丹後の地名

扇谷遺跡
(おうぎだにいせき)
京丹後市峰山町丹波


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京都府京丹後市峰山町丹波

京都府中郡峰山町丹波

京都府中郡丹波村丹波


扇谷遺跡の概要




《扇谷遺跡の概要》


『京丹後市の考古資料』より。少し古い地図である。
扇谷遺跡は、KTR峰山駅の駅前にある弥生遺跡。西向かいの岡の上にある。鱒留川と小西川に挟まれて東西に延びる丘陵(扇谷)の東北端に位置し、標高50メートル、水田面との比高20メートルくらいである。ここには今は丹後文化会館などが建っていて、地形は古代とは、この地図の当時とは変わっている。
中期初頭と見て、紀元前1世紀頃の遺跡である。

南の八幡山古墳があるあたりがこの遺跡の中心ではなかろうか。古墳造営で破壊されていなければ、古墳の底に弥生遺跡が眠っていそうである。
扇谷遺跡
KTRの線路と平行して走る府道上(A)から見る。一番右手(北)に丹後文化会館がある。おそらく遺跡の中心は左手(南)の山であろうか。
時代が違うかも知れない、内壕が埋まったのちに外濠が作られたのかも知れないが、ともかくも二重にも深く掘られた環濠で守らなければならないような重要なものがあったとは、現代人から見れば思えないほどの面積しかない。
古代遺跡というものは、今から見れば意外と小さなもので、当時の超ハイテクオンパレード「至宝」工房が、この山に集結していたのかも知れない。しかし山の上ではハイテク工場の用地には向きそうにない、2〜3代続いたのち捨てられたのかも知れない。いつの時代でもハイテク?原発がよい例で長く続いたりはすまい、長い歴史の検証を経ていない技術のあやうい宿命のようなもの。
発掘当時よりのちに作られた町道杉谷荒山線。南側(荒山)(B)より。右手の山が扇谷遺跡地である。←そこの崖の上あたりから鉄滓が出土している。
板状鉄斧や同じ材料の鉄滓が出土していて、砂鉄を使った鋳鉄工房、製鉄工房があったのかも知れない。舶載のものというより、鉄滓も出ているからここで造られたと見たほうがよいと思われる。
天智9年紀に、「水碓を造って鉄を鋳造した」の記事があるが、それよりもずっとずっと古く、弥生前期末ころにここではすでに砂鉄を用いて鉄が鋳られていたかも知れない、という大変な、常識がひっくりかえる遺跡である。成相寺や智恩寺の鉄船が鋳鉄だろうが、その大先輩か。
ずっと後世でも、このあたりでは一つ目の大入道が出たとか。一番谷の大入道

『謎の古代氏族 鳥取氏』に、
 〈 …但馬・丹後両国の国境から丹後半島にかけての山地は、出雲国に劣らぬ砂鉄の豊富な地方である。昭和四十九年から五十八年にかけて竹野川上流の峰山町扇谷遺跡で弥生時代前期末から中期初頭の高地性集落の発掘調査があった。この調査報告書(『扇谷遺跡発掘調査報告書』一九八四、峰山町教育委員会)によると、集落をめぐる周濠内から弥生土器とともに、「鉄斧、鉱滓状の塊」などの出土があった。これらの鉄製遺物の化学分析を担当した日立金属株式会社冶金研究所清水欣吾氏の報告は、鉄斧は砂鉄系原料から製造された鋳造品と推定し、鉄滓も砂鉄系原料による鍛冶滓と推定すると結論している。この清水氏の分析調査は信頗される高度なもので、学界でも高く評価されている。
 この調査結果は丹後国の峰山町という辺地の遺跡ということもあって軽視されているようであるが、遺跡の性格、遣物の内容など弥生時代前期を解明する重要な遺跡の一つである。その中でとくに注目されるのは、弥生時代前期から中期という時期の集落立地と集落形態であるが、これを別にするとやはり砂鉄系原料から鋳造されたと推定された鉄斧であり、同系原料によると推定される鍛冶滓である。現在各地で出土した弥生時代の鉄製品は、中期末から後期に集中的で、そのことごとくが鍛造品である。扇谷遺跡のように前期末でしかも砂鉄鋳造の鉄斧、鉄滓は管見の限りでは本例がはじめてである。
 この砂鉄鋳造の鉄斧が大陸からの舶載品であるのか、国産原料による鋳造であるのかは判らない。しかし、但馬・丹後国の山地に包蔵される良質で豊富な砂鉄を考えるとき、扇谷遺跡出土の鉄斧、鉄滓の関連遺構、遺物、すなわち製鉄遺跡の出土に期待するのは多くの関係者の願いであろう。  〉 

扇谷遺跡

反対側の杉谷側(C)より。この道路の左にそって環濠が巡らされていた。道路はそれを避けるよう設計変更されたという。今は埋め戻されて見えない。坂の頂上付近に案内板がある。↓
案内板
扇谷遺跡
(立地)
 扇谷遺跡は、この背後にそびえる丘陵中腹、標高55m〜65m、丘陵裾との比高差30m〜40mの斜面に位置します。この事は西から東に伸びる丘陵の末端部分にあたり峰山盆地を一望でき、竹野川及びその支流を見下ろすことのできる、交通の要所といえる地点てす。
(概要)
 昭和40年の遺跡発見以来、現在までに10次にわたる発掘調査が行われ、弥生時代前期末から中期にかけての比較的短期間営まれた遺跡であることがわかりました。調査により二重に巡らされた巨大な環濠が発見され、住居跡は古墳の造営及び後世の削平により検出されませんでしたが、防禦的な周濠を備えた高地性集落とみられ当時の乱戦をうかがわせます。出土遺物は畿内第I様式・第U様式に比定される弥生土器、鉄製品、鉄滓、玉つくり未製品などで、技術者集団の存在が推定されます。またこの地点より南西に2.3q蜘離れた地点にある途中ケ丘遺跡との関連も指摘されています。
(環濠)
 環濠はこの丘陵を取り囲むように巡っており、全長は850mに及びます。その外側に一部欠けている部分がありますが平均12mの間隔で平行して外濠が巡っています。濠は最大径6m、最大深4mに及び、断面は∨宇型またU字型をしており、濠の外側に土を盛り上げたものや、排水溝などが発見されています。また、濠内に陸橋の一部とみられるピットが検出されています。
(鉄製品・玉つくり関係遺物)
 扇谷遺跡から出土した板状鉄斧は、全長5.6p 幅3.4cm、厚2.0p、重さ68gのもので、砂鉄系原料による鋳造品です。鉄製品導入期の希少なものです。
 その他精錬錬鍛冶滓と位置づけされる鉄滓(鉄くず)、碧玉、緑色凝灰岩、瑪瑙、鉄石英などの玉つくり遺物の破片および未製品が出土しています。
(陶ケン)
 中央支丘くびれ部溝CVより出土した陶ケンは、高6.7cm最大径5.8pの卵形のもので、背面が欠損していますが、内面底部には指頭圧痕や指なで痕が認められ、手づくねによる成形とみられます。
 陶ケンとは中国源流の土笛のことで、日本では日本海沿岸を中心に平成9年現在て57点出土しており、日本海沿岸の文化の伝播を考えるうえて重要な遺物てす。(京丹後市教育委員会)


環濠の跡(埋め戻されて何もない)
今は何も見えない↑
発掘当時↓(『日本の古代遺跡・京都T』より)

キャプションに、
 〈 巨大な環濠
 峰山町の扇谷遺跡で発見された環濠は、延長一キロにもおよぶ巨大をものであり、最大幅六メートル、深さ四メートル、立ち上がり角度五〇−六〇度というX字形の濠を形づくっていた。しかも、それが弥生時代前期の段階できずかれていたことが判明した。弥生時代の高地性集落として最古のものであり、人びとの注目を集めている。  〉 

タヌキやイノシシが入ってこないように、という濠ではない。吉野ケ里なども同じような舌状台地にあって二重の、あるいはそれ以上の環濠に囲まれていた。あそこは総延長2.5キロあるとかで、ここよりは長い、しかしその最盛期は後期になり、扇谷の方が300年は古い。


扇谷遺跡の主な歴史記録


『京都新聞』(99.3.11)
 〈 *まちの文化財87*
*濠をめくらした要塞跡*
*扇谷遺跡 峰山町杉谷、丹波、荒山*

 峰山球場の入り口付近の山はだに羽衣天女のレリーフがあり、その上の丘陵地帯で発見された、弥生時代前期末から中期初頭にかけての高地性環濠集落跡。標高六〇b前後で、東側の眼下には竹野川を望む。
 府丹後文化会館や町道杉谷荒山緑の工事などに伴い、一九七四(昭和四十九)年度から八五(同六十)年度にかけて十次にわたり発掘調査された。濠(ほり)の延長は約八百五十b。XやU字形の幅四−五b、深さ三−四bの濠が二重にめぐらされていた。今は埋め戻されているが、厳重な防御態勢を備えた要塞(さい)だったことがうかがえる。
 各種土器や鉄製のおの、ガラス原料など多数の遺物も出土した。中でも珍しいのは、「陶けん」と呼ばれる卵型の土笛。九州北部や山陰地方など全国から約五十個出土したうちの一つ。縦六・七a、最大径五・八aで、神事などに使われたと見られる。町内では、途中ケ丘遺跡からも三つ見つかっている。
 扇谷遺跡について、峰山町教委の岡林峰天主事(二七)は「丹後にこれほど大規模な遺跡はあまり例がない。一大勢力があった証拠の一つでは」と推測する。当時、近隣の勢力と何らかの緊張関係があったのか、想像が膨らむ。  〉 

『丹後の弥生王墓と巨大古墳』
 〈 扇谷遺跡 竹野川中流域の左岸の丘陵上にあり、水田面との比高差は約三五メートルを測る。発掘調査の結果、前期末・中期初頭の短期間に営まれた集落であることが確認されている。環濠は部分的に二重に巡らされ、断面形はV字で、広く深く掘削され、最大で幅六メートル、深さ四メートルを測る。総延長一・一キロであるが、全周せず、谷部は開放している。この箇所には柵列などをめぐらしたのであろうか。なお、内環濠に囲まれた範囲は環濠両端から直線的に柵列が施されたとして、約四・四へクタールである。
 扇谷遺跡は端的に言って、居住に不向きな場所である。丘陵はヤセ尾根で、上面幅は十数メートル程度しかなく、谷部斜面地を建物域にできるであろうが、急傾斜であり、環濠囲繞面積に比して建物域は狭いと思われる。発掘調査では遺構の遣存状況が悪く、ピットがいくつか確認されただけである。
 遺物は主に環濠埋土中から出土し、鉄斧片・ガラス原料塊・玉作り関連遺物の出土、石鏃製作の痕跡などがみられる。  〉 

『古代への旅−丹後』
 〈 扇谷遺跡 峰山町杉谷・丹波・荒山
竹野川をのぞむ、標高五六〜六六m比高三〇〜四〇mの丘陵斜面に濠をめぐらした高地性環濠集落跡であるが、弥生時代前期末から開始されたと思われるこの遺跡は、延長八五〇m、幅四〜五・五m、深さ三〜四mの断面V字形やU字形の二重の濠に囲まれ、厳重に防御された要塞ともいえるもので、圧倒的な迫力を私たちに見せつけてくる。一九七四年以来一〇次にわたる発掘調査の結果、各種土器、土製品(陶けん・紡錘車)、鉄斧、ガラス工房を想像させるガラスの原料、玉作り関係の資材など大量の遺物が出土、戦いに備え石鏃・石斧などの武器をつくり、布を織ったり鉄やガラス製品、玉類を生産するきわめて活発に活動していた技術者集団のムラであったと考えられている。このような高度の技術を持つ集団が、なにゆえに要塞とみえるようなムラをつくり、この高台から敵対する勢力といかに対峙し眺めていたのか、興味のつきないところである。こうした社会的な緊張関係が丹後の中心地に弥生時代前期から存在していたことは、この地が以後丹後の古代史上において中心的な役割を果たしていったことを暗示しているのではないだろうか。  〉 

『京丹後市の考古資料』(地図も)
 〈 扇谷遺跡・七尾遺跡(おうぎだにいせき・ななおいせき)
所在地:峰山町丹波小字扇谷ほか(扇谷遺跡)
    峰山町荒山小字七尾(七尾遺跡)
立 地:竹野川中流域左岸丘陵上
時 代:弥生時代前期末〜中期初頭
調査年次:1974、77、78、80〜82、82〜85年
    (峰山町教委)
現 状:調査後一部保存(扇谷遺跡:市指定遺跡)
    消滅(七尾遺跡)      一
遣物保管:市教委
文 献:B003、B8018、B024、B035

遺構
 扇谷遺跡は、竹野川流域の支流小西川と鱒留川に挟まれた、竹野川西岸を望む丘陵上に位置する。周辺は独立丘陵の様相を呈しており、竹野川の向きへ伸びる三つの支丘で構成された丘陵の標高50〜60mに位置する。平地との高低差は約20mあり、弥生時代前期末〜中期前葉に営まれた高地性集落である。
 1965年、付近の工場整地の際、弥生土器が発見され「扇谷遺跡」として報告された。その後、中央の丘陵を崩し、二つの谷を埋め、丹後文化会館用地を造成する計画が立てられたため、1974年に発掘調査を実施した。その結果、全長170mにおよぶ溝状遺構が検出され(巻頭図版2−6)、環濠集落遺跡であることを確認した。その後、遺跡の南西部に都市計画街路の建設が計画され、1980〜82年に工事予定地の丘陵を発掘調査したところ、調査地の丘陵山腹から大規模な二重の環濠が検出した。このため、日本考古学協会が峰山町長などへ遺跡の保存について要望書を提出するなどの保存運動が展開された。結果、道路構造上の工法変更により遺跡の消滅を最小限にとどめるよう変更がなされた。その後、遺跡の範囲性格、内容確認のための発掘調査が1982〜85年まで行われ、環濠の全長が830〜850mに及ぶ全国屈指の弥生時代前期の環濠集落であることが判明した。
 以上、10次におよぶ発据調査終了後の1993年には峰山町指定遺跡に指定され、法的保護が図られた。その後は、2004年の京丹後市発足により京丹後市指定遺跡となり現在に至っている。
 扇谷遺跡を最も特徴付ける環濠は三つの支丘のうち中央支丘の中腹から基部丘陵を通り南丘陵、南支丘の中腹へと二重にめぐらされている。環濠は一部で崖による消失のため確認できない部分があるが、平面形状は東側に開口する馬蹄形をしており、内壕は全長830〜850mに及ぶ。内壕と外濠の間隔は斜距離10〜1mの幅を保ちほぼ平行に並んでいるが、丘陵西側など外壕が一部確認できなかった地区もあり、一部には存在しなかった可能性も指摘されている。環濠の規模や断面形状は地形によって変化しているが、通常幅4m、深さ2m程度、深いところでは幅6m、深さ4mに達する場所も存在する。また、断面形状はV字またはU字型をする。太部分が花崗岩の地山を掘削して形成されているが、一部では壕の外側に土を掘り上げ防御性を高めている部分もある。濠内の堆積状況は、C地区の観察によると、まず自然堆積があり、次に丘陵の低い側から上砂が堆積し、それ後に丘陵の高い側からの土砂堆積が推測される。遺物は各層から出土しているが、高い側からの堆積層に多くの遣物が含まれる。
 環濠の内側については、急峻な地形で尾根上も狭長である。中央支丘と前支店丘の谷間に設定したグリッドから畿内T〜U様式の弥生土器が出土しているが、遺構は確認できていない。また、中央支丘基部、南支丘の尾根筋に設定したトレンチから浅い土壙、焼土を伴う土壙、ピット群などが検山されている。南支丘の東斜面から検出された段状遺構などは、奈具岡遺跡(4)の例から住居跡の可能性が考えられる。集落の中心は、濠の開口部に面する東側斜面および丘陸上が推測されている。
遺物
 扇谷遺跡からの出土遣物には、弥生土器、鉄製品、石製品、土製品、ガラス原料、ベンガラなどがある。出土遺物のほとんどが内壕から出土した。
 濠内から出土した土器はすべて弥生土器である(巻頭図版2−4)。器種は壺、甕、鉢、蓋であり、当該期の通常の集落遺跡と異ならない。口縁端部が未発達で加飾が少なく篦描文様を施す畿内第T様式の特徴を示すものから櫛描文様を多用する第U様式に比定されるものがある。T様式から第U様式への過渡約な様相を示したものと考えられる箆描文と櫛描文を併用しているものもある。これらの出土土器の一部は胎土分析され、南西約2・5q離れた途中ヶ丘遺跡出土土器と比較されている。結果、両者の第T様式土器の胎土にはかなり近い組成の粘土を使用していたこと、第U様式土器には別の組成を持つ粘土も胎土に使用され、その粘土が途中ケ丘遺跡出土土器の胎土の一つとしてその後も利用され続けていることが判明している。出土製品は、紡錘車、上錘のほか、陶?が出土している(巻頭図版2−5)。紡錘車はすべて土器を利用したもので、重さ7・8〜70.7gと多様なものが出土しているが、特に10g以下の小形紡錘車の出土比率が高く、蚕糸など特殊な繊維の紡錘に使用した可能性がある(巻頭図版2−2)。陶?は中央支丘溝CV区より出土したものであり、口径3・0cm、高さ6・7cm、最大怪5・8cmを測る卵形の小形品である。胴部には径1.5oの小孔が4ヶ所開けられている。茶褐色を呈し、表面には箆で磨いた痕跡が認められる。
 鉄製品は、板状鉄斧、粗悪な鍛造鋼片、砂鉄系鍛冶滓が出土している。南支丘周壕No.10から畿内第U様式に比定される土器と供伴した板状鉄斧は、化学分析によると、炭素量が3%と多く、鋳巣と見られる空孔の存在から鋳造品と判断されている。また、原料は砂鉄系原料とされる。
 石製品には、石鏃、石槍、太型蛤刃石斧、石包丁、敲石、くぼみ石、石鍬、磨製石剣などのほか、砥石、石錐、石鑿、摺棒、石鋸がある。石鏃は大きさ50〜17o、重さ0.4〜5・1gと多様なあり方を示す。石材は無斑晶安山岩のものが大部分を占める。
 玉作り関連遺物には、管玉欠損品、未製品、緑色凝灰岩片、碧玉片、玉砥石などがある。遺跡の広い範岡から出土しており、工房跡などは確認されていないが、完成品の出土が少ないことからその存在が予想される。
 また、特殊な出土品として、半融状態のガラス小塊がある。組成分析およびX線回析分析によるとガラス小塊は結晶化しており、アルカリケイ酸塩ガラスめ原料が半融状態で冷却された結果、結晶化したものと推定されている。
意義
 扇谷遣跡は、弥生時代前期末から中期前葉にかけて丘陵上に営まれた丹後地域を代表する環濠集落である。住居などの様相は不明ながら、傑出した規模の環濠は防御的な性格がうかがえる。
 出土遺物についても、鍛冶滓、玉作り関連遺物、ガラス原料の存在は新しい知識、技術を持った生産集団の存在を推測させる。さらに、玉作り関連遺材の量が多いことから他地域への供給も想定できる。扇谷遺跡出土の土器は、貝殻施文の土器を含み日本海的な色彩が強いが、近江や播磨の影響を受けたものもあり、広い交流がうかがえる。
 また、扇谷遺跡の南の谷を隔てた丘陵に立地する七尾遺跡では、弥生時代前期末〜中期初頭に築造された方形台状墓2基が検出され、扇谷遺跡の集落に対応する墓域と推定されている。
 さらに、南西に2・5q離れた微高地に立地する途中ケ丘遺跡との関係では、時期、立地、継続性などに差異はあるが土器の胎土、陶?、玉作り関係遺物の出土などに共通点も見られ、密接な関係が想定される。  〉 


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん


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