丹後の地名

竹野(たかの)
京丹後市丹後町竹野


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京都府京丹後市丹後町竹野

京都府竹野郡丹後町竹野

京都府竹野郡竹野村竹野

竹野の概要




《竹野の概要》
竹野は今は一般にタケノと呼ばれていてタカノと呼ぶ人はまずないが、古くはタカノであった、現在も正確にはタカノである。今となれば別にどちらでもいいようなものだが、古くは竹野郡には「多加乃」の訓注があり、竹野神社は「タカノ」とある、竹野川も竹野媛もみなタカノである。タカノならなぜ「竹野」と書くのかわからないが、タカタケタクタコなどはみな通音でtarkのこと、アリランのarの類語と見ていいと私は思う。当初からそう呼ばれていたものかは不明だが、竹が生えていた野ではなく、アリラン遺跡とアリラン神社アリラン姫、アリラン川の意味と思われる。こうした地名は天日槍系の人々が名付けたものか、丹後とは、丹後だけでなく日本とはそうした国であった。
竹野遺跡や神明山古墳、竹野神社鎮座の記紀にも名を残す丹後でも有数の由緒を誇る地で、もともとは竹野川川口東岸の一帯を呼ぶ地名である。
竹野は、竹野神社のすぐ先から海岸までの広い範囲であるが、集落は外海に向いた海岸にあって、北西を岩磐の岬に護られた天然漁港に、集落は三方を低丘陵に囲まれた浜辺一帯に密集し、道は紆余曲折して狭く、典型的な漁村形態を残している。この地の竹野小学校も児童数25名とかに減少しいよいよ閉校と聞く。

古代の竹野郷で、「和名抄」丹後国竹野郡六郷の1つ。郷内には式内大社・竹野神社がある。郷域は今の竹野・宮などの竹野川下流域の東岸一帯に比定され、竹野郡郡家の所在地と考えられている。
「古事記」の丹波之竹野別・竹野比売、「旧事紀」にみえる竹野君が郡名あるいは郷名に由来することは疑いなく、竹野神社は竹野比売が天照大神を奉斎したのに始まるという伝承をもち、また同社の境内社斎宮社の祭神は竹野比売である。
旦波大縣主由碁理は竹野里を国府としたという伝承もあり、由碁理の女・竹野媛が竹野神社を創始したとも伝えている。
中世も竹野郷で、室町期に見える郷名。竹野郡のうち。「丹後国田数帳」に「一 竹野郷 卅町一段十六歩内」とある。「丹後御檀家帳」には「一 たかのゝはら 家数参拾軒斗」と見える。江戸期には木代(此代このしろ)・筆石・竹野・宮・岩木・吉永・是安・矢畑・一段・力石・相川(相川谷)・成願寺・徳光・三宅・大山・間人などの村々が竹野庄と総称されている(丹哥府志)。
竹野村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、以後享保2年幕府領、宝暦13年但馬出石藩領、天保6年より幕府領。
文政9年大火に見舞われて、焼失被害は家数100軒のうち94軒、土蔵62か所中4か所、ほかに屋根焼失49か所、船小屋9か所にのぼった。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年竹野村の大字となる。
竹野は、明治22年~現在の大字名。はじめ竹野村、昭和30年からは丹後町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

近代の竹野村は、明治22年~昭和30年の竹野郡の自治体名で、竹野・筆石・宮・此代が合併して成立したもの。旧村名を継承した4大字を編成した。昭和30年丹後町の一部となる。村制時の4大字は丹後町の大字に継承された。

《竹野の人口・世帯数》 241・87



《主な社寺など》
竹野川

竹野遺跡
国道178号線沿いに「道の駅・てんきてんき丹後」があるが、その一帯である。そのかたわらにこんなモニュメントが作られている↓。
「あっ!縄文土器や」などと言っていたが、何となく縄文的感性を持った土器だがこれは弥生土器、ここから出土した篦描流水文土器と陶ケンが大きくしていくつも並べてある。
案内板
竹野遺跡
篦描流水紋土器
須代や豊岡の銅鐸に見られるようなマジカルな流水文がよく復元されている↑。銅鐸を彷彿してしまうが、ただの壺ではなさそう、銅鐸と関係がありそうに思われる。この地の弥生銅鐸人が作った聖なる水甕かも。陶ケンもだがこの地で製作されたものか、それとも交易で手に入れたものか。どこからも類例品の出土はなくナゾである。完形に復元できるので、意図的に大事に埋められていたものかも知れない。朱が塗ってあるような色で、このあたりには朱がなかったとは思えないが、これは朱塗りではなさそう、しかし神事用のものではなかろうか。

竹野川河口のすぐ東岸に位置し、竹野川が堆積した土砂と第四期以降の隆起による海退でできた砂丘地にある弥生前期から室町期にわたる遺跡。海岸線から約300メートル、竹野川右岸から20~40メートル。砂丘は東西約550~600メートル、南北約250~350メートルで全域が遺跡地で、かなり広いものである。
モニュメントから竹野川河口部を見る↓この東岸(右側)の向こうの山の下までが竹野遺跡
竹野川河口
竹野とは元々はこの遺跡地あたりをそう呼んだのではなかろうか、竹野川の東岸側の砂嘴地、上の写真で言えば、右側の地である。対岸側は「後ヶ浜(のちがはま)」と呼ばれ、このノチはアイヌ語だとよく言われる、能登半島のノトなども同じで岬とか顎の意味という、アイヌ語というのか縄文語かも知れない。竹野遺跡は弥生遺跡だが、縄文文化もまだ残しているとされ、縄文地名が隣にあったとしてもおかしくはない。ノチの防波堤が外海側にあってタカノは内側砂州の上にあった。だいたいこうした集落はどこでもそうした立地のようである。

竹野遺跡の出土遺物のうち主要なものは弥生式土器で畿内第一様式の新段階に比定されるものが多い。とくに注目されるのは、箆描流水文をめぐらした壷形土器の完形品の出土。また第一様式の壷形土器底部から籾の圧痕が発見されている。そのほか陶ケン・須恵器片・叩石・ポイント片(石鏃か)などが出土している。土錘が各所から出ていることは投網などの漁労を想像させる。
由良川の川口のように左右の岸から砂嘴が伸びてきて、川の本流を塞ぐように巨大になる、こうしたところは大洪水で流されてしまうが、地殻変動で一帯が隆起したためもう流されないほどに高くなってできた地形のようである。
東岸からの砂嘴上にできた丹後では最古級の弥生遺跡である、ここの南部は今は水田だが、元は広い潟湖であったと推測されている。
こうした水辺の低い土地に村があるのは例外的ではなかろうか、だいたいは奥地の高い場所から人は住み着くようで、こうした低い場所に住むのは最後の最後の現在の状態のような場合である。水は豊富だろうが、燃料がない、伝染病が恐い、洪水などの自然災害や外部からの軍事攻撃が恐い、バカほどに楽天的でもない限りは住めないと思うのだが、しかし丹後の最古の村はだいたいこうした海岸ぶちにある、特に水運や漁撈と関係した、近くのどこかテラス上に本村があって、その出村か、よそからやってきた人々のキャンプ的な村だったかと思われるのである。この村だけではやってはいけそうにはないように思える。
竹野遺跡



産土山古墳(うぶすなやまこふん)
産土山古墳
竹野集落より産土山古墳(右手の山)。軽トラが走っているのが国道178号。左手は竹野小学校。
産土山古墳(竹野)
竹野小学校のすぐ隣というか校内にあるような古墳である。竹野校は廃校となったが、この日は何か催しがあったのか子供達がたくさんいた。
北側前面直下に竹野集落と日本海を望む竹野川河口右岸丘陵の鞍部、墳頂には三柱神社が祀られている。直下を通る国道178号線などによりこちら側(北側)斜面は削られているようだが、子供達が登っているのは、だいだい径50メートルばかりの当円墳の急斜面である。
墳頂の三柱神社
墳頂の三柱神社↑と八柱神社
案内板
登口には、こんな案内板が建てられている。↑
昭和13年(1938)発見。径55メートルの円墳。墳丘半壊、内部施設完存。国指定史跡。
昭和14年発掘調査が行われた。葺石、円筒埴輪列。頭部を東に置き、東西の方向をとった長持形石棺には伸展葬の遺骸も認められた。石棺の構成は、長持形であるが頭部が幅・高さともに大きく、他方に向かって狭まっている。
棺内外の副葬品は鏡1、櫛2のほか、玉類・鹿角装鉄剣・鹿角装柄刀子・木製装具直刀・木弓・環頭刀子・短甲・冑・刀剣・鎗身・鏃・やりがんな・銅環・埴製枕などであった。当古墳の造営は5世紀中頃と考えられている。出土品は現在京都大学に保管、石棺はもとの位置に埋め戻されている。
55メートルはこの当時では畿内でも最大級の大円墳であり、その中に長持形石棺、これは「王者の石棺」である。神明山古墳に次いで築かれた大王墓と思われる。
竹野の集落
産土山古墳の墳頂から北側を見る。竹野集落と漁港、その先に日本海。左側の丘陵に大成古墳群がある。道路によって切断された恰好だが、もともとは続きの丘陵で、全体が王家の丘陵ではなかったかと思う。なお写真の左側に片山古墳がある。
産土山古墳


片山一号墳(蝙蝠の穴・本塚)
片山古墳
産土山古墳と同一丘陵の西斜面に蝙蝠の穴(本塚とも)と呼ばれる古墳(片山一号墳)がある。径20メートル。墳丘全壊、内部施設半壊している。そこに見えるのは横穴式石室の巨大な2枚の天井石で、右側の石は六畳敷もありそうな巨石である。この下に石室がある、左側(南側)が羨道部になるが残っていないようである。
片山古墳の入口
大成古墳群へ続く丘陵上に竹野小学校があるが、ここの敷地内にも幾つかの古墳があったという。この山裾から海まで続く丘陵上に巨大な石材を用いた古墳が幾つも作られ続けた「王家の丘」であったよう。
片山古墳天井石

片山古墳の石室
天井石と下の石組との間にわずかな隙間がある、身は入らないがカメラだけは入りそう、上の写真で言えば一番右側、奥壁から写したよう。石棺が壊れたようなものがあり、ここが玄室のようである。
丹後でも最大級の石室規模を誇り、右片袖式で、特に天井石は砂礫岩の巨石2個を用い、大きい方(395×225㎝)は舞鶴のカマボコのような型である。何も出土品はなく、石室構築等から推測して、6世紀末から7世紀初頭の築造と推定されている。.

片山古墳


大成古墳群
大成古墳群
以前ここには「しらばえ荘」という宿泊型の研修センターのようなものがあった。何かで泊めて貰った記憶があり、周辺に横穴があちこちにあったと覚えている。何十年ぶりかに来てみれば、何か記憶とは違っているような…。
岬の先端から覗いてみると、玄武岩の断崖が日本海に落ち込んでいる。大陸の片隅の大地が裂けて日本海が作られるときに海底から、あるいはその直前に地底から吹き出したものであろうか。
大成の岩壁
大成古墳群は16基以上からなる古墳群である、海岸段丘のテラス先端に続く道路の左側手前が7号墳、その先に8号墳、右側が9号墳である。盛り土した部分がきれいに流されてしまったのか、石室の石材だけが残されている。基盤地を溝状に掘り込み、その三面に石を積み上げて石室と羨道をつくり、その上に天井石を置いた、天井石部分から上は盛り土をしたと思われる。

大成7号墳
大成7号墳↑
すべて円墳で、7号墳は径16メートル。横穴式石室(片袖式)で、須恵器・土師器・金環ほかを出土した。6世紀末。石材は岩壁の柱状節理の玄武岩、切らなくてももともとこうした恰好をしている、柱状節理はだいたいは六角形だけれども、ここの四角形になったものが多いようす、古墳の石室にするには都合のよい形、ちょっと赤味があるのは鉄分を多く含むからで重たい堅い鉄のようなマグマが固まった石。

大成8号墳
大成8号墳↑
7号墳の北30メートルの位置にあり、横穴式石室(両袖式)で、須恵器約85点のほか土師器・金環などを出土した。7世紀初頭。
大成8号墳から立岩
8号墳から立岩と竹野川の川口を眺める↑

大成9号墳
大成9号墳↑↓
9号墳は7号墳の北東30メートル、8号墳の東23メートルにあり、横穴式石室(無袖式)、須恵器約50点ほかを出土。9号墳は3基のうちで最も遺存状態がよく、6個の天井石が完全に架されている。8号墳に続く時期と考えられている。
大成9号墳

大成古墳群
立岩側から見上げる↑、8号7号が見える(写ってはいるが、写真が小さいから見えないかも、釣り人の上くらいにある)

曹洞宗白樹山養国寺
養国寺(竹野)
竹野集落の中、一番南側にある。
『丹後国竹野郡誌』
 〈 養国寺 曹洞宗  字竹野にあり
 (同寺調文書) 本山は越前永平寺にして、宮津智源寺を本寺とす、本尊は無量寿佛にして、延寶元寅年三月三日橋州宗曇の開山なり、現今檀家字竹野全部九十二戸字筆石全部三十八戸あり
 (丹哥府志) 白樹山養国寺 曹洞宗  〉 

『丹後町史』
 〈 白樹山養国寺 竹野 曹洞宗
宮津智源寺を本寺とする。
本尊、無量寿仏
延宝元寅年(一六七三)三月橘州宗曇和尚の開山である。檀家は竹野と筆石、約一二〇戸  〉 





竹野の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 一 竹野郷  卅町一段十六歩内
  十八町七段二百十六歩   成吉三郎左衛門
  十一町二段百六歩       不知行  〉 

『丹後国御檀家帳』
 〈 ― たかのゝはら  家数廿軒斗
かうおやかへしする人
 はゝ助左衛門殿   介左衛門殿
 孫 右 衛 門 殿   助兵衛殿
 孫  介  殿   馬の介殿
 大 郎 介 殿   九郎左衛門殿
 し や う 蔵 主   三郎次郎殿
 〆  〉 

『丹後旧事記』
 〈 日本古事記に曰く若倭根子日子大毘毘尊(開化天皇)聚旦波大県主油碁理女竹野媛生御子此子由牟須美尊(一柱)旧事記に曰く竹野媛は垂仁天皇の御代迄も有仕遂年老形姿醜返於本土葛野地到の時輿より堕ちて身失ぬ玄旨法印説に曰く是を城州葛野の事に記せしは旧事記の誤り勅諚により随つて送来有当国葛野の地より返し静に竹野里の身失しなり此媛旧里に帰り大神宮を祭る、所謂竹野郡竹野里に竹野宮是也又此媛斎女となりけるに依て斎の宮とも云なり大県主油碁理は竹野里を国府となし館造し人也。  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎竹野村(筆石村の次)
竹野姫は丹波大県主油碁理の女なり、開化天皇に仕へ奉りて垂仁天皇の御宇に至り、年老たるを以て故郷に帰り天照太神を斎き奉る、よって後に其宮を斎の宮といふ、其宮は竹野宮村に在り。
竹野姫宮は是と異なれり。
【白樹山養国寺】(曹洞宗)
 【付録】(三宝荒神)  〉 


『丹後町史』
 〈 〔竹野遺跡
府立峰山高等学校坪倉利正先生の「竹野遺跡調査報告書」によって紹介すると次のようである。
調在の開始
府立峰旧高校史学部考古学班は第一回を昭側四十二年七月二十一日から一ヶ月間にわたり約三〇名のクラブ員によって丹後町竹野区小字古馬場を中心とする遺物散布地の分布調査をし、さらに四十四年と四十五年七月と三回にわたって調査をすすめた。
この遺跡地に土器片の出土することは、古くから知られていたが、今回の発掘調査の発端は昭和四十四年四月。丹後町間人吉田博氏が織物工場建設のため竹野区小字古馬場に工場用地の造成した際、貝殻羽状紋の弥生式土器を発見したことにはじまる。幸い七月十五日から府文化財保護課の堤、高橋両技師が、近くの大成古墳群の発掘調査中であったので、両技師の指導も受けながらこの遣跡の分布調査を完了することができた。
遣跡の位置及び状況
竹野遣跡は丹後町大字竹野小字古馬場・田中上・上馬場・野尻・野間上・福蓮寺にまたがっているが、大字「竹野」を冠して竹野遺跡と称した。間人か一・六㎞、丹後半島一周道路を日本に沿って経ケ岬に向って道路際、北辺に位置する。竹野川の河口地右岸で、竹野川が堆積した土砂と第四期以降の隆起による海退によりできた砂丘地である。それは日本海岸から約三〇〇m、竹野川右岸から二〇~四〇mの位置にある。砂丘は東西に約五五〇~六〇〇m南北に約二五〇~三五〇mの広さを持っている。丹後の弥生遺跡の多くが、小規模な舌状地辺縁や、扇状地の比較的高い位置に存在するのと較ぺて、弥生初期の遺跡の特色を示している。
*海退とは海岸線が低くなって、陸地より退くことで、地盤の隆起と海水面の低下によって海が退いて陸地が海面上に現われることをいい、海退により沖債平野が出来たといわれている。
遺物の出土状況
発掘調査は第二図のトレンチ番号の順序で砂丘全面に亘って行った。全トレンチの共通点は表上下(耕作土)約一五~一三〇㎝の下に黒褐色砂層(約二〇~六〇㎝)があり、その下に黄褐色砂丘が地山を形成している。従って遺物包含層は中間層である黒褐色砂層になっている。一、二号トレンチは工場用地造成時に桑及び野菜畑を表土から三〇~五〇㎝掘り下げているため、僅かの土器小片を見るに過ぎなかった。しかし後述の弥生前期の土器の多くはこの敷地内で採集したものである。各トレンチは基本的には横二~三m縦三~五mとした。尚工場敷地断辺隅ブルトーザーのかかっていない場所から殆んど完全に復元できる土器を採集することができた。(この土器については別に後述する)
第一号から第十六号迄の各トレンチは何れも距高七m余りであった。ブルトーザーで削られたあとの部分でも第二層の黒褐色砂層から多量の弥生式士器・敲石・須恵器などが出ている。第二号トレンチから須恵器の他に打製石鏃と猪の下顎骨が出土し、四号五号トレンチから沈線絞の壺・軽石・金環二点・鉄鏃片・六号トレンチから無紋の弥生前期に属する甕の底部が多数出ている。また大型の竈の脚底部側両・土釜の腹部・突帯部片などが発見された。道路をへだて、七号より十六号迄については古式土師器の壺片、あるいは須恵器の大形壺片・土錘・ヤリガンナと思われる鉄片、それに共通して土師器と須恵器が入り交っており、土師甑の角形把手・炉跡と思われる黒色の部分(幅三〇㎝縦五〇~六〇㎝)ピットがみとめられた。なお須恵器杯蓋と土師器高杯、鉄器削り用工具の刀子らしきもの、大形土錘半載片・軽石等もある。東に移動して十号は出土量は最も少なく第二層より奈良時代の大型壺片・土師器・須恵器小片があり十一号では古墳時代所産の土器も出ている。更に注目すべきは十二号より青磁片が姿を見せ十三号においては海退以前の海岸線を推定する玉石多数の堆積のあったことである。十四号から出た甕形土器片は外面全体に煤が濃く附着しており又貝殻紋のある壺形土器片もあった。内側が瓦状に焼成された奈良時代の椀や、それに又磁器片なども出土していることから、この付近はやや時代の新しさを表している。十五号では土器片に交って洪武通宝、臼歯二本が発見されている。その他土錘が各所から出ており投網などの漁獲がなされていた事も十分想像できる。
最後の十六号トレンチについては石塊を発児した。福蓮寺の小字名の如く、寺の跡ではないか、浅い層より敷石のような同じ種類の石が多数出ている。士師器・敲目紋の壺片・煤のついた甕・須恵器片多数・土錘半載片・炭化物小片・白磁片・薄暗青色磁器片・青磁片等々である。以上出土された遺物の他に石器として、磨製石斧・砥石と数十点の多数にのぼる叩石があった。
総括
調査の結果この竹野遺跡の砂丘は単なる遺物散布地ではなく、立派な遣跡であることが明らかになり、また他の遺跡と違って、弥生時代前期の単純遺跡であることや、しかも出土遣物が豊富であり、完形に復するものが多かった。その上弥生時代前期の流水紋の壷形土器・石斧未完品・環状石斧など全国的にも数少ない遺物が含まれていた。
本遺跡の特色として、竹野遺跡の前期弥生式土器と畿内第一傑式を細分した「古」「中」「新」の三段階の中「新」の段断にあたっていることがはっきりと分った。また叩石は主として、縄文遺跡で出土して、弥生中期では殆んどなくなるのが普通であるのに、本遺跡で多量に出土したことは、弥生時代前期に未だ縄文時代の生活から完全に脱却しえなかったことを物語っている。
また八号トレンチ中心に土師器・須恵器が出土しており、住居跡らしい遺構が考えられるところから、弥生後期から古墳時代にかけての聚落が存在したではなかろうか。又古老の言うことや小字名「福蓮寺」の地域に寺院の生活に供されたと思われる円硯や各種の青磁片、その他の遺物が中世迄にわたって出土していることも将来「幻の福蓮寺」を発見する上に興味あることである。

(附)箆描流水敏土器 竹野遺跡発掘調査報告書坪倉利正先生
器高二二・六㎝、底径七・八㎝.腹高九㎝、厚さO・五~一・0㎝、黄褐色のやや粗い胎土の壺形土器で竹野遣跡の遣物の中で最も注目される土器である。
頸部から急に外反する口縁部を形成しており、最大腹径は器体中位よりやや下に位置する。頸部には、二本の篦描き平行沈線紋がある。その上、下には整形のための刷毛目が残っている。また最大腹径部のやや上部に箆描き流水紋が、二・九㎝幅沈線紋間にあるが、沈線紋は上部のみ削り出しになっている。器面はよく磨かれ流水紋を浮き彫りにしている。二本の流水紋は佐原真氏のいう横型に属しており、壺の周りに上、下二対づつ配されている。この土器の出土例は横型流水紋を箆描きの手法でえがいたものとして今のところ初めてのものとされている。
なお佐原真氏は「畿内第一様式(新)の前半」と考えたいといわれている。  〉 

『両丹地方史』(昭和46)
 〈 丹後町竹野遣跡について 峰山町 坪倉利正
一、
 丹後町竹野区小字古馬場を中心とする付近に土器か出土することは明治末年に明らかにされ、京都府文化財報告第一冊でもとりあげている。それが注目されるようにたったのは昭和四十年四月から丹後町間人の吉田博氏が織物工場用地として土地造成をしたことによる。土地造成は翌年夏迄続き主にブルドーザによって桑畑が平均五○糎程度削り取られた。
その間、工事関係者は弥生式土器とも知らず多数の遺物を持ち帰った。その中には弥生式第一様式に属する土器でほゞ完形に近いものも相当数あった。その噂さか峰高史学部長の西村正直君に入り、クラブ顧問の坪倉と共に現地踏査をやった。その結果、縄文式土器片石鏃、弥生式土器で第一様式に比定される羽状文、綾杉文、鋸歯文や沈線文等の土器片多数を採集した。然し放置すれば益々文化財が破壊されるので昭和四十二年六月二十日文化財保護委員会に発掘調査を願い出た。幸い七月十五日から府文化財保護課の堤、高橋両技師が近くの竹野区小字大成の大成古ふん群の発掘調査中であったので両技師の指導を受けながら、七月二十一日から約一ヶ月間の発掘調査を行方った。
二、
 発掘調査の結果、この遺跡は竹野区小字古馬場、壱本松、中田上、上馬場、野尻、野間上、福蓮寺にまたがる広大を遺跡であることかわかり、大字名を冠して「竹野遺跡」と名づけた。竹野遺跡は丹後半島基部の西北部にあたる丹後町間人から一・六粁、すなわち丹後半島一周道路を日本海岸に沿って経ヶ岬へ向う道路際北辺に位置し、丹後半島の南二十四粁から「Y」字に北流する竹野川の河口地右岸にある。付近一帯は第四紀以後の隆起による海退によりできた砂丘地である。又、遺跡地は日本海岸から約三○○米、竹野川右岸から二○~四○米の位置にある。砂丘の広さは東西約五五○~六○○米、南北約二五○~三五○米である。丹後の弥生式遺跡の多くが小規模を舌状地辺縁や、扇状地の比較的高い位置に存在するのと較べると本遺跡の立地はやゝかわっている。然し河口の微高地に立地するのは弥生式時代前期の特色でもある。この砂丘の発達の経過は、竹野川河口の左岸と右岸の砂丘は比較的新らしく、それ以前の河口は遺跡地を洗っていたようである。従って左岸、右岸の砂丘の発達が右岸後背の遺跡地(標高六~九米)の砂丘に住居を可能にし、砂丘の後背湿地が耕地として利用されていたのではないかと考えられる。尚、付近には神明山古墳をはじめ東に産土山古墳、蝙蝠穴(石室)、西に鼻下り古墳および北に大成古墳群がある。さらに竹野遺跡の西南一二粁には宮ノ下遺跡(縄文前期)柳谷遺跡(縄文後期)があり、東北方五・五粁には縄文前期から晩期にかけての平遺跡がある。
三、
 昭和四十二年古馬場を中心として発掘調査をして以来、毎年三号~四号にわたるトレンチ設定により遺跡全域の遺物の分布調査を重ねてきた。尚、全遺跡地の層序についていえることは、地山をなしている黄褐色砂層の上に黒褐色秒層(二○~六○糎)があり、その上に暗褐色砂層(一五~三○糎)が耕作土となっている。従って遺物包含層は殆んどが中間層である黒褐色砂層から出土している。耕作土から出る場合は耕作による撹乱のあとが明らかである。主を出土品を列挙すると、縄文式土器(船元Ⅰ式・新保式)、弥生式土器(第一原式が始んどで文様は貝殻施文による羽状文、綾杉文、鋸歯文や箆描文等で器形は壷、鉢、甕である)、土師器(山陰地方の特色をもったものが多く、内壁を箆で荒削にした土器が多い)、須恵器(古墳蒔代後期に属するものか多い)等である。又、石器類では縄文晩期かと思われる石鏃や弥生時代の環状石斧か目立っている。その他鉄剣式磨製石剣、石錘、石棒、小児用石棺、紡錘車、土錘、叩き石、凹皿、金環等がある。歴史時代の遺物(小字這蓮寺出土のものが殆んど)には円硯、青磁、宋銭、刀子、臼歯、鎹、土鍋、土釜、明銭、鉄釘等々の広い範囲の遺物が出土している。以上の遺物のうち特に考古学雑誌(考 五十六六巻二号)に資料詔介した箆描流水紋土器 (器高二二・六糎、底径七・八糎、腹高九糎、厚さ〇・五~一・○糎)は、黄褐色のやゝ粗いの胎土の壷形土器で、竹野遺跡の遺物の中て最も注目される土器である。頚部から急に外反する口縁部を形成しており、最大腹径は器体中位よりやゝ下に位置する。頚部には二本の箆描き平行沈線文がある。その上・下には整形の為の刷毛目かのこっている。また、最大腹径部のやゝ上部に箆描き流水紋が二・九糎幅の沈線紋間にあるが沈線紋は上部のみ創り出しになっている。(第二図)。
尚、器面はよく暦かれ流水紋を浮き彫りにしている。二本の流水紋は佐原真氏のいう横型に属しており壷の周りに上・下段二対ずつ配されている。横型流水紋は、「畿内では前期の朱塗で他の紋様と共に壷形土器の腹部を飾り、木器としては唐古の筒形木器にあり、土器には今まで朱塗流水紋としてしか知られていない」という。従って竹野遺跡の出土例は横型流水紋を箆描きの手法で描いたものとして今のところ初めてのものであろう。なお佐原真氏は「畿内第一様式(新)の前半と考えたい」といわれている。
四、
 竹野遺跡全域に卜レンチしたものを考察してみると、小字古馬場の吉栄工場敷地を中心として弥生式前期の土器が出土するのが目立っている。弥生式第一様式の壷、鉢、甕等の出土状態から考えて、この行近一帯に弥生式前期に属する住居址の存左を考えてもよいのではをいか。尚、同じ付近から時代を異にした古墳時代の遺物が出土しているが、直接的関連はないと思われる。然し中田上、壱本松、野間上、野尻、上馬湯、福蓮寺等の出土品は古墳時代で統一されている。従って古馬湯を中心とする弥生遺跡は、それ以後聚落立地の移動が行をわれたとみるべきである。その原因はおそらく度重なる災害によるものと考えられる。又、古馬場以外では土師器、須恵器等が数多く、上馬場では住居址(土師器中心)の存在が考えられるものがあった。 従って古墳時代にはこの砂丘に聚落が存在したのではないかと考えられる。又、小字福蓮寺の地域では最下層から土師器、須恵器か出、その上から平安時代末から中世に至る遣物が出土している(層序の信用できるものから考察して)昨年、寺院趾を裏付ける心礎らしいものが見付かったが今年は福蓮寺の礎石と思われる石が数多くみつかり幻の寺を明らかにする日が近づいたと喜んでいる。尚、近年、小江慶雄氏の「丹後古代文化の源流」の発表によって丹後の弥生式時代の文化がしばしば紹介され比較研究がなされるようにたった。然し大和文化圏との文化交流については、いろいろの角度から研究されながら、資料の不充分さから推定の域を出ないでいる。最近丹後半島の各所から縄文式時代の遺跡が発見されるに及び、それとの関連を知る上で弥生式遺跡からの出土品は非常に興味のある問題となっている。幸い竹野遺跡の出土品は主に弥生式時代前期の遺物か中心となっているので、資料としての役割は充分果せるのではないかと思われる。例えば、箆描流水文土器や、第一様式の壷底裏の籾痕は丹後における古代文化を知る上で貴重を資料である。又、畿内第一様式(古)に比定される段付き土器が弥栄町黒部から出土し、丹波(福知山)から有樋式磨製石剣の出土がある点等を考えると由良川筋を通じて畿内文化との交流が非常に古くかもあったと思われる。又、田能遺跡の出土品や瀬戸内の型式も受けているので、今後比較研究がなされべきである。と同時に北九州立屋敷に比較的近い日本海沿岸の土器様式の影響も非常に強く受けている。結論的には畿内の文化が先に入り、後から立屋敷系の文化が日本海岸沿いに移入されたのではなかろうか。
① 昭和四十三年、坪倉和正「竹野遺跡発掘調査報告書」
②佐原真「流水文」図解『考古学辞典』  〉 


『京丹後市の考古資料』(図も)竹野遺跡
 〈 竹野遺跡(たかのいせき)
所在地:丹後町竹野小字古馬々、上馬々、一本松、野尻、中田上、福蓮寺、野間上、野間、イリ
立地:竹野川河口域右岸砂洲上
時代:縄文時代、弥生時代前期、後期、古墳~室町時代
調査年次:1967~69年(峰山高校史学部)1983、87、96、99、2003年(丹後町教委)1996年(府センター)
現状:調査範囲は一部消滅(道の駅)
遣物保管:峰山高校・個人(丹後郷土資料館寄託)、市教委
文献:BO21、BO34、BO52、BO64、BO9l、B106、C1O5、C137、C138、DOO5、DOO7、DOO8、FO35
遺構
竹野遺跡は、日本海に面した砂洲上に営まれた縄文~室町時代の集落遺跡である。遺構の残りは全体的に悪く、検出の難しさを伴う。
弥生時代前期の遺構には溝、土壙がある。古墳時代の遺構には、前期の一辺約5mの竪穴住居跡、後期の6.5x5.8mの方形竪穴住居跡があり、同時期の土壙も発見されている。また1940年には小宇上馬々より小型の小児用石棺(1号石棺)、1982年の調査では小字一本松から2基の石棺(2号石棺、3号石棺)が発見されている。いずれも凝灰岩で作られたものであり1号石棺は蓋と身の2石からなる。2号石棺は、長さO、8m、幅0、58mを測り、蓋石1、長側石2、短側石2および底石2の計7枚からなる。3号石棺は、長さ1.03m、幅O.5mを測り、蓋石1、長側石2、短側石2および底石7の計12枚の凝灰岩で構成され、古墳時代中期のものである。
中世の遺構としては、土壙墓がある。墓壙の規模は2.7m、横1.3mの楕円形を呈する。木棺の痕跡は判別できなかったが、刀子と和鏡(桜山吹双鳥鏡)が出土している。
遺物
縄文土器3点のほか、弥生時代前期および古墳~鎌倉時代の遺物が多数出土している。特に弥生時代前期の良好な土器が多い。紋様には直線文、段・削り出し突帯、刻み目文突帯、貝殻羽状文、三角形刺突文、箆描流水文などの文様があり、弥生時代前期中段階から新段階のものと推定される。特に箆描流水紋の壺形土器は、当遺跡の弥生時代前期を代表する遺物である。また底部に籾痕の残る弥生土器のほか、弥生時代前期の陶ケンの破片も出土した。この発見により、市域での陶ケンの出土事例は、扇谷遺跡、途中ヶ丘遺跡についで3例目、総数5個となった。弥生時代の石器には、敲石、打製石斧、磨製石斧、石錘、環状石斧、砥石、石鏃などがあり、弥生時代前期の溝から黒曜石の破片も出土した。古墳時代の遺物として土師器では、布留式の甕、山陰系の複合口縁壺、高杯、杯があり、須恵器では杯、ハソウ、提瓶などがある。平安時代の遺物には、土師器、灰釉陶器、緑釉陶器や墨書土器などがある。中世の龍泉窯系の青磁、白磁などの輸入磁器も多数発見されている。中世墓に伴う遺物には和鏡(桜山吹双鳥鏡)や刀子がある。ほかに1987年の不時発見資料として、3.902枚の古銭がある。最新銭は明の宣徳通宝(1433年初鋳)であり、遺跡の存続時期の一端を示す。
意義
竹野遺跡は、縄文時代にはじまり、弥生時代から室町時代までの長期間にわたり営まれた集落遺跡である。丹後地域の弥生時代前期を代表する遺跡であり、陶ケンの出土、貝殻文をもつ弥生土器などの存在は、日本海経由で弥生文化が丹後地域に浸透したことを示している。弥生時代前期の遺物は遣跡の西側の小字古馬々に集中しており、ここに当時のムラが存在したと推定される。
神明山古墳が築かれた古墳時代前期末~中期初頭の土師器も多数出土しており、当該期以降には大規模な集落が存在したと推定される。中期には、遺跡の中央部(小字上馬々、一本松)に凝灰岩製の石棺が3基みられ、一部の地域が墓域として使用された。平安~鎌倉時代には、墨書土器や輸入磁器などの遺物があり、桜山吹双鳥鏡を副葬する有力者の墓もみられる。また小宇「福蓮寺」は、佐藤晃一により、地籍図上において方形区画の存在が指摘され、在地領主の居館ないし寺院の所在が推測される。埋納銭の出土からも、当地域の有力者の存在が推定できる。
当遺跡は竹野川河口の旧潟湖に面して所在しており、近くには神明山古墳、産土山古墳など丹後地域を代表する遺跡が集中する地域である。弥生時代から古墳時代にかけて、この潟湖を介して大陸、朝鮮や日本各地との交流の拠点として機能したことが推定され、奈良~室町時代にも港湾機能を有する集落として機能したものと評価できる。  〉 


『丹後町史』
 〈 〔産土山古墳
調査の経過
昭和十三年六月、竹野小学校の北西に近接した村社三柱紳社地内の丘に、土地の人が奉仕作業として、祠を再建するため地ならし作業をしていた際、偶然石棺の一部を堀りあてた。封土わづかに三〇㎝であった。
当時のことゆえ、すぐに警察に届け出て、警察を通じての手続きによって、府の赤松幹事が現地に臨んで、その状況を視察した。
翌十四年四月、西田・梅原両委員と赤松幹事らを中心に、竹野村有志の人たちの援助のもとに調査を実施した。僅か三日間という短時間で調査を終り、長持形石棺における遺骸埋葬の当時としては珍しいこの古墳の状態を明らかにすることができた。
古墳の位置とその状況
この古墳は背後に近く山を負い、前面に日本海をのぞむ竹野村の西に近接しており、南東から北西にのびる丘の鞍部に位置するもので、この丘からは南西に竹野川の川口にに近い一帯の平地をのぞみ東方又は直下に入りこんだ日本海を見下す位置にある。
現在南側の山によった部分が竹野小学校の建物と運動場をつくるために昭和八年一部削り取られ又他の側の最も低い部分が掘割られて切通しとなり、間人から宇川に通ずる府道になって両者の間がおのずから高台状をなして残っている。しかしこれらの工事がはじめられる以前ははっきりと墳形をなしていた所から古墳ではないかと土地の人々から注目されていた。さきにのべたように三社三柱神社の境内であるので松林のまま残され産土山といい破壊されることはなかったが、時々その周辺から埴輪円筒が見出されたことがあった。前方後円墳という説もあったが石棺の位置からみて、丸塚と解してあやまりがないであろう。塚の現状は図の実測図で明らかなように封土の北側はかなり形がくつれているが、南側と西側は大体本来の形をとどめたものと見られ頂上約十二mの間はきわめてゆるやかな形で平坦に近く、もともと半径二八m内外の載頭円錐形であったと思われ高さは約六mで表面に葺石もあったと報告されている。(京都府史蹟名勝天然記念物報告書第二十冊による)
さきにのべた府委員のほか京都大学の小林行雄・釣田正哉・中村清冗の三氏他に堀江写真師等が前の晩より間人に宿泊、四月九日朝九時半現場に到着して、竹野神社社司桜井信治氏から修祓を受けて村長警察官等立会いのもとで、作業に入ったと記されていることから、なかなか当時の慎重な時代背景が伺われる。
調査
表面下約一尺(三〇㎝)という浅い位置にあって、作業は極めて順調にはかどり第一日の午前中に、頭部を東に置き東西の方向をとった長持形石棺蓋の全表面が検出され、両はしに作り出された各二組の縄掛突起が注意をひい。棺の周囲には粘土がつめてあり、その土質は特に堅く南の封土中から家形埴輪の一部と思われる破片二、三が見出されている。
棺外に遺物の副葬品と考えられる兜の錣と思われる鉄片が出ており外部の写真をすませたあと午後二時に蓋をあけた。蓋は亀裂を生じ二つに離れていたので扱いやすかったがその下の部分は腐朽がひどかった。
蓋を開けたしゅんかん蓋身密着し赤く朱に染められた内部に皆の眼が一せいに注がれ緊張の空気がただよった。保存の状態は蓋の破損部をのぞいて大体佳良であり、伸展葬の遺骸があって、それに副葬品を配した原形がとどめられておりみなの関心を高めた。午後三時から徐々に遺物だけを取り出し調査が綿密に行われた。翌日と翌々日棺外を内部同様念入りに調査して石棺をそのまま又もと通り戻して調査を完了したのである。棺外の副葬品は東半分に限られており、刀剣・槍身・鏃等の鉄製の武難を主とし一部に木櫛、銅鐶が発見されている。
いづれも固い粘土の間に介在しており、錆ついたため原形のまま取出すことは困難であった。これ等の位置が立面上棺の底石よりかなり上辺にあり、棺側の高さのほぼ中ほどにあたっていた。このことからみると棺外の遺物類は、棺側の下半分が埋められた後その上に並べられたと考えられる。棺の構造が組合せであるので、身の部分を据付けた後埋葬に先立って周囲を堅めたとみるべぎであり埋葬の後、蓋を被うたと思われる。
棺の構造
この石棺は凝灰岩で作られ、長持形であるが頭部が幅高さ、共に大きく他方にむかって狭められている。側組を構成する四石と底石蓋石を加えた六石を以って韓瓊なしている。その底石は長さ二・五m幅一・三m他方は一m狭長な梯形の一大盤石で厚さは二一㎝くらいでその長い両側面に各二個の丸い縄掛け突起が作ってあり又上面には側石を受ける加工がなされている。次に棺側は前後に同じ縄掛け突起を作った長い左右の両側石をおいてその端に近い中間に前後の側石を嵌めこんだものであって右の四石によって長さ一・九m、頭部幅六〇㎝、高さ八〇㎝内外で一人の遺骸を伸展葬するに恰好な内法である。蓋は外被せせになり、それに若干の加工がしてあり前後の両石にはその外面にそれぞれ一個の瘤状の突起が見られた。
棺蓋はほぼ底石と同じ凝灰岩の一大盤石であるが、この方は扁平でなく其の長軸の中央が盛上るように作られてある。又少し内面を堀り凹めて蓋と身とが密着するように加工されている。惜しいことにこの蓋が二つに破損していたのである。久世郡久津川車塚古墳と同じ形式の棺であった。
棺内の様子
棺内に埋葬せられた遺骸は、石棺が頑丈な作りである上に蓋と身の密着の仕方が、よく注意されていたため、良好な保存状態を示し副葬品も又昔の状態をたもってのこされていた。もっとも二つに破れた棺ふたのすき間からその下方にあたる部分は湿気などのため腐朽が多く、木の根が入りこんで原形をこわしているところもあった。しかしこれらをのぞくと一見誰でも埋葬の実際を認められる状態であった。
写真と図に示すよう遺骸は棺の示す形に応じて東を枕に上向伸展葬されていて、それは棺底に敷かれた厚さ九㎝内外の小石敷きの上に直接に安臥されて内棺などあった様子はなく、その頭は大きな埴輪の作りの同じ枕の上に置かれてあった。埋葬後長年月を経過しているので、遺骸各部は腐朽して、骨骸なども原形なく、もとそれを覆うたと思われる布帛等と共に一様に炭化物に変化しており、又頭蓋はもと置かれた枕の上から下におちて胸部の上に形を残している状態で、真紅な朱に染まった枕の上には少しばかりの朽骨と共に、無造作に結ばれた頭髪がもとのままに残っていて、見る者に悲しくいたましい感じをあたえた。また脚の部分に一種の植物質の(藁と思われる)のくさたのがやや多量に残っていた。
右の遣骸に副えて棺内に置かれ遺物は、大部分その両側にあって、左右均勢に近い位置をとっていた。此の類として先づ挙げられるのは、頭部から身体の両側における柄頭を東にした鹿角木鞘の剣であって、その各の剣には下や傍に同じく鹿角装の刀子がおかれていた。次に剣の西につづいた中央部に木製装具の長大な直刀が並べてあり、またこの二つの内側に木弓各一張りずつがあって、その南側のものは珍らしく原形に近い形をとどめていた。北側では中央の直刀につづいて、いま一口の長大な直刀が同じように柄を東にし、刃を北に向けて置かれていたが、南側ではそれに相応ずるものがなく、別に隅に近く柄頭を西に置いた環頭刀子一口を副葬し、北西隅ではそれに応ずる位置に木櫛一個が見出された。
また、枕を中にした東側には、玉類、鏡、等が副葬されていた。この中で、枕の北東における背面を上にした鏡と、他方、枕の南西方南側の剣柄に近く歯を東にむけた木櫛一個があった。数の多いのは枕の北と南の両側においた玉類である。玉は形が小さい所から大部分は下底に敷いた小石の間に落ちこんでおり、はじめ上から見えたのは、枕の北側における一個の勾玉と三個の細長い管玉及び南側の硬玉勾玉一個にすぎなかったが、同じ部分をくわしく調べると北側からは更に硬玉・瑪瑙の勾玉の外管玉・小玉等が見出され、また南側では棺の隅に近く瑪瑙二個硬玉一個の勾玉と共に、四三個の管玉がでてきた。
これらの頭部付近の玉は被葬者の佩用したものでなく頭部の両側に一連宛の飾玉をおいたと考えるのが適当だとされている。
副葬品と時代
(1)棺内における副葬品
(1)鏡一面 (2)櫛二枚 (3)勾玉七個 (4)管玉五三個 (5)異形飾玉一個 (6)瑠璃玉一〇粒 (7)太刀三口 (8)鉄剣二口 (9)環頭刀子一口 (10)鹿角柄刀子二口 (11)木弓二張
(2)棺外における副葬品
棺外の裂品はその大部分が鉄製品で、永年の間、直接土中にうづもれていたため錆化破損がひどく採掘のときこわれたものもあり正確な数量は分からなかったが、既にかいてきたように副葬の原位置でその形の推された甲胃一具をはじめとして大体次のようであった。
櫛一枚 鉄剣二口 鉄槍身一口 鉄鏃二個 刀子残缺三口分 ヤリガンナ七、八個分
なおこの他に異様な鉄製品の残缺が若干みられた。
これらの遺品などから考えて鏡・玉・利器・武器の類を主とする点でわが国の古墳墓制の上半の副葬品に通じており特に木弓の遺されている例は稀であった。
調査の結果この産土山古墳はその規模の点で古くから知られた同じ地区の神明山古墳には及ばないが、長持形石棺を主体としたかなりの構造のものであり、その保存状態もよく、調査を通じて全貌が確かめられた。
この陵丘を利用して墳丘の大部分が盛り上げてあり規模と副葬品の種目からみて古式古墳の内容にも近く、土器顛を缺いているので、後期のものでもなく、また個々の遺品からみて.その中間的な様相も考えられ、ことにそれが刀剣.刀子の拵や勾玉の類によく表われている。わが国古墳の実時代の推定は、現在一般に行われているように、容易に断定できはいが、本古墳の営造は五世紀と見るのが最も妥当だとされている。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 産土山古墳(うぶすなやまこふん)
所在地:丹後町竹野小字宮の腰
立地:竹野川河口域左岸丘陵上
時代:古墳時代中期
調査年次:1939年(京都大学)
1996~1997年(丹後町教委)
現状:完存(国指定史跡)
遺物保管:市教委、京都大学総合博物館
文献:B065、B073、C031、C032、G008
遺構
産土山古墳は、竹野川河口左岸の神明山古墳に近い竹野の集落の南西の丘陵上に築造された古墳時代中期の首長墓である。1939年に長持形石棺の緊急調査が行われた。その後1996、97年に範囲確認調査を実施した。調査の結果、当古墳は直径54mの円墳で、葺石、円筒埴輪を有することがわかった。長持形石棺は、地元で産する凝灰岩が用いられており、6石からなる。1939年の調査では、底石の長さ8尺2寸、頭部幅4尺3寸、他方の幅3尺4寸を測り、厚さ7寸内外とされている。1997年の調査では、蓋の大きさが2・48mであることが明らかになった。長側面には2ヵ所の円形の縄掛突起を作り、上面には側石を受ける加工を施す。蓋石は、長軸の中央が盛り上がり、前後の両端に2ヵ所の縄掛突起を有する。短側石は中央付近に円形の作り出しを持つ。墳丘は、墳頂部の上側約4・7mが盛土であり、大規模に造成していることが判明した。
西側おいては、古墳の葺石を利用した大規模な中世墓が造営されており、骨藏器や一石五輪塔、像容形板碑、石仏などの年代から戦国時代から江戸時代初期に造営されたものである。
遺物
1939年の発掘調査による出土遺物としては、石棺内遺物として埴製枕、変形四獣鏡、竪櫛2点、硬玉製、瑪瑙製勾玉7点、碧玉製管玉53点、ガラス製小玉10点、木製大刀3点、鉄剣2点、環頭刀子1点、鹿角装刀子2点、木弓2点が発見されており、石棺外遺物として、鉄剣、鉄鏃、刀子、ヤリガンナ、三角板革綴短甲などがある。また、家形、盾などの形象埴輪の破片も出土した。
石棺は荘重な長持形石棺でつくられ、石棺外部が粘土により覆われていたこともあり、石棺内部が空気の遮断により極めて保存状態が良好に保たれていた。1939年の調査報告では、蓋を開けた直後の石棺内部は伸展葬の遺骸が存している状況が確認できたと記され、埴製枕に残る頭髪の写真がそのことを物語っている。ほかに埴製の枕や木製の大刀や木弓などの出土など特筆される。
意義
産土山古墳は、直径約54mの古墳時代中期、5世紀中葉の長持形石棺を埋葬施設とする丹後の首長墓である。特に地元に産する凝灰岩で造られた長持形石棺は荘厳なものであり、丹後地域の古墳時代中期のものとしては特筆すべきものである。  〉 

『朝日新聞』(97.3.14)
 〈 *畿内最大級と判明*丹後の産砂山古墳*
 丹後町竹野の国史跡「産土山(うぶすなやま)古墳」の発掘調査をしていた丹後町教委は十三日、円墳の規模が直径約五十五㍍、高さ約十㍍で、五世紀中ごろに畿内で築造された古墳の中では最大級であることがわかった、と発表した。竹野川下流域を支配した首長の大王墓とみられる。現地説明会は十五日午後一時半から竹野小学校横の現地で開かれる。
 標高約三〇㍍の山頂にある同古墳は、一九三八年に近所の人が植樹をしようとして掘った穴から石棺を見つけて発見された。翌三九年の学術調査で長持形石棺(縦一・九㍍、横四十二-五十六㌢、高さ一・二㍍)と分かり、出土した遣物の環頭刀子(とうす)や直刀、銅鏡、ヒスイやメノウの勾玉(まがたま)、碧玉(へきぎょく)類は京大が所蔵している。
 特に、墳丘の主体部にあった長持形石棺は、地元産の緑色凝灰岩を使っており、極めて重要なことから埋め戻され、五七年に国史跡に指定された。今回の調査は、古墳の規模を明らかにし、石棺の保存策と周辺の整備計画を検討するため、九五、九六年度の継続事業で実施された。
 古墳の範囲を確定するために堀った数本の溝からは、線刻を施した円筒埴輪(はにわ)や形象埴輪のこぶし大の破片が数百個見つかった。また、西側では古墳を壊してふき石を転用したとみられる中世墓があることも分かった。  〉 

『読売新聞』(97.3.14)
 〈 *産砂山*丹後最大級の円墳*高さ10㍍、直径55㍍*葺石など出土*
 古墳時代中期(五世紀中ごろ)の円墳で国の史跡に指定されている丹後町竹野の産砂山古墳が、同時期の円墳としては加悦町の鴫谷東一号墳と並ぶ丹後地方で最大級のものであることが確認された、と十三日、丹後町教委が発表した。丹後地方の最高首長が葬られたが、この時期以降、同地方から巨大古墳がなくなっており、当時から畿内勢力の支配が強まったらしい。
 一九五七年に国の史跡に指定されたが、大雨による土砂崩れや開発で崩壊が進んだため、町が九五年度から同古墳を調査。その結果、高さ約十㍍、直径五十五㍍の円墳を確認。その上に中世の墓が一部崩して乗っていることも分かった。
 同古墳は、海岸から南約三百㍍、標高三十一㍍の丘陵にあり、三八年、住民が頂上にある三柱神社の境内を、植樹のために掘り返して石棺を発見し、そこが墳頂郡であることが判明。京大教授らが学術調査し、長持形石棺の中や周囲から銅鏡(変形四獣鏡)、ヒスイやメノウの勾玉などを見つけ、地形から直径五十二㍍前後の円墳と推定していた。
 今回の調査で、古墳斜面から直径十-四十㌢の葺石、円筒形や盾形、家形の埴輪とみられる破片約二百個が出土。
 同古墳でみつかったような長持形石棺は、当時の「大王の棺」といわれ、府内では五か所で発見。長辺百九十㌢、短辺四十-五十㌢、高さ百二十㌢。町教委では、当時の丹後地方の最高首長で、今も流れる竹野川下流域を支配していた長が葬られたとみている。
 町教委は「土砂崩れによる石棺の位置の移動はなかったものの、前回調査後に石棺上に生えた松が根を張っていた」と説明。近く埋め戻し、保存計画を練る。
 現地説明会は十五日午後一時半から。  〉 

『京都新聞』(97.3.14)
 〈 *産砂山古墳・古墳中期の丹後で最大級*町教委が60年ぶりに再調査*直径55㍍、高さ10㍍*長持形石棺の位置も鑑定*
 丹後町教委は、国の史跡指定を受けている同町竹野の産土(うぶすな)山古墳(古墳時代中期=五世紀中ごろの円墳)を約六十年ぶりに再調査していたが、十三日、これまで不明だった規模が当時としては丹後地方では最大級のものとわかった、と発表した。
 同古墳は、日本海を眼下に望む竹野小学校西隣の高台(標高三一㍍)に位置している。保存対策の一環として、昨秋から一九三九年の府教委による調査以来の発掘をしていた。
 調査は約三百二十平方㍍内の十一カ所のトレンチ(調査穴)で実施された。円墳の斜面に並べられた葺(ふき)石の位置などから墳丘すそ部を推定、その結果、円墳の規模は直径約五十五㍍、高さ約十㍍で、古墳時代中期のものとしては丹後地方では加悦町・鴫(しぎ)谷東1号墳(直径五十四㍍)と並ぶ最大級のものと分かった。
 第一回調査前後に何回かの土砂崩れがあったほか、神社建立などによって、古墳規模や出土した″王者の棺(ひつぎ)″と呼ばれる長持形石棺(長辺百九十㌢、短辺五十㌢前後、高さ百二十㌢)の位置などは確定していなかった。
 今回、長持形石棺についても、動いた形跡は見られず、墳頂部中央に位置していると確認された。
 同古墳からはこれまで埴(はに)製枕(まくら)や鋼鏡、ヒスイやメノウなどの玉類などが見つかっている。調査を担当した吉田誠調査員は「竹野川下流域一帯を支配した首長の墓で、あらためてその大きさに驚いた」と話している。現地説明会は十五日午後一時半から行われる。  〉 


『丹後町史』
 〈 本塚(蝙蝠の穴) 竹野字片山五六〇
産土山古墳と同じ丘陵の西斜面の畑中にあって現在はほとんどその掛土が失わて横穴式石室が露出している。その石室も羨道部は殆んど破壊されてもとの状態はとどめていない。ただ玄室部の方は比較的残りがよく大正七年梅原博士が側壁実測を行った。実測の結果右片袖の横穴式石室で玄室の長さ六・一八m幅約二m高さ約二・六四mで側壁天井石の石材は附近の山の自然石と思われる。中でも天井石は巨大で玄室部は二枚の天井石でおおわれている。時期は出土遺物もなく石室の構築などから推測して六世紀末から七世紀初頭とみられている。墳丘の大きさも推測の域を出ないが径二〇mはあったものと思われる。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 片山1号墳(かたやまいちごうふん)
所在地:丹後町竹野小字片山
立地:丘陵端
時代:古墳時代後期
調査年次:なし
現状:半壊
遺物保管:市教委
文献:B021、C005
片山古墳群は、丹後穫町竹野の日本海を望む丘陵に位置する3基からなる古墳群である。すぐ隣に古墳時代中期の首長墓である産土山古墳が存在する。1号墳は本塚または輻蠕の穴とも呼ばれ、片山古墳群中最大の横穴式石室を持つ。
当古墳の存在は古くから知られており、1919年の「京都府史跡勝地調査会第1冊」には「天井石ノ一ノ如キハ長十三尺、幅十尺、高四尺ニ近ク、恰モ屋根形石棺ノ蓋ノ如キ外形ヲ呈ス。委員ノ調査セル竹野郡最大ノ石室ナリ。」と、特に巨大な天井石について記される。
現状では、封土が失われており、石室の羨道部の大半が破壊されている。埋葬施設は、右片袖の横穴式石室であり、玄室長6・18m、幅約2m、高さ約2.64mを測る。天井石は、2枚の巨大な石材を使用し、石室は南に開口する。
遺物
当古墳からの出士遺物はなく築造時期は確定できない。小学佼建築に際して出土したと伝える遺物には、須恵器の高杯、長頚壺などがあり、6世紀末葉から7世紀初頭のものが多い。1号墳と同様の横穴式石室がほかにも存在したものと推定され、1号墳も同時期のものと推定される。
意義
片山1号墳は、丹後半島で最大の玄室を有する。天井石は巨大な石材が使用されており、形状も中央が厚く家型石棺の蓋を想起させる。古墳時代後期においても引き続きこの地域が優勢だったことを示す資料である。  〉 


『丹後町史』
 〈 〔大成古墳群
産土山古墳と相対峙して大成古墳群がある。現在は産土山と大成の山は、間人から宇川に通ずる府道で切通しになっているが、昔は勿論同じ山続きで、大成台地は日本海の波打ぎわに切り立っている。次は府文化財保護基金発刊の『古墳、埋蔵文化財』によってまとめたものである。
所在地と所育  丹後町大字竹野小字大成 私有地 未指定
外形および年代 円墳 古墳時代後期(七世紀)
この大成の上に昭和四十五年の夏京都府中小企業クラブハウス「白南風荘」が建設された。その窓から日本海を望むと、崖近くに三ヵ所の石積みが見える。昭和四十三年に調査された大成七・八・九号墳である。
この台地には十三基の古墳がある。発掘調査前は畑の片隅に石積みがあり、耕作中にじゃまになる石を積み上げたものと信じられていた。平坦な場所にある石積みを三ヵ所選んで発掘調査を行ったところ、いづれも横穴式石室であり、内部から多量の須恵器と刀剣などの武器、金環などの装身具が見つかった。白南風荘はこの古墳の場所をさけて南側丘陵斜面に建てられることになり、いまこの古墳は庭の一部に残されている。
横穴式石室は羨道と玄室にわかれるが、羨道は幅も狭く又天井も低いのにくらべ、玄室は幅広く天井も高いのが普通である。正面の平面形によって両袖式、片袖式、袖無しの形式に分かれるが、大成七号墳は片袖式、八号墳は両袖式に属し、九号墳は袖無しの形式であった。

七号墳は玄室の長さ四・四m幅一・九m羨道は長さ五・八m幅は玄室に向かって左側が狭まっており一・三mから一・八mであった。八号墳は玄室の長さ四・五m幅二・五m、羨道の長さ四・二m幅一・四m~二・四mであった。九号墳はもっとも遺存状態がよく六個の天井石が完全に架されていた。その全長は一〇mて玄室の幅一・六m高さ一・八m羨道の幅一・一~一・四m高さ一・七mであった。
横穴式石室構築の技術は朝鮮半島からもたらされたものである。まず、五世紀末に北九州に伝えられ、畿内では六世紀初頭にはじめての横穴式石室が造られたと考えられる。大土木工事である横穴式石室構築の技術が帰化人によって伝えられたことにより、古墳時代の墓制にも変化が生じた。すなわち、石室の入口が墳丘の外部になければならないという制約から古墳全体の規模が小さくなった。
また、前方後円墳などの大規模な古墳は当初は一人を埋葬するために築かれたものであるが、横穴式石室は複数の人を埋葬することを可能にした。この大成七号墳から十三個の金環が発見されたことは、すくなくとも七人以上の人を埋葬したのであろう。六世紀以降を古墳時代後期とするのも、横穴式石室導入後の墓制の変化によるものである。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 大成古墳群(おおなるこふんぐん)
所在地:丹後町竹野小字大成
立地:竹野川河口域右岸台地上
時代:古墳時代後期、平安時代
調査年次:1967年(府教委)、20022年(府センター)
現状:完存(7~9号墳、市指定史跡)
全壊(17、18号墳、府道)
遺物保管:丹後郷土資料館、府センター
文献:CO35.C137、F079
遣構
大成古墳群は、竹野川河口東側に位置し、日本海をのぞむ台地上に営まれた16基以上からなる古墳群である。1919年の梅原末治による報告にも古墳の存在が指摘されている。これまでに5基の古墳が発掘調査されている(7、8、9、17、18古墳)。
7号墳は、石室全長10.2m、玄室長4、4m、幅1.9mを測る片袖式の横穴式石室である。玄室と羨道部の両側壁には、長大な石を立てて境とする。羨道部側壁が人口に向かい八宇形に広がり、片方の側壁は外側へ列石を持つ。8号墳は石室全長9.7m、玄室長4・5m、幅2・5mを測る両袖式の横穴式石室である。9号墳は石室全長10・0m、幅1・6mを測る無袖式の横穴式石室である。出土遺物からは、7号墳、8号墳、9号墳の順に築造されたと推定される。
17、18号墳は、横穴式石室を埋葬施設とする。隣接して掘立柱建物跡や16世紀代の墓地と推定されるピット群が見つかっており、イリ遺跡と命名されている。
遺物
出土遺物としては、壺などの土師器、高杯、ハソウ、横瓶、提瓶、平瓶、長頸壺などの須恵器のほか、鉄刀、刀子、鉄鏃、鎌などの鉄器、碧玉製管玉および勾玉、瑪瑙製管玉および勾玉、瑪瑙製勾玉、管玉、ガラス小玉などの玉類、耳環などがある。3基とも幅広い年代の資料が出土しており、追葬期間が長かったことがわかる。
意義
封土の大半が失われていた3基の中では、8号墳がほかの2つと比べて大きな石を利用し石室を築いており、石室の規模も大きい。7号墳が6世紀末、8号墳が7世紀初頭、9号墳がそれよりやや年代が下がると推定される、竹野川河口地域は、古墳時代の丹後を代表する神明山古墳、産土山古墳、願興寺古墳群などの特徴のある重要な古墳が存在する。当古墳群は眼下に日本海、竹野川河口部、立岩を見下ろす風光明媚な適所に位置し、時代の変遷を示す3タイプの石室の資料がそろっており、文化財活用の観点からも貴重である(市指定史跡)。  〉 


『丹後町史』
 〈 一本松古墳(宇上馬場三七一)と小型舟型石棺
往時の面積約一aあったといわれている。畑に削り取られて現在は長さ八m、幅二mに縮小されている。中央に大きい一本松があってこの名が古墳名となった。畑面より一段高く東側の土中から土器が数個発見されており現在未調査である。発掘すれは貴重な資料が得られることが予想される。
小型舟型石については、現在竹野小学校に保管されているが、これは平地の真中現在の畑地から牛蒡床作りの折、地下約穴○糎の地中から発掘された。
なお一本松古墳を中心に反対側(南側)にも小さな石棺が埋蔵されている。  〉 



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後町史』
その他たくさん



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