丹後の地名

女布(にょう)
京丹後市久美浜町女布


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京都府京丹後市久美浜町女布

京都府熊野郡久美浜町女布

京都府熊野郡佐濃村女布

京都府熊野郡下佐濃村女布

女布の概要


《女布の概要》



舞鶴にも同じ女布という所があり、同じ森脇宗坡の城趾もあるが、どうした繋がりがあるのかは何も史料がない。
佐濃谷川中流部の東岸、女布権現山の西南麓に位置し、女布川が西流し、佐濃谷川に合流する。地形は西南に面して丘陵となり、日照時間が長く土質もよい。この付近は弥生後期の土器を出土し、古墳も多い。森脇宗坡城址があり、式内社・売布(ひめふ)神社が鎮座する。
女布村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、享保2年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下佐濃村の大字となる。
女布は、明治22年~現在の大字名。はじめ下佐濃村、昭和26年佐濃村、同33年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《女布の人口・世帯数》 87・28

《主な社寺など》

女布の遺蹟
女布北遺跡
北谷古墳群
塚ガ谷二号墳
鶏塚古墳
薬師古墳群


式内社・売布神社
この漢字を書く社は他の地にもあり、メフと呼んでいるが、当地では「ひめふじんじゃ」と読んでいるよう。当地を呼ぶ地名「女布」も当社から出たもので、そうしたことも勘案して本来はどう読むものであろうか。売布の「売」は万葉仮名ではメと読み、メは女の意味である、だから売布を女布とも書いてどちらもメフと読んだのではなかろうか。ニフの転訛と思われるが、その本来の意味も忘れられて、神社はヒメフと読み、地名はニョウと呼ぶようになったものと思われる。
売布神社(女布)

祭神は豊受姫命・大屋媛命・狐津媛命。旧村社。 熊野郡式内社・売布神社に比定される。
伝承によると、初め祭神は谷村の足洗井戸という所にとどまっていたが、野中村・安養寺村を経て船で佐濃谷川を下り女布に着き、女布の小字船処(ふなと)に上陸したという。この付近の小字名に幟立(のぼりたて)があり、境内に船を埋めた記念という船石がある。延宝三年(一六七五)の女布村明細帳(「熊野郡誌」所引)にみえる「長船大明神」はこの伝承にちなむ呼称であろうという。 現社殿は明和6年の造営で、祭日はもと旧暦9月二の午の日であったが、大正頃から10月18日となったという。
境内の案内板↓
売布神社、境内案内板
式内村社 売布神社
祭神 豊受姫命(とようけのひめのみこと)・大屋姫命(おおやひめのみこと)・狐津姫命(こずのひめのみこと)
由緒 当社の創立は丹後一覧記によると垂仁天皇(十一代)代川上麻須の勧請に係るものと云う。
伝承に依れば久美浜町谷の足洗井戸があり祭神が始めて留りし地であり野中・安養寺を経て船にて女布に着き小字舟處に上陸されたという。この附近に幟立の小字があり道路そばに船石がある舟を埋めたという。
延宝三年(一六七六)女布村明細帳によれば通称長船大明神と言えりとあり南方一七〇米の地には布杜神社があり売布神社を大宮布杜神社を小宮とよんでいる。
明治五年四月氏子調査に依れば九ヶ村あったが、その後七村となり女布・丸山・郷・野中・安養寺・円頓寺・谷の七村を云う。
元祭は旧九月二日午の日である。
文化十年(一八一三)久美浜代官塩谷大四郎正義氏の奉納刀がある。
昭和五十九年三月 京丹後市教育委員会


『丹後旧事記』
 〈 女布神社。佐野谷女布村。祭神=女布大明神 大売布命。同川上麻須郎勧請なりと伝ふ。  〉 

『京都府熊野郡誌』
 〈 売布神社 村社 下佐濃村大字女布小字初岡鎮座
祭神=豊受姫命・大屋媛命・狐津媛命。
由緒=当社の創立は丹後一覧記等によるに、垂仁天皇の代川上麻須の勧請に係れりといふ。其の延喜式内社てる事は、延喜式を始め大日本神祇志神祇志料神社覈録等に明記せる処なり。伝説等を考ふるに、海部村大字谷に足洗井戸と言へるあり、祭神の始めて留まりましし地にして、夫より野中安養寺を経船にて女布に着、小字船処(ふなと)に上陸せられしといふ。此の附近幟立の小字あり、社前に進めば道路の傍に船石あり、舟を埋めし記念となせりといふ。例祭の節連縄盛砂等を爲す事古来の慣例なり、而して延宝三年女布村明細帳を見るに、長船大明神八尺に六尺とありて、通称長船大明神と言へりし事を知らる。此長船の称は船処石等に関連するものの如し。さて現社殿は明和六年の造営に係り、近来基本財産の増殖其の他設備等完成を告げ、大正八年十月幣饌料供進神社として指定せらる。元祭日旧九月二の午なりしも、近年十月十八日を例祭と定めぬ。
氏子戸数=二百八十一戸。旧七ケ村を氏子とす。
境内神社。秋葉神社。祭神=加具土命、保食廼命、神武天皇。       三玉神社。祭神=奥津彦命、奥津媛命、加具土命。  〉 

手水舎のむこうに船石
道路から境内への入り口にある手水舎。伝説の「船石」は、水の張られた石の奥側に置かれている船には見えないコケむしたあまり大きくはない石である。この下にフネが埋められているという。

売布神社は元々は当地より西南になる「谷」という所の山中、足洗井戸に鎮座あった、この山を西に下れば新谷(にいだに)で、丹の産地らしい地名がある。この周辺一帯の丹を掘る村々の神社であったが、早く掘り尽くしたのか、森脇宗坡の時代には今の位置に移動していたのではなかろうか。当地の北にも二分(丹生か)、三分(壬生か)といった地名があり、背後の山を東に越えれば木津にも竹野郡式内社の売布神社があり、このあたりも水銀が採れたのかも知れない。
「舟」というのは水に浮かべる舟だけではなく、水を溜めるオケの大きなような物もフネと呼ぶ。ちょうど写真↑のようなものもフネである。「風呂の湯舟」と今も呼んでいる。丹を水を使って浮遊、比重選鉱・精錬する大きな水槽をフネとか長船と呼んでいたのではなかろうか。この作業をしっかりやらないとよい値がつかない、中国へ輸出できない、外貨が得られない高度な文化が入らない。ここで作業者(支配者どもに言わせれば「土蜘蛛」だが)彼らの足も洗い足に付いた丹を落としたから足洗井戸と呼ぶのかも知れない、しかし足尾銅山とかもあるので、アシは鉱石を言うのかも知れない。また「舟」の漢字は「丹」の漢字に似ている。
水を使って鉱石を選鉱する、などと今では言うのだが、この作業を古くは水分(みくまり・みなわけ)と呼んでいた。水分神といえば農業用水を配る神のように考えられているが、それは農業しか頭になくなった近世の話であろうか。本来は鉱業神なのかも知れない。またミクマリがミコモリ(御子守)となり、子守りの神ともなっていく、コモリとあると気をつけねばならない。小森とか河守とか蝙蝠とか籠もりとかはそうした作業場のあった所かも知れない。
売布はやはりニフ(丹生)のことと見ないわけにはいかない。この売布(めふ)を女布(めふ)と書き、それを「にょふ」とか「にょう」と呼ぶようになったと思われる。
祭神は水銀の女神だろうが、丹後では豊受大神としているよう。豊受は豊饒の女神だから、不老長寿の霊薬・水銀と関係がないわけがなさそうに思われる。
大屋媛命と狐津媛命は不明、もし大屋媛と抓津媛なら、素戔烏尊の子で、五十猛命の妹たちになる。紀伊国に渡り此国に祀られたという神だが、三神セットなので五十猛が祀られていないのはなぜか、当初よりの祭神なのか、出雲の売布神社の祭神なので誰か後に参考にし考えた祭神なのかは不明。当社はあるいは出雲国にも紀伊国にも関係していたのかも知れない。
丹後国熊野郡の熊野は紀伊国の南部にもあるし出雲国一宮も熊野大社であり、どちらの熊野か、それとも関係がない別系統かと、悩むところだが、当社でも同様のことなのかも知れない。

如布神社(但東町中山如布)濃谷川をさかのぼり、トンネルも越えて、豊岡市但東町中山にも「如布」という所があり、←如布神社が鎮座する。「ニョウフ神社と言います。昔、布を織っていたといいます」と言っていたがニョフで水銀であろうか、もっと可愛らしいものかと思っていたが、ずいぶんと立派な大神社である。
如布神社(中山)元々は峠にある「坂野」にあったもののよう。
神額がない簡単な案内板もないが、向かいに案内板があった。←
漢字は違うが女布である。すぐ東には赤野神社もある。
「モンゴル博物館」のある所であるが、ここから尉ケ畑峠の途中にはたんたん温泉とかあるし、福寿水とか長寿水とか名水も出ていて何か道教の不老長寿の里かのような名がついている。いつの頃か道教思想が入ったのではなかろうか、但東町から久美浜の佐濃谷川にかけて地下は断層が続いているのか、水銀帯あってのことのように思われる。


布森(ふもり)神社、神額には布杜神社とあり、正式にはこう書くよう。
布杜神社参道(女布)
女布集落へ南から入る入口に参道があり、新しい石灯籠がある。ここから50メートルばかりである。
布杜神社(女布)
竹林の中にホコラが祀られている。

『京都府熊野郡誌』
 〈 布森神社 無格社 下佐濃村大字女布小字初岡鎮座
  祭紳  天太玉命 天児屋根命
  由緒 不詳
  一 本殿 桁行三尺九寸梁行四尺壹寸
  一 上屋 桁行貳間梁行貳間
  一 境内坪数 貳百九十九坪 官有地第一種
  一 崇敬者 六十人  〉 

売布杜ということで売布神社のことかと思われるが、同名社が二社もあってはややこしいから、こうした社名になっているものか。
女布の集落で最初から祀っていたのが、この社で、売布神社と呼んでいた、当地には鎮座していなかった式内社・売布神社を勧請した分社で女布だけを氏子にしていと思われる。
その後、式内社である本社が当地へ引っ越してきて、新たに社殿を建てたのではなかろうか。後世の者には何が何だかワケ分からずのことになったものか。


女布城趾
女布城趾遠望
正面が女布権現山、右手が女布の集落で後に売布神社がある。一番左手に写っている低い山に女布城があったという。遺蹟や古墳もこの一帯にある。

『京都府熊野郡誌』
 〈 女布城は字女布に在り。一色家部下諸将の一人なり。
女布城址。大字小字城ノ尾といひ、田村字三原に通ずる間道あり、池の谷を左右に眺めつつ進み行かば、古城址あり、誰の城跡たるを知らず、丹後旧事記丹後一覧記等に依れば、天正年間森脇宗坡の居城たりしといふ、山上八畝歩ばかりの平地あり、展望殊に宜しく、眼下に丸山野中安養寺を俯瞰し、遠く眼を放てば川上谷須田新庄の諸部落は、連山を境して山麓に散在せるを見る。以上は史乗に現はれたる古城址にして、其の他円頓寺小字城坂は城跡なりといひ、一名後鳥羽嶽といへるも、右は丹後惣田数帳爲光保の部に、七段後藤七良兵衛とあれば後藤の所領地なりしより後藤畠といひ、夫より転化せる名称にあらざるか、暫く疑を存す。大字永留にも城山と称する所あれど、文献の徴すべきものなければ、暫く記して後の考証に俟つ。  〉 
女布城趾

城主の森脇宗坡は、舞鶴では女布の白雲山城の城主であり、城屋の大蛇退治の英雄であり、その子孫なのか森脇さんは現在でもかなりおられるが、熊野郡での事蹟についてはまったく何も伝わらない。
『丹後の山城』(岡野允・昭54)
 〈 …この土豪に関しては色々の物語がある。即ち城屋の雨引神社の神事「揚松明」の由来(大蛇退治)と円隆寺奥の院なる愛宕権現の建立縁起である。子孫は江戸時代の大庄屋家、字女布の森脇庄左衛門家である。家宝に大蛇の鱗や左記古文書などがある。大蛇鱗は開けづ箱入りで代々当主も未見の由であったが渋谷市文化財保護委員の懇願で初公開された。それによると長サ九センチ巾二センチの黒味がかった色をしていたという。尚退治した抜いた時は鼈甲色であったと伝えている。
「家蔵古文書」
源胤伝  森脇宗坡守 城主
一、由来は永禄年中の頃、四国土州に於いて三人の兄弟御座候也、然るところ古乱世のみぎり別離に成り給ふ。一人は土州に残り遊ばし、一人は勢州の津に御座候。
宗坡之守様は源氏の武士にて丹波を心ざし成され候処が丹波は赤井悪右衛門殿切鋪の事故手にも入らず、よんどころなく田辺領女布村之村落え落付き、近在五ケ村(真倉、十倉、京田、七日市、女布)切取致し山城を築き城主と成り給ふ。
それより三十余年も御座候処へ細川越中守様御越しなされ右山城を切落され、その節より百姓と成る。慶長年中に到って御子息に相続なりて宗坡様は丹波高槻村を心ざし成され云々(注)高槻は梅迫付近の村)
亦別の伝来文書には
「愛宕権現勧請に対し宗坡無礼の言辞があったので神慮により、その居城火災の幻示なされたので叡慮を覚り愛宕社新殿文禄元年より工事にかかり年中に普請成就」とか
「宗坡子供三人男子二人女子一人有り(丹波)志賀に嫁にやった娘が大蛇に呑まれたので城屋谷に馬上で乗りつけ鉄砲で打果した」ともある。また
「天正年中(半行虫喰)責来りて度々戦有りし時丹後一国(半行虫喰)依て山城の城主と取合に付、宗坡(半行虫喰)今安相模挨拶にて和睦致し処(半行虫喰)候へ共是非に及ばず候その後は女布云々」
(森脇宗家過去帳写)…  〉 

『ふるさと女布』(これは舞鶴市女布の書)
 〈 (附)
 熊野郡久美浜町女布訪問記
  女布という地名について、私達の女布と何か関係があるのではなかろうか、という素朴な疑問と期待をもって、昭和五十九年六月三日彼の地を訪れた。古老四人と生活改善センター(集会場)で懇談することが出来たが、森脇宗坡の居城跡があるという史跡以外、これというかかわりがあるようにも思えなかった。
 それというのも、ここは三百八十年前、四戸を残し全村焼失という大惨事に遭遇したため、神社、仏閣に保存されていたであろう古文書もなく、ただ伝承を聞いたに止まった。
 地形は幾分私達の女布と似通った感じもするが、往古は海岸線が山麓まで延びていたそうである。今は静かな田園、山地に囲まれた三十五戸が肩を並べて静かに暮している。
 石器時代の遺跡もあるということで、往古は出雲地方との交流もあったようである。藩政時代の石高は三四三石、式内神社売布神社(祭神、豊受姫命、大屋媛命、狐津媛命)が祀られてあり、氏子は七ケ村(女布、丸山、郷、野中、安養寺、円頓寺、谷)という。寺も昔は真言寺があったようであるが、大火以後は村に寺院はなく、各宗派が混在しているという。  〉 


《交通》


《産業》


女布の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎女布村
【売布神社】(延喜式)
売布神社今姫布大明神と称す。
【森脇宗坡城墟】(末考)   〉 


『丹生の研究』
 〈 …その後、友人の永江秀雄氏の指教によって、私は女布と称する地点がこの附近になおいくつか存在することを知った。京都府竹野郡網野町木津の下和田に女布(にょお)谷がある。これと山すじ1つを距てた西側の熊野郡久美浜町には、旧の田村の関部落に女布(にょお)という小字があり、女布権現山(343m)がそびえ、“女布の赤土”が有名であったという。しかしこれらの女布を丹生の異字とする考えにブレーキをかけたのは「出雲風土記」であった。この書の意宇郡の条に、神武官が配されていた48の官社を挙げてあるうちの1つ売布(めふ)社がそれである。今日、同名の社は上記の竹野郡や熊野郡の女布にも鎮座しているし、但馬・出雲にかけて分布している。この神社の正体を究明してみないと結論を急ぐことにはできないと、痛感している。  〉 


読売新聞』(93.12.8)
 〈 *集落跡(弥生前期~古墳初期)*女布北遺跡・山陰との関係示す土器も*
 久美浜町女布(にょう)の女布北遺跡を発掘調査していた府埋蔵文化財調査研究センターは七日、弥生時代後期(三世紀前半)から古墳時代初め(同後半)までの集落跡が見つかり、山陰地方とのかかわりを示す土器などが出土した、と発表した。
 遺跡は佐濃谷川から東約五百㍍の丘陵地にあり、国営農地開発に伴い、同センターが八月中旬から千三百五十平方㍍を調査していた。
 集落跡は正方形と円形の竪(たて)穴式住居跡三基を確認。うち六・二㍍四方の一基からは大量の焼土が見つかり、火災にあったらしい。同時期の集落跡は同町浦明の浦明通跡に次いで町内二例日。
 周辺からかめ、つぼ、高杯(つき)など土器片数百点が出土。このうちかめは、口縁部に段差がある山陰地方に多く見られる様式だった。また、平安時代中ごろ(九-十世紀)の土器の捨て場跡(長さ六・四㍍、幅二・二㍍)も見つかり、三時代の復合遺跡であることがわかった。   〉 

『久美浜町史・史料編』
 〈 女布北遺跡 遺跡番号一五八
字女布小字北丘に所在する。
遺跡は佐濃谷川中流域の河岸段丘上にあり、平成四年度から平成五年度にかけて、約一五〇〇平方メートルを対象とし調査を実施した。
石器については表土中より出土したもので、最大長九・六センチ、直径六・三センチの卵形のものが一点確認されている。頭頂部には、使用により欠けたと思われる部分が見られ、食材等をすり潰す用途に使用されたと思われる。石質は凝結凝灰岩と思われる。
遺物の年代はおそらく縄紋時代と考えられる。
当遺跡の存在は、函石浜遺跡を始めとする、日本海沿岸部に始まった集落の立地範囲が、内陸部に広がっていったことを物語るものと考えられる。
また、当遺跡の所在する女布地区は、佐濃谷川流域の中で、遺跡の集中する地帯となっており、現地は現在でも川上谷川に最短距離で抜けられる場所となっていることから、古くから交通の要衝であったと思われる。).017(女布北遺跡 遺跡番号一五八
字女布に所在する。
遺跡は女布権現山から佐野谷川に向かって伸びる丘陵先端の河岸段丘上に立地する。
遺物包含層からは縄紋時代早期の押型紋土器、弥生時代中期の壺や鉢、弥生後期の高坏などが出土している。遺構としては弥生時代終末から古墳時代初頭の竪穴住居が三棟検出されている。竪穴住居の平面形態は円形一棟と方形二棟である。円形住居は直径一一メートルと大型で、集落の中心的な建物であると考えられる。方形住居SH〇三は約半分が既に削り取られていたが、残存する東半部によると一辺五・五メートルを測る。この住居の東壁と南壁に接して貯蔵穴と報告されている土坑が検出された。住居は焼失したと見られ、住居の大半は焼土に覆われていた。焼土の下部から出土した土器から見て庄内式併行期後半に焼失したと考えられる。平安時代に属する掘立柱建物と不整形土坑も検出されている。こちらは九~一〇世紀に属する。なお、この遺跡の一角に古墳時代後期の円墳である鶏塚古墳が存在する。  〉 


『久美浜町史・史料編』
 〈 北谷古墳群 遺跡番号一八六
字女布小字北谷・南谷に所在する。
古墳群は佐野谷川中流域右岸の丘陵上に立地する。一号墳は長軸四〇メートル、短軸三六メートルの楕円形の円墳で、高さは五メートルを測る。墳頂部には二段墓壙に組合せ式箱形木棺を直葬した主体部を一基設ける。棺内には鉄剣、鉄製鑿、碧玉製紡錘車が副葬されていた。墓壙上には土師器高坏を中心に壷、甕、小型器台などからなる供献土器が出土した。古墳の時期はこの土師器から古墳時代前期中頃と考えられる。
三号墳は長軸一〇メートル、短軸七メートルの楕円形の円墳である。墳頂部に木棺直葬の主体部二基が設けられていた。第一主体部は二段墓壙で、被葬者の右側でテラス面上に鉄剣と鉄鏃各一点と、被葬者の頭上、棺蓋上から落下したと思われる鉄刀子一点が副葬されていた。第二主体部は棺床南寄りに赤色顔料の分布が見られ、ここが頭部であるとすると、被葬者の頭部右側に鉄刀子一点が副葬されていた。古墳の時期は副葬品のセット関係から古墳時代中期後半~後期前半であると考えられる。
五号墳は長軸一七メートル、短軸一〇メートル、高さ約一メートルの楕円形を呈する円墳である。墳頂部に箱形木棺を直葬した主体部を一基設けている。棺内には布巻きのヤリガンナを一点副葬していた。また墓壙埋土から琥珀製勾玉、緑色凝灰岩製管玉、金属製丸玉が出土した。墳丘裾からは小型の二重口縁壺など土師器が供献されていた。古墳の時期はこの土師器から古墳時代前期後半であると考えられる。  〉 

『久美浜町史・史料編』
 〈 北谷1号墳(きただにいちごうふん)
所在地:久美浜町女布小字北谷
立地:佐濃谷川中流域右岸丘陵上
時代:古墳時代前期
調査年次:1993、1994年(府教委)、1994年(府センター)
現状:消滅(国営農地)
遺物保管:市教委
文献:C092、CO92、CIO3、
遺構
北谷古墳群は、佐濃谷川中流城右岸丘陵上に位置する10基からなる古墳群である。5基が調査されている。1号墳は、丘陵先端部に位置し、東西約36m、南北約40m、高さ5mを測る墳丘をもつ。墳頂部は、平地との比高差約40mを測る標高61mに位置する。墳形は楕円に近いやや歪な方形である。墳丘は地山整形によるもので、盛り土を持たない。墳頂部は、東西約15m、南北約20mの広い平坦面を成す。埋葬施設は1基のみで、墳頂部南寄りに配置されている。埋葬施設は、東西に主軸をもつ素掘りの二段墓壙である。墓壙上段は、長さ約7・8m、幅約3・8m、墓墳下段は長さ約6・5m、幅約2mを測る。墓壙検出面から墓壙底までの深さは約1・2m、墓壙下段の上面から墓壙底までの深さはO・65mを測る。墓壙下段の内部には、側板長約6m、幅0・7mの組み合わせ木棺が納められていた。小口板が、西側のみ、側板の端からO・6m内側で検出されており、棺内は全長4~5m程度に復元される。棺内西側小口寄りから、碧玉製紡錘車形石製品、鉄剣、鉄のみが出土した。墓壙上面の陥没坑からは、土師器壷、甕、高杯、器台が、墓壙の中央に並べられたような状態で出土した。
遺物
棺内から出土したのは、碧石製紡錘車形石製品(1)、鉄剣(2)、鉄のみ(3)である。紡鍾車形石製品は、丹後地域唯一の出土である。メスリ山古墳(奈良県桜井市)では、同型のものが一対で玉杖の一部として利用されていた。当墳のものも1点のみの出上であるが、宝器として畿内から持ち込まれたものであろう。
墓壙上からは、多数の土師器が出土している二重口縁壷、布留式甕、小型丸底壷、小型器台、高杯などの器種がみられる、概ね4世紀中葉から後半にかけての土器群と位置づけられよう。
意義
北谷1号墳は、副葬品こそ少ないものの、古墳時代前期の佐農谷川流域の首長墓である。この古墳とほぼ同時期かやや遅れて誕生するのが、川上谷川左岸にある権現山古墳(144)である。ともに方形を意識した地山整形による中型墳である。しかし、本古墳は、人を埋葬するための古墳であり、被葬者が地域の首長であることを示す宝器をもっているが、後者は多数の埋葬施設をもち、副葬品にも乏しい。2つの方墳は、当該地域に前方後円墳が誕生する直前の首長墓が、多様な状況にあることを示している。  〉 

『久美浜町史・史料編』
 〈 塚ガ谷二号墳 遺跡番号二九
字女布小字南谷に所在する。
古墳は佐野谷川中流域右岸の丘陵上に立地する。墳丘は直径一四メートル程度の円形または楕円形を呈する円墳であったと推定される。墳丘外面には列石と報告された石積みがある。
内部主体は右片袖の横穴式石室で、規模は残存長八・一メートル、玄室長三・八メートル、奥壁幅一・四メートルである。奥壁はB一類で、側壁は腰石を用いる変則四段積みであるが、南東側側壁の腰石はやや小振りである。袖石は立柱石を用いる。
石室内部からは多数の副葬品が出土したが、ほとんどの須恵器は破片となっており、既に盗掘を被っているものと見られる。奥壁の左右両隅部には追葬時の片づけに伴うと見られる須恵器が積み上げられている。副葬品には鉄刀・鉄鏃と銅地金貼の耳環、土玉・ガラス小玉と銅製水瓶などがあり、須恵器には蓋坏・高坏・無頸壷、甕、坏Bがある。須恵器はTK一〇及び四三・二〇九・二一七の各型式があり、坏Bは飛鳥Ⅲ式である。
古墳の時期は初葬の時期が古墳時代後期半ば、追葬は後期後葉から白鳳期まで行われた。  〉 

 〈 鶏塚古墳 遺跡番号三〇
字女布に所在する。
古墳は女布権現山から佐野谷川に向かって伸びる丘陵先端の河岸段丘上に立地する女布北遺跡内にある。
鶏塚古墳は直径一ニメートルの円墳である。墳丘盛土の北部、墳丘裾より約一メートル高い位置に列石が残存していた。墳丘構築時の墳丘内列石の一部と見られる。
内部主体は南西方向に開口する無袖の畿内型横穴式石室である。奥壁構造はC類、側壁構造はやや大振りの石材を用いる。石室の規模は残存長五・六メートル、奥壁幅一・三メートルである。石室内は盗掘により撹乱を受けており、原位置を留めるものはない。副葬品はTK二〇九型式の須恵器蓋坏・短脚高坏・短頸壺、銅地銀貼の耳環、瑪瑙製勾玉、水晶製切子玉、碧玉製管玉、ガラス小玉が出土している。この古墳の築造時期は出土した須恵器から古墳時代後期末葉であると考えられる。  〉 

 〈 薬師古墳群 遺跡番号三二
字女布小字北丘に所在する。
遺跡は、女布集落から北方向の丘陵中腹部に立地する。
一九九二・九三年、発掘調査が実施された。その結果、古墳群は計八基の古墳から構成されており、丘陵尾根筋先端側に三基・基部側に五基の古墳が位置することが判明した。そのうち調査が行われたのは七・八号墳である。
七号墳は、墳丘の東側と墳頂部を後世に削平されていたが、径約一〇メートル、高さ約一メートルを測る円墳である。墳丘は、地山整形後に盛土をするようであるが、盛土は主体部付近にわずかに認められる程度である。
墳丘東寄りからは東西方向の主体部一基が検出された。墓墳の東端部は撹乱を受けており、全長は不明であるが、長さ約二・四メートル、幅約八〇センチ、深さ約四五センチが確認された。木棺直葬であり、頭位方向は西側と考えられる。墓墳内からわずかに土器片が出土しているが、いずれも細片であり、また墓壙床直上からは出土しない。墳頂部盛土中から出土した須恵器短頚壷や、墓壙内から出土した坏蓋などから古墳時代後期に造営された古墳であると考えられる。
八号墳は、径約一五メートルを測る円墳であり、七号墳との間に幅約四メートル、深さ約一メートルの周溝をもつ。後世に削平を受けており、主体部は検出されなかった。
中世期の遺構は、八号墳裾部(B地区)において、東西約一〇メートル、南北約七・五メートルの範囲に集石が確認された。集石遺構の西側からは中世墳墓群(SKO八~一五)八基が発見された。集石遺構は石仏や五輪塔の部材を含み、五基(SXO一~〇五)から構成される。最大で二メートル×一・四メートル、最小で径約〇・七メートルの規模を測り、不整形なものが多い。SX〇二からは、石仏二点・五輪塔の空風輪一点が、SX〇四からは石仏二点が出土した。各々の集石下に遺構を伴わず、土器片や人骨などの遺物は出土しなかった。そのため、西に隣接する中世墳墓群を整理した際に、ここに石材をまとめて遺棄したものと判断される。
中世墳墓群は、尾根の南側の緩斜面に並んで検出された。南北七・五メートル、東西一〇メートルの範囲に石仏・五輪塔の部材が散乱しており、中央付近に位置する二体の石仏以外は原位置をほとんど留めていない。中世墳墓群は、火葬骨を埋葬した八基の正円形を呈する小土坑であり、直径一〇~一五センチ、深さ五~一〇セソチを測る。ただし、SK〇八は直径二〇センチ・深さ一五センチを測り、他の遺構に比べ火葬骨の出土量が多い。そのため、竹筒製もしくは布袋のようなものに火葬骨を納めて埋葬したものと考えられる。
出土した石造物の形態から、中世墳墓群は南北朝時代から室町時代後半までの長い期間にわたって造営されたものと考えられる。
八号墳墳丘部(C地区)からは、多量の石材を周縁部に並べた方形区画の石列遺構が検出された。石列は、東辺約九メートル・南辺約一〇メートル・北辺約一ニメートルの長さを測り、南東および北東のコーナー部が確認された。南東隅はほぼ直角であり、二~三段の石材を積み、それ以外はほとんど一~二石が並んでいるだけであった。石列遺構は、江戸時代後期に中世墳墓を整理して区画されたものであろう。
また、石列遺構中から、それぞれわずかな火葬骨を含む集石遺構三基(SX〇六~〇八)が検出され、石材の出土状況から、これらの集石遺構は中世墳墓を解体した状態を留めていると考えられる。出土した須恵器甕は鎌倉時代、石造物は南北朝~室町時代後期のものと考えられる。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 女布北遺跡(にょうきたいせき)
所在地:久美浜町女布小字北丘
立地:佐濃谷川中流域右岸段丘上
時代:縄文~古墳墳時代、平安時代
調査年次:1993年(府センター)
現状:調査範囲は消滅(国営農地)
遺物保管:市教委
文献:CO99
遣構
弥生時代後期から古墳時代にかけての3棟の竪穴住居跡(SHOI~03)、横穴式石室を埋葬施設とする鶏塚古墳、平安時代の2間x3間の掘立柱建物跡を検出した。竪穴住居SHO1は一辺6・Omの方形の住居跡であり、周壁溝は北東側で、柱穴は4ヶ所で確認した。出土土器から見て古墳時代前期の住居である。竪穴住居SH02は、耕作により撹乱を受けているが、推定径約11mの円形の住居跡である。住居内で柱穴を検出した。主柱穴と確認できるものはない。竪穴住居SHO3は、一辺5・5mを測る方形の住居跡である。主柱穴は2基確認されており、もとは4本あったと推定される。また、貯蔵穴と思われる土壙を検川した。出土土器から庄内式併行期のものである。
鶏塚占墳は、古墳時代後期の推定径約12mの円墳である。残存長5・6mを測る無袖式の横穴式石室があり、側石の石材が底に1石か2石程度残存していた。
遺物
縄文時代早期の押型文土器約20点のほか、弥生時代中期~後期の土器が出土している。古墳時代前期の3棟の竪穴住居跡からは、土師器壷、甕などが出土しており、SH03からは庄内甕に類似した土器が出土している。このほか二重口縁壷、口縁部外面に擬凹線を施す壺や高杯、器台なども出土している。鶏塚古墳からは、玉類、耳環のほか須恵器が出土しており、TK209型式に位置づけられる。また、平安時代の底部に糸切り痕跡を有する土師器も出土した。
意義
女布北遺跡では、縄文時代早期の押型文土器が出士したほか、古墳時代前期初頭または前葉に属する。竪穴住居跡からは、一定量の土器が出土した。住居跡の変遷についてはSHO2→SH03→SH01と推定される。土器では、平安時代の土師器の好資料を得た。このように当遺跡は、縄文時代から古墳時代および平安時代にわたる複合集落遺跡であることが明らかになった事例として評価できる。  〉 

『くみはまの民話と伝説』
 〈 賈布神社の由来 女布 小田岩太
丹後の国熊野郡女布に鎮座まします賈布(ひめふ)神社は、大屋媛の命・豊受媛命・狐津媛命の三神を祀り、氏子は女布・丸山・野中・安養寺・郷・円頓寺・谷の七ケ村であります。
大正の七・八年の頃でありましたが、野中が売布神社の氏子から離れまして、現在は六ケ村となっております。
古い文書によりますと、永留・神崎も売布神社の氏子であったことがうかがわれます。
なお古来からの言い伝えによりますと、橋爪峠と永留との界に売布神社の一の烏居が建てられていたと聞いております。
売布神社の祭神は、その昔海部の里、谷村に到着された時に、足を洗われたという。これを足洗いの井戸といっており、それは谷の部落から東の方へ三百米も上がった所にあり、湧水の美しい井戸で、北向の山のすそにそった山道の道ばたに今も大切に保存されています。
売布さんは谷の村から谷づたいに安養寺の村におもむかれて、安養寺村から舟に乗って、野中・丸山を経て女布の村に着き上陸されたと言います。
安養寺から女布までは、海であったのか川であったのか知る由もありません。
女布へ上睦された所は現在もフナトと言っていますが、この付近が上陸された場所ではないかと思います。このフナトに続いて南側にノボリダテと言う所があります。神さんが上陸された時、村人がのぼりを打ち立てて、歓迎した所でありましょうか。
またノボリダテからハツオカの宮の森へ来る途中にオキノドウと言う所があります。オキノトウ(塔)というとを言いかえてオキノドウと言ったのだそうです。
さらに売布さんは舟でこられましたが、その舟を神社の道端に埋めてあると聞いています。これを記念するために舟の形をした約二米程の細長い石をその上に置いて”舟石”といっております。
毎年春の例祭には、生竹にしめ縄をはって祀るのを例としております。
更に売女神社の宝物として、文化十年五月の一日、久美浜の代官塩谷大四郎から、小脇差一こしが奉納されました。
これは奥方の病気平癒祈願として納められ、その付属品として、金襴の袋一つ、絹の風呂敷様のもの一つ、桐の大きな箱一つ、奉納書並びに折紙等です。
脇差は築前国住人ヤスヨシの銘があります。
売布神社は郡内の由緒あるお宮の一つであって、大正の中頃までは、この祭には郡内全戸業を休んでお祭をしたと言うことです。
またこのお宮には大きな獅子頭があります。春の例祭当日には、子供らが戸毎に厄払いに歩くのが、戦後の子供らの行事となっております。
 三百有余年前に女布村は大火にあい、社殿もろとも焼けてしまい、天文元年以前の記録は全くありません。但し寛永四年三月お宮のご普請の記録があリ、これに基づいて、社殿再建記念として、三百三十年祭を行い、み輿をトラックに積んで各氏子の部落を廻りました。郷をはじめとして円頓寺・野中・谷を経て丸山に帰リ体憩しました。各部落でお祭をしてもらい、参った人には御神酒・お洗米を頂いてもらいました。
丸山から女布へ帰る時は、女布・丸山で二十名の輿かきが出動して、烏帽子白丁の姿でみ輿をかつぎ渡御しました。
この時は昭和三十三年四月の十五日でありまして、売布大神は今もハツオカの森に鎮座ましますのであります。  〉 

『続熊野郡伝説史』
 〈 舶石の伝説 (下佐濃村)
 女布小字初岡に売布神社がある。
当社の創立は垂仁天皇の御代川上麻須の勧請によつて出來たものといはれている。伝説として祭神豊受姫命、大屋媛命、狐津媛命の三社海部村学谷の足洗井戸といふ所に始めて止まりましてそこから野中、安養寺、円頓寺、丸山を経て船によつて女右小字船處(ふなと)に上陸遊ばされたといふことで此の附近に幟立の小字がある。社前に進むと道路の傍に船石がある。こゝで船をお埋めなされた記念に此の船を形取りて石に刻まれたといふことである。
延宝三年の女布村明細帳には長船大明神宮といつてゐたそうだ。此の長船の称は船處、船石等に関係してゐるやうである。さて現社殿は明和六年の造営に係り、近來基本財産が増殖しので昭和八年十月には拝殿の改築、絵馬堂の増築等面目を新にし一層森巌なお宮となつた。廷喜式内社で谷、安養寺、野中、郷、円頓寺、丸山、女布の七部落はこの神社の氏子である。蓋し往時の三柱の祭神がこの弛を御経由遊ばされた爲である。
元の祭日は旧九月第二の午の巳であったが近年から十月十八日を例祭としてゐる。クミグニチといつて久美浜の例祭には女布の氏子も一般に休む習慣になつてゐる。思ふにかの大刀宮と深い関係があるのだらう。
参道近にある一本松と橋爪峠にある一本松とは昔松並木で続いてゐたと伝へらてゐる。尚祭神は竹野郡木津の方面にも行れたのか当社と同じ祭神を祀り同じ七つの部落名があるそうだ。  〉 


『くみはまの民話と伝説』
 〈 女布のお薬師さん 女布 小田岩太
女布には七堂伽藍があったと言うけれど、どこにそんなものがあったのかわからない。ただ寺の跡らしい所が二ケ所あることは、わかっている。一つは今の薬師堂の上と、今一つは、シバのサキの墓の続きであがると平な所があって、この地の南側二十米程の所の南側に五輪の塔らしいものが-四十糎ぐらいの長さの塔がころがっていたのは目げきしたことがある。ここがオンマエ山無量寺といったものだそうだ。
一度この所に登ったが、今思いおこすと大きな石があって、土台石か、庭石の如く平いらで、二三人もかからないと動かないような大きな石がある。歴然と寺の屋敷あとということがわかる。
現在は柱か桁にでもなるような大きな松の木があるが雑木林となっている。
もとの寺の名をとったのか、オマエ林といっている。このオンマエ山から東の方約百米の土地、イエムカイという所がある。これは“寺院の向い””院の向い”のいいかえの言葉であろう。小谷の地名であって、これを“インノムカエ”といっている。
右に述べた寺の跡と思われる丘つづきに東の方へ百米も行った所に薬師さんがある。
この薬師さんは村の管理であって、これ以外に女布には個人管理の薬師さんが二か所ある。その一つは村の入口の方にあって、半間四方の瓦ぶきの立派な堂であって、ご本尊は石の像が三つある。これは小国家-とうふや-の管理で、商売繁昌の仏さんとして祀られている。
今一つは金剛堂の南側の俗称若宮という所の山すそに小田家の薬師さんが祀ってある。
小田家の先祖からの言い伝えによると、この付近の畑へ行った所が、畑の中から光がさしてきて、それを深く掘ってみると、この薬師さんが出たということである。
小田家としては特に昔から、漢方医の仏さまとして丁重にお祀りしておって、現在も花をたてて、お祭りし信仰しておる。  〉 

 〈 北向のお薬師さん 女布 小田岩太
ここ女布の村には、その昔北を向いて祀られていたお薬師さんがありました。
その頃湊や浜詰の漁師たちは海に出て漁をしようとしても、南の方から後光がさして、とてもまぶしくて、漁をすることが出来ませんでした。
漁師が海に出て漁が出来なくては、米を買うことも出来ません。困りはてた漁師たちはみんなより集って、あれこれ相談しました。そしてあのまぶしい光のさす所へ行ってみることになりました。
相談がまとまると、若い元気な者たちが、弁当を沢山持って、土産物をどっさりとかついで、まぶしくかがやく方へ向って山を越え、谷を渡ってどんどん進みました。
やっとたどリ着いたのが女布の村でした。
探しあてたのは北向のお薬師さんでした。
”どうぞお薬師さん、あなたの光を海の方へ向けんようにして下さい。あなたの後光が海の方を指すと、とてもまばゆくて舟の舵もとれず、魚もとれません。何日も何日も漁が出来ないので、今日ではもう米がらともからになり、家中の者が悲しんでおります。どうぞその後光が海の方をささぬようにお願いします。”
と持って来た土産物をお供えして一生懸命拝みました。お願いしました。
しばらくしたら、お薬師さんが
”みなの者よう参ってきた。ご苦労だった。わしのこの後光が海の方をささんように、南の方を向けばよいのだな”
こうおっしゃって、お薬師さんはすぐ山を下りて、南を向いてお座りになりました。
北の海はこれでもう安心して漁が出来る様になりました。
この薬師さんは、六寸ほどの色ぬりのきれいな木像です。
お堂は一間半四方で奥は格子戸でさえぎられていていつもは拝めません。
その境内は約一畝ほどあり、その半分はお守りをしている人が耕しており、お祭りには二三本の旗をたて、お供物をして、香をたきご供養します。
それは毎年七月八日のことです。  〉 




女布の小字一覧


女布(にょう)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



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