丹後の地名

塩江(しおえ)
京丹後市網野町塩江


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京都府京丹後市網野町塩江

京都府竹野郡網野町塩江

京都府竹野郡浜詰村塩江

塩江の概要




《塩江の概要》
浜詰の北にある集落で、日本海に面している。反対側は山林で、海岸段丘上に集落が立地する。
塩江漁港
「しょうい」ともよばれるが、慶長検地郷村帳に木津庄の内として「塩井村」とみえる。明治21年磯村とともに浜詰村に合併した。
昭和25年から網野町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《塩江の人口・世帯数》 212・73


《主な社寺など》

五色浜
塩江と磯の中間あたり、引原峠から海岸に下りると五色浜がある。
五色浜(塩江)
五色浜(塩江)
凝灰岩が波に浸食された波食棚が広がっている、凝灰岩はよく見れば一色ではなく色とりどりで、そんなことで五色の浜と呼ばれる。
案内板には、
 〈 五色浜に見られる波食棚(波の力によってつくられた平坦な岩場)は規模が大きく、幾重にも重なった地層や波で洗われた奇岩、地名の由来ともなったカラフルな礫が特徴的です。五色浜は、山陰海岸国定公園のなかでも特に優れた海域景観として、海域公園の指定も受けています。
この浜は昭和2年(1927)の北丹後地震時に約50センチ隆起した波食棚やノッチ(波食窪)も残っており、地震による地殻変動の大切な記録者ともいえます。
五色浜の名前は、波でチャートがよく磨かれ、様々な色と形をした小石が、五色の光を放つことに由来しています。
浜には砂はなく、平らな岩場が広がっています。岩場には、凹みの中の小礫が波によってまわりを削った甌穴(おうけつ)が見られます。
このほか、波がつくった自然の岩の造形が美しい景観を見せ、潮だまりでは様々な海の生物が観察できるなど、海の自然観察の絶好の場所である。  〉 

『丹後旧事記』
 〈 天正記宮津府志順国志等に曰く保昌任国終て後に和泉式部は当国に留り與佐の山中村といふ所にさはかりの草の扉をしつらひ老をなぐさみ有けるを兼房次の国司に下り此庵を訪ひ折々和歌の閑談ありけるとなり今も此庵の跡とて浅黄桜の古跡あり名所の歌に式部桜と記す。詞花集に曰く保昌に具して丹後国にまかりけるにしのびて物いひ来れる男の許へいひ遺しける。はれのみや思ひ起さんあちきなく 人は行衛も知らぬ人ゆえ 玉葉集栄雅物語等に曰く上東門院枇杷太皇后の御為に仏作らせけるに保昌丹後守に侍りければかざりの玉をめさせけるとて赤染衛門に仰を下し給へば 数ならぬ泪の露をかけてたに 珠のかさりを添へんとそ思ふ 和泉式部 なり足軒殿の配所日記に曰く上東門院の命に依つて赤染衛門当国に下り保昌式部とも與佐の水の江の浦めぐりして光能石を求められけるに橘の志布比の浦より拾ひ出せし石の御仏の玉のかざりと成けるより御しき浜とよぶべきよし仰せを下させられけるを今伝へて云也五色浜と記するは後俗の誤なり。
御志起浜。栄雅物語玉葉集和歌集上東門院枇杷太后宮の為に仏作らせけるに保昌丹後守に侍ければかざりの玉を召れんと赤染右衛門に仰下されけるに 数ならぬ涙の露をかけてたに 玉のかさりを添へんとそ思ふ  斯て保昌船を粧ひ都の便右衛門を誘ひ與佐水江の浦の石を拾ひ申されけるに橘の里志布比の浦にて光よき石得て門院へ奉りこされけるを門院限りなく悦び玉ひ此玉の出たる所を長く御志起浜と名付くべきよし仰下されけるより伝ふと順国日記にみえたり。今民俗誤て五色浜といふなり。  〉 

『丹哥府志』
 〈 【五色浜】(章魚岩の次、塩江村に属す)
也足軒素然の配所日記に曰。上東門院の仰によりて赤染右衛門丹後に下りけるを誘ひ、国司保昌みづから浦々をめぐり、橘の志布比の浜にて光よき石を拾ひ朝廷に捧げれば、門院限りなく悦び給ひ式部が許へ送らるる御消息に長く此浜を御志記浜と名付べしとありける云。辛丑の夏余此浜に来りてこれを見るに、浜の広サ僅に四五間、其上に大なる岩ありて覆ふが如し、其下に李実程なる小石の浜あり、其石或は青、或は黄、或は白、或は赤、或は黒、或は一石に二色三色五色を帯たるものあり、俗に五色浜と云。玉葉和歌集に栄華物語りを引て曰。上東門院枇杷准后の為に仏を作らせける、保昌丹後守に侍ければ飾の玉を召れけるを
数ならぬ泪の露をかけてたに  玉の飾を添へんとそ思ふ (式部)  〉 

こんな伝説がある。

『京都丹波・丹後の伝説』
 〈 五色浜の小石  竹野郡網野町塩江
 美しい小石の多い海岸として有名な網野町塩江の五色浜。この五色浜のいわれは昔、上東門院という皇后さまがおられ、仏像の飾り玉を探しておられたが、ときの丹後守だった松平保昌という人が、この浜の光沢のよい美しい石を献上したところ皇后さまは大喜び。
「〝御志起浜〝と名づけなさい」といわれ、これが五色浜になったという。そしてこの浜の小石にまつわる悲しい伝説がいまも伝えられている。
 昔、五色浜に若くて美しい女の水死体が漂着した。ところがその女性は生後間もない子を抱いていた。不思議なことに母親はすでに死んでいるにもかかわらず、坊やはその乳房をふくんだまま生きていたという。
「これは不思議だ、坊やは生きている」と村の人がさわぎ、女たちが着物を着替えさせ、乳をやろうとするが、飲もうともせず、ヒイヒイと火のついたように泣いて困っていた。
 そこである人が「ソーラ坊や、泣くな泣くな、こんなきれいな石をやるで」といって、浜の小石をオモチャがわりに与えたところ、あんなに泣いていた坊やがピタッと泣きやみニコツと笑った。
 みんな非常に喜んで「そうか、坊やは美しい小石がほしいのか、そんなにほしかったら五色浜の小石はみんな坊やにやるで、もう泣くんじゃないよ」といったところ、坊やはまるで大人の言葉がわかるかのように、笑っていたという。
 しかし、その後は何も食べなければ飲みもせず、泣けば小石をもたせてあやすほかはなかった。
こんなことで生きていられるはずがなく、坊やは間もなく死んでしまった。村の人たちはかわいそうにといいながら、母とともにねんごろに葬ってやった。
 ところが、その後、この五色浜に異変が起きた。この浜の小石を持ち帰ると、激しい腹痛を起こし、その小石を元のところに返すとケロリとよくなる。小石を持ち帰るとき「坊や、お前の石をもらっていくで」とことわっておけば腹痛は起こらないという。
 この浜の小石は、日本海の荒波にもまれ、光沢のある多彩なもので、いま海水浴客を喜ばせている。この悲しい母子の霊を慰めるお地蔵さんは、いまも隣接の磯区丁子口にまつられている。  〉 


引原峠にはドタヌキがいた。昔のハナシではなく現在の人間界も実はヒトは少なく、こんなやキツネ類の人をだますものやタコイカの類が多いが…
五色地蔵(塩江引原)
案内板に、
 〈 引原権助と五色地蔵
網野・木津間の引原峠は、大木が茂った、昼間でも暗い山道でした。言い伝えによると、峠には引原権助という古狸がいて、よく人を化かしました。困った近所の人々は、狸の悪さを封じるため石地蔵を造り、僧にお経を読んでもらったところ、狸は塩江の五色の山へ移りました。
しかし狸は、五色の山でも悪さを始め、嵐の夜になると近辺で火を燃やし、沖を通る船をおびき寄せ難破させたそうです。そこで、塩江の人々は相談し、大きな石地蔵を造り、僧にお経を読んでもらったところ、タヌキは但馬の方へ移ったとのことです。  〉 


《交通》


《産業》


塩江の主な歴史記録


『丹後旧事記』
 〈 相似谷。永井増補府志に曰く保昌志布比の浦廻りに曰く爰の山は浅妻の狩倉に能相似たり狩して心見んとありける、後此所に鹿狩あつて数多の獣を得て誠に相似谷なりと興じられけるとかや一色家の筆記に見えたり。誤て間谷といふ也磯塩郷両村の間なる故伝るなり。  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎塩井村(五色浜の次)
【志布比神社】(延喜式、御来屋大明神の条下に出す)
【シイコヤ】
【ジンベタ】
【愛宕大権現】
【御来崎】
【夕日の浦】
浦の左に御来崎あり、左にシイコヤあり、浦の前にジンベタといふ岩あり、南北相連る凡二丁余、岩の左右を通ず、船を此處に泊して風波を凌ぐ。シイコヤより以下皆夕日浦前後の奇観なり。
夫木抄 来ても問へ帰ると思へば下紐の  夕日の浦のかひもなき哉 (読人不知)  〉 




塩江の小字一覧



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後国竹野郡誌』
『網野町史』
その他たくさん



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