提所周徳寺九世了山密之和尚を開山とした。文政、天保のころ住僧の交代が続き堂宇も衰退したので、弘化四年(一八四七)より尼僧庵とし、全明尼を初め二世正順・三世順法・四世貞順・五世が現在である。
現庵主 井上祖艶
釈迦出山の画像一幅は、蓮藕を緯として織った絹地で、明治三三年一二月朔日の裏書がある。 〉

また化かされる

《交通》



《産業》
小野小町温泉(セントラーレ・ホテル京丹後内)
肌ざわりのやさしい弱アルカリ性の湯です。大宮のまちを見下ろす丘の上にあり、周辺に「大宮ふれあい工房」などの施設が集まっています」と案内にある。





三坂の主な歴史記録



『丹哥府志』
  〈 ◎三坂村(周枳村の次、大野村より三阪村へ出て三重村に至る、宮津街道)
【一座大明神】(祭九月廿八日)
【干塩大明神】(祭六月廿日)
金麿親王夷賊退治の時其弟塩于これに従ふ、恐らくは塩于これならん。
【護国山安心院】(曹洞宗)
【十六羅漢堂】
【城墟】(末考) 〉

『京都新聞』()いつのものか確かな記録がないのだが
  〈 *続・京・近江の古代朝鮮を歩く〈42〉*アメノヒボコ伝説を訪ねて 玉類納め死者手厚く*三坂神社墳墓群*
竹野川流域に開けた京都府中郡大宮町の丘陵地に「丹後マスターズビリッジ」の中核施設の「国民年金健康センター・丹後おおみや」、「京都府大宮ふれあい工房」などが建設されている。北近畿タンゴ鉄道宮津線の丹後大宮駅から歩いて二十分ほどの国道312号大宮バイパス沿いにある。
 「三坂神社墳墓群」は、こうした施設の建設に伴って発掘調査された弥生時代の七基の墓群。大宮町教育委員会が実施した現地説明会の資料を繰ると、このころの埋葬は長さ三−四b、幅一・五b、深さ一b前後の墓壙(こう)の中に、組み合わせ式木棺または土器棺を置き、死者をガラス玉などの玉類、鉄鏃(ぞく)などの鉄製品とともに納めて、棺にふたをしたあと、たたき割った土器と朱をばらまいていたようで、玉類は総計三千点を超えていた。
 墓壙は墓穴のことだが、七基には、それぞれ多数の埋葬施設があった。有力者の家族墓らしく集団の長を埋葬したと考えられる最大の墓壙の内部にはガラス勾玉、ガラス管玉など、多数の玉類と素環頭鉄刀、鉄鏃、木材を削るやりがんな、遺骸の側に杖らしい漆塗りの木製品、約一`の朱などが副葬されていた。勾玉も管玉も装飾品だが、資料は「素環頭鉄刀は、全長30pを測り大陸製のものと考えられます。弥生時代後期前半までに出土する素環頭鉄刀は、北部九州と山口市からの出土報告が30例ほどあるのみで今回の出土例はその東限を大きく広げたものになります」という。
 丹後マスターズビレッジから谷を隔てた北の丘陵地に築造された「左坂墳墓群」は百五十基を数える弥生時代後期の墳墓群だが、ここでも二本の素環頭鉄刀のほかに、緑色のガラス玉が出土している。「加悦町古墳公園はにわ資料舘」の編集した「古代丹後の世界」は「左坂墳墓群全体では数千個にもわたる数があるようで、その副葬には女性にガラス玉が伴う可能性が指摘されている」という。
 ガラス製品は三坂神社墳墓群の南西の三重という所でも収集されている。ガラスの釧(くしろ=腕輪)と勾玉、碧玉と緑色凝灰岩製の管玉などは一九〇〇年に現在の東京国立博物館に寄贈されたが、京都府立丹後郷土資料館の発行した「丹後王国の風景」に掲載された釧の写真を見ると、ほぼ半分が残り、断面は濃い緑色だ。弥生時代の遺物らしく、「現在のところ、弥生後期とされる福岡県二塚遺跡の小片化したもの以外に例がない」そうだ。 〉

『京都新聞』(1996..)
  〈 *丹後王国の風景B*丹後郷土資料館特別展*驚き誘ったガラス*弥生墳墓−玉と鉄*
 一九七八年、現在弥栄中学校が建つ坂野丘で、一基の弥生墳墓が発掘された。弥生後期の墓からはガラス勾玉六、ガラス小玉五百個以上、碧玉・緑色凝灰岩製菅玉三百二十八個と鉄剣という大量の副葬品が出土し、人々の驚きを誘った。
 当時、大量の副葬品を持つ弥生の墓は、九州の甕棺墓や支石墓が古くから有名だったが、それ以外の地域では、ごく一部の遺跡が知られる状態であり、弥生の墓に副葬品は少ないという常識の中での発見であった。現在でも坂野丘は有数の弥生墳墓の位置を占めるが、以後、丹後で鉄器、ガラス玉類などを副葬した弥生墳墓の発見が相次いでゆく。
 大宮町三坂神社墳墓群の一つの木棺からは、素環頭鉄刀、鉄鏃、ガラス勾玉・菅玉・小玉、水晶小玉と朱約一`などが出土した。この墳墓群の中でもぬきんでた墓の規模と副葬品の質・量である。また、各墳墓に副葬される鉄製武器・工具の量も多い。そのころ、原料を海外に求めなければならない貴重な鉄やガラスを豊富に確保できる人々が、丹後に生きていたことは確かである。
 前記遺物のほか、丹後町大山、峰山町金谷、大宮町左坂、野田川町西谷の墳墓から出土した土器や玉類、弥栄町奈具岡遺跡の水晶玉作り資料も展示している。
 現在までに、丹後出土の弥生ガラス玉類は一万個を超え、北九州以外の全国合計をはるかにしのぐ数字である。一個一個は小さな製品であるが、残りのよいものは、今も、現代ガラスには見られない青や緑の光沢を放っている。 〉

『京丹後市の考古資料』(図も)
  〈 三坂神社墳墓群(みさかじんじゃふんぼぐん)
所在地:大宮町三坂小字有明
立 地:竹野川中流域右岸丘陵上
時 代:弥生時代後期前半
調査年次:1992年(大宮町教委)
現 状:消滅(丹後マスターズビレッジ)
遺物保管:市教委(府指定文化財)文献:B081
遺構・遺物
 中郡盆地を北に一望する標高69mから83mの丘陵上に位置する6基の台状墓である(巻頭図版7−1)。北に向かって下る急峻な尾根を階段状にカットして埋葬空間としての墳丘平坦面を確保している。6基の台状墓からは、木棺墓35基、土器棺墓4基の計39の埋葬施設が検出され、舶載の素環頭太刀、3.000点余りのガラス玉をはじめ多数の鉄製品と玉顔そして供献土器が出上した。
 最高位置に位置する3号墓は、群中最大の方形台状墓で、墳項部平坦面は、丘陵先端部が緩やかに弧を描く方形を呈し、南北14.5m、東西15.0mの規模を測る。埋葬施設は、木棺墓12基、土器棺墓2墓の計14基が検出された。墳頂部中央部に中心埋葬施設である第10主体部があり、それを囲むもしくは切り込む埋葬施設群と第10主体部に並行して配置された埋葬施設群がある。
 第10埋葬施設(右図)は、長辺5・69m、短辺4.27m、深さ1.80mの墓壙の中に、長さ(小口間の距離)2.38m、幅(側板間の距離)0.88mの組み合わせ木棺を据え置いたものである。墓壙底から40pの高さに赤色顔料と土器を撒いた木棺の裏込め上端部があり、木棺の高さは0.40m以上あったものと思わる。棺内から多数の副葬品が出土している(巻頭図版7−4、7−5)。顔付近には赤色顔料(水銀朱)が厚く堆積しており、朱の中から13個以上のガラス管玉がヘアバンド状に連ねられた状態で出土した。その右端から8cm足元側に垂下するような位置で、水晶算盤玉8+ガラス小玉10+水晶算盤玉8+ガラス勾玉からなる一連の玉類が出土した。ヘアバンドとともに頭飾りを構成していたものと考えられる。被葬者の頭部右側から刃部を足元側に向け、木柄部を上に向けたヤリガンナが出土した。胸から右腰部の位置には、鞘入りの素環頭鉄刀が柄を上にして出土した。鞘に接して大型の鉄鏃が着柄状態で2点出土した。被葬者の右側面には長さ1.70m以上を測る黒漆や皮膜が残存しており、黒漆を塗った儀式用の杖と考えられる。木棺に蓋をした状態で、棺の周囲を中心に水差し形壺、甕、高杯2が破砕後ばらまかれていた(墓墳内破砕土器供献儀礼と呼んでいる)。
 三坂神社墳墓群で検出された35の木棺墓すべてで、墓壙内破砕土器供献儀礼が見られ、24の木棺基には、鉄製品もしくは玉類が副葬されていた。出土した土器から後期初頭の3号墓第10主体部の被葬者が造墓契機となり、3号墓、4号墓、8号墓がほぼ同時に操り返し後期前葉まで造墓活動を続けている。副葬品には、鉄製武器として素環頭鉄刀、鉄鏃が、鉄製工具として刀子、ヤリガンナがある。装身具としては、頭飾り、胸(首)飾り、手玉があり、素材としてはガラス勾玉、同管玉、同小玉、水晶製算盤玉、緑色凝灰岩製管玉がある。墓壙内で棺に蓋をしたのち破砕供献された土器は、水差し形壷、壷、甕、高杯など計57点である。そのほかに土器棺として棺材に利用されていたものが8点ある。
意義
 三坂神社墳墓群は、近畿北部の後期弥生墓制を代表する墳墓であり、最も古く位置づけられるものである。3号墓第10主体部の被葬者は、従来の墓制と全く異なる墓制をスタートさせた被葬者であり、その副葬品の構成から近畿北部を代表する首長(「王」)と理解することも可能である。以降、弥生時代後期の期間ここに見られる墓制が近畿北部の墓制として遵守される。 〉

『京丹後市の考古資料』(図も)
  〈 帯城墳墓群(おびしろふんぼぐん)
所在地:大宮町三坂小字帯城
立 地:竹野川中流域右岸丘陵上
時 代:弥生時代後期後半
調査年次:1984年(府教委)
現 状:消滅(国営農地三坂団地)
遺物保管:丹後郷土資料館
文献:
遺構・遺物
 中郡盆地を北に一望する標高58mから78mの丘陵上に立地する台状墓群である。三坂神社墳墓群(54)と左坂墳墓群(55)の間に位置する。58mから65mの位置にあるA支群と78mの位置にあるB支群からなる。
 A支群では、その最高地点に尾根の背後と側面に溝を持つ弥生時代中期に営まれた10号墓がある。墳丘は10×6mの長方形を呈し、埋葬施設1基を営む。棺は、狭長な箱形木棺と推定され、棺内から赤色顔料が、溝内から弥生土器底部が出土した。丘陵先端の標高59m前後の地点に、溝で区画された後期末頃の3基の台状墓7〜9号墓がある。また、7号墓の北側斜面には帯曲輪状の細い平坦地があり縦列に3基配置された周辺埋葬施設群がある。7号墓は6×6m程度の台状墓で、墳頂部に4基の小さな木棺墓を配置する。いずれも小児棺と推定され、第2主体部から鉄剣が出土した。A支群の計14の埋葬施設のうち、7号墓第2主体部以外に副葬品をもつものはヤリガンナが出土した周辺第2埋葬施設のみである。
 A支群から100mほど東に進んだ標高78m地点にB文群がある。後世に山城として利用されたため、形状は不明な点が多いが、丘陵鞍部を利用して25×15m規模の長方形の台状墓が集かれている。22×11mの長方形の墳頂部には、南群と北群の二群からなる埋葬施設群がある。北群は15基の埋葬施設が中心埋葬を囲んで配置されている。中心埋葬は2段墓壙で鉄剣を副葬していた。南群は6基の埋葬施設が大型の2基を取り囲むように配置されている。大型の2基を含む3基の埋葬施設から鉄剣およびヤリガンナが出土した。北群の中心埋葬施設の墓壙上の土器、周辺埋葬施設に墓壙内破砕土器供献されていた甕や壷棺などから、概ね弥生時代終末期の墳墓と考えられる。
意義
 赤坂今井墳墓(59)と同時代の墳墓であるB支群は、大型の墳丘を築いているものの、中心埋葬は小さく、中心的な被葬者が鉄剣1振りのみを副葬している。玉類を持たないことも含め、赤坂今井墳墓との階層差が認められ、当時の社会構造を考える上で興味深い。 〉

『京丹後市の考古資料』(図も)
  〈 有明横穴群(ありあけおうけつぐん)
所在地:大宮町三坂小字有明
立 地:竹野川中流域右岸丘陵斜面
時 代:飛鳥時代
調査年次:1985年(府センター)、
    1991年(大宮町教委)
現 状:調査範囲は消滅(国営農地、道路)
遺物保管:市教委
文 献:B081、C061
遺構
 本横穴群は、三坂神社裏古墳群(67)の所在する丘陵裾に立地する9基の横穴墓群である。うち1〜8号横穴の8基が調査されている(巻頭図版26−2)。横穴墓前面には、テラス状の竪穴住居跡が検出されている里山遺跡が分布する。平面プランは、3号横穴のみが長方形であり、ほかはフラスコ状または俵形である。5号横穴は、玄室内に柱穴が見られる。平面プランや出土遺物の様相から見て本横穴群は、3号→5号、8号→1号→4号横穴の順に築造され、それぞれ追葬が行われたと推定される。また里山遺跡は、出土遺物から見て横穴墓と併行して存在したものと推定される。
遺物
 各横穴より7世紀前葉〜後葉に位置付けられる須恵器杯、高杯、壷、ハソウ、平瓶、横瓶、甕、土師器杯、椀、皿、甕、ミニチュア土器、鉄釘、鉄鏃、勾玉、丸玉、切子玉が出上している。また3号横穴では、平安時代の灰釉陶器瓶が出土しており、再利用を示す。土師器杯、ミニチュア土器には、赤色塗彩するものが、土師器杯には畿内産と推定される暗文を施すものが含まれる。5号横穴の須恵器杯は、蓋内面と身内面に焼成後に「奉」と針書された線刻土器が含まれる。
意義
 本横穴群は、近隣の大田鼻横穴群(86)、左坂・里ケ谷横穴群(87)などとともに、丹後地域において横穴墓が密集する地域を構成するものの一つと位置づけられる。周辺には古墳時代後期後半の群集墳や古代寺院は見られないため、横穴墓群は突発的に出現した印象を受ける。「奉」線刻土器の出土から
見て本横穴群は、地方官人層が造営主体として想定できる。また集落と横穴墓が隣接して見られる事例の一つとしても評価できるものである。 〉


『京丹後市の考古資料』(図も)
  〈 有明古墳群(ありあけこふんぐん)
所在地:大宮町三坂小字有明
立 地:竹野川中流域右岸丘陵上
時 代:古墳時代前期〜後期
調査年次:1986年(府センター)、
    1991、1992年(大宮町教委)
現 状:消滅(国営農地三坂団地、丹後マスターズビレッジ)
遣物保管:市教委
文  献:B081、C061
遺構・遺物
 中郡盆地を北に一望する標高60〜80mの南北にのびる丘陵上に位置する8基からなる古墳群である。1号墳から8号墳までは、230mを測る。丘陵先端(北端)に位置する階段状の平地面を持つ1号墳を除く7基が調査された(P139右下図)。
 2号墳は、3号墳から溝により区画された長辺13m×短辺12mの方形墳である。埋葬施設は検出されていないが、金銅製の耳環(金環)が1点出土している。
 3号墳は丘陵の南北を尾根に直交する溝により区画した長辺20m、短辺17m、高さ1.3mを測る方形墳である。内部を2つに区画した小口板間の距離で全長5.2m、幅0.7mを測る長大な組み合わせ木棺が検出された。棺内から竪櫛3が、棺外小口部分から刀子3が出土した。
 4〜6号墳は連接して築かれた一辺(直径)10m規模の方墳および円墳である。4、5号墳は、尾根を階段状に整形し、6号墳は直径10mの墳丘外側に溝を巡らしている。4、5号墳が亀根直交してそれぞれ5基、7基の埋葬施設が、6号墳は尾根に平行に2基の埋葬施設が営まれていた。各古墳とも棺内もしくは棺に接して須恵器が出土しており、概ね6世紀前半(TKlO)の年代観が与えられる。4号墳第1主体部、6号墳第1、第2主体部では、須恵器の蓋杯を枕に転用していた。5号墳第3主体部の棺小口部の外側から組み合わせた状態で出土した須恵器の蓋杯の中には、蛤が入っていた。副葬品としては、4号墳第1主体部から鋏鏃2、刀子が、同第4主体部から鉄鏃が、6号墳第1主体から碧玉製管玉、ガラス小玉が、同第2主体部から鉄鏃6、ヤリガンナ、刀子が出土している。
 7号墳は、東西14m、南北16m、高さ1.6mに復元される地山整形による方墳で、埋葬施設は、箱形木棺で、棺上を中心に、刀、鉾、刀子、ヤリガンナなどの鉄製品と碧玉製の管玉と勾玉からなる装身具が出土している。
 8号墳は、東西12m、南北13m、高さ1.6mの地山整形による方墳で、中心埋葬の第9主体部に重層する形で8基の土壙墓が営まれている。第9主体部は、全長2.6mを測る割竹形木棺で、棺内もしくは棺側上から鉄剣2が、棺側から鉄鏃19が出土している。墳丘上から人物を配した絵画土器を含む土師器が出土しており、前期前半の年代観が与えられる。
意義
 南北にのびる丘陵上に4世紀から6世紀にかけて断続的に営まれた古墳群である。前期前半の8号墳の資料は、鉄鏃の多量副葬傾向を示す資料として貴重である。 〉

『京丹後市の考古資料』
  〈 大田鼻横穴群(おおたがはなおうけつぐん)
所在地:大宮町三坂小字大田鼻
立 地:竹野川中流域右岸丘陵上
時 代:飛鳥時代〜奈良時代
調査年次:1985、1986年(府教委)
現 状:消滅(国営農地三坂団地)
遺物保管:丹後郷土資料館 文献:C059、F110
遺構・遺物
 大田鼻横穴群は、竹野川中流域右岸の大宮町三坂から周枳の丘陵斜面に築かれた横穴群の中央部にあり、横穴30基と最大規模を誇る。横穴は、東側から西へ延びる丘陵の南斜河裾部に花崗岩の岩盤を穿って築かれている。各横穴の玄室床面の標高は52〜61mに分布し、前面の水田部との比高差は1〜7.5mである。30基の横穴墓は、その立地によって、丘陵先端側からI群(1〜9号横穴)、U群(10〜19号横穴)、V群(20〜25号横穴)、IV群(26・2号横穴)、X群(28号横穴)、Y群(29・30号横穴)の6群からなる。なお、尾根上には、帯城墳墓群(58)が立地する。
 横穴墓の玄室は、その平面形によって、奥隅部が丸い長方形もしくは、方形のもの(A型)と奥隅部が丸い台形フラスコ状の台形を呈するもの(B型)およびどちらにも属さないもの(C型)に分類されている。なお、C型はA型の亜種とも位置付けられており、時期的には、概ね長方形A型からフラスコ形のB型への変遷がうかがえる。A型に属するものは、I〜V群中に7基(2号横穴含む)あり、この3群は、7世紀初頭には造墓活動を開始している。フラスコ形の玄室は、須恵器の身と蓋が入れ替わり、つまみを持つ杯蓋の出現とほぼ時期を同じくして誕生しており、造墓活動は、W群まで広がる。X群、Y群にまで造墓活動がおよぶのは、8世紀前半であり、玄室は、玄間部が狭い逆三角形に近くなる。I群は、7世紀代に造墓活動を停止しているものの、U群〜W群では8世紀まで、引き続き利用されている。
 横穴玄室には大小あり、玄室長は、2.1〜4.2mを、奥壁幅は、1.2〜3.4mを、閉塞部(玄門部)幅は0.6〜1.2mを、奥壁高さは1.3mを測る。閉塞部には、溝が掘られているもの、段構造になっているもの、両者があるものがあり、いずれも、木板などの閉塞施設の存在が想定される。墓前域(閉塞部の外側)の構造がわかるものが、21基あり、前庭部と呼称する広い空間をもつものが9基、閉塞部幅で延びる溝状の墓道をもつものが16基である。両者をもつものが4基ある。墓前域からは多数の土器が出土している。
 出土遺物には、副葬品として金銅製の耳環、水晶製の切子玉、鉄刀、刀子、鉄鏃がある。供献土器は多数あり、玄室内から杯類が出土しているほか、前庭部および墓道周辺から壷、甕類が出土している。
 20基に人骨が遺存していた。複数体の人骨が出土した横穴墓は13基で、2体が9基、3体が2基、7体および10体が1基である。2号横穴では、成人男性2、同女性2、同性別不明1、幼児、小児5である。火葬骨が4基の横穴から出土している。
意義
 周囲には6世紀前半まで木棺直葬の古墳群が多数存在するが、6世紀後半の横穴式石室は非常に少ない。副葬品は、横穴式石室に副葬されるものと大差はないが、墓制の異なること、前代の群集墳との非連続性、「厨」などの墨書土器を供献するなど、新たな集団の存在をうかがう史料である。 〉


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『大宮町誌』
その他たくさん



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