二分(にふ)
(真朱・真赭色) |
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京都府京丹後市久美浜町関・三原 京都府熊野郡久美浜町関・三原 京都府熊野郡田村関・三原 |
二分の概要《二分の概要》 「丹後御檀家帳」に「一 二ふんかた たむらせきのとう 家百五拾斗」「一 二ふんかた ようらく寺」と見える地名。しかし江戸期以降の村名には引き継がれない。 『丹哥府志』には、 「岡村、三原村(以上二ケ村を二分かた関の道といふ)」とある。関に「セキノ堂」の小字が残り、ようらく寺跡もあるため、今の関と三原に当たるようである。 北に三分(さんぶ)、南に一分(いちぶ)の地名がある。三分は二分が転訛したミフでなかろうかと思われるが、一分はわからない。また東京都八王子市に壱分方町と弐分方町が隣同士である。 関から三原、岡を経て府道岡田浦明線(666号線)を東へ行けば、日和田の峠を越えて木津の女布谷の竹野郡式内社・売布神社の鳥居前に出る。この道は田道間守が「非時菓実」を発見したあと、売布神社からこの道を通って、須田を経由して但馬へ帰られたと伝えられた古代からの重要な街道であったと思われる。 『万葉集』の有名な一句、 まがね吹くにふの真朱(まそほ)の色に出でて言はなくのみぞ吾が恋ふらくは 富岡市の丹生神社にこの歌碑が建てられているそう。 青春だね、愛こそすべて。いやいや人殺しこそすべてです、アメリカ国民の安全のために人殺しします、とどこかのイカレ内閣は言う、それなら自分が先頭で行って死ねばよかろう、誰も止めはせん、オマエどもの息子や孫でもよいぞ、それはする気がまったくなく、戦死する心配がまったくないドきたないドクズどものみが、国民に隠れて密室で決める、オマエら行け行け、ワシはうしろで命令するだけじゃ。こうしたドクズどもに限って、命にかかわることを勝手に決める。憲法をクリアーできないのは勿論、モラル面もクリアーできない。一刻も早く退場させようではないか。 マガネ吹く吉備とかもいうが、これなら鉄だろうか、単に枕詞か。ニフのマソホというのなら、水銀朱系の赤土と思われる。この峠道は恋する若者の頬の薄紅色のような赤土の道であったのかも知れない。これほども赤いと超強烈な恋か。現在は別に特にそうした所は見受けられないようである。 ニブには丹生の字が当てられるが、二歩とか二部とかもある。転訛して三分(ミフ)とも売布(メフ)ともになったのではなかろうかと思われる。 《交通》 《産業》 二分の主な歴史記録『丹後国御檀家帳』 〈 たかむらせきのとう 一二ふんかた 家百五十斗 かうおや かうおや 助 兵 衛 殿 孫 左 衛 門 殿 関 弥 三 郎 殿 〆 一二ふんかた ようらく寺 一宮殿御一家也 丸 山 殿 一宮内宮少輔と申 御内 又 八 殿 惣坊毎月御参り人かへしする人 〆 〉 『丹哥府志』 〈 ◎岡村 ◎三原村(以上二ケ村を二分かた関の道といふ)。 〉 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『京都府熊野郡誌』 『久美浜町史』 その他たくさん |
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