丹後の地名

万願寺
(まんがんじ)
舞鶴市万願寺



↑頂き物です。当地は「万願寺甘とう」のふるさと。 

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京都府舞鶴市万願寺

京都府加佐郡中筋村万願寺

万願寺の地誌




《万願寺の概要》

満願寺とも書いた。地内の満願寺の寺名が転化したものという。西隣の七日市村の枝村だったと伝わる。西舞鶴の南部、伊佐津川の東岸、九枠橋のあたりである。農家と一般住宅が混在し、宅地分譲が進む。西部に九枠橋が架かる。川沿いに府道舞鶴綾部福知山線が走る。
農業のほかに製瓦業があった。当村の伊佐津川近傍は夏秋に水害にあい、東方の山地は旱害にあった。という。
万願寺村は江戸期〜明治22年の村名。同22年中筋村の大字。昭和11年舞鶴町、同13年からは舞鶴市の大字。
川下側に菖蒲台団地や伊佐津川荘苑ができている。

《人口》529《世帯数》199

《主な社寺など》
伊佐津川東岸丘陵の南斜面一帯にある菖蒲谷遺跡は、弥生式土器・土師器・須恵器・瓦器などの散布地として知られる。寺院跡もある
秋葉神社後方に山崎山に円墳
満願寺の北方山上、佐武ケ岳の尾根続きに坂根修理亮の家臣の居城であったという万願寺城跡
九重神社
熊野神社

真言宗御室派西紫雲山満願寺には市文化財の十一面観世音菩薩・不動明王・毘沙門天像がある。
満願寺(舞鶴市万願寺)

『丹後国加佐郡旧語集』
 〈 万願寺 西紫雲山  不動院 円隆寺末
          境内二百九十坪
  人王八十四代順徳院御宇建保年中建立
 開基 弁円上人
 観音堂 本尊十一面観音 運慶作
 脇士 不動 昆沙門
 熊野権現 鎮守
 稲荷大明神
 僧坊 九間ニ三間半
 縁起之意
 往古無円と云僧夢惣の事有て丹後国の山に入 翁の教に由て和州長谷寺の観音像木の余りを求十一面観音の像を彫刻す 因茲長谷の観音一体分身とす于時建保六年其後此地二垂跡紫雲たなひく爰を以て西紫雲山卜号無円宿願成就せし故万願寺と号と云 永禄年中野火に由て寺院不残焼失ス観音ハ躍リ出給ひしとて無恙 其後智恩院円隆寺中宥宣大僧都此所に来り仏像を叢の中に無恙を見て取上纔に堂を建天和年中開帳造営し昔の万か一なり 委敷縁記別巻にあり
 祐栄口演に往昔此答を不動谷と云寺中広く今の寺の己午の方谷合本坊にて其時の庭石今に有 坊中多く今者田と成田の名に何坊彼坊と其時之坊号を唱るなり 今の寺の下小川に小橋あり昔の二王門此所に在し由 村の入口制札の有所昔の惣門なる由依テ其辺田の名を亦惣門と呼よし
 長谷寺観音ハ元正帝御宇養老五年ニ始る由 建保六年迄四百九拾二年に及此時迄像材不朽有し事奇妙の事也 建保の頃武将ハ右大臣実朝公将軍たり俊次云六拾年斗以前今の寺の向北の方に小庵あり老女あり諸願之人此老女に頼めば彼老女即仏前に行観音ニ向ひ人に語る如く願望を云祈念す 効験ありし由殊之外時在しいつとなく水清之方繁昌して万願寺者淋しく成ぬ  〉 

『加佐郡誌』
 〈 西紫雲山満願寺、真言宗、健保六年創立、中筋村  〉 

『丹哥府志』
 〈 【紫雲山万願寺】(真言宗)
紫雲山万願寺は元大伽藍なりといふ、今田間に其坊の名處々に残る。文禄年中火災にかかり殆ど廃院となる、今其十の一を存す、其頃細川忠興真言宗の寺四十八ケ寺を滅す蓋其一なるべし。今縁起といふもの年暦明ならず、よつて取らず。  〉 

『舞鶴』
 〈 西紫雲山萬願寺
 舞鶴町の南中筋村萬願寺に在る眞言宗の寺院で萬願寺不動院と称して居る、十一面観世音は建保年間長谷寺の像材の余りを求めて運慶をして刻ましめたもので釈弁円の開山にかゝり其の縁起については極めて神秘的な説がある。  〉 

『中筋のむかしと今』
 〈 西紫雲山満願寺の本尊は十一面観音菩薩で、鎌倉時代初期の建保六年(一二一八)に、大法師弁円によって造立されました。十一面観音は模刻であることが膝の裏に書かれた文からわかります。天台宗横川方式の十一面観音・不動明王・毘沙門天の三体三尊として祭られています。三体いっしょに舞鶴市の文化財に指定され、秘仏十一面観音のご開帳が平成十四年に行われて、たいへん賑いました。
 かって惣門があり、大きな伽藍だったようですが、永禄年間(一五五八〜)に火事にあって焼け落ちました。「聖像躍って」難を避けたと伝えられています。
 山崎神社の棟札によって、慶長十二年(一六○七)に満願寺奥之坊がいたことが知られます。
 寛文年間(一六六一〜)に円隆寺の智恩院宥宣院主が堂宇を再興し、天和三年(一六八三)に開帳供養をしました。これ以後智恩院末となりました。
 寛延四年(一七五一)不動院隆範が山崎神社で供養しています。
 明和四年(一七六七)円隆寺の良貞上人が不動院主泰教を助けて、今の本堂を建立しました。  〉 


《交通》
府道舞鶴綾部福知山線

《産業》万願寺甘とう(パンフより)
万願寺とうがらし
今は当地外でも栽培され出荷されているが、当地こそが当品種の発祥の地である。当地の地名が命名されているとうがらし、というのかピーマンというのか、その合の子品種である。
もともとは自家用に当地で栽培されていたものという。ウマイということで口コミで栽培が広がり、京の伝統野菜の第一号。平成元年にブランド認定を受けたそう、このあたりのハウスで栽培されている。トウガラシなのでまれに辛い物もできるが、たいていは辛くはない。
「肉厚で食べ応えのある大きさ、深みのその味わい。ビタミンAやビタミンCが多く含まれ、特にビタミンAはピーマンの2倍含まれて、夏場のビタミン補給に最適又食欲増加効果のカプサイシン類が多く含まれています」とのことである。トウガラシが大型化して青いピーマン化したような見た目をしている。味は確かに結構なもの。ぜひどうぞ。ネット販売もあるとか。
「甘とう百科」

万願寺の主な歴史記録

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 西紫雲山満願寺は真言宗田辺円隆寺末寺、開基弁円上人、順徳院の御宇建保年中より元禄十丁丑まで四百八拾四年、観音堂三間四方に之を建なり、本尊十一面観音、運慶作。鎮守熊野権現。  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免六ツ
万願寺村 高百三拾壱石壱斗三升六合
     内拾弐石八斗四合 万定引
     十三石御用捨高
 古城 坂根修理
 三社権現 鎮守也 不動院持
  初ハ山上ニ在シ伊佐津堤騎馬ニテ通ル人度々怪我在シトテ山下へ移ス 其後中嶋次太夫差図ニテ今の所中段へ移ス
         不動院
 万願寺 西紫雲山 円隆寺末
               境内二百九十坪
   人王八十四代順徳院御宇建保年中建立
  開基 弁円上人
  観音堂 本尊十一面観音 運慶作
  脇士 不動 昆沙門
  熊野権現 鎮守
  稲荷大明神
  僧坊 九間ニ三間半
  縁起之意
        (想カ)
 往古無円と云僧夢惣の事有て丹後国の山に入 翁の教に由て和州長谷寺の観音像木の余りを求十一面観音の像を彫刻す 因茲長谷の観音一体分身とす于時建保六年其後此地ニ垂跡紫雲たなひく爰を以て西紫雲山ト号無円宿願成就せし故万願寺と号と云永禄年中野火に由て寺院不残焼失ス観音ハ躍リ出給ひしとて無恙 其後智恩院円隆寺中宥宣大僧都此所に来り仏像を叢の中に無恙を見て取上纔に堂を建天和年中開帳造営し昔の万か一なり 委敷縁記別巻にあり
 祐栄口演に往昔此答を不動谷と云寺中広く今の寺の己午の方谷合本坊にて其時の庭石今に有 坊中多く今者田と成田の名に何坊彼坊と共時之坊号を唱るなり 今の寺の下小川に小橋あり昔の二王門此所に在し由 村の入口制札の有所昔の惣門なる由依テ其辺田の名を亦惣門と呼よし 長谷寺観音ハ元正帝御宇養老五年ニ始る由 建保六年迄四百九拾二年に及此時迄像材不朽有し事奇妙の事也 建保の頃武将ハ右大臣実朝公将軍たり俊次云六拾年斗以前今の寺の向北の方に小庵あり老女あり諸願之人此老女に頼めば彼老女即仏前に行観音ニ向ひ人に語る如く願望を云祈念す 効験ありし由殊之外時在しいつとなく水清之方繁昌して万願寺者淋しく成ぬ  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎万願寺村
【紫雲山万願寺】(真言宗)
紫雲山万願寺は元大伽藍なりといふ、今田間に其坊の名處々に残る。文禄年中火災にかかり殆ど廃院となる、今其十の一を存す、其頃細川忠興真言宗の寺四十八ケ寺を滅す蓋其一なるべし。今縁起といふもの年暦明ならず、よつて取らず。  〉 

《加佐郡誌》
 〈 万願寺は田辺郷に属して古くは七日市の市枝邑であったが何時の頃からか分離して同地古刹の名を其侭に字名としたのである。寺の名は紫雲山万願寺といひ順徳天皇の建保六年僧弁園が大和長谷寺の観音の像材のあまりを求め十一面観世音の像を刻み之を本尊として開いた所であるとせられている。万願は満願の意で弁園の名づけたものである。然るに其後正親町天皇の永禄年間の火災に罹って堂宇が悉く焼失したが右の本尊だけ叢の中に無事に落ちて居たのを百二十年後、円隆寺の僧宥室が拾ひ上げ些かな堂を建てて霊元天皇の天和年間に開帳したやうに伝へられている。今附近の田畑の名になほ当時の坊の名が残っているから昔の有様が想像される。万願寺に古城址がある。坂根修理亮の居た所であるといふことである。  〉 

『まいづる田辺 道しるべ』
 〈 万願寺村
 万願寺村の村名の由来は、地内満願寺の寺名をとって付けられたものといわれる。満願寺の寺名由来は、僧無円が大和長谷寺にある、観音像を作った際の余木で十一面観音像を彫刻したところ、紫雲がたなびき宿願成就したことから、紫雲山満願寺と号されたという。(丹後旧語集)
 万願寺村は、往古七日市に属していたが、後に独立した村で、延享三年(一七四六)の農家戸数は十五戸であったと記されている。
 さて、万願寺村内の旧道について旧語集に、
「今の寺の下、小川に小橋あり、昔二王門此所に在し由、村の入口制札の有所、昔の惣門なる由、依て其辺田の名を亦惣門と呼よし」
 この「惣門」と呼ばれる場所がどこであったか地元の山口氏よりお聞きしたところによると、
「境谷方面より山麓沿いに万願寺村へ入ってくる旧道と七日市より伊佐津川を渡り万願寺に入って来る旧道とが万願寺内で合流する三叉路の西側に昔、寺あり(寺名不明)。この寺の山門が万願寺川に面して建っていた。地元ではこの山門を惣門と呼んでいた」
 この辺りの地名を地元では「元寺屋敷」と呼び以前まで多くの地蔵さんが祀られていたと伝えられている。ここ、三叉路は万願寺内の交通の要衝にして当然高札があったと思考される。
 この外に昭和三十六年に万願寺川改修護岸工事が行われた際、万願寺下の薮内敏夫家辺りの前の川より山門の礎石三個(長サ約一メートル、幅約五十センチ、厚サ三十センチ)が発掘確認されている。この山門は前記の惣門とは異なる万願寺の山門であると思考された。
 これより池内谷へ通じる旧道は、元寺屋敷の岐路より万願寺川に沿って少し遡り、山口明氏宅前辺りで南側に入る。そこには三尺ばかりの農道があり、この道がかつての上林街道であった。
 ここにでてくる山口明家は、京極時代、伊佐津川瀬替工事奉行であったと伝えられる山口長左衛門の家である。当主の話によると、鎌倉時代から当地に居住し江戸時代には庄屋を勤めた旧家で、伊佐津川瀬替工事で犠牲となった娘の名は「あや」といい、今も丁重に供養を行っているとのこと。  〉 


『中筋のむかしと今』
 〈 万願寺
 地名「万願寺」は、鎌倉時代初期に、当地に開基された寺「紫雲山満願寺」の名に由来すると云われる。七日市村の枝郷「満願寺村」の名が江戸時代に入って初めて現われる。江戸時代中期の村の人口は九○人程度、明治七年九月の戸籍取調べでは農家が主で三三戸、一四一人とされている。
 万願寺地区は、伊佐津川東岸の山麓に位置し、南は池内校区、北は「境谷」と接している。昔の集落は万願寺城址のある「上ノ山」の山裾(旧地名「山ゆり」)」に在り、万願寺川、伊佐津川沿いが主たる農耕地であった。
 「今田」に通ずる村中の南北の道(通称なかみち)が旧京街道(上林街道)であったと云われる。
 この地区は戦後までは近郊農村として、あまり大きな変化もなく推移してきたが、昭和四十年代後半に入り、農地の宅地化が急速に進み、同五十年代中頃、在来の「万願寺」の川下地区に「伊佐津川荘苑」と「菖蒲台」の新町内会が生れた今では世帯総数四○○に迫り、いくつかの事業所もある。都市計画図面では、地区には住居地域と市街化調整区域が混在する。
 明治中頃に約一五町歩あった田畑は、近年の開発と谷田の山林化で半減した。平成十二年度農業センサスによると、農地所有者二六戸の全耕地面積は六・八ヘクタールである。
 在来の「万願寺町内会」は、昭和四十六年頃から六十年過ぎまで世帯数が増え続け、現在二○○世帯前後で隣組は一三組まである。
 この間、五十一年に町内会則を制定、その後平成四年に見直し、現会則の基本が生れた。長の名称が区長から町内会長になり、新会則では毎年次の五年間の会長候補者を決めるなど、新しい役員選出方法をとった。
 新町内会では、住民の親睦と融和が何より大切と考え、共同参加できるスポーツ、お祭りなどに注力した。スポーツでの成果は昭和五十三年以降から最近まで、区民大運動会、親善ソフトボール・ソフトバレー、チビッコソフト大会などでの何度かの優勝の喜びにつながった。
 伝統行事としては、盆踊りで賑わう観音夜祭り(八月十七日)、樽みこしと太鼓やぐらが町内巡行する熊野権現秋祭り(十月)、山の神さん(十二月)があり、こどもたちの大きな楽しみとなっている。
 この地区では戦前から野菜の栽培が盛んで、その代表がこの地で生れた『万願寺甘とう』(舞鶴特産品とうがらし)である。今では「京のブランド産品」の一つに認証されている。
 歴史的に古く貴重なものとしては、「菖蒲谷口遺跡」・「万願寺古墳群」・「満願寺観音本堂(秘仏の本尊十一面観世音菩薩像を含む仏像三躰は市指定文化財)」・中世の佐武ヶ岳城支城「万願寺城址」があげられる。僧弁円上人創建の満願寺については、大伽藍を擁する大きな寺であったと伝えられており、残された地名などから往古の巨刹を偲ぶことが出来る。[山口道夫]  〉 

万願寺の小字


万願寺 カセハ 菖蒲谷 ヨロヅ 九重 家前 宮ノ上 フトエ 南谷 北谷 上ノ山 西ノ坊 スコ谷 山由里

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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