丹後の地名

湯舟坂2号墳
(ゆぶねざかにごうふん)
京丹後市久美浜町須田


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京都府京丹後市久美浜町須田

京都府熊野郡久美浜町須田

京都府熊野郡川上村須田








↑湯舟坂2号墳出土の双龍環頭太刀



↓埼玉稲荷山古墳出土の金象嵌銘のある鉄剣↓

湯舟坂2号墳の概要




《湯舟坂2号墳の概要》

伯耆谷の一番奥にある、車がようやく通れる道を入っていくと自然とここにたどりつく。周囲は花崗岩の風化した真砂の低い山である。双龍環頭太刀の把頭部

径18メートル、高さ5メートルの円墳だそうだが、封土は失われ、天井石はすべてなく、周囲が道路などで盛り土して高くなっているので、道路からは見下ろす低い位置に花崗岩の大石をもちいた石室や羨道の石組が残されている。古墳後期のものだから河上摩須などからは時代が百年以上も下り直接の関係はない。
ただこれだけである、これくらいの石室規模の古墳なら丹後にはあちこちにある特に珍しくもない程度のものが、ところが当墳から金銅装双龍環頭太刀が出土した、これがチョースゴイものだったため一変して報道ヘリが飛び交う大騒ぎになり、数多い丹後の古墳のなかでも超有名な古墳の一つとなった。
あの時あの大刀を取り上げたのがウチのオヤジです、新聞にも載っとります、という方が近くで農作業をしておられたので、超さいわいにも貴重な話を伺うことができた。
湯舟坂2号墳

湯舟坂2号墳

湯舟坂2号墳の案内板

現地の案内板 ↑↓
湯舟坂二号墳
 この古墳は、東に延びるなだらかな丘陵の先端部に営まれた、古墳時代後期の円墳である。ながい年月の開墾などにより、地表面には古墳らしい面影をほとんどとどめていなかったが、昭和五六年にほ場整備事業に関連して発掘調査が実施され、地下から当初の姿をよく残した壮大な横穴式石室と数多の出土品が発見された。
 墳丘の大きさは径約一八メートル、高さ約五メートルで、西側には幅三・五メートル、深さ一メートルの周溝を掘り、裾部には自然石を数段に積み上げた列石がめぐらされていた。
 古墳の中心にある横穴式石室は、巨大な花崗岩を積み上げて造った墓室で、東南東方向に開口している。その規模は、全長一〇・六メートル、玄室長五・七メートル、玄室最大幅二・五メートル。玄室の床面には大小の自然石が一面に敷き並べられていた。
 石室の内部から、金銅装環頭大刀・銀装圭頭大刀・三輪玉・直刀・刀子・石突・鉄鏃・靭・金環・管玉・土玉・轡・鐙・シオデ・鉸具・革金具・飾金具・棺金具・鉄釘・銅椀・須恵器・土師器などの豊富な副葬品が発見され、日本古代史界の大収穫とまで評された。とくに、柄頭に二対の龍を配した金銅装環頭大刀は、その特異な意匠に加えて表面全体を飾る金銅(銅に鍍金したもの)の保存状態も良く、作られた当時の姿を彷彿とさせる貴重な資料である。
 この古墳が築かれたのは、今から約一四〇〇年前、六世紀後半代のことである。その当時、当地方一帯を支配し、金銅装環頭大刀に象徴されるように、遠く大和政権とも関りのあった、大豪族の家長とその家族がこの古墳に葬られたものと推定される。
昭和五七年六月
京丹後市教育委員会


発掘当初はこんな様子であったという。奥壁に接するように環頭太刀の鞘が見える、把頭は少し離れてあったという。
湯舟坂2号墳
土に覆われてはいただろうが、こんなものが盗堀もされずによく1400年間も残されたものである。この古墳の前には小さなタンボがありました、隣のオヤジはこの石(羨道部の一番先の石)の上に腰掛けてタバコ吸って休んどりました。ということである。
湯舟坂2号墳
周囲はちょっとした公園のように整備されているが駐車場はない、手前の「湯舟坂古代の丘公園」の前が広いのでそこに駐められるといい。
端っこにこんな石材↑がある、これは当墳のものという。
これだけでは元の石材にはとても足りない。こうした古墳の石材を持ち出す人もあるようで、近くでも持ち出そうとした人が何名か亡くなった、それで恐くなりそのまま置いてある、そうしたいわれのある石が久美浜駅に置いたままになっている、今では知る人があるだろうか、と。ツタンカーメンの呪いのような話で、当墳の石に足を掛けるのも恐くなってきた。
当墳の奥にスクモ塚と呼ばれる古墳があるそうで、そこと当墳の間に金の橋が架かるといわれている。まだあの「黄金の大刀」が発見される以前のことからであるという。
低い場所なのに水が溜まったような様子がない、水ヌキはよくなされていて、細かい砂利が古墳の底部全体に敷かれているそうで、そこから当墳の大きさなどはわかったという。
当墳のすぐ下までタンボになっていたそうである、湯舟坂1号墳は、少し下の写真でいえば軽トラがいる位置の左手のタンボにあった、今は圃場整備が済み地面が全体に高くなって、まったくのタンボになってしまい古墳らしきものは何もなくなっている。
湯舟坂2号墳
平野古墳はその先の山の張り出している尾根の中腹にある。この谷の周囲の山々は古墳だらけ↓
湯舟坂2号墳

把頭に輪の飾りのついた大刀を環頭大刀と呼ぶ、また「高麗様大刀」「高麗太刀」「高麗剣」と記されるように、この型式の大刀の本場は高麗・朝鮮である。
柿本人麻呂も歌っている。
高麗剣(こまつるぎ) 和射見(わざみ)が原の 行宮(かりみや)に…
高麗剣はワ(輪)にかかる枕詞になっている。
日本の大刀は埼玉稲荷山鉄剣のようにこうした飾りはついていない(100年以上古いが)。
どこから手に入れたものかが問題になってくる。当時の最高の技術と芸術が一緒になって作り上げた傑作品ともいわれ、特に当墳のものはその中でも最高傑作で当地の製造ではなさそう、単なる大刀ではなく権威の象徴として造られていてゼニで買えそうなものでもない。大和朝廷からもらったが一般的だが、こうしたものは何かの意味があってくれたのであろうが、もらった理由が不明でそれがホントかどうかは何か証拠があるわけでもなくかなり怪しいように思う。全国の古墳に副葬されているが記紀にはそうした記事はまったくないし、この様式の大刀はコマ(高麗)大刀と呼ばれるように朝鮮の古墳に多く副葬されているものである。あるいはこの時代の朝鮮情勢、伽耶諸国がピタリこの時期に滅びている、と深い関係があるのかも知れない、『日本書紀』でなく「朝鮮書紀」でないかと言われるくらいにこの時期の朝鮮情勢関連記事が多い、そうしたものをまったく無視してしまうことはできない、あるいはメイドイン伽耶の大刀で援軍を求めて送られた物か、被葬者たちはこの大刀を持ってが当地へ亡命してきたものか、まったく知れず不明だが、そうしたことなどはさして考えてもいない様子のよう(目が向けられていないのではない、なくはないがあまり研究が進んでいるわけではない)
輪だけの素環頭大刀は丹後では古く弥生遺蹟からも出土するものだが、取材ヘリ飛び交った大騒ぎにしては、これらも合わせて別に何もわかってはおらず、丹後の地元としてはわかったような気にならずに慎重に研究を深めることが重要か、何と言ってもワレラは血の繋がった子孫なのだから、被葬者が不明ならワレラ自身も不明である、ワレラだけでなく、日本人の大部分が不明となり、エエカゲンなモンがエエカゲンを言ってアメリカ人大金持ちどもの同類になりきったように考えるモノどもが将来を誤ることもになろう、横穴は朝鮮から伝わったものであるし、当時激動の朝鮮情勢と合わせて考えないと一国内の事情だけでは納得のいきそうな答は得られそうにもないと考える。



(つまらぬ蛇足)この谷に街道が走り、大阪峠(370m)を越えると但馬国に通じていた。田道間守が通ったという丹後と但馬を結んだ重要な街道であった。それは今は府道703号だが、車は通行ムリという。
伯耆谷の伯耆は何か、京都府亀岡市に法貴という村があるが、同じ意味と思われる。
伯耆国は今の鳥取県の西側にあった国だが、古くは、藤原宮跡出土木簡に、「波伯吉国」。『古事記』は、伯伎国という表記が見える。『先代旧事本紀』には、波伯国造が見える。
河村郡式内社に波波伎神社 (倉吉市福庭)があるが、これと同じハハキのことであろう。ハハはヘビのことで、恐らく葬送の地の意味と思われる。当古墳のある「鳥の奥」もそうした意味と思われる。京都の清水寺南側にひろがる野を鳥辺野という、化野(あだしの)の露、鳥部山の烟といわれるように、早く平安時代初期から都近郊に存在した葬送地の一つとして有名で、鳥辺野は現在の地から阿弥陀ヶ峰にかけての広い地域を称し、ここでの葬送の例は多くあって、望月の欠けたることもなしの藤原道長もここで荼毘に付されたという。無常迅速、永遠なるモノなどはこの世に存在しない。やがては皆がツユとなりケブリとなって消えていく。宇宙そのものが消えるというから人の科学とやらくらいではまったくどうしょうもない、空間も時間もすべてがあとかたもなくきれいに消える。人間などはいかにも偉そうに自分では思っている者もあるかも知れないがそれは笑うもアホらしい独りよがりにすぎない、実際はゴミ同然のものでしかない。なんとも情けないはかない悲しいモンだな、と思われるかも知れないが、しかしその思いすらもすぐにきれいに消えてしまう、今はそう思っているというだけのことである。ひとえに風の前のチリに同じ。大宇宙の定理だからどうにもならないが、しかしまた理由もなくどこかでポコっと生まれるかも知れないので気を落とすことなきよう…
←これは親戚の葬送の様子。
綺麗なウロコ模様がつけられている、ヘビだ、と言うと、違う、龍だということであったが、野辺送りの葬送ではこれが何本か先頭に立つ。
今は霊柩車まで着くとこれはバリバリと毀されて遺体と共に齋場へ向かう。何と呼ぶモノかは不明だが、これはハハキではなかろうか。再生の願いがあるのでなかろうか。


《交通》


《産業》


湯舟坂2号墳の主な歴史記録


『久美浜町史・史料編』
 〈 湯舟坂二号墳 遺跡番号六二
字須田小字鳥の奥に所在する。古墳群は川上谷川上流部に注ぐ支流、伯者谷川の左岸で湯舟山から派生する丘陵裾部の緩斜面に立地する。
二号墳は直径一七・五メートルの円墳で、周溝を持ち、墳裾部には列石を廻らす。内部主体は東南東に開口する両袖式の畿内型横穴式石室である。奥壁構造はD類(大型一石)で、側壁構造は大振りの石材を用いている。袖石は立柱石を用い、床面には敷石を敷いている。玄室中央部やや奥壁より床面に小穴がある。副葬品の出土状況はほぼ原位置を保っており、奥壁側に片づけが行われている状況が看取される。副葬品には須恵器が約二一〇点、土師器坏・椀、金銅装双龍環頭大刀一振、銀装圭頭大刀一振、円頭大刀把頭一点、直刀五点、鉄製石突一点、鉄鏃一一四点、鉄製靱金具一点、板状立聞素環鏡板付轡四組、鞍金具九点、木製壷鐙の吊金具七点など馬具類、耳環、碧玉製管玉一点、漆塗土玉二〇点前後、銅椀一点などがある。また木棺に用いられたと考えられる鉄釘も四八点出土した。須恵器の型式にはTK四三及び二〇九・二一七があり、これからこの古墳は古墳時代後期後半に築造され、飛鳥時代前半まで追葬が続けられたことが分かる。
なお遺物は昭和五八年、国の重要文化財に指定され、石室は同年、京都府指定の史跡となった。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 湯舟坂2号墳(ゆぶねさかにごうふん)
所在地:久美浜町須田小字鳥ノ奥
立地:川上谷川中流域、支流伯耆谷川左岸沖積平野
時代:古墳時代後期
調査年次:1981年(久美浜町教委)現状:完存(府指定史跡)
遺物保管:市教委(丹後郷上資料館寄託、重要文化財)
文献:BO17、BO22
遺構
湯舟坂古墳群は、川上谷川中流域左岸を流れる支流伯耆谷川により形成された長さ約1kmの袋状谷底平野の最奥部に位置する。ほ場整備事業に伴い、2号墳が調査された。
調査前の状態では、水田耕作の際に土地が改変されほとんど古墳の形状を留めていなかった。発掘調査の結果、幅0.8~3.6mの周溝および列石を巡らせた墳丘裾部が検出され、盛土で造成された約18mの円墳であることが判明した。周溝は場所により深さや幅が異なる。これにあわせ列石に使用された石材は、50cmほどの石を置き並べた部分と小ぶりの自然石を葺石状に置き並ぺた部分が混在している。
埋葬施設は、東南東方向に開口した全長10.6mを測る両袖式の横穴式石室である。天井部全面と壁石の上部は調査前に既に失われていたが、比較的大型の花崗岩を用い隙間に小ぶりの石を詰めており、元々は2段もしくは3段に積み上げられていたものと推定されている。玄室の主軸は磁北N76°Wを指し、玄室長5.7m、玄室幅奥壁部1.96m、袖部2.44m、高さ2.22m以上、羨道長4.88m、羨道幅(玄門部)1.32mを測る。羨道高は袖石の高さを充てると約1.6mとなる。玄室床面は、黒褐色土で整地した後、10~40㎝の河原石を敷き詰め、面積は約12.5㎡になる。また羨道の平面形は、開口部に向かい広がる「ハ」の字形を呈する。
出土遺物は、環頭大刀などの武器類、馬具類、耳環など装飾類、須恵器など土器類、総計約470点におよぶ。墳丘は改変を受けていたが、床面は盗掘を受けることなく最終埋葬形態を留めていると思われる。遺物の分布は、玄室奥壁部、側壁黙袖部、羨道部に集中する傾向を示しており、玄室中央部は比較的少ない。
奥壁部は、左側に武器、馬具類が、右側に須恵器群が集中し、環頭大刀は奥壁に密着した状態で床面より少し高い位置で出土した。柄頭は刀身から1.5mほど離れて出士している。馬具はほぼ一セット分出土し、金銅装の製品のほとんどが奥壁部から出土している。また須恵器群はうず高く積み上げられた状態で検出され、全体の半数にあたる106個体が出土している。全体的に本来の供献位置を留めるものはごくわずかで、追葬に伴い二次移動を受けている状況である。
遺物
石室内出土遺物は、武器類として金銅装双龍環頭大刀1、銀装圭頭大刀2、直刀5、鉄製石突1、刀子2、靱金具1、鉄鏃114、金銅製三輪玉状金具若干、馬具類として轡4、鞍9、棒状責金具3、鐙7、鉸具8、革金具13、飾金具9、そのほか金属製品として鉄釘48、不明金具8、銅椀1、装飾具として管玉1、漆塗土玉8以上、金環9、土器類として須恵器210以上、土師器10以上、黒色土器1以上、染付1以上を数える。
環頭大刀は、切先および柄は失われているが、全長122㎝と推定され、柄を除く外装がほぼ完全に残っている。柄頭は、金銅製で長さ13.2㎝、環長10.8㎝を測る。環内に向かい合って玉を噛む2対の龍を表現した装飾を持ち、環には機械的な文様が施されている。表裏の区別はない。X線撮影の結果、環内の龍と環は別々に鋳造されていることが判明している。
鉄鏃は、両刃長頸鏃が最も多いが、片刃長頸鏃や、切先が三角形のもの、五角形のもの、柳葉式のもの、圭頭形のものなど多様な形態のものが出土している。奥壁部、袖部などから群として出土し、奥壁は長頸鏃がほとんどで、袖部からは多様な形態の鉄鏃が出土している。
轡は素環鏡板付轡であり、鏡板は楕円形の環体に長方形立聞を付けたものと鉸具に作った立聞を付けるものがある。
須恵器は、杯身、杯蓋、椀、椀蓋、杷手付椀、有蓋高杯、高杯蓋、無蓋高杯、ハソウ、平瓶、横瓶、甕などのほか、脚付壷、脚付子持壷などがある。杯身、杯蓋で比較すると、底部と天井部が扁平なもの、底部、天井部が丸くなり立ち上がりが低くなるもの、立ち上がりが断面三角形を呈するもの、小型で立ち上がりも低くなるもの、などの特徴をもち、大きく4種類に分類できる。
意義
湯舟坂2号墳の所在する伯耆谷は、古墳時代中~後期にかけて造営された、総数130基あまりを数える須田古墳群の一角にあり、市域有数の群集墳密集地帯に所在している。墳丘規模は群中でも卓越する規模ではないが、花崗岩の巨石を用いて構築された両袖式の横穴式石室であり、天井石は失われているが岡1号墳、新戸1号墳などとならぶ市内最大規模の石室規模を持つ。
金銅装環頭大刀は、出土位置から初葬時のものと判断される。双龍式の中でも2対の龍頭を表現した特異な意匠と良好な出土状態から、国内有数の優品と評価される。また、2対の龍を表現する柄頭は、現存する唯一の例であり、この点からも貴重な事例といえる。新谷武夫作成の柄頭編年表に基づけば、本資料は6世紀後葉の年代が与えられている。
須恵器は、奥壁出土のものが古く、袖部および羨道部出土のものが新しい傾向を示す、従来の須恵器編年では、田辺編年TM3~TK217型式に相当する。出土遺物から見て古墳築造年代は、6世紀中葉~後葉となり、7世紀前葉~中葉まで追葬が行われていたものと見られる。
また、銅椀は本来仏具として舶載もしくは生産されたものが古墳に副葬されたものと考えられており、分布は関東地方が中心とされている。湯舟坂2号墳の事例では、銅水瓶をモデルとした仏器模造品である水瓶形須恵器が共伴されていることから、やはり仏具として使用されていた可能性が考えられている。このことは、被葬者集団は丹後地域の仏教文化の導入に先駆的役割を果たした集団である可能性がある。湯舟坂2号墳は、丹後地域有数の後期古墳の一つと位置づけられる。湯舟坂2号墳の所在する伯耆谷は、近接する須田平野古墳などの分布状況などを考慮すると、但馬地域と丹後地域を結ぶ陸路の中継地点として重要な位置を占めており、大和政権との政治的関係を背景とした首長層が存在していたことを示している。  〉 

『両丹地方史』(1982)
 〈 四ツ竜環頭大刀への小考察
湯丹坂古墳群の発掘に参加して
久美浜町郷土研究会
平  林  和  夫
(湯丹坂古墳群発掘調査委員会)

(一)はじめに
 私が久美浜町教育委員会に、社会教育指導員として勤務したのは、昭和五十四年四月から、五十七年三月までの、丸三年間であった。そしてその間、私が最も忙しく動かされた担当の部門は、何といっても文化財保護の業務であった。それは文化財保護の業務が、行政部門の中にあって、最近とみに新しい上げ潮ムードにあったことの他に、久美浜町では矢つぎ早に、遺跡・古墳等の発掘調査が行なわれたからである。
 即ち五十四年度に、町はじまって以来の正式発掘調査として、「浦明遺跡」のそれが実施され、あと毎年度つづいて、「橋爪遺跡(二次・三次)・柿本遺跡・権現山遺跡・湯舟坂古墳群」と町内に廷六ケ所の発掘調査が行なわれたのである。もとよりこれら六回の発掘調査は、性格・規模・調査主体・予算措置などにも当然のことながらかなりの特色・相違点がみられたが、これらの全部に対し、関係者の一人として、全面的に参加協力をさせて頂いたのであった。
 分けても最後の湯舟坂古墳群の発掘調査では、思いもかけぬ数々の大収穫があげられて何ともありがたいことであった。こゝでは、この湯舟坂古掘群の発掘の概要にふれながら最高出土品の一つ「四ツ竜環頭大刀」について、若干の考察を加えてみたいと考える。
(二) 四ツ竜環頭大刀の出土と湯丹坂古墳群
 湯舟坂古墳群は、久美浜町字須田、小字鳥奥(トリノク)にあり、一号と二号の二基が存在する。二基といっても当時一基(一号)は既に水田の土中に没し、他(二号)は、水田の片隅に雑然と積上げられた数個の石塊があるのみであった。古老の伝承等がなければ、或いは古墳としての府の遺跡地図登録にも、見落されたかもわからないぐらいの存在だったのである。
 ただこの所在する土地柄は、伯耆谷とよばれる谷間の、緩傾斜平地にあり、周囲には大小様々の百基を越す古墳・横穴等があり、総称して「須田古墳群」とよばれ、府下有数の遺跡の土地柄であった。湯舟坂古墳群は、須田古墳群のうちの、一つの小さな群をなすものであった。
 地元の耕地整理事業のため、この湯舟坂二号古墳を撤去の要請があり、協議が重ねられた結果、急遽五十六年九月発掘調査に着手されることになった。これは久美浜町で正式に古墳が発掘される最初であった。
 発掘のはじめには、調査主任の府教委奥村清一郎技師をはじめ、町教委や地元の人々も精々小さな石室と少数の土器類の、出土程度を予想していて、調査の終ったあとは、撤去に応じられる見込であった。
 ところが、発掘が進められるうちに、次第に壮大なる横穴式両袖式石室古墳が出現し、丹後に於ける一級規模の古墳が、全容を明らかにしたのである。
 又多彩な四百五十点に及ぶ、武器、馬具・金具・装身具・容器などの副葬遺物が、これまた全国的にも一級品として、続々と発見出土したのである。
 中でも、土中千四百年の眠りからさめた、黄金色燦然たる、四ツ竜の金銅装環頭大刀の発見は、丹後久美浜をして、一挙に「古墳まつり」と化さしめたのであった。それらの様々なことが、まだ昨日のことのようにあざやかにまぶたに浮ぶ。
 湯舟坂古墳群、とくに二号墳発掘についての概要ならびに、出土品の状況等については既に報告が各々の機会に多くの方々から出されているので、ここには重複をさけて省略することとする。
(三)四ツ竜環頭大刀の概要
 大小合わせて四百五十点に及ぶ出土遺物の内、最も注目を浴びたのが、この四ツ竜金銅装環大刀であったっ石室内における出土の状態としては、鞘(刀身の入ったまま)は、石室の奥壁に接しておかれてあり、環頭は奥壁から一メートル余り離れて出土した。
 環頭大刀は、装具全体を金銅という銅に鍍金したものでつつみ、金銅装環頭大刀とよばれるものである。一千四百年の土中に、眠りつづけたにしては、保存状態は幸いにもまれにみる良好さに恵まれ、黄金に輝く大刀としての外形をよくとどめていた。
 環頭柄頭の形式は、双竜式に入り、大小二対の竜が、各々向かい合って、玉をくわえた姿を表現しており、親子双竜式とも見られる特異な形をしている。わが国で現存する唯一の型となった。本稿に「四ツ竜」とよばれる所以である。
 さらに仔細に見てゆきたい。環頭大刀を特に研究されている京都大学の新納泉氏の指摘にたよりながら観てゆくことにする。親竜と考えられる外側の竜の頭部には、三本の冠毛と一本の角の文様があり、けいけいたる眼を開いている。これに対して子竜に相当する内側の竜は、冠毛と角と合わせて三本であり又眼がつけられていない。
 次に外をめぐる冠の部分であるが、文様は大きく省かれているが、本来は環に竜の胴体が表現されていたものである。
 環の円側。竜の体のまわりなどに、タガネによる刻み目がつけられているのは、もと、環に金箔をかぶせていた時、金箔を重ねてとめていた刻み目が文様にして残存したものである。
 環頭の茎の部分をつつむ筒金具には、三日月形の透かしがならんでおり、おそらく竜の鱗を表現したものと見られる。
 柄はすでに失なわれていた。鞘は表と裏で文様や構造が異なっている。刀を垂下するために、二ケ所の金具がつけられ、紐を通す環は、真上でなくてやや佩裏側によっていた。
 鞘には無文の部分と文議のある部分とが交互に連なっている。無文の部分は断面八角形の筒状をなしていた。文様のある部分は、崩れた唐草文を打ち込んだ金銅板で佩裏をつつみ、佩表にまわして隔約三センチの金銅製飾金具の、両側に小さい釘を打ってとめている。
 佩表の飾金具は、直径一センチ余りの円形浮文を中央に一列にならべて打ち出し、その
両則に直径約五センチの、同様の浮文がならんでいる。
 鞘尻には蟹目状の釘が打たれ、地面と接触して破損するのを防いでいた。
 大刀は推定全長百十八センチ。環体最径十センチ八。短径八センチ五。中子共十三センチ。
 このような金銅装環頭大刀は、柄の一部を除き、大刀全体の構造を知ることのできる、誠に重要な出土遺物であった。出土以後府教委文化財保護課にあって調査と保存手入がなされ、現在さらに奈良市の専門機関でそれが深められている。今後レントゲン撮影などによって、調査がいよいよ進められ、やがて文化庁に対し、重文指定などの申請手続がとられる日の来るのを、私たちは待ちのぞんでいるのである。
(四)四ツ竜環頭大刀への小考察
 日本で唯一の現存する、重要な四ツ竜環頭大刀は、学術的にどのような意味をもっているのであろうか。新納氏は、それが「ほぼ完全な形で遺存しており、装飾付大刀の装具の全容を知り得る数少ない資料である点」と、さらにそれが「発掘調査の結果出土したものであって、出土状態や位置が明確であり、…年代決定などに有利な条件をそなえている」点を、強調されている。
 このような立場を確かめながら、私たちは次のことがらなどを考えてみたいと思う。
 第一はこの環頭大刀の目的性格についてである。これはいうまでもなく、実用刀戦斗刀ではない。儀仗用の宝刀であり、身分と権威を表象する、シンボル刀であることは、一見して明らかであった。環頭の部が大きすぎること、鞘が長すぎること(刀身より鞘の方が、余分に長かったと推定される。)、金銅の装飾が豪華すぎること。これだけを見ても、このことがゆうに物語られている。
 第二は、いつごろの年代に、この大刀がこの古墳におさめられたであろうか。今詳しいことにふれる余裕はないが、古墳の造成様式と、出土品全体の分類整理から総合して、それがほぼ六世紀後葉に位置付されることは、奥村技師や新納氏をはじめ、多くの方々の一致した見方であった。私たちももちろんこれに従っている。
 第三は、この大刀が、どこで造られたのであろうか。土器類などに多分に当地辺で作られたと思われるものがあるが、この大刀を地元で作ったとは、先づ考えられない。技能も素材も、とうていそれに達しないと思われるからである。
 地元で作られなかったとすれば、他の地域から伝えられたことになる。他の地域とは、(イ)韓国・北九州・出雲の方から、(ロ)関東又は越の国から、(ハ)大和の政権から、などがあげ得ると思われる。詳しいことを省いて、このうち(イ)一番可能性がうすいように考えるが(ロ)については、かって「尚占図録」という筆記の図に、四ツ竜環頭がのせられてあり、この大刀とのつながり的なものが、全くないのでもないような気分がする。しかし最も可能性のつよいのは、(ハ)のルートではなかろうかと思われる。尚、このことについては後の分でもう一度ふれてみたい。
 第四は、この大刀と共に、この壮大な石室古墳に眠った人の員数とのつながりはどうか。
この古墳は出土品の様子等から見て、築造被葬されてから閉鎖廃絶されるまでに、約六十年乃至百年間があると考えられ、その中に次々に埋葬された人の数は、五人以上が考えられている。五人以上とは金環九ケが発見されていることと、剣や武器類等の量推定からで略々間違いはないと思われる。大刀の持主はその最初の被葬人物であったと思われ、そのあとの追葬者、おそらくはその家族の、持物ではなかったと考えられる。大刀の出土した位置が奥壁に接していることからも、最初の被葬者のものであろうと思われた。
 第五は、ではその最初の被葬者とされた人物はどういう人なのか。それは古墳時代後期の、丹後における最も有力な豪族の一人であった首長と考えられる。それはこの湯舟坂二号墳が、「総計百余基におよぶ須田古墳群の中にあって、平野古墳とともに、首長墓系譜を形作っている…支配領域としては、川上谷川流域を越える範囲を想定することができ」(奥村「湯舟坂二号墳」まとめ)ると考えられるからであった。
 第六は、丹後と大和との関連である。一般には、このような装飾性豊かな環頭大刀は、地方支配と軍事権のメンボルとして、大和政権から在地豪族に対して下賜された儀仗用の宝刀とされている。
 しかもこの四ツ竜環頭は、他に実例を全く見ないところから、唯一つの特別製品的な下賜品と考えられる。
 このことは、『古事記』『日本書紀』に、丹波道主命ひいては大和朝廷と血縁関係をとり結んだとしるされている。伝承の豪族川上摩須(郎)を、私たちに思い出させる。この川上摩須(郎)の本拠地としての、須田-川上-丹後の地が、大和と強いつながりをもち直接的な影響関係にあったことが考えられないか。これらの古代史書の文言とこの大刀の出現とは、何らかの関連が考えられないであろうか。私たちは軽々しい早合点やあやまった拙速断定は、十分気をつけたいが、尚今後の課題として意識されてよいのではないか、と考えるのである。
 第七は、四ツ竜はいわゆる四つの竜というよび方ではなくて、古代史料としては「五竜」であるということについてである。発掘当時わざわざ来町された大分県の上野鉄雄氏によれば、「アジアの古代史料の中に四竜はない。…したがって二竜もない。五竜が正当であって、これはアジア最古の史料であり神話でもあるバンコから出ている。五竜とは、
  青竜 東  一郎王子 蒼竜
  赤竜 南  二郎王子 朱雀
  白竜 西  三郎王子 白虎
  黒竜 北  四郎王子 玄武
  黄竜 中央 五郎王子 不動
であって、中央の玉を四つの竜が争うわけで玉が一つの竜をなしているので、計五竜である」と大要述べられて書面を頂いている。これはこれで、別の確かめをしたいと思うが、私たちは一応「図柄としての四ツ竜」と考えておきたい。
 第八は、久美浜の古代の光は、どこから入ってきたのであろうか の課題である。これは極く簡単にいって、海からのコースと山からのコースに分けられると思うことである。海からは、小天橋海岸から川上谷川・佐濃谷川を、川口から上流に遡って浦明道跡-橋爪遺跡-柿本遺跡というように、次第に農耕と村づくりと古墳づくりをすすめたコースがあり、他方山からのコースは、出雲-但馬-川上へと、山を越えて久美浜に入り、湯舟坂遺跡・金谷遺跡(何れも新発見)を経て、多くの古墳群を生みながら村づくり国づくりをはじめたコースである。これらのことは、久美浜町六ヶ所の遺跡・古墳の発掘調査の成果を総合的に考察し、卒直な歴史復元を試みてゆくと、おおよその古代久美浜の光りのコースの姿を、想定できるように思われてくる。
 第九、大和の政催との、前出のようなつながりの見方とは別に、私たち久美浜の住み人には、この環須大刀によって、新たなかぎりなき「幻忠」がかけめぐりはじめている。ここにわざと「幻想」よんだのは、私たちが何ものにもとらわれずに、全く自由に、思いのままを考え、話合いをし、遠き先人たちのくらしとあゆみを考えることの、決して無意味ではないことを信じているからである。
 「丹後独立国家」「丹後王朝」「環頭大刀は大和下賜にあらず」「出雲と丹後と越の成立と連けい」「川上摩須郎女は女神首長」等々一ぱい花が咲こうとしている。弘たちは「幻想」が研究への発展の基礎になることを信じ期待をしている。
 紙数の予定を越したので、次の二つだけをあげてむすびのことばとしたい。
 一つは、これまで環頭太刀だけを、特に考察の的にしぼったのであるが、私たちは、あの四百五十点におよぶ出土遺物の全部が、一括して同質の文化財価値をもつことを確認しておきたい。古墳現場そのものと、出土品全部そのものとが、相一致して「場舟坂二号墳」を形成している。したがってこれが保存保管についても、「より現地に」、「より全部を」そのままに、保存保管し活用されるよう、十分な対策がとられるべきであると考える。幸いに古墳現場は、地主辻文夫氏(須田耕地整理組合員)の寄付もあって、公開保存の手だてが進んでいる。出土品は調査手入の終了後郷土資料館のような施設新設が、検討されていて刀強いことであった。
 二つは、発掘調査に関与するたびに、毎日のように思わされることであったが、「平和」であることの大切さについてであ。多くの人手と大変な経費をついやして、いわば直接生産とかけ離れた、別の世界のような発掘の仕事が、静かに進められ得るのは、何としても世の中が「平和」であればこそはのであった。私たちは、かつて戦さの場にあった者の一人として、このことを作業の合間に何回となく口にし、あらためて平和の大切さを感じあったのである。(五七、八、十八)
 久美浜町郷土研究会理事
 久美浜町文化財保護委員
 京都府文化財保護指導委員
◇参考文献
…  〉 

『郷土と美術79』(1982)
 〈 鳴呼 湯舟坂二号古墳 久美浜町 田中 英雄
 「キラ」「アッ金ダ」 石室の奥で土砂の取り除き作業をしていた稲美嘉一郎さん(七十五才)の驚異の叫び声にかけ寄る奥村清一郎技師(府教委文化財保護課)の震える手で土を掘り除く間全員ぼーぜんと息を呑んで見守る内千四百年の闇を破って燦然として煌めく黄金の光、親子四頭の龍が玉をくわえて躍る様を透し彫にした金銅装の環頭太刀、続々と出土する副葬品の数々、玄室内は感激と期待に漲っていた、五十六年十月三日午前十一時久美浜町須田区伯耆谷湯舟坂二号古墳は千四百年の永い眠りから目覚めたのであります。此の日より二十七日記者発表される迄の間、次々に掘り出される副葬品の整理整備期間が大変であったと云わはれて居ります。若し発掘途中に於いてこんな物が出たと一般に知れた時の混雑及び盗難の怖れを慮り、絶対に口外することを厳禁され帰っても家内の者にも何が出土したことを一切言わなかった」と言う、丁度赤穂義士が敵討ちの計画を厳禁され家内にも明さなかった故事によく似ていると思われる。此の係官の配慮関係各位の御心情を思ひ詢に感服の至りに存じて居ります。二十七日発表されるやマスコミ報導班のへリコブター爆音、写真班の自動車等々でごった返しであったが少し離れた吾々には何が起ったか知るよしもなく、へリコブターの喧しい日だなあと思っていました。晩になって有線放送のニュースで古墳出土品の事情が流され漸く一般に知れ渡りました。翌日早々現地視察に出掛けました。伯耆谷には百基に余る古墳群、二号墳は圃場整備に係る様な目貫の場所に位置し成る程首長の塚として頷づける。出土品は林業会館にて整理中とのことで拝観は出来ませんでしたが三十一日一般公開説明会が侍たれ須田部落は二千人以上の参観者開闢以来の大混雑を呈して居りました。初めて拝する金色の環頭太刀目を射る其の煌めき数多くの須恵器殊に優雅な姿の子持壷、装身具の金の環馬具、鉄釘等々数え切れない程の副葬品、四名もの追葬塚であると言はれる。能くも掘り当てたものだと思はれます。運が良ったことも位置の条件がよかったと思えます。能くも千四百年の昔にあの精巧な美術品が出来ていたものだと感心致します。湯舟坂古墳発掘出土品に依って其の反響は丹後の古代史否日本の古代史をゆり動かすやうな大きなうねりとなって丹後の一角から盛り上らうとして居ります。果して其の被葬者はどんな人であったであろうか。此の精巧な金色耀く環頭太刀の由来す処はどうであろうか。考古学識者の御説も色々と聴かされます。此の太刀は大和朝廷より統卒者に下賜されたシンボルの品で、祭事儀式の場で佩刀して威儀を正し指揮を取った」ものであると、誠に尤なお説と思われます。或は此の品は函石遺跡が示す如く日本海流を利用して早やくから大陸との交流に依って、出雲王国、越王国が出来た如く、丹後海岸にも良湊が多く随って丹後の港湾の近くに大古墳、竹野の神明山古墳、網野町の銚子山古墳、久美浜町の大明神古墳等が示す如く最も隆盛な丹後王国が栄えていた時代の遺物ではなかろうかとのお説、是れ亦頷けるお話であります。何れにせよ丹後一円の総括者であったか久美浜の一豪族であったかは別として、被葬者は丹後の勢力がまだ強大であった頃の一員であったことは確でありませう。尚此の伯耆谷は現在の永留豊岡線の府道で、但馬国府に通ずる要衝の道路であり、丹後但馬の文化の交流された要衝であったと思はれます。地元の郷土史研究家山本娃久美氏は語られる。数多い古墳群の中、よくぞ掘り当ったと思ふ、在った物が掘り当てられただけであるが埋れていた我々の祖先の栄光が輝いて再び蘇って来たではないか。二号墳より五十米程奥に「オオヤケ」と云ふ地名がある。江戸時代に四龍環頭太刀の出土したと伝えられる郡馬県多野郡に多胡碑がある。その碑に刻まれている「大家郷」は「オオヤケゴウ」と読む。天皇領が「ミヤケ」であり朝廷領は「オオヤケ」であった。そこに甘楽郡の郡衙(グンガ)があったと考えられる。伯耆谷の口の方に奥ケ谷遺蹟(古代住居地跡)がありその近くに「セイガ谷」がある。「セイガ」は正殿正庁の意味で正衙で、郡衙の中心となる役所を「セイガ」と言はなかったか。一つの課題と言えよう。兎に角当時の政治の中心地であったと思はれる。函石浜に橘の実を持ち帰った田道間守は、此の道路を通り大坂峠を越して但馬の三宅の谷に出て大和へ向ったと伝えられる。大古のシルクロードとして栄えた道ではなかったか。大和朝廷より下賜されただろう金銅装環頭太刀は権威の象徴ではあったが、中央政権への屈服でもあった。大和朝廷より丹後に打込まれた楔でもあった。それは山陰と丹後を分断する最も適当な場所であった。鬼の住む国、鬼とはまつろわぬ者、中央政権より度々征討軍を派遣された丹後の国はだんだんとその政権下に組み込まれ、歴史の表舞台より消えて行った。環頭太刀はその最後の輝きでなかったか。大山遺蹟、扇谷遺蹟、湯舟坂古墳等々発掘調査により徐々に輝しい丹後史が解明されて行く。それらは点に過ぎないが点と点を結び線となりその密度を増して行く、そのことは古代に栄えただろう丹後を再び取り戻す次代への礎として今の我々に課せられた使命のように思われる」と山本氏は説明される。
私は六十五年以前に此の大坂峠を越して三宅に出て国府村に行ったことがありますが、その当時は三尺余りの山道でありましたが、あの細道が田道間守が木の実を携へて越した峠であり天の日槍文化が通って来た道であろうことに感慨無量の感が起ります。古墳見学すると昔の細道は自動車の通ふ道路に改修されている。点々と在る古墳群、奥ケ谷遺蹟(古代住居地跡)、近くに川上真須郎の屋敷跡、少し口に出て川上真須を祭神とする衆良神社、田圃を隔て、三嶋田神社(真須郎が建立した)、芦原区の四道将軍の屋敷跡、垂仁帝妃となった四道将軍の多くの娘達、尚古くは開化天皇妃となられた丹波大県主由碁理の娘竹野姫に関連する竹野神社、彦坐王並に磨子親王に依る二回に及ぶ討征に依って丹後但馬に残る氏族等々古代史に輝く史蹟、大和朝廷との関係の濃い氏族が一代で雲散霧消して跡方も無く謎に包まれて不詳であることが不思議に思われます。中央の史書に取り上げて居らなくても地元に何か口伝古文書が埋没して居るではなかろうか。山本氏が語られる様に古墳の謎と共に口伝古文書等を掘り起し、なるほどと言う線を明かにする事こそ現代研究家に残された課題であると思ひます。希待する次第であります。
 斎宮と市場村との縁
 五、六年前竹野神社に参詣した時、桜井神官様より「往時は神馬は隠岐国より奉納し齋女は川上村市場村より奉仕する習慣であった」と聞き、亦祖母からも市場の屋根棟に白羽の矢が齋様から飛んで来て其の家の女の子が奉仕する話は昔話として聞いておりました。竹野郡誌にも一寸と記載されて居ります。小供の頃に市場村の七社明神様の神主で日下部さんと言う老翁がありました。其の神主様の書残された書が市場村の野村重義氏宅にあると聞いて此の間見せて貰って来ましたので、原文のまゝ紹介致します。読み難い字がありますが了承下さい。
「熊野郡川上荘市場ノ里鎮座坐ス齋宮祭来由緒根元ヲ尋ニ掛巻母畏キ孝徳天皇之皇子表米親王ノ御子七人有御嫡男ハ但馬国朝来郡ニ鎮座坐ス次男ハ同国朝倉ニ坐ス三男ハ同国奈佐ニ坐ス四男ハ同国水谷ニ坐ス五男ハ丹波国河口ニ坐ス六男ハ丹後国川上荘市場ノ里ニ坐ス末子ニ女子有是モ同村ニ坐シテ七社明神之巫卜成リ賜フ此ノ巫ノ屋ノ棟ニ竹野太神宮之白箭飛来リテ屋ノ棟ニ立其後此娘懐妊シ十月ヲ隔テ女子ヲ産ム其ノ子名ヲ明美姫ト名付ク年五歳ニ至リ竹野太神宮ヨリ輿ヲ以テ向ヒ来リ終ニ竹野太神宮之齋官トナルト云フト伝フ此ノ箸明キ事ノ由緒ハ本朝諸社一覧記ノ七冊目ニ委ク見ユ且亦神社啓蒙卜有書ノ六冊目ニモ精シク見エタリ其ノ文ニ曰ク竹野社ハ竹野郡竹野村ニ有リ祭神二座?跡伊勢国同二西宮一里民所謂齋宮是也。蓋有二齋宮ノ女子一故也天下ニ凶徒欲二蜂起一則神殿鳴動キ而宮中ノ神箭悉ク飛去ツテ入レ海超二他邦一也於レ是国ノ荊吏棒二兵器一遣軍卒一昼夜警?不レ怠也、或ハ五日或三日後以二神殿静一為れ期集二飛箭一納二宮中一去故称二天下治平伸一、亦号二斎宮一者熊野郡市場村ニ有二齋宮ノ人一生二女子一則飛箭必立二屋上一也其子四五歳ノ時奉二当宮一呼斎女也。于二山中深林中一独リ禽獣ト同クス敢テ無一畏一怖一若及レ長夫癸至リ或ハ交接ノ情生則大蛇出現シ?々瞋眼及二是時一致官シテ還二郷里一有也」
  七社神官元従五位下日下部藤原景頼
     行年七十五歳翁謹書印
是れは一幅の軸物として在り上に「斎大明神」と神号が書かれ下に細字にて書かれて居ります。現在は此日下部家は市場には無く移転されて居ります。文中の「五男ハ丹波国河口ニ坐」とある「河口」とは何処であろうか、此の日下部家は経歴正しい旧家とは聞いて居ますが、孝徳天皇有馬皇子表未親王を祖とする但馬の日下部族との関係、尚末子ニ女子有七社明神之巫トナル」と、竹野太神宮の白箭が此の巫の屋に立つ理由その縁の続柄が不明瞭でありますが、諸賢の御判断をお願い致します。お教へを願います。
 式内社売布神社の伝承
 久美浜町女布に鎮座される売布神社に就いて伝説があります。神社の祭神は稲作りの神様で何処から来られたか判らないが、久美浜町谷村に上陸され、田を開発され稲作の実現に当られ米作りを実施された。其の作業中に使用されたと言う「売布さんの足洗い池」と言う池が現在も残されて居り、今に水が溜って居る。どの位開かれたかは不明であるが、奥の山を越して安養寺に行かれ同じく開田され、野中村に出られ開田され、舟で円頓寺、郷を開拓、又舟で丸山女布を開拓され、終に没しられたに依って女布村に神様として祭られたのが売布神社である。故に谷、安養寺、野中円頓寺、郷、丸山、女布、の七ヶ村が氏子であり、七ケ村の氏神様としてお祭りして居ります。江戸時代の中頃社殿の改築した記録が有りますが、七ヶ村の総協力で改築して居ります。大正年間に野中村だけは氏子を離れて居られますが、六ケ村は昔からの通り仕来りを守って例祭典も執行されて居ります。米作の初と言へば何千年の昔のことか、此の永い年月口から耳へと受け継がれ実行されている行事は、口や筆に現わすことの出来ない詢に貴重な事柄で、此の先永久に正しく伝へ残して行かねばならぬと深く感じて居る次第であります。  〉 

『古代への旅-丹後』
 〈 湯舟坂古墳 京都府久美浜町須田
親子双龍の黄金の太刀出土! 新聞に活字が躍った。一九八一年のことである。この発見以来、古代文化における丹後の位置があらためて注目されるようになった。この金色燦然と輝く太刀が出土したのが湯舟坂二号墳。
全長一二二㎝のこの太刀は、現存するものとしては唯一の親子双龍の環頭部を持つ環頭太刀で、黄金の太刀にほどこされた美しい彫金とあわせて息をのむ見事なものである。
この湯舟坂古墳が位置する地域は『古事記』開化天皇の段にみえる「其美知能宇志王、娶丹波之河上之摩須郎女、生子、比婆須比賣命」(四道将軍の一人丹波道主が河上のマスイラツメを娶り、ヒバスヒメ-垂仁天皇の皇后-を産んだ)の記事に出てくる河上摩須郎女の遺称地とされる須田の地であり、総数一〇〇基あまりとされる須田古墳群をはじめ、遺跡が濃厚に分布している地域である。
国道三一二号線から、川上谷川左岸を上流に進むと、須田の集落に入る。そこから伯耆谷とよばれる谷筋につけられた農道を入っていくと、保全整備された湯舟坂二号墳にいきあたった。そこに建てられていた案内板によると、「石室は、全長一〇・六m、玄室の長さ五・七m、玄室幅二・~二・五m、石室の床面には、人頭大の礫が敷き詰められ、足の踏み場も無いほどの量の遺物が置かれてあった。出土した遺物は、環頭太刀をはじめ銀装圭頭太刀などの刀類や多量の武器類、金環や玉類の装身具、土器類などがあり、六世紀後半に築造され、七世紀前半ごろまで少なくとも四、五回にわたり追葬が行われたものと推定される」と記されていた。
「この湯舟坂二号墳や峰山町の桃谷古墳を最後の頂点として、丹後の古墳時代は終末へとむかう。巨大な古墳をきずき、一大勢力を誇った丹後の王たちも、その支配体制における弱さを克服することができずに、古墳時代以降、ふたたび栄光の時を迎えることができなかった。」と久保哲正氏は説かれるのだが…。  〉 




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『京都府熊野郡誌』
『久美浜町史』
その他たくさん



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