丹後の伝説3
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その三

丹後の伝説:3集

如意尼、蛇女房、笛の嫌いな殿様、他
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一番谷の地蔵(峰山町杉谷) 犬石(舞鶴市吉坂) 大入道のはなし(大江町外宮) 小野小町塚(大宮町五十河) 加佐郡役所(舞鶴市職人町) 河辺八幡神社(舞鶴市河辺中) 鹿原神社の夫婦岩(舞鶴市鹿原) 北吸と三宅神社(舞鶴市) 逆さ杉・送り杉(舞鶴市鹿原) 白髭神社の黄泉水(舞鶴市吉坂) 戦争体験者の証言 洞窟の蛇(舞鶴市・建部山) 蛇女房(大宮町明田) 如意尼伝説(加悦町香河・野田川町石川など) 笛のきらいな殿様(舞鶴市小倉) 防空壕だらけの町(舞鶴市) 真下飛泉 和田沖の爆発事故


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吉坂の地名の起こり(舞鶴市吉坂)


『若狭高浜むかしばなし』(平4・町教委)に、
犬石

 むかしむかし、若狭国と丹後国は互いに仲が悪く、いつも国境の争いをしていた。両方の国の人たちが集まっては、いろいろ話し合いをしたのだが、どうもなかなか納まらない。
 そのうち誰が言い出したのか、どちらからも犬を一匹ずつ出して、その二匹を喧嘩させ、その勝ち負けで国境を決めようということになった。
 やがて犬の決戦の日がやって来た。選ばれた犬は、どちらも強そうな白犬である。ところが両方の国の人たちは、お互いに自分の国の犬の方が優秀だと信じ込み、
「この勝負はいただきだ」
と心の中でほくそ笑んでいた。
「ウーウー」
犬たちはしばらくにらみあい、うなっていたが、やがて激しい組み討ちとなった。
 見ている人たちは、それぞれ自分の国の犬を応援していたが、どうやら若狭の犬の方が、優勢のようである。そのうち丹後の犬は、すきを見て逃げ出してしまった。若狭の犬は逃がしてなるものかとそのあとを追いかけ、とうとう坂の峠のあたりで丹後の犬を組み伏せた。こうして、国境は、若狭の国の言うとおりに決まったのである。
 それからというもの、この犬の勝負のあった坂は、“吉坂(きっさか)”と呼ばれるようになった。これは若狭にとって良いことがあった坂なので、こんな名が付いたのだと言われている。

 六路谷(ろくろだに)に近い吉坂の坂がしらには、道をはさんで左と右に、犬の形に似た大きな石が並んでいる。ここがちょうど若狭と丹後の国境にあたり、左の方は若狭犬、右の方は丹後犬と呼ばれている。今でもここを通る人は、この犬石を見て、むかしの国境争いの話を思い出すのである。

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北吸きたすいきたすいきたすい村(舞鶴市北吸)

【丹後の歴史】
『舞鶴の民話4』に、

のろしをあげる(北吸)

 北吸村は、むかしは現在の市役所の西北の三宅谷にありました。かつて北吸村の人たちは、寺がなく、海のむこうの大浦半島の古刹多祢寺の檀家でした。
 仏事のあるときは、三宅の浜辺で、のろしをあげて知らせていました。このお話は、西大浦沿革史にかかれています。中田村平楽寺の法螺貝を吹いて仏事を多称寺に知らせた。海自の北吸係留岸(舞鶴市北吸)

 北吸の浜辺からは、伝馬船に乗って、平へ向かって漕ぎ出され、多称寺の僧、松尾さんを迎えるのがならわしだった。そのためか、今でも北吸には「浜にはいつも伝馬船を一そうは残せ」ということばが残っている。伝馬船を重要な連絡方法として必要とした。中世以前の北吸村と大浦の浜との深いつながりをものがたる言い伝えであろうと思われる。

余部下村に禅宗の雲門寺が成立した十五世紀ごろから、北吸の村びとは雲門寺の檀家となり、のち江戸時代に入って、浜村に波照山得月寺が開かれると、その檀家となっていました。明治の世になり、松尾寺の地から、真言の寺、鏡智院が移ってきたことは、北吸の村人にとっては歓迎されたようです。永年お世話になった得月院から全村イージス艦妙高(北吸岸壁)が直ちにぬけることが出来ないと、村の檀家を上、下の二地域に分けて檀家変えしたと伝えられる。鏡智院の開山は松尾寺の懸空上人である。

 舞鶴に鎮守府が設けられた初代長官の、東郷平八郎中将は、この懸空上人に帰依したといわれています。鏡智院の山号が「鎮守山」と名づけられたのは、海軍鎮守府の鎮守と、海の守りへの祈りを兼ねた山号として、東郷中将からおくられたものである。
 東市街地の寺は、何らかの形で海軍の影響をのこしています。鏡智院は現在は、大聖寺といわれています。


三宅の入江(舞鶴市北吸)かつて三宅谷の仏事のための伝馬船がとまっていたいた三宅谷の浜は、現在はイージス艦「妙高」など海自の主力艦隊が留まっている(写真。下手の土色の所はかつては入江になっていた)。全長161M・9500トン・鉄腕アトムと同じ10万馬力。「のろしをあげる」どころか迎撃ミサイル(現在装備されているのは鑑対空ミサイル)をうちあげることができる浜である。敵ミサイルを見事撃ち落とせるかどうかは別であるが、弾道ミサイル以外の普通の対艦ミサイルなら、何機飛んできても、ホイホイと撃ち落とせる、かも知れない。艦橋の前後に垂直発射装置が埋め込まれていて、90基あるが、それらが1秒間隔で発射できるそうである。艦対地トマホークも発射可能とかいう。艦橋に貼り付けられた亀の甲のようなものがイージスシステムのレーダーである。ステルス艦で普通のレーダーでは映りにくいから、付近の普通の船は気を付けないとならない、何だ小さな伝馬船かと思っていたら、こいつだったりする。スパコンのかたまりでこの船は1200億円とか言われる、環境省3年分の予算であるという、本当かいなと思って調べると本当にその通りであった。核・化学・生物から防御されている。どれくらいに一般とは不釣り合いな異常な巨艦かはおわかりいただけよう。税金の無駄遣い・バカ使いの典型例であろう。
 第2次大戦の教訓から考えれば、航空兵力なしでは制海権を握れまい、ミサイルでは無理だと思う、ヘリ搭載艦がこの前後に停泊していたが、ヘリでも無理。まだ侵略軍にはなっていないのであろう。憲法がかろうじて押さえている、そう願う。アメリカが何と言おうが、軍事評論家が何をのたもうが、もうこれくらいにしておこう。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」(憲法9条)が生きていても、これである。これが死ねば、どんな戦争国家になるか容易に想像できよう。
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北吸三宅神社と北吸村(舞鶴市北吸)

【丹後の歴史】

『舞鶴市史』に、

北吸三宅神社


北吸岸壁の「連合艦隊」 …荒神社(現三宅神社)もまた移転の対象になったが、拝殿は縦・横二間八分と三間一分の広さがあったので、坪数は八坪六合八勺となり、本殿は縦・横六分と四分の広さで、坪数が二合四勺で、計八坪九合二勺となり、二七円七五銭、摂社のエビス神社は広さ八勺、稲荷神社が二合四勺、計三合二勺で九九銭二厘、合計二八円七四銭二厘の移転料であった。


艦上の対戦ヘリ(北吸岸壁)
 …余部下、北吸両村は買い上げ代金、移転などの補償金を受けた以上、早急に土地の引き渡しと、家屋の立ち退きが必要であった。既にその前年から一部の者は、立ち退きを始めていたが、土地の代金や移転補償費を受けると、おおむね明治二十三、四年には移転を完了した。他の地方に転出したものはほとんどなく、付近の土地に新しい生活の場所をみつけた。そのため隣接する地域の住民も協力したが、北吸村の場合について、古老の伝聞をあげる。踊る露海軍水兵さんたち(北吸岸壁)

  (前略)こんな寒村でも軍港建設のため全戸移転を命じられると、どこへ移ってよいものか、先き行き不安から村人たちは毎晩のように集まっては「イヤだイヤだ」と思案投げ首だったという話を父から聞かされています。ついに政府から「行く所がないのなら、北海道の旭川の開拓村へ集団移転してはどうだ」との話がありました。これを聞いた浜村の人達から「行き先がなければ浜村の一部を譲りましょう」というので、寺川北西の浜地区の一部を分けてもらい、旭川へ行かなくてもすんだということです。

 現在、北吸のメーンストリートは、旧国道の道芝通(市道余部上・北吸線)で、両側に人家が建ち並んでいますが、移転前は「糸谷」といって、さみしい谷間でした。キツネ、タヌキはもちろんオオカミも出没したという話です。この谷間に移転したのが明治二十四年です。ところが、二十九年八月末、大水害があり、私の家はその後水害をおそれて四面山の山すそに再移転しました。(略)三宅入江より多禰寺をのぞむ

  「三宅神社」は北吸の氏神ですが、もとは「荒神さん」といって、旧北吸の北側の大きなタモの木のある山にあったものです。三宅神社という名は河辺にある「三宅八幡」と混同してつけたものでしょう。(略)荒神さんが北吸の移転と共に現在のところに移り三宅神社となったわけです。

  北吸のお寺といえば、現在は大聖寺ですが、これも移転後、松尾寺の一院だった「鏡智院」を移したものです。鎮守山大聖寺(舞鶴市北吸)古くは対岸の多祢寺とつながりがあり、同寺に北吸の古い七軒の過去帳があったと伝えられています。北吸で死んだものが出ると、浜で火をたいてノロシを上げ、坊さんに来てくれるよう知らせたという言い伝えもあります。これは、ずいぶん古い話で、その後は中舞鶴の雲門寺に属し、移転後は浜の得月寺の壇家に加わったりしたようです。だが新参者はどうしても下座に座らされるので、自分たちの寺を持ちたいと強い願いから大聖寺を建てたわけです。得月寺では檀家がいっぺんに減るので、半分ぐらいにしてくれ、との話もあったようです。(略)墓地も現在の「生長の家両丹道場」の付近から現在の北吸の墓地へ移しました(略)。    (舞鶴よみうり)


上の写真はイラクから帰ったばかりの新鋭の輸送艦「摩周」、停泊している所の手前が埋め立てられている、海自の桟橋の延長工事でより多くの艦船が停泊できるよう拡大された。こんなデカイ船も横付けできる。いよいよ戦争の用意であろうか。
二度といきたくありませんよ、インド洋は40度、艦内はエンジンを止めていても47度です。そんなところに半年間です。あちこちの計器も狂う、47度の艦内で2〜3時間の勤務です、頭がおかしくなります。何も娯楽などはありません、ずっと海の上ですから、たまに外国の港に、どことは申せませんが、入港することがあります。それ位です。あなたも行きたい?、いやいや人間の行くようなところではありません。…ということであった。
 元はここは入江になっていた。名付ければ三宅湾とか北吸湾とか呼ばれそうな入江で、ここが三宅谷の海からの入口になる。対岸にはるかに吊り橋が見えるが、その山の中腹辺りに多禰寺がある。大聖寺は元は松尾寺の子院で、同寺の近くにあった。西大寺末寺に多いと言われる、清涼寺式釈迦如来立像が伝わる、松尾寺からとも泉源寺からとも君尾山光明寺から伝わったとも伝える仏像である

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加佐郡役所(舞鶴市職人町)

【丹後の歴史】

『舞鶴市史(通史編中)』のトップに加佐郡役所の写真(下)が掲げられている、この屋敷の鬼瓦には「笠」の字が入っている。明治12年に設置され、さし当たって舞鶴町の土井市兵衛持宅に置かれたと書かれている。以下同書によれば、加佐郡役所(舞鶴市職人町)


 
府県および郡は、すでに明治十九年の地方官官制で行政区画と定められ、自治体ではなく知事、郡長は官吏であった。そこで府県制、郡制は無用とする考えや、府県や郡に自治を与えると、ひいては国政にも自治を要求する勢いを生み、国体の変革をもたらす恐れがあるという意見があった。したがって郡制は制定の前後から、その必要性と性格をめぐって多くの論議をよんだ。その上、郡域は大小不同で差異があり、また入りこみあっていて、統一した行政組織となりにくかったので、全国的にも施行されない地方があった。特に東京、京都、大阪などの主要府県は十年たっても発足しなかった。
 郡制の内容からみても、郡には課税権を与えられず、郡有財産以外は、町村の拠出によって財政を運用しなければならず、郡会議員も町村会で選出された議員(複選制)と地価一万円以上の土地を持つ大地主層の互選議員より成り、直接民意を代表する構成ではなかった。また、部会のほかに郡参事会が設けられ、郡長の諮問に応じたが、その資格も一定しなかった。郡長は官吏であったが、郡の吏員は郡の雇用人で、行政機関としても複雑な構成であった。

 しかし、郡制は当初政府の意図した全国的な郡の併合がはかどらず、また地方団体としてもその存在意義が大きくないという理由で、成立の前後からすでに廃止の声が聞かれ、大正十年にいたって郡制廃止法案が成立をみたのである。



『世界大百科事典』には、



[近代]  1871年(明治4)の大区・小区制の下で旧来の郡は否定されたが、78年の郡区町村編制法によって行政区画として復活し、郡役所と郡長がおかれた。郡長は官選で、府知事・県令の下にあって町村を監督し、もっぱら上命下達にたずさわった。当時郡長は警察とともに国家権力の象徴的存在とみなされ、各府県会ではしばしば郡長公選が建議された。90年の郡制公布によって郡には郡会がおかれ初めて地方自治体となったが、課税権もなく、府県知事や内務大臣の強い監督権下におかれ、自治体としては不完全であった。郡会はその3分の2の議員を各町村会が選挙し、残り3分の1は地価1万円以上の土地を所有する大地主が互選でえらぶこととされ、地主層中心の議会となった。99年に大地主議員と町村会からの複選制は廃止され、直接国税3円以上を納める者を選挙権者とし、同じく年額5円以上を納める者を被選挙権者とする改正がおこなわれた。大地主議員はプロイセンにならった制度であるが日本の実情にあわず、また複選制は町村の政争を激化するというのが改正理由であった。しかし、その後も郡は自治体として不十分であったため地方制度合理化の見地から問題視され、日露戦争以後たびたび郡制廃止が議論の対象となった。郡制廃止問題の背景には、官僚支配の牙城である郡制を維持しようとする貴族院の山県有朋系勢力と、廃止を機とし内務省内の山県閥を弱めようと策する原敬ら政友会勢力の対立があった。廃止法案は衆議院を何回か通過しながらも貴族院で流産させられ、成立したのは原敬内閣下の第44議会(1921)である。1923年4月1日郡制は廃止され、郡は純然たる行政区画となった。さらに26年7月には、地方行政整備と地方財政緊縮の見地から郡長以下の官吏が廃止され、郡役所もそれに伴って姿を消し、郡は単なる地理的名称となった。

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戦争体験者の証言など

『朝日新聞』(2005.5.7)の投書欄より、(実名ですが、ここではふせておきます)


中国への侵略今な払罪意感
     無職 ××××(広島県三次市 86歳)

 私はかつて6年間、中国で侵略戦を経験した一兵士だ。中国人の若者を捕まえ、一初年兵教育として銃剣で突き刺す訓練をさせられた。食料を略奪し、家を焼き、婦女子を暴行するなど限りない犯罪行為を繰り返した。中国の民衆は何代にもわたって語り伝え、怨念は容易に消えないだろう。
 私は今なお罪忍感を忘れ得ず、もし逆に我々が中国からあのような侵略を受けたらと想像し、ぞっとするのだ。そして中国に日本のような無反省な発言や行為があれば、今の反日運動以上の暴動が日本各地で起きると想像する。
 何事も原因があり結果がある。中国の反日運動も同じだ。無謀な侵略戦争をした日本は適切な処理をせぬばかりか、小泉首相が靖国神社参拝を譲らず、政治家は挑発的発育を繰り返す。
 我々はフィクションのような神話に基づく皇国史観を植え付けられ、日本は神の国と信じさせられた。そして今なお、同様の思想に基づく発言が政界にある。いずれ日本は没落に向かうだろうと危惧している。



父戦死の証し何もなかった
     無職 ××××(大阪市西成区 65歳)
 今なお、消えることがない。真っ赤な空と炎。祖父の背中から見た光景。火の粉を払いながら逃げていた。私の記憶の最初である。
 その昭和20年3月の大阪大空襲のことは数年たって古から祖父が話してくれた。
 「ただ逃げるだけで、助けてくれと叫ぶ人々に何もできなかつた」と、祖父は涙を浮かべて語った。
 家は焼け、父はフィリピンのセブ島で戦死とのこと。しかし、何の証しもない。骨籍には石ころが入っていた。祖母は復員兵のことを伝えるラジオを欠かさず聞き、必ず帰ってくると自分に言い聞かせていたのを忘れられない。
.どのような死に方をしたのか。苦しんだのか。爆弾で一瞬にして消えたのか。葛藤は今も続く。
 中学生ぐらいの時だったろうか。駅や繁華街で傷痍軍人を見て、少しだけれどお金を箱に入れた。日本の国は、政府は、天皇は、どう思っているのだろう。何度も考えた。
 日本を導く指導者たちはいま一度考慮されたし。我良ければそれで良しでは滅びる。



『京都新聞』(2005.5.12)の投書欄より、(実名ですが、ここではふせておきます)

戦争を反省し改憲の論議を
      下京区・××××(自営業・72)
 連休の最中、久方ぶりに憲法について考えでみた。
 世論調査では、かなり改正の必要性を訴える人が多いようだが、私が心配するのはこの人たちが改正について、かつての戦争を十分に反省した上で、これからの日本を考え、訴えているかどうかの一点である。
 太平洋戦争後六十年。終戦の年に生まれた人も六十歳というわけだ。
 この人たちにも、おそらく戦争についてシビアな認織は少ないはずだし、ましてやそれ以降に生まれた人たちは、史実や伝聞、さらには学校教育を通じて、戦争にいたるまでの経過、その後、敗戦に直面した日本の姿を知るにとどまる。
 政治家にしても、リーダーたちの多くが戦後生まれ。しっかりと史実を踏まえ、敗戦という国際認識を持ってもらわないと、将来、国の道を誤る「改正」にならぬとも限らない。
 人間には忘れ去ってはならないこともある。「忘却とは忘れ去ることなり」とあるが、確かに「成長」のために過去を忘れることは有効な手段の一つでもある。
 しかし、国際情勢が不穏、歴史認識に自虐過ぎてはならぬ…といった自意識だけからの改正では、やがて来た道を再び歩まないとは限らぬ。改正の目的はただ一つ「どうしたら今までと同様、いや、それ以上に平和を守れるか」だろう。

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如意尼伝説(加悦町香河)

【丹後の伝説】
『宮津市史』に、


 

如意尼伝承


  俗姓は不明であるが、如意尼の伝承も興味深い。同尼は、与謝郡出身で、淳和天皇の妃となったが、出家して仏教修行に励み、さまざまな奇跡があらわれたという。この伝承には、神仙思想がみられ、のちに龍神社の伝承とも関連づけられている。 また、同尼はこの伝承や寺伝によると、兵庫県西宮市神呪寺かんのうじかんのうじかんのうじを建立し、空海が同尼を模して作ったのが同寺の本尊木造如意輪観音坐像(重要文化財)であるとされている。しかしこれらの伝承・寺伝は疑問点も多く、淳和天皇の皇后の正子内親王の伝えを発展させたものではないかと推定されている(『西宮市史』第一巻)。慈雲寺(加悦町香河)

嵯峨天皇の後継者となった弟淳和天皇の妃に関する伝承を取り上げておくことにしたい。鎌倉末期に編纂された仏教書『元亨釈書』に紹介された如意尼の伝承によると、彼女は丹後の与謝郷出身で、淳和天皇がまだ東宮だった弘仁十三年、京の頂法寺で見初められて妃となったという。熱心に仏教を信仰した彼女は、のちに霊夢に導かれて摂津国に赴き、甲山神呪寺(現西宮市)を開いたとされる。伝説に彩られた逸話であるが、平安初期の丹後と京の人的交流が盛んであったこと、皇族と丹後のつながりの深さ、丹後における仏教信仰の広がりなどがうかがわれる内容といえよう。



『丹後の民話』には、

慈雲寺の話



 丹後の加悦町に香河という部落がある。昔、竜がこの地におりて、しばらく天に昇れなくなったことがある。ちょうどある時、竜巻が起こり、これに乗って昇ろうとしたが、運わるく月のもののある不浄の女にその姿を見られてしまって失敗した。この次昇ろうとするには、山に千年、海に千年の修行を積まねばならない。だが高僧の経を賜ることができれば昇天できるので、竜は女に化身し、供養を行うためと言って、この部落の慈雲寺に参詣してきた。
 当時この寺に名僧がいたが、「当寺は女人禁制であることを知らずに参ったのか……。また経を希望するならば、化身でなく、真の姿となって参られよ」と言われたので女はいったん寺を出たが、こんどは大竜となって姿をあらわし、ふたたび寺を訪れた。そして住僧からありがたい経をいただき、その功徳によって、いよいよ天に昇る際に、謝礼のしるしとして、わが前足の先をかみきって寺に置いていったという。これが寺宝竜の鱗″の由来である。
 この慈雲寺にまつわるもう一つの話がある。この寺の付近に小萩の屋敷跡というのがあるが、むかしここに貧しい百姓家があった。夫婦の間に子供がないので天に祈って女子を授かった。慈雲寺(加悦町香河)
 そのころ都から来た旅の憎が、芳香を放っている河水にひかれて上流の里にいたり、山村には珍しい美少女に出あった。僧はこの少女の父母にあって、「この児を私にくださらぬか。都へつれ帰って必ず大切にお育ていたしますじゃ。どうか、ぜひに」と懇望され、父母も、「大切な神からの授かりものの児ですが、ごらんの通り毎年のように洪水で田んぼを荒され、その日の暮らしにも因っておりますだ。大切な児で手放したくはありませんが、いまはもう育ててゆく力も無うなりました。どうか、なにぶんよろしゅう願いますだ」と承諾した。娘の名は小萩といって、そのとき七歳であった。泣き泣き父母と別れ、僧につれられて西国霊場を巡拝して後に項法寺という寺へ預けられた。
 小萩が十九歳になった時、当時三十七歳の皇太子のお耳に入り、宮中へ召された。小萩は皇太子妃となり、やがて皇太子は即位されて淳和天皇となられたので、小萩は皇妃となって寵愛をうけ、宮中では与佐の宇屋居子または厳子と呼ばれていた。
 ところが、小萩は、宮中へ出入りする僧、空海の信仰にひかれ、深く仏道をきわめたく発心し、ついに待女二人を連れて宮中を抜け出し、空海に弟子入りし、剃髪して「如意」の法号をもらい、侍女二人も尼になって摩耶山に入った。
 如意尼三十三歳のとき、師の空海の死に接し、無常を感じて帰郷を決意し、西院に天皇を退位された淳和上皇を訪れて別離のことばを述べ摩耶山を去った。
 上皇から授かった書、御下賜金の一部をもつて、故郷の香河に草堂をつくって、上皇のために仏の加護と師空海の冥福を祈願した。この草堂がのちに、竜の鱗″の寺、慈雲寺となったのである。
 如意尼は他にも付近に善法寺や慈観寺も創建している。
 (俵野・井上正一様より)

何とも不思議な女性である。従来の観点からはこの伝説の解明は無理と思われるので少し書いておこう。慈雲寺や善法寺(廃寺・野田川町)や慈観寺(神宮寺・野田川町)は田数帳に記載のある古い真言宗のお寺である。慈雲寺にはそのウロコがあると、どの書にも書かれている。このほかにも記録が多いが、漢文である、ここに引くのは大変につきご勘弁願いたい。神呪寺も北にいけばすぐに宝塚市に売布神社がある。この辺りと丹後は水銀でどこか繋がると以前から気にしてた場所に、やはり来てしまったようである。浦島伝説とも関係がありそうで、水銀や金属のにおいが漂うように感じるのだが、さて如何か。神呪寺と書いてカンノウジと読む、観音寺とかいうのと同じで、あるいは金生寺、鉄穴寺、金尾寺で、丹後与謝郡の鉱山関係者の開いた寺か。宝塚市の売布神社もあるいは丹後系ではなかろうか。
「甲山大師・神呪寺」丹後の伝説3へトップへ



河辺八幡神社(舞鶴市河辺中)

【丹後の伝説】
『舞鶴の民話1』に、

ぶっそうな石          (河辺中)
河辺八幡神社(舞鶴市河辺中)
 河辺八幡神社の社殿前の灯ろうには神仏合体の彫りものがある。舞鶴では他にこのような灯ろうはなく、舞鶴市の文化財となっている。
 この神社の裏にあるやぐらには金の小判が埋めてあるといわれている。しかし、その小判が殿さまのものであったのか、庄屋のものだったのかは定かではない。
 この神社の裏には無住のお寺もある。昔、そこの坊さまが石のみで地蔵さまを彫ろうとした。硬い石で、こつんこつんと、一 日に少しずつ彫っていた。石灯籠(河辺八幡社境内)
 その内に、お坊さまの髪の毛も、ひげもぼうぼうに生え、風呂にも入らなかったので異様なにおいを漂わせるようになり、村人は近寄るのをさけるようになっていった。
  そして、いつの間にか、お坊さまは死んでしまったが、石はいまでもそのままに置いてあり、その石の下にも宝ものがあるそうだ。
今まで、こっそりとそれを盗みだそうとした者があったが、いずれも果すことなく病気で早死してしまったそうである。
  また、この石の上へあがるなら素足であがれ………と、なぜか古老はいう。
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夫婦岩(舞鶴市鹿原の鹿原神社)

【丹後の伝説】
『舞鶴の民話1』に、


夫婦岩         (志楽)夫婦岩(鹿原神社)

 鹿原の金剛院にほど近い国道筋の鹿原神社には、奇妙で大きな石が二つ並んでいる。
背の高い方は上が丸く、下が細くなっており、「庚申」の文字が薄く読める。
 隣りの石は丸太くて背が低く、どうした訳か中央に裂け目が入っている。
 記録によると、この二つの石は“夫婦岩“と呼ばれ、これを拝むと子宝に恵まれるとして昔から善男善女の厚い信仰を受けている。


神々が宿る磐座でしょう。神社の社ができる以前はこの岩の前でお祭りしていたと思われる。この神社の本来の本体でしょう。上の河辺八幡社の岩も同じでしょう。丹後の伝説3へトップへ



白髭神社の黄泉水 (舞鶴市吉坂)

【丹後の伝説】
『舞鶴の民話1』に、


黄泉水のふしぎ         (吉坂)

  青葉山をみながら吉坂から東へ歩を運ぶ、松尾寺への石塔のたっている所を前方に見ながら南側に鳥居がある。白ひげ神社の神額がかかっている。それをくぐって南へといく、畑が左右につづいている。白髭神社(舞鶴市吉坂)
 「おばあさん、このお宮さんに池がありませんか」「このあたりには川が二つありますがね、池はありませんかね」とねぎを植えながらこたえる。
 「たしかむかしの記録では清らかな水のわきでる池があったと書いてあるのですが」
 「私幼いころからここに育ったのですかな、そんなものはありませんでしたがな」
 「おばあさんおいくつになられたのですか」「私かね、八十三才ですがな、もうおむかえかくるのとちがいますか」「まだまだですよ」。
 この奥の白髪神社の神殿にいく、おばあさんの話では、毎日当番がきまっていて清掃することになっているか、この頃勤めに出ている人が多くて、忘れる人がほとんどということだ。本当に草ぼうぼうで大きな木がたおれてそのままになっている。大きな木がたくさんあるが、この森を神並の森というのだ。たしかに横に小さい巾だが清流が流れている。池はないかと探したが見当らない。記録によると小池があり、その湧き出ている水を黄泉水といった。中世のころ唖者の若い人が、この水はご利益があるいい水だと聞かされていた。お宮さんにお参りした。森の中から鳥がないているらしく、時たま姿をみせる。一口この水を飲んだ、あまく冷たい、ごくとのどを通るのがわかる。何かそのあたりがざわざわと音がする。鳥が「チョン、チョン」ときこえる。自分で「チョン」というと「チョン」ときこえる。白髭神社(舞鶴市吉坂)
こんな音がきこえたのははじめてだ。「おかあさん」というと「おかあさん」と聞こえる。耳もきこえるし、言葉もいえる。
若者は何が何だかわからないが、うれしさにとんで家にかえった。
年老いた母が、裏庭で草とりをしていた。
 「おつかさん」と呼んだが振りむかない。大きな口をあけて「おかあさん」といった。
母は驚いたように若者を見た。「お前口がきけるのか?」「あゝおかあさん」二人はだきあってよろこんだ。息子にいままでの話をきき、再びつれだって白髪神社にお礼参りをした。
 その後この話をきいて、口の不自由な人、耳のきこえない人がたえまなくお参りし、この黄泉水をいただいたという。
 この池を黄泉池というようになった。今はこの池はなくなった。
手でさわると冷たい清らかな小川が森の中をながれている。

鳥の鳴き声には何か人間の病んだ神経を癒す力が本当にありそうである。ノーベル賞作家の大江健三郎さんの小説か何かで読んだことがあるように記憶している。
 クグイと遊んで物が言えるようになったという、垂仁紀の誉津別命や天湯川板挙命・鳥取氏の話を思い起こさせられる。
これはおもろい伝説である。ここにも古代の公害があったのではなかろうか。

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逆さ杉・送り杉 (舞鶴市鹿原)

【丹後の伝説】
『舞鶴の民話1』に、

逆杉   (鹿原)

  あみがさに白装ぞくの人たちが続く。私が礼をするたびに、両手を合わしてえしゃくする。どこから来られたのか西国二十九番松尾寺参りである。バスでいく人たちにくらべてさわやかな感じがする。滅罪橋を渡って西に向う。子どもづれの家族が楽しそうにいく、初秋の空はすみきり、うす雲が西の空に浮かんでいる。私は汗をぬぐいつつ、石塔をみる。左まつのおでら、右ふくい、何万人の人がこれを見て歩んでいっただろう。江戸時代より立っている歴史の重みはどっしりしている。
 私は志楽川沿いに西へいく、自動車の列が続く。神戸、大阪、名古屋ナンバーだ。左は山がこんもり茂り、右は田んぼがつづく。その田んぼの中に、杉の木が左右に八米ものびてこんもりしている。小さいほこらのお宮さんもまつってある。地上にでた根より三本の幹が出ている。一本の幹の太さは八十センチはあるだろう、おもしろい杉の木だ。古老が田にいってきたのか、腰をまげてやってきた。
 「おじいさん、いいお天気で結構ですね」「あゝ先生か、松尾寺いきでしたか」
 「はあ おまいりしてきました、たくさんの人でした」 私はあの杉を指さしながら、「あの杉は形がちがっていますが、何かいわれがあるのですか。」 「うん、わしもおじいさんから聞いただけではっきりした事はわからないがな、今から千三百年程前に、このあたり一帯に大地震があったそうだ。青葉山に大きな地割れがあり、水がふき出し、沢山の大木が水に流されたそうだ。松、杉、桧の大木も流れてきた。田んぼ一帯は岩石や木でだいなしだった。
 そして志楽荘の川に流された。ところがあの杉はここにとどまり根だけが残った。その根から芽をだしあのようになったのだ。生命あるものは、力一杯努力して太湯の光熱、水であのようになったのだ、人間も主きている以上は老若とわずがんばらんといかんな−、先生もよ−くあの逆杉のことは子どもに教えてやって」 老人は口早に語ってくれた。
 「ありがとうございました、お元気で」 しっかりした足どりで老人は去っていった。
私は老人と逆杉を見くらべながら、何か気が晴ればれした。
 あとで昔の記録を調べたら、老人のいった地震は、白鳳十三年十月十四日と記されてあった。老人のいったのとほぼあっている。




『舞鶴市史』にも、逆さ杉(舞鶴市鹿原)

送り杉
     (鹿原)


 鹿原小字杉ノ木に、送り杉というのがある。別名を杉木大明神とも称して地元で崇めているが、ちょうど、地表から根を出すような形に見えるので、逆さ杉の名もある。
 古老の言い伝えによると、白鳳十年十月十四日、北国大地震の際、青葉山が崩れて、山中の大杉が一株流れ出し、土砂に埋もれたものだという。
 また一説には、その昔、年齢八百歳にもなる老学者が諸国巡遊の折、小杉を逆さに植えたものだともいう。


本来は天上の神々が降りてくる木の伝説であろうか。宇宙山にあるという世界樹・不死樹の最期の姿である。現地には次の案内板がある。



鹿原「逆さ杉」と八百比丘尼伝説

 この杉の木は地表から根を出したような形に見えるので、古来より「逆さ杉」とよび、杉木大明神を享保年中(1716−36)に祀り地元では崇めてきた。
 白鳳十年十月(982)北国大地震の際、青葉山より流失し生えたものだといわれている。また一説には、その昔屋八百比丘尼が永らく鹿原に巡錫していた際に植えたという伝説もある。
  この八百比丘尼は飛騨国吉城郡阿曾布村麻生野(あそや)(現在の岐阜県神岡町)に生まれ「おはつ」「道春」とよび、何百年経っても十七、八才の若々しい容貌で仏に帰依して、布教や?に勤めた。鹿原の庵谷(あんのたん)に永享七年(1436)頃、五百五十一才から文禄四年(1595)頃の?までま百五、六十年間住まいし、やがて小浜の空印寺辺りへ行き入定した。
 若狭国へ旅発つ時の杉の木は、樹齢百六十年ともなり、樹周五、六尺(1.8米)と書かれ、現在では樹齢五百六十余年となり樹周三・六米、樹高十米、枝葉幅十三米となり、逆さ杉伝説の杉枝、杖、杉箸を地に挿し、百万遍の称名をすすめると、大願成就、病気平癒し、箸、枝が根ついたという伝説を今に伝えている。
 鹿原史跡保存会

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洞窟の蛇 (舞鶴市下福井・建部山)

【丹後の伝説】
『舞鶴の民話1』に、

どうくつの蛇 
         (下福井)

 建部城に一色氏か城主でいたころの話だが、中腹にびょうぶ岩といって、そそりたった岩があった。その下の方に、ほら穴があり何者かか住んでいた。
 ある日村人が、シキビをとるのに山に登っていた。姫蛇が時たま出てくる。紅にねずみ色のしま模様かわいいしぐさにその人はじっと見ていた。三、四匹はいただろう。しばらくじやれるようにしていたが、体をくれうせながら、びょうぶ岩の方にいってしまった。
男は又シキビをとってかごに入れていた。腰が痛くなったので、体をおこしぐっと背のびした。と、びょうぶ岩の方に美しき女の人がこちらをじっと見つめている。とんとこのあたりで見たことのない美しき人で、紅の着物をきている。男は今だいい年になったのに嫁がいない。夢ではないかと目をこすってみるが、女はじっとこちらをみている。男はおそるおそるそちらの方に登っていった。女の人は、にっこりと笑ったと思ったら、びょうぶ岩のどうくつの中に入っていった。建部山と南極観測船「しらせ」
男はいそいで、どうくつの方にのぼっていった。どうくつの中を見ると、ただ暗くて人の入った様子もない、男はきみ悪くなって下におり、シキビを入れたかごを背おって家にかえった。
 家に帰ったが、男はあの美しき女のことが忘れられず、その夜は夕ごはんも食べず寝てしまった。
 あくる日隣りの人に昨日あったことを話した。しかしそんなことはうそだと信用しない、また、たぬきにでもばかされたのだというだけだ。男は気になりながらも、田の仕事のために行くことができなかった。山のびょうぶ岩の方を何回もながめた。そのたびに美しい髪の長い女の姿かうつった。しばらくして、村人の間でびょうぶ岩のどうくつに誰か住んでいるといううわさが広がった。大男か入るのをみた、美しい女が入るのをみた、白髪のおじいさんが入るのを見たと、みる人によって違った。男はもんもんと夜もろくに寝むれなかった。
 お日さんが建部山におちる頃、西の空は夕焼けであった。しきびをとった所に行くと、又姫蛇へが三匹ほどたわむれていた。しばらくするとびょうぶ岩の方にいってしまった。
男はそのあとを追うようにして草をわけて登った。蛇はびょうぶ岩のどうくつの中に入ってしまった。男はどうくつにつくと、中をのぞいた。暗い中にほたるの火のように小さいあかりがいくつも光っている。男は思わず結城をふるい起して中に入った。すると光はだんだん奥の方に入っていく、その光を追って進んだ。ぽとりぽとりと岩からしずくが落ちる。まがりくねった穴は続く、少し寒くなった。足もとに水があるのか、ぴちゃぴちゃ音がする。小さい光のむれは、まだ先を行く。裏をふり返ると、ボーッと入口の光が見える。だいぶ中に入ったのだろう、光はまだつづく。
 村人たちは、男が山に登っていくのをみたものはあったが、その後男の姿を見たものはなかった。
しかし、しきび取りやしばかりにいった人の話では、びょうぶ岩のところのどうくつから、大きな三米もあるような蛇が二匹体をくねらせ、ひっついて出てくるのを見たという人がある。
 一方は黒じまで、もう一方は紅じまであるという。それからというものは、あのどうくつにはいると蛇になるといって近ずくものはなかった。
一色氏はその後、細川氏の軍勢に攻められ、奥丹の方に逃げていったということです。


建部山には大蛇がいるというのは現在でも本当のこととしてウワサされる。この大蛇を見たという人もいる。こんなかわいらしい蛇がいるのなら、私も行ってみようかと思い、尋ねてみると、麓には深い竪穴がいっぱいあって、落ち込むかもしれんぞ、あれは一度落ちたら、ちょっと出てはこれんぞ、あのへんはあまりウロウロするな、ということであった。
自然の穴なのか、それとも人が掘ったものなのだろうか。
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笛のきらいな殿様と血原の地名

【丹後の伝説】
『舞鶴の民話1』に、

笛のきらいな殿様    (小倉)

 鹿原神社を出て国道二十七号線を西に行き、阿良須神社を左に見ながら左へとって小倉に入る。重文・行永家住宅(舞鶴市小倉)
 すると、こんもりと両方に山があり、そこを登って行くと国の文化財に指定されている行永勲さんの大きな家がある。その前の道を東に行くと突き当りに小さい社かある。
 この若宮神社の秋祭りの祭ばやしには、なぜか昔から笛が入らない。古老たちに「なぜ、笛が入らないのですか」と聞くと、「先生、これには悲しいロマンがあるのですよ。まあ、先生、そこに座って聞いてください」と話はじめた。
 こんもり茂ったあの山を真迫と呼び、城ケ尾ともいいます。 頂上は、あまり広くはないが平で、昔戦国時代のころでしょうか、小倉を治める城があったのです。
 この戦様は大変やさしく、領民からは「いい殿様」として親しまれていた。 この周囲は、切りたった急な山で、典型的な山城であった。
 あるとき、若狭の方の殿様や京の都の武将らか、この城ほしさに攻めてきて山を包囲した。だが、この険しい地形から何日間攻めても、いっこうに落城しそうになかった。
 一ケ月を過ぎても、あらゆる攻撃をかけても、すべて失敗に終った。ちょうど、楠正成の千草城に似ていた。マサコ山(?)(舞鶴市小倉)
 敵はついに夜討ちをすることになり、夜になって四方から攻め登った。 月のない星空の夜だった。中腹までたどりついたが、そこからは一歩たりとも上に進むことができない急な坂が続き、これという回り道もなかった。
 どう攻めたらよいか、はたと困ってしまった。たいまつをたけば、城方にわかってしまう。
 一方、山城の方では、長い篭城で食料も水も、あと一日分となっていた。そこで、明日は山をつたって溝尻城の方へいこうと、みんなで最後の晩さんをすることになった。
 その宴も終りに近くなったとき、奥方と姫が、この城を離れる前に一度だけ笛を吹きたいといいだした。みんなも奥方と姫のすばらしい笛を聞きたいと望んだ。笛は、まるで生きているように、さびしくかなしく、またうれしさ一杯に夜のとばりの中で、心よく響きわたった。
 あせりの色が濃くなった攻め方は、頂上の方からかすかにむせび泣くような笛の音が聞えてきたとき「しめた」とほくそえんだ。この笛の音をたよりに登っていけば城にたどりつける。寄せ手に攻撃開始の命令が下された。
 静かに登る兵士たちの耳に心よい笛の音が響いた。ほんとにすばらしい音色だった。 寄せ手は笛の音の方へと進んだ。すんでいて、悲しさを含んだ音。あかりのある城には人影が映っている。寄せ手はしばらく耳をすませて聞いていた。若宮神社(舞鶴市小倉)
 ひとくぎり笛の音はとまった。寄せ手は一斉に城に攻めこんだ。もとより小さな城のこと、守り手の少ない人たちでは防ぎようもなく、たたちまち落城した。
 城主や奥方は尾根づたいに城を脱出したが、千原までたどりついたところで、あえない最後をとげた。
 悲業の死をとげた城主の徳を慕い村人は若宮神社にこれを祭った。この後、社前で笛を吹く者は一人もなかった。


『舞鶴市誌』に、

笛のきらいな殿様   (小倉)

 村の中ほどに若宮さんがあり、ここの神様は笛がきらいである。村祭りの祭礼に振りもん(太刀振り)と踊り(田楽の類)は奉納するが、笛の入る祭囃子はあげないことになっている。
 村の奥の一番高い山をマサコ(真迫)と呼び、別名を城ヶ尾ともいう。頂上は広くはないが平坦で、昔の城跡だと伝えられている。この城がぐるりから敵に囲まれたことがあった。だが、切り立ったような急な山なので、何日攻めても落城しそうもなく、敵は最後の手段として夜討ちをすることになった。マサコ山(?)(行永家住宅前から)
 中ほどまでは攻めたが、それ以上は真暗でもあり、どう攻め登ってよいのか見当もつかない。すると上の方からかすかに笛の音のようなものが聞こえて来た。その音を頼りに静かに登って行くと、それは紛れもない笛の音だった。城中の姫が吹くのであろうか。この笛の音によって寄せ手は四方から城塞にたどり着き、一斉に攻め込んだ。もとより小さな山城のことで、不意を突かれて防ぎようもならず落城した。
 城主、奥方、子女達は家来に守られ、ようやく血路を開いて尾根伝いに隣村近くのふもとにたどり着いた。しかし、敵に囲まれ多勢に無勢、ついにあえなく最期を遂げた。この地が千原である。
 非業の死を遂げた城主は、小倉にとっては殿様であるので村民はその徳を慕い、怨念を慰めようと、家族ともども若宮神社に祭った。落城のもとになったのは笛の音であったので、いまも社前では笛を吹かない。


血を流して最期を遂げたから血原だというように書かれたものを読んだような記憶があるのだが、どうも見当たらない。千原という地名には血のように赤い所といった意味がある場合がある。
「マサゴ山にお城があったという話は聞いたことがあります、この奥の方やということです、私は養子なもんで、この辺りのことはよく知らんのです、詳しい者に聞いてきましょか」ということであったが、写真のこの山で間違いないと思う。市史の付図ではどれだかわかりにくいが、山頂とある小倉城(マサコ山城)郭24.堀切5.土橋5.竪堀2はこれだろうと思われる。城主も不明。若宮神社はここより100メートルばかり左手(東側)のほうにある。
千原は血原。やはりあった。そうすると「笛」は本来は楽器の笛ではなかったと思われる。神聖なフエで粗末にあつかえば祟りがあった。と伝わっていたと思われる。



『加佐郡誌』(大正14年)に、

(小倉の血原)
 小倉には小倉木王の領であったから王を慕ふて小倉と称したとのことである。小字に血原と称する所がある。崇神天皇の十年青葉の賊を此処に追ひ詰めて射殺した時、血の流れたのを以て後血原といふと伝へられている。城址がある。一は但馬谷市村出羽守、一は大久保城主大倉播磨守であって共に天正九年三月細川幽斎の為めに亡ぼされたのである。


笛と血原がやはり何か関係ありそうである。
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真下飛泉(大江町河守)

【丹後の人物】
『大江町誌』は(写真も)、
真下飛泉

真下飛泉、本名滝吉、文筆名を飛泉、滝郎、たきろう、飛泉郎などと号した。明治十一年十月十日現大江町字河守小字新町の生まれ、父は石治郎、母ステ、男ばかり四人兄弟の次男である。
 小学校卒業後長兄と共に二年間隣家の糸問屋「丹要」に奉公した。進学は困難な環境にあったが、英才を惜しむ師小墻塙近太郎の勧奨によって、明治二十五年新設の河守町外五か村立高等小学校三年生に編入、卒業後京都府尋常師範学校入学、明治三十二年卒業、以後教育界に挺身する。歴任校は次のとおり。
 有済尋常小学校(明三二〜三六)
 師範学校附属小学校(明三六〜四三)
 修道尋常小学校(訓導兼校長、明四三〜大六)
 尚徳尋常小学校(訓導兼校長、大六〜一二’七)
 成逸尋常小学校(訓導兼校長、大一二〜一三・三)
 東山中学校(大一三・四〜一五・一○)
 大正十五年十月二十五日払暁、京都府立病院で没、四九歳、墓は知恩院山内、本堂上手の勢至堂墓地にある。その経歴が語るように生涯の過半を京都市ですごしたため、生地とのかかわりが少ないが、故郷への思慕や母を慕う衷情が幾多の詩文に託されている。

明治三十七年五月、師範学校附属小での学芸会に、五年生を担任していた飛泉は、自作の「出征」という唱歌劇を出演させた。この年二月日本は強国ロシアと戦端を開き、町から村から赤襷をかけた応召の兵士が、兵営をめざして陸続とつづいた時代のさ中である。
 歌曲の進行と共に大きな感動が観衆(父母たち)の心をとらえ、満堂寂として声なく一様にすすり泣くという情景を現出した。(田村真男手記、「追想断片」)断ち難い家族への愛惜をふりきって、戦場にゆく吾が子わが父友人の悲傷の思いは、明日はやがて自らの運命でもあったのだから、その共感が皆の涙を誘ったのである。
 この歌は忽ち各地にもてはやされ、「…中には軍人遺族の家庭ではこの歌をうたって毎日涙だとききまして、作者たる私は望外のことと思うのであります…」と飛泉自身をも驚かせた。
 この第一作を契機に三十八年九月、第三作「戦友」が生まれる、歌詞は別掲のとおりで、作曲者三善和気の曲を得て忽ち爆発的な流行をみ、国民歌謡となって全国を風摩した。

   戦友


ここはお国を何百里
    離れてとほき満洲の
赤い夕日にてらされて
    友は野末の石の下

思へばかなし昨日まで
    真先かけて突進し
敵を散々懲らしたる
    勇士はこ上に眠れるか

ああ戦ひの最中に
    隣にをつた此友の
俄かにハタと倒れしを
    我はおもはず駈け寄って

軍律きびしい中なれど
    これが見すてて置かれうか
「しっかりせよ」と抱き起し
    仮縫帯も弾丸(たま)の中

折から起る突貫に
   友はやうやう顔上げて
「お国のためだかまはずに
   おくれてくれな」と目に涙

あとに心は残れども
   残しちゃならぬ此からだ
「それちゃ行よ」と別れたが
   ながの別れとなったのか

戦すんで日が暮れて
   さがしにもどる心では
どうぞ生きってゐてくれよ
   物なと言へと願うたに

空しく冷江て魂は
   故郷へ帰ったポケットに
時計ばかりがコチコチと
   動いてゐるもなさけなや

恩へぱ去年船出して
   お国が見江ずなった時
玄海灘に手を握り
   名を名のったが始めにて

それより後は一本の
   煙草も二人わけてのみ
ついた手紙も見せ合ふて
   身の上ぱなしくりかへし
肩をだいては口ぐせに
   どうせ命は無いものよ

死んだら骨(こつ)を頼むぞと
   言ひかはしたる二人仲
思ひも寄らず我一人
   不思議に命ながらへて
赤い夕日の満洲に
   友の塚穴掘らうとは

くまなくはれた月今宵
   心しみじみ筆とって
友の最後をこまごまと
   親御へ送る此手紙。

筆の運びはつたないが
   行燈のかげで親達の
讃まる入心思ひやり
   恩はずおとす一雫
       (明治三十八年九月)
      (五車樓刊『戦友』より)

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和田沖の爆発事故(昭和20・11・13)

【丹後の遺跡】
『舞鶴市史(現代編)』に、


(和田沖の爆発事故)

…このような進駐軍関係の事故の中で、最も悲惨を極めたのは、昭和二十年十一月十三日、進駐軍に雇われて舞鶴湾内で爆弾・爆薬の投棄作業中、爆発を起こし、一瞬にして多数の死者と重軽傷者を出した事故である。
当時、舞鶴に進駐した米軍は海軍諸施設の接収を行なう一方、市内の長浜や吉野にあった旧第三海軍火薬廠関係の弾薬類の処理のほか、京都府下の宇治、祝園などにあった旧陸軍関係の倉庫に貯蔵中の弾薬類の廃棄処分も行ない、これらは貨車に積み込んで海舞鶴駅まで運んだ後、舞鶴湾内で海中投棄をしていた。和田の海(西湊の入口になる)
当日午前十時ごろ、飯野産業株式会社所属の曳船貴船丸(一二トン)に曳航された大型艀(七○トン)二隻に、銃砲弾、火薬類を満載し、作業員四○数人が乗船して西港の和田沖で投棄作業中、信管の残っていた爆弾があったらしく、突如、一大音響と共に爆発が起こり、瞬時にして貴船丸と艀一隻は大破、沈没し、他の艀も大破すると共に死者三三人、重軽傷一二人、合計四五人の犠牲者を出すという大惨事になった。
  事故発生と同時に附近にいた僚船や漁船がいち早く現場へはせつけ、救助に当たる一方、急報により舞鶴西署、飯野産業梶A遭難者関係町内会、警防団員らが死傷者を収容、病院へ運んだ。何分にも遺体が四方へ飛び散っているので、その後、この処理に一か月以上もかかった。毎日、多勢の人夫が現場へ出掛け、潜水夫が海中にもぐって、遺体を拾集した。大半の身元は判明したが、なかには確認出来ないのもあり、この人たちは市内の見海寺に仮埋葬した。…



『京都新聞』(.050804)に、(写真も)

舞鶴湾の未処理砲弾)

*明日へ7*
*戦後60年の府北部*
*海底に恐怖いまも*
*眠る砲弾*

 プランクトンの死がいが雪のようにゆっくり落ちてくる。薄暗い水中の闇、懐中電灯の光が泥に埋もれた塊の一部を照らし出した。「これだ」。海上自衛隊舞鶴警備隊舞鶴水中処分隊の黒川通良隊長(五一)は確信した。砲弾だ。さびて腐食が激しい。信管は? 泥が入り込んでいる。信管はある。炸薬が炭化し、固まっている。
 七月四日午後二時五分、舞鶴湾シイ埼沖百五十b、水深十二b・夏の舞鶴湾は視界が悪い。
 航路しゅんせつ工事で海底磁気探査中の建設業者から、砲弾らしいと通報があったのは正午だった。湾内では今年初めての出動。一番先に潜り、物体を確めるのが指揮官のつとめだ。爆発の危険性は低いと判断、隊員が引き上げた。直径十a、長さ三十a。旧日本軍の砲弾だった。
 隊長になって五年目。潜って通算十八年。命の危険は何度も感じた。それでも任務に向かう。信管が腐っていてくれ、と祈りながら。「百年たってもゼロにならないかも」。あと何度、六十年前と向き合うのだろう−。火薬だらけの舞鶴湾
 舞鶴湾の海底には「戦争」が眠っている。ふ頭建設や航路しゅんせつ工事で、海底から砲弾や銃弾が時折、発見される。先月は、機関砲や魚雷の弾頭が見つかっている。
 「この弾はどうなるんだろうか」。終戦間もない一九四五年十一月、十六歳だった利根川和司さん宅(七六)=魚屋=は、砲弾を海に捨てながら思った。進駐軍の命令で、余った砲弾を投棄した。「隣組からの召集で捨てに行かされた」。沖合約一`で、三日間毎日百人が動員された。長さ三十bの船二隻に砲弾入りの木箱を満載した。「舞鶴の火薬廠とか福知山第二十連隊の印があった。三日間で百dは捨てた」 「信管が残っている爆弾もあった。ピカピカに光っていた」と江上浩名さん(七六)=七日市=は一発一発、慎重に海に沈めていた。十一月十三日。風のない穏やかな海に、突然、地響きがした。気づいたらあおむけで海に浮いていた。もう一つの船の爆弾が爆発したらしい。手足は動かない。そのまま浮いていると、救助された。体中に銃弾の破片が刺さっていた。爆発音の記憶はない。「聞いた瞬間に、左の鼓膜が破れていた」。舞鶴市史などによると死者三十三人、重軽傷者十二人の大惨事だった。生き残っているのは江上さんだけという。事故を伝える碑も資料もほとんどない。
 利根川さんは砲弾が発見される記事を読むたびに思う。「ああ、あのときのやつか」。六十年の月日は港湾の風景を何度も塗り替えた。「海の中の景色は六十年前と変わらない。何か伝えようとしているみたいだ」。記憶の底から浮上する遺物はいっとき、現代へ無言のメッセージを投げかける。
 引き上げつれた砲弾は、水中処分隊でドラム缶や木箱にコンクリート詰めされる。船で三日間航行した海域に沈められる。水深一千b以上海底深く。再び眠りにつく。(北部総局 河村亮)造成進む和田沖のコンテナ埠頭(070719ヘリより)

【舞鶴湾の砲弾】 進駐軍の指示で、砲弾、焼い弾、対空弾などが海中投棄された。95年には、砲弾や手りゅう弾など合計約27000発・個、計24d。処分には約2億円かかった。2000年には1534発・個が引き上げられた。


コンテナ埠頭建設のため、このあたりの海は大工事中だが、最近は旧日本軍の不発弾が見つかったとよく報道されている。戦争を埋め立てて工事は進むが、採算がとれるかどうか危ぶまれている。
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府内でも突出する舞鶴市内の戦争遺跡の数

【丹後の遺跡】
『京都新聞』05.7.13に、

舞鶴に防空壕跡? 153カ所
情報提供で市調査 府内で数が突出

 舞鶴市内に、太平洋戦争当時に使われた防空壕跡が約百五十カ所も残っていることが、このほど市の調べで分かった。今年四月に鹿児島市で中学生四人が防空壕跡の横穴で死亡した事故を受けて、市内の全自治会などに情報提供を求めて判明した。市企画調整課は「舞鶴は軍港だったので多いと思っていた」とするが、京都府内ではその数は突出している。
調査は、鹿児島市での事故後、国が全国の自治体に指示した「特殊地下壕緊急実態調査」として実施。自治会や国、府の関係機関などから百五十三件もの情報提供があった。市職員が情報に基づいて順に現地を調べ、十二日までにうち約四十カ所を確認した。同市朝来地区では職員らが十二カ所の防空壕跡で、規模や構造、崩落の危険性などを調べ、山中の一カ所は素掘りで、幅、高さとも約二b、奥行き約三十bの大型防空壕だった。
同市によると、二〇〇一年度にも国から防空壕の調査指示があったが、その時は「軍がつくったとはっきりし、危険性があるもの」として同市浜に残る旧海軍の大規模地下壕一カ所だけを報告。市内全域の防空壕跡を本格的に調査するのは、今回が初めてという。
府都市計画課などのまとめでは、現時点で舞鶴市をのぞく府内の他の自治体から報告のあった防空壕は計二十九カ所で、宮津市の十五カ所が最多。舞鶴市は「今後、調査に入る他の場所でもほぼ防空壕が残っている」とみており、「八月上旬までに全個所の調査を終え、国への報告書をまとめたい」としている。


舞鶴は海も山もどこもかも戦争遺跡だらけである。戦跡は防空壕だけではもちろんない。海軍さんの慰安所までも含めねばなるまい。一体どれほどあるのか。精密な戦跡調査は今以てなされていないし、する気もないようである。突出する数の戦跡を持つ自治体としてのテイをなさないのではないか。
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外宮の大入道(大江町天田内)

【丹後の伝説】
『大江のむかしばなし』に、

大入道を食った男
          金屋  塩井忠司外宮の参道(大江町天田内)


 外宮さんのやぶに大入道が出よったそうですわ、一つ目のごっついのが出よったそうです。ちいとしっかりした人が、あんまり人が驚かされたりなんかするので、行って、
「出てこい」言うたち、うわっ、て出たいうんですわ、ごっついのが。
「ほうか、お前りっぱなもんじゃのう、もうちょっと大きいなれや」ちゅうたら、そうこうして、うわっ、 となって、
「なしたのうお前、もっとなれ」て言うたら、うわっ、とこうなって、そこらあった木と同じ程になったいうんですわなあ。
「すごいもんじゃなお前は、ほんまに大きいになる一」とはわかったで、ほんなら小そなれるか」ちゅうて、こう天に向って言うた。
「ほんなら、何でもなっちゃるでよ」言うたさかいに、
「ほんならまあ、梅干しになってみいや」ちゅうてな、梅干しになって、ころころころとなった。そんでその人は、思わず、ちょっ、ちょちょっと食て、それからあとは出なんだいうこと。

やはり一つ目。

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一番谷の地蔵(峰山町杉谷)

【丹後の伝説】
『京都丹波・丹後の伝説』(京都新聞社・昭52)に、(イラストも)
杉谷(峰山町)

一番谷の地蔵
            中郡峰山町杉谷一番谷の地蔵

 昭和二年の奥丹後大震災が起こるまでは峰山町のメインストリートであった杉谷旧道の中ほどから荒山中野方面に行く唯一の道に、一番谷という峠道があった。往来のはげしい峠だったが、ここがキツネやオオカミのたまり場となり、夜道は恐れられていた。そしてオオカミに襲われた人が地蔵さんのおかげで助かったという話が、古老の間に受けつがれている。
 ある日、峰山に用足しにきて遅くなった新町の矢谷小右衛門さんが、一番谷の峠道へさしかかった。約十メートルも行ったところ、道のまん中に身の丈約三メートルもあろうかと思われる一ツ目の真っ白な大入道が、道いっぱいに立ちはだかっていた。
 「あっ」 と小右衛門さんは驚いたが、「アハハハ、またキツネめがいたずらしくさる、どけ……」といいながら通り抜けようとすると、大入道はじりじり後ずさりしながらも左右と動き、なかなか通してくれない。しかたなく大入道を押しのけるように一歩前へ踏み出そうとして思わず立ち止まった。大きなオオカミがうずくまって道をふさいでいるではないか。何峠というのか。物語の峠である。(右手の山が扇谷遺跡)
 びっくり仰天。すっかりたまげた小右衛門さんは無我夢中で杉谷にかけ戻った。翌朝、前夜のできごとをあれこれ思い返しながら、大入道の立っていたところまできて、なにげなく右の山側を見ると、お地蔵さんがたっていた。小右衛門さんがじっと見つめているうちに「ああ、昨夜のオオカミの難は、このお地蔵さんが救ってくださったのだ。自分の注意をひくため大入道になってくださったのに違いない」と信じ、「ああ、ありがたい」とお地蔵さんの前に土下座して深々と頭をたれた。さっそく青天井住まいのお地蔵さんに、りっぱなほこらを寄進したという。
 いまもそのりっぱな石の厨子は残り、五体のお地蔵さんがある。このお地蔵さんは明治の中ごろまでは大層有名、参拝者でにぎわったということだ。
     (カット=島本憲夫君=峰山町峰山校)


〔しるべ〕峰山町旧市街地から南東にあたり、昔のおもかげのない一番谷の山道は、峰山−新町方面を結ぶ最短距離の交通路である。


扇谷遺跡の地で、扇という 地名から見ても一つ目の大入道が出て不思議ではない。彼は本来はこの地の神様である。舞鶴の白杉にしても杉の地名のある所は何か金属と関係がありそうである。
丹後の伝説3へトップへスキは今は鉄製の犂だろうが、古くは鉄一般をスキと呼んだのかも知れない。


蛇女房(大宮町明田)

【丹後の伝説】
『丹後の昔話』(昭和53・日本放送出版協会)に、(イラストも)

蛇女房   


 若者が漁に行って、何にもその日は漁がなかっただ。しまいぐちに一匹うなぎがかかっただけど、するりと逃げた。そこでまあ、そのうなぎをもう一ぺん取れやええげど、今日はなんにもかからんといて、それがかかっただもんだで、今日はあかんで、それも逃げる命があるなら逃げてしまえばええだ思ってもどっただ。
 へたら、もどってきたら、ものすごい雨が降って、どしゃぶりの雨が降って、へて、どしゃぶりの雨が降るで家におったって。ほいたら、
「今晩は」いうて、雨が降るのに女の声がするだげな。そこで、こんな雨が降るのに思って出て見たら、
「雨が降って先ぃ行かれんで、軒でも借してくれ」言うた。それでまあ、
「こんな大雨が降るのに軒下だいうてもしゃらへんしなあ、ま、入んなれ。貧しい家だけど、だあれもおらへん、わしだけだ」言うて、入んなれ言うて、ほいてまあ入れたらぺっぴんだっただ。ほいで、
「だあれもおいでなんだら、なんか手伝わしてくれ」言うで、手伝ってもらういうても一人ださかいに何にもすることあらへんだし。そいたら、
「あんたは漁に行くし、洗濯やなんだはわたしがさしてもらうで」。ほいでまあ、べっぴんでもあるだし、そう言われておいとくだそうな。家においたで。
「あんたの家はどこだ」言うても、
「所はきかんといてくれ」言うだげな。
「所をきかれると帰らんなんときがくる」言うて。
 ほいてあの、一年ほどしたら男の子がでけたいうわ。へて、あのもんだ、そのぺっぴんさんが、
「わしには一部屋だけあてがってくれ」言うだげな。
「わしが休み部屋を、だあれもそこへはこんとおいてくれ」言うで。ほいで、あのもんだ、子どもがでけてから二年も三年も日が暮れたそうな。ほいたら子どもが大きな乳を抱えたりしとって、どうやらした拍子に、気がゆるんだ拍子に大きな大蛇になって、どてらあんと寝とっただ。ほて、子どもがよちよちこそこへ行ったら、大きな蛇がおるもんだで、子どもがびっくりして、ほて、
「お母さん」いうて呼んだら気がついて、あの、自分が姿を出しとった思って、ほて、もう急いで外へ出て、外に出たら井戸があるだげで、その井戸へ行って、水をガァッとかぶって。ほいたらお母だっただげな、それは。ほで子どもが、
「まあお母は水かぶっとっただか」いうて、
「わしはいま妙なもんを見た」いうて子どもが話(はに)ゃあただいうて。その蛇の所作(しょっさ)をするだげな。
「そんなもんがおったか」言うて。
「そんなもんは知らん。お母は見なんだ」言うとるだげな。
 ほて言うとったら、しばらくして、自分も見られんようにせんなん思っておったそうだけど、どうやらしとったら、あんまり婿さんにその部屋をのぞかんといてくれ言うだけど、常には機(はた)を識っとるだげな。ほいて休むときには、その機織っとる最中に休むときにはその自分の部屋へ帰って休むだそうな。その休むときには、あの、大蛇にならんとえらいだそうな、体が。いっつも緊張ごろしとると、ほで、大蛇になって、やっぱし。ほいたら、その婿さんが何の気なしに障子の破れからのぞいただって。ほいたら、その大蛇がどたあんどしとるだもんだで、びっくりして、ほして、どたあんと尻もちをついただって。その音に気がついて、ほいて、また井戸に行って水をジャァッとかぶったら、もうもとの女になっただそうな。ほいて、あの、蛇女房
「わしの姿を見なったな」言うてしたら、
「もう姿を見られたら、子どもにも見られただし、あんたにも見られただし、もうこれだけ見られたら、もうここにはおられん。人にも見られるようになったらあんたが困るようになるで、もう帰るわ」言うて。
 帰るわ言うたところで子どもがかわいい。いまこそ一年も乳を飲ませへんけど、昔は五つも六つにもなってもお乳を飲んどった。ほんでその子もお母が帰ったらお乳があらへんで、ほいで子どもが育たんで困ったことだいうて嘆いただそうな。ほしたら、
「子どものお乳のかわりのものをわしが置いとくさかいに、ほいで子どもが機嫌の悪いときにはこの目玉を出してなめさしてくれ。決して他人にはやるな」言うて、ほいて置いとくだそうなけど、どういうはずみだ知らんが、近所の人が見つけて、ほしてそこの、そのときのお代官に言うただそうな。そう言うたら、お代官のところにも子どもがあって、お医者さんの薬をやっても思うように治らんらしいわ、病気が。ほいたら、その目玉なんだかをなめさせたら治るかもしれんちゅうだもんで、どうでもこうでもそれを、目玉をくれ言うて、その目玉をくれなんだったら子どもの命もとる言うた。言われたもんだで、ほいで、もうしやあなしにその目玉を出すだ。ほいたら子どもがむずかって、この子にたらしをやるもんがない。この子がもしも病気になっても取り返しがつかんここだ思って、帰り道に情ながってもどってくるだそうな。
 そいたら晩げに、あの、夢に出てきて、
「あの目玉を取られたそうなが、まんだ目玉はもう一つあるで、それで、あの湖に来て『あぐるや、あぐるや』いうて呼んくれ。三井寺の鐘が鳴るじきに、三井寺の鐘がゴーンと鳴ったら、ほしたら、その三井寺の鐘を頼りに出てくる」言うて。
「それでもう一つの玉をあげる」言うて。ほいでまあ、教えてもらったようにしたら、出てきて、
ほて、玉をもらあて、へたら、
「こんなことをしたら、盲になってしまって困るだろう」言うたら、へたら、
「子どもさえ丈夫に育ってくれたら何にも言うことはない」言うて、ほで、
「また困ったことがあったら、ほいたらまた、三井寺の鐘の鳴る時分に、前よりももっと大きな声で『あぐるや、あぐるや』呼んでくれ。そしたら、鐘を頼りに、眼が見えんだで、鐘を頼りにずうっと会いにくるで」言うた。
 そういうことだった。
              (名彙「蛇女房」)
   語り手・中郡大宮町明田 横田きく枝

@ 三井寺(滋賀県大津市別所にある天台寺門宗総本山。西国三十三か所第四十番札所)




『京都の昔話』(昭58・京都新聞社)に、

三井寺の鐘

 むかし、若い男に助けてもらった蛇が恩返しに行く話ですわ。とても治らん病気にその男がなってなあ、蛇は
「わしは助けてもらったもんで、なんかお兄さんに恩返しせんならん」思って、きれいな娘さんになって、うちへ行っただってなあ。そして、お兄さんの病気を蛇が治いたんですわ。そして、そのままお兄さんの嫁さんになった。
 そしたら、蛇の娘さんのおなかに赤ちゃんができ、きれいな男のお子さんがうまれただってなあ。そして、その男のお子さんが大きなったときに、蛇だでな、人のおらんまに蛙をちょっと取っちゃあ食っただって。そだから、ひそひそ、ひそひそ、村のもんがうわさしただって。ほら、見たこともねえ、ちょうど天から来た女神のようなきれいな娘さんだけど、どっから嫁に来たという話がねえさかえ。蛙を取って食ったり、とんぼを取って食ったり、みみずをほぜくって食ったりするさけえで、
「ああ、あれは人間だ思えなんだが、やれ、あれは蛇だかわからん」ちゅうことに村中評判になっただってなあ。ひそひそ話ですわな。それを婿さんのほうがちらっと聞いただって。
「うちのかかはあたりまえの人間らしゅうねえ」いうことでなあ、ほいでさあ、ためしてみちゃろう思うて、
「わたしは宮津へ買物に行ってくるわ。一日の弁当してくれえ。晩げまでもどらんど。四里もあるところを歩いていかなならんで、ようもどらんど」言うて、出ていっただって。そしていて、知らんまにすこ−んと縁の下へはいっとった。そして、じっとして立板の間から見とったら、ぐ−っと蛇になってなあ、こうしき立てて(きりきり巻いて)、そして男の子の赤ちゃんをのせて、ほっぺた。ペロペロねぶっとったげな。もうおとるしゅうなってなあ、晩げまでおっただげな、思案して縁の下に。
 せえからさあ、まあもどって、
「もどったで」言うて、ともに膝むけえでおるわなあ。そしたら嫁さんが気がついただって。気づいてな、それで婿さんのほうも青い顔になるし、嫁さんのほうもぐたーっとして、常ににこにこしてお迎えするもんが、うなだれておっただって。もうこれまでと思った嫁は、
「子供がひだるがって(ひもじがって)泣いたら、うみ(湖)へ来て呼んでくれえ」言うて出ていった。そえでさあ、子供がひだるがって泣きわめくで、婿がそこへ行って、そして呼んだだってなあ。そしたら、どーっと来たでねえか、うみから泳いで。そこへ坐ったら、きれえなまたもとの娘になって、子供に片目やるいうんだ。
「これをもって飲ませてやりせえすりやあ、ひいっさ(長く)ひいっさおなかがええで、泣いたときにやってくれえ」言うてなあ、目ん玉をやるんだってなあ。そしたらしばらくしてその目ん玉がとけてのうなるで、またもらいに行っただってなあ。そしたら、
「わしは子がかわいいさけえ、この目をもうひとつやるけえど、こうしたらわしはもう目が見えんで、晩げになったら鐘をついてくれえ」言うんだ。
 それからのち、夜の引き明けにゃ三井寺の鐘が鳴るだげな。そうすると朝まだなあと思って。
「かねのひびきであぐるみずうみ」と御詠歌にありましょうがな。これが三井寺のいわれですわな。
        語り手・大江ふさ (宮津市上世屋)


『おおみやの民話』(町教委・91)に、

大蛇の嫁      周枳   堀 広吉

 むかし、むかしのこと、百姓の若者が、大けを沼のほとりを通りかかったそうな。
大けな沼の土手に腰かけて、水面を見ておる若い娘が、あまりにきれぇだったで、若者はつい声をかけた。
 若者は気がやさしく、ええ男だったので、二人は仲良くはなしているうちタ方近くなったるうな。娘は別に行くところもないというので、うちへ来て泊れといい、家に連れて帰りいっしょに暮らすようになったそうな。
 やがて、二人の間にはかわいい男の子が生れ、仲のよい生活がつづいていたが、或る日、若者が野良仕事から帰ると、いつもなら、子供を抱いて、笑顔で迎えてくれる嫁の姿が見えない。どうしたことかと座敷へ上がって納戸(なんど)の戸をあけると、これはまた、どうしたことだろう。美しい嫁が大蛇(ばばめ)の姿になって、子に乳を飲ませているではないか。あっと驚く婿の若者に、大蛇の姿の嫁は、
「あんたが見なったとおり、わたしは沼の主の大蛇です。この姿を見られたんで、もうこのうちにおるわけにはいきません。この子のことは頼みましたよ。どうしてもと、いうようなことがあったら、沼の土手にきて私の名前を呼んで下さい。二度だけは顔を見せることができるでしょう。では、さよなら」と、いうて、家を出て行ったそうな。
 母親は出て行ったけど、乳のみ子は何もわからんで、にこにこと父親と遊んでいたが、腹がへってくると、火のついたように泣きだし、あやしても、水をのませても、一向に泣きやまず、途方にくれた父親は、泣く子を抱いて沼の土手へ来たるうな。そいて、教えられたとおり嫁の名を大声で呼んだそうな。
「あぐりやぁ」、「あぐりやぁ」すらと、池の水がザワザワと音を立てて、真っ青な水の中から大蛇の嫁があらわれたそうな、そいて、
「腹がへったんでしょうが、かわいそうに、でも何もやるもんがないわ」いうで、しばらくは悲しんで考えていたあげく、自分の片眼をえぐり取って、
「さあ、この眼玉をしゃぶらせてやって下さい。しばらくは泣かんでしょう」
もらった眼玉を男の子にやると、うれしそうにしゃぶって、すっかり泣きやんだんで、大蛇も安心して、池の中へ姿を消したそうな。
 眼玉を乳のかわりにしゃぶっていた男の子は、五、六日もたつと、もう、しゃぶっても味がないのか、また泣いてとまらんようになったんで、仕方なく男の子を抱いて沼の土手にやって来た。
「あぐりやぁ、あぐりやぁ。」
と呼ぶと、この前のように、池の水がザワザワと音を立てて、水の中から片目の大蛇の姿があらわれた。そして、
「もうこれだけしかやるものがない。」と、いって、もう一方の残った片眼をえぐり取って子供にやったそうな。
 それからまた何日かたって、男の子が泣き止まんので、前のとおり沼の土手に立って、
「あぐりやぁ、あぐりやぁ」と呼んだけど、池の水が悲しそうにザワザワと小さい音をたてるだけで、ついに大蛇の姿を見ることはできなかったそうだ。




三井寺の鐘      明田 横田芳きく江

 昔、漁師の若者が漁に出て、なんにもその日はかかれへん。終いに一匹、うなぎがかかったけど、スルリとそれも逃げられた。それで、もう一ぺん取れやええけど、きょうは、なんにもかからんとって、また落ちたんだで、
「これも逃げてしまやぁええだ」いうて、家にもどった。もどってきたら、ものすごい雨が降って、それで家におったら、
「今晩は、今晩は」いうて、雨が降るのに女の声がするだげな。出てみたら、
「こんな雨が降るので、先に行かれんで、軒でも貸しておくれ」いうだって
「こんな雨が降るのに、軒だいうてもしょうがないし、まあ内へ入んなれ、誰もおらへん、わしだけだ」いうで、入れたら、女はとってもべっぴんだし、それが、
「誰もおらんだったら、何か手伝わしておくれ」
「手伝わしてくれ、いうてもわし一人だし、何いうこともあらへんだし」いうたら、
「あんたが漁に行ったら、私が洗濯や何かはさしてもらうで」いうし、べっぴんでもあるし、そういわれて、おいとくだそうだ。それて漁師と女は夫婦になって、漁師が、
「あんたの生まれはどこだ」いうても
「所は聞かんといてくれ、それをいうと、帰らんなんようになる」いうだし、ほて一年ほどしたら、男の子ができたげな。そうして、わしには一部屋だけあてがわしてくれ」いうで、一部屋もらって、「わけがあるので、誰もここへ来んといてくれ」いうで、へえて、をこて男の子を育てとった。
 そいで、二年も三年も暮れただそうなが、ある時に、子供に乳を飲ませとって、そのひょうしに気がゆるんだそうて、大きな大蛇になって、どてらあんと、寝とっただって、ほして、子供がよちよちと、そこへ行ったら、大きな蛇がおるもんだで、びっくりして、
「お母ちゃん」いうて呼んだらしい。そしたら。それに気がついて、自分の姿だしと思って、急いで外に出て、井戸へ行って水を、ザァブ、ザァブかぶって、かぶってしたらお母になった。それて子供が、
「お母、水かぶったが、わしは妙なもんを見た」いうて、まあ、まんだ小さいで、ええようにははなさへんだけど、蛇のことを所作するるうだし、蛇がおったいうし、そうしたら「そんなもんは知らん。お母は見なんだ」いうておった。
 婿さんが、部屋をのぞかんといてくれというても、もうこんなになったら、のぞきたいもんだ。
 女は常には、織機を識っとるだそうなが、休む時には、自分の部屋に入って休む。その休む時には大蛇にならんと、体がえらいだそうで、それでどてらんと、大蛇になっておった。そうしたらその婿さんが、なんとなしに障子の破れから見ただって、そうしたら、その大蛇がどたあんとしとるもんだで、びっくりして、ほして、尻餅をついた。その音に気がついて、また井戸に行って、水ザツとあびたら元の女になった。そいて
「あんたは、今私の姿を見なったなあ。もう私はこれだけ見られたら、于供にも見られ、あんたにも見られた。このうえに親類や近所の者に見られたら、あんたがあかんようになるで、私は国に帰る」いうた。
 国に帰るいうたって、昔は、五つになっても乳を飲んどった。わしらも飲んどっだが、
「その子もお母が帰ってしまったら、乳があれへんで子供が育たんで困ったなあ」いうとったら、女が「子供の乳の代りに、この目玉を置いとくさかいて、きげんの悪い時には、この目玉を出してなめさしてくれ。きっと人にはいうてくれるな」いうで、自分の目玉を一つ置いといたそうな。
 それが、どういうはずみか、近所の人が見つけて、そこのお代官に、そういうただそうな。そうしたら、そこのお代官の所に同じような子供がおって、医者の薬を飲ませても、よう治らんらしいわ。ほうしたち、
「その目玉かなんだかしらんが、なめさせたら治るかもしれん」いうて、どうでもこうでも、その目玉をくれいうで、頼みに来て、「聞かれんだったら、その子の命をとってしまう」いわれて、もうしやないで、その目玉を代官に渡しただって。
 そしたら、その子が、むずかってむずかっても、たらしてやるもんがないで、「もしも病気がひどくなったら、とり返しがつかんようになったら」と思い、情ながっていたら、その晩げ夢に出てきて、その蛇が、
「目玉を取られたそうなが、まんだ目玉が一つあるで、あの近江の湖に来て、あぐるやぁ、あぐるやぁいうて呼んでくれ、三井寺の鐘が、ゴーンと鳴ったらそうしたら、その鐘をたよりに出てくるで、もう一つの目玉をあげる」いうた。
 それで湖へ行ったら、大蛇が出てきて、一つの目玉をもらった。そいて、
「この目玉をもらったら、よんの盲になってしまって困るだろう」いうたら、
「子供さえ無事に育ってくれたら、いうことはない。もしまた、困ったことがあったら、三井寺の鐘をたよりに、前よりもつと大きな声で、あぐるやぁ、あぐるやぁと呼んでくれ、そしたらその鐘をたよりに、目が見えんだで、鐘をたよりにずっと会いに来る」いうたって。
 昔の代官いうも人は、悪いことをしたもんだなあ。今かっておんなじだけど。


「あぐるや、あぐるや」という呪文が気になる。大蛇そのもののようであるが、何の意味であろうか。湖というか沼というのか、蛇の住んでいる水辺だろうと考えている。その沼の精がこの蛇なのではなかろうか。ババが蛇の意味であることがわかる。ハハも蛇だろう。片目というのも考えてみるべきだろう。
本来的には命を生み育てるものの意味がありそうに思われる。
 三井寺と何の関係があるのかわからないが、三井寺の鐘は龍宮の鐘とも伝えられている。長等山園城寺といい天台宗寺門派の総本山であるが、俗に三井寺と呼ばれる。漢字の如くに御井寺で聖水の信仰の中心と思われていたのかも知れない。古くは大友村主寺といい、大友氏、志賀漢人と呼ばれた渡来人の氏寺であったという。国宝の智証大師ゆかりの新羅明神を祀る新羅善神堂がある。新羅明神を祀るのだから新羅系の渡来人とみていいのではなかろうか。だからアグルなのだろうが、そのアグという名と金属は何か深い関係がありそうに思われる。
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『ふるさとの民話』(丹後町教委・昭58)に、

蛇女房−形見残し

      吉永    堀江 とみえ

 一人の若い者が住んどりまして、そいて、旅の女の人が夜、雨の降る夜に一夜の宿を頼むいうて入ってきて、ほして、泊めて、
「まあ、女手がないし、行くところがなかったら家におってくれんか。わしも嫁がないで困っとったとこだ」言うたら、その女が、
「そんなことならお願いします」言うて、その日から嫁さんのように家のことをして、夫婦生活をしとるうちに妊娠して、いよいよ産み月になって、その嫁さんが、
「産屋(うぶや)を建ててくれ」言うて。それで婿さんが、
「ああそうか、そうか。そんなら建てる」言うて。ほして 家も建ち上がっただし、産み月になっただし。そして、そこへ入るときに、婿さんに、
「わしが来てくれ言うまで、絶対に家をのぞいてくれな」言うて。
「そうか。承知した、承知した」言うて。そいて、その嫁さんが産屋に入っただし。
 その女はどうやら蛇が化けとったでしょうな。それでお産のときは人間の姿では産まれんだそうで、蛇の形にならんと。
 婿さんは、なんぼ待っても待っても呼びにこんだげで 、いつのことやら思って、節の穴からそうっとのぞいて見ただそうで。そうしたら、恐ろしや恐ろしや、嫁さんが大けな蛇になって、まん中に自分の子をちょうんとのせとった。それ見て婿さんはびっくりして仰天してもどったら、その嫁さんが子を連れてもどってきて、
「絶対見るな言うのにあんたに姿を見られたで この家においてもらうことがでけんで わしはこの向かいの湖の主で、そこへいぬるで、この子を育ててやってくれ。男の身では乳がないし、育てられまいで、わしの片っ方の目の玉をあげるで、それを泣いたらねぶらせちゃあ大きしたってくれ。どうしてもそれで大きなちなんだら、この向かいの湖に来てくれ」言うことで、まあ、男の方は子はかわいいし、嫁さんは蛇だし、別れな仕方にゃあもんだで別れまして、そして、泣くたんびにそれをねぶらせては育てた。
 それものうなってしまっただし、子は泣いて泣いて、困ってしまって、その子を抱いて湖の方に行って立っとりましたら、ざわリざわリ水が動いて、蛇が上がってきて、
「もう片目ほかないで、この玉をあげるで、育ててやってくれ。両目なかったらわしは昼も夜もわからんで、頼む、昼と夜との合図の鐘を叩いてくれ」いうことで、目の玉をもらって、その婿さんが昼と夜との鐘を叩いた。それが今になっても伝えられとるだ。

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小野小町塚((大宮町五十河)

【丹後の伝説】
『大宮町誌』に、

小野小町塚

  小野小町の塚は五十河の入口東側の小字「はさこ」にあり、一畝程の埋立地の中に二基の石碑を奉祀している。高さ九二p、幅六○pの小型の一基は上田甚兵衛造立のものと伝えるが、現在磨滅していて僅かに上田甚兵街と判読できるに過ぎない 大型の碑は表に「小野妙性大姉」と彫刻してあり、高さ一m五○p、幅五○pの自然石である。この石は曹洞宗妙性寺の門の側にある万霊塔の石と同一の石を折半して造られたと言い、事実この碑には折半して割られた跡がある。万霊塔に「正徳三年建之」の日付があるから従ってこの小町碑も正徳三年(一七一三)の造立であろう。なお、田を埋め立てて一畝程を整地したのは昭和五五年夏で、その前は木の少しある一坪余りの草地に五輪の台石と高さ六○p余の自然石の「上田甚兵衛」と刻む碑と「小野妙性大姉」の石碑の二基が祀られていた。(五十河沿革誌)小野小町像(小町公園)
 さて、小野小町の手蹟については先人の説の如く極めてさだかでなく、終焉の地についても諸説紛々として確かな事はわからない。嵯峨天皇の弘仁六年(八一五)出羽の郡領小野良実の女として出生、七歌仙の中唯一の女流歌人として名高いこと及び代表的美人であったという伝説くらいしか知られていない。
 「徒然草」に疑っているように「玉造小町壮衰書」という小町の晩年の事を書いた漢文の書物は作者不詳の偽作ではないかといわれている。謡曲には小町を題材にしたものが五番ある。その中「草予洗小町」は古今集序を主材として盛時の小町を猫き、「通小町」は古今集の顕照の注から深草の小将の百夜通いの伝説が作られており、その他「卒都婆小町」「関寺小町」「鸚鵡小町」は老衰落魄の小町を取扱ったもので、いずれも「玉造小町壮衰書序」から出たものと言われる。しかし、「玉造小町壮衰書」は徒然草にある如く弘法大師の作とは信じ難く、一般に偽書とされていて信用し難いのである。
 次に五十河に伝承する小町伝説についての先人の諸説をあげる。
 (村誌)小野小町塚 本村南方字ハザコにあり。東西一間、南北一間、坪数一坪、其中に高さ五尺、幅一尺五寸位の石 塔あり。表面小野妙性大姉の法名あり。建設年干支等無之只管小町塚と伝聞するのみ。
 (丹哥府志)小野山妙性寺 曹洞宗寺記に云ふ。小野山妙性寺は小野小町の開基なり。往昔三重の里は小野一族の所領なりといふ。小野老たる後此地に来りて卒す。法名を妙性といふo其辞世とて
  九重の都の土とならずして はかなや吾は三重にかくれて小町塚(中郡大宮町五十河)
  愚案ずるに小野小町は其生出本来詳ならず。或曰小野良実の女なり。仁明帝承和の頃の人年老いたるに及て落魄して相坂山に死すといふ。又小野当澄の女たりとも伝ふ。或人の説に冷泉家の書ものには小町は井手の里に死す。時に年六十九歳とありし由。徒然草には小町はきはめてさだかならずといふ。其衰たるさまは玉造といふ文にありと袋草紙に見えたれども比説には論ありともいふ。かようなる事を考ふれどもいまだ丹後に来ることを聞かず。されども養老三年始めて按祭便を置し時、丹後国司小野朝臣馬養、丹後但馬因幡の三国を管す。其養老年中より小町の頃までは僅に百年ばかりなり。これによってこれを見れば小野一族の所領なりといふもいまだ拠るなきにしもあらず。其終焉地明ならざるは蓋鄙僻の地に匿るならん。今其塚といふ処を見るに古代の墳墓と見えたり。恐らくは其終焉の地ならんともゆ。後の人これを増補して少将の宮を拵へ又丹流と僧妙性の二字に文字を足して追号を拾ふ。これよりいよいよいぶかしくなリぬ。
その他「宮津府志」「同拾遺」等は省略する。
 現在五十河に伝わる小町の文書は妙性寺にある「寺記」と同村田崎十一所蔵の「小野小町姫」とである。妙性寺のは一軸の巻物であり、「小野小町姫」は本文一二枚の小冊子であるが、内容は全く同一である。小町伝説を田崎朴淳翁(田崎家祖先)が物語ったのを僧了然が書き留め更にこれを妙性寺第三世雲騰眠竜大和尚が書き綴ったのが妙性寺の一巻である。(眠竜和尚は天保八年示寂)
 その他小町の遺跡として新宮から丹後林道に通ずる坂道を、昔小町が通って来た道というので「小野坂」といい、上田甚兵衛の宅のあった場所を「小野路」と呼んでいる。
「中郡誌稿」に 
 小町は小説的性行の標本にして各種の文芸又は訓話に附会引用せられ、近畿地方の加き小野と称する地あれば某所に 大抵小町の伝説あり。現に山城宇治郡小野、愛宕郡小野皆其例なり。愛宕郡小野には小野寺と称するあり、卒都婆小野画像等小町に関する書画及び小町の墓と称する宝篋印塔存す。何れも真偽定かならず。
と述べている如く、各地に小野伝説は流布している。これについて民俗字の一説では、中世全国を語り歩いた女性群があり、それは一種の巫女(みこ)であって小野氏はそうした旅の語部の有力な一族であった。その語部の巫女たちが全国を語り歩き一人称で語るのを聞いていた人々は、小町が来たように語り伝えた事によって谷地に種々の伝説が生まれたとしている。
 ともあれ、伝説はその所の人々にとってば心の糧であり誇りでもある。父化豊かな郷土の懐しい物語として長く語り伝えられるべきものである。


三重長者五十日真黒人よりもこちらの方がはるかに有名というのか、力を入れて売り込まれている様子である。小野氏と関係がある地名なのではなかろうか。小野氏もまた金属の技術をもつ氏族とされる。丹後の伝説3へトップへ


『おおみやの民話』(町教委・91)に、


 小野小町    周枳   堀 広吉小町塚の案内(小町公園)

 昔、五十河(いかが)の甚兵衛が旅をして、福知山で宿をとっただげな。同じ宿に品のええおばあさんが泊っとって、いるんなことをはなしあって心易うなったそうな。
 何か、いわくありげな老人のようすに甚兵衛さんは、
「どうも普通の人とは思えんけど、できたら身分を教えておくれえな、わしは、丹後の国の五十河の甚兵衛というもんですわあ。」
 百姓しているゴツゴツした手をついてたずねると、
「ほんとにやさしいおことばで恐れ入ります。何を隠しましょう。今は落ちぶれていますが、小野小町というのはわたしのことです。」
 昔を思い出して涙ながらの話に、甚兵衛さんは何もいえず頭をたれているばかりだったそうな。
 甚兵衛さんに連れられてあくの日に福知山を出て、昼ごろには天津(あまつ)いうところへつくと、甚兵衛さんが、
 「この先をいけば橋立や、宮津に行くけど、峠があって不幸道(ふこうみち)(今の普甲峠)いう難所があるし、北は加悦谷、三重、五十河、わしはこの道を家へ帰るだ。あんたはどうする」いうと、
 「なれん旅で心配です。とにかくいっしょに連れて行つとくれ」いうことで、二人で五十河へ帰り甚兵衛さん宅に泊ることになっただげな。
 しばらくして桜の咲く頃、橋立や宮津が見たいといいなったので、甚兵衛さんが案内して見物に出かけたいうことだ。
 橋立などを見物して、あとはこの次と尾坂(おさか)峠まで帰ってきたとき、にわかに小町が腹痛になり、いろいろ看病したけど、一向によくならないで仕方なく甚兵衛さんは小町を背おって、苦労して五十河の里にもどってきたけど、とうとう五十河でなくなったげな。
 今でも、五十河には妙性寺というお寺もあるし、石碑も残っとる。

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