長野(ながの)
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京都府京丹後市久美浜町長野 京都府熊野郡久美浜町長野 京都府熊野郡佐濃村長野 京都府熊野郡下佐濃村長野 |
長野の概要《長野の概要》 佐濃谷川の支流・長野川(竹藤川)の上流部、口長野・奥長野の2地区よりなる。集落は府道永留網野線(20号線)沿いにある。 長野村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、享保2年からは幕府領。同20年より久美浜代官の管下となる。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下佐濃村の大字となる。 長野は、明治22年~現在の大字名。はじめ下佐濃村、昭和26年佐濃村、同33年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。 《長野の人口・世帯数》 83・24 《主な社寺など》 堀坂神社古墳群 大岸神社 府道脇の岡の上、小字北側に鎮座する大岸(おおぎし)神社は、堀阪神社を明治40年頃合併したという。同社の彼岸の祭礼には、坂谷・竹藤両村からも代表が参列し、坂谷・長野・竹藤三村の関係深い。 「室尾山観音寺神名帳」「熊野郡八十四前」 〈 正三位 大岸明神 〉 『京都府熊野郡誌』 〈 大岸神社 村社 下佐濃村大字長野小字北側鎮座 祭神=大山祗命。 由緒=当社の創立年代等は徴証すべき文書なければ、其の詳細を知る事困難なれど、古老の口碑によれば往古より存在せし事疑なし。而して明治四十年小字五反田に鎮座の無格社堀坂神社を当社に合併せり。氏子戸数=五十八戸。 境内神社。稲荷神社。祭神=保食之命。 三玉神社。祭神=奥津彦命、奥津姫命、火産霊命。 〉 《交通》 《産業》 長野の主な歴史記録『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』 〈 熊野郡 一 為延・吉岡・竹藤三ケ保 廿五町二段九十歩内 三町八段二百五十二歩 行持分 藤森社領 五段十九歩 禅高庵 三町二段七十四歩 氏家遠江 一町三段十八歩 楠田肥前 五町九段二百卅九歩 此内三丁九反廿四歩不作之由申候 竹藤右京進 四町六段十八歩 菊阿 三町八段 久松孫大寿郎 五段 同人 一町四段百九十歩 惣保 不知行 〉 「為延保」を奥長野とする説がある。 『丹哥府志』 〈 ◎長野村 【大岸大明神】(祭九月中亥日) 〉 堀坂神社古墳群 集落西端、旧堀阪(ほりさか)神社境内に古墳が二基あり、横穴式石室からは金環・銀環・陶質・素焼土器類が出土し、古墳後期のものとされる。 『読売新聞』(93・9・8) 〈 *堀坂神社の円墳 6世紀後半築造* 府文化財研が発表* 久美浜町長野の堀坂神社古墳を発掘調査していた府埋蔵文化財調査研究センターは七日、七十年前の府の調査で確認されている円墳一基の築造時期が古墳時代後期(六世紀後半)とわかった、と発表した。 古墳は佐濃谷川から東約一・五㌔の丘陵地にあり、府が大正十二年に調査したが、不明な点が多かった。円墳(直径約十一㍍)は石を組んだ主体部が長さ約六㍍、幅約一・一㍍。副葬品として鉄の矢じり二点や須恵器(すえき)の破片数点などが出土した。同センターは「集落の有力者が埋蔵されたのだろう」と話している。 〉 『久美浜町史・史料編』 〈 堀坂神社古墳群 遺跡番号三三 字長野小字五反田に所在する堀坂神社旧境内にある。 古墳群は佐野谷川中流域から東方へ入った狭隘な谷に面した丘陵上に立地する。 古墳群は大正八年と平成五年に調査が行われている。一号墳はほとんど墳丘盛土を残存せず、直径四〇尺(約一ニメートル)程度ではないかと推定されているのみである。内部主体は右片袖の横穴式石室である。石室の残存長は七・三メートル、玄室長五・七メートル、幅一・六メートルを測る。 二号墳は一号墳の南西約一八メートルにある。直径約一一メートルを測る円墳である。墳丘北側には周溝が残存していた。墳丘の南西部には裾から一メートルほど高い位置に列石が廻らされている。墳丘構築時の墳丘内列石と見られる。内部主体は無袖の横穴式石室である。奥壁構造はD類、側壁はやや小振りの石材で構成される。平成五年の調査時に閉塞石の一部が残存していた。石室の規模は残存長五メートル、奥壁幅一・三メートルを測る。石室内は原位置を留める副葬品がなく、鉄鏃二点と須恵器抔身が出土した。また周溝内から須恵器ハソウ・高坏が出土した。これらの出土遺物から二号墳は古墳時代後期末には存在していたことが分かる。なお長野区ではこの二古墳から出土した遺物を保管している。この中には須恵器蓋坏・短脚有蓋高坏、土師器高坏・坏、糸切り底の椀がある。須恵器の型式には二号墳出土のものを遡るTK四三型式のものを含むため、右片袖の一号墳は後期後葉の築造になるものかもしれない。このほかこの古墳群からは銅地金貼りの耳環、銅地銀貼りの耳環、大刀、鉄斧などが出土したことが大正八年の調査時に確認されており、このほかに馬具の轡と思われる環状の鉄製品が出土したということが伝承されていた。大正八年の調査報告によると長野区保管の土師器高坏には丹塗りが施されていることが指摘されている。 〉 『京丹後市の考古資料』 〈 堀坂神社古墳群(ほっさかじんじゃこふんぐん) 所在地:久美浜町長野小字五反田 立地:佐濃谷川中流域、支流長野川右岸丘陵上 時代:縄文時代、古墳時代後期、中世 調査年次:1923年(京都府史蹟勝地調査会)、1993年(府センター) 現状:全壊(2号墳、府道)、半壊(1号墳) 遺物保管:市教委ほか 文献:CO20、CO93 遺構 堀坂神社古墳群は、佐濃谷川支流の長野川が形成した谷筋に立地する2基の古墳群である。南西側の丘陵を抜けると郷地区や円頓寺地区へと抜けることができ、交通の要衝に位買している。 古くは、京都府史蹟勝地調査会の現地調査があり、梅原末治は「ホゞ相似タル円形封土二個相接近ンテ存シ、所謂双墓ノ外形ヲ呈セリ」とし、あわせて長野地区保管遺物の報告を行っている。 1993年に発掘調査が実施され、2号墳は溝と列石を巡らす径11mの円墳であることが判明した。無袖式の横穴式石室は、残存長5・2m、幅1・3mを測る。また溝埋没後の中世段階には、鍛冶炉が造られている。1号墳は、羨門部のみが調査されている。片袖式の横穴式石室であり、基底石のみが残存する。 遣物 1923年の報告によれば両古墳より須恵器、土師器、耳環、鉄刀、鉄斧が出土したと伝える。現在、地区に残された資料には、須恵器杯、高杯、土師器高杯、椀がある。1993年の発掘調査では、2号墳より須恵器杯、高杯、ハソウ、鉄鏃が出土している。出土した須恵器は、TK209型式のものである。ほかに調査地内の黒色土層より縄文土器が出土している。 意義 梅原は本古墳群を「双墓」(双円墳)と報告しているが、発掘調査の結果、6世紀後葉の円墳2基であることが判明した。このことは、学史上、双円墳という墳丘形態の根拠となった知見を否定する資料と言える。2号墳は、墳丘二に列石を巡らせていた。古墳群周辺には、単独立地する横穴式石室を埋葬施設とする古墳が点在しており、集落単位の有力首長を葬ったものと評価することが可能であろう。 〉 長野の小字一覧長野(ながの) 五反田 屋敷ノ谷 稲木場尾 吉谷 ユルノ上 寺谷 スベリ石 ユウシ谷 クゴ田 森谷 髪長 ヤギ谷 嶋崎 才ノ木 ミヨガ谷 シヨフ谷 稲葉 堂ノ谷 谷ノ下タ 反田谷 大以禰 コモ谷 六郎ケ谷 武士谷 藤畑谷 萩ノ尾 猪ノ谷 薬師堂 大石谷 梅ノ木畑 堂ケ坪 小屋ケ谷 峠尻 栃谷 地在谷 奥山谷 半田谷 西ノ向 宮ノ尾 吹峠 丈ノ山 奥山 北側 北尻 腰前 堂ノ下 長畑 ゴボ田 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『京都府熊野郡誌』 『久美浜町史』 その他たくさん |
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