丹後の地名

矢田(やた)
京丹後市峰山町矢田


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京都府京丹後市峰山町矢田

京都府中郡峰山町矢田

京都府中郡丹波村矢田

矢田の概要


《矢田の概要》



竹野川中流域の左岸に位置する、中郡と竹野郡の郡境。中川が合流し国道482号線の矢田橋がかかるあたり、景初三年鏡が出土した大田南古墳群のある山の西麓。
矢田村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、元和8年からは峰山藩領。明治4年峰山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年丹波村の大字となる。
矢田は、明治22年〜現在の大字名。はじめ丹波村、昭和30年からは峰山町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《矢田の人口・世帯数》 297・88


《主な社寺など》

大田南五号墳

式内社・矢田神社(矢田谷山)
矢田神社(峰山町矢田)

丹波郡矢田神社に比定される。旧村社。『丹哥府志』は、今姫宮大明神といふ、風土記所謂天女八人の一なり。『丹後旧事記』は、祭神=天酒大明神 豊宇賀能売命。神記に曰く矢田とは屋退といふ心なり神養父の家を退き玉ふを以て祭る。あまの原ふりさけ見ればかすみ立ち 家路まとひて行衛しらすも  といふ歌を神体とも仰とも伝なり。丹波郡は九座一神の地にて五穀成就の神なりとて皆豊宇気持豊宇賀能売両社を氏神とする事谿羽道主命みづからの娘君を神仕へとて此神を祭り玉ひける信心に依て四人の娘君垂仁の后次妃となり玉ひし余風ありと伝ふまことに有難き神国のためしなれば記す。としている。
今の祭神は、伊賀加色許命。伊迦賀色許男命なのか伊迦賀色許売命なのかわからないが、伊迦賀色許男命などは穂積氏などの祖神で、たぶん与謝郡式内社矢田部神社系と考えたものか。熊野郡にも同名の式内社があり、その系と考えて祭神を武諸隅命ともする。近世以来普通は豊受大神を祀る社とされてきたが、いずれも確証なく祭神不明とするしかなかろうか。景行紀や豊後風土記に碩田国直入県禰疑野に八田という土蜘蛛の話がある。常陸風土記には「夜刀の神」が見られる、これはヘビだと書いている。

『峰山郷土志』
 〈 【矢田神社(式内社、矢田谷山、祭神 伊加賀色許(売)命)】『延喜式』丹波郡九座の一、矢田の神社である。
宝暦三年(『峯山明細記』)
姫宮 二尺社、若宮 相殿、上屋 一間半四面程、境内 長三十間幅二十八間程、但し山共。神子河部村相模、祭礼 九月十六日、橋木村縁城寺の塔頭西明院が別当として支配
当時は、姫宮、若宮が並んで一つの上屋の中にあったもので、二十三年前の享保十五年三月二十八日、本殿営繕の棟札にも、「若宮大明神、姫宮大明神」と列記され、別当西明院とある。
文化七年(『丹後旧事記』)
矢田神社、神子 橋本氏、祭神 天酒大明神、豊宇賀能売命。
「神記」矢田とは、屋退(やた)という意味で、養父である和奈佐翁の家を退去された比治山の天女豊宇賀能売命をまつったもので、「あまの原ふりさけ見ればかすみたち、家路まどいて行衛しらずも」の歌を御神体と仰いだと伝えた。……九座一神、すなわち五穀成就の神豊宇気持、豊宇賀能売両社を氏神とすることは、谿羽道主命(丹波道主命)が、自分の娘をして、この神をまつらせたそのおかげで、四人の娘が垂仁天皇の后や次妃となったその神徳をあがめた。といっている。しかし、この屋退(やた)の説に対しては、異論が多く、また豊宇気持命と豊宇賀売命の両社を氏神としたというのは、姫宮、若宮を意昧するのであろうか。いささか了解しにくい点がある。
天保十二年(『丹哥府志』)
矢田神社 今姫宮大明神、風土記の天女八人のうちの一人…
明治二年(『峯山旧記』)
祭神 天酒大明神、豊宇賀能売命、別当 西明院、神子 相模、祭 九月十六日
『旧記』は、姫宮、若宮の関係には全くふれていない。また、この宮が酒造りの神として里人から尊敬されたことは「矢田や丹波郷の天酒さまのお下通るもありがたや」の俚謡によってうかがわれる。ところが、同じ明治二年に丹波村の天酒大明神の神主今西伊予通清から、神祇官御役所にさL出した書類は次のように複雑である。
明治二年(『改号相殿窺書』)
一、矢田神社 式内 祭神 武諸隅命
  右殿 若宮 祭神 伊賀迦色許売 建内宿禰命
  左殿 姫宮 祭神 下影日売命
一、秋葉社(秋葉大権現改号)、祭神 阿遅スキ高日子根命
一、新宮 祭神 大新河命
一、稲荷社 祭神倉 稲魂命
一、産霊社 祭神 天御中主尊 右五社
明治四年(『峯山藩神社明細帳』)
祭神 伊加賀色許命、勧請年記不詳、社一間半四方、神位不明、社地 三十間四方、祭日 九月十六日
明治六年二月十日、村社列格。
明治十二年(『明細取調御届』)
一、矢田神社 一間半に二間、境内三畝、境外 山林 二〇七畝
一、新川神社 一間半に二間、境内 二畝、境外 山林三反八畝
一、末社 妙見 一間半四面
新川神社につき、由緒正しき書類等明細に取り調べ差し出すよう御伝達があったが、いつ紛失したものか見当たらない。古老の話では、字新宮谷に寺があり、坊の谷という処があるし、仁王門のあった所だという大門には石がそのまま存在していた。
明治十七年(『府・神社明細帳』)村社 矢田神社、祭神 伊加賀色許命、社殿 一間半に二間、境内 一、○〇六坪、官有地第一種、由緒 社記等存在しないから確かではないが、里の古老のいい伝えによると、式内矢田神社で、往古、祭の時に神輿は、同村字深田という所の塚添(つかぞえ)という行宮の旅所まで渡御されたもので、その跡は今も存在しているという。
〔境内神社〕大川神社、祭神 大川神、由緒不詳、建物 三尺五寸四面……社掌兼勤……中沢義治
〔頭注付記〕明治三十年一月十二日許可、産霊神社を合併。
明治二十八年(『古神社調査御届』)
社格村社、祭神 伊加賀色許命
〔矢田とよんだ事由〕崇神天皇三十九年秋七月七日、比治山頂の大沢で水浴していた八人の天女のことから述べ……矢田野まで来て、ようやく養家を退去しようという決心がついたからである。醍醐天皇の延長六年、勅命により諸国からやたい『風土記』を奏上した時、この屋退(やたい)の理由を詳しく申し上げたが、すでに元明天皇和銅六年五月の勅語で、畿内七道諸国、郡、郷の名は好字(このましい文字)を用いるよう命じられていたので「屋退」は不吉だというので「矢田」を用いたのだという……。また、神幸の行宮地の深田は、今耕地となって、塚添といい、当時祉領として八町四面を所有していたが、足利時代の末、一色五郎義清の部将の原主水が矢田村に築城し、村民をよくいたわったが、この社領を奪って軍兵を養った……。社殿 一間半に二間、境内末社、一社 大川神社……社掌 兼勤 中沢義治(注)
『縁城寺年代記』によると、崇神天皇三十九年には「天照皇太神大和国笠縫邑から当国吉佐宮へ御遷幸鎮座、四年後大和の伊豆加志宮へ神幸」とある(伊勢内宮)。
また、この三十九年に豊受大神も大和を出て、比治ノ里真名井原に現身をもって降下され、雄略天皇二十二年七月七日、勅使大佐々命によって伊勢の度会へ迎えられた(同外宮)。
矢田神社の祭神については、明治二年から、天酒大明神豊宇賀能売命を改めて武諸隅命とし、同四年、伊加賀色許命となっている。しかし、当時の『村誌』は伊賀加色許命として、加賀を賀加と書いている。これについて『古事記』の開化天皇の項をみると「鹿母伊鹿迦色許売命を娶って御真木入日子印恵命(崇神天皇)を生む……」とある。鹿母とは大和葛上郡の地名である。
この神の正しい名は伊賀迦色許売命で、ことに女神を現わすことからも色許でなく色許売がふさわしいように思われる。
〔現在〕本殿 一間五尺五寸に二間一尺五寸、(境内社)大川神社 三尺五寸四面、境内実測一、〇一〇・四坪、社掌 兼・今西義雄
【神宮、権現、薬師(無格社、同矢田)】
宝暦三年(『峯山明細記』)
三社 一所、上屋 一間に一間半、境内三十間に四十間程、祭礼 八月十八日、長安寺支配
宝暦二年二月、神宮大権現再建の棟札
長安寺現住周厚、大施主当村荘屋大垣利助、組頭番場忠助……  〉 

『中郡誌槁』
 〈 (イ)矢田神社
(峯山明細記)姫宮(二尺社) 若宮(相殿) 上屋一間半四面程 境内長さ三十間 横二十八間程但山共 神子河部村相模持 祭礼九月十六日 橋木村縁城寺中西明院支配
(村誌)村社 宇谷山鎮座
   矢田神社 祭神 伊賀加色許命 祭日九月十六日
由緒 社記録等存在せさる故確據ならされども里老の口碑を挙れは式内矢田神社にて往古神輿例祭のとき同村字深田と称する所に塚添へと云行宮旅所の跡なりと存在せり、境内東西七間南北九間 面積六十九坪
 按、丹波村多久神社も天酒大明神を祭り祭日も矢田神社の前日九月十五日なり俚謡にも彼此一視して矢田や丹波の郷の天酒さんのおした通るもありのだやと云蓋し丹後古風土記天女の古伝中に天女善く酒を醸し一盃を飲めば万病悉く除くとあるに因みて俗に此の神名を唱へ来りしものなり即ち豊宇賀能(口編に羊)命を祭るなり
(ロ)大新川社
(峯山明細記)一社 神宮権現 薬師 三社一所 上屋一間に一間半 境内三十間に四十間程 祭礼八月十八日 長安寺支配
(村誌)無格社 大新川社 字新宮谷
       祭神 大新川命
由緒 社記録等存在せざれば確実たる証據に非と雖ども里老 口碑 に挙れば往昔は此社は大社にして別当社僧   の寺跡ありて之に礎等存せり 境内 東西八間南北八間 面積六十坪
(実地聞書)神体は観音薬師弥陀なりしが今は観音堂となる又字新宮谷に仁王門の跡なりと言伝ふる所あり礎石なりといへるも今にあり(村誌に此の他数小社を記す今略之)  〉 

拈華山長安寺
長安寺(峰山町矢田)

『峰山郷土志』
 〈 【拈華山長安寺(臨済宗、矢田、本尊 地蔵)】『峯山旧記』によると、長安寺は、後西院の寛文二年(一六六二)八月、一雲和尚によって創建されている。天竜寺派末になったのは、元禄八年の頃であったろうか。また創建当時から臨済宗か、それとも付近の寺院と同じく曹洞宗であったかについては、資料がない。
境内 阿弥陀堂、阿弥陀如来の大仏をまつる。
『本堂改築勧化帳』正徳第五竜乙未九月穀旦(正徳五年(一七一五)九月吉日)長源寺現住小比丘祖廉の書いた『本堂改築勧化帳』(万人講結成)の緒言(まえがき)の中に…、
殿宇塔頭ことこ゜とくもって荒廃し、その名跡を遺すもの、今の長源寺(童僕誤って安を源と呼ぶ)これなり。然るに、三間の茅屋、丈余の霊躯、荘厳の地なし。草を寺側に結んで、宝像を覆うといえども、日を逐って破壊せん。ことに、晨香夕華に侍るなく、況んや昼誦夜禅を勤むるにおいておや……。
と、当時、阿弥陀堂が荒れはてていた状態をうったえ、また、本堂(阿弥陀堂)に安置する阿弥陀如来の大仏については、「昔年、高堂に安置するところのものは、西方教主無量寿仏丈余の尊像にして、春日慈悲満行大明神の親刻するところ…」といい、春日大明神の神作の一丈余(三・三メートル)の大仏で、近郷に類をみない金色まばゆい大坐像である。
また、享保元年(一七一六)の「勧化札」という縦七寸・横六寸の大札があり、仏像の首にこの木札をかけて勧化(浄財募集)に回わったといわれている。札の表には「丹後国丹波郡矢田村拈華山長源寺見住(現住)祖廉代、御長座像五尺、奉再興阿弥陀如来、家来藤兵衛、吉兵衛、甚六、当村庄屋甚衛門、年寄安左衛門、諸旦那中」。裏には「京都大仏師、高田友安、山本光貞、木寄大工重兵衛、塗師清兵衛、干時享保元丙申十月二十一日より十二月二十八日迄、諸願成就也、敬白」とある。
享保元年は、『勧化帳』の正徳五年の翌年にあたり、この仏殿が完成したのは、その翌年の享保二年十二月二十八日で、臥竜山全性寺愚溪玄格和尚の筆になる「拈華山長安禅寺仏殿上梁銘」という棟札がある
なお、阿弥陀如来大仏は、その後、安政二年(一八五五)十月十五日、
僧月仙の代に、吉沢村の塗師戸田重太郎によって塗り替えられたことが棟札によってわかる。大仏の腰のあたり一面に残る墨のあとは、寺子屋の頃、学童どもによって塗りつけられた手習いの筆のあとであるという。これも月仙の時であろうか。
宝暦三年(『峯山明細記』)
境内 長二十間横十間程、寺 四間に六間、阿弥陀堂 三間に四間、撞鏡御座なく…。辻堂一ヶ所、一間半四面…。
当時の道は、この辻堂の前を通って寺の下へ出ていたものであろう。
昭和二年三月七日の震災被害はなく、現在、鐘楼はあるが、鐘は金属回収に応召した。…  〉 

『中郡誌槁』
 〈 長安寺
一禅宗(全性寺末寺) 枯華山長安寺 本尊地蔵 境内長二十間横十間程 寺四間に六間 阿弥陀堂 三間四面 撞鐘無御座候 右境内間数等無相違候  長安寺印
(村誌)寺 臨済宗 天竜寺派全性寺末 長安寺
   本尊阿弥陀如来
由緒 開基一雲和尚寛文年中の創立なれとも不詳
境内 東西  南北三十三間 面積百九十三坪  〉 

矢田城趾
城山は中世の城跡で、一色氏の部将中条民部のものと伝える。

『中郡誌槁』
 〈 (丹後旧事記)矢田村 原主水(一説後に改名し蔵人と云)
(村誌)古跡、本村南方字城山と称す文亀年中一色の旗下中条民部居せしを天正九年細川藤孝の為めに亡され今は只古城跡のみ残れり
 按、城主の氏名旧事記と相違す孰れか是なるを詳にせず  〉 


《交通》


《産業》


矢田の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎矢田村(丹波郷の次)
【矢田神社】(延喜式)
矢田神社は今姫宮大明神といふ、風土記所謂天女八人の一なり。(祭九月十六日)
【拈華山長安寺】(禅宗)
 【付録】(新宮大権現)  〉 


『峰山郷土志』
 〈 【矢田】矢田の名はどうして生まれたのであろうか。『延喜式』には丹波郡矢田神社とあり、祭神は『丹後旧事記』に天酒大明神豊掌賀能メ命とある。また、『丹哥府志』は、姫宮大明神といい、風土記の八人の天女の中の一人であるというから、天酒も姫宮も同じく天女の一人豊宇賀能売命である。矢田神社の項で述べたように、比治山の天女は、荒汐、哭木の村を経て、この矢田まで来て、はじめて養父である比治の里の和奈佐翁の家をしりぞく(出て行く)決心がついたから、この土地を屋退(やた)と名付けた……と神記にいっている。屋退を目出度い文字(嘉字)に改めて「矢田」としたという説もあるが、矢田の名は他の地方にも多いし、弓矢の矢や田に関連したスッキリした解釈があるのではなかろうか。矢田神社には、八丁四面の神領田があったという。八町四面の田は、八田、あるいは弥田にあてはまるし、また、矢をもって豊作を占う儀式を行なったとか、あるいは、中川と竹野川の合流点で沃土がつやたみかさなってできた肥沃の野原を開拓して生まれた田「野田」に、矢田の文字をあてはめたのであろうか、今後の研究にまつ。

矢田村城山(『峯山旧記』)元亀、天正の頃(一五〇一〜一五二〇)、一色の部将中条民部の築いた城で、その後原主水がこれに代わり、主水は後に改めて藏人といった。天正年中、細川興元軍の有吉将監のために滅されたという。これは、天正十年九月十六、七日か十八日頃(一説、五月)で、溝谷で興元の本隊と合流した有吉勢が、吉沢を抜いて内記へ殺到する時であると思われるが、地理的にみて、有吉の主力が攻めかかったとは考えられない。また、それ程の大がかりな城砦ではなかったろう。
『一色軍記』によると、城主原主水とともに、番場次左衛門が同居していたとある。  〉 


矢田の小字一覧


矢田  アメ田 アソウ田 天酒鼻 糸井新田 井子ノ上 石生 石生奥 家ノ上 上野谷 上野 上野岡 大苗代 大井戸川原 大畑ケ 尾手大畑ケ 奥高畦 大砂 奥上野 大井戸 大クゴ 奥上野谷 上苗代 上ミ地 上六十割 狐谷 五十割 五反田 米山 小砂口 中砂 三十割 坂尾 サコン堂 新宮谷 下六十割 四郎衛田 下苗代 下モ川田 下モ上野 下モ地 谷山 立中 高畦 竹ノ下 立中口 田中 高キセ 高畦向 堤ノ下 通蔵 峠ノ堂 中ノ坪 苗代尻 中六十割 縄張り 中地 ニガラミ ニ十割 上り立 橋詰 原垣 墓ノ谷 浜ノ山 百町 ヒダチゲ谷 淵ケ下 仏谷 松ヶ鼻 妙ケ谷 矢田小屋


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん



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