内宮(ないく)
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京都府福知山市大江町内宮 京都府加佐郡大江町内宮 京都府加佐郡河守上村内宮 |
内宮の概要《内宮の概要》 元伊勢内宮(皇大神宮)の門前町である。宮川の中流域に位置し、地内で北原川などの小河川が流入する。地名の由来は、崇神天皇39年天照大神が丹波与佐宮に遷幸、4年間鎮座した(倭姫命世紀)旧跡とされる内宮があることによる。 内宮村は江戸期〜明治22年の村名。天正8年細川藤孝・忠興領、慶長6年からは宮津藩領。旧語集に「宮村」、近世の地誌「丹後風土記」は「内宮町 外宮より半里あり、町長し宿駅なり、人家五六十軒」と記す。町の形態から火事の被害は甚大で、「滝洞歴世誌」享保元年(1716)4月3目の記事に「夜四ツ時に内宮の町不残焼失」とある。貝原益軒の「西北紀行」には、「内宮町長し、宿駅なり、御社は町より三町許坂をのぼりて山上に有、(中略)此辺より染蒟蒻、荏油等多く出づ。今夜は内宮の旅館に宿す。」とある。という。 内宮村は江戸期〜明治22年の村名。内宮は明治22年〜現在の大字名。はじめ河守上村、昭和26年からは加佐郡大江町の大字、平成18年からは福知山市大江町の大字。 《内宮の人口・世帯数》106・42 《主な社寺など》 昭和初期台地の畑から数十個の石鏃が発見され縄文−弥生時代の遺跡(梅ケ平遺跡)。 古墳後期の円墳3基が現存。 皇大神社は伊勢国皇大神宮の祭神がかつて鎮座した社と伝えられ、元伊勢内宮とも称し、近くに「天の岩戸」がある。広大な境内と、昼なお暗く繁る大杉は由緒の深さを物語っており、雨乞い祈願を起源とする八朔神事は毎年9月1日(第一日曜)に行われ、近郷の参詣者でにぎわう。 弥加宜神社 《交通》 府道綾部大江宮津線 KTR「大江山口内宮」駅 《産業》 内宮の主な歴史記録《丹哥府志》 〈 ◎内宮村(二俣村の次) 【内宮天照皇太神宮】(元伊勢太神宮といふ) 境内八幡宮、春日社、権現社、八十末社。 【付録】(三日月大明神、山神、荒神森) 〉 《大江町誌》 〈 村の今昔 (1)社家・御師・神子 皇大神社奉斎の往古の慣行は審らかでないが、江戸時代初期の「明暦文書」によって、その輪郭を偲ぶことができる。 「当村皇大神社 往古ヨリ天保午年(一八三四)迄 社家三拾六名則チ御師ト申ス者 社地共一切守護シ候處 明暦四年(一六五八)代 河田伊賀(に神主を委嘱した時、神主と社家の問に契約が結ばれた。その)定約写左ニ記載ス」とあって、八か条の契約書を残している。 (註) ○神主八月六日御戸ヲ開キ…参詣ノ者十二銅ヲ上候節ハ御祓壱枚宛遣シ候事 ○祈祷ハ惣社人中立会 御初穂ハ総割着致スヘキ事 ○賽銭ソノ外不残 総社人ニ相納可申事 ○御社御普請諸入用 旧格之通リ惣社人中致シ可申候 神主ハ構無御座候事 ○小神楽御祈祷 拾弐匁以上ハ双方立会相勤可申候事 ○右何レモ社人神主神子一人相勤候事相ナラズ候事 明暦四年代十月 日 (以上「区有文書」より抄出) この書留による限り、社家が祭祀に大きく関与したときがあったことになる。 別文「社人伝書」(奥松家文書・区有文書)ては、佐藤・市瀬・岩田・荒木・奥松・的場・公庄・広瀬の八家を社人としてあげ、 「慶長十七年近江国河田 八幡社人狼人者…二又村右衛門太夫ニ足留メ(たのを機会に)社人惣相談の上…御神前ノ御供上ゲおろし頼ミかぎヲ預申シ此時規定ノ一札請取申候」 としている。 この文書は丸子親王や平井保昌の伝承をからませ、なお疑問は残るが、寛永三年(一六二六)の記年がある。恐らくこの当時の伝習を整理したものであろう。より確かな史料は、文化五年(一八○八)、内外両宮が改建され正遷宮が行われたとぎ、神殿の棟上げ礼に、二俣村社中三二人内宮村社中三六人、神子朝輝安治郎、神主河田能登、大工木挽三○人の氏名を明記した写しの存在することである。 これらの社人は、現在本殿を囲繞する八十余社の末社を分けて奉斎し、若狭・但馬・丹波をはじめ遠く山城・摂津まで広く行脚して、神札配布や祈祷布教に従った。太々神楽奉納の献額の一部は後に整理されたものがあるというが、現存のものでも信仰圏の広がりを見ることができる。 「末社神号並ニ社人」(「区有文書」)は、これらの末社をどの社人が奉斎していたかという往年の区分を明記している。昭和五十八年小野宮司の特志を得て、現に末社に内蔵されている棟札の記名が、前記記録と一致することが確認されたが、この記名は市瀬八太夫・芳賀角太夫などとあって俗名はわからない。記年のある札は寛永〜明和の間が多い。 以上で社家社人が神威を崇め社を護持するのに大きく寄与した歴史をみたが、奉賛の伝統は地方一円にも極めて強い。神殿改築の用材引きには「用材は馬谷辺にあるのに、引綱の先頭は鳥居下で引いたそうな」とすると、引子の列は延々五○○メートルの長蛇であったことになる。明治三十一年、鳥居建換えには、周六尺の檜が寄付されこの仕事に字全体が三日間家業を休み奉仕したという。 これらの基底があったからこそ、享保〜文化のころ、内外宮が改築され遷宮の祭りが執行されたときには、近郷あげて幟や錺が奉納され、芝居、踊の奉讃行事がくりひろげられて、「福知山より宮津まで宿詰りてなし」(覚書牒)という大衆の熱狂的なお詣りがあったわけである。 (註)入手された史料の都合で、内宮社の記事を中心としたが、上述の奉賛行事は、ほとんどすべてが外宮の祭祀行事と共通するものである。 (2)町並み・間取り・職業 宇治橋(この名称は既に文化年代伊能忠敬の手記に見られる)を渡ってゆく参道の両側に櫛比する家々は、ほとんどが特有の「屋号」をもち多彩な職業のひろがりを示している。(図)これらの家は、専業の「旅籠屋」と共に、旅客を応待するにふさわしい特有の間取りになっており、参拝の客を応侍し、必要な時は宿泊させて民宿的機能を発揮した。(図参照) 内宮村の名物に小判型焼菓子があった。これは小さく切った餅片を焼型に挟み焼き上げるもので、二枚ずつ紙帯でくるんだもの七箇が一銭。(明治末年)通りの家では板戸をはねおろした屋台に並べて売り、裏町の家は境内へ出て商った。小判売りが年中無休であったのは、参拝客が賑わった証拠であろう。 門前町内宮村を特徴づける一つは、その多彩な職業分布である。生活の基底に広く農業養蚕が行われたのは当然として、例を明治十八年村が府へ届け出た資料によると、推計戸数七○の内 (イ)旅宿九(届ては神官も宿屋兼業としている) (ロ)諸商い一三(呉服・小間物・荒物・火口・米・蝋燭等の商い。届では医師的場直峯を陸運に含めている。余業に逓送受付でもあったか) (ハ)工業六(下駄・大工・木挽・鍛冶・紙すき) (ニ)その他九(飲食・酒造・博労等) 計三七戸 右の職種の典拠は新しいが、これらは一朝一夕になったものでなく、次項の宿駅的性格と深くかかわるものであろう。総戸数の半ばが、一方に米を作り作らせつつ、多様な生活を開拓したと思える。職業の中の異色は「火口商い」で、これは火打石で打出した火を、引火して大きな火にするための助燃材で、蒲の穂に硝石末を加えたもの、材料は由良河口の油江、蒲江から俵づめで仕入れた。その商圏は大俣、物部辺へ広がっている。(脇田家文書) 明治中期以後は製糸・製紙業の機械化が図られ新企画も試みられる。(別項参照) (3)博馬継場内宮村 藩政時代の内宮村は、福知山〜宮津を結ぶ往還の荷継ぎの中心として重要な地歩を占めていた。それを証言する史料が脇田家文書である。 脇田家文書 昭和五十八年脇田家から提供された一連の資料は、文政年代(一八一八〜)から明治末年に至る厖大な公私の記録で、その中ここに引用した博馬記録は、文久三年十一月〜同四年十一月迄まる一年間に内宮村を往来した旅客の荷継に動員された人夫明細である。件数一一一項にはそれぞれ朱△印を入れて整理している。 (原文抄出本節末尾・史料補遺) (イ)人夫徴用 街道を往く旅客(本帖の記入では圧倒的に武士)の荷物運びである。旅行者は日程が決まると、予め先触状によって順路の村々へ夫役割当が予告され、人夫や馬が準備ざれ代銀も支払われる。人夫数がやたら多いと、内宮一村ではこなしきれない。(七月の八四人など)こんな時は臨時に二俣や外宮へ応援を求めた。この例が年内一一回ある。 (ロ)賃馬 時によると賃馬が割り当てられる。荷継ぎの駄馬は、本馬で一匹二○○文、人だけが乗る軽尻で一四八文の公定賃があった。(文政七の例) 文化三年八月の触れでは、二俣五、天田内三、内宮六、計一四疋の馬を申し付けている。これをどう消化したか詳細はわからないが、或は馬匹で役馬需要をある程度満たしたかもしれない。後年(明治十一年)の調査で二俣二、天田内五、内宮六の馬匹所有が載っており、仏性寺村年貢控に、馬喰九匁の上納がみられる。(文化十五) ただし別の資料では「当国ノ儀ハ山坂道多キ土地柄デ 馬トテハナク 木馬軽尻等ノ馬ノ荷モ残ラズ人足デ持越ス」(史料編三九九頁口上書)ので格別多くの人夫が必要だと訴えている。 (ハ)頻度 何にしてもこの一年間の人夫総数は、延べ一、三八七人、うち二俣や外宮天田内の応援人夫三八六人を差し引くと、内宮村は年内ざっと一千人の人夫を一一一回にわたって徴用されている。当時の戸数は七七戸だから、一戸平均年に一三人が呼び出され、三日ごとに誰かが出役したことになる。農耕の手間を考えるとやりきれぬ頻度である。 前出の口上書で、沿道一二か村の庄屋達が「俄かな人夫かり出しの時は、野良や山へ仕事に出ている者を呼集めてかり出す手間はやりきれぬ」とボヤいているのは無理もない。内宮村の「郷夫人足帖」(元治元年)では村の総世帯を五組に編制して、元締を作り出役順を協定しているが、この割当に神主も医者も後家も含めているのは、村中で人夫負担をかぶった、いわば公の夫役を、公平に負荷したもののようである。 試みに慶応四年(明治元年)山陰道鎮撫使が丹波丹後の幕府方勢力をつぶしに廻った前後をみると、流石にこの時この街道を通った家中武士のあわただしい往来がみられる。同年一月二十三日宮津藩は朝命奉戴の誓詞を呈出して恭順の意を表すのだが、九日、七組の武士団延べ五七人が、十日、六組五八人の家士が、十四日七組四九人の藩使が、いずれも昼夜を問わぬ急使としてかけぬけている。肩書きは、宮津藩役人・官軍御用・因州・出石・園部・長州等の公用役人たちである。 こうして上から強引に押しつけてくる荷継人足の請求は、賃銀の支払いを受けてはいるが、村の課役の大きな部分を占めたため、庄屋交代の引継書中には「人馬継立札 壱枚」・「郷中人馬継立帖」が明記されている。(「脇田家文書」) 〉 内宮の小字内宮(ナイク) 向山 下河原 早谷 中河原 幾堂由里 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『大江町誌』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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