旧・舞鶴町
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京都府舞鶴市の西舞鶴地区 京都府加佐郡舞鶴町 |
旧・舞鶴町の地誌《旧・舞鶴町の概要》 舞鶴市の中央部。だいたいは西舞鶴市街地で、旧田辺城下を核にした町であった。行政などが「旧舞鶴」と呼ぶ所である。 舞鶴町は明治2〜22年の町名。田辺町が改称して成立した。田辺は紀伊など全国あちこちにある地名で紛らわしいとのことで舞鶴と改称したという。舞鶴は田辺城の別称という。何故にこんな別称があったのか確かなことはわからない。 明治4年舞鶴県、豊岡県を経て同9年京都府に所属。宮津支庁に属した。 明治10年町内の町名・区画の整理統合が行われて、北田辺・南田辺・松陰・京口・宮津口の5か町が成立し、これに江戸期以来の大内・職人・魚屋・丹波・平野屋・本・竹屋・寺内・西・新・紺屋・引土新・朝代・引土・堀上・東吉原・西吉原の17か町を加えて、合計22か町を編成した。 同12年に北田辺町の今の市民会館の場所というが、そこにに加佐郡役所が置かれた。という。戸数2、050・人数9、198であったという。 明治6年に旧田辺藩の学問所明倫館の地所および建物を継承して明倫小学校が設立された。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成し、引土町は引土村と合併して中筋村の大字となった。 その後の舞鶴町は、明治22年〜昭和13年の自治体名で、大字は市制町村制施行以前の旧町名を継承した22大字を編成した。町役場は北田辺に設置した。明治37年官設舞鶴線が開通して舞鶴駅が設置された。 同40年加佐郡公会堂を仮校舎として郡立高等女学校が開校、同42年南田辺に新校舎を建設して移転した。同41年舞鶴・明倫両尋常高等小学校が開設した。 同41〜45年の間には第1期修築工事で舞鶴港の機能が整備され、大正2年対岸貿易用の第1埠頭も完成。 大正11年高野・中筋・池内・四所・余内の5か村を合併した。合併各村の37大字を継承し、計59大字を編成した。 昭和13年には市制施行。同年の人口は2万5、992。 ここで舞鶴市が生まれる。この舞鶴市は現在の舞鶴市ではなく、西舞鶴市ということである。小舞鶴市というのか旧舞鶴市と呼べばいいのか、同じ舞鶴市という名でも範囲が違うので注意がいる。 舞鶴はいろいろと歴史的には範囲が広がってきたのであるが、元々はこのように舞鶴城下を元にした、今でいう西舞鶴の地名であった。 ↑昭和7年の舞鶴西港 大正12年に舞鶴鎮守府が要港部に格下げになった。このためもあって、舞鶴の発展を維持するため、舞鶴町は一層対岸貿易の拡充に努力。その結果、第一埠頭には、木材、大豆粕、石炭などが常に山積みされるようになったため、港湾設備の拡充が計られた。昭和4年には、西港の第二期修築工事が着工し、昭和13年完成。第二埠頭などが整備された。(『ふるさと今昔写真集』より。キャプションも) 昭和18年の海軍記念日に第2次大戦の戦局拡大に伴い、軍の要請によって、というか強制によって舞鶴市・東舞鶴市が合併して舞鶴市となった。人口15万4、953であったという。これが現在の舞鶴市であるが、かなり無理があったようで、戦後は再度分離しようとする者が多数派となった歴史もある。こんな小さな町でもいろいろと問題はある。 舞鶴は都会ですか、田舎ですか、などと問われることがあるが、よその人から見ると何とも判断つきかねる何ともハンパな変な性格があるのだろうか。 旧・舞鶴町の主な歴史記録《地名辞書》 〈 舞鶴。今舞鶴町と云ふ、旧名田辺、明治維新の初め、牧野氏の時、田辺藩は紀州にも同名あればとて、之を避け舞鶴と改称す、戸数二千、加佐の郡治にして京都を距る二十六里、其港湾は船艦の碇繁に便利多く、号して日本海の第一要害と為す。補〔舞鶴〕○京都要誌、丹後国加佐郡、京都より山陰道船井郡橋爪・山家等を経て二十三里三十五町、○東西一里余南北二里余の大湾口にして、湾内水深八仞、大艦巨船の碇繁に便なり、市街繁華人口万余あり、北海重要の軍港にして北辺に露国を睥睨し、現時敷設中の京鶴鉄道落成せば四通五逢の形勢を成し、繁盛今日に倍 するに至る可し。 〉 《加佐郡誌》 〈 舞鶴町。往時は田造郷に属していた。もと八田ヤタといって戸数も少ない湊であったが細川氏が茲に築城するやうになってから(天正十年)始めて田辺と改称した。それ以来久しく此名を用ひていたが明治二年に紀伊の田辺と同名であるといふので舞鶴と改めた。今は南田辺、北田辺、大内、本、東吉原、西吉原、職人、魚屋、丹波、平野屋、竹屋、寺内、松陰、宮津口、西、新、紺屋、引土新、朝代、引土、京口、堀上の二十二ケ字から成っている。参考一、舞鶴町の古名八田村は丹波何鹿郡の農民が移住して来たから郷里の名を其侭用ひたものであるといはれている。二、細川氏の頃田辺の名に改めたことに付いては三説がある。其一は昔此地に地頭として治績の見るべきものがあった田辺小太夫といふ人を記念するためにつけた名であるといふ説がある。之は丹後田辺府志第一巻第四章に出ている。其二は郷名田造は元来田辺なるを和名類聚抄の刊本に於て誤植せられたことからおこったので田辺は此地古来の総名であるといはれている。之は吉田東伍大日本地名辞書に見えている。其三は後に記することとする。三、現時の舞鶴の名は城郭の名からとったのである。四、南田辺、北田辺、松陰、宮津口、京口の五ケ字は明治以前は藩士卒の屋敷地であって名が無かったが廃藩後新につけたものである。五、大内はもと大内郷の一部ぶあった。此の郷名の由来は丹後風土記に詳しく出ている。大内の名は昔穴穂天皇(安康天皇)の御宇に市辺王の御子億計王(後に仁賢天皇)弘計王(後に顕宗天皇)と共に此国に来られた。そこで国造稲種命等が安宮を作って仕へ奉った。それから其旧地を崇めて大内といったのであるとのことである。 〉 《まほろば逍遙》 〈 大舞鶴市の誕生(一九四三・五・二七)と「分離問題」 昭和十三年八月一日、港湾都市舞鶴市と軍港を有する東舞鶴市が同時に誕生しました。 国際情勢が日増しに緊迫し、十四年十二月舞鶴鎮守府が復活して軍事施設が拡張されるなど舞鶴海軍の重要性が高まるにつれ、地元に同じような小都市が並立することは軍としては不便なことでした。 殊に昭和十六年十二月八日対米英宣戦布告に伴い戦線が大陸に太平洋にと拡大していく中で、戦力増強・国防力充実は軍の至上命令として実施に移され、東舞鶴市を中心とした海軍諸施設の拡大強化も隣接の舞鶴市に及んでいきます。喜多に舞鶴海軍工廠の木工工場ができ、また舞鶴商港海面はすべて舞鶴軍港第二区に編入され、港湾の埠頭をはじめ付帯施設すべてが海軍に買収されるなど商港活動が全くやれないことになりました。 こうした情勢の下に舞鶴鎮守府の強い要請もあって、両市の合併問題は急速に進展していきました。実際には、舞鶴市は城下町としての歴史と伝統を持ち、明治維新後も加佐郡役所の所在地で地方行政の中心という誇りがあり、市民は土着の者が多い。それに対して東舞鶴市は明治三十四年鎮守府開設以来急速に発展した海軍の町で、全国各地からの来往者が多い新開地である。さらに地形的にも両市は五老岳の山稜によって東西に隔てられ、榎トンネル・白鳥峠等により繋がっているといった合併を困難とする要因をいくつも抱えていたのでした。 合併の条件として舞鶴市は、由良川筋北部六か村の合併・市役所の位置(旧藩主の城趾、現舞鶴公園)・舞鶴港の使用等を強く主張し、それらを東舞鶴市も了承していたのですが、「時局ノ要請二応ジ大軍港都市建設ノ為」すべて知事に一任ということになりました。 そしてついに昭和十八年五月二十七日、”新生“舞鶴市の誕生となります。人口九万の京都府下最大の都市であり、軍都として日本海における重要な位置を占めるものでした。市役所は余部下の東舞鶴市役所中舞鶴支所地に置かれました。(昭和二十一年には北吸の旧海軍施設の軍需部庁舎に移転いたします) 昭和二十年終戦と同時に舞鶴市は旧海軍の壊滅により経済的基盤を一挙に失い、以後は天然の良港を中心として自立自存の平和産業港湾都市建設を目指して努力しなければならなくなりました。そんな折、戦時体制下に軍により強引に進められた市町村合併の見直しを認める法改正があり、舞鶴でも「分離問題」が起こりました。昭和二十四年十一月東西分離を求める要望書が西地区から出されたのです。 市長・市議会の分離反対の動きの中、西地区では連夜のように集会が持たれて多数の老若男女が参加し、まちの商店主や手工業者、これまでにそういう体験のなかったような人々が、ルールに従って壇上で堂々と賛成・反対の意見を述べあい、白熱した討議が重ねられたといいます。 翌年三月西地区の投票では、一三二三○票中賛成七○四六・反対六○七○、棄権票数四四八三でした。それを受けて京都府の念入りな調査があり、府議会で審議の末分離反対と決議されました。京都府全体の中での府下唯一の大港湾都市の発展が考慮されたのでした。 市制六十年、相変らず東西間に峠は存在し、片道バス代三六○円を要します。しかし、時と共にしぜんな交流は進み、過去の確執は薄れていくようです。フェリーボートの乗り場が移り立派な文化会館も建ち、今では東地区が舞鶴市の中心となりました。 昭和十八年一月当時の舞鶴市(現西地区)の市長水島彦一郎氏は、郷土史の編纂の必要を痛感し自ら資料の収集に努めました。その思いは同二十八年の「舞鶴史話』となり、昭和四十年より平成六年に至る『舞鶴市史』全七巻に結実いたしました。そして、その奔走により譲り受けることができた『糸井文庫』は今や舞鶴市民の大きな財産となっています。『糸井文庫』→糸井仙之助氏が多年にわたり収集した丹後地方に関連のある書籍、古文書等約二、二○○点におよぶ郷土資料。(二○○一・一二) 〉 関連項目「元伊勢・元伊勢宮」 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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