島(しま)
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京都府京丹後市久美浜町島 京都府熊野郡久美浜町島 京都府熊野郡海部村島 |
島の概要《島の概要》 川上谷川中流部の東岸の集落。橋爪の南にある。当地は往古友重から分離移住したと伝えている。 島村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、元禄10年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年海部村の大字となる。 島は明治22年~現在の大字名。はじめ海部村、昭和30年からは久美浜町の大字。平成16年から京丹後市の大字。 《島の人口・世帯数》 86・28 《主な社寺など》 茶臼山古墳 島集落を南側から見た。正面の山(茶臼山)の頂上にあるよう。久美浜の前方後円墳の中では最も古いとされるが、嶮しい山でどこからのぼるのやら見当もつかない。 『久美浜町史・史料編』 〈 久美浜町には五基の前方後円墳が知られている。一基は既に叙述した芦高神社古墳である。このすぐ北側に所在するのが島茶臼山古墳である。これは川上谷川中流域右岸の丘陵上に立地している。全長四ニメートル、後円部径二五メートル、前方部幅一四メートル、墳高三・五メートルを測る。 一方川上谷川下流域右岸の丘陵上に岩ケ鼻古墳が立地する。こちらは全長五二メートル、後円部径二八メートル、前方部幅一四メートル、墳古同四・五メートルを測る。しかし基底部と二段目の基底が平行しないため、基壇の上に乗った全長四〇メートルの前方後円墳である可能性もある。両古墳の築造時期は島茶臼山古墳が古墳前期、岩ケ鼻古墳が古墳中期と推定されているが、岩ケ鼻古墳は全長四〇メートルと推定した場合、前方部は狭長で後円部と前方部の比高差も一・五メートルと大きく、こちらも前期古墳である可能性がある。このほかドウブン一号墳・大明神四号墳も前方後円墳とされている。 〉 『京丹後市の考古資料』(測量図も) 〈 島茶臼山古墳(しまちゃうすやまこふん) 所在地:久美浜町島小字川東 立地:川上谷川中流域右岸丘陵上 時代:古墳時代前期 調査年次:1968、2005年(同志社大学考古学研究会測量調査) 現状:完存 遺物保管:なし 文献:F052 遺構 島茶臼山古墳は、川上谷川中流の比高差約50mを測る丘陵頂部に立地する。 測量調査の成果によると、全長約42m、後円部直径約25m、高さ3.5m、前方部幅約14mを測る。丘陵を切断して古墳を形成したと見られ、墳丘裾周囲には幅約2mの平坦面が巡り、前方部先には広い平坦面を有する。埴輪、葺石などの外表施設はこれまでの調査では確認されていない、また内部構造にっいても不明である。 遺物 これまで表採資料は知られていない。 意義 島茶臼山古墳は、川上谷川中流域に築かれた前方後円墳である。測量調査報告によると、丘陵頃部という立地条件と前方部が未発達で柄鏡形にも見えることから、古墳時代前期の築造と位置づけられている。 川上谷川流域では、市内のほかの水系に比して大型前方後円墳の存在は知られておらず、全長50m前後のものが最大とされている。その中でも本古墳は最古に位置づけられるものであり、川上谷川流域における古墳文化の受容を考える上で重要なものである。 近年、同志社考古学研究会により再測量が実施されている。 〉 『京都府熊野郡誌』 〈 茶臼嶽の古墳 字島の川東なる茶臼嶽は最も景勝の地にして、元小幡六郎左衛門居城の地なりといへど、夫は恐らく蘆原城址と混同せる誤伝ならん。山腹に墓地あり山上は即ち古墳にして前方後円の車塚たり。後円の部分は頂上の士を多少曳き均せる形跡を存し、現今径六間余の円形平地を為し、松樹繁茂せり。前方の長さ六間前端の巾二間半にして、後円と前方との高低一間あり、前方四段より形造られ、高さ二間半を有す、一見雄大なる車塚たるを信ずるも、此の地未だ徴證すべき物件等出士せるものなく、副葬品其の他に於て未だ発見せざるも、古墳たる形状に於ては実に完備せる所なり。近年此の茶臼嶽に連続せる山中より、往々弥生式土器を出たしたれば、多少の消息を窺ふに足る。 抑も此の茶臼嶽の古墳は、大正七年郡誌資料調査として実地踏査の際、佐治正章氏の発見せる處にして、郡内に於ける車塚二個中の一たり。此の古墳に就ては未だ学者の研究を経ざるも、旦波道主命の史蹟関係より考察するに、十町程隔たれる地には其の屋敷跡と唱ふる地あり、二十町余にして道主命の妃川上麻須郎女の出生地あり、是等の関係より推察すれば、古来幾多の人の研究せられつゝある竹野郡の銚子山とか、丹波方面とかは、道主命の史蹟関係より考ふれば、多少縁遠く、寧ろ此の茶臼嶽の古墳こそ旦波道主命の古墳にはあらざるか記して後人研究の資料に供せん。 〉 八立神社 川上谷川、府道706号線、右手が茶臼山で、遺蹟地図によれば、茶臼山古墳はちょうど当社のま上くらいにあるよう。このあたりの神社はだいたいイノシシ除けの柵の外側にある、普段はイノシシの領域で人が立ち入らない場所らしい。社殿は少し登ったすぐそこにある。 『京都府熊野郡誌』 〈 八立神社 村社 海部村大字島小字川東鎮座 祭神=素盞鳴命。 由緒=創立年代其他不詳なれど、大正七年暴風雨に際し、境内地土崩のため上屋倒壊し数十尺の崖下に転覆せるも、其の内部に安置せる社殿は依然として其の地にあり、斯る奇瑞に感動し直に氏子の協議成立して、大正八年新たに社殿竝拝殿の建築を見るに至れるは、亦以て神威の尊厳を仰ぐべきなり。 氏子戸数=三十一戸。 〉 八立は矢立のことであろうか、矢立杉とかの伝説が残る地もある、大きな木へ向けて矢を射るという風習があった時代の、鉄砲以前の時代の古い民俗である。今も各地にかなり残っていて、私の近くでも「射手矢の神事」とか呼び名は変わっているが、マトへ向けて矢を射ることが旧の正月あたりに行われていたという、年の吉凶を占うためか悪魔祓いか、もう今ではたいていはその目的はよくわからないものとなり、いろいろとまことらしい伝説がつけ加わったものとなっている。 (参考)「吉備津神社の矢立神事」 阿弥陀堂 天正年間に久美浜に移転した長明寺の跡地に阿弥陀堂があるという。 『京都府熊野郡誌』 〈 大字島には林光庵の跡あり、松井佐渡守久美浜に移し長明寺を起す、林光山と呼べるは即ち之を以て命名せるなり。 〉 『くみはまの民話と伝説』 〈 松嶺院の話 島 竹中与 昔々、丹後国島村に松嶺院というお寺がありました。この島村にそれはそれは不思議なことが起きました。夜になるとお寺の近くの山の中から、何ともいえぬ美しい光を出すものがありました。それは暗い夜ほどその光は美しく光り輝きます。それはほんとうに美しく、この世のものとは思われず、お坊さんから度々聞いた極楽浄土かと思われ、じっと見ていると、心の底まで澄んでゆきました。村の人々はお寺に集まって、その光の出る所を堀ることになりました。 すると土の中から一寸八分の黄金の仏像が出てきました。 この黄金の仏様を胎蔵した本尊阿弥蛇仏を本尊として林光山長明寺と改めました。 建久元年三月に、全国を行脚していた、生き仏の唯信房がこの長明寺にやってきました。 そしてこの尊い阿弥蛇如来を拝んで数日を過したといいます。 それから急にこの金の仏様のことが評判になりました。 天正年間には久美浜城主松井佐渡守康之も島村に来てこの仏様を拝みました。 仏様を拝んだ殿さんは、尊さに心から帰依しました。そして是非久美浜にこの仏様を迎えて一寺を建てたいとの切なる願によって、久美浜へ仏様を移しました。これが現在の林光山長明寺なのです。 島村の寺の跡地には新しく堂宇を建立して阿弥蛇如来を安置しました。 これが今の説教場であります。 〉 《交通》 《産業》 島の主な歴史記録『京都の昔話』 〈 鬼の送り 昔、島(網野町)の安達(あだち)家の何代か前の主人が京都から帰る途中道に迷い、あせればあせるほど山の中に迷いこみ、日はとっぷり暮れ、おなかはすいて、もはや歩く気力もなく、山の中に倒れておりました。 夜がふけてきた頃、どこからか鬼が現われて、 「おい、こんな所にお前は何をしとる」と言うので、おそるおそる、 「道に迷って、おなかがすいて、どうにもなりません」と申しますと、 「そうか、それはかわいそうに。ではおれが送ってやろう。目をつぶって、おれがよいと言うまで開いてはならんぞ」と言って目隠しをされた。 しばらくしてから、 「そら帰っただ」と言うから目隠しを取ると、それは自分の家のかどであったということです。 その後安達家一族は、節分の夜の鬼はじきをやめて、「鬼は外」の豆まきはしないということです。 語り手・糸井芳蔵 ※三津(網野町)の末次というみょう字の家でも節分の豆まきをしない家が多いといいます。 〉 『くみはまの民話と伝説』 〈 茶臼が嶽 島 竹中 与 茶臼が嶽は島の川東にあって、その山の上に昇ると川上の平野が一眺出来る景勝の地です。この地に昔小幡六郎右ヱ門という人が住み一時は栄えていました。そして山腹に墓地があり、前方後円の塚でした。昔よりの言い伝えで、塚の中には金の茶釜があり、どんな初雪も不思議と消えるとのことでした。その後この塚を堀った人がありまLたが、みんな気が失せて堀ることは出来ませんでした。その塚を少し東へ下りた谷をガンモクといい、ここを出ると小さな谷や畑があって、昔おせん女郎という女郎が住んでいました。そのまた東に小高い山があって昔薬師如来が安置されていました。いつも大ぜいの人が参りました。ある年大水があり山も崩れ家々も流されました。この大水でこの山も崩れて薬師如来も流されました。その薬師如来が今は芦原に祀られています。今でもこの山を”薬師なる”と呼んでいます。 〉 島の小字一覧島(しま) 大門 イ子ノ下 上地 中地 下ノ田 下地 上口長 熊長 前田 畷ノ下 川原 熊田 六反田 苗代 川クゴ 大長 水通砂田 ヲ京田 畠上田 クケ 油田 渡上 ヘイ 小谷 宮ノ下 ヲテ山 ガンムク 川東 畑上田 フイ ガンムリ 早天田 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『京都府熊野郡誌』 『久美浜町史』 その他たくさん |
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