大向(おおむかい)
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京都府京丹後市久美浜町大向 京都府熊野郡久美浜町大向 京都府熊野郡湊村大向 |
大向の概要《大向の概要》 小天橋の砂嘴の先端の神戸(しど)の海をはさんで向き合う、 西側の対岸になる。こちら側から見ればまさに大向で湊宮側から開発された村ではなかろうか。 これは川ではなく外海と湾内を結ぶ海の水戸で、海水が流れている。九世戸の戸の如しと『丹哥府志』が記している。対岸が大向で、すぐ後には山が迫り、細長い村である。 「丹後御檀家帳」に「一 くみの大むかい 家百五拾軒斗」と見える。また「一 くみのいま山寺 寺拾ケ寺斗 岡の坊・尾崎坊・向坊」と見えるが、「いま山寺」は真言宗浄土山迎接寺のことで、同寺は天平2年行基の開基、但丹の境の鉢ケなるという地にあったが仁治2年弘満上人が熊野郡山内村に移建再興、さらに享禄2年空俊上人が大向に移し伽藍を重修したものと伝えている。 大向村は、江戸期~明治22年の村。湊宮村(湊村)の枝郷。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、元禄10年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年湊村の大字となる。 大向は、明治22年~現在の大字名。はじめ湊村、昭和30年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。 《大向の人口・世帯数》 105・37 《主な社寺など》 広峰神社 『京都府熊野郡誌』 〈 広峯神社 村社 湊村大字大向小字天王山鎮座 祭神=素盞鳴命。 由緒=創立年代其の他不詳にして、古老の口碑により播州広峯神社より勧請せりと伝ふ。大正三年十一月拝殿の建築成り基本財産等完備せるを以て同九年四月十六日神饌幣帛料供進神社として指定せらる。 氏子戸数=六十五戸。 境内神社。御祖神社。祭神=伊奘册命。由緒=不詳。 四柱神社。祭神=志那津毘古命、志那津毘売命、天之水分神、国之水分神。由緒=不詳。 水戸神社=速秋津毘古命。由緒=当社は元禄十三年創立に係り、明治四十三年小字下所より当境内に移転せり。 〉 真言宗大覚寺派浄土山迎接寺(遍照寺) 遍照寺はかつて当所にあった真言宗迎接(こうじょう)寺が、昭和初年に唯一残存していた塔頭の蓮光院と合併して遍照寺となったもの。迎接寺は、「丹哥府志」に天平2年(730)行基の開基とし、もとは但馬境の「鉢がなる」にあり、仁治2年(1241)弘満が山内(さんない)(現廃村)に移して再興したという。山内集落から山内ケ嶽を登ると仁王門屋敷・弁天の森・寺屋敷・本堂屋敷・鎮守ケ平の地名が残るそうである。その後享禄2年(1529)に空俊が現在地に移したという。 「丹後国御檀家帳」の「くみのいま山寺 寺拾ケ寺斗、岡の坊、尾崎坊、向坊」とある「いま山」は迎接寺をさすとされる。塔頭として宝寿院・蓮光院・遍照院・中性院・正覚院があったという。 『京都府熊野郡誌』 〈 浄土山 迎接寺 湊村大字大向小字池ノ坊 真言宗本山大覚寺末 本尊=阿弥陀如来。 由緒=丹哥府志を按ずるに、天平二庚午行基菩薩の開基にして元但丹の境鉢がなるに在り、爾来伽藍頽廃に及ぶや仁治二年弘満上人伽藍を再興し、山内の地に移せり。後三百余年を経享禄二年な至り、空俊上人再び伽藍を修して此の地に移す、本尊阿弥陀如来は行基菩薩の作にして、傍なる阿弥陀如来は恵心僧都の作なりといふ。万寿三年橘朝臣国司たりし時、弥陀上人府中に於て恵心僧都の来迎式を行ふに際し、阿弥陀如来を請して会式の本尊と崇めしといふ。当山寺運益隆昌帰依するもの多く、寺内宝寿院蓮光院遍照院中性院正覚院等の六院を有せりといふ。今蓮光院を存するのみなり。文政十一年十月本堂を再建し、明治四十五年二月庫裡焼失の災あり、什宝三十二点を焼失せるは遺憾の極みなりき。丹後国檀家帳に「くみのいま山寺」とあるは此の迎接寺をいへるなり。寺の山をいま山といへるよりの名なりと覚ゆ。なほ寺十ケ寺斗とあれば、足利末世には多くの坊を存し、寺運の盛なりし程も推知せらる。 境内仏堂。権現堂。本尊=蔵王権現。 地蔵堂。本尊=六地蔵大士。由緒=共に不詳。 〉 臨済宗南禅寺派臨江寺 『京都府熊野郡誌』 〈 医王山 臨江寺 湊村大字大向小字下町 臨済宗南禅寺派宗雲寺末 本尊=瑠璃光薬師如来。 由緒=当山は天文年間中の創建に係り、開祖を玉雲琳禅師といふ。禅師は宝泉寺の四世の祖にして、天文二十年三月示寂せり。当山は開創以来宝泉寺別院の姿にして、住職も宝泉寺の前住が静養的に在住せられしもの多かりき。嘉永元年殿堂鳥有に帰せる以来、寺運傾き挽回する事能はず、漸く寺格を維持するのみなり。 〉 日村丘(ひまおか)砦 久美浜小学校の裏山・城山公園がある山にこの砦があったとフツーはされるが、「一色軍記」に「日村岳砦、松倉周防守、久美庄湊大向の地なり」とあり、永禄元亀天正頃一色家諸将地侍居城図(「田辺旧記」所引)→も、 今の大向に「日間丘、松倉周防守」と記される。 ここは久美浜湾に出入りするには必ず通らなければならない要害の地だから、何か見張所くらいはあったであろうと推定される。 大向の裏山を四神(じらい)ケ嶽は日村丘と称し、湊宮村の日留居(ひるこ)大明神はもとこの日村岳に鎮座したと伝えるから、日村丘砦は四神ケ嶽にあったのではないかの説も唱えられる。私としてはもっと水道寄りの低い場所にあった、遍照寺のある辺りではないだろうかと推定するが、何も遺蹟は確認はされていない。 《交通》 《産業》 大向の主な歴史記録『丹後国御檀家帳』 〈 一くみのいま山寺 家拾ヶ寺斗 岡 の 坊 尾 崎 坊 向 坊 一くみの大むかい 家百五十軒斗 かうおや かうおや 井上太郎左衛門殿 孫 太 夫 殿 〃 五 郎 太 夫 殿 七郎左衛門殿 山 本 と の 大しもの左衛門殿 藤 内 と の 〆 〉 『丹哥府志』 〈 ◎大向村(河内村の次、湊村の西) 【医王山臨海寺】(臨済宗) 【浄土山迎接待寺】(真言宗) 寺記曰。浄土山迎接寺は天平二庚午年行基菩薩の開基なり、元但丹の境鉢ケなるといふ處に在り、居(かえり点)焉五百十余年殆ど破損に及ぶ、於是仁治辛丑年弘満上人山内の地に移し伽藍を再興す、後三百余年を経て享禄二年に至る、是歳空俊上人山内より又此處に移し伽藍を重修す。本尊阿弥陀如来は即ち行基菩薩の作なり、傍にある阿弥陀如来は恵心僧都の作なり、涅槃像一軸曽我宗丈の筆也と伝ふ、万寿三丙寅年橘朝臣国司たりし時弥陀上人府中に於て恵心僧都の来迎会式を行ひ給ふ、此時当時の阿弥陀如来を請じて会式の本尊となし給ふといふ。塔頭六院あり左に記す。 宝寿院 本尊聖観音(運慶作)。三尊弥陀(唐知及)。愛染明王(弘法大師)。不動明王(兆殿司)。同(智海)。五大尊(弘法大師)。日輪大師(真雅)。釈迦三尊(宋張川)。 連光院 本尊大日如来(運慶作)。五大尊(弘法大師)。 遍照院 本尊大日如来(運慶作)。不動明王(智海)。十六羅漢(守信)。 中性院 本尊聖観音。不動明王(憲海)。 正覚院 本尊阿弥陀如来(恵心僧都)。阿弥陀仏(同)。 【加賀嶋】 【西嶋】 〉 大向の小字一覧大向(おおむかい) 神戸野 神戸野浜 神戸野六本松 ビワ田 神戸野マガリ 神戸野堀切 堀切 ウシガエ 宮崎 宮崎西ノ谷 シタガ崎 赤坂 イシ ヘソ嶋 半賀 片ブチ 小森 塩谷 塩谷口 カゴ谷 木曽 中井戸 当田 イツクシ 中田 祇園 イツクシ橋ケ木 大谷 中曽根 小峠口 小峠 草谷口 藤浪 藤浪奥 藤浪川ハタ 河内 半谷井戸 半谷 小路ケ谷 カヤカリ場 半谷崎 横道 栃ケ谷 隠谷 二丁瀬 二間瀬 毘砂子 ニラガ谷 岡崎 稲木場 谷 宮ノ前 宮ノワキ 寺屋敷 出郷山内 西山 山内上リ口坂ノ下 空下 岩ケ本 ダワラ 油石 鈴ケ岡 鈴ケ岡空下 ハブ谷 円崎 ハブ谷円崎 寺下タ 池ノ防 迎接寺 タビタ 上ノ町 シンイト 上ノ町新井戸 中町 下ノ町 堂ノ前 墓ノ前 墓ノ下 丸山 墓ノ先 墓ノ先岡ノ上 岡ノソラ ヨシナカ 本墓 本墓ノ先 浜 ヨフ長 要長 本バカ 大坪 大坪上 大坪道ノ上 大坪ノ上 坂入 千田 蛇ケ谷 掛ケ上 ジミ路 清水原 大峠 小井谷 中井谷 土取場 天王山 宮下 大森 ギヲン下 カンダ 小森奥 円谷 ハフ谷 シシラ 尾加賀 尾加賀谷 加ゝノ平 加賀谷 飛び 今山 岡ノ上 掛ケ下 テ田ノ上 ジゝラ 清水原ノ上 清水原上 峠 小井谷ノ上 魚見ケ鼻 小峠奥 北谷 ハブ谷口 大カゝ谷 下所 月谷 テ田上 神戸野廻リ上 寺ノ下 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『京都府熊野郡誌』 『久美浜町史』 その他たくさん |
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