丹後の地名

長岡(ながおか)
京丹後市峰山町長岡


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京都府京丹後市峰山町長岡

京都府中郡峰山町長岡

京都府中郡長善村長岡

長岡の概要




《長岡の概要》

峰山の町の南西郊外で「途中ヶ丘公園」があるあたりの広いところである。ここは途中ヶ丘遺跡で、縄文・弥生時代から中世にわたる複合遺跡、有舌尖頭器、縄文早期の土器などが出土、特に陶ケンの出土で注目さた環濠集落跡である、古墳は10数基が周辺丘陵にある。聖山・磯砂山が北へ延びきった丘陵地で古くは長尾と称したという。当地を通る宮津街道(北国街道・府道659)は菅峠が峰山への玄関道になる以前は与謝郡とその以北の奥三郡、さらに若狭・山陰をつなぐ主要路であったといい、古代の重要な地だったと思われる。
楠田氏累代の居城という長尾城址がある、楠田氏とその一族は天正10年、長岡玄蕃頭に滅ぼされたという。姫御前という地名は、天正10年細川幽斎の娘で一色義俊の妻菊の方が自害した地と伝えて菊の岡とも称される。

中世の「長岡之里」で戦国期の『丹後御檀家帳』に「一 長岡之里 洞雲庵 楠田蔵丞 御家かたさま御内」と見える。
長岡村は江戸期〜明治22年の村名で、端村にきん田・あてひ・姫御前がある。
安穏寺の伝えによれば、途中ケ丘東裾になる金田(きんだ)にはかつて途中山竹林寺という大伽藍があったという。金田千軒のいい伝えもあり、竹林寺と関係深い集落であったといわれる、本堂屋敷・弁天などの地名が残っている。

明治4年峰山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年長善村の大字となる。
長岡は、明治22年〜現在の大字名。はじめ長善村、昭和31年からは峰山町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《長岡の人口・世帯数》 1221・420


《主な社寺など》

途中ヶ丘遺跡
途中ケ丘公園の丘は鱒留川に北面する川底から一〇−一五メートルくらいの段丘で、弥生時代全期を中心に中世までの途中ケ丘遺跡の地である。また周辺には一二基の古墳もある。
途中ヶ丘遺跡

古墳10数基が周辺丘陵にある。

長尾城は西方下ン谷(しもんたに)の奥、標高約280メートルの高城(たかしろ)と称する山で、二箇の高城と同じもの。城主は楠田肥前守・同勘解由と伝え、吉原山城の三大砦(新治・平岡・長尾)として重要視されていた。
もう一つは下ノ谷と当日(あてび)の間に低い丘陵状の城山があり、長尾城別城と称すべきものであるという。

『中郡誌槁』
 〈 (丹後旧事記)長岡長尾山城 楠田掃部守 落城天正十年家族松田島田米蔵小牧吉田中村の人々討死す末派慶長の裔赤坂村にありて民家となる奥平公宮津にありて召出され楠田宇兵衛といふ今宮津万町に赤坂屋宇兵衛とて子孫のこれり長岡平岡の両城は細川興元むかはれけれ共落城せず夏陣にいたりて忠興は松井有吉一手となりて加勢す依て此時落城しけると丹後府志に見へたり
(縁城寺過去帳)道久(楠田肥前文明十八年)
(丹後国田数帳)丹波郷元依保二十七町三百二十四歩内十三町五段百六十二歩楠田勘解由
 按、以上二書の楠田氏は長岡城主と同族なるべし元依保何れか詳ならされども楠田氏の当地方の一豪族なりしこと知るべし
(村誌)古跡、長尾城主楠田掃部字名下の谷上に字三島ケ岳に城墟村の西方にあり東西二町南北一町
 按、此城趾高く郡の中央に屹立し南五箇地方よりも北河辺よりも仰望すべく要害形勝の地なり但し字城の上といふ低き岡も城趾なりと伝ふ山下の一堡なりしか 

鎮守の八幡神社は石清水八幡の分霊を祀ると伝える。また、往古途中山竹林寺の塔頭10か寺の1つであったと伝える。
八幡神社(峰山町長岡)
境内の案内板案内板
 〈 八幡神社由緒
 第九十九代後亀山天皇の御宇北朝嘉慶二年(西暦一三八八年)一色詮範公は加佐郡建部山城より峰山吉原城へ引退されたが、武運長久を祈るために、石清水八幡宮からその分霊を勧請して守護神として此処にお祀りした。
 その後、細川氏、京極氏と代々の領主は氏神として信仰され、天正十一年(西暦一五八三年)には細川兵部大輔藤孝公(細川幽斎)は丹後平定の請願成就を旨とされ、この八幡大神を「一群一社正八幡宮」と改められた。
尚、代々の京極藩主の崇敬も厚く、参勤交代で江戸へ出発するときは供を従えて自らが参拝し、特に、第四代高之公は、秋の例祭には重臣を従えて連騎して参詣されるのが習わしだったと伝えられている。
 神社境内には、今も元禄年間建立の鳥居をはじめ江戸時代の物が散見でき、はるかに長尾城址をのぞむ社殿のたたずまいにもその歴史を感ずることができる。
 現在の社は、丹後大震災(昭和二年)後の改築である。
御祭神 誉田別命 息長帯比売命 比売大神 

『峰山郷土志』
 〈 【八幡神社(長岡、祭神 誉田別命〈応神天皇〉)】宝暦三年『峯山明細記』によると、神主はなく、村の支配で、八八幡宮、山口明神、弁財天の三社があった。
八幡宮 四尺に二尺八寸、上屋 三間に二間、舞殿 二間四面、境内 長十二間幅九間程、左右に山があり、鏡は蓮光寺に、宮付きの田地山林は蓮光寺と総氏子があずかっていた。祭日は八月十五日。新治村の神主を雇って神事を行なった。
一、社 山口明神 舞殿 一間半四面、境内 長三十三間 幅九間、左右に山がある。
一、社 弁才天 小祠、境内は沢とも長十間幅三間程。(注)蓮光寺に鏡を預けたというのは、鏡ではなく鑰(やく=鍵)の誤りではないであろうか。

 明治二年『峯山旧記』によれば、祭神は石清水正八幡大菩薩で、後小松院の嘉慶二年(一三八八)、吉原城主の一色詮範が武運長久を祈るため、石清水から分霊をお迎えしたが、その後、一色、細川、京極と代々この神を信仰され、京極藩主は、参覲交代で江戸へ出発する時は、殿様自ら参拝し、江戸滞在中も、役替えがあった時はこ代参をもって武運長久を祈ったという。
 明治十七年『府・神社明細帳』は創立年月日不詳とし、『丹後旧事記』(文化七年)の例をひいて、天正年中細川藤孝(幽斎)が、請願によって、一郡一社の正八幡宮と改称したといっている。山名時氏に丹後を奪われ、山名満幸に加佐郡建部山城を追われて、吉原ノ庄、山祇山に立て籠った一色詮範が勧請した八幡様を、約二百年後の天正十年頃になって、一色を滅した細川が、一郡一社の八幡宮としてまつったことになり、八幡宮が武将のあいだに厚く信仰されたことがわかる。
 明治六年二月十日、村社となり、社殿は梁行二間三寸、桁行二間一寸、籠屋 二間に二間半、境内 併せて一、六七一坪、官有地第一種。
〔境内神社〕加藤神社、祭神 清正公、建物 二間に三間、由緒不詳。……社掌兼勤、行待政治
これは、菅、長岡等の日蓮宗徒によって熊本から勧請され、長岡の常教寺境内にまつったものを、明治六年、石の祠を安の有志に売り払い、ご神体を八幡神社に移したもので、神仏分離の余波ではなかったろうか。
 昭和二年三月七日、震災のため全壊、ご神体は一時府営の仮宮に安置した。
 昭和四年十二月二十日、八幡神社再建、本殿一〇尺一寸に七尺、浜縁二尺一寸、拝殿二間一尺一寸に五間一尺一寸、祝詞舎一間二尺に二間、境内一、六五二坪。
〔境内社〕加藤神社は八幡神社に合併、府営の仮宮を社殿として、山口神社と合杞されている。
山口(やまのくち)神社 祭神 大山祇命、この社は、もと長岡の山ノ口にあったもので、明治十七年の『府・神社明細帳』には「社殿 一間半四面、境内 三八四坪、官有地第一種」とあるが、震災後、八幡神社に合併して、境内社加藤神社に合杞された。
厳島神社(無格社、祭神 厳島比売命)
『峯山明細記』に「小祠 弁才天、境内 沢共 長十間程、幅三間程」とある。
『峯山旧記』には、「なまずがま(鯰釜)」の項に「山が迫って谷の形が釜のようになっており、この池沼の中に島があって弁才天をまつっており……」とある。
 明治十七年『府・神社明細帳』によると、「無格社……社殿 四尺五寸に三尺五寸、境内一二一坪、官有地第一種」とあり、受持は山口神社と同じく藤神社祠掌行待政治の兼勤であった。
 この『明組記』と『明細帳』の記事は、長岡字金田の弁財天のことであり、旧記はなまずがまにまつられた弁才天をさしているが、鯰釜の位置は『丹哥府志』に「八幡の後」とあるから、金田とは別の場所であることがわかる。厳島神社と改称したのは明治初年、神仏分離後であろう。
 この金田の弁財天は、震災後の昭和五年十月十日、八幡神社に合併され、現在の八幡神社石段下の馬立場に移された。しかし、鯰釜の弁才天については『峯山旧記』以外に、記録もいい伝えもないから、『旧記』の編者が金田の弁財天と誤ったのではなかろうか。
 現在、八幡神社の例祭は十月九日、十日で、神事として、大鳥居広場の仮屋へ神輿の渡御があり、太刀振りを行なう。神子による湯立神事があったが、昭和二年頃から行なわない。
〔歴代神職(明確なもの)〕兼勤・行待政治(明治十七年頃)、上田幸吉(中沢)、山田重雄(大正=一三・九〜現在)、祢宜・山田稔穂(現在)。 

『丹哥府志』
 〈 なまづがま(八幡の後)
五六月の頃驟雨の日田の間に所々穴あきてなまづ出る俗になまづがまといふ地の下は池沼の類ならんといふ 

『峰山旧記』
 〈 鯰釜
 同村の西山迫りて谷釜の形を為す、五六月の驟雨の日田の間に所々穴あきて鯰出る、俗に之をなきづかまといふ、地の下は池沼の類ならんといふ。此池沼の中に島あり、弁財天を祭る、霊験あらになりとて人多く参詣す。 

竹林寺廃寺
『中郡誌槁』
 〈 (実地調査)村の西に本堂屋敷弁天蛇池等の字あり昔日竹林寺といふ寺ありたりと言伝ふあ本堂の跡ともいふべき地芝地にて残れり池の跡も纔に残れり東に総門屋敷谷等の字もあり其他に字八幡あり何れにしても由緒ありけなり 

臨済宗天竜寺派瑞雲山安穏寺
境内入ったところに、長岡村復興に尽力した板垣信保の石碑がある。
安穏寺(峰山町長岡)

『峰山郷土志』
 〈 【瑞雲山安穏寺(臨済宗、長岡、本尊 薬師如来、釈迦如来)】『寺伝』によると、昔、長岡字金田に「途中山竹林寺」という塔頭十ヵ寺あまりも持った大伽藍の寺があった。その塔頭のうちに、丹経寺、薬師寺、安穏寺などがあり、安穏寺は、もと小字下の谷の寺ヤシキにあったが、竹林寺が荒廃したのち、薬師寺跡に移転した。薬師寺はもと、五ヶ谷の流れと、常吉谷の流れの合流点である薬師の出合にあそ、今の土地の南方一町余の処にあり、夜半、地上に光明がかがやくのをみて、五、六尺掘ったところ、地中から金色の薬師如来像を発見したので、その場に堂を建ててまつったことにはじまるという。
 安穏寺は後、曹洞宗(もと真言宗)になり、寛永五年(一六二八)来翁禅光上座が再建して臨済宗をひろめたが、寛永九年来翁和尚の没後、延宝五年(一六七七)まで約四十五年間、住職は不詳である。寛永十九年(一六四二)峰山領主高通、法名雪峰道山大居士の志願により、天竜寺派となった。延宝五年に全性寺派に属し、三河内の梅林寺の隠居寺として、乾嶺座元が住み、正徳二年(一七一二)山号の長嶽山を瑞雲山と改めた。額は、天竜寺の月心和尚の筆である。享保三年(一七一八)三月十一日、東洲和尚が再建して、中興となり、その後、明治十二年に、ある事情から全性寺末を離れて、天竜寺の直末となった。昭和二年三月七日、震災のために建物は全壊したが、翌三年、忍瑞和尚によって再建されたという。
 しかし、寛永十九年、初代高通の願いで天竜寺派(臨済宗)となり、三十五年後の延宝五年に全性寺末に属したというのはどうであろうか。
『中郡一斑峰山案内』は、「元真言宗にして、瑞雲山と号し、慶長二年八月(一五九七)、開山乾嶺和尚再興。曹洞宗に転じ、長岳山と改む。後、延宝五年七月、峰山領主京極高道侯の命により、更に臨済宗に転派す。境内三百四十余坪」とあって、山号が逆になっているし、また、延宝五年は初代高道(通)(寛文十二年卒)はすでに没し、二代高供を経て、三代高明の代である。
『峯山旧記』には、「明正院寛永九年、来翁和尚創立……境内観音堂」とある。
 宝暦三年(『峯山明細記』)
境内 長三十間幅九間程、寺八間に四間、観音堂 二間四面、撞鐘御座なく…。
『村誌』東西二十二間南北十五間、面積三百四十二坪……。
 昭和二年三月七日、震災に皆滅し、その後、次のように再興した。
本堂兼庫裏縦二十三・二尺横三十五・八五尺、二四・九二坪。物置七坪。

板垣信保碑  安穏寺の境内に「天下泰平、御武運長久」と刻んだ台石ともに高さ約三・三メートルの碑がある。碑文によると、天保二年(一八三一)、長岡村が非常に衰微しているのを心配した藩主十代高景は、峯山の里正の長である板垣彦治郎信保に命じて、長岡村復興の策を立てさせた。彦治郎は徹夜熟考したすえ、荒れた田や、山中の路を改修し、石を切り出して溝や川に橋をかけ、郷倉を拡張して、充分穀物を貯えて凶年にそなえた。ことに、その費用は、すべて自費をもって支弁した。こうして五年後、弘化三年(一八四六)、彦治郎は、ついに病にたおれ、十一月二十三日、四十歳で没した。村の人々は、彼の志に感じ、永久に子孫が農業を怠らないよう、この碑文を建てた。時に嘉永五年(一八五二)である。
 この碑は、はじめ村の中程にあったが、ある事情から倒されたというが、終戦後、さらに「武運長久」の文字を遠慮したものか、安穏寺境内に運んで、今の場所に建てなおした。今も、村内の溝に架けられた橋の、車輪の通る箇所に石が使用してある。これは、板垣信保の残した教訓によるものであると、『中郡誌稿』はいっている。
 現在、安穏寺は無住で、善王寺の三要寺が管理している。
… 

浄土真宗本願寺派解脱山照輪寺
照輪寺(峰山町長岡)

『峰山郷土志』
 〈 【解脱山照輪寺(浄土真宗、長岡、本尊 阿弥陀如来、木彫立像)】貞享二年(一一八五)僧祖元開基、昭和二年三月七日、
震災に全壊した。
〔震災前〕本堂 七間四面、庫裏 四間に六間、山門 一間四面、境内地坪数 一一九坪、(村誌)東西十二間、南北十間、一一九坪
〔現在〕本堂 五間四面、昭和四年三月三日再建。庫裏 三間に五間、同日再建。境内地坪数 一四六坪
寺宝、その他 親鸞聖人、聖徳太子、蓮如上人画像。
… 

宝池山蓮光寺
蓮光寺(峰山町長岡)

『峰山郷土志』
 〈 【宝池山蓮光寺(浄土真宗、長岡、本尊 阿弥陀如来)】明治二年『峯山旧記』によると、蓮光寺は、鎮守八幡大菩薩の別当として、後西院の寛文五年(一六六五)五月、釈浄西によって開基創立されている。鎮守八幡は、今の八幡神社で、一色、細川、京極の各領主を通じて崇敬されていた。
宝暦三年(『峯山明細記』)
宮津の仏性寺の下寺で、堂 四間に五間、庫裏 六間二尺に六間、撞鐘御座なく、境内 長十二間幅十一間、但し境内は、高五斗四升八合に当たるが、御免地……。そのうえ、藩主から随向院の両親にあたる清松院、自性院の位牌を預けられ、永代の茶湯料として米十五俵を長岡村に預け、その三ッ成り(百分の三十)に相当する利米四俵二斗を毎年寺へ納めさせた。
『村誌』
東西十三間南北十五間、面積 一九一坪、真宗京都本願寺末
昭和二年三月七日、震災被害は全焼で、資料はほとんど現存しないという。
〔現在〕本堂 縦三間横五間、昭和三年新築。庫裏 四間半に三間、昭和二年八月新築。物置 二間に一間、同新築。境内地 一九一坪、山林一町六反余
… 

日蓮宗本圀寺末妙種山常教寺
常教寺(峰山町長岡)

『峰山郷土志』
 〈 【妙種山常教寺(日蓮宗、長岡、本尊 釈迦多宝)】
『峯山旧記』によると、開基は中御門院の享保元年(一七一六)で、古慶院日善上人であるという。
宝暦三年(『峯山明細記』)
……京都本圀寺末……境内 長十二間幅九間程、寺 六間に三間、番神堂 一間半四面、撞鐘御座なく…。
『寺報』
本尊、法華経宝塔、釈迦牟尼仏多宝如来、日蓮聖人、鬼子母神、熊高稲荷明神、各一体。開山は峯山の妙経寺四世実教院日恵聖人で、寛文元年(一六六一)四月に今の地字寺ヶ谷に庵室を結び閑居し……、享保年間に二世古慶院日善上人が、庵を改めて「妙種山常教寺」と称し、寛政年間、五世寿量院日進上人のときに京都大本山本圀寺の直末となった。
昭和二年三月七日、震災のため全焼、倒壊。
〔震災前〕(安政年間一八五五〜六〇)日良代に再建されたものか。
本堂兼庫裏 三間半に七間、二階建一棟 全焼。土蔵、木小屋二棟 全焼。三十番神堂 二間に一間半、倒壊(七面様を合祀していたものか、百五、六十年前作の仏像がある)。清正公堂(震災後、八幡神社境内へ移す)。
境外社 熊高稲荷大明神、倒壊。
〔境内地坪数〕一四八坪、山林 一七反九七二歩、田畑 三一反二四〇歩。
〔現在〕本堂兼庫裏 新築・四間に六間、昭和三年夏。増築・二間に二間半、昭和六年九月。境内地坪数 五反一四二歩、山林 一二反七八一歩。
清正公堂跡 境内から八幡神社へ移した清正公は、はじめ、長岡の山中にまつったとも伝えられる。常教寺の裏山に、堂地の跡が残っているが、ここに小祠を建ててまつり、後、常教寺の境内に移したものではなかろうか。
熊高稲荷大明神 通称を城山稲荷明神といい、少し離れた城山の頂にある(照輪寺裏山)。伏見稲荷の分神を勧請したもので、御神体は、白狐にまたがった祭神(木彫)で、養蚕の守護神として知られ、社祠は震災に倒壊し、御神体は寺内に安置されているが、近く再建の計画が進められている。
城山の稲荷社の側に堀があって、京極家の金の釜などが埋められているといい伝えられている(寺僧談)。あるいは、天正年間、長尾城の一廓としての激戦地であるから、用水池として掘られたものではあるまいか。
常教寺境内に二本の百日紅と、三本の椎の木がある。いずれもまれにみる大木である。… 


《交通》


《産業》


長岡の主な歴史記録

「丹後国御檀家帳」
 〈 一長岡の里     洞 雲 庵
 楠田蔵丞殿    御屋かたさま御内 

『丹哥府志』
 〈 長岡村(二箇村の次、宮津街道、古名長尾)
【八幡宮】(祭八月十五日)
【瑞雲山安隠寺】(禅宗)
【宝池山蓮光寺】(一向宗)
【妙種山常教寺】(経宗)
【なまづかま】(八幡の後)
五六月の頃驟雨の日田の間に所々穴あきてまなづ出る、俗に是をなまづかまといふ、地の下は池沼の類ならんといふ。
【白石の渓】
渓の間皆白石あり、何色の石なるとも一年斗り其處におけば其處に化して白色となる、天地の化はかるべからず。
【菊ケ岡】菊ケ岡は一色義俊の妻菊の方の墓なり、菊の方は細川藤孝の女なり、事は媛御前村の条下に出す。
【楠田掃部頭城墟】天正十年春二月楠田掃部頭其族松田、嶋田、米蔵、小牧、吉田の五氏皆長岡玄蕃頭の為に討死す。
○姫御前村(菅村の南、峰山街道、長岡村の枝郷)
増補府志云。一色義俊の妻は細川藤孝の女なり、天正十年弓木落城の後遁れて府中村に匿れ義俊の菩提を念頃に弔ひける、今は浮世に永らへて果なく思ひければ自害せんと覚悟を定め一度兄玄蕃殿へ遭申さんとて峰山へ趣ける、途中大野の里にて
世のうきは大野の里の忍ぶ草  しのぶにぬるる袖そかなしき
既にして峰山へ行けば峰山の留守居志水伯耆守田辺の聞へ如何やとまづ返しければ、元来し道へ立かへり楠田掃部落城の跡杯見まゐらせて遂に自害しぬ、今此處姫御前といふ。
評に藤孝女を以て義俊に妻あはすは好みを結ぶにあらず実はこれを討たんとはかるなり、唯貞女を適地に入るるのみならず既にこれを伐て後其安否を顧みず、抑藤孝は如何なる心ぞ。又曰。義俊藤孝の的なりといへども其妻は藤孝の女なり、弓木落城の後兄玄蕃頭を慕ふて峰山に来る、志水伯耆是を拒みていれず、其是を拒みいれざるは蓋藤孝を思ふなり、たとひこれをいれて厳科を受るとも伯耆の恥といふべけんや、己が為に謀りて君の女を殺す忠といふべけんや、生を疎んじ死を怨むは常人の事なりといへども、興元これを菊の岡に葬り忠興これが為に供養を設く其心察するに足る。
【愛染明王】
 【付録】(白石明神) 


『峰山郷土志』
 〈 長岡は『和名抄』の新治郷に属し……というが、「日本地理志料』は、長岡村の字金田(きんだ)を新治郷に入れ、その他は周枳郷としているし、『大日本地名辞書』は、口枳郷に加えていて、確定しないが、地勢から考えると、新治郷は無理ではなかろうか。『丹哥府志』によると「長岡は、二箇村の次で、宮津道、…古名、長尾」といっており、丹波郡五庄の中の五箇の庄に入れている。宮津道とは、例の北国街道で、寛永初年、峯山の表玄関を菅峠に移すまでは、与謝郡と奥三郡を結び、さらに若狭と山陰をつなぐ主要道路であった。
長尾村が長岡村と変わったのは、天正三年(一五七五)頃ともいう。しかし、天正年間であれば、やはり細川藤孝(幽斎)、忠興、興元父子が丹後の一色をほろぼした天正十年(一五八二)頃であろうか。
藤孝は、かつて戦功によって、織田信長から、山城国長岡郷を与えられ、姓を長岡と改めているから、長尾村の八幡宮を一郡一社の正八幡宮としたと同時に、長尾村も長岡村と改めたと思われるが、しかし、天正から三十五年前にあたる天文七年の『丹後国御檀家帳』に、「長岡の里、洞雲庵、楠田大蔵丞殿御やかたさま御内」とあるから、天正説はあてはまらないし、なお研究の余地がある。
長岡は、元和八年以来峯山領で、管轄の上の変化は少ない。宝暦『峯山明細記』には、長岡村の端村として「きん田(だ)、姫御前、あてひ」の三ヵ村があげられている。
明治十四年、長岡、善王寺、口大野、谷内の四ヵ村で、連合戸長役場を口大野村に置いたが、明治二十二年、町村制施行のさい、善王寺村と二ヵ村合併し、両村の頭文字をとって長善村を組織した。 


長岡の小字一覧


長岡 荒木ノ久保 当日 荒木野 薪溝 石橋 井根岡 地ノ谷 井溝 井袋 井原 井結 一町田 五ツ町 石之木 苧積土井 苧付場 家成 蛭子 大川原 大窪 輿芝原 奥芝原口 大家ケ鼻 大家ケ谷 奥地 尾崎 大家段 大谷 上ン谷 風ケ谷 上八幡 加太夫 樫木鼻 上長通 樫木下 上中坪 梶原 鴨池 柿別当 蔭田 上天谷 鼓ケ谷 菊ノ岡 狐田 金田 北横内 金田稲木場 金田下 金田之上 教塚 雲行合 九反田 黒?(山+元) 黒金 久保田 小山ケ鼻 五反田 荒神鼻 荒神下 小林 河辺田 椛屋 小七郎 幸田 小代町 此次 肥首 小敷谷 中入屋敷 笹ケ谷 坂口 里 三反長 城下 下ン谷 下ン谷口 小茄子谷 正保 下八幡 白石 下河原 地蔵前 地蔵 下通 地蔵横 下地 下ノ谷 下地鼻 敷谷口 尻替出 四十田 下中坪 下横内 下家成 地蔵通 上々吉 芝原土井 島身操 尻出 尺八 蛇池 蛇池ノ下 敷谷 下地畑ノ上 下地ノ上 下地ノ奥 下地ノ上城 下地ノ上城北 下地ノ上城南 敷谷滝尻 敷谷東谷 敷谷東小谷 敷谷棚田ノ上 敷谷白?(金+并) シモン谷 清水ケ昇 雀ハゲ 雀?(山+穴) 清五郎下 大茄子谷 高阪 段ノ尾 高坂口 立臼 丹波井根 大神場 谷口 丹教寺 経塚 タモノ木 高坂口西側 高坂西側 高坂東側 立臼上り立 近代 近城 地蔵谷 坪ノ内 辻三角 辻 鼓谷 築土井 出ノ鼻 寺ノ下 天王山 寺ケ谷 天王山ノ裾 途中岡 鳥井下 堂替 堂家 遠山 通り谷 当名 茄子谷 中村 中島 長通 中横内 中溝 中道 長阪 茄子ビ谷 錦 西堂替 西尾崎 錦谷 盗人神 惣門谷 早田 ハサコ 墓ノ前 墓ノ横 墓ノ下 八ケ坪 花聟 八リノ木 杯ケ谷 林ケ谷口 ?(山+兀)ノ上 浜地 ヒロク谷 姫御前 彼岸出 東堂替 東尾崎 檜木山 兵左衛門屋敷 広ケ谷 二瀬 古川 船山 弁財天 弁天上 米川 弁天 本堂屋敷 棒之輿 程島 細長 猪(ホソ)ノ木 堀ノ内 松原 松ノ越 間谷ノ中 間谷奥 間谷口 間谷 間谷口切 宮ノ下 南横内 溝先 宮前 宮ヶ谷 身操 元馴 元馴口 元馴小谷 屋敷ケ谷 山ノ口 薮ノ内 山本 山ケ鼻 山ノ口柿別当 米田 与戸 横畑 両方谷 六反田 永田 中通 下畠 潰場 姫御前鼻 地蔵小谷 

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京都府福知山市
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京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市

 若狭・越前
市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん



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