間人(たいざ)
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京都府京丹後市丹後町間人 京都府竹野郡丹後町間人 京都府竹野郡間人町 京都府竹野郡間人村 |
間人の概要《間人の概要》 竹野川河口の西部に位置する、旧丹後町の中心部、丘陵が日本海に落ち込む北緩斜面に集落が立地。東から岡成・谷・向地・小泊・小間東・小間西・砂方の7地区に区分される。古くから港が開かれ、丹後海岸の海上交通の中心であり、漁業が古くから発達した所としても知られる。村から東へ向かう伊根街道、南へ向かう間人街道の起点である。集落には町内唯一の商店街があり、公共施設の大半がここに集中している。 市街地の北は府下有数の良港間人港、その西には小型漁船用の小間港・砂方港を擁して、当町漁業の中心地である。集落東部の竹野川河口左岸は荒砂の後ケ浜(のちがはま)海水浴場で、巨大な柱状玄武岩の立岩(屏風岩)がある。 難読で有名な地名の由来として、用明天皇の皇后で聖徳太子の母穴穂部間人皇女が物部の乱を避けて大浜の里に滞在したが、乱が治まって退座されたことによるという伝承がある。「丹哥府志」は、当地に御所の壷なる地があり「丹後旧事記云、此里と間人媛の由縁ありよって以て村名とす、今タイザとよむ。或云。間人媛は此村の人なり、蓋御所の壷は其跡なりといふ」と語られる。 「一色軍記」では対座と書かれ、地元のモンは「てゃぁじゃ」というで(~o~)、古い日本語ならうなら当地がええどぉ… 古代の間人郷で、奈良期~平安期に見える郷名。「和名抄」丹後国竹野郡六郷の1つ、訓注はないが、備中国浅口郡間人郷(現岡山県倉敷市の一部とされるが遺称地はない)には、高山寺本は「波之布止」、刊本は「万無土」と訓じている。ハシヒトあるいはハシウドなのか、マヒトあるいはマウドなのかこれからもわからない。 肥後国山鹿郡には箸人あるいは箸入郷があるが不詳。 和名抄よりはやく平城宮跡出土木簡に「丹後国竹野郡間人郷土師部乙山中男作物海藻六斤」と見える。→ 中世も間人郷で、室町期に見える郷名。「丹後国田数帳」に「一 間人郷 廿伍町二段八拾二歩内」と見える。 間人は中国大陸や朝鮮半島と近く、使者船などが漂着したと伝える。「日本紀略」延長7年(929)、「渤海国入朝使文籍大夫斐?著丹後国竹野郡大津浜」とみえるが、この大津浜を間人に比定する説もある。また李氏朝鮮成宗の命により海東諸国の状況、通交を記述した「海東諸国紀」に戊子年(日本の応仁2年)のこととして、「通使来賀、書称、丹後州田伊佐津平朝臣四郎家国、以宗貞国接待」と記される。田伊佐は間人のことであり、この頃、当地と朝鮮の間に交渉のあったとされる。 江戸時代、間人は日本海航路の港として賑ったが、同時に付近の村々や丹後奥三郡の需要物資の中継地としても機能した。弘化年間には三百石積1艘、百石積2艘など計18艘があった。船荷問屋も生れ、大間港に但馬屋・加賀屋、小間港に因幡屋の3問屋ができた。加賀屋には宝暦年間から明治の初年までの120年間にわたる客船帳が残る。 文化11年(1814)、配札と修行の途次当地を通った野田泉光院は、「日本九峰修行日記」に、 アソビ村出立、辰の上刻。タイザと云ふ村へ入る、半通計り、当所にて村鎮守愛宕大権現祭礼、又地芝居あり、近郷の者共男女老若群集す。因て休息すべき家一軒もなく往来も出来かねたる故、野作道をやうやう通る。此所に商家あり調へ物ある故に立寄る、飯料残りある故に支払ふ。又銀子少々買ふ。祭礼馳走とて嬶の奈良茶振舞あり、右様に付一宿も出来ず 翌日条にも タイザ村へ托鉢に行く。今日迄祭礼の余気あり、三軒にて振舞にあふ、因て昼食いらず。 間人村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、享保2年より幕府領。「慶長郷村帳」に枝郷大間村が見える。万延元年7月の大火で西部地区約300戸が、文久元年6月の大火では東部地区約200戸が全焼。このため夜番組の夜警制度が発足し明治末年まで夜廻りが続いたという。加賀屋の客船帳によれば、江戸中期以降間人港は和船の出入りでにぎわっていた。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年市制町村制により単独で自治体を形成。 近代の間人村は 明治22年~大正10年の竹野郡の自治体。大字は編成せず、大正10年に町制施行。 間人町は、大正10年~昭和30年の竹野郡の自治体。沖合い漁業の基地である間人港は、大正期以来動力漁船が建造され、大正5年東防波堤、同15年中央・西防波堤を築造して府下有数の漁港として発展した。同30年丹後町の大字となる。 間人は、昭和30年~現在の丹後町の大字。平成16年より京丹後市丹後町の大字。 間人と書いてタイザと読む。地名は難しいのが多いが、これは特別に難読地名として超有名である。難読というよりタイザとは絶対に読めるわけがない不読地名である。読めるわけないが何か深い理由あってそう読んできたわけである。 大和と書いてヤマトと読むのと同じような歴史があるのかも知れない。大和はまだわかるが、間人は高度すぎるパズルでカブトを脱ぐより手がない。もしかして偉そうに思っているかもしれないが、ぜんぜんたいしたことないアホだと教えてくれて、この地名の前では謙虚にならざるを得ない地名である。 地名はポツンと一つだけであることはまれで、周辺に似たような地名があるものだし、何かヒントになる神社なども鎮座していて、なにがしかの手かがりが普通はある。それがまったくないのが当地の地名である。こうなると解明不能である。数式で言えば、X=Y の関係がある、ここからXとYを求めよ、千年以上も昔の数式でヒントになるほかの情報は何もない、ということで、解けるわけはない。まったくのラビリンスで、迷い込めばミイラになっても出てはこれない。あれこれと勝手な説は思いついても、万人に客観的証拠をもってもっともだ正解だと納得させうるものは見つけ出せるわけがない。 そのうえタイザは日本語なのかもわからない、沖縄の万座とかここには座のつく地名が見られるし、アイヌ語とする説もある。本当に日本語なのか、それとも南方海人語なのか北方アイヌ縄文語なのか、それとも渡来語なのか。たかが地名と侮ってはならない、当地の歴史を残したもので、歴史が解明できない以上は不明である。 古くからタイザと呼ばれていて、意味はすでに不明になっていた、佳字を当てようにも当てようもない、大間港、小間港とか、今でいう湾や浦をここでも間と呼ぶが、竹野潟湖もあっただろうし、そこの浦人ということで間人と書こうか、とした、これくらいの想像しか私もできない。 位置が栄光の丹後王朝への入口のすぐ脇にあり、単に浦人であるわけがなかろうとも思える。 古代朝鮮伽耶諸国のなかにには、「滞沙」という小国があった(慶尚南道河東郡)、重要な水陸の交通路にあったようだが、百済へ割譲したと継体紀にある。タサと普通は読んでいるが、タイザかも知れない。穴穂部間人皇女などの皇族とも関係ある地なら何かそうした地に関係あるかも知れない。間人と書いてなぜタイザと読むのかはあるいは渡来史から解けるやも知れない。 《間人の人口・世帯数》 2426・885 《主な社寺など》 馬場の内古墳 同墳の長持形石棺のフタが丹後郷土資料館に展示されている。 愛宕神社(葛谷宮ノ上) 『丹後国竹野郡誌』 〈 愛宕神社 無格社 字葛谷宮ノ上鎮座 (神社明細帳) 祭神 軻遇土神 創立不詳、弘化四未九月再建 〉 三嶋神社(小間西城山) 『丹後国竹野郡誌』 〈 三嶋神社 無格社 字城山鎮座 多紀理売神 (神社明細帳) 祭神 市杵嶋姫神 多岐都比売神 創立不詳、延享四卯九月、明和二酉十一月、寛政十午十二月、文政五午五月、明治四未五月再建 〉 三柱神社(小間西谷ノ上) 『丹後国竹野郡誌』 〈 三柱神社 村社 字谷ノ上鎮座 (神社明細帳) 祭神 稚産霊神 保食神 創立不詳、延享四卯九月、明和二酉十一月、寛政十午十二月、文政五午五月再建、明治四年五月村社に列す、 明治四十一年四月十日神饌幣帛料を供進し得べき神社に指定せらる 一本 殿 梁行 一間三尺 桁行 二間 一拝 殿 仝一間 仝一間二尺 一境内坪数 八百八十三坪 境内神社 愛宕神社 祭神 軻偶土神 創立不詳、寛政十二申年四月十六日再建 一本 殿 梁行 二間二尺 桁行 二間 一拝 殿 仝二間三尺 仝三間 一氏 子 二百三十二戸 〉 『丹後町史』 〈 三柱神社 小間西字谷の上 稚産霊神、保食神、倉稲魂神の三神を祭る。 延享四卯九月、明和二酉年十一月、寛政十午年十二月、文政五午年五月にそれぞれ再建が行われた。 明治四年五月村社となり、明治四十一年四月、神饌幣帛料供進神社。 境内には愛宕神社(軻遇土神)があり、寛政十二申年四月十六日再建。 〉 三柱神社(砂方宮ノ谷) 『丹後国竹野郡誌』 〈 三柱神社 村社 字砂方宮ノ谷鎮座 (神社明細帳) 祭神 稚産霊神 倉稲魂神 保食神 存県不詳、明和九辰四月、弘化三年午八月再建、 明治四年神社に列す 一本 殿 梁行 五尺 桁行 一間半 一拝 殿 仝 三間 仝 四間半 一境 内 四百四十九坪 境内神社 室神社 祭神 不 詳 創立不詳、安改元寅八月再建 金刀比羅神社 祭神 大物主命 氏子戸数 五十一戸 (実地調査) 神社古墳の上に建てり 〉 『丹後町史』 〈 三柱神社 砂方字宮ノ谷 稚産霊神、保食神、倉稲魂神の三神を祭る。 明和九辰年四月、安政元寅年八月再建、金刀比羅神社(祭神 大物主神)がある。 〉 三柱神社(向地宮ノ下) 『丹後国竹野郡誌』 〈 三柱神社 村社 字宮ノ下鎮座 (神社明細帳) 祭神 稚産霊神 倉稲魂神 保食神 創立不詳、延享四卯九月、明和二酉十一月、寛政十午十二月、文政五午五月再建、明治四年未五月村社に列す、 一本 殿 梁行 一間半 桁行 一間二尺 一拝 殿 仝 二間 仝 二間 一境内坪数 三百八坪 一氏子戸数 三百六十二戸 〉 『丹後町史』 〈 三柱神社 間人向地宮ノ下 稚産霊、倉稲魂神、保食神の三神を祭る。 延享四卯年九月、明和二酉年十一月、寛政十午年十二月、文政五各再建を行った。 明治四未年五月村社になった。境内には稲荷神社がある。 〉 早尾神社(岡成稲木原) 『丹後国竹野郡誌』 〈 早尾神社 無格社 字稲木原鎮座 (神社明細帳) 祭神 倉稲魂神 創立不詳、享和四子五月、文化二巳三月、天保五午十一月再建 〉 網野や掛津、島津、小浜、浅茂川の神社の境内社(以前は独立の神社)に早尾神社があり、祭神は「天湯川板挙命」となっている。当社もそうではなかろうか、鳥取氏の祖である。 水無月神社(後ヶ浜) そこの案内板には、↑ 水無月神社の謂 古墳時代の終り、第三十一代用明天皇の后・間人皇后は蘇我・物部の乱を避けて大和から領地であった大浜の里(現間人・後が浜)に移られた。 その供人に東漢直駒・穂見中江麿等七人がおられ、東漢直駒の子孫が東姓を名のり、竹野川を中心に交通運輸を司り其の祭神として、水無月神社を司祭した。毎年七月二十八日斎宮神社桜井宮司の司祭にて祭事を奉納しています。 『丹後国竹野郡誌』 〈 水無月神社 無格社 字後浜鎮座 (神社明細帳) 祭神 不 詳 創立 不詳 〉 網野では天湯河桁命を祀ることもあるようだが、当社は近くに早尾神社がある。 曹洞宗海宝山龍雲寺 『丹後国竹野郡誌』 〈 龍雲寺 曹洞宗 小間区にあり (同寺調文書) 本尊は阿弥陀如来にして本郡中屈指の巨刹なり、元禄戌辰年僧良国好謙和尚の創建する所にして、三世曇華隆芳和尚に至り殿堂を拡張し什器を備具して以て今日の基を開けり、万延元年七月十一日殿堂火炎に罹り古書類記録等悉く烏有に帰せり、現在の建物は明治七年再建せしものなり、 (丹哥府志) 海寶山龍雲寺 曹洞宗 (同寺歴代年譜) 丹後州竹野郡間人村、海寶山龍雲寺、未知何年代何人開闢之也、天正年中之頃廃壊而如有如止、唯其舊跡、弥陀堂之存而已、慧心僧都親刻、今之本尊是也、此時細川幽斎侯、田辺城守也、荒川武蔵守、間人村領主也領主與村民共帰崇龍泰寺、一時炎災伽藍悉化成烏有其佛菩薩諸天之焼像残而存焉、老?少年之頃所見也、後艸創一宇於谷地、亦称龍泰寺、利白益和尚主持焉、好施医薬矣、其徒三省?和尚、再鼎新龍雲寺、請松渓山二世橘州宗曇和尚爲開山第一祖而、属州之甲刹智源門下、今立牌勒興之名者、不蔵功也、云々 安永三甲午之春 〉 『丹後町史』 〈 海宝山 龍雲寺 間人小間西 本尊、阿彌陀如来 曹洞宗で、元禄戊辰年(一六八八)僧良国好謙和尚の創建。三世雲華隆芳和尚が殿堂を拡張し、什器を備え今日の基を開いた。万延元年(一八六〇)七月十一日殿堂火災に罹り古書類記録等悉く焼失。現在の建物は明治七(一八七四)再建したものである。 当地方屈指の大寺院で、開祖から二十四代現住職橋垣堅昭師に至っている。檀家は約八〇〇戸で、その殆どは間人にある。境外仏堂として、近くに薬師堂(薬師如来を祀る)、小間西の蘭戸大師堂(弘法大師を祀る)、大間向地の観音堂(聖観世音菩薩を祀る)がある。 〉 城島城趾 城嶋と手前は小間港 こんな案内板がある。↑ 小間港口の通称城島(直系200メートルばかりの島だから、周囲は4キロもあるのだろうか?)に、天正の頃当地を支配していた一色氏の家臣荒川武蔵守知時の居城跡がある。「丹後旧事記」に「間人嶋山 荒川武蔵守」とあり、荒川武蔵守は「丹哥府志」に「将軍義輝公及義昭公に仕ふ、後に一色氏に従」とある人物である。また砂方集落東方の山上にも城跡があり、四郎屋敷・殿様屋敷とよばれる地がある。「海東諸国紀」にみえる平四郎家国の居城跡と考えられている。 かつて北前船の千石船をつないだのだろうか、舟つなぎ石がいっぱい残されている(ちょっと見にくいか) 間人港での船出(丹後町・明治末期) 古くから港が開かれ、丹後海岸の海上交通の中心として、漁業も発達した間人港。新造船が出航する光景。 『舞鶴・宮津・丹後の100年』より、キャプションも 松本重太郎 龍雲寺のすぐ下で生まれたという。 『丹後町史』 〈 明治財界の巨頭 松本重太郎翁(間人小間西) 松本翁は、渋沢栄一氏と肩を並べる明治財界の巨頭で、後世「関東の渋沢、関西の松本」と謳われた経済界の先駆者である。 弘化元年(一八四四)十月五日間人の松岡亀右衛門氏の第三子として生まれた。幼少読み、書き、算は寺小屋で学び、十歳のとき郷里間人を出立、当時のこと故四日間歩き通して京都に出た。はじめ丹後屋宇兵衛をたより、呉服屋菱屋勘七に三年、ついで商都大阪に出て綿屋利八という呉服屋につとめ、かたわら寸時を惜しんで儒学者小田奠陽について勉学に励んだ。 二十三歳のとき、独立して反物商「丹重]を営む。氏の洞察力と決断と実行力はまさに天才的てあった。 大阪紡績会社、日本紡績会社、京都製糸会社、大阪麦酒会社、日本火災保険会社、日本製糖会社、毛斯綸織会社、明治炭坑会社、日本教育生命保険会社、大阪毎日新聞社、阪堺・山陽・南海・阪鶴の各鉄道会社、大阪運河会社等の創立に尽力し、これらの社長・重役に就任、また百三十銀行・大阪共立・大阪興行銀行等をおこし、関西実業界の重鎮となった。 明治三十年(1879)半年ばかり高野山で静養することになり.その間高野山常喜院に参籠、悟道を楽しみ、心身を養い快適な状態になられた。これを記念して、院内に持仏堂を建立、両親の菩提所として供養された。 三十二年五月外遊、欧州各国から米国に廻り同年十一月帰国された。その間スコットランドのドルノックで、世界的富豪力ーネギー氏と会談したことは氏の洋行中の白眉であった。氏はまた信仰心もあつく父母への孝養の心も人一倍強い人で高さ三m余りの青銅の観音像三体を造って、日本三景の地(天の橋立・宮島・松島)におまつりして父母の供養とした。 氏はまた産業経済界の功績のみならず政界でも活躍明治二十九年九月大阪府第二区から衆議院議員に当選、大阪港の築港に貢献された。 大正十年六月十八日、翁の七回忌の記念に大阪難波駅に氏の銅像が建てられたのも、氏の功績の偉大さを示すものであり、昭和三十一年十月二十日にも天王寺六万体町鳳林寺で四十五回忌追悼会が盛大に行われた。 さらに翁は愛郷の念強く明治十八年に郷里間人に金八百円を寄附、この金でもとの間人小学校の校舎は建設されたのである。 昭和三十年六月三日、植垣弥一郎氏の発意によって翁の偉業を讃え現在の間人小学校地に石像が建立された。 大正二年五月病気悪化、六月二十日七十歳の輝かしい生涯を閉じられた。葬儀は同月二十五日大阪四天王寺で行われたが、会葬者の数は実に三千数百名におよんだという。 〉 『図説・京丹後市の歴史』 〈 コラム 大阪財界の雄 松本重太郎 大阪財界の重鎮として著名な松本重太郎(一八四四~一九一三)は、竹野郡間人村の農業亀右衛門の次男として生まれた。京都や大坂で奉公をしたのち、二四歳で独立し、明治三年(一八七〇)に洋反物などを扱う商店を大阪心斎橋に開いた。松本は機を見るに敏で、西南戦争では軍人や巡査の制服用のラシャを買い集めて巨利を得た。 松本が大阪財界で飛躍するきっかけとなったのは、明治一一年(一八七八)の第百三十国立銀行の設立である。発起人には与謝郡岩滝村出身の小室信夫が加わり、初代頭取には信夫の父佐喜蔵が就任するなど、当初から丹後との縁が深かった。明治一三年(一八八〇)以降は、頭取松本重太郎、取締役兼支配人松本誠直(旧宮津藩士)の体制となる。石井寛治によると、明治二四年(一八九一)における同行の支店は、京都・名古屋・長浜・福知山の四つであったが、宮津・舞鶴・峰山・綾部にも出張所が置かれていた。明治三六年(一九〇三)の株主には、宮津の一一〇名、福知山の八三名が含まれていて、多くは秩禄処分で得た金禄公債を投資した旧宮津藩士や福知山藩士であった。百三十銀行は丹後・丹波と特別な関係にあったのである。 松本が創立や経営に関わった会社は、明治銀行、阪堺鉄道(現南海電鉄)、山陽鉄道へ現山陽本線)、大阪麦酒(現アサヒビール)、大阪紡績(現東洋紡)、日本製糖、日本教育生命保険など、銀行業・鉄道業・紡績業を中心に数多く、阪鶴鉄道の創立にも取締役として関与した。この結果、松本の明治三四年(一九〇一)における株式・公債所有時価額は約二〇〇万円に達し、住友吉左衛門の約三〇〇万円には及ばないものの、鴻池善右街門に並んだ。所得額では、明治三一年(一八九八)時点で一一万円となり、鴻池の七万五千円を抜いて住友に次ぐ地位を占めた。 百三十銀行は明治三一年に預金高で大阪最大の規模にまでなったが、こうした急膨張は松本による放漫な投資活動と裏表の関係にあり、日露開戦直後の明治三七年(一九〇四)六月、日本紡織会社の経営不振をきっかけに同行は破綻に追い込まれた。桂太郎内閲は、戦時下の恐慌発生を恐れ、安田善次郎による救済によって落着させたが、百三十銀行と桂内閣・安田との間にたって仲介役を果したのが日本生命社長片岡直温であったことも、片岡が京都府に選挙地盤を築く端緒になった点で見逃せない。 なお、重太郎の養子松蔵は、松方正義の四女光子と結婚しており、両家は姻戚関係にあった。著名なジャーナリスト松本重治は、松蔵と光子との間に生まれた子供である。 〉 後ヶ浜と立岩 間人皇后伝説がある。 《交通》 海岸通り↓ 《産業》 近年まで間人周辺の漁村の女性が内陸の農村や町場に得意先をもち、海産物を行商し、間人の魚とよばれた。その商圏は福知山盆地にまで及んでいた。 今は冬の松葉ガニと夏のイカが有名。 こちらは大間港↓ 昼時なのだが、これはカニをとる船である、全隻が停泊していた。今日は休漁か、もう終えたのか、と聞いてみれば、そうでもないようで、今から出漁か(2回目か)。 「間人カニ」はトクに有名、冬の味覚の王者である。間人港にはカニ漁船は確か5隻しかいない、あと1隻が網野の浅茂川港にいるだけ、これだけで冬の日本海の荒波の中から水揚げする。この日は午後の3時くらいに帰ってきた。日帰り漁である。 ごく近場の漁なので鮮度は抜群だが、幻のカニと呼ばれるくらいに量が少ない。従ってスーパーなどにはなく、高価である、シケが続けば漁に出られずモノがないかも知れず、金があっても喰えるとは限らないが、私どもでは、あったとしても喰うことはできぬ(涙)。 メスの小さいカニ、舞鶴や当地ではコッペとかセコガニと呼ぶが、せいぜいそれを喰うくらい。1匹500~1000円程度(↑)で魚屋さんに売っている。見てるとベッピンとか名がつくものもあって、これにも格があるよう。 オスの大きな間人カニ(↑)は1匹(正式には「杯」と呼ぶよう)1万円以上はする、たかがカニくらい、そんなに高いはずがないと舞鶴人でも信じない人もけっこうあるが、本当にそれくらいが最低である、いいものなら3万円を越える。 (写真↑は松葉ガニ漁解禁の日の様子。携帯のカメラなので画質悪い。御免。松葉ガニというのは丹後以西の呼び名で、同じカニを北陸では越前ガニ、北海道の方ではズワイガニと呼んでいる。これは大きなオスの呼び名で、メスはずっと小さく、メスはセコガニとかコッペなどと呼ばれている、身は小さいが卵が絶品とされる。) 調理済の松葉ガニ↓絶品の王者、幻の間人カニ。 (竹野の梅田荘さんにて) ♨ 丹後温泉はしうど荘 「源泉から直接パイプラインで引き、加水していない湯と、奇勝「立岩」の風景が自慢。潮騒が聞こえるほど海に近い宿とあって夏は海水浴客でにぎわいます。雪景気の幻のカニ「間人ガニ」を満喫できる冬も人気です」と案内にある。 間人の主な歴史記録『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』 〈 竹野郡 一 間人郷 廿伍町二段八拾三歩内 八町二段九十九歩 □田分 荒川殿 六町百廿五歩 中子分 荒川殿 十町九段二段四十八歩 伊賀備中守 〉 『丹哥府志』 〈 ◎間人村(大間村の出口) 【愛宕】(祭七月廿四日) 【三島大明神】(祭八月十三日) 【海宝山龍雲寺】(曹洞宗) 【荒川武蔵守城墟】荒川武蔵守は千賀山城守、木村長門守と同じく将軍義輝公及義昭公に仕ふ、一色氏に従ふ。 【城島山】(出図) 【御所の壷】(壷音悃爾雅日宮中衛與壷異) 聖徳太子の母を穴穂部間人媛といふ。丹後旧事記云、此里と間人媛の由縁ありよって以て村名とす、今タイザとよむ。或云。間人媛は此村の人なり、蓋御所の壷は其跡なりといふ。 【付録】(愛宕大権現) 〉 『大日本地名辞書』 〈 【間人】今間人村と云ふ、(其訓義不詳)竹野川の海口にして、竹野村と相対す、村の西北の崖角を間人の鼻と云ふ。水路志云、間人の鼻は崖角西北に突出す、高さ約一〇〇呎、人家稠密、海上より認め易し、其東方一海里に竹野川あり、舟楫を通ぜず、間人角より東方経ケ崎に至る間は、岸辺岩石暗礁群布し、甚危険にして船を寄せ難し、殊に北西風吹くときは、魚舟をも繋が難し。 按に間人はハシウトと訓むべし、之をタイザに仮るは其故ある事なるべけれど、今詳にし難し、文字以外の事故とす。 ○海東諸国記に家国、戊子年(我応仁二)遣使来賀、書称丹後州田伊佐津平朝臣四郎家国、以宗貞国接待と見ゆ、田伊佐即間人にて、当寺朝鮮交通の事ありしを知る。宮津府志云間人の浦を遊浦と称し、歌枕に出づ、幽斎公の狂歌に「根上りの松に五色の糸かけ津琴引遊ぶ三津の浦々」と曰へり、五色掛津琴引三津と云ふは皆遊浦の辺にある地名とす。 〉 『大日本地名辞書』 〈 【間人郷】和名抄、竹野郡間人郷。○今間人村并に徳光村なるべし、鳥取郷の北、竹野川の西畔なり。(間人旧傍訓二あり) 按に、間人は愛人の義なるべし、古言に愛をはしきと曰へり、(古事記伝に、間は借字にて土師の義と説けり)延喜式、本郡発枳神社ありて、今丹波村に存す、古の間人氏の故里なるべし、間人に、二姓あり、其皇別は、正しく愛人の義にて命名せられたり、(土師人の義と云ふも、別に一説なるべし)古事記に神功皇后の御腹に品夜和気命、品陀和気命の二方まします由見え、姓氏録に「左京皇別、間人宿禰、仲哀天皇皇子誉屋別之後也」とあるを想ふに、万葉集の 父母のなしのまにまにはしむかふ弟の命は云々 とよめる古言の趣味と相発明して、氏名の因由を知るに足らん、然るに仲哀紀に「天皇、聚来熊ククミ田造祖大酒主之女弟媛、生誉屋別皇子」とあり、姓氏録にも「左京神別、間人宿禰、神魂命五世孫玉櫛比古命之後也」と曰ふ、来熊田造とあるは玉櫛比古の後と云ふものと同じきやに疑はる。(後世此地にて間人をタイザとよむ、是は間人氏の祖誉屋別王の外祖大酒主の大酒を、音読して出でたるにあらずや、付会に近き論なれど此に備ふ、但し古事記には品夜和気の母を神功皇后とす) 〉 『丹後町史』 〈 間人の地名 「間人」と書いて「タイザ」と読む。昔からの文献を拾ってみると、和名抄(十世紀初頭)は間人→マウト説、大日本地名辞典では、「間人っ」は愛人(ハシキヒト)の意、また上代の土師部(ハジベ)の人のこと、土師人(ハシヒト)の意かともいい、一色軍記(十五世紀)には「対座」(タイザ)と出ている。丹後旧事記は間人皇后説、海東諸国記(十五世紀)には 「田伊佐津」とでている。 現在定説となっているのは、泉氏所蔵「間人村濫觴記録」である。なるべく原文にそってわかりやすく書くと次のようである。 人皇三十一代用明天皇に厩戸の皇子御誕生、後の聖徳太子である。御母は間人皇后と申し徳高く貞操の女御であられた。時あたかも物部守屋の大臣叛逆にあられ、世の乱れをお避けになり、しばらく谿羽の国竹野郡子の日崎に程遠からぬ、「内外の浜」なる「大浜の里」にお出でになられた云々。 ※旧記にいうには、内外の浜は今の後の浜であり、子の日崎は今の犬ケ岬をさす。なお大浜の里は今の間人村をさし、海岸の大きい所から呼んだ別各であろう。 大昔は間人村を「大浜の里」ともいい、東に中浜村西に小浜村があるので、内外の浜なる大浜の里といったことも、うなづけるところである。それにしても、その頃は家数も僅かな小さな村、東西一里その中間に船の出入できる港があって、それが今の大間港である。常に漁猟を中心に生活をたてていた。 このとき間人皇后につかえてきた人々東漢直駒・木目見宿禰・蒲田麿興世朝臣・下戸部大連・小坂部民谷・穂見中江麿・中臣村主・そのほか末々の人々お供として大浜の里に難をさけられ、村の中の小高い山に、御座所をもうけて、ここに世の乱れをおさけになった。しばらくして守屋の大臣が亡ぼされて、世の中がおさまったので、大和の国班鳩の宮へお帰りになった。この大浜の里を去るにあたって御歌一首を賜わった。 大浜のあら塩風に馴れし身の またも日嗣のひかり見るかな また、「今日よりこの里を間人(はしふど)村と名付くべし。」と仰せられ、さらに御歌二首を賜わった。 大浜の里にむかしをとどめてし 間人村と世々につたへん 大浜につとふみやこのことの葉は 行末栄ふ 人の間人 御歌三首、御染筆を賜わり、持ら伝えられていたが、皇后の御名を口にすることをおそれおおいとして、文字はそのまま皇后の御名を用い、この大浜の里を御退座されたのにちなんで、間人村(退座)と宛名したのである。これがいわゆる間人村の起源である。 そのとき供奉の人々子孫をこの里にとどめ、東の姓は鼻祖東漢直駒の子孫で東を取り、その血脈二派三派に分かれ、連綿として続いている。また木目見宿禰の子孫が相見、木目を合せて相見の姓とした。蒲田麿興世の子孫蒲田をとりて氏とし、小坂那民谷の子孫に派に分れれて今の小谷氏と谷氏となり、下戸部大連の子孫今の下戸氏である。穂見中江麿の子孫が中江、中臣村主忠世の子孫臣を省いて中村氏となっている云々。 維時弘化丙午孟夏(一八四六年)前田俊菴菅原為善謹誌とある。 ※物部守屋の反乱は五八七年である。「沿革丹後の国」の項参照 源蔵氏研究の『間人名称の考証』によると、タィザ(間人)と言う名称の起因は、アイヌ原語でタイ(森林)ヒット(人)であって、その後、年数の経過するに従い、タイヒトとなり「タイジャ」となり「タイザ」と称するに至れりとある。 ※氏は間人の出身者でアイヌ語に関心をもち「間人」についてよく研究され「間人の歴史」についての研究を「間人町報」に寄稿された人てある。 元来アイス語には濁音はないが、後世天孫民族と言われる日本人の移遷同化によって、多年の歳月の間に語音の変化をきたしたのは首肯せねばならぬいとして、間人町東部、朝日夕日の望める白い砂浜を後浜(ノチ)と呼ぶ。これはアイヌ語のノト(鼻又は突出地)を何時の時代からか「ノチ」と訛り称するようになったと説明する。アイヌ語のマア(湾又は間)現在ナア浜、大間、小間がそれであり、小泊の地名がその一例だという。 現に間人の中にアイヌ語ではないかとされている岩の名や地名が古老の間に固有名詞として数多く残されている。 「ソフタ」、「タンジュウ」、「マンノオ」、「シウセ」、「ヤント」、「シイロ」、「パッタリ」、「メグリダニ」、「ツバキ」、「ヤゴダンバ」、「ナアハマ」、「ケンギョウ」、「コヨクビ」等である。 氏は間人の先住人等が現代まで数千年の間、土地の名称音語を変えないで、そのまま呼び伝えていたことを感謝しておられる。 結論づけると「タイヒット=間人=森林の人」にまとめられる説となる。このことはさらに研究を必要とする点であるが、しかしいつの時代から「タイザ」を「間人」と記すに至ったかはなお疑問であった。 とろが最近になって府立丹後資料館から、この問題に考証を与える貴重な資料が提供されたのである。それは発掘調査中であった、奈良平城宮跡東南隅、大路雨落の溝から昭和四十年発見された物件である。当時全国の各地より奈良の都に貢進物を送った梱包の荷札、すなわち木簡が発見されたことである。(写真参照) 「丹後国竹野郡間人郷土師部乙山中男作物海藻六斤」 と墨書され、しかも年代は七六九年であることも明瞭である。このことによって物部守屋の乱を逃れて穴穂部間人皇后が自分の御領地である間人に難をさけられたのが、五八七年であるからそれより百八十二年後になるので、泉氏の濫膓記録は少しも矛盾しないのである。蘇我物部の反乱も、木簡の年代も史実であり、又太古畿内と丹後の深い関係から考え、これを否定する根拠は無くなったと言えるのである。 今から千二百余年前の「木簡」に、墨色鮮かに、間人と二文字が記されていたのである。ゆかり深い「間人」の地名は古くから存在したことは確かである。 〉 『京丹後市の考古資料』 〈 馬場ノ内古墳(ばばのうちこふん) 所在地:丹後町間人小宇馬場ノ内 立地:日本海に面した海岸段丘上 時代:古墳時代中期 調査年次:1969年(府教委) 現状:消滅(墓地) 遺物保管:丹後郷土資料館 文献:CO39 遺構 馬場ノ内古墳は、1969年に共同墓地の移転に伴う造成中に、偶然、石棺が発見された古墳である。石棺は凝灰岩を用いて造られた長持形石棺であり、蓋石以外は造成中に破損した。現況が墓地であり後世の改変、削平を受けていることもあって、古墳の規模や墓壙の形状などついては不明である。石棺の蓋石は隅丸長方形で長さ2.12m、幅0.55~0.65mで高さは中央部でO.20~0.25mを測る。長辺に2個、短辺に1個、合計6個の縄掛突起を有する、蓋の下面には段状の溝を有する。蓋の横断面は蒲鉾形を呈し、蓋下面の加工は比較的丁寧になされる。東側石が3分の1を残すだけで、円形の造り出しを設けている。底石も破損しているが厚さ25㎝余りである(石棺は、丹後古代の里資料館に復原展示している)。 遺物 長持形石棺以外に鉄斧1、鉄鋤先1、碧玉製管玉3点、革金具、鉄鏃の革片2点が発見されている。 意義 丹後地域は長持形石棺が多く発見されている地域である。京都府下の長持形石棺の発見例は6例で、その内5例が丹後地域である。畿内の長持形石棺が竜山石でつくられるのに対して、丹後地城の5例はすべて地元に産する凝灰岩で製作される。石棺の大きさは、産土山古墳、離湖古墳に比べて、馬場の内古墳の石棺は少し小さい。また石棺の凝灰岩の中に比較的大きな砂粒が含まれている。古くからの開発などで古墳が失われた間人地区の歴史を考える上で重要である。 〉 間人の小字一覧間人(たいざ) 荒木野(あらきの) 東河原(ひがいがわら) 浅野(あさの) 左池(さいけ) 下坪(したつぼ) 葛谷(かずらたに) 横枕(よこまくら) 久田(くでん) 江尻(えじり) 長田(ちょうだ)* 野田(のだ) 豆田(まめだ) 広瀬(ひろせ) 里ノ地下(さとのじげ) 林本(はやしもと) 苗代ケ原(なわしろがはら) 宮ノ上(みやのうえ) 宮ノ下(みやのした) 峠ノ奥(とうげのおく) 大鳴(おおなる) 峠ノ尻(とうげのしり) 狐狩山(きつねがりやま) 稲木ケ原(いなきがはら) 水呑谷(みずのみだに) 稲荷山上(いなりやまうえ) 稲荷山(いなりやま) 柳町(やなぎまち) 稲荷山上(いなりやまうえ) 大谷(おおたに) 打越(うちこし) 長者ケ谷(ちょうじゃがたに) 南花下り(みなみはなさがり) 花下り(はなさがり) 後浜ノ上(うしろはまのうえ) 沖ノ岩(おきのいわ) 岡成(おがなり) 谷(たに) 向地(むかいじ) 小泊り(こどまり) 目黒谷(めぐろだに) 夫婦石(めおといし) 清水(しみず) 馬場(ばば) 今在家(いまざいけ) 今在家尻(いまざいけじり) 岡地(おかじ) 谷ノ鼻(たにのはな) 下ノ地(しものじ) 城山(しろやま) 新ケ皿(しんがさら) 谷ノ上(たにのうえ) 南岡(みなみおか) 宝徳(ほうとく) 畑島(はたしま) 下長浜(しもながはま) 上長浜(かみながはま) 但馬尻(たじまじり) 奥後(おくご) 獅々伏鼻下り(ししぶせはなさがり) 岩戸(いわと) 尾ノ久僧(おのくそ) 丹重(たんじゅう) 白石(しらいし) 祖父田(そぶた) 祖父田尻(そぶたじり) 平田(ひらた) 平田原(ひらたはら)* 雨谷(あめだに) 桐ケ谷(きりがたに) 中田(なかた) 砂方(すながた) 下向(したむかい) 上向(うえむかい) 宮ノ谷(みやのたに) 東岡(ひがしおか) 鴻鶴場(こうづるば) 西谷(にしたに) 小峠(ことうげ) 小峠奥(ことうげおく) 矢瀬山(やせやま) 滝ケ原(たきがはら) 戸倉(とくら) 万王山(まんのうやま) 高ツンプリ(たかつんぷり) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『丹後町史』 その他たくさん |
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