京田
付:善福寺の子安地蔵尊 |
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京都府舞鶴市京田 京都府加佐郡中筋村京田 |
京田の地誌《京田の概要》 興田とも記す(慶長郷村帳)。京田は舞鶴市の南部。西舞鶴市街地から南へ続く国道27号線(京街道)沿い。伊佐津川が山間から平野部へ出る出口付近に位置する。飛び地もあって範囲は複雑。 商店や事業所、住宅などが混在して、目下人口増加の地。 京田村は江戸期〜明治22年の村名。同22年中筋村の大字。昭和11年舞鶴町、同13年からは舞鶴市の大字。 《人口》736《世帯数》262 《主な社寺など》 正勝神社境内に正勝神社内古墳 正勝神社 臨済宗東福寺派白雲山善福寺 『丹後国加佐郡旧語集』 〈 善福寺 白雲山 安国寺末 此寺年久地蔵有リ 安国寺ノ作地蔵之記有 長文故略之 安産ヲ守卜諸人詣ス 〉 『加佐郡誌』 〈 白雲山善福寺、臨済宗、応永二十四年建立、中筋村 〉 『丹哥府志』 〈 【白雲山善福寺】 〉 『中筋のむかしと今』 〈 白雲山善福寺は本尊は阿弥陀如来、応永二十四年(一四一七)綾部安国寺の雲林妙仲が開創しました。境内の子安地蔵尊は永正年中(一五○四〜)に村内の字安子というところから掘り出されたもので、安産を願ってお参りする人がたえません。 〉 幸谷神社 白雲山は中世一色氏の地頭森脇相模守宗坡の拠った山城。 藤森神社(伊加里姫神社) 愛宕社 城南中学校 《交通》 国道27号線 《白雲山善福寺の子安地蔵尊》 京田はずいぶんと古い地と思われる、しかし記録は失われていて、古い話は推測するより方法がない。白雲山、伊加里姫、手力雄、正勝神社、森脇宗坡と、すごい過去がないわけがないような地である。『中筋のむかしと今』には、 〈 白雲山善福寺は本尊は阿弥陀如来、応永二十四年(一四一七)綾部安国寺の雲林妙仲が開創しました。… 〉 とあるが、もっと古いはずと思われ、その前身をひそかに告げるのではなかろうかと思われるのが、そこの子安地蔵である。 お堂の現地の案内板には、 〈 縁起(子安地蔵尊) そもそも白雲山善福寺願王殿子安地蔵尊の由来は人皇六十六代一条天皇寛弘年間−西紀1004年、約壱千年前−京田村 当山子安地蔵尊は木彫像にして恵心僧都(源信)の作と伝え聞くなり。参拝者は謹みて諸願成就のため祈願を込めて礼拝あるべし 詠歌に曰く ありがたや 安産守る 地蔵尊 福徳寿命 智恵ぞ えんまん 願王殿 〉 伊加里姫神社と同じように、またも高田久兵衛氏が現れるのに興味を覚える。高田氏と伊加里姫と子安地蔵(古・善福寺)は何か深い関わりがあるのでは、と想像されるのである。 そしてこれが恐らく古善福寺の本尊でなかろうかとも想像するのである。 『中筋のむかしと今』は、 〈 子安地蔵さんの由来(京田) 永正年間(一五○四〜二一)のこと、京田村字安子に昼は紫の雲がたなびき、夜は白い光が立ちのぼり、一帯によい香りがただよった。村人が不審に思いある時一人の占者に占わせたところ、「天龍八部囲繞し、地蔵菩薩を守護し給うなり」と言われ、村人たちが掘ってみると、それは大きな地蔵菩薩(像高一メートル二四センチ)が出てきたのである。村人たちは躍り上がって喜び、そして遠近の人達も集まって合掌し「南無延命浄土教主子安地蔵願王大菩薩利益有情」と一生懸命に唱えた。するとその仏像は眼を開き座られた。そこで村人たちは現在地にお堂を建立し安置したという。 こんな話もある。出土した地蔵さんが大きくて七日市と公文名の庄屋さんには動かすことが出来なかったが、京田の庄屋さんは軽々と背負って現在地へ運ばれたとも言い伝えられている。この出土地には四メートル四方くらいの池があり、「あこ池」と呼んでいた。掘り出した跡に水がたまり池になったものと言われたが、戦後埋められ宅地になっている。 子安地蔵は霊験あらたかで「願に随って成就せぬ事はなし」と言われて、昔から安産の地蔵尊と崇められている。 [藤本 保・上羽米吉・「農協だより」=高田昌子] 子安地蔵祭り (京田) 八月二十三日は一般にはこどもたちの地蔵盆であるが、京田では、この日は、善福寺の伝統ある「子安地蔵」の祭礼が町内あげて行われる。したがって地蔵盆は八月六日に繰り上げ実施されている。 「子安地蔵」は安産の地蔵さんとして信仰あつく、昔は遠くからの参拝者もあり、吉原や川筋方面からのお参りもあった。この日、多くの家庭では親戚を招待してご馳走し親交を深めた。 善福寺境内では盆踊りがあり、青年団の素人芝居をやったこともあった。夜店は下の道路まで続いたものである。 現在は町内会・婦人会などが協力して飲み物やおでんなどの売店を出し、ボランティアグループによる人形劇、大正琴の演奏、また参拝者への福引きなどもあって大変な賑やかさである。 [上羽米吉・藤本 保] 〉 松本節子の舞鶴・文化財めぐり〈434〉・西地区の古伝承(『舞鶴市民新聞』(95.11.10))には、 〈 …堂内に祀られる地蔵菩薩は、木造寄せ木造りの彩色像ではじめて見た人はその大きさに目を見張ります。 坐像ですが像高一二四a、膝張り一一七aの堂々としたつくりで、いわゆる「半丈六像」としてつくられたものと思われます。 表面の彩色は、明治二十三年の修理のときのもので、泊まりこんで修理した京仏師の乾(いぬい)類三郎のことばとして「浮御堂のご本尊と同じ恵心憎都源信の作」と伝えています。 この伝承は、土の下に何かの理由で埋められた仏を後世に掘り出して祀ったとするもので、森の長雲寺本尊薬師如来坐像や、福来薬師堂本尊の薬師如来立像と似ています。 これらは、中世動乱の戦火をのがれるために土中に埋めたものとみられ、京田の安子の地に、かつては天台・真言の密教系の延命地蔵菩薩が祀られていたとみることができます。 この子安地蔵は、その大きさからしても、修理以前はさらに古様を示すつくりであったものと思われます。 中世以前の京田に、これだけの地蔵菩薩を祀る仏殿があったということは、江戸時代につくられたとされる「京街道」以前の古い時代にも、重要な地理的位置にあったことをものがたっています。 善福寺の地蔵堂内部には、地蔵菩薩坐像の向かって左に、毘沙門天立像が祀られています。 この毘沙門天立像も、子安地蔵と同様に、善福寺の古伝承をいろどる役割を果たしています。 左手に宝塔を保持し、右手に戟(げき)をとり、邪鬼を踏んで立つ埋蔵一一五aの木像です。 全体が後世の修理による彩色におおわれ、冠や宝塔は新しい形式のようで、寺の記録にのこる明治二十三年の、本尊子安地蔵の修理と同時に行われたものと思われます。 これらの修理による変容を念頭において見ると、毘沙門天立像全身からうかがえる整正されたプロポーションや、上体のひねり、肩や上腕の張り、顔だちの豊かさなどは古仏らしく、鎌倉仏にみられるような特徴をうかがわせています。 円隆寺の鎌倉仏、重要文化財毘沙門天立像のもつ蒙快華麗さほありませんが、造立当初は、万願寺の鎌倉仏・毘沙門天に近い姿であったと思われます。 この像が、地蔵像とともに祀られていたものとすれば、向かって右に不動明王立像があったのかも知れません。 真倉川に近い高田九兵衛所有の旧地「安子(あこ)」に天台系の仏堂があって、本尊延命地蔵菩薩とそれを守護する不動明王、毘沙門天の三体が祀られていた可能性があります。 それらは、円隆寺を中心とする万願寺や女布(にょう)の菩提寺とともに、西地域南郊の平安時代の天台信仰圏を形づくるものであったとみることができます。 そのなかでも、善福寺にのこる信仰は、丹波への通路を意識したものてあったと思われます。 それは、古代には「大内郷」「田辺郷」とよばれ、「真名井の泉」や「天香山」の伝承にみられるように、さらに古い時代を土台とした過去の栄光を語るものとみられます。 善福寺の取材の中で、この地域に古くは「馬頭観音信仰」の伝統があったことを知りました。 舞鶴市域では、馬頭観音の信仰や伝承は、若狭につながる東地域につよく、松尾寺の本尊馬頭観音をはじめ、福井県高浜町の中山寺、馬居寺のそれぞれ国指定重要文化財となっている馬頭観音像など、東は「越(こし)の国」とのつながりが意識されてきました。 密教時代の馬頭観音とは別に、室町時代に密教関係諸仏が単独に俗信化されるなかで、馬頭観音も馬の変身とみられ、道路交通の神に変容していったといわれます。 そして、ついには、一向一揆などの先頭にたって闘ったとされる馬借(ばしゃく・後世の馬子馬方)たちの守り神となっていきました。 戦国時代の騎馬武者たちの中にも、馬頭観音を守護神として身につけることが行われ、慶長五年(一六〇〇)に会津攻めや関ケ原で馬を駆った細川忠興も馬頭観音を守護神としたといい、戦いの後にその念持仏を納めたとされる小型の馬頭観音立像が、倉谷の大泉寺に現存しています。 丹波へ通じる真倉谷の入り口に、馬頭観音が祀られていたという伝承は、土地の人にはひろく知られながら、舞鶴自動車道池内インター接続道路の工事のために、歴史から消し去られる運命となっていました。 このとき、檀家の人々とともに、馬頭観音信仰の保存に立ちあがったのが善福寺でした。 古い石造の馬頭観音のあった場所は、取り付け道路トンネル工事のためなくなりましたが、善福寺によって新しい石像がつくられ、真倉側取り付け道路の脇に移祀されました。以来、朝夕香華の絶えることなく、手厚く祀られています。 この真倉口の馬頭観音が石仏であったらしいことから、室町時代末期から江戸時代にかけて、中部日本・東海地方にかけてひろがった街道にかかわる馬頭観音信仰であったろうと思われます。 愛知県の岡崎市東方に、国の史跡として保存されている「東海道松並木」がありますが、この中にも石造の馬頭観音がのこされていて、江戸時代の馬頭信仰が、街道と直接結びついていたことを示しています。 善福寺の馬頭観音は、京街道の守り神として祀られてきたものらしく、いまは、スピードを上げて走り去る車には一顧だにされない存在にみえますが、数百年来の安らかな交通への祈りは変わることなくつづけられています。 〉 街道もあったのだが、それだけで立派な仏像があったとも思えないのであって、子安地蔵は金属と関係がありそうにも思われる。子安が祀られる所はだいたいそんな地に多いと私は見ている。平安仏が3体も当寺にはあり、その来歴は不明という。 当地は水銀朱の産地であった、これを見落としては何もわからない、饅頭のアンコ部分を見落とすようなヨタバナシになってしまう。そのお宝を求めて全国からいろいろな氏族が集まっていた、イカリ氏、その下流の紀氏(丹生氏か)、伊勢水銀氏(丹生氏)、近江の三上氏、海部氏(尾張氏か)、但馬の水銀氏、などの豪華なメンバーであった。それら氏族の神社が今はホコラとなって残されているし、後には氏寺ともなって当地周辺にいつくかあったものと思われる。やがて資源枯渇とともにそうした氏族も衰え、寺院も消えていき、そこの仏像だけが残された。残されたホコラと残された仏像が往時の水銀繁栄を物語る。 白い塗装は近代のものといわれているが、もともと白かったのかも知れない。「伊勢おしろい」を思い浮かべる。水銀と塩を焼いてつくられるもので、水銀と同量の「伊勢おしろい」が得られ、従って極めて高価なものであったという。こうした塗装がされている石の地蔵さんを路傍でも見かけるがどうしてそう塗るのか不明で、本当はどうなのかわからないが、あるいはこの子安地蔵は水銀の地蔵さん、不老長寿の薬の地蔵さんなのかも知れない。 安子沼というのは『古事記』の新羅の国の「阿具沼」と同じものでなかろうか、ここから赤留比売が生まれる天日槍の話があるが、それと繋がりそうである。但馬の水銀氏か。 東光寺跡遺跡 道路事業に先立つ発掘調査の現地説明会が2016.10.8に行われた。場所は国道27号がJR舞鶴線を越す陸橋の東側の山裾である。山裾をグニャグニャと藩政時の京街道が通っていた。一番下の現在の平坦面は真倉川の氾濫原で、誰も感心はなく手もつけない、ほったらかしの地であったとか。 当地の小字を「東光寺」といい、文献資料には何もないが、ここに同名の寺院があったと伝えられている。 今回の調査では寺院跡そのものは発見されなかった。写真の一番高い壇(平坦面)のさらに奥の高い位置にもう一段平坦面が作られていて(竹藪に隠れて見えない)、そこに寺院があったのかも知れないそうだが、今回の調査ではそこは未調査である。 雛壇のように4段の建物を建てるための平坦面が人工的に作られていて、一番上は未調査、下の3段の調査で発掘された遺物↓ だいたい13〜16世紀のものである。畑でなく、何か普通の民家ではない重要な建物が附近にあったのではの気配がする。16世紀には廃絶したようである。 東光寺古墳↓ 写真で言えば一番上の平坦面(実際は2段目)の下から古墳の石室が検出され東光寺古墳と命名された。当墳のマウントも壊して、一帯を平坦面にしたと思われる。「チイチャイな」と言われていたが、二人並んで横になるといっぱいになるほどの石室である。 石室に納められていた遺物↓ 刀子が1本あったと言われているが、ここには展示されていなかった。各種須恵器ばかりである。墳丘を区画する溝も発見されて、12メートル程度の円墳、玄室はは長さ2.4m、幅1.35m、左片袖式で幅0.8m、長さ2.4mの羨道がある。閉塞石はないよう、少なくとも1回は追葬が行われたようという。6世紀後半くらいかという。 奥に赤色の土師器が見られるが、それは当墳出土でなく、羨道の先に少し平坦面があり、そこから出たという。古墳前期頃のものかという。 元々が古墳、土師器があるから前期もあるのかも、の埋葬の地で、古墳が作られなくなって、当寺が建てられたのかも知れない。 東光寺という名から、東光は薬師のことで、本尊は舞鶴では最古のなじみの薬師観音で、隣の十倉の医王寺廃寺の前身か、あるいは七日市の桂林寺廃寺(曹洞宗に改めたのは篠山市の洞光寺第4世 文献的には何もないだけに、史実はかなり古くまでさかのぼれるものかも知れない。歴史洞察力を働かせるか、一番上の段が発掘されるのを待つより手はない。 東光寺という寺号はずいぶんと古いもののようである。当地一帯のいまだ解明されない遠い過去を物語るものと思われる。近くの別所地名や真倉の安倍貞任伝説ともつながりそうに思われる。 同名の寺院は全国各地にあり、過去が不明なほどに古いものばかり、舞鶴では朝来に臨済宗倉谷山東光寺がある、上東にもあったといい、『八雲のれきし』は、 〈 上東に東光寺という寺があったと伝えられているが、天和二年(一六八二)の寺社調帳にその名はなく、おそらく真言宗の今は廃寺の寺があったのか。 〉 としている。たいていは真言宗や臨済宗になってるが、これらの宗派以前のもの、平安かそれ以前の蝦夷俘囚や金属生産と関係あるものと思われるが、それは何かと言われればわからない。都合の悪い過去は消されたのかも知れない。私がわからないのならいいが、どんな大学者にも誰にもシカとはわからないのである。もうすっかり忘れられた過去がここに眠っていそうである。 京田の主な歴史記録《丹後国加佐郡寺社町在旧起》〈 白雲山善福寺、本寺丹波安国寺。太刀柄尾明神九社の内 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 京田村 高三百五拾六石八斗五升 内四石三斗七合八勺 万定引 五十五石御用捨高 手力雄明神 九社之内 善福寺 白雲山 安国寺末 此寺年久地蔵有り 安国寺ノ作地蔵之記有 長文故略之 安産ヲ守卜諸人詣ス 〉 《丹哥府志》 〈 ◎京田村 【手力雄大明神】 【白雲山善福寺】 〉 『まいづる田辺 道しるべ』 〈 …この一里塚は、明治十六年以降、再三大水害が発生し、その時に流失してしまったのではなかろうか。 仮橋(秋葉橋)から、約四百メートルばかり旧道を行くと、左手の山麓に寛永時代の供養塔や法華塔を見受ける。これらの石造物は、この道を人々が通らなくなって久しく、誰からも忘れられてしまったのか、草木に覆われ、あるものは倒れ、土中に埋もれ、時の流れを感じさせている。 地元の伝承によると、昔この辺りに東光寺という寺が建っていたと伝えられており、そのことを裏付ける小字東光寺という名が残っている。残念ながら寺は焼失し、何一つ記録は残っていないとのことである。… 〉 伊佐津川に架かるJRの「山崎鉄橋」。鉄橋の東側に小さな「秋葉橋」が架かっている(白い橋)。どこへ続く道なのかと思える意味のないような橋だが、この道筋がかつての京街道であった。このあたりも京田である。 ↓こんな街道が京の都までず〜とず〜と続いていた。ここをエッチラコッチラ歩いた。今は電車や車で2時間足らずで行ける。 『中筋のむかしと今』 〈 京田 京田の地名はどこからきたのか? いろんな説があるが、慶長七年の検地帳に「興田村」とあり、一番正確なのではと思われる。開墾が盛んな村であったようで他村がほとんど変わらないのに、京田においては慶長七年は高三三一石余りであったのが享和三年には三五六石余りに増えている。さらに小字に開拓を示す「道成」「引地」「新田坊」などがある。 古くは真倉川がほぼ村の中心(現在の鉄道沿い)を流れていたと思われるから、生活基盤は白雲山のふもとの小高い所にあったのであろう。それが旧京街道付近まで宅地化したのは、伊佐津川の瀬替え以降と思われる。 白雲山山麓には幸谷神社・当勝(正勝)神社・善福寺があり、山頂にあった「白雲山城(女布城)」を介して裏側には縄文時代の遺跡があるなど、古くから栄えた「女布村」とは、特に密接な関係にあったことが想像される。古墳時代には女布大口山古墳とともに当勝神社古墳が確認されている。白雲山の尾根を境にしており、白雲山城の大手門は京田側にあった。 このことは近代にも引きつがれ、順正校を始めとする小学校、青年学校も一緒であったし、また当勝神社は公文名、七日市に女布も加わってお祀りした。 幸谷神社は明治六年、中筋村の「村社」に指定された。例祭日には終戦の年まで、中筋小学校の全校生徒が参拝し、紅白のまんじゅうや近くは鉛筆などをもらったものである。しかし、その「村社」も戦後のマッカーサー指令によって人間天皇とともに社格も剥脱された。 善福寺には子安地蔵尊が祀られていて、八月二十三日が祭礼日であるため、子供の地蔵盆は八月六日に行われている。この他、愛宕神社の祭礼や株講・皇土講・二十三夜待ち・森講などの行事がある。 町内は、昔から三つの地域に分けて呼んでいる。旧京街道沿いを「街道」、白雲山山麓沿いを「奥路」、この両地区をつなぐ道沿いが「中路」である。 旧街道筋を南へ上ると山崎の秋葉橋のたもと三叉路に地蔵さんの道標がある。「右 まつのお若狭、左 御城下 みやづ」とある。秋葉橋を渡ると旧街道がそのまま残る。ただし、現在の道幅一間は、明治十七年までは三間であった。その二間は、新街道である堤防道の改修で潰れ地となった代替地として畑に開墾されたのである(京田所蔵文書)。 橋から二○○メートルほど進むと左山手に法華塔が立っている。その足元には石の囲いがあるが、これは水飲み場で、昔はこの辺りには水が湧いていたという。ここから更に五○メートル程先の左のこんもりとした所に一里塚の石柱があり、「田辺大橋ヨリ壱里」と刻まれている。塚の原形が残る貴重なものである。この旧街道の西側の堤防道(現市道)にあった 。「一本松」は、この一里塚の位置を移したものと伝えている。 更に進み、インターチェンジと大山谷との中間辺りに小さな祠があり、馬頭観音が祀られている。その先、大山谷の谷川が京田・真倉の境となっている。 古くから何代かにわたって大庄屋、戸長を務めた高田久兵衛、村長を永年務めた獄藤兵衛の両氏は京田出身である。平成十三年現在、一二○世帯、人口約六○○人である。 [藤本 保・上羽米吉] 〉 『京都新聞』(2014.・2・6) 〈 *仏像3体、銘文で平安後期作と確認 舞鶴・善福寺* 舞鶴市京田の善福寺と市教育委員会は5日、地蔵菩薩坐像(高さ133・5センチ)など寺所蔵の仏像3体が、平安時代後期の12世紀に作られたことが分かったと発表した。制作年と、仏との縁を望んだとみられる近隣の有力者の名前も多数記され、研究者は「重要文化財級」としている。 本堂や仏像に傷みがあり、修理を検討するため、寺島典人・大津市歴史博物館学芸員らが、地蔵菩薩坐像と本尊の阿弥陀如来坐像(高さ57・6センチ)、天部形立像(同97・7センチ)を調査した。 3体の仏像は木造で、頭部は後年に彩色や補修が施されているが、いずれも平安時代後期特有の技法で作られ、赤外線撮影で地蔵菩薩坐像の内側に承安5(1175)年の年号と多数の人名が確認できた。出資した人の名簿「結縁交名」とみられ、51人分が判読できた。同時期の地域の文献に登場する氏族名が多いという。 善福寺は臨済宗東福寺派で、1417年に開創。地蔵菩薩坐像は現在、「子安地蔵尊」として地域の信仰を集めている。田中文秀住職(34)は「平安時代の作と知り、驚いている。次代に伝えたい」と話している。 仏像を確かめた根立研介・京都大文学研究科教授(日本彫刻史)は「銘文で制作年が分かる平安時代の像は全国でも少なく、重要文化財級だ。京都府北部の歴史を知る上でも貴重な資料」と話している。 〉 京田の小字京田 下丁 上丁 道成 谷 引地 大角 三角 中川 アコ 五反田 花ノ木 大垣 森 大田 小角 大島 真谷 小島 丸山 宮ノ前 中道 大井根 古茶屋 岩渕 茶ノ木原 大山谷 松原 桜田 東光寺 彦兵衛 幸谷 山崎 馬観音 新田防 新田防谷 谷口 観音 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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