丹後の地名

三津(みつ)
京丹後市網野町三津


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京都府京丹後市網野町三津

京都府竹野郡網野町三津

京都府竹野郡島津村三津

三津の概要




《三津の概要》
間人から西へ網野の方へ入った所の海岸沿いにある。耕地・集落ともに階段上の狭小な土地にある。
三津漁港

中世の三津保で、室町期に見える保。「丹後国田数帳」に「一 三津保 六町九段二百十六歩 成吉越中」とある。
三津村は、江戸期~明治22年の村。枝村に掛津村がある。はじめ宮津藩領、享保2年より幕府領、宝暦9年再び宮津藩領となる。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年島津村の大字となる。
三津は、明治22年~現在の大字名。はじめ島津村、昭和25年からは網野町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《三津の人口・世帯数》 415・146




《主な社寺など》


八幡神社
八幡神社(三津)

『丹後国竹野郡誌』
 〈 八幡神社 村社 三津字オテジ鎮座
(神社明細帳) 祭神誉田和気命 美久仁大神 伊豫永大神
  創建不詳、元和八年九月並安永八巳年六月三日再建、當社は誉田和気命一座なりし處爾後美久仁大神は何の頃なるや越前国三国より海上を浮び渡り来り當所に着給ひしを、里人相議りて神霊を當社に合祀せりと故老の申伝へなり
  一社  殿  梁行二間半 桁行三間半
  一籠  屋  仝 二間  仝 四間
  一輿  庫  仝一問充尺 仝
  一境内坪数  四百八坪
  一氏  子  百二十三戸
  境内神社
   厳 島 神 社
    祭神 市杵島姫命
    嘉永四年亥七月創建<    〉 


『網野町誌』
 〈 八幡神社 三津字オテジ鎮座
 祭神 誉田和気命・美久仁(みくに)大神・伊予永(いよなが)大神
 創建不詳、元和八年(一六二二)九月並安永八年(一七七九)六月三日再建、当社は誉田和気命一座なりし処爾後美久仁大神は何時の頃なるや越前国三国(注 現福井県北部三国町か。三国神社あり)より海上を浮び渡り来り当所に着給ひしを、里人相議りて神霊を当社に合祀せりと古老の申伝へなり。(『竹野郡誌』)
補注 伊予永神社は、同名神社が但馬北岸諸寄・豊岡市北東下鶴井等、海岸部に点在する。当社と何らかの関連はないだろうか。
○境内社
厳島神社 祭神・市杵島姫命 寛永四年(一六二七)七月創建< 

古代以前から越前三国や伊予国と海人同士の繋がりがあるのではなかろうか、ずいぶん古いことなら、同じミ(耳)族の繋がりか。それとも新しものであれば北前船の繋がりか。


徳良神社(とくらじんじゃ)
この社が本来の氏神様と思われる。徳良山(約224メートル。戸倉・徳楽とも記す)の山頂に徳楽神社(戸倉山権現)が鎮座。徳良山は間人村・徳光村と三津村の境界に位置し、神社は間人の砂方と徳光・三津で祀っていたという。毎年新しく一社を造営し、古社屋は山上から投げ降ろす慣例があり、三年交代でこの行事を行ったという。徳良山は三角形の切り立った山だが三津集落からは見えない。険しい山道ですよ、などといわれ、行くこと断念した。
徳良山
『丹後国竹野郡誌』
 〈 徳楽神社 無格社 三津間人徳光村境中央字徳楽山鎮座
 (神社明細帳) 祭神 不 詳
 創立不詳.古時より間人三津徳光徳光三ケ村にて再建修繕等致来最も峯三ヶ村尊信且共有の神社なり< 

『網野町誌』
 〈 徳楽神社 三津・間人・徳光村境界中央字徳楽山鎮座
 祭神 不詳
往古より間人三津徳光三ケ村にて再建修繕等到来最も右三ケ村尊信且共有の神社なり。-「神社明細帳」-(『竹野郡誌』)< 

曹洞宗万松山広通寺
広通寺(三津)

『丹後国竹野郡誌』
 〈 広通寺 曹洞宗 字三津にあり
(丹哥府志) 万松山広通寺 曹洞宗
(宇川上山寺年代目録)宝暦十年鐘鋳
(同寺調文書) 當寺開闢は文禄二已歳七月五日和田助之進と申す郷士死去す其際伽藍を創立し開基とす。其法名は心賜浄本禅定門と称し石塔存在す、本尊薬師如来は恵心大師の作にして寛永丑歳十二月八日隠岐国より京都へ再興の爲め商船に載せて上る折柄、大風雨に遭ひ當地の東方万能山の下海岸に漂流し船夫四五名九死に一生を得て着岸し.海岸の清水に手足を洗び薬師尊像を當寺に安置し、其後十日間も滞在し海上波穏かになるが故に出船せんとせば難風吹きて怒濤となり出船し難きこと再三なり、船夫等曰く此薬師如来は當地結縁の佛ならんとて當寺に永遠安置し供養せられんことを依頼して出帆すと伝ふ、船夫中一人は老人にて帰国し難く遂に死亡す、依て埋葬す其塚として當寺境内に八角の塔あり、これに七仏薬師を切付今に存す、船夫等の手足を洗ひたる清水は湯ケ尻の鉱泉之なり、其後明暦三酉歳迄は何宗とも詳ならす、此歳曹洞宗に改め延享二丑歳法地となり、本寺智源寺十一世斤山智峰和尚を請じて開山とす、其後三世一洲の代明和元申歳十一月十二日堂宇焼失す、安永三午歳本堂再建供養す、又當寺は代々徒弟相続して現住職拾世にして法地開闢より百七十一年なり、

『網野町誌』
 〈 萬松山広通寺 曹洞宗 三津
本尊 薬師如来
<由緒・伝承>
(同寺調文書)当山の開闢は、文禄二年(一五九三)七月五日で、郷士和田助之進末次が死去した際に伽藍を創建し開基とした。開基の法名は、心賜浄本禅定門である。寛永元年(一六二嬰から明暦三年(一六五七)までの三三年間は何宗であったかわからないが、その年、曹洞宗に改めた。
注 「三津部落由来記」には〝広通寺の開基は不詳(中略)、本尊は観世音にて真言宗なりしが、後、曹洞宗となり薬師如来を本尊とせり″と書かれている。なお、承応元年(一六五二)の「龍献寺古文書」には〝三津村広通寺〟と記載されている。
 延享二年(一七四五)に法地となり、本寺智源寺十一世斤山智峰大和尚(安永八年二月一八日没)に勧請して開山としたが、その後明和元年(一七六四)一二月一一日、三世一洲末発の代に堂宇を焼失、一〇年後の安永三年(一七七四)五月二八日に本堂が再建され、供養が行われた。
注 堂宇焼失時が、同寺配布書には〝明和元年一一月一二日〟と記載されている。前述の堂宇焼失月日は、『竹野郡誌』に記載されているものである。
「宇川・上山寺年代目録」-宝暦一〇年(一七六〇)鐘鋳
 旧『網野町史草稿』-中興は常山智孝和尚(大正八年-一九一九没)である。
 なお、本尊の由来については、『竹野郡誌』や同寺の檀徒向け配布書に次のように記されている。
 寛永乙丑二年(一六二五)、一艘の船が隠岐国から東へ向かった。京都再興を目的としていたその商船には恵心僧都作と伝えられる本尊薬師如来が載せられていたが、海上で暴風雨に遭遇した。船は三津の東方にある万能山の下海岸を漂流していたが、同年一二月八日、村民に助けられて着岸に成功し船乗り四五人は九死に一生を得た。船乗りたちは海岸の清水で手足を清め仏像を船から降ろした。
注 船乗りたちが手足を清めた清水とは〝湯ケ尻″の鉱泉のことで、〝湯ケ尻″とは丹後町と網野町の境界海岸付近である。
 その仏像(東方薬師瑠璃光如来)を広通寺(「三津部落由来記」では村の辻堂)に安置し、その後一〇日程滞在し、海の波も穏やかになったので出航しょうとしたところ、難風が吹き出し出船が不可能となった。その後、出船を予定すると怒涛となり、出航できなくなるという事態が再三におよんだので、船乗りたちは
〝この薬師如来さまは当地にゆかりのある仏さまにちがいない。ぜひ、この寺に永遠に安置し供養していただきたい〟と依頼して出航したと伝えられている。船乗りのうちの一人は老齢で帰国できず、滞在中に死亡したので埋葬された。現在、当寺境内に八角の塔があり、七仏薬師が刻まれている。その塔が当人の塚と伝えられ菩提が厚くとむらわれている。
 昭和二年(一九二七)三月七日の奥丹後震災では、堂宇の被害は傾斜にとどまり倒壊はまぬがれた。(「丹後震災回想集」では本堂半壊となっている。)当寺は同三六年(一九六一)衆寮、同四二年庫裡を新築し現在に至っている。< 
広通寺境内
これだろうか。

三津城趾
村の西南部の山頂に三津城跡、東北部山頂に三津別城跡。ともに天正頃、和田助之進末次の居城であったと伝える。


《交通》


《産業》


三津の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 一 三津保  六町九段二百十六歩  成吉越中< 

『丹哥府志』
 〈 ◎三津村(砂潟村の次)
東伊根の庄鷲崎より前村砂潟に至る凡十里余り、其間山水の嶮岨いふべからず、断岸惣て積帯酸、牙毛酸の類なり。三津村より掛津村に至る凡五、六十町の間一面の白砂なり、其傍に太鼓浜、琴引浜あり、其浜に添ふて平坦なる山あり、赫石の地に緑青の松、其間を通行する婦女子の輩、始に山を行き帰りに浜に遊び貝殻などを拾ふて一日の旅とせり、誠に土佐図中の人ともいふべし。
【八幡宮】(末社三社、美久仁大明神、伊予永大明神、稲荷大明神)
【徳楽山十二社権現】
【万松山広通寺】(曹洞宗)
【遠見番所】(三津村の山にあり、伊根浦の番所と相異ならず)
【みくり坂】(村の東、以下五カ所皆遊覧の場所)
【あか崎】(村前の出島)
【小やケ鼻】(村の西)
【むまか崎】
【いきの間】(村の入口)<  〉 

『丹後国竹野郡誌』
 〈 (京都府漁業誌)三津部落は今を去る三百二十年(文禄年間)以前には戸数僅かに十八戸にして農業を以て生計を立て傍ら漁業を営み居りしものゝ如し其後漸々人口増加し宝暦四年三月の火災に三十余戸焼失し寛永の頃は戸数四十三戸ありたりと伝へり早くより行はれたりし漁業は鯛釣にして若布も古くより之れど手鎌にて刈り採り板の上にて乾燥し三津浦若芽と称へ各地に販売せられたり文禄年間喜太夫と称するもの村内の婦女を集め製塩法を教授し及葛藤の皮を剥ぎ延縄を作り寛永の頃漸々此漁業盛んとなるに至り正徳二年九月宮津城主より市良左衛門外四名へ賞状を授けられ之れより大に奮励し部落内大に富裕となれり享保四年十月若狭国早瀬村の漁夫長七外四名漁業中暴風雨のため遭難し当地に漂流したりしかば村氏之れを救助し当部落に留まらしめしが遂に移住するに至れり鱧は享保の頃より二ツ股の錨にて捕獲し飯蛸は享保六七年頃より壷縄を以て漁獲し鰮流網は嘉永年代より使用す
 掛津部落は遊部落に先ちて起りたるものならんも其の起源を知るに由なしされど寛平年代当部落内なる太鼓浜と称する地に建立したる白瀧神社祭神大物主神にして寛平七年八月別当遣唐大使中納言従三位兼業左大弁春宮権太夫侍従菅原朝臣の建立(蛭子神社)当部落漁業者等の建立等より推するに此時代は繁栄なりし部落にして漁業も盛んに行はれたりしものゝ如く其当時の漁業は磯覗竿釣、和布刈、塩焼業等なりしが如し元禄年間の頃領主奥平太膳太夫昌泰に塩焼運上として米二斗肴運上として銀四匁を納付したり寛政の頃他国の漁夫此地に来たり其漁夫の指導に依り部落民三十人を一組とし掛津及遊の両部落に各一組づゝの鰮地曳網組を組織し使用し始め弘化二年遊部落の鍋屋文左衛門なるもの飛魚旋網及施魚刺網の使用を始めたり< 




三津の小字一覧



三津(みつ)
上地(かみじ) 奥田(おくだ) 高尾(たかお) 石原坂(いしはらざか) 丸山(まるやま) 北谷(きただに) 尺田(しゃくでん) 三ツ町(みつまち) 三ケ地(さんがち) 上三ケ地(かみさんがち) 池ケ谷(いけがたに) 芋ケ谷(いもがたに) 峠ノ後(とうげのうしろ) ホネガ谷(ほねがたに) 徳楽(とくら) 栄谷(えいだに) 布谷(ぬのだに) 奥山(おくやま) 三枚畑(さんまいばたけ) 丸日出(まるひで) 横枕(よこまくら) シヤバ ブリカ谷(ぶりかだに) 小谷(こたに) 梨子谷(なしだに) 枝ノ川(ちえのかわ) ナク谷(なくだに) 枝川向(ちえのかわむかい) 堤谷(つつみだに) 石目(こくめ) 西トノジ(にしとのじ) 敷地(しきじ) トノジ 国女(こくめ) 穴田(あなだ) 大石谷(おおいしだに) 桐ケ谷(きりがたに) 殿屋敷(とのやしき) 石穴(いしあな) 松葉(まつば) 下地(しもじ) ヲテジ 岡坂(おかさか) 南カヘ(みなみかえ) サコフ 上石(かみいし) 三ツクリ(みつつくり) 牛立(うしがたて) 二ツ塔(ふたつとう) 二ツ塚(ふたつつか) トノエ 古柿(ふるかき) 二ッ町(ふたつまち) 中道(なかみち) 稲荷(いなり) 稲荷坂(いなりざか) 尾ノ下(おのした) ツエノ川(つえのかわ) ナクセ谷(なくせだに) 小倉目(こくらめ) 寺ノ奥(てらのおく) 大成(おおなる) 平野(ひらの) 大谷(おおたに) 甲山(こおやま) 中筋(なかすじ) 寺ノ上(てらのうえ) イギ ホネガ谷(ほねがたに) 惣山(そうやま) カリヲ 峠ノヲテ(とうげのをて) コヨナコ 向徳楽(むかいとくら) 松ケ谷(まつがたに) 地蔵出(ぢぞうで) 寺谷(てらたに) ナリセ谷(なりせだに) 段ノ岡(だんのおか) 中池(なかいけ) 三ケ池(さんがち) 家ノ下(いえのした)


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後国竹野郡誌』
『網野町史』
その他たくさん



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