大田南古墳群
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京都府京丹後市弥栄町和田野 京都府中郡峰山町矢田 |
大田南古墳群の概要これが大田南古墳群をいだだく丘である、何とも情けない姿をしていた。 最も破壊が進むその上に大田南2号墳がある。 これが「王家の丘」などと呼べるだろうか、衛星画像で見るとさらにひどい、ここは中世に矢田山城が築かれて壊され、そして今は花崗岩を採石しているようである。 文化財に対するモラルが低いとどうしょうもない野蛮人と見られ誰からも信用されないぞ。遺跡はわれらの世代だけの遺跡ではない、将来世代の遺跡でもある。しかもここにあるのはアフガンのこの遺跡→より200年以上は古いものだぞ。 文明に対する蛮行、しかも異教徒によってではなく、そのまぎれもない子孫によってである。 右が北で、丘陵尾根にはだいたいこういう風↓に古墳があるという(図は『宮津市史』より)。 巨大な墓壙を持った6号墳は少し離れて500メートルばかり北にある。 (『京丹後市の考古資料』より) 下からならそこに案内板があるので、どうやらそうらしいと判る。 この尾根が大田南古墳群、南へ続いて大田古墳群、さらに古天王古墳群へと竹野川に沿うように下流(北)へと続いていく。 なぜこの位置に「王家の丘」があるのだろう。すこし上流になるが湧田山古墳と王家の墳墓がここに連なるのは、当時の物流や文化の大動脈・竹野川意識であろうか、あるいはもしかすると、この下まで入り海が広がっていたかも知れない。 京丹後市教委の案内板 ↑↓→ 大田南古墳群 【大田南古墳群】 大田南古墳群は、大小の円墳・方墳からなる総数25墓の古墳群である。平成2年以降合計12基の古墳の調査を終了しその結果、この古墳は竹野川流域における古墳時代前期の、有力者の墓域てあることが明らかとなっている。 丹後地方と中国大陸・朝鮮半島との交流が検証できる遺跡として、貴重な成果も数多くあげられている。 しかし中世に、古墳群上に山城・矢田城が築かれた際、いくつかの古墳が削平、改変を受けたものと思われる。 (2号墳) 22mX18mほどの方墳で、埋葬施設に舟形の木棺をもっていた。主な副葬品として、棺内から銅鏡1面(画文帯環状乳神獣鏡)、棺外から鉄剣が一振り出土している。被葬者の頭付近(鏡の周辺)には朱の痕跡が認められた。 出土した鏡は中国後漢時代(2世紀後半)に華南地方て製作されたと考えられるもので、鈕に龍の文様をもつことが大きな特色である。同様の鏡は、中国・朝鮮半島て出土例が知られている以外は国内で初めての出土てあり、現在京都府の指定文化財とされている。 (4号墳) 26m×16mほどの方墳であり、長大な組合せ式木棺の頭部と推定される側の棺外に、大型の壺がおかれていた。 (5号墳) 18.8mX12.3mの方墳で、組合せ式石棺を埋葬施設としていた。棺内から出土した副葬品には、紀年銘鏡としては、日本最古となる方格規矩四神鏡や、幾重にも布に巻かれていた鉄刀などがみられた。この銅鏡は絹織物にくるまれておりおそらくは木箱に収められた状態で棺内に副葬されたと考えられる。 銅鏡の銘文中に刻まれた年号は、中国・魏の年号「青龍三年」(西暦235年)である。これは 魏志倭人伝に、卑弥呼が魏に使節を送ったと伝えられている、景初三年(西暦239年)の4年前に当たるものであり大変注目を受けた。なお、現在この鏡は国の重要文化財に指定されている。 (6号墳) 径約30mの円墳である。墳頭部に掘られていた墓壙は、縦9.6m・横6.5m・深さ2.5mという巨大な規模をもっていた。埋葬施設は、小石を丁寧に敷きつめ、ベンガラや朱をほどこした礫床を持つ、大きな組合せ式木棺である。木棺の内部にもベンガラが塗られていたと考えられる。副葬品として石釧が2点出土したほか、刀子やヤリガンナなどの鉄製品も多数出土している。 大丹波王国の範囲(丹後丹波但馬あたり)から出土する鏡は少ない、全部で百面もあるだろうかの数である。『魏志』が「汝の好物」と記す鏡が30面や40面と一つの甕棺や古墳からでも出土する北九州や大和と比べると事情が違っているように見える。なぜそうなのはわからないが、丹波王国は耶馬台国系のようには鏡大好きではないようである。異常に興味がありすぎた北九州・大和とちがいフツー程度にしか鏡などには興味もなかったのかも知れないし、そんなもんよりは鉄かも知れないし、ほかに理由があるのかも知れない。どちらかと言えば、日本的でなく、朝鮮・中国的な好みの地であったのかも知れない。 そうした地でもあるにも関わらず、大田南古墳群は卑弥呼当時のごく初期の古墳群で、しかも古鏡が出土し、しかも年号鏡「青龍三年鏡」、ピッタリと卑弥呼時代の鏡だったことで全国的な注目を集めた。 大田南古墳群は25基あり、そのうち11基が発掘調査されたという。ここから古墳時代が始まる、というような初期の古墳群である。 竹野川のもう少し上流に湧田山古墳(100メートル・前方後円墳)があり、これが最古ではないかとも言われるが未調査である。その南に続く位置にあり、ひっくるめて推測すべき古墳群ではなかろうか。 ここの地下には巨大断層があるように思う、この線を延ばすと加悦谷まで続いているが、この断層谷から堆積土を25メートル取り除くと、海は大宮町境まで入ってくる。この海が丹波王国を築いたのかも知れない。 まさか、と思われようが、『丹後町史(昭51)』によれば、江戸時代の金毘羅(峰山町泉)詣りは、間人方面からなら、多久神社(峰山町丹波)の下までは舟でいったと言われている。まだこの入り江の幾何かは残していたようである。 大田南2号墳ここでは2号墳が最古とされていて3世紀中葉、のちの山城で壊されていてわかりにくいというが、だいたい長さ22m×幅18mの方墳、あるいは南隣りの3号墳を含めての前方後方墳かといわれる。 墳丘中央部に、長さ8m×幅3.6mの埋葬施設1基を配置する。埋葬施設は二段墓壙で、下段に長さ2.3m×幅0.6mの舟底状木棺を持っていた。舟底状木棺はこの当時の丹後の王墓とされる。 直径14.5㎝の「画文帯環状乳神獣鏡」の出土。 被葬者の頭部右側付近で大きく二つに砕けた状態で出土した。故意に割ったものでなく、埋葬後土圧によって砕けたものと判断されている、鏡は布で包まれて鏡背面を被葬者の顔に向けてほぼ直立して状態で副葬されていた。 2世紀後半か3世紀前半の後漢時代四川製作と見られている。鈕(真ん中の握り)に龍文があるほかに類例がないという鏡である。一般に神獣鏡は権威ある宝物と見られているそうで、耶馬台国の公孫氏経曲による一元的な入手を想定されているという。これも注目の鏡である。 大田南4号墳少し遅れて4号墳が築かれた、長さ26m×幅15.5mの方墳。3つの埋葬施設あった。第2主体が、平坦面中央に位置する最大の埋葬施設で、長さ8.2m×幅4.35mの二段墓壙であり、下段に組合式木棺を持つ。長大な組合式木棺でこれも当時の王墓ではなかろうか。 大田南5号墳5号墳は、4号墳と同一丘陵の先端部に立地する3世紀後半の方墳。 4号墳との間には、幅5m×深さ0.9mの区画溝を持つ。長さ18.8m×幅12.3mの墳丘に埋葬施設が4基あった。 第1主体が中心埋葬施設で、検出面で長さ4.6m×幅3.2m、上段までの深さは0.92m。二段墓壙の下段に凝灰岩製の組合式石棺があった。石棺の内寸は、長さ1.77m×北東幅0.69m・南西幅0.51m。蓋石は2枚からなり、継ぎ目は粘土で目張りがされていた。 この石棺が舞鶴の切山古墳出土の石棺や岩滝の丸山古墳の石棺とよく似ている。凝灰岩がどんな色なのかよくわからないが、薄いピンクの棺なら被葬者は女性でなかろうか、と私は勝手に考えているのだが、その棺内から青龍三年の年号銘を刻む方格規矩鏡四神鏡が出土しで全国的な注目を集めた。 第1主体部墓壙上より、破砕供献された壷、鼓形器台、高杯などの土師器約20個体分が出土。石棺内からは、銅鏡、鉄刀、人骨が出土した。第2~4主体部施設からは遺物がなかった。 方格規矩四神鏡は、石棺内北隅で鏡面を上にして出土した。鏡背部分に布片が付着しており、鏡と底石の間に黒色の付着物が残っていたことにより、鏡は布に包まれ、木箱に入れられた状態で被葬者の頭部右側に置かれたものと推定されている。 魏の年号「青龍三年」(235)を持つ紀年銘鏡で、直径17.4㎝、重さ570gを測る。扁平な鈕に長方形の紐孔をもち、鈕孔内に鋳張りが残っている。「青龍三年 顔氏作鏡成文章 左龍右虎辟不詳 朱爵玄武順陰陽 八子九孫治中央 壽如金石候王」の銘文があるという。特に「青龍三年」の年号を必要とした意味がないような、魏皇帝から特別に下賜されたとも思えないような、ありきたり的な銘文のように見えてくる。青龍三年銘鏡は、その後、安満宮山古墳(大阪府高槻市)より同型焼が出土し、さらに関東にも出土地不詳の同型鏡1面があることが判明した(同じ鋳型で作られたか、あるいは踏み替えしで作られた鏡同士だという)。 紀年鏡は全国から13面しか出土していない。青龍三年はその中で最も古い年号であり、丹後王国内と思われる古墳からは紀年鏡は3面も出ている。中国製説、日本製説があるが、もしかすると「卑弥呼の鏡」の1面かも知れないともする。 (いまのところ紀年銘鏡は全国で13面しか出土していない。魏の年号を記した鏡が9面で、青龍三年銘方格規矩四神鏡が当墳と高槻市安満宮山古墳ともう1面出土地不明のものが発見されている。景初三年銘三角縁同向式神獣鏡が和泉市黄金塚古墳と島根県加茂町神原神社古墳から、景初四年銘斜縁盤龍鏡が福知山市広峯15号墳↑と伝宮崎県西都原市持田古墳群から、正始元年(240)銘三角縁同向式神獣鏡が豊岡市森尾古墳、→ 群馬県高崎市柴崎蟹沢古墳、山口県新南陽市竹島古墳から出土している。 同時代の呉の鏡が2面あり、赤烏元年(238)銘対置式神獣鏡が山梨県三珠町鳥居原狐塚古墳から、赤烏七年銘対置式神獣鏡が宝塚市安倉高塚古墳から出土している。どの古墳も当古墳くらいの大きさのものである) ついでながら古い鏡といえば、丹後一宮・籠神社に伝わる鏡が2面ある。小さい方の鏡は、前漢鏡で、紀元前1世紀後半製という。漢といっても楽浪郡から伝わったらしい。こんな古い鏡は北九州の甕棺墓くらいしか、わずかに出土するかというもの、畿内には1面もない、天皇さんでも持ってはいないと思われる。大きい方は後漢初期のもので、これは畿内の古墳からも出土するという。 数は多くはないが質がよい、たいしたこともないどこにでもありそうなありふれた外観の小さな古墳から出土する丹後丹波の鏡はアジア全体からみても珍品である、なにごとも外見で判断してはなるまい、大陸とはチョクに交易し、大陸の文化に通じたよほどに目利きの「輸入業者」がいたのかも、丹後は知能派、外見より中身派、古墳が見た目に大きいとか数が多いとかだけでは地域の真の実力は判断できない。 舞鶴切山古墳と似た凝灰岩というのが興味引かれる、地元産(丹後か若狭)の凝灰岩だと舞鶴あたりでは言われているのだが、本当にこんな凝灰岩があるのだろうか。言われている辺りには地質図で見る限りは凝灰岩はない、もう少し北側へ行けばあるが、あそこのは真っ黒けである。 阿蘇ピンク石に似ているのではなかろうかと興味引かれるのである。刳抜式でもないし、時代も早いので、阿蘇から持って来たとは誰も推定もしてれていないようだが、ひょっとして、それもあることかも知れない、何と言ってもここは丹後だから。 大田南6号墳6号墳は、少し西側に張り出した尾根の先端部に位置する直径28.5m×高さ2.7mの円墳。巨大な埋葬施設が1基あった。 墓壙は、長さ9.6m×幅6.5m×深さ2.5m、主軸は東西方向。埋葬施設は、長さ5.4m×幅0.8~1.14m、中央部に礫床を持つ組合式木郭で構成される。4世紀中葉。 こんな巨大な墓穴で、何か仕掛けがありそうだとは思えるが、木槨墓らしい。 『倭人伝』に「棺あるも槨なし」とあり、倭人の伝統には見られなく、中国式のものである。 『読売新聞(96.5.25)』 〈 *“王家の尾根“巨大な墓穴*長さ10㍍、深さ2㍍*古墳時代前期*丹後独自の埋葬文化*大田南古墳群で出土* 京都府弥栄町の丘陵にある古墳時代前期の大田南古墳群から、長さ約十㍍、深さ二㍍以上の巨大な墓壙(墓穴)が、二十四日までに出土した。墓穴としては異例の大きさで、古代の丹後勢力は、独自の埋葬文化を持っていたことが推測される。同古墳群からは、中国・魏の年号が入り、邪馬台国論争に一石を投じた「青龍三年銘方格規矩鏡(重文)」などが発見されており、〈王家の尾根〉との見方も出てきた。 墓穴が見つかったのは大田南六号墳で、四世紀末から五世紀初めにかけて築造された直径約三十二㍍の円墳。尾根上部を切り出し、墳頂郡は直径約十五㍍のテラス状になっている。墓穴は東西九・五㍍、南北六・五㍍、探さ二・三㍍の箱形。穴の壁面はほぼ垂直で、底の中央部にはゴルフボール大の小石が台形状に丁寧に敷き詰められ、表面には朱が施されていた。棺はなかったが、痕跡から組み合わせ式木棺とみられ、頭を東に向けて埋葬したらしい。 副葬品して石釧(石製の腕輪)や鉄製品が出土しており、町教委などでは 「墓穴の中心に棺が納められ、その周囲で埋葬儀礼をするために広いスペースが必要だったのではないか」と推測している。 大田南古墳群は同町から峰山町矢田にかけての丘陵にあり、小規模な円墳と方墳が二十三基確認されている。五号墳(方墳)からは九四年三月、青龍三年(二三五)の銘が入った方格規矩四神鏡が出土。また、二号墳(縦二十二㍍、横十八㍍)からは、鈕(つまみ)に龍の文様を刻んだ中国・後漢時代(二世紀)の画文帯神獣鏡が国内で初めて出土している。 六号墳を含めた三つの古墳は数十年の間に相次いで築造されたと考えられ、大陸と交流があった丹後の有力者が継続的に活躍していたことを裏付けた。 石野博信・徳島文理大教授(考古学)の話 「人の背丈よりも深い古墳の墓穴は、国内ではほかに例がないのではないか。日本より深く埋葬する傾向があった中国の思想の影響が入っているのかもしれない」 〉 大田南古墳群の主な歴史記録『京丹後市の考古資料』 〈 大田南古墳群(おおたみなみこふんぐん) 所在地:弥栄町和田野小字大田 峰山町矢田小字坂尾 立地:竹野川中流左岸丘陵上 時代:古墳時代前期 調査年次:1990~96年(弥栄町教委、峰山町委) 現状:5号墳のみ保存、ほかは消滅 遺物保管:市教委(一部、丹後郷土資料館寄託) 5号墳出土遺物(重要文化財) 2号墳出土遺物(府指定文化財) 文献:BO50、B078、B085 遣構 大田南古墳群は、5回にわたる調査で12基の古墳の内容が明らかになっている。 2号境は、標高84mの丘陵の最高所に位置する長さ22m、幅18mの方墳もしくは3号墳を含めた前方後方墳である。墳丘中央部には、長さ8m、幅3.6mを測る埋葬施設1基を配置する。埋葬施設は、二段墓壙であり、下段に長さ2.3m、幅0.6mの舟底状木棺を持つ。 4号墳は、標高83mの丘陵上に位置する。墳丘は、地山整形により築かれ、長さ26m、幅15.5mを測る。3つの埋葬施設が確認された。第1主体部は、地山を二段に掘削して構築され、下段に組合式木棺が納められていた。第2主体部は、平坦面中央に位置する最大の埋葬施設であり、長さ8.2m、幅4.35mの二段墓壙であり、下段に組合式木棺を持つ。第3主体部は二段に掘削された土壙墓で、長さ1.86m、幅1.42mを測る。 5号墳は、標高82.2mの4号墳と同一丘陵の先端部に立地する。4号墳との間には、幅5m、深さ0.9mの区画溝を持つ。墳丘は、長さ18.8m、幅12.3mを測り、尾根線と同軸方向の埋葬施設を4基確認した。 第1主体部は中心埋葬施設であり、検出面で長さ4.6m、幅3.2mを測り、上段までの深さは0.92mを測る。二段墓壙の下段に凝灰岩製の組合式石棺を持つ。石棺の内寸は、長さ1.77m、北東幅0.69m、南西幅0.51mを測り、北東側が大きい。蓋石は2枚からなり、継ぎ目は粘土で目張りがされていた。第2主体部は長さ3.1m、幅1.33m、深さ0.4mの土壙墓である。第3主体部は二段土壙墓であり、上段は長さ2.46m、幅1.15m、深さ0.3m、下段は長さ1.9m、幅0.8m、深さ0.4mを測る。第4主体部は長さ3.1m、幅1.33m、深さ0.27mの土壙墓である。 6号墳は、9号墳から西側に張り出した尾根の先端部に位置する直径28.5m、高さ2.7mの円墳である。地山整形で埋葬施設1基を確認した。また、後世築かれた経塚状遺構も存在した。 墓壙は、長さ9.6m、幅6.5m、深さ2.5mを測り、主軸は東西方向をとる。埋葬施設は、長さ5.4m、幅0.8~1.14m、中央部に礫床を持つ組合式木郭で構成される。 遺物 2号墳からは、埋葬施設にともなう遺物として、銅鏡、銅鏡付着の有機質、鉄剣、不明鉄製品、不明木製品、土器10個体が出土している。鏡は画文帯環状乳神獣鏡であり、被葬者の頭部右側付近で砕けた状態で出土した。小破片は、範囲30㎝にわたって散っていたが大破片は二つ折れの状況で出土したこと、大破片の鏡背部および鏡面部に布が付着していたことなどから、棺内に立て掛けられていたものが土圧によって砕けたものと判断されている。なお、その出土状況から、鏡は布で包まれて鏡背部を被葬者の顔に向けてほぼ直立して状態で副葬されていたものと考えられる。直径14.5㎝を測る。 この鏡の大きな特徴は紐の龍文様である。製作年代については、龍紐に注目する原田三壽が2世紀後半に後漢の四川で製作されたものと想定し、福永伸哉は画文帯の雲車の形状、進行方向から3世紀前半の製作年代を与え、耶馬台国の公孫氏経曲による一元的な入手を想定している。 5号墳は、第1主体部墓壙上より、破砕供献された壷、鼓形器台、高杯などの土師器約20個体分が出土した。石棺内からは、銅鏡、鉄刀、人骨が出土した。第2~4主体部施設からは遺物は出土していない。方格規矩四神鏡は、石棺内北隅で鏡面を上にして出土した。鏡背部分に布片が付着しており、鏡と底石の間に黒色の付着物が残っていたことにより、鏡は布に包まれ、木箱に入れられた状態で被葬者の頭部右側に置かれたものと推定される。中国三国時代(220~265)魏の年号「育龍三年」(235)を持つ紀年銘鏡で、直径17.4㎝、重さ570gを測る。扁平な鈕に長方形の紐孔をもち、鈕孔内に鋳張りが残っている。青龍三年銘鏡は、その後、安満宮山古墳(大阪府高槻市)より同型焼が出土し、さらに関東にも出土地不詳の同型鏡1面があることが判明した。2号墳出土の画文帯環状乳神獣鏡とともに3世紀の日本を考察する上で貴重な資料である。 6号墳からは、墓壙上に供献された小形底壺、甕、高杯、鼓形器台などの土師器15個体分が出土している。礫床部より石釧2点、刀子11点、ノミ状鉄製品9点、木質のついた針状の不明鉄製品、不明有機質依存体が出土している。 意義 太田南古墳群は、丹後地域の古墳時代の開始時期を語る上で重要な首長墓と前期後半の首長墓からなる良好な資料が得られた。 太田南古墳群の特徴として、第1に墳丘の形態が、2、4、5号墳は地山整形による方形状の古墳である点が挙げられる。 第2に2号墳は弥生時代後期中葉以降の首長墓に採用される舟底状木棺、4号墳は古墳時代前半以降丹後地域で長大化し、首長墓に用いられる組合式木棺、5号墳には箱式の組合せ石棺、という埋葬施設の差異が挙げられる。 第3に墳丘上の墳丘上の埋葬施設の数が挙げられる。2号墳は1基であり、個人のための墳墓と評価される、これに対して4、5号墳は、小児棺を含むそれぞれ複数の埋葬施設を持ち、前代の伝統を引き継ぐ小児を含む多埋葬墓である。 また、1~5次にわたる発掘調査により、前期古墳の年代決定に重要な指針となる土器の一括資料が得られた点は、他地域との比較を行う上で、その意義は大きい。 2号墳からは山陰系の甕と鼓形器台が出土しており庄内式新段階との併行関係が考えられる。 4号墳からは布留式古段階と併行する資料と考えられる頸部に突帯を持つ山陰色の濃い特徴的な二重口縁壺が出土している。 以上の点から、2号墳が最初に営まれ、やや遅れて、4、5号墳が営まれたと考えられ、その築造年代は3世紀中頃と推測される。 これに対し、整美な円墳であり巨大な墓壙に木郭、中央部ら礫床を持つ組合式木棺を持つ6号墳の築造年代4世紀中葉と推測される。 〉 〈 太田2号墳(おおたにごうふん) 所在地:弥栄町和田野小字下太田 立地:竹野川中流域左岸丘陵上 時代:古墳時代後期 調査年次:1969年(府教委) 現状:全壊 遺物保管:丹後郷土資料館 文献: 遺構 太田古墳群は、丘陵上に連綿と造られた51基からなる古墳群で2号墳は、最北に位置する。 墳丘のの南東側は削られていたが4基の埋葬施設が検出された。第1~3主体部は、墓壙上面で長さ4.5~5.6m、幅1.8~2.5mを測り、その中にいずれも組合式木棺が埋葬されていた。第1主体部の木棺内には、伏せた状態の須恵器蓋、杯が置かれ、間から一連の勾玉、管玉、小玉が出土したほか、朱の痕跡もあった。第2主体部の木棺内にも伏せた状態の須恵器杯2個が置かれ、付近には碧玉製管玉8点、ガラス小玉10点があった。また棺の西南壁面に接して鉄鏃とヤリガンナが発見された。第3主体部の木棺内には須恵器杯2点が3㎝の間隔で置かれ、その間には象牙片1点が見つかったほか、多量の鉄器や約50点のガラス小玉が出土した。 古墳の外表施設として円筒埴輪列が墳頂平坦面と墳丘裾部の二段にめぐらされていた。出土した埴輪は100本を数え、総数では裾部だけで250本が立てられていたものと考えられている。 遺物 第1主体部出土の玉類は、碧玉製管玉2、瑪瑙勾玉1、水晶切子玉1、ガラス小玉69で一連となる首飾りである。第3主体部の鉄器類は、長さ90㎝の鉄刀1、長さ38㎝の探検、長さ118㎝の鉄剣1、刀子2、鉄鏃約30本を数えるほか、多くの須恵器類も出土している。 意義 太田2号墳は古墳時代後期に築造された、大型の円墳である。また、竹野川流域の後期古墳では唯一の円筒埴輪列を持つ。出土した須恵器の形式から、第3主体部→第1主体部→第2主体部の順に埋葬されたことが分かる。また第1、2、3主体部の棺内に置かれていた蓋杯は、丹後地方に多い須恵器転用枕である。このように多くの円筒埴輪や豊富な副葬品を持つことから竹野川中流域を治めた豪族の首長墓と考えられる。 〉 〈 太田4号墳下層墓(おおたよんごうふんかそうぼ) 所在地:弥栄町和田野小字下後 立地:竹野川中流域左岸丘陵上 時代:弥生時代後期後半、古墳時代後期 調査年次:1999年(府センター) 現状:消滅(国営農地) 遺物保管:市教委 文献:CO78 遺構 太田古墳群は、竹野川中流域の郡盆地と弥栄沖積地の間の狭隘部に位置する丘陵上に存在する51基からなる古墳群である。1989年、国営農地開発事業に伴い造成対象地となった4号墳について発掘調査を実施したところ、6世紀前葉~中葉にかけて営まれた3基の埋葬施設のほか、その下層に弥生時代の土壙5基が検出されたものである。検出された土壙は、古墳時代の埋葬施設を取り囲むように配置しており、元々墳墓が造成されていた場所を古墳として再利用したものと考えられている。 土壙1は墳丘上の西肩付近で検出された。平面形は隅丸長方形を呈し、中央部はさらに1段深く掘り込まれている。規模は長さ1.94m、幅0.6m、深さ0.2mを測る。表土直下の土壙検出面および埋土中から多量の弥生土器片および鉄剣1が出土した。報告によると、これらの遺物は全体に棺の腐食により落込んだような状況を呈していることから、木棺を安置した弥生時代の埋葬施設であり、出土した土器群は土壙埋土上に供献されたものであると判断されている。 そのほか、墳丘上の西肩にさらに1基(土壙4)、墳丘上の東肩に2基(土壙2、3)のほか、古墳の第1主体部に切られた土壙1基(土壙5)検出しているが、土壙3で弥生土器片が出土したほか、出土遺物は見られなかった。 遺物 土壙1では、土壙検出面南側において大型高杯2、器台1、鉄剣1が出土している。さらに土壙内からは、大型高杯1、高杯4が床から浮いた場所で正位で出土し、その上から高杯1、脚付装飾壺1が横位で出土した。出土量は、全体で大型高杯4、高杯5、蓋1、脚付装飾壺1、器台1、鉄剣1となる。 高杯には浅い椀状の杯部から口縁部は複合口縁を邑し、口縁部外面には擬凹線文が施されるもののほか、浅い椀状の杯部から口縁部を外方につまみ山し形成するものとの2種類存在する。また、脚付装飾盃は玉葱状の体部を有し、体部中位に円形竹管文を巡らす貼付突帯を施す。口縁部に擬凹線文が、また受け部に2箇所の穿孔が施されている。 また、鉄剣は刃部および茎部の大半を欠くが、両関で断面レンズ状を呈している。金谷1号墓と同様に、破損品を墓上に供献したものと考えられる。 意義 太田4号墳下層墓は、竹野川中流域に所在する弥生時代後期の墳墓である。古墳として再利用された際に地形も改変を受けていると想像されるため墳形などの様子は不明だが、地山削り出しによる台状墓と想定される。築造時期は、土壙1の出土遺物の特徴から弥生時代後期後葉と考えられる。 竹野川中流域の弥生時代後期後葉の墳墓として良好な一括資科を得ることができた例として貴重なものであり、丹後地域の弥生時代後期の土器編年を考える上で有意義なものである。 〉 〈 古天王2・5号墓(ふるてんのうに・こごうぽ) 所在地:弥栄町和田野小字岩崎 立地:竹野川中流域左岸丘陵上 時代:弥生時代後期中葉から後半 調査年次:2000年野(弥栄町教委) 現状:調査範囲は埋め戻し 遺物保管:市教委 文献:B101 遺構 標高52mの丘陵尾根上に立地している2号墓は、もともと前方後円墳の古天王2号墳の前方部として認識されていた。土砂採取業者の不注意により削平されたため正確な墳丘規漠は不明。4つの埋葬施設が確認できた。 第1、2主体部は尾根線に対し直交する向き、第3、4主休部は尾根線に沿う形で築かれていた、第主体部は推定長辺2.5~3m、深さ1.3mの墓壙にH形の組合式木棺が、第2主休部は、推定長2.7m、深さ0.83mの墓壙に推定長2mの組合式箱形木棺が安置されていたと考えられる。 第3主体部は、幅1m、深さ0.58mを測り、一部に赤色顔料が超められた。第4主体部は、幅0.72m、深さ0.47~0.59mで、赤色顔料は認められなかった。どちらも棺の構造は不明である。 5号墓は、2号墓と同一丘陵の最先端部標高48mに位置し、尾限と直交する2本の区画溝により区切られている。墳丘規模は、SD01裾側が9.8m、SD02側が7m、区画溝間は11.3mを測る。14の埋葬施設を確認している。内訳は、木棺葬の埋葬施設が10基、土器棺墓1基、不明のもの1基である。そのうち、第3、4、9主体部では墓壙内破砕土器供献がうかがえる。また出土遺物のレペル差から、盛土による整地が推測される。 遺物 2号墓の第2主体部墓壙内から管玉46点、がラス勾玉1点、壺の体部片1点が出土したいる。 5号墓は、第1主体部墓壙上より、壺1点(11)、大型加飾長頸壺2点(1、4)、長頸壺1点(2)、ブランデーグラス状脚付鉢1点(8)、コーヒーカップ状鉢4点(13~16)、高杯4点(19~22)、小型高杯(18)が出土した。このうち4は、河内(生駒山西麓)産と考えられる、また、木棺周辺から墓壙 内破砕土器供献された甕1点(10)、木棺内から鉄剣1点(34)が出土Lている。 第3主体部墓壙上に供献された土器として、高杯1点、ブランデーグラス状脚付壺(鉢)1点、高杯あるいは器台の脚部片1点がある。第7主体部木棺内からはヤリガンナ1点(32)が出土している。 第9主体部墓壙上に供献された土器として、加飾された壺1点、長頚壺3点(5~7)、コーヒーカップ状鉢1点(17)、高杯7点(23、24ほか)がある。また、木棺上から銅鏃1点(31)と墓壙内破砕土器供献された甕1点(9)が、木棺内から鉄剣1点(33)が出土した。 土器棺として、第12・13主休部では壺が、第14主体部部では壷(30)と高杯(29)が出土した。 区画溝SD01からは、器台2点(27・28)、長頚壷2点(3ほか)などが出土Lている。 意義 2号基は削平のため、詳細は不明だが、山陰系の台付装飾壷片から弥生時代後期末葉と考えられる。 5号墓は、区画溝で関瞭に区切られた墓域を形成し、大小多数の墓壙が簗かれる家族墓的様相を示す。また出土遺物にも河内地域、東海地方、山陰地方のものが見られ、他地域との関連を想起させる事項が多い。中心的な埋葬施設であり、舟底状木棺を納める第1主体部が最も古く位置づけられ、順次、周辺埋葬が営まれていることがわかる。その時期は後期後葉である。舟底状木棺の早い採用例としては、大風呂南1号墓(与謝野町)と並んで古いものであり、区画溝も大型化している。弥生時代後期後葉の墓制を考える上で重要である。 〉 『弥栄町史』 〈 〔大田第二号墳〕大田第二号墳は弥栄町和田野小字大田にある直径三十ニメート川、高さ七メートルの円墳である。竹野川の左岸に接して南北に延びる丘陵の頂部に築かれたもので、現在の竹野川衛生センターの背後にあたる。丘陵上に二基の古墳がほとんど裾部を接して築かれているが北側を第一号墳、南側を第二号墳と名付け、発掘調査ぱ第二号墳について行われた。この二基はもともと南北に長い丘陵の頂部中央を掘り割って築かれたものであることが、第二号墳の周囲を巡っている円筒ハニワ列の遺存によって確かめられた。円筒ハニワは古墳の裾の部分に巡らされており、ほとんど間隔を置かず接するように並べられていた、そのうち二個のハニワの内部に土師器の壷か埋められていた。この壼は葬送の議式に関係のあるものと考えられる。 古墳頂部には四基の埋葬施設があった。いずれも、組長い穴を畑りその中に木棺を安置するという比較的簡単な埋葬形式であ.った、棺内外から多数の副葬品が発見された。なすなわち、馬瑠製勾玉、碧玉製管玉、水晶製切子玉、ガラス小玉などの装身共、鉄刀、鉄鏃、刀子、ヤリガンナなどの鉄製利器、杯、高杯、ハソウ、壷、子持壷、提瓶などの須恵器等てある。全長百二十センチにおよぶ鉄刀は、儀器的な性格をもつものと考えられるのて、被葬者の性格の一端を窺い知ることができる。四基の埋葬施設は同時に築かれたものでなく若干の時期のずれを考える必要があるが、出土器から推定していずれも六世紀前半に築造されたものであろう。六世紀は古墳時代の後期と考えられるが、この古墳は五世紀的古墳時代の中期的伝統を受けついだものとして、横穴式石室をもつ古墳とは区別されるものてある。この調査結果は、弥栄町ではもちろんのこと丹後地方の後期古墳の性格を知る上で貴重な資料を提供したものといえる。 七世紀後半に築造された多数の小規模な群集墳を最後として古墳は造られなくなるのであるが、これは六世紀における仏教文化の伝来により火葬の風習が原因といわれている。丹後地方にも律令制度の確立とともに新たな仏教文化の影響があらわれるのである。 〉 |
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関連情報【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『丹後国竹野郡誌』 『弥栄町誌』 その他たくさん |
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