真名井
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京都府舞鶴市公文名・七日市 京都府加佐郡中筋村 |
真名井の概要《真名井の概要》 マナイと名のある場所は全国にもたくさんあるし、丹後にも多くある、加佐郡内にも二箇所あるが、このページは舞鶴市のマナイの説明である。 「真名井」は西舞鶴駅の南方1.5キロ、城南中学校の東の線路脇、公文名と七日市の境目にある泉である。下の写真では右側が公文名、左側が七日市となる。 いつとも知れぬ古くから知られている大変に有名な清水であるが、今はここへ行くまともな道はないし、まともな案内書も、案内板もない状態である。 丹後ではもっとも規模の大きな十分に納得できる真名井の泉かと思う。 一升池笠水、一名を真名井と呼ばれた古来の池は、現在は三つに分かれている。北側から一升池、三合池、五合池である。『中筋のむかしと今』は、 〈 真名井の清水(公文名・七日市) 真名井の清水には三つの池があり、東側から一升、三合および鉄道の西側に五合と、昔から呼び伝えられている。その由来は「白雲山(京田・白雲山善福寺ではないかと思われる。)から三本の矢が射られ、その落下地点から清水が湧いたと言い伝えられている。」 [村尾 敬] 〉 上の写真は府道177号線(舞鶴綾部福知山線)から見た「真名井の池」である。上流に清水があり、その水が流れ下って道路にぶつかってここで池になって溜まっている。下のような案内板も立てられている。 ↑誤解を招くであろう説明である、というか書いた人がよく調べていないようである、白雲山も不明とするくらいなら真名井について書く資格が疑われよう、こんな説明から、ほとんどの市民はこの池が「真名井の清水」と思い込んでいる様子である。 舞鶴はこのようないいかげんな「案内」が多いので、というか郷土の古代について書けるような史家がいないので、うっかりと看板にだまされぬよう、しつこく現地へ行って、自分で調べて下さい。 この看板は根本的に間違いである。本当の真名井の池(真名井の清水)は、この水溜りの上流にある一升池、三合池、五合池である。今はフツーに「真名井の清水」と呼ばれて、看板も立てられている、写真の水溜りは、本当の清水から流れ出た川がここで少し大きく溜まっている、名もない水溜り池である。 この池の右手に道がある。ここを歩いてたどり行けば清水に行ける。途中で道はそれてなくなるが、先は水路に沿ってゆけばよい。 ↑この右手の土手を行く。正面一番手前の山が「白雲山」。中郡の伊去奈子嶽(磯砂山)の別名が白雲山、浦嶋太郎の玉手箱から白雲がわき出た、とかそうしたいかにも丹後らしい由緒がある、当地には欠かせない大切な山であろう、この山名だけが周囲と関係なくボツンとあるはずはない、舞鶴に移された、舞鶴にもあった磯砂山であり、浦嶋太郎さんが玉手箱を開いた山とされていたのかも知れない。「場所不明」などは丹後人とも思えぬ勉強不足か、そうした連想すらも浮かんでこないタイヘンにツマラヌ説明とされても文句はいえまい。この山があることによって当地一帯が古代の大聖地であったことがわかる。異界とつながる地であったと思われる。風土記残欠田造郷条の伊去奈子嶽はこの白雲山のことでなかろうか。 この水を汲み上げたと思われる取り入れ口↑が中央に見える。 ↓上流ほど流れは美しくなる。こんな光景は日本国内ではめったには見られない。こんな美しい小川があることは誇りにしていいと思う。 下流に位置する「真名井の池」はどこか濁りがある、何故だろうと考えていたのだが、水中に水草・藻がない。泥の下地がでている。ここはどうして藻が生えないのだろう。もっと水草があったような記憶があるが、あるいは刈り取ったかも知れない。水草で流れが悪くなると水位が上昇し、田畠が冠水するような事態があるのかも知れない。 しかし途中の水路はご覧のように誠に美しい水が流れている。身も心も洗われる。背景の家々がなければ、これが西舞鶴の原風景だと思われる。伊佐津川(池内川・真倉川)・高野川の合流点で水の豊富な、豊富すぎるような所である。 ただしこのように道はない。(最近は付近に新しい住宅ができていて、あるいはそんな最近できた新道から行けるのかも知れないが、私は知らない) 田のあぜ道というのかこの小川の土手というのか、その草ボウボウの上をヨタヨタと草に足をとられながら歩く。 (内緒で教えると)、田んぼが休耕中なのか稲が植えられていないので、ここが(内緒で)歩ける。少し湿地ぽくて、田は乾燥しきってないようで草だらけ。 せっかくの美田を荒れるにまかせる。国のノー政の優秀さがよくわかる。今のこの国は確実に発狂している。天罰が下ること間違いない。このままでは食糧なしでメツボー、それに早く気が付かないと取り返しがきかなくなる。 そうして300mばかり行けば、ここへ来る。 真名井の「一升池」である。 真名井の清水は現在は三つある。この「一升池」と少し上流に「三合池」。その上流、線路を越えた所に「五合池」がある。 写真の「一升池」が一番大きくて、だいたい10メートル四方、水深50pくらいだろうか。 水量も多いのだろう、農業用水だけでなく、後に田辺城内や城下へ飲料水を供給した「お水道」の源泉になる。現在は付近の小中学校や保育園のプールを満たし、工業用水にもなった。(この水で織機の梭が飛んだそうであるが、その工場も最近閉鎖されてしまった) もっとも狭い意味の「真名井の清水」とは、この一升池の水のことである。 この清水は魚がいる。底は石、河原の石という感じで深くはない。ここへ地下から水が噴き出していると思われる。古い時代にはこれが真倉川の河道ではなかったのかと私は想像する。 かなりの水量になると思われるが、その水はどこへ流れていくのだろう。 もちろん下流へ流れる。 先の「真名井の池」まで来て、そこで二つに分かれている。南側に静渓川、北側に門川(菰池川)になる。 「真名井の池」の道路の反対側に地蔵さんが祀られているが、その左下に見えるのが静渓川である。 この静渓川が田辺城の「お水道」なのだが、別に細川幽斎様がはじめてお作りになったのではない。幽斎が作ったなどと誤解を招くような説明が多いので書いておくが、そんなアホはもう書くな、自然に初めから、人が住むようになる以前から、幽斎様より千年以上もの大昔から流れていたのである、そうでなければこの池で水はどこへ消えたのだ。豊かな水量を誇る真名井の清水はここを流れて海に注いだでいた。 静渓川は自然の流れのような姿をしている。グニャグニャと蛇行している。もし人工の物なら目的地へ向けて直線で行くだろう。この川は大昔からの自然の川筋と思われる。ここから下のどこかで分流を受ける人工の水路を付けて城内に引き込んだと思われる。その部分だけは確かに幽斎様がお作りになったのかも知れない。 真名井からの水を流す水路はまだまだたくさんあって、どれがどの時代の何のための人工水路か判断つきかねるのだが、静渓川のすぐ下手から流れ出す門川は人工のものでないのかと思う。 このように家の間を流れて、すぐ先の中筋小学校の地下を暗渠で流れていく。この下の西舞鶴駅の南側には菰池という大きな池があったそうで、そこへ流れていたと思われる。 市史は 〈 なお、「丹後旧語集」(成立、享保二十年1735)に「小野木城攻之時水道を留んとす、百姓出て防ぐ、武者乗掛来し故村之者熊手にかけて引落し討たりし為 褒美として名字を名乗れと給る由、今の次郎兵衛と云者の先祖なり。」とある中の、百姓が防備した「水道」は田辺城の上水道であったものと考えられ、後世、公文名村の真名井の清水を伊佐津村経由で城内に導入していた「御水道」が、細川時代、すでに敷設されていたということだろうか。 〉 と考えているが、この自然の川から横の水路を作って城の用水を確保しただろう、原形としてはこれがなくては城が機能しない。食糧を作らない経済大国のような世界が笑う「アホの城」は幽斎様はじめどんな愚将であっても決してはつくるまい。もっとも田辺城はぐるりと周囲は水である、水に浮かぶ城であって、水がないということはあり得ない、馬を洗うための水などはいくらでもあるが、人が飲む上質な贅沢な飲料水として、真名井の水が引き込まれたものと思われる。 『舞鶴市史』は、 〈 牧野氏家臣団のうち、軽輩層は城外の大内町・職人町・京口・宮津口の長屋に居住したが、他はすべて城内に住家(棟別・長屋)を与えられここで生活した。この侍屋敷地は、ニノ丸の南東隅と西側、三ノ丸のほぼ全域、外曲輪にあったが、おのおのの住宅へ供給する生活用水は、池内川や真倉川が形成した扇状地扇端部で、両川の伏流水がわき出ている公文名村の「真名井の清水」を伊佐津村を経て城内へ送水したもので、この施設は「御水道」と呼ばれた(写真176・177)。御水道の水は三ノ丸南東隅で、外堀の上を箱樋(はこどい)によって越させ侍屋敷地へ配水されたが、城内の御水道敷設状況は図99のようである。なお、御水道は外曲輪から城下町へ延長ざれ同町へも給水された。 御水道の掃除は毎年春夏秋冬の四回、町人足一○○人によって行われたほか、臨時の掃除出役も町人が負担したが、これらは町役であったため扶持米は支給されなかった。各町の割付け人足数および掃除分担場所は次のようである。 一 御水道掃除有之候へ者人足之儀被仰付町人足百人申付 尤組者壱人差出追 手前ニ而人足相揃夫ヨリ勝手勝手ニ罷越 春夏秋冬四季也 臨時之掃除ハ其訳御 勘定中ヨリ申上其旨被仰付候 右人足ハ町役ニ而差出候事故扶持米ニ不及 其 外御中間斗ニ而水戸普請有之 水留り候歟或者濁り候節ハ御勘定中 ヨリ申来 月行司為知遣候事 惣間数九百九拾九間 丁数ニして拾六丁三十九間之由 但 大内箱樋ヨリ松縄手七日市村橋迄人足割 一 人足拾人 箱樋ヨリ一丁半程土橋まて(本町八人 職人町弐人 一 同 拾三人 伊佐津出口橋まて 魚屋町 一 同 拾三人 伊佐津村中ヨリ公文名村口迄 竹屋町 一 同 廿三人 公文名村分之間 (平野や町弐十壱人 堀上町弐人 一 同 廿七人 右同断土橋まて (丹波町二拾二人 紺屋町五人 ― 同 拾四人 土橋ヨリ水出口迄 (寺内町九人 新町五人 〆百人 (「三集行事」糸井文庫) また、藩庁は工事を必要とする水道の管理には在方へ出役を命じた。例えば、文化十三年四月には中筋組一五○人、池之内組二○人、祖母谷組四○人、合計三○○人の人足を割りつけ、同月十五日から作事所が指揮して普請にかかっている(「御用触附并万継物帳」安久家文書)。 〉 『中筋のむかしと今』は、 〈 お水道(静渓川) 町内の中央部には、真名井の泉からほぼ直線状に「お水道」が北に向かって流れている。田辺城へご料水を引くために造られたという。この川には一切の汚水も排水も流れ込まないよう工夫されている。伊佐津村見取図を見ると上流から下流まで両岸に幅二尺(約六○センチ)程の小路と、更にその両側に同幅位の小川が切れ目なく設けられている。 明治の頃は川の要所要所に「水守」「立ちん坊」がいて、洗い物を厳しく見張っていたそうだ。村民は飲み水以外一切利用できなかったという。 昭和の初め河川改修が行われ、自然石の石積護岸からコンクリートの擁壁に改められた。いま集落地では暗渠となり、上は歩道敷きに変わって当時の面影を見ることができなくなった。一時期、川の掃除を青年団が引受け、村からの手当を団の資金に充てていた時代があった。 「きれいな川には魚が棲まい」というが、たまに見かける魚は、水が冷たいせいか色が青黒くやせ細っていた。 〉 大型スーパー「バザールタウン」の前を南北に通る伊佐津街道の道路の東側の歩道の部分の下を暗渠で流れているのが、「お水道」でないのかと思う。 上の写真はその少し上手の伊佐津・公文名・境谷の境目あたりである。小川が二本も流れているが左側の清流が静渓川でこの少し下で二つに分かれる、その一本が暗渠になって伊佐津街道を下る。 ←最近こんな遺跡が発見された。 田辺城への水道の引き込み口であろうか。 堀を樋で越えさせて、城内へ引き込まれたという。 冗談かも知れないが、真名井は古代から存在したものでなく、江戸時代に田辺城主によって掘られた井だ、というような話も聞かれるとか。それなら幽斎様はどこから真名井の水を引いたのであろうか。こんなことは何も書かなくともジョーシキとして周知されていたものと思っていたが、どうやらそうでもなかったようである。何でも起源を田辺城や幽斎様にしないとならないように思っている、いかにも舞鶴人らしいメデタイ馬鹿げた郷土の歴史も知らずのマチの話ではある。 しっかりしてくれよと、わざわざ書くのもアホくさいが、そうした新しい井でないことを確認しておこう。真名井はまた笠水(うけみず)とも呼ばれて、笠水神社が近くにある、室尾谷観音寺の丹後国神名帳(各国の神名帳は平安期に作成された、この神名帳は少なくとも中世初め、あるいは平安まで遡るかもの製作年代とされる)にも正三位笠水売明神(笠売明神)と見えて、田辺城よりはずっと古い時代から存在したことがわかる、また笠水神社祭神の笠水彦神は、勘注系図に、始祖・火明命の四世孫として見える。笠水(真名井)を祀った神社や祭神はずっと古い記録に見えるのに、笠水(真名井)そのものは、江戸時代に掘ったなどいうことはあり得ない。真名井は人間の古代よりも古いかも知れない、近世の田辺城などよりはずっとずっと古いと確認できよう。 この舞鶴の真名井は、古代は笠水と呼ばれることが多かったと見られる。 三合池と五合池「三合池」は一升池のすこし南側の鉄道線路の土手の下にある。「五合池」はその線路を越えた西側にある。電車の窓からもよく見える。 青空を写す水鏡。「天の真名井」とはこうした所から名付けられたものかもしれないが、どちらの池もまったくここへ行く道はない。 鉄道線路しかない。しかし超危険ですから、線路へは行かないで下さい。危険ですから本当に内緒で書きますと、田んぼを踏んでいくより道はありません。農家の皆さんごめんなさい。団体などで押しかけて田んぼをこわさぬよう願います。 この二つの池から流れ出す清水は、一升池とは違う流れになる。 昔からの流れなのかどうかはわからないが、二つは合流して、まっすぐに北へ向かう。そして現在の笠水神社の脇を通り、西舞鶴高校の脇を通り、市内へと入っていく。この川は下の町中では真名井川と呼ばれている。コンクリートで固められた「川」になる。 ではこの辺りでは何川と呼ばれるのか。「新原川」と書かれていたのを見た記憶だけはあるのだが…、正しいかどうかはわからない。 真名井は昔から二本の川があって、こちら側へ流れる真名井川筋に笠水神社があり、静渓川側には伊加里姫神社があったのではなかろうか。と想像してみる。 笠水と真名井の二つの名があるのもそうした違いかも知れない。 笠水、カサミズなのかウケミズなのか確かなことはわからないが、真名井の池を笠水とは今は呼ばないが、笠水神社にその名を残している。由緒ある名で、一時は舞鶴市の呼び名として採用されようとした歴史がある。 私は、加佐郡のカサはここだろうと考えている。また真名井は恐らく舞鶴のマイに残されているのではなかろうか。加佐郡や舞鶴市の古代史のカナメの清水だったと思われる。 真名井というのは何を意味するのかはわかってはいない。大江町仏性寺にある真名井の池には、ここの水が眼病に効くとの伝承がある。誰も指摘した者もないようであるが、意外にもマナコ、マナザシ、マナカヒ、マナジリなどのマナ即ち目を意味しているかも知れない。 チト書きにくいのだが、より根源的な意味のマは、伊根浦をお間内と呼ぶようなマで、地母神(豊受大神、あるいは地元では笠水女神と呼ばれた)の女性器、マンとか今でもいうが、そのことだと思われる。籠神社の奥宮の真名井神社の磐座の姿はそのマである。そうしたことから「マの井」と呼んでいたのがいつからか真名井と呼ばれるようになったのものかも知れない。 尚、平成20年6月4日、「真名井の清水」は、杉山の「大杉の清水」とともに環境省の「平成の名水百選」に選ばれました。もっともっと大切にしていこう。 そのほかの「真名井の清水」最近になると、「真名井の清水」が西舞鶴の町中にも出現するようになった。古代は海かよくて低湿地であった所になり、古代の真名井とは繋がりようがない土地である。本当の真名井の池から水路やパイプで水を引いているような幽斎様的丁寧な本物志向の事ではなく、その場所の地下から地下水を汲み上げただけのもので、保健所がOKしただけで、はたして真名井の水と呼べるかどうかは怪しい、情けない自称・経済大国の偽装商品、ニセモノ的なもので、中国もびっくりするかも知れない産地偽装ものであるかも知れない。商標登録とかされているものではなく、法的には問題もないかも知れず、清水寺の「偽」だとまでは決めつけないが、カッコをつけてこれらも一応「真名井の清水」と呼んでおこう。次のようなものがある。大手千日角の「北都信金本店前」。案内には、 〈 『しんきんの泉』 このたび、当金庫周辺整備工事をいたしましたおり、大量のきれいな水が湧出し、この源泉は公文名・七日市両字境の大きな池ではないかと推察されます。 伝説によりますと、白雲山(場所不明)の北側に笠水またの名を真名井というところがあり、豊受大神という神様が降臨になったとき、その場所から甘露で鏡のようにきれいな霊水が湧き出ました。 その霊水は日照り続きに関係なく、こんこんと湧き出ており、また万病に効くといわれています。江戸時代には田辺城下に御水道が設けられ、その用水は城下町へも供給され非常に大切にされておりました。 水質検査をいたしましたところ、(16m地下より汲み上げ)きわめて良質な水で、飲料水として充分に適合する結果が出ましたことから、このきれいな湧き水を「しんきんの泉」と名付け泉水場所を設けました。市民に方々に、ご利用頂ければ幸いてす。平成14年10月 舞鶴信用金庫 〉 信用第一の信金だけあって「真名井の清水」とは言わないし、地下から汲み上げているとも言っている。ただ近頃は水は止まっているようである。 真名井通り西舞鶴市民プラザ前 駐車場もないような物を建ててもアカン、市民会館や西舞鶴駅やすぐ近くにいくらでもガラ空きの施設があるやないか、税金の無駄遣いにしかならん。こんなものでは絶対に商店街はよみがえらん。の反対を押し切って立てられた市の施設である。横に「真名井の名水」が作られている。その案内には、 〈 『真名井の名水の由来』 昔、「豊受大神」がこの舞鶴の「田辺」の里のいさなご岳という山に降りてこられました。そして、「天香具山の命」という神様が、放った矢が刺さった所(公文名、七日市両字境の大池)から湧き出た霊泉を「豊受大神」の御供物としたのが「真名井の清水」と云われています。 この清水は、昔から、乾くこともなく溢れることもなく、其の味甘露のごとくで万病を治すとされています。 江戸時代には、日照りになっても枯れる事のないこの名水を、城内の御水道として、城主幽斎も非常に大切にされておられました。又、城下では庶民の暮らしを支える貴重な水として利用され、現在でも、美味しい水として多くの市民に利用されています。 〉 信用ゼロの公的機関が税金で作ったものらしいごまかしのエエカゲン説明になっている。アホらしくて批判する気も起こらないのでどなたかやって下さい。 真名井通り商店街に住む人の話によれば、水道は案外に高いので、この辺りは全部井戸やないですか。パイプ打ち込むだけの費用ですみます。いい水がでます。一時出なくなったときは、さらに深く打ち込んでもらったら出るようになりました。 西舞鶴駅前。まだ正式な名がないという、水もまだ出ていないが、地元の商店街がつくったものである。税金も一部使われている。案内に、 〈 真名井の清水 真名井の清水は、奈良時代に編纂された「丹後風土記」による 丹後の最高神・豊受大神が降臨された時に湧き出た霊泉で、清いこと麗しい鏡の如し、日照りにもかれず、長雨にもあふれず、その味甘露の如し、万病に癒す力があると記されています。以来千数百年間、この地をうるおし続け、安土桃山時代には、かの細川幽斎も、霊泉の畔に立つ笠水神社→朝代神社→笶原神社→田辺城を水路でつなぎこの真名井の名水で茶を楽しんだと伝えられています。 〉 公的機関の税金を使って、誰が口にするかも知れないものである以上はもう少し肝心の水源や水質の説明があるべきだろう。これでは何か本物の真名井の清水と似たようなものという誤解が生まれはしないか。悪意を持ってカンぐれば、その誤解を期待しているようにも読める。 こうした「案内」は案内になっていない、ヤシ案内と同じ。信金を見習うべし。(のちに注意書きがされているようになった) ついでに弊社の場合。 これらの近くに弊社も西舞鶴営業所がある。ポンプで24時間汲み上げている。夏は冷たく冬は暖かい。まことに結構な豊かな水ではあるが、飲み水としては使わない。飲めないのと問えば、この下はヘドロだから、昔は海だった所。真っ黒なヘドロ。まあ飲めないこともないかも知れんけど、飲まんほうがええんとちゃう。 欲しい人があったら来て貰ったらいくらでもあげます。ただし水質は保障できませんよ。 口にするとヘドロの臭いが微かにする。透明のペットボトルにこの水を汲んで、詳細に観察したヤツが言うには、「あかん、オラオラがちょっと浮いとる」とのことである。 このあたりの地下へパイプ打ち込めば水は出るが、深い所まで打ち込まないと、オラオラがある、すぐにはなくとも一日おけばオラオラ発生したりする。ヘドロ層を突き抜けてさらに深く、ずっと深くまで打ち込んであるパイプから出る水はよいらしい。 別にこれらの井戸があっても何も悪いことではない、勝手に掘ればいいし、市民がそれを利用するのもよい。しかし具合が悪いのは、舞鶴市民が「真名井の名水」「真名井の清水」とは、これらの井戸の水だと誤認識していること、そう確信していることである。 舞鶴市民百人に「真名井の名水とはどこにあるか」と問えば、まず百人はこれら井戸の水を答えると思われる。七日市の真名井の池の水と答えた人には私はまだ出会ったことがない。この池まで行ったことのある市民はまずいないから仕方もないことなのであろう。 さらに言えば、行ったことがあるという人でも、府道脇の「真名井の池」を真名井の清水と考えている。真名井の清水言うたかて、鯉が泳いどるしな、水草やら藻が浮いとるしな、ちょっと飲める水やないで、などと言う。真名井の清水(一升池)には確かに小さな魚はいたしヌートリアもいたが、鯉がおったかな、と不思議に思っていたのだが、行ってみて気が付いたのだが、彼は「真名井の池」のことを言っていて、ここが真名井の清水だと思い込んでいるのだ。 情報不足だと思う、市ともあろものがごまかしみたいな説明はやめるべきだと考える。というかしっかりしっかり勉強せい、と言わねばなるまい。 →池のそばに立つと鯉が急いで集まってくる。エサがもらえるとおもったのだろうか。わるいのう、持ち合わせがないんじゃ。 風土記にある真名井の名水=細川幽斎の真名井の名水=「平成の水百選」の真名井の名水は、これではありません、これは井戸の水です、古来の真名井の名水はもっと上手にあります、とか書いておくべきと思われる。チャランポラン行政やその尻馬に乗る郷土史家では、情けないが無理かも知れない、今の迷説明板では誤解が生まれ、その誤解が定着し真理が忘れられる。誤情報となりかねないままに放置している行政と史家の罪は深い。 一事が万事、何につけてもこんなザマなんだな、クソ役人、クソセンセと『丹後の地名』がボロクソに書くのもなるほどそれなりに一理はあるのだな、コイツらにはだまされないよう気をつけないといけないぞ、と市民の皆様によ〜く理解していただくためのよい資料として、末長く残しておこうという趣旨ならば、それもよろしいのだが… 《交通》 Googleの衛星写真がうまく捉えてくれているので、右上の「地図」を参考に行ってもらうより方法はない。 このページの一番下にも地図がある。 中筋小学校の正門前の道を南へ200mばかり行って貰えば、右手に池がある。それが「真名井の池」である。普通はこれを真名井と呼んでいるが、本当の真名井の清水はこの池の上流にあって、三つの池がある。下の道を行って下さい。 商店街のマナイ通り↓ 西舞鶴駅前から平野屋通りへ続くアーケード街。 真名井の主な歴史記録《丹後国風土記残欠》〈 田造郷。田造と号くる所以は、往昔、天孫の降臨の時に、豊宇気大神の教えに依って、天香語山命と天村雲命が伊去奈子嶽に天降った。天村雲命と天道姫命は共に豊宇気大神を祭り、新嘗しようとしたが、水がたちまち変わり神饌を炊ぐことができなかった。それで泥ヒチの真名井と云う。ここで天道姫命が葦を抜いて豊宇気大神の心を占ったので葦占山と云う。ここに於て天道姫命は天香語山命に弓矢を授けて、その矢を三たび発つべし、矢の留る処は必ず清き地である、と述べた。天香語山命が矢を発つと、矢原山に到り、根が生え枝葉青々となった。それで其地を矢原(矢原訓屋布)と云う。それで其地に神籬を建てて豊宇気大神を遷し、始めて墾田を定めた。巽の方向三里ばかりに霊泉が湧出ている、天香語山命がその泉を潅ぎ〔虫食で読めないところ意味不明のところを飛ばす〕その井を真名井と云う。亦その傍らに天吉葛が生え、その匏に真名井の水を盛り、神饌を調し、長く豊宇気大神を奉った。それで真名井原匏宮と称する。ここに於て、春秋、田を耕し、稲種を施し、四方に遍び、人々は豊になった。それで其地を田造と名づけた。(以下四行虫食) 笠水(訓宇介美都)。一名真名井。白雲山の北郊に在る。潔清は麗鏡の如し。たぶん豊宇気大神の降臨の時に湧出た霊泉であろう。其深さは三尺ばかり、其廻りは百廿二歩である。炎旱に乾かず、長雨にも溢れない、増減を見ない。其味は甘露(中国で帝王が仁政を行うと、天が感応して降らすと考えられた甘い水)の如しで、万病を癒す麗機がある。傍らに二つの祠がある。東は伊加里姫命或いは豊水富神と称する。西は笠水神即ち笠水彦笠水日女の二神である。これは海部直等の祖神である。(以下五行虫食) 〉 『舞鶴地方史研究』(68.3) 〈 真名井の清水について 京都府立西舞鶴高校・地歴クラブ 「初めにあたって」 私達地歴クラブに貴重な「舞鶴地方史」誌の一部をさいて下さったことをクラブ員一同たいへん感謝しております。この研究にあたっては、クラブ顧問の坂根・川端両先生に、多大の御指導をいただきました。研究内容は真名井の清水が市民生活に及ぼす色々な影響について調べてみました。 例えば、飲料水としての利用や田畑に及ぼしてきた影響、それに対し農民の立ち向かってきた歴史、農民の家内工業としての紙漉業など舞鶴地方に及ぼしてきた水の歴史は、農民の生活だけでなく商工業の上にも多大の影響を写えてきたことは、周知の事実です。 以上のようなことについて、クラブ一同出来る眼りのことを調ぺてみました。不十分ではありますが、こゝに研究結果を発表します。 (一)真名井の清水の概観 中筋の真名井から流れてくる「御水道」と称する清水は、昔から橋東の大部分の家で使用され、どんな旱魃の日でも沽れたことがないと言われてきた。私達はその清水を調べるために京田、七日市、公文名、伊佐津を回ってみた。その結果いくらかの池を見つけ、水源をつきとめた。それはちょうど、中筋小学校より南西の方向にあり水源という感じはあまりなく、草の中にぽつんと、とりのこされているように見えた。大きさは縦が5m横が2m50pくらいで深さは、中心部が深くて約1m10pくらいで端の方は1mくらいであった。この池は、福田小一郎さん宅の西にある。その他にも湧水池があって、おもなものには五合池、八尺池、おぼろ地をどがある。図1に示す通りである。 一体この清らかな水は、どのように流れてくるのであろうか。地形的にみるとこの地域は、山地から流れてきた土砂が堆積してこの付近に平野をつくり、さらに高野川と伊佐津川の運んだ土砂がたくさん堆積して一種の扇状地をつくい出したものであろう。それは図2のとうりである。上流の方から流れてきた地下水は、扇状地のほぼ扇端部である七日市に泉となり湧き出してきたわけである。 私達は古代から近代までについてこの地域の状況を調べてみました。まず古代については、古墳の分布している場所はほとんど山麓で、それからわかるのはその当時の人々は、現在の平担部の中ほどには住まずに、山の斜面あるいはその近くに住んでいたことがわかる。これは川が大洪水をたびたびおこしたために、被害をうけるからであろう。神社が山の近くに多くあるのも同じ理由からである。現在、平安時代の式内社として残っているのは、この地域では倭文神社(今田)高田神社(上安)笶原神社(紺屋町)日原神社(朝代と女布)朝代神社(朝代)である。私達は、式内社ではないがここでは公文名の笠水神社について、その由諸を調べてみました。 笠水神社由諸1 笠水訓宇介美都一名真名井在白雲山之北地郊而潔清如麗鏡蓋是当干豊宇気大神降臨之時所湧出之霊泉也。其深也三尺許其廻也壱百二十二歩。災旱不乾霖雨亦不溢四時不見増減。其味也如甘露以萬痛発主治之機焉。傍有二詞東者伊加里姫命或称豊水神矣西者笠水神郎笠水彦命笠水姫命之二神此則海部直等之所膂祖神也(以下二行虫食) 右者丹後風土記折衷矣 明治十二年乙卯十二月穀旦 惣代 村尾床左衛門 周旋同 太郎兵衛 この資料でわかるように真名井の清水は、古代人にとってもその生活と切りはたすことのできないものであったようです。 次に中世についてみると古代人のように、水をさけるだけで左く水を制御することを考えた。そして中世にできた村としては、京田、公文名、七日市、今田など、その地名から推測できる。さらに、江戸時代に駈ると伊佐津川の河道を中央部から東の山麓に移し河跡部分は堤防で守られ、そこに境谷から人家が移され、現在の伊佐津地区が成立した。そしてまた田辺城の飲料水として、いわゆる「御水道」が保設されたのである。新開地の伊佐津村に、真名井の清水が及ぼした影響の一つとして紙すき業がある。そのことについては後で述べることにします。又七日市などでは、紺屋もあった。現福田五郎氏宅もその一つで ある。 この水は現代では、工業用水として使用されている。かつては郡是製絲や山陰紙業があり現在は大和紡績がそれである。そこで大和紡績の水の使用について調べました。この工場も地下水の豊富を場所に設けられたが、最近では不足をきたし、他の所でボーリングを行っている。ボーリング第1号井戸は中筋小 学校の裏にあり、その井戸から送水管によって、大和紡績工場へ送られている。井戸口径750oで総深度40m揚水量1.5立方mmであった。着工期日は、昭和40年10月25日で竣工期日は昭和41年2月10日。井戸の周辺の地層は図3のようである。 (二) 研究の第一として、伏流水の水路をさぐって見た。井戸の分布図も示してある。(第四図参照) 真名井の清水の伏流水は、掘抜井戸(図五)というきわめて簡単な井戸でもって豊富な水を得られる。この井戸は、舞鶴山や扇状地の圧力により、毛管現象で地下水の水位が高くなる。これは、オーストラリアの鑽井井戸と原理は同じである。この掘抜井戸の分布は、折原から、伊佐津川と高野川にはさまれた地域である。清水という名のとうり、この水はきわめて良質の水で、茶の湯や飲料水などに利用されていた。しかし、十三号台風や、大和紡績や、事務所等の冷房による地下水のくみ上げによる影響や、水道の普及などで、井戸の利用価値が著しく減少した。そのため、井戸のある所をさがすのに一苦労した。又、井戸があったとしても、ポンプがそなえつけてあるため、実測が出来ず、あまり完全な調査というものができなかった。 図によると、水のもっとも豊富なはずの、七日市、公文名のあたりか、掘抜きではなく深い井戸を掘っていることに気付く。これは自然堤防上のためか、あるいは、不透水層が深く、したがって水が、地下深く流れていることを物語っている。 (三) 第二として、私達はこの真名井の清水が農民にどのような影響を与えてきたかを調べて見ました。 真名井の清水は西舞鶴の穀倉地帯である、七日市、公文名、伊佐津を中心として舞鶴港にそそぎ込む伊佐津川河口までえんえんと四−五Kmにわたってその影響を与えている。しかし七日市周辺の穀倉地帯にはあまりにも豊富な水を与えているので農民の苦難の一つになっていた。戦前の七日市周辺の田はこの水のため、農作業が困難で深い所では腰まで浸かるという状態だった。そこで七日市の農民は排水工事に立ち上がった。昭和十二〜十三年のことである。この排水工事は「暗渠排水工事」と呼ばれている。それは七日市周辺の耕地整理と排水工事を兼ねたものであった。 その耕地整理は、まず従来の個人所有の田畑を一応全部村の共同管理のもとに置き、その土地を仮配当として、昭和八年〜十二年の五ヶ年間で二七二反の全耕地整理を完了した。おおむね、一区割を十アール(一反二歩強)とし、端の田は十アール以下に区割した。完成後、仮配当の田を耕地整理以前の所有田 と照合して個人の登記を行なった。登記事務完了は昭和十九年である。 この耕地整理実施関係者は五二戸、七名の耕地整理委員からなり、委員長西川愛蔵氏、副委員長福田五郎氏、西川氏死亡後は福田五郎氏か指導者となり、総工費一万二千円(内四割国庫助成、六割は地元負担)を費やしてこの大事業は行をわれた。ただし、この出勤人夫は殆んど字内の男女で、毎年十一月から五月までの間、晴雨を問わず行なわれ、正月も二日から出勤の記録がある。男九○銭、女七○銭の日当であった。この工事作業一反で人夫八人、材料費等で約十二円を費した。(但し、当時は米一升三十銭、酒一升一円である。)自分達の大事業として全く犠牲的大事業であった。 暗渠排水工事の構造を説明すると、畑作の時は水は不必要になるので、暗渠から水が流れるようになっている。水の必要な稲作時には畦に暗渠道と結びついている土管がたててあって、その土管に(図6)のごとく栓をつめて暗渠から流れる水をとめる。それで流れることのできない水は田の上へあふれ出る。だから稲作の時には水は豊富にある。又、稲作期がすむと、栓をぬく。幹線は地下九十センチメートルの深さまで素掘りし、真中に孟宗竹を五本、その上に小枝、柴を厚くそわしその上を裏白シダをすき間なくはり、一かかえの束にして水の流道とした一反に横線三本を掘り、上より栓をする処の前後六尺は丸土管が入れてあり、その上に土を覆せ、平担面になっている。 この耕地整理二七二反のうち約一六○反に暗渠排水工事を施行Lた。(図七参照)従来は湿田地だったので稲作一本で作業も困難であったが、施行後は全く上質田となり、二毛作田として利用できるようになり、耕地整理暗渠排水工事の意義、目的を達成し、今日に於いてもその難行をたたえられている。(図 8参照)『この暗渠排水工事は恐らく京都府下に於いて、農民だけの力で行なわれた暗渠工事としては大事業であり、現在でも少量の暗渠排水工事は随所で行なわれているけれども、このような計画的大量に共同事業として行なわれたのは数少ないであろう。』と当時の関係者、福田五郎氏は話されている。 四)伊佐津川と紙漉との関係 西舞鶴にはほぼ中心に南から北へと伊佐津川に沿って真名井の清水と呼ばれる御水道が流れ、ところどころには現在も池のような形をのこしているところがみられる。かつて江戸時代に田辺城を中心に盛えたこの西舞鶴の民家の生活にとってかかすことのできない水であったにちがいない。その流れに沿って現在ではもう行なわれていをいのだが、伊佐津村を中心とした紙漉の形跡がみられる。このことを今から研究していきたい。また現在も盛んに行なわれている黒谷の和紙との比較をしてみよう。 まず初めに伊佐津川紙漉について「加佐郡誌」という書物に資料がみられる。これは原文のままのせておく。この資料は伊佐津にいつどのように紙漉が伝わったのかを説明している。 (資科) 伊佐津は、大内郷に属せし所にて古くは、境谷の一部なりしが、何時の間にか人家稠密となり分離せり。 今は、百姓と紙すき人と入り交わり大村也、当字に紙すきの入来りしは、細川幽斉の越前五ヶ荘村より呼寄せられしに始まり、当時は川端嘉左衛門の先祖のみなりし由、其後六十年許を経て、市兵衛といふもの大内町より更に移住し来り川東観音へ行く土居の下り口に二、三軒にわかれて、家を構へしか、此者共は、但馬の豊岡より来りしものの由、今は此処に家無し洪水にて堤防の切れし次来退きし也という。 (京都府教育会、加佐郡部会編集 「加佐郡誌」) ではいったい真名井の清水とはどこを流れているのか、どのあたりに紙漉をやっていた家が分布していたのかを地図で紹介してみよう。(図九参照)次ページ同じく伊佐津川紙漉仲間につくられた議定覚 を紹介してみよう。この資料は、紙漉仲間とはどんなものなのかこの紙漉業についてどんな法度が作られていたのかをあらわしている。 紙漉仲間儀定覚 御公儀様与被仰出処之御法度之趣急度可相 守事。紙漉御運上御上納ニ相かけ申候ハゝ 其時ヨリ紙屋仲間相退ケ可申事。猶又古来ヨリ仲 間儀定之儀相定リ有之候得共除り年月久しく 相成依テ之安永七戌六月又重而相改メ置可申 前々之通リ此以後男女ニ不限御運上無之家 江罷越紙漉申儀出来仕候ハ其本家之紙漉船取 上ケ堅ク紙漉事相留申筈ニ相定リ可申候為後 日仲間議定仍而如件 右之趣少シニ而茂違背仕候ハ日本国中大小 之神社之御爵即座ニ可蒙者也 佐右衛門 茂乎 平兵衛 嘉左衛門 平助 源四郎 吉左衛門 治右衛門 徳兵衛 文藏 与三兵衛 庄三郎 孫市 庄兵衛 善七 善兵衛 庄左衛門 文右衛門 与兵衛 作右衛門 忠左衛門 宇兵衛 久次郎 又四郎 惣五郎 六右衛門 又右衛門 惣八 喜平 八兵衛 四郎兵衛 喜助 安右衛門 甚右衛門 善次郎 又七 六兵衛 安永七皮六月十三日相改リ 仲間中 文政九丙戌正月尓 家増政 茂七 惣七 定八 久乎 善右衛門 長八 喜左衛門 彦右衛門 いままでは真名井の清水を中心に紙漉業と黒谷の和紙の江戸時代以後の流れの概略をたどったものであるが、次に、ではいったいどのくらいの人々が、又、どのくらいの民家が紙漉業に従事していたのか、伊佐津村、黒谷村について表(表l、表2及び表3)にあらわしてみます。 表2を見ると黒谷の紙漉は明治初年では、全戸数の約90%を占めていてまさに全盛といえる。表三を見ると昭和になった現在も68.5%とかなりの戸数をしめているか、人数的には38%とひくく兼業的なようすを呈している。だが、現在もその製品は珍らしがられ、かなりの人気をあつめているようである。 〔おわりに〕 以上西舞鶴の中心に流れている真名井の清水をめぐって、様々な面から調べてみました。 舞鶴に住んでいる者が、舞鶴を知らをいとは不思議な話ですが、実際に、この研究のように一つのことについて追求してみますと自分達の無知が暴露されたような気がします。 真名井の清水も数年後には、その形跡を消してしまうかもしれません。そのためにも我々の研究が後年何かの役に立てばうれしく思います。 最後にこの研究にあたって多くの方々の御指導をうけたことに対して、あらためて感謝します。最後にあたって、この研究にあたったクラブ員の氏名を列挙します。 部長 福田秀夫 副部長 岡野加代子 堀 陵三 中西悦夫 〉 《舞鶴の民話3》 〈 真名井の水(中筋) 舞鶴には三つの明水がある。真名井の水、杉山の水、与保呂の水である。城南中学にプールがあり、七月のはじめプールに水をはる。真夏の太陽がさんさんと照る。しかるにプールの水は、一週間たつもまだ冷たい。中筋小にもプールがあった。丹後の学校でははじめてのプールだっただろう。これも地下水より水を満たしてきた。しかし現在のプールの水は水道水となった。丹後資料叢書によってこの事を調べてみた。 丹後国田造と号する所以は、むかし「天上」降臨の時、豊宇気大神は天香語山命と天村雲命に当国の伊去奈子殿に天降りませと教う。天之香語山命は天之道姫命と共に大神を祭り、神嘗をせんと欲するに及び、井水忽ち変じてよく神饌を炊くあたわず、故に泥の真名井という。これにおいて天之道姫命「葦」を抜き、以て大神の心を占う。故に名ずけて葦占山という。ここに天之道姫命は以て天香語山命に弓矢を授く。詔して汝三度其の矢を発すべし、飛んで留まるところ必ず清池なり。命は承知して其の矢を発す、当国の「矢原山」に至る。即時にして根を生じ枝葉青々と繁る。故に其の地名を「矢原(ヤブ)」という。其の地に「神薙(ヒモロギ)」を建て大神を遷し奉る。而して懇田を定めんと欲するに、巽(東南)の万三里許りに当り霊泉湧出す。故に天村雲命は其泉に泥の真名井の荒水をそそぎ以て和す。故にそれを真名井と称す。かたわらの天吉葛生す。そのひさごをもって真名井の水を盛り、これを進むるに神饌の長調度して大神に奉す。春秋田を耕し、稲種を施し、四方にあまねし、人民豊かる故に其の地を田造という。真名井又は笠水、白雲山の北部にあり、清らかにして鏡の如し、湧出する霊泉であり、その深さ三尺、其の廻り百二十二歩、炎旱に乾かず、霧雨溢れずして四時増減をみず、其の味や甘露の如く以て万病主治の霊機である。 〉 《中筋のむかしと今》 〈 中筋の近現代と水 明治から令日までの中筋の歴史を振り返るとき、中筋の生業を支えてきたのが、伊佐津川や高野川の水系の豊かな流れと伏流水であったことに気がつかざるを得ない。本文に紹介した『加佐郡誌』があげる米、麦、繭、蔬菜、和紙、工芸品など大正期の中筋の主要物産は、中筋の豊かな水の賜といっても過言ではない。現在の中筋の特産品である万願寺とうがらしもその例外ではないだろう。農業ばかりではない。この中筋の水は、戦前の郡是製糸や大和紡績、戦後の日之出化学など各工場の重要な立地条件の一つとなっていた。そして、中筋の水は、中筋校の校歌の一節「真玉白玉真名井の泉湧いて流れて我が中筋の広い学びの海となる」に象徴されているように、近現代の中筋の人々の間に、特有の美しい情緒を醸し出してきた。 しかし、反面、中筋の水は、時にそれが厄介なものになることもあった。七日市では、湿田耕作のために暗渠排水という独特の工夫が必要であったし、豊富で清い井戸水への愛着がゆえに上水道敷設が完了したのは、七日市では今から十数年前、公文名では数年前と、舞鶴では遅い方に属している。また、大雨が降ったり台風に見舞われたりすると、中筋の豊かな水が脅威に転ずることもあった。伊佐津川の堤防が決壊してたくさんの犠牲者を出した明治二十九年(一八九六)の水害や、堤防決壊の恐れありとして伊佐津川以西高野川以東の住民に避難命令が下った昭和二十八年(一九五三)の一三号台風のことは、今でも生々しい記憶となって中筋の人々の間に語り継がれている。中筋の豊かな水が作り出した皮肉とも言えようか。 [三川譲二] 七日市では、昭和十二年の耕地整理事業完了後、引続き暗渠の「排水路」工事を行ったが、元々この地域は湿田地帯で、この豊富な水(地下水)を排水する設備であった。 稲作の水が必要な時期は暗渠排水路を閉じ、灌漑用水を入れて水田とし、水が不要になると灌漑水を止め排水路を開き、暗渠を通じて地下水を排出し乾田とした。この設備は田一枚ごとに設けられた。 その構造は、排水路の芯には孟宗竹五本を束にし、その回りに柴・小枝を厚くそわし、更にその回りにウラジロシダを隙間なく張って水路とし、これを一枚(一○アール)の田に三本(個所)あて設置し、東西方向の暗渠に集めて、上から下へ各田をつなぎ、田から田への連結部分は土管で上流側の田の畦部分に土管を立ち上がらせ、その穴から止水板で地下水を調節した。現在も数基が残っている。 七日市地区の耕地整理面積二、七二○アールの五九%の一、六○○アールにこの暗渠排水工事を施し、二毛作を可能にしたのである。 暗渠排水の水は地下水できれいなので「お水道」(静渓川)へ流されたが、灌漑排水は一切お水道へは流すことはできなかったが、いつの頃からか流されるようになった。そのため、お水道に水草が茂ると水位が上がり排水ができにくくなるので、七日市・公文名両村の農家で水草を泥ごと取り除き水位を下げた。 現在は宅地化が進んで家庭排水で汚染されるため、七日市は非農家も出役し公文名の農家とともに「お水道掃除」として実施している。 この暗渠排水設備は、昭和四十年十月のダイワボウ(大和紡績)による中筋校南東(第一号・水量少ない)および四十一年七月のミナト電気商会北側(第二号)の地下からの工業(冷却)用水の揚水や、農地の住宅化に伴う家庭用ポンプによる地下水の揚水などで、以前から比べると地下水位が著しく低下している上、宅地化で埋め立てられたり、永い年月で破損や腐食もあり、一部残っているものの、現在ではほとんど利用されていない。 ダイワボウによる二ヶ所からの地下水の揚水は、七日市変電所付近の「オブロ池」や七日市四叉路付近の「種池」、近辺の池、それに真名井の清水などの水位に表れた。江戸時代から近所の生活用水であった種池の水位は下がり利用出来なくなり、水路への流れは止まったし、近辺の水のかれた池は埋められた。また、真名井の清水の洗い場も水位が下がり使いにくくなった。しかし、ダイワボウの休業日には水位が上昇したという。そして現在も五月から九月までの期間だけであるが、日曜を除いて毎日揚水されていて、底溜めの種池の水も日曜にはいくらか水位の上昇が確認できるという。 このように現在では、地下水位が著しく低下しているため、稲作用水の主な水源は伊佐津川で、「上井根」(秋葉橋の北側)と「下井根」(九枠橋の北側)二ヶ所の井堰を管理して水量を調節し、七日市全部の田に配水している。伊佐津川がかれたときなどには、秋葉橋近くの清水池の水をポンプで揚水して各田平等に配水するよう協力し合っている。 昭和五十三年の大渇水では清水池の水を二人ずつの徹夜交代で上から順次配水したが、ついに底をつき池の底を掘り下げての懸命の送水作業が行われた。近年は多くの田が宅地化され、稲作面積が減ったため伊佐津川の水がかれても昼間だけの揚水で済み水当番をすることはあまりない。 この清水池のほか、オブロ池も利用していたがオブロ池は水量が無くなり、平成年代に入り井戸枠を入れて蓋がされたが、現在はパイプを打ち込み非常時の備えはされている。[福田秀夫・事務局] 〉 真名井の池の看板は代わって、最近は次のように書かれている。市が建てている。 〈 平成の名水百選 真名井の清水(まないのしみず) 平成20年6月環境省選定 由来・歴史 白雲山(場所不明)から三本の矢が射られ、落下したところから清水が湧いたという伝説があります。奈良時代の「丹後風土記」の中では「その味甘露の如し、万病を癒す力がある」と記され、当時から語り継がれる名水です。伏流水は流域一帯で涌き出し、この池の約二百メートル上流にある湧水池「一升」の他に「三合」、「五合」、「しゅうず」「幾白(いくしろ)」と呼ばれる湧水池があります。 清水の環境 一日に約一万一五百トンの湧出量を誇る真名井の清水は、伊佐津川の伏流水が誘き出しているものといわれております。湧水池や流域水路には、魚や亀などが生息し、ヤマトミクリやコカナダモ、エビモなどの水生植物が多数自生しています。 真名井の清水は、江戸時代より田辺城の城内へ引き入れられ、湧水を利用した都市上水道として日本最古ともいわれています。 城内へ引き入れられていた水路は「御水道」と呼ばれており、湧水池やその水路の雑草を掃除する保全活動は「御水道掃除」と呼ばれ、江戸時代から現在もなお地元自治会により定期的に行われています。 注意事項 平成の名水百選の認定は、飲用に適することを保障するものではありません。 飲用は自己責任であることをご理解ください。 携帯電話でQRコードを読み取ってください。 舞鶴市の名水育選ホームページにつながります。 舞鶴市 〉 これも間違いである。根本的には理解できていない。自分の足で広く歩き、自分の目で史料を広く見ていない。しかし仕方もないのである、彼も誰にも教えてもらったことがない、公教育とは名ばかりでガッコーの歴史教育は偏向していて、自分が生まれ育った郷土の歴史などは何も教えてはくれない、どんな秀才でも教科書を読み、教師に教えてもらっている限りは、そうした周囲の軽薄な風潮に流されているだけのカマエでは地元の古代についてはこの程度の認識にしかたどりつけない、それでも周囲からは優秀生などと言われてきたのだろう。地元郷土史家も偏向していて、田辺城と幽斎様しか知りはしない。その結果のこの文章である。この面から見る限りは日本にはマコトの学校はなく、民間のマコトの研究機関もない、文化もない教育もない野蛮の極地をいくスンバラシイ国である。 そしてイッチョマエに口では「国や郷土を愛する態度」を教えるなどとネゴトを言うが、そう言う当人どもが愛していない、アメリカとゼニと当人自身しか愛してはいないのがマル見えのうすらトンカチなのだから、こんなクソの口先だけでは国も郷土も次世代も育つわけもなく、荒れ放題で、育つのはゼニとヤシとイナチキだけである。 そしてカンコーカンコー、どこのバカがこんな地元の人間すら興味を向けない、知りもしない不案内の地を見に来るのであろう。ノーナシ行政はカラッポの箱を作って税金を湯水のごとくに捨てるばかり、こうしたカラッポアホのやり方ではカンコーカンコーカンコー何100万人が来ましたのノーテンキ行政施策にすら影響が大きく出ることになろう。どこでもあるような顔しかない金太郎アメの没個性、ワンパターンの荒廃し人が去って行く地域社会では未来はない。マコトに郷土を愛する人達のマトモな努力しか今は何もない。 一日も早くこの池の説明がキチっと書ける人材の登場が望まれる、しかし今のようなことでは千年先でもむつかしいかも… 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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↑《舞鶴市史》より ↓《中筋のむかしと今》より |
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