丹後の地名

下岡(しもおか)
京丹後市網野町下岡


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京都府京丹後市網野町下岡

京都府竹野郡網野町下岡

京都府竹野郡浅茂川村下岡

下岡の概要


《下岡の概要》



網野駅のある一帯から北へ自動車学校の先の山すその集落。東部は往古浅茂川湖であったと伝える耕地整理された水田地帯で、その東を福田川と新庄川が北流する。
KTR網野駅

下岡は戦国期に見える地名で、「丹後御檀家帳」に「一 木津のしもおか」と見える。この呼称から、下岡は中世木津庄に含まれていたと考えられている。新庄も木津側から開発されたという。
下岡村は、江戸期~明治22年の村名。枝村に浅茂川・小浜がある。はじめ宮津藩領、享保2年より幕府領、宝暦9年再び宮津藩領となる。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年浅茂川村の大字となる。
下岡は、明治22年~現在の大字名。はじめ浅茂川村、明治37年からは網野町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《下岡の人口・世帯数》 709・259


《主な社寺など》

六神社
六神社(下岡)
下岡村の総氏神総鎮守様と思われる。大永年間(1521~28)よりも古そうだから、中世のものと思われる。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 六神社 村社 字下岡小字宮ノ越鎭座
(神社明細帳帳) 祭神 天児屋根命 浦島太郎 島子ノ神 島垂根命 伊満太三郎 綿積乙女命
由緒不詳、明治六年六月村社に列せらる
一本 殿  梁行六尺五寸 桁行六尺五寸
一拜 殿  仝二間    仝五間
一境内坪数 二千六百七十五坪
境内神社
 府留寶神社 祭神不詳
  由緒不詳
 若宮神社
  祭神由緒不詳
 山神社 祭神 大山祇神
  由緒不詳
(丹哥府志) 六社大明神 末社 真高大明神 若宮大明神  〉 

『網野町誌』
 〈 六神社 下岡小字宮ノ越鎮座
 祭神 天児屋根命・島垂根命・浦島太郎・伊満太(いまだ)三郎・島子ノ神・綿積乙女命(「神社明細帳」)
 由緒不詳、明治六年(一八七三)六月村社に列せられる。
(☆ユニークな木像こま犬がある。)
○境内神社
  府留宝神社  祭神由緒不詳
  若宮神社   同右
  山神社    祭神 大山祗神
                 現在共に六神社に合祀
  山神社    祭神 大山砥神
また、『丹哥府志』では
六社大明神 末社 真高大明神・若宮大明神とする。
コラム
『丹哥府志』によれば、与謝郡伊根町本庄浜の「浦島社」(宇良神社)の祭神を次のように述べている。『浦島太郎・曽布谷次郎・伊満太三郎・島子・亀姫の五人なりといふ未だ実否をしらず、(浦島曽布谷今田は地名なり)』と。このうち浦島・伊満太・島子・亀姫(綿積乙女)の四人(四神)は下岡六神社の祭神と重なることから、六神社の海神的性格がうかがえる。

 次に、今回(一九八八)見出された当社『棟札』(イ)~(ヘ)の内容を示す。赤外線も利用しての読解(判読)は府立丹後郷土資料館でなされたものである。

(表)当宮上?(葺か)大永四年甲申三月十七日大工新左衛門神主藤芸臣毛呂新六守秀筆者観音住智恩叟書之
園 祭留神頭衆料足五貫文?板代出也下岡六所之明神御□篭者也

(ロ)
(表) 干時元和五杞歳山副孫左衛門重政此人即御勧進京升一斗御入候 今度之勧進其人者中屋九郎左衛門尉政家懸津中次郎右衛門内儀銀子壱文目二分御入候
天當宮上?當社者六所大明神御本地南無大悲観世音菩薩也當時大工者藤原朝臣池邊平右衛門尉元定則此人御勧進京枡(升)貳斗御入候
 二月十九日 
以下略…

注一
右(ヘ)の一番新しい棟札(写真参照)には計一一神の名が並ぶが、これらの神々は当社の『祭神』ではない。中央の造化三神の右・左八神はそれぞれ棟上に関する金工・手斧初・祭具・たて具・祭祀・草木の生長・作物の豊穰・水などをつかさどる神々であり、「奉上棟」の縁起を祝うのであろう。

二 棟札イ・ロ・ハによれば、六神社はかつて「六所之明神」「六所大明神」と呼ばれていたことがわかる。
『中世のはじめころ〈総社〉という制度が始まり、国府の近くに総社神社・六所神社・六所宮という名で残っていることが多い。』(『神社の古代史』岡田精司)という説に照らして興味深い.(『丹哥府志』では六社大明神、明治以降六神社と呼称か?)
三 棟札(ロ)(ハ)(ニ)には、「仏教語」が溢れており、(ロ)(ハ)には『当杜者六所大明神御本地南無観世音大菩薩也』(六所大明神の本来の姿は観世音大菩薩である)という「本地垂迹」が記録されており、(ニ)では「仏教語」のみが書かれている。したがって(ホ)などについても、近世の社寺の在り方としてはしぜんのことであろう。明治初年の「神仏分離令」以前の「神仏習合」の状況がよくわかる。
四 六神社裏に「椎木谷古墳」(五世紀代)があり、古墳と古い神社の相関をかんがえる一つの示唆となるのではないか。
  〉 


尾崎神社
高天山登山道ぶち。神社と呼ぶかホコラである。この裏山が下岡城趾である。
尾崎神社(下岡)

『丹後国竹野郡誌』
 〈 尾崎神社 無格社 字下岡小字上地鎮座
祭紳、由緒不詳   〉 

『網野町誌』
 〈 ●その他の区内諸社
尾崎神社(下岡小字上地)
八代神社(同)
金刀比羅神社(下岡小字室)
妙見宮(同)
天満宮(下岡小字三反田)
市杵嶋姫神社(弁天さん)(下岡小字野島)  〉 

 曹洞宗城嶽山松泉寺
松泉寺(下岡)

『丹後国竹野郡誌』
 〈 松泉寺 字下岡にありて曹洞宗なり
(同寺調文書)山號を城嶽山といふ、天和元年辛酉の歳三月城林山松泉寺なる眞言宗の寺ありて廃頽せるを、木津村龍献寺の世代石牛禪師を請じて住職とし曹洞宗に改む、世代を経ること十九代なり、  〉 

『網野町誌』
 〈 城嶽山松泉寺 曹洞宗 下岡
・本尊 薬師如来
<由緒・伝承>
(同寺調文書)城林山松泉院という真言宗の寺があったが衰微したので、天和元年三月、木津村龍献寺二世石午天梁大和尚(永平寺三十七世)を開山に請して曹洞宗に改めた。松泉院は一五〇〇年代から存在していたという。
注 旧『網野町史』によれば、旧跡を改宗して城嶽山松泉寺としたのは二世海音和尚の代で、石午天梁和尚を開山とした時期を元禄元年(一六八八)としている。
次の棟札は、昭和六三年(一九八八)、下岡・六神社修復の際に発見され、京都府立丹後郷土資料館で赤外線検査の結果判読されたものである。
(棟札)
寛永七庚午年 山副太左衛門尉殿銀子五文目御□壱対御入候中屋九郎左衛門加悦五郎右衛門右両人□時之願人也當村□貳斗一□二斗御入候當宮上葺當社者六所大明神御本地南無大悲観世音菩薩□□
 六月廿 日 志水九左衛 … 松泉院□□中屋浄心入道大工衆一。之間
御内
 当山は、この棟札により寛永七年(一六三〇)に〝松泉院″と号していたことがわかるし、龍献寺再興に大きな役割を果たしたことを証する寛文一〇年(一六七〇)ころと推定される龍献寺古記録の綴にも〝松泉院〟と記載されている。だが、承応元年(一六五二)の「龍献寺古文書」(一三〇ページ参照)には〝下岡村・松泉寺〟との記載があるので、〝松泉院〟が〝松泉寺〟となった時期を特定することはできない。
補注 松泉寺が智源寺を相手どって、永平寺に対し龍献寺再興のためにおこした訴訟「松泉院触下差上申訴訟井返答之覚」は永平寺にも保存されているが、その最初の部分は次のとおりである。
一、丹後の国竹野郡湖秀山龍献寺儀は二百五十余年の古跡にて太源一派、恕仲派に御座候を新寺の智源寺(寛文八年)天鷹派より末寺の由、先年より度々申し掛けられ候に付いて、六年以前申の夏、御本山龍献寺旦末共に登山いたし御訴訟申し上げ候共、先鋭の筋目との聞召し、智源寺住持意悦並に常光寺住持天長、右両長老を摺罰に仰せ付けられ云云
これに対する智源寺爐雪和尚の返答
一、湖秀山龍献寺は太源一派、恕仲派と申し立て大きな偽にて御座候、龍献寺儀は古くより拾持(無本寺?)に仕り来る本寺、定め無く、その後龍献寺転退の切、永平寺御便憎蹈木の高昌寺・身片(美方)の臥龍院お越候得て御改に成り、則ち両御便僧へ十二ケ寺の者共書付差し上げ申し候云云(原漢文)

 これらの応答は全部で七か条にわたっている。問題は寛文一三年(一六七三)六月九日に決着し、龍献寺が永平寺の預り末寺となり〝小本寺〟という公称も認められるようになったことについては、〝湖秀山龍献寺〟の項で述べたとおりである。
 昭和二年(一九二七)三月七日、奥丹後震災により当寺は倒壊した。(旧)網野町が作成した災害調査表には、本堂、鐘楼、位牌堂、土蔵、庫裡ほか二棟が全壊と記載されているが、震災後庫裡のみを再建しそこで仏事一切を行い、同六年鐘楼を再建した。しかし、本堂の再建が下岡区で問題となったのは昭和四〇年(一九六五)である。本堂の再建にあたっては、与謝郡駒倉(現宮津市)にあった某寺の建物をあてることになったが、駒倉の山中から宗派の異なる寺院の本堂を解体して下岡の曹洞宗である松泉寺の本堂とするため、その道の権威中村淳治に協力を要請し承諾を得た。本堂は同四二年に再建され、翌四三年三月二四日に落慶式が行われた。
注一 石牛天梁大和尚は、本然円明禅師の勅号を賜わった(『丹哥府志』)永平寺三十七世の高僧である。(旧『網野町史』では三十六世と記されているが、『国史大辞典』(吉川弘文館)の記述にしたがった)同禅師は龍献寺の二世でもあり、浅茂川・正徳院と同じ開山である。天梁和尚は正徳四年(一七一四)三月六日に亡くなっている。
 二 中村淳治については〝宝聚山本覚寺〟の項を参照のこと。  〉 


下岡城跡
築城年代は不詳だが、丹後の中世山城跡としては典型的なものの1つという。天正頃には一色氏の陣代高屋駿河守の居城で、その戦死の地である。天正10年細川興元軍のために落城した。舞鶴の佐武ケ岳城主・坂根修理亮はこの戦いでここで死んだとも伝わる。桂林寺に位牌があるとかいうから、実際はどうなんだろう。
下岡城趾
下岡城趾カイド

『丹哥府志』
 〈 【高屋駿河守城墟】
丹後旧記云。高屋駿河守は一色義道の老臣なり、天正六年一色義道細川藤孝の為に敗走して遂に加佐郡中山駅に於て自殺す、於是高屋駿河守剃髪して良栄入道と號す、又義俊義清の二代に仕へて軍功多し、天正十年弓木落城の日、吉岡桜井の二人と同じく討死す、頗異名を存す。良栄の孫永井信濃守に仕へて高屋新左衛門といふ、知行二百五十石、増補丹後府志の撰次に與る。  〉 

『丹後国竹野郡誌』
 〈 下岡城 字下岡にあり今尚三層より成る屋敷跡、通路及び石垣の一部、用水井等あり、戦国時代一色義道の陣代、高屋駿河守入道良閑、英其遼遠江居す、天正六年加佐郡中山の軍には軍功多かりしが、天正十年一色氏既に亡び、細川興元の兵六千に囲まれて城遂に陥り父子共に討死して一色氏残党の最後を飾る、木津城主赤尾但馬守、島城主坂根修理亮共にこの時に戦死す
(丹後旧事記) 高屋駿河守入道良閑、一色義道の陣代なり、天正六年義道中山の軍に切腹有りける後、落魄仕て入道良閑と号す、嫡子を遠江守といふ、義俊義清に仕へて戦功多し、竹野郡下岡城に住す、
(一色軍記)又良閑が孫民家に世を忍び後永井信濃守尚長に仕へて知行二百五十石を給はり高屋新五左衛門といふ、丹後増補府志撰者の内なり、永井家改易の後宮津職人町に住し其子医師となりて高橋立閑と号す、又高屋の郎等桜井、吉岡が末葉今もあり、高屋良閑入道の子息遠江守より注進来り申けるは、長岡玄蕃頭興元凡五六千ばかりの勢を随へ下岡の城を攻めかゝり昨廿三日(天正十年二月)朝四ッ時より軍始まり未だ勝負を分たず、籠城の人々火水に成て相戦ひと告けたり云々斯くて攻軍二月廿三日より三月廿日に至るといへとも軍寄手に勝利なければ長岡越中守忠興二百八十余艘の兵船を調へ竹野郡浅茂川の辺より五ヶ所の攻軍に加勢を入る云々  〉 

『丹後旧事記』
 〈 坂根修理亮。後花園天皇宝徳年中加佐郡左武ケ嶽に障徼す。此末孫後に一色の家士と成竹野郡島村の城に籠り下岡の城にて討死。  〉 

下岡城趾

勝山城趾
網野村との境の標高60メートルほどの所に城跡がある。七、八合目から本丸台地までは、南北とも険阻。下岡城跡とは田圃を挟み約1キロを隔てて相対するという。
『丹後国竹野郡誌』

 〈 勝山城 下岡城址に対する網野側の山頂にして城址の外網野側に下る道路等残れり
(郷村高谷伊右衛門氏系図抜萃)高屋駿河守は天正十年三月細川興元の兵に囲まれ落城して討死、其嫡
家遠江守も男女共殺害、中郡丹波郷城主後藤下野守基則及び竹野郡黒部城主松田遠江守に嫁せる女子のみ残る駿河守の弟を高屋治部左衛門と称し下岡の内勝山に住す、遁れて左衛門次郎、六郎左衛門を経て、太郎右衛門に至り前野但馬守に勤仕の砌、同国太田赤鼻を拝領し高三百石を腸ふ、其後二代を経て忠兵衛に至り大坂落城後丹洲木津郷石田に居住す、現今郷材高谷伊右衛門氏は其後裔なりといふ  〉 


《交通》


《産業》




下岡の主な歴史記録


『御檀家帳』
 〈            かうおやかへしする人
一木津のしもおか  二羽清兵衛尉殿
 ずみの左衛門殿  助 右 衛 門 殿
 五郎右衛門殿    新 左 衛 門
 し ゆ り ど の    助 右 衛 門 殿
 与 治 ど の   三郎右衛門殿  
 又 三 郎 殿   八郎右衛門殿
 与しさへもん殿   孫 左 衛 門 殿
 六郎左衛門殿   助 九 郎 殿
 弥 三 郎 殿   左衛門五郎殿
 五 郎 介 殿    又  七  殿  〉 


『丹哥府志』
 〈 ◎下岡村(浅茂川村の南)
【六社大明神】(末社真宮大明神、若宮大明神)
【尾崎大明神】
【城嶽山松泉寺】(曹洞宗)
【高屋駿河守城墟】
丹後旧記云。高屋駿河守は一色義道の老臣なり、天正六年一色義道細川藤孝の為に敗走して遂に加佐郡中山駅に於て自殺す、於是高屋駿河守剃髪して良栄入道と號す、又義俊義清の二代に仕へて軍功多し、天正十年弓木落城の日、吉岡桜井の二人と同じく討死す、頗異名を存す。良栄の孫永井信濃守に仕へて高屋新左衛門といふ、知行二百五十石、増補丹後府志の撰次に與る。  〉 

『網野町誌』
 〈 下岡部落の言い伝え(一)
 下岡区の氏神祭礼に、毎年行われる三番叟は練習が大変で、子どもの時から厳重な指導をうけた。役倉という倉庫があって、その土間に延を敷き、ランプを吊し、毎夜ここに集まって一か月の猛練習をした。指導には先輩と、前年の当番者が当たった。
 舞方、謡方とも、昔から伝わる一定の型があり、この古い型を習得することは容易ではない。ただし、この行事は、太平洋戦争以来中断されていた。
 翁の面を調査された専門家の言によると、この面は元禄年間の作とのことゆえ、そのころ当地で始められたものと思う。もとは但馬の浜坂から習得したと伝えられているが、現在でも同地のものと同型のようだ。
(二)
 今(編注 昭和五〇年代か?)より約九十年前、村の総意で松泉寺の釣鐘を作る相談ができ、金属類の供出や資金集めも行い、鐘鋳の当日は近辺十五か寺の住僧を招いて経をあげ、たたらを踏んで、一週間かかって鐘を鋳あげた。
 その完工式には、稚子行列や鐘鋳踊りなど盛大に催され、にぎやかなことであったそうだ。当区は八〇年前に大火災があって、村の資料、古文書一切を失なったので、古い時代のことを知ることができない。
 しかし、口伝によると、鐘を鋳た人(鋳物師)は加悦の人だったという。鐘搗きはじめの順は、寄進物の量によって決められたらしく、一番の玄米二五俵から、四番の同一〇俵までの記名があったというが、この鐘も太平洋戦争の際供出されて今は無い。
(三)
 同区に古くから伝わる「ヤチャ踊り」がある。もと、但馬の城崎郡二見方面(今の玄武洞付近)から習得し、その当時一〇人ばかりの青年が、二見のものを真似てやってみたが、なかなかうまく踊れない。とうとう二見に出かけ、あたまをさげて教えを乞い、一〇日間かかって習得したものだという。
 毎年、盆踊りの時、ふつうの民謡踊りの後で、三〇分くらいはこの「ヤチャ踊り」をやらないと、人々は満足しないようである。
 この踊りにはハヤシに、笛五、太鼓一、すり鉦四、三味線三を用いる。(『ふるさとのむかしむかし』(一)(二)(三)とも話者不詳)
補注 「昔は豊岡市・城崎郡一円で広く歌われたようで、今でも豊岡・城崎・日高・香住・竹野・和田山の一部に残っているのが、ヤチャ踊である。同じく「ヤチャ」といっても、旋律も歌詞も(多分踊りも)所によってかなり違っている。源流は一つであろうが、その発祥や系統は分からない。ほかの民謡の多くが丹後・丹波経由で京都や伊勢と結びつくのに、これは丹後との関係はうすい。越後の民謡に「やしゃで、やのしゃで、やしゃ知らぬ」というのがあり、この「ヤシャ」が「ヤチャ」と同義なのではないかという推測もある。(『豊岡市史上巻』八九九ページより))  〉 


下岡の小字一覧


下岡(しもおか)
西トン田(にしとんだ) 長蓮寺(ちょうれんじ) カブロ カユド 余り山(あまりやま) 森ケ尾(もりがお) 榎木谷(えのきだに) ツブレ堂(つぶれどう) 会谷(あいだに) 前田(まえだ) 椎木谷(しいのきだに) 矢谷(やだに) 寺ノ下(てらのした) 谷川(たにがわ) 岩本(いわもと) フタムラ ヲノ草(をのぐさ) 大谷(おおたに) トフヒガス 休場(やすんば) カフツ谷(かふつたに) 梅ガサコ(うめがさこ) 出合(であい) 柳谷(やなぎたに) 下クゝリ(しもくくり) イセキ谷(いせきだに) スモゝ  有安(ありやす) 四ツ町(よつまち) 墓ノ下(はかのした) 長田(おさだ) 東トン田(ひがしとんだ) 寺ノ上(てらのうえ) 沖橋(おきはし) 越前(こしまえ) 大田(おおた) 勝山(かちやま) 三反田(さんだんだ) 平尾(ひらお) 上地(かみじ) 穴畠(あなばたけ) ハブ長(はぶおさ) 大京寺(だいきょうじ) 松岡(まつおか) 御所梯(ごしょがき) 宮ノ下(みやのした) 宮越(みやこし) 室(むろ) 岩本(いわもと) 中鼻(なかのはな) 水神(すいじん) 三寸(さんず) 西浦(にしうら) 大ハシ(おおはし) 暮ノ谷(くれのたに) 改太(かいた) 小谷(こたに) 落谷(おちだに) 細谷(ほそたに)



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後国竹野郡誌』
『網野町史』
その他たくさん



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