奈具遺跡(なぐいせき)
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京都府京丹後市弥栄町溝谷・船木 |
奈具遺跡の概要「奈具」という所は、 『丹後国風土記』の、 …竹野の郡船木の里の奈具の村に至り、即ち村人等に謂ひけらく、「此處にして、我が心なぐしく成りぬ。(古事に平善きをば奈具志と云ふ。)」といひて、乃ち此の村に留まり居りき。斯は、謂はゆる竹野の郡の奈具の社に坐す豊宇賀能賣命なり。 とある奈具村の地と思われる。さすがにこうした伝説の村はただものではない、尋常ではありませんようで、伝説は本当のことと思わせるびっくり遺跡がある。 豊受大神の故地の故地、であり、とんでもない遺跡があるるにもかかわらず、何もない、せめて余呉湖に見習ってはどうだろうか。 船木川が竹野川に合流する位置で、船木谷の出口になる。今は奈具村はなく、峰山高校弥栄分校やいくつかの事業所の建物があるくらいで民家はないようである。丘陵上は松などが茂る自然林、その一部は畑地となっている。 ナグはインドのナ~ガ神ではなかろうか、もっとも古い時代の海人たちが祀ったものであろうか、ここの鳥居は両部鳥居であるが、それがウカとなり穀神・地母神となり、空飛ぶヘビとなり、羽衣と習合していったのかも知れない。 このあたりはまだまだ究明すべき課題は多く残されていそうである。 その奈具村は、嘉吉3年(1443)9月の奥丹後豪雨で、一村みな流失し亡村となった。生き残った住民は隣村の溝谷村と外村へ避難移住したと伝えている。その奈具村の故地、その一番上流ではなかろうか、今は奈具神社が再建されて豊宇賀能売命が祀られている。伊勢外宮の故地でもあるにかかわらず、別に神明様式でもない。 丹後王国とはたいへんゆかり深く丹後王国の初期の遺跡かと思われる。ここには奈具遺跡、奈具岡遺跡、奈具谷遺跡などのほか幾つかの古墳群がある。 こうした丘陵地で↓、この写真なら両側が奈具岡遺跡である。現地説明会があった日、私も来たのだが、それがどこだったのか広くてさっぱりとわからない。平成7年10月のそのときの資料はパソコンに残っているので、それを引っ張り出しながら書いてみる。 今はこうした案内板くらいしか残っていない、行ってみても何もない。 より大きな地図で 奈具岡遺跡 を表示 国営農場になっていてビニールハウスが並ぶ端っこに 京丹後市教委の案内板があった。↑↓→ 奈具・奈具岡遺跡群 奈具岡遺跡 奈具岡遺跡は100基以上の住居・建物跡が検出され、竹野川中流域の弥生時代拠点集落の一つとして評価されている。奈具岡遺跡と総称される範囲は広く、遺構の時期・性格が異なるものも含まれ、大きく二つに大別できる。一つは平野部から少し谷を入るところで丘陵の鞍部を囲むように斜面や丘陵底部に立地する弥生時代中期の玉作り関連遺構などが存在する部分(奈具岡遺跡東部)、もう一つは竹野川に面した丘陵上に住居跡が散発的に立地する西部である。この弥生集落を特徴付けたのは、玉と鉄器の生産工房が検出され、生産遺構・工具・製作工程が明らかになった東部である。奈具岡遺跡最盛期に該当すると見られる住居・建物跡は重複しつつ95基確認され、竪穴住居跡は20基程、残りは斜面をL字形にカットして平坦面をつくる簡便なテラス状建物跡と呼ぶものである。石製の玉は緑色凝灰岩と水晶の2種の玉が製作され、鉄器生産を行っていたと見られる鍛冶炉なども検出されている。多数の未製品を含む膨大な遺物が出土しており、実際にはそれに数倍する完成品が出荷されていたと考えられるが、まとまった製品の出土地は判明していない。 (その他の主な遺跡) 奈具遺跡は、峰山高校弥栄分校の敷地内が中心的な部分にあたる。調査は、1919年に梅原末治氏が土器を採集したことに始まり、1971年に平面調査が行われ、代表的な弥生集落の一つということが判明した。竪穴式住居1基が現在も校舎下に保存されている。奈具岡遺跡最盛期の住居域はこの奈具遺跡を中心とした範囲と推察される。 奈具谷遺跡は奈具岡遺跡最盛期と同時期の低湿地遺跡で 水田・水路跡やトチノミの灰汁抜き場などが多数の木器とともに検出され、集落における生業を示す痕跡として多くの貴重な資料を提供した遺跡である。 奈具墳墓群は奈具岡遺跡最盛期と同時期の墳墓群である。丘陵上に20mXlOm程の連続する方形墳丘墓群で、埋葬に関して階層性は見られないことから、玉の製作などに従事した人々の墓域ではないかと想定される。 奈具岡遺跡西部に立地する奈具谷古墳群中、奈具谷4号墓と5号基は方形貼石基で、山陰地方との関連が指摘される墓である。最盛期よりやや後出する弥生時代中期末~後期の築造と思われるがこれらは奈具墳墓群とは異なり、特定の個人が埋葬された墳墓と思われる。 奈具岡北1号墳 自然地形を最大限利用し、後円部・前方部ともに整形痕が希薄な全長約60mの前方後円墳。後円部墳頂に2基の墓坑を築く。注目されたのは墓坑脇にまとめて供献れた須恵器(陶質土器)12点で、最も多い高杯の形態は変化に富む。日本で最も古いタイプの一群であり、日本製初期須恵器なのか朝鮮半島製陶質土器なのか、両者が混在するのか確定していないが、これだけの初期須恵器あるいは陶質土器が一括供献されている例は全国的にみても稀である。この他日本では類例の無い装身具・銅釦(銅製ボタン)も2点出土した。築造時期は5世紀前半、倭の五王の時代、被葬者は内外を問わず政治的動乱に関わっていた可能性が指摘される。これらの出土遺物は、平成13年(2001)に京都府指定文化財となっている。 京丹後市教育委員会 簡単には以上のようなことで、奈具岡は、弥生中期中頃から後半のかけての時代、卑弥呼直前時代に、水晶玉を一貫生産した大コンビナートである。 驚くのは、この遺跡から鉄器が多量に、10㎏と当時の日本一の量が出土したことである。 現地説明会資料は、 多量に出土した鉄片・鉄製品については、水晶製玉生産に使用した工具だけでなく、鍛冶炉は見つかっていませんが、鉄器の製作を行っていたと考えられます。奈具岡遣跡と同様、鉄片・鉄器が多量に出土した遺跡としては、福岡県安武深田遺跡(中期末)・仁王手遺跡(中期末)、徳島県矢野遺跡(中期末)などが挙げられます。弥生時代中期段階での鉄片や鉄器出土は、北部九州・瀬戸内が中心で、量的には後期の熊本県二子塚遣跡が最大ですが、奈具岡遺跡の鉄片・鉄製品はこれをはるかに上回ります。 弥生時代の鉄器の普及及び生産については、その量が圧倒的に多かったことから、これまでは九州北部が優位を占め、他の地域は数時期遅れるとされていました。丹後半島では、これまでも弥生時代中期後半~後期の峰山町途中ケ丘遺跡、弥生時代前期末の扇谷遺跡から鋳造鉄斧が出土して注目されていました。今回の鉄片・鉄製品の出土によって、当時の日本列島での鉄器の製作と使用を問題にする場合、丹後半島はきわめて重要な地域になると考えられます。 としている。 みな同じ場所にある、全体図を確認しておくと、 (図は、『丹後の弥生王墓と巨大古墳』より) もともとここは奈具遺跡(弥栄町黒部奈具)が知られていた。 黒部と溝谷の境がややこしいが、ここは黒部の南端となるらしく、間人街道(国道482号)と船木へ入る道路が交差する東側、南側の丘陵先端台地上に位置する。府立峰山高校弥栄分校の地もそうだし、そのあたりから北側の丘陵上もそうだし、低い平坦地もそうで、明治44年耕地整理の時に、弥生式土器多数が発見されたのにはじまる。昭和37年に、分校の校地整備に再び弥生中期の土器多数と石器類が発見された。 昭和46年の発掘調査で、総数3000点の弥生式土器・土師器・須恵器類が出土し、また弥生中期の円形竪穴住居跡も発見され、弥生中期に人々が住みつき、その後6~7世紀頃まで断続的に集落が営まれたと推定された。環濠は見つかっていないが、あるいは環濠集落であったかもわからない。 なお、島根県隠岐郡都万村にも那久(なぐ)や那久岬というところがあり、丹後と隠岐は何か繋がりがあるのかも知れないとここでもまた思わせられる、その隠岐の先には朝鮮があったのかも知れない。 『舞鶴市史』は、 〈 奈具遺跡は、竹野川河口から約八キロメートル上流の標高二五メートル前後の丘陵先端部に位置する。この付近は、古く明治四十四年ころ多数の土器が発見されて以来注目されて来た。昭和三十七年、府立峰山高校弥栄分校の校舎建築に伴なって継続調査が行なわれた。台地は長年の開墾や畑作によって原形を留めていなかったが、包含層は傾斜面や窪地に多く所在することが確認され、弥生中期の円形竪穴住居跡(径約九メートル)と古墳後期の方形隅丸竪穴住居跡(一辺約五メートル)が検出された。出土遺物は大量で、中期・後期の弥生土器が最も多く、土師器、須恵器、石器類等であった。住居跡の発見は、当時丹後地方では珍しく、しかも構造的に地方色がうかがえた。 また、傾斜面で比較的層序の明瞭な包含層を発見したので、丹後地方中期の土器編年について指標を得ることができた。本遺跡は弥生中・後期集落立地の典型的な遣跡である。 〉 奈具岡遺跡奈具岡遺跡 とんでもない遺跡が奈具遺跡背後の丘陵地が国営農地になるに先だって行われた発掘調査で発見された。日本一はもちろんとして東アジアNo.1の水晶玉工房が出現した。 メディアから当時の興奮が伝わってくる。 『京都新聞(平7、10、27)』 〈 古代丹後はハイテク先端地域*一貫生産示す大量の水晶玉と工房跡出土* 竹野郡弥栄町溝谷の奈具岡北一号墳(五世紀)で、須恵器の原型とされる韓式陶質土器が見つかったとした府埋蔵文化財調査研究センターは二十六日、その古墳群をさらに数百年さかのぼる奈具岡遺跡(弥生時代中期=一世紀ごろ)から、水晶玉の一貫生産を示す大量の加工品や工房跡などとともに、朝鮮半島から伝来したとみられる鉄製の工具類多数が出土した、と発表した。当時、高い技術が必要だった水晶玉加工という丹後半島のハイテク生産力と大陸・朝鮮半島とのかかわりが注目される。 奈具岡遺跡からは、丘陵斜面から平たん部を利用して作られた竪穴式住居跡が三十六基見つかり、そのうち水晶玉工房跡は平たん部を中心に二十四基を占め、そこからこぶし大の水晶原石やほぼ完成品に近い関連遺物が大量に出土した。平成四年の調査ですでに明らかにされた日本最古の水晶玉工房跡としての同遺跡は、同時に国内最大規模の水晶玉づくりコンビナートであることが分かった。生産された水晶玉は、大・中・小の小玉(直径約六㍉)を中心にそろばん玉、なつめ玉、管玉で、約四百五十点が見つかった。前回調査時には、遺物も少なく生産工程に不明な部分もあったが、今回各段階の製品がそろったことから破砕、表面加工、研磨など十工程を経て完成品を作った、と推定できるという。一方、原石を割るために使った、たがねや水晶に穴をあけるためのきり・針などの鉄製工具類、玉を磨く砥石などのも多く見つかった。鉄製工具は、中国もしくは朝鮮半島から輸入されたものとみられ、ほかに鉄斧、鉄鏃や加工直前段階の板状、棒状になった鉄素材など約二千六百点が見つかった。鍜冶炉などは見つかっていないが、だかねなど一部の鉄製品は初歩的な加工が施されていたとみられる。同センターは「鉄生産は、弥生時代後期から始まるとされているが、すでに国内では最古のこの時期に鉄加工の技術を持っていた集団が丹後半島に存在していたことになる」と注目している。鉄の伝来ルートとしては従来、九州北部からと考えられていたが、「丹後半島も大陸・朝鮮半島との人的・物的な重要交易拠点の一つだったのでは」と指摘する。地元でも「日本最古の製鉄遺跡・遠所(えんじょ)遺跡=弥栄町木橋などとも関連して、古代丹後が国内で最先端をいく地域だったことを示す大きな発掘」と感心は高い。玉つくり遺跡に詳しい寺村光晴和洋女子大教授は「工房の耐用年数などから二十四基が、同時に存在したかどうか疑問だが、同時なら間違いなく最古・最大の素晴らしい発見。工人が渡来していたのかどうかも解明されれば興味深い」と話している。 〉 原料の水晶原石などをどこから入手したのか不明であり、ここで製作された多量の完成品はどこへいったのかも不明である。 完成品は一部の地元上層人の間でも使われたようだが、国内の遺跡からはこうしたクリスタル系はまず出土しない。人々のアクセサリー用ではなく、『倭人伝』に、壹与が魏に献上した貢ぎ物として「白珠五千」が挙げられている。これが水晶小玉ではなかろうか。ともいわれるように、おそらくそうした対外交易の交換物として製作されていたではなかったかと思われるという。 『前方後円墳とちりめん街道』 〈 そうすると奈具岡で製作された膨大な水晶製品は、いったいどこへ運ばれたのであろうか。有力な候補地は朝鮮半島である。前漢が設置した楽浪郡に営まれた数多くの方形墳墓や、良洞里遺跡のような南部朝鮮の墓からは、水晶製玉類がひんぱんに出土している。これまでの知見では、前一世紀ごろの墓への副葬は少ないようだが、彼地では水晶製品は生産されていないから、楽浪漢墓や弁韓墓の副葬用に奈具岡水晶製品が「輸出」された確率は高い。もちろんその交易品は鉄素材であったであろう。 〉 『丹後王国の世界』(丹後古代の里資料館展示ガイド) 〈 奈具岡遺跡の水晶玉つくり工房 …なお、丹後の遺跡からは水晶玉の完成品がほとんど出土しないことや朝鮮半島南部では多量の水晶製品が出土することから、奈具岡遺跡の水晶玉は、鉄の素材を入手するための交換財として消費された可能性もあります。 〉 水晶玉の行き先は、漢の楽浪郡(いまのピョンヤンあたりにあった漢の植民地)や弁韓(のちの伽耶諸国)であったろうといわれる。 それは奈具遺跡周辺の古墳副葬品からも、時代がちがうがある程度は裏付けられる。 玉は石器文化だろうが、当遺跡での玉生産技術は、縄文時代から日本に伝来していた玉生産技術ではなく、渡来の技術でなかろうか。縄文中ころから翡翠に穴をあけた「玉」製品は知られているが、それらとは素材や形状が違い、縄文後継ではない、ほかの系統の玉が生産されていたように見える。東アジア玉生産コンビナート、今でいえば多国籍の玉生産・流通のコンビナートがあり、その丹後生産工場のように思われる。見返りは鉄素材であったのであろうか。 奈具岡北1号墳奈具岡北1号墳 奈具岡遺跡の案内板のある畑の西側の山頂にあった60mばかりの前方後円墳古墳である。 陶質土器や銅釦が出土した。奈具岡遺跡よりは200年ばかり後のもので、須恵器技術や本格的な製鉄技術が入ってくる、その時の古墳である。 「陶質土器」というのは日本で言う須恵器で、特に朝鮮で焼かれたものをこう呼んで区別しているようである。1号墳出土のものはそのスガタから慶尚南道製といわれいるが、そこはまさに弁韓、伽耶諸国で、そのどこかで焼かれたものである。 「須恵器」は丹後では朝鮮土器と呼んでいたし、朝鮮式土器と学会でも呼ばれていた、鉄はソだが、時にはスエとも聞こえたようで、スエ器というのは朝鮮語で鉄器の意味らしい、鉄のように硬い鉄のような色をした土器という意味のようであるが、窯の中で千度以上の高温で焼かれた水が漏れない黒や灰色をした土器で、釉薬はまだついていない。元々は中国だが、日本へは朝鮮から渡来した技術で、陶質土器が祖型に当たる。 三輪山伝説の茅淳県陶邑の大田田根子とか、大阪府堺市などには大きな陶邑古窯跡群が残されているが、丹後もこちらから須恵器技術は伝わったのではないかと考えられていたのだが、チョクに来た可能性が高くなったわけである。須恵器窯趾はあちこちで発掘されているし、ずっと時代は下るが、 『丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』に、 新治郷 一 末次保 三町四段五十歩内 一町七段廿五歩 普甲寺 一町七段廿五歩 成相寺 丹波郷 一 末成保 十一町三段百十二歩 八幡領 と、須恵器が作られ、須恵器が成ったらしい保が知られるが、これらもあるいはその後継窯かも知れない。 『京都新聞(平7、10、27など)』 〈 丹後-朝鮮半島物語る絆*弥栄町の奈具岡一号墳*陶質土器伝来に新ルート*「環日本海」埋める史料* 千五百年前の時を超えてよみがえった土器が、再び古代の「丹後」に光をあてた。京都府弥栄町の奈具岡北一号墳から二十六日、出土したと発表された朝鮮半島産の陶質土器は、須恵器生産技術の伝来ルートに丹後半島を加えるのか。丹後と朝鮮半島を結ぶ新たな絆(きずな)の発見に、研究者らは強い感心を示した。今回見つかった伽耶系陶質土器は五世紀前半、日本に伝わって、その技法が須恵器を生み出し、現在の国内陶器の源流となった。陶質土器の伝来ルートは、これまでの出土例が九州などの集落跡を中心にしていたことから、朝鮮半島南部ー九州北部ー瀬戸内海沿岸ー大和が定説とされていた。同志社大の森浩一文学部教授(考古学)は「それなら九州の古墳で朝鮮半島産土器の日用品がもっと見つかるはず」と指摘。「日本海側という立地からみて、朝鮮半島から直接、丹後に土器が渡って来たと考える方が自然」と、今回の発見を当然と受け止めている。丹後半島では昨春、「卑弥呼の鏡か」と論争を巻き起こした青龍三年鏡(三世紀)が弥栄町で出土するなど、以前から中国大陸、朝鮮半島とのかかわりの深さが注目されていた。大阪女子大の上田正昭学長(古代日本・東アジア史)は「今回の土器がつくられた伽耶地方のある朝鮮半島南部と丹後との交渉が、初めて考古学上から裏付けられた」と話す。朝鮮半島北部の高句麗、渤海(中国東北部の東半分を中心とする国家)の使節団が六ー九世紀の間、盛んに日本海側に渡来した事実は日本書紀などで明らかだが、朝鮮半島南部に関する資料はほとんどなかった。上田学長は「土器は、今なお多い環日本海文化の未知の部分を埋める貴重な発見」と述べている。 〉 〈 京都府埋蔵文化財調査研究センターは二十六日、京都府竹野郡弥栄町溝谷にある古墳時代中期(五世紀前半)の前方後円墳「奈具岡一号墳」から日本の須恵器のルーツとなる朝鮮半島産の伽耶(かや)系陶質土器六点が見つかったと発表した。日本海側では初の出土。日本に伝わった時期と一致することから専門家らは「須恵器の生産技術は九州北部から大和地方へ伝わったというのが定説だが、丹後半島がルートの一つである可能性も出てきた」と注目している。 伽耶系陶質土器は、後円部の被葬者を納めた木棺のそばから出土した。ふた付きの高杯(たかつき、高さ十五・七㌢)二点と壷(つぼ)を乗せる器台(同三五・八㌢)などで、高杯はほぼ完形品だった。高杯の脚の部分の透かし窓の形や模様などから、朝鮮半島南部の伽耶地方(現在の韓国・釜山市近郊)の製品であることが確認された。伽耶系陶質土器は五世紀前半、製品が日本に伝わった。登り窯を使って千二百度前後の高温で焼くため、野焼きでも造れる土師器より硬く水もれしにくい。この技法が、直後に始まった日本の須恵器づくりに受け継がれ、国内の土器生産技術を一変させた。伽耶系陶質土器はこれまで大阪府内や九州北部の集落跡など二十数カ所で数例出土しているが、伝来間もない五世紀前半の遺跡からまとまって出土したのは、野中古墳(大阪府藤井寺市)などに次ぎ三例目という。同センターは、「この時期は大陸との交渉が活発な倭の五王の時代に当たり、古墳の被葬者が直接朝鮮半島で手に入れた可能性がある」としている。 〉 銅釦(どうこう)というのは銅製品のボタンで、同紙はまた、 〈 「銅釦」は銅製のボタンだが、発掘調査に当たった財団法人・京都府埋蔵文化財調査研究センターの「奈具岡北古墳群の発掘調査」は「銅釦は弥生中期~後期に九州を中心にして6遺跡で11点が出土している。京都府では、綴喜郡田辺町田辺天神山遺跡で出土しているが、いずれも大型であり、古墳時代出土のものは本例のみである。本例と同タイプのものとしては、中国甘粛省白草披西周墓からの出土例がある」と紹介するとともに、五世紀前半という時期について「畿内には渡来人による技術革新がもたらされ、中央集権的な政治体制が整備されていく。丹後は畿内から最も大陸に近いという地の利を生かし、新時代の流れをいち早くつかんだものと思われる。陶質土器や銅釦は大陸との関係を直接示すものである」と述べている。 〉 奈具にあるなら丹後王国の王墓の一つと思われるが、礫床や破砕土器供献など伝統を引いているように思われるが、伽耶諸国やなんとも甘粛省(モンゴルや西域に接する場所)とも直接の交易関係があったことがわかる。 伽耶丹後、モンゴル丹後である。 日本史などにとらわれすぎてはなるまい、少なくともこのあたりまでは視野に入れて、丹後は考えなくてはならない。 奈具周辺遺跡の主な歴史記録『京丹後市の考古資料』 〈 奈具岡遺跡(なぐおかいせき) 所在地:弥栄町溝谷小字奈具岡 立地:竹野川東岸中流域丘陵谷部 時代:弥生時代中期中葉~後葉 古墳時代前期~中期 調査年次:1971、1979年(府教委)1981、1985年 (弥栄町教委)、1984年(古代学協会) 1992199519961998年(府センター) 現状:全壊(国営農地) 遺物保管:市教委、府センター(一部京都府、府センター保管:重要文化財) 文献:C045、C091、C095、C112、C124、F253、F254、F255 遺構 奈良岡遺跡は竹野川中流域の入りくんだ谷部をとりまく丘陵斜面地に位置する。周辺の丘陵上には弥生時代中~後期の奈具岡貼石墓、奈見墳墓群といった墓域がみられ、一連の遺跡群としてとらえられる。 第4次、7次、8次の各調査では丘陵斜面地に広がる弥生時代中期の玉作り遺跡を検出した。 玉作りに関する遺構としては斜面地にL字状に掘り込まれた円形テラス状の住居を96基(第4次調査22基、第7・8次調査74基)検出した。第4次調査区と第7・8次調査区は丘陵によって隔たれてはいるものの、隣接した谷部に位置する。第4次調査区は、日常使用される土器も多くはなかったことから、専ら緑色凝灰岩の管玉を製作した工房群とみられる。第7・8次調査区では水晶や透明度の高い石英塊を素材として小玉や棗玉・勾玉、ガラス製小玉の製作を行う工房群であったと考えられる。つまり、谷部全体が弥生時代中期後半の玉作りの専業的生産域であったことが窺える。 また、調査地域の西端、竹野川の氾濫原に面した丘陵裾部の第2次・9次調査では古墳時代前期から中期半を中心とした竪穴住居3基や竪穴住居3基や掘立柱建物3基、柵列などの集落遺構を険出した。さらに、縄文時代と想定される落し穴も見つかっている。 遺物 玉作りの素材から、玉製品が作り出されるまでの各行程がわかる未成品や失敗品とともに玉の加工に用いられた石製、鉄製工具などの未成品も揃って出土しており、弥生時代中期の玉作りに関係するさまざまな生産具も製作されていた。 第4次調査出土遺物には、おもに碧玉および緑色凝灰岩、翡翠などといった緑色の管玉製作を専門としていたらしい。玉石素材から一辺4㎝程度の四角い石核や、それらを分割した板状さらには角柱状の小さな個体が大量に出土した。四隅角を丸く円柱状に研磨して、直径1㎜以下の石の錐で穿孔していくわけだが、穿孔直前の未完成品からは長さ1.0㎝前後、直径2~3㎜の非常に小さな管玉が製作されていたことがわかる。また、素材の碧玉や緑色凝灰岩を擦り切って分割するための紅簾片岩の板石(石鋸)や、管玉の表面を研磨するための砂岩製の砥石、管玉を穿孔するためのガラス質安山岩や瑪瑙製の棒状の石錐(石針)などもある。これら加工する道具の未成品や失敗品もみられ、当該地区で玉を加工する道具も製作していたことがわかる。このほか各種磨製石器などを転用したと思われる玉加工具もある。土器はわずかにみられるのみで中期中葉でも新段階(第Ⅲ様式新相)に収まるものである。 第7・8次調査では、六角柱体の水晶や石英塊の素材が数十kg見つかっており、谷部の土壌を洗浄すればその量はさらに増加したものと思われる。水晶はその結晶表面を剥がし取った角柱体に加工されており、この種の未成品、失敗品が最も多い。その後、敲打、研磨して円柱状にした後に輪切りに分割して穿孔し、数点の小玉を作り出す工程に進むが、この段階の失敗品も多数みられる。一部には太めの角柱体から棗玉1点を作り出す途中の失敗品や勾玉の破片もみられる。 このような水晶製玉煩の加工具には、先端が薄くなる小さな鉄の棒や安川岩、瑪瑙、珪化木などを素材とした穿孔用の小さな石錐(石針)がある。いずれも第4次調査区同様、調査地内で製作したようであり、これらについても未成品や失敗品がみつかっている。また、第4次調査区と同様に緑色凝灰岩の管玉製作も継続しており、その未成品や加工具もみられる。 さらには、中国から輸入されたカリガラスや鉛ガラスで作られた勾玉や小玉などの破片も見つかり、それらの加工もこなしていたらしい。 本調査区でも土器の出土はそれほど多くはないが、中期後葉(第Ⅳ様式)を中心とする。鉄製工具や石鏃なども出土したが、農業など他の食料生産に関する道具が非常に少ないことも注目することができる。 第2・9次調査出土遺物には、古墳時代布留式併行期の土師器や、須恵器出現前後の土師器がある。 出土量は少なく、古墳時代中期まで奈具岡遺跡が連綿と継縦したとすることはできず、散発的な居住を 推測させる資料といえる。 意義 当該遺跡は、丘陵斜面と谷部に、立地する弥生時代中期の大規模な玉作り専業工房である。膨大な調査面積であったにもかかわらず、その規模と内容が明らかにされた極めて重要な遺跡である。 弥生時代中期に営まれた玉作り集落の全容を明らかにしたのだが、勾玉や管玉、小玉などとそれを作るための加工具の原料がはるか遠隔地からもたらされた貴重な交易品であったこと、またそれを巧みに利用していたこともわかったのである。とくに当時鉄素材は貴重なもので、出土した鉄片のなかには、当時、前漢帝国の最先端の技術で製作されたものが含まれていた。つまり、鋳造した鉄を固体のまま、炭素を取り去って柔軟な鋼素材としたものがあることが理化学的組織分析によって明らかとなったのである。また、カリガラスや鉛ガラスも弥生社会では生産できないものであった。一部には溶融したガラス片があり、高温を維持してガラスを再熔融する技術を持っていたことがわかる。これらの遺物はおそらくは中国大陸との交流がないと入手できないものばかりである。また、硬玉(翡翠)や碧玉、瑪瑙なども北陸地方などといった遠隔地との海上交易によって入手していた可能性が高いことからすれば、この工房から生産された玉類がいかに高価なものであったかがわかる。おそらくは奈具岡遺跡から生産された半透明白色の勾玉や小玉、緑色の管玉などは地元で消費されるものではなく、遠隔地との交易資源として利用されたものとみることができる。つまり玉作りが遠隔地との交易を行う契機となったとみることができ、首長層の経営手腕によっては農業生産だけでは得られない貴重な宝物が数多くもたらされていた可能性は高いといわねばならない。 奈具岡遺跡の周囲には方形貼石墓や、方形台状墓、方形周溝墓など、弥生時代のさまざまな墓制がみられる。異なる墓を造営することから、奈具岡遺跡に関わった集団の階層分化と世襲化の動向を窺うことができ、首長層はこのような高級な工芸品製作のための専業集落の経営によって、経済的権力を手中に占めていたとも思える。 奈具岡遺跡の調査によって、北部九州や畿内中枢部主導の弥生社会という歴史叙述に加えて、近畿地方北部、日本海沿岸地域の交易による社会発展を想定することができる考古学的証拠が得られたといえよう。 〉 〈 奈具谷遺跡(なぐたにいせき) 所在地:弥栄町溝谷小字奈具岡 立地:竹野川東岸中流域丘陵谷部 時代:弥生時代中期中粟~後葉 調査年次:1994、1995年(府センター) 現状:全壊(国営農地) 遺物保管:府センター 文献:C096、C112、F150 遺構 遺跡は丘陵上に位置する奈具遺跡に侠まれた狭長な谷部にあたる。弥生時代中期後半の水利施設、板材と杭によって護岸された排水路と、取水を目的とした施設を検出した。取水口下流からトチノミの集積が検出されたことからアク抜きのための水さらしを行なっていたことが判明した。また、2度の発掘調査によって50㎝を越える水路を検出した。 遺物 排水の悪い谷部の泥湿地のため、弥生時代中期の木製品が大量に遺存していた。取水ロでは剣形木製品と砧、網代状の編み物などが出上した。田下駄・えぷり・鋤のほか、 槽・桶・箱材・高杯・杓子・火きり臼・機織具・梯子・剣把・連続渦文を施した板材など各種木製品が多数出土した。弥生時代中期中葉から後葉〔第Ⅲ~Ⅳ様式〕の土器が混在していたものの、水路の埋土最下部から第Ⅲ様式の土器、埋土上層から第Ⅳ様式の土器が出上する傾向が窺える。土製品では銅鐸形土製品が注目される。舞孔1孔が描写されており日吉ヶ丘遺跡(与謝野町)同様、器壁の厚いタイプとなる。このほか、石鏃や石庖丁・磨製石斧などのほか、緑色凝灰岩玉材や紅簾片岩石鋸など玉作関連の資料も出土している。 なお、護岸施設付近からはイネの細胞に含まれる珪酸体(プラント・才パール)が険出されたことから調査地周辺において稲作が行われていたことが判明した。 意義 当該遺跡は丘陵裾の谷部から竹野川流域の氾濫原に整備された水田に導水するための潅漑施設と考えられる。弥生時代中期に営まれた奈具岡遣跡の玉作り工房を維持するために欠かせないインフラ基盤工事であり、多様な木製品は高度な加工技術に裏打ちされた豊かな生活を垣間見せてくれる。 〉 〈 奈具墳墓群・奈具岡遺跡方形貼石墓(なぐふんぼぐん・なぐおかいせきほうけいはりいしぼ) 所在地:弥栄町溝谷小字奈具岡 立地:竹野川東岸中流城丘陵上 時代:弥生時代中期中薬~後期前葉、終末期 調査年次:1984年(古代学協会)、1972、1986年(弥栄町教委)、1994年(府センター) 現状:全壊(国営農地、峰山高校弥栄分庚ほか) 遺物保管:市教委、府センター 文献:BOO2、BO28、B030、CO99 遺構 奈具、奈具岡遺跡調査地域の東側、奈具谷遺跡見下ろす細長い丘陵上に位置する3基の方形台状墓、2基の方形周溝墓がある。弥生時代中期中葉から中期後葉〔第Ⅲ~Ⅳ様式〕に属する。丘陵の南西側が山道設置によって削平されており、墳丘の幅が5mほど減じてしまっていたが1号墓は墳丘長21.2m、幅11m以上、高さ1.5mに達することが判明した。2号・3号基もほぼこの規模となる。2号墓は墳丘長20.0m、幅10m以上、高さ1.5m、3号墓は墳丘長15.8m、幅9.0m以上、高さ1.1mである。1号墓では7基(箱形木棺墓5・土壙墓1)、2号墓でも7基(箱形木棺墓6・土壙墓1、3号墓では2基(箱形木棺2)の埋葬施設が検出された。いずれも長さ2mを超える墓壙内に箱形木棺が埋置されていた。1号墓第2・4主体部、2号墓第3・6主体では、墓壙を掘削し、木棺を埋置したあとに甕を破砕してその破片を木棺上に蒔いており、こののち丹後半島に盛行する方形台状墓に見られる土器破砕供献の風習をはやくに見出すことができる。南西側の墳丘削平部分を勘案すれば、1、2号幕両者ともにそれぞれ10数基以上の埋葬施設が存在していたことになろう。このほか、2号墓の北西斜面裾に埋葬されたと考えられる土壙木棺墓(5、7号墓)がある。また、3基の台状墓の南東、やや高い丘陵側に2基の方形周溝墓(4、5号墓)を検出した。復原すれば周溝一辺10m以下の小規模なものだが、連接して丘陵周辺に広がっていた可能性が高い。4号墓では、墓壙が検出されているが、台状墓のそれよりも小さく、台状墓の埋葬施設よりは「格下」といえる、さらに、調査地域西端、竹野川氾濫原に接する丘陵先端部には方形台状の墳丘斜面に平石を据え並べた方形貼石墓2基が部分的に検出されている。埋葬施設は不明だが、日吉ヶ丘遺跡(与謝野町)方形貼石墓に類似する弥生時代中期後半の大型墳丘墓になる可能性が高い。弥生時代後期の土器が出土しているが、周囲の住居跡のものであろう。また、その南側では、弥生時代終末期の方形周溝墓2基が検出されている。 遺物 調査地域の東側、丘陵上の3基の台状墓からは木棺の上で破砕供献された甕が出土した。弥生時代中期中葉に位置づけられる。2号墓の墳丘裾から検出された6号墓からは広ロの壺や高杯が出土しており、やや新しく中期後葉の様相を認めることができる。 注目されるものとして、2号墓第4主体部の墓壙埋土から出土した石英塊がある。透明度は低いものの、玉類作成の際の石英素材とすれば、奈具岡遺跡において水晶製玉類を製作した人々の墓であったということができよう。 このほか方形貼行墓付近からは河内(生駒山西麓)産の弥生時代後期の土器が出土している。方形貼石墓がこの時期かどうか不明であるが、畿内中枢邸との交流を示す重要な遺物とみることができる。 また、弥生時代終末期と考えられる方形周溝墓からは瀬戸内地方などの墳丘墓にみられる定角式鉄鏃が出土している。 意義 奈具岡遺跡の玉作りは弥生時代中期中葉から後半を中心に行われていたが、奈具墳墓群はこの専業的な玉作りに従事した人々の墓であもことが推測される。奈具墳墓群の発掘調査によって、丘陵先端の縁辺、竹野川氾濫源近くに方形貼石墓、丘陵頂部に方形台状墓、その周辺に方形周溝墓が分布していたものと想定され、人々はこれら周囲の3種類の墳墓に埋葬されたことがわかる。方形周溝墓は最もサイズが小さく一辺10m以下で埋葬の周りに溝を掘削するだけだが、台状墓は全長15~20mを超え、盛り上を行なって埋葬のための募穴を穿っている。さらに方形貼石墓は、より大きな墳丘規模を持つものと想定され、方形の盛り土の周囲の斜面に石を貼りって荘厳化している。同じ地域に居住していた人々でさえ、異なるランクの墓に埋葬され始めていたことを示しているのかもしれない。 奈具墳墓群は弥生時代中期後葉に西日本で発達した初期墳丘墓の様相を示す貴重な調査成果とすることができよう。 〉 〈 奈具岡北1号墳(なぐおかきたいちごうふん) 所在地;弥栄町溝谷小字奈具岡 立地:竹野川中流域右岸丘陵上 時代:古墳時代中期 調査年次:1995~96年(府センター) 現状:全壊(国営農地) 遺物保管:京都府(府センター保管:府指定文化財) 文献:C1O6、C112 遺講 奈具岡北1号墳は、水晶製玉作り工房の奈具岡遺跡やトチノミの灰汁抜き場として知られる奈具谷遺跡を眺む丘陵稜線上に築かれた7基の奈具岡北古墳群の最高位に位置する。自然地形を十分に利用した、ややいびつな形をしており、報告書によると南北に主軸を持つ墳長60m、前方部幅26m、高さ3.6m、後円部径27m、高さ2.4mを測る前方後円墳とされる。段築、葺石、埴輪の外表施設はない。 埋葬施設は後円部中央で2箇所発見されている。中心埋葬である第1主体部は、長さ5.8m、幅2.1mの墓墳の中に長さ3.95m、幅0.45~0.75mの長側板が小口部分を挟む組合式箱形木棺があり、東側から1.8mの範囲まで礫が敷き詰められていた。第1主体部の墓壙上からは陶質土器12、土師器高杯3、ミニチュア土器1が破砕された状態で出土した。また棺上からは鉄矛1が出土したほか、棺内の礫床部分から鉄剣4、銅釦2とともに容器に入った鉄鏃53とその周りで刀子1と不明鉄器3が出土し、棺の西端で鉄鏃8が出土している。 第2主体部は、長さ4.Om、幅1.8mの墓壙内に長さ2.8m、幅0.7mの木棺が納められており、木棺の小口付近が舟底状を呈している。なお、第1、2主体部とも東枕である。第2主体部の墓壙上からは、土師器高杯と小型丸底壷各1、棺上からは鉄鏃4が出土している。そのほか、前方部西側肩部付近からは、珠文鏡1面、後円部南東側裾付近から土師器高杯、棒状土製品、滑石製勾玉も出土している。 遺物 第1主体部の陶質土器は、墓壙上祭祀に伴うもので、有蓋高杯2セット、無藍高杯5、器台1、壷2の12点がある。これらの陶質土器は日本海側では初めて出土したものであり、その形態から韓国慶尚南道地域で生産された可能性が高いとされている。また、ボタン状の銅製品である銅は中国製の遺物とされている。鉄矛は矛部と石突1点とが出土し、両者間の復元長は3.3mである。 意義 奈具岡北1号墳は、出土遺物から5世紀前半に築造れたもので、前方後円墳であるならば、丹後地域に数少ない中規擁クラスのものである。多くの鉄器とともに陶質土器や銅釦といった朝鮮半島や大陸との関係を直接示す遺物が副葬されており、鉄生産と深いかかわりを持った被葬者像がうかがわれる。 奈具岡1号墳の朝鮮半島製の遺物は古墳時代中期においても、大陸や半島と交流が継続していたことを示すものとして重要である。 〉 〈 奈具岡南古墳群(なぐおかみなみこふんぐん) 所在地:弥栄町溝谷小字奈具岡 立地:竹野川中流城右岸丘陵上 時代:古墳時代前期~後期 調査年次:1997年(府センター) 現状:全壇(国営農地) 遺物保管:府センター 文献:B075、C114 遺構 奈具岡南古墳群は、三つの尾根上に築かれた23棊からなる古墳群である。北尾根には5号墳、11~22号墳の13基が、中尾恨には1~4、8、9、23~25号墳の9基が、南尾根には7号墳のみがある。これらは、横穴式石室を埋葬施設とする5号墳を除き、すぺて木棺直葬墳である。また、墳丘を持つ古墳(14基)と地山を整形した階殿状の台状墓(9基)とに分かれる。 墳丘を持つ最大の古墳は、長辺20m、短辺16m、高さO.8mを測る方墳の1号墳である。また最大の台状墓は、長辺12m、短辺10mの17号墳で、全体的に墳丘規模に卓越した差は見られない。 一墳一葬の古墳はわずかであり、多くの古墳は家庭墓の域を出ない一墳多葬(2~4基)の形態である。特に北側の尾根に展開する古墳時代前期~中期の古墳については、地山面に穿った二段墓壙の中に箱形、H形、割竹形、舟形などの多彩な構造の木棺を時つ。また特異な例としては、22号墳第主体部の土師器2個を使用した壷棺がある。 遺物 遺物は相対的に少ない。13号墳第1主体部では刀子、ヤリガンナ各1、第2主体部では鉄剣、ヤリガンナ、刀子各1、14号墳第2主体部では鉄剣1、第3主体部では滑石製勾玉3と緑色凝灰岩製管玉2、16号墳第1主体部ではヤリガンナ1、鑿1、18号墳第1主体部では鉄剣1、ヤリガンナ1、第2主体部では滑石製勾玉1、緑色疑灰岩製管玉1、3号墳第1主体部では鉄鏃24、鉄刀、刀子、ヤリガンナ、鎌、鑿状工具各1がある。また3号墳第2主体部の棺外からは鉄斧1とTK10型式併行期の須恵器杯蓋1、杯身2が、9号墳の墳丘部からは小型丸底壷が、5号頃の横穴式石室内からは耳環1、須恵器杯身1、土師器4が出土している。 意義 奈具岡南古墳群は、7世紀中葉の7号墳を除き、4世紀後半から6世紀中葉までの間に次々に築造された。各古墳の時期については、北尾根では古墳時代終末期の5号墳を除きいずれも4世紀後半~5世紀前半、中尾恨の3、4号墳は6世紀中葉の所産である。 埋葬施設は、前期から中期の古墳では地山面を大きく掘り下げた大規模な墓壙をもつが、後期段階では墓壙、木棺とも極めて小型化する。また、1号墳が中間形態的な墓壙を持つことから、1号墳と3、4号墳の間に墓制の変質およぴ画期が訪れたと判断されている。 奈具岡北古墳群を含む丘陵の北部側から築造が開始され、時間経過とともに次第に丘陵南部へと築造場所が変遷したものと判断される。奈具岡南古墳群は、周辺の奈具、奈具岡遺跡と奈具岡北古墳群との関連の中で意義付けられる必要がある。 〉 |
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関連情報【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『弥栄町誌』 その他たくさん |
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