中山(なかやま)
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京都府舞鶴市中山 京都府加佐郡加佐町中山 |
中山の地誌《中山の概要》 中山は舞鶴市の西部。由良川下流右岸に位置する。北流する由良川に並行して川ぞいに府道西神崎上東線が走る。 南部は由良川に架かる釣り橋・八雲大橋によって対岸の丸田を走る国道178号と接続する。 対岸の和江との間に渡しがあった。地名の由来は、安寿姫が泣きながら当地を通ったことから、「なきやま」が転じたともいう(新舞鶴案内)。天正年間から中山村と称したと伝える(府地誌)。天正6年一色義道は細川氏の丹後攻めにより建部山から敗走して、当地内の中山城に拠った、しかし臣下沼田幸兵衛の謀反のため、由良川畔で自刃したという(加佐郡誌)。沼田幸兵衛のものと伝える古塚や、古城跡が残る(府地誌)。 由良川と城のあった山の間の狭い位置に立地して現在では交通の難所である。集落の一部は自然堤防上にある。村内を宮津街道が通る。古くは街道の宿場町・渡船場として知られた交通の中心地であった。当村から由良川対岸の和江村に渡ったという。小字名に 中山村は、江戸期〜明治22年の村名。中山は明治22年〜現在の大字名。はじめは東雲村、昭和3年八雲村、同30年加佐町、同32年からは舞鶴市の大字となる。 《人口》43《世帯数》12。 《主な社寺など》 由良川中学校 八雲大橋南の府道沿いの丘陵に山中古墳群(4基)、その西の由良川に縄文時代〜平安期の土器が発見された八雲遺跡。 八雲大橋から南の隣接地下東にかけて 一ノ丸地区に中世一色氏の臣沼田幸兵衛が築いた山城(中山城)址がある。城山に八幡神社が鎮座。 中山集落の南に中山城跡(地籍は水間)がある。城主は一色左京大夫説、沼田幸兵衛説がある。「田辺旧記」によれば天正七年(一五七九)近くの建部山城が落城し、一色義道は搦手下東谷より中山城に入ったが、沼田幸兵衛は、細川藤孝に内通し落城したという。集落の東南、大船峠の下に一色義道の墓があるという(丹哥府志)が不詳。 曹洞宗舞鶴桂林寺末祥雲寺 《交通》 《産業》 私のオヤジは、ワタクシゴトで申し訳ないが、「池雲」というお酒が好きだったが、そのお酒は、ここの池田酒造さんで造られた地酒である。現在も製造されているようである。 「池田酒造」 中山の主な歴史記録《丹後国加佐郡寺社町在旧起》〈 中山村 昔一色左京太夫城郭を構ゆ細川越中守丹後一国領知のとき在々所々の山城悉責潰す然と雖もこの一色ばかり手に合わず細川智略を以て息女を嫁婿に仕し給へとも三年安心せずその後年始めの礼として登城の節これを討つ、後は細川家臣沼田幸兵衛城主にせしむ。 宝泉寺祥雲寺は禅宗(現在はない)法遠山妙長寺(九州へ移転した)は日蓮宗今は絶たり。この在唐網曳網を以て川魚を猟するなり、往来の渡舟あり川幅二町余り渡し守毎歳米貮石宛切米となしこれを下賜、これより川下に至る瀬戸嶋、元来寺嶋と云う、同所千草嶋、蒲江の城嶋又 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 定免九ツ三分 中山村 高五拾五石八斗壱升 内九石四斗六升弐合六勺 万定引 三石抑用捨高 古城 細川時代 沼田小兵衛在城 左京家臣 沼田幸兵衛ト云説モ有 妙長寺 法遠山 今ハ寺無ク屋敷斗妙法寺ノ末寺也 享保十二 年京都妙顕寺ヨリ申来山号共本山へ取上 祥雲寺 桂林寺末 高倉八幡宮 八月朔日祭 角力有リ 氏神 妙見権現 未社 稲荷 北野御前 〉 《丹哥府志》 〈 ◎中山村(下東村の次、西和江村より舟渡しを渡りて中山を経て福井村を通り田辺へ出る北国街道) 【城山八幡】 【法晴山祥雲寺】 【法遠山妙長寺】 【沼田幸兵衛城墟】 沼田幸兵衛は一色氏の臣なり。天正六年正月廿一日一色氏の本城建部山細川藤孝の為に陥る、於是一色義道遁れて其徒沼田幸兵衛中山の城に據る、沼田幸兵衛元より長岡氏に志あり、是を以て陽は一色氏に従ふといへども実は長岡の為に謀るなり。細川藤孝一万五千の兵を率ひて之を攻む、されども大江越中、高屋駿河、近藤兵庫、原紀伊、金谷伊豆、山口弾正、荒川帯刀、赤井五郎左衛門、大村長門、氏家大和、杉山出羽、塩見筑後、白杉主税、横田伝太夫り輩力を尽して防戦す、是を以て容易に堕ちがたく戦三日に及ぶ間廿四日松井佐渡守秘に謀をめぐらし沼田幸兵衛をして城に火を放たしむ、機に乗じて之を攻む、一色氏敗続す、今八幡の南に一色義道の討死の墓あり。義道の子義俊中山の城より遁れて与謝郡弓木の城に據り細川藤孝と戦ふ、義俊の人となり男猛にして智略あり、賢其先詮範に譲らず、是を以て藤孝が力に及びかね遂に和を求めて其女を之に妻はせ欺いて之を殺す、是時又沼田幸兵衛の事あり弓木条下に出す。 【一色義道の墓】(中山村の東南、大船峠の下) 【寺島】(出図) 【大船峠】(是より福井村へ出る) 【付録】(蛭子社、妙見宮) 〉 《地名辞書》 〈 中山。今東雲村と改む、由良の南一里半、河畔に在り、丹州三家物語に細川家の時、有田四郎右衛門、中山の城に居ると云へり、又西北紀行に、国分寺址、弥勒堂遺る、此は山椒太夫物語に見ゆる僧房なりとか、(一説国分寺址は和江村と云)延喜式麻良多神社は中山の南丸田村に在り、此村今八田和江と合同し 《加佐郡誌》 〈 東雲村。往時凡海郷由良庄に属したもので、今の名は大雲川(由良川の一名)の東岸の意から出たものである。三日市、上東、下東、中山、水間の五ケ字から成っている。参考。中山の名は古くから著はれている。足利氏の晩年に一色氏の臣沼田幸兵衛が此処に居城を築いて居たが、天正六年四月に一色義通が之に依って細川氏に攻められた。 〉 《まいづる田辺 道しるべ》 〈 …中山の地名の起こりは、『安寿姫が泣きながら当地を通ったことから「なきやま」が転化して「なかやま」になった』と伝えられている。ここにも山荘太夫物語による地名が見える。 中山村の地名は、天正年間に、その名が見える。 中山は、室町時代より街道の宿場町として栄え、細川藤孝侯が田辺の城主となるやここに町屋敷を設け免税地となし、中山町と町名で呼ばれる様になった。(社寺旧在記) 当地は田辺藩にとっては往昔よりかなり主要な町屋として位置づけられていた様である。 さて「かつえ坂」を越えて来た宮津街道は中山の宿場町に入る。この宿場町は一筋道の町屋であり、道の両側にはぎっしりと商家や農家が軒を連らねていたという。延享三年(一七四六)の記録によると戸数三十七戸とあり、最盛期の江戸末期には実に四十六戸を数える民家があり宿場町の繁栄が偲ばれる。 一筋道の宿場町を通り抜けると、村はずれに出る。ここで道は追分となり、右の道は神崎に至り、宮津街道は、これより左の渡湯道に入って行く。 この岐路に今は無くなっているが、角柱の道標が立っていたと、古老が話してくれた。その道標には、 左 わたしば道 と書かれていたという。 この岐路より中山の渡し場迄の間の道を「渡湯道」と呼び小字名にも、その名が見える。 江戸時代の中山の様子について、地元の小川晴治氏(村史編さん委員)より貴重な資料や話を伺うことができたので、その一端を記載させていただく。 中山の町屋は、かつえ坂を下って来た山裾辺りから下は渡湯道へ入る岐路辺り迄の間に民家が密集し、宿場町が形成されていた。 町は中央を流れる土佐川を境にして、上流を「上地区」、下流を「下地区」と呼び、上地区には本家筋の旧家が多く存在していたという。 この土佐川右岸辺りを地元では「堀端」と呼んでおり、この川が、かつて中山城の堀であったことを窺わせている。 この土佐川に架かる南側橋袂に田辺藩の禁制箇條を記した制礼場があった。下地区の街道筋には、藩の番所があり、反対の川側には牢屋敷があったといわれている。又、村はずれの渡湯道と神崎道との岐路に、いつ頃から設置されていたかは詳らかでないが「大戸(オオド)」と呼ばれる門があった。この門は昼間は戸が開けられていて通行は自由であったが、夜間は大戸が閉められ通行できなかった。この大戸の番には番所の士が配置されていたであろうという。 古老の伝承によると、明治の初め頃までこの門は残っていたらしく、この大戸がなんの目的で設けられていたかは伝えられておらず不詳である。 この大戸について、当時の世情から判断すると、次の様なことが推察される。江戸時代末期になると、盛んに異国船が日本沿岸に来航して来る様になり、当時鎖国政策をとっていた幕府は、異国船に対し打払い令を出し、沿岸警備に当たらせていた。 当田辺藩に於いても、海岸地域に居住する住民に対し、異国船を発見したる時は直ちに、寺の鐘を打ち鳴らし急使で知らせる様お触れが出されていた。 この様な不穏な時代であったため、異国船や異国人に対し警戒上、設けられていた大戸であったのではなかろうか。 ちなみに、田辺藩へ初めて来航して来た異国船は、慶応三年(1867)五月二十日イギリス船(乗員四十人ばかり)が大野辺に着き、二日間田辺に滞留した記録が残っている。(瀬尾家諸色心覚控帳外) 江戸時代の中山町の産業といえば「寺社町在旧記」によると「唐網(投網)曳網ヲ以テ魚を猟ス」と記されている以外、これといった産業は無く、細川忠興侯が山村の生業として奨励していた櫨実(ころみ)の栽培が行われていた様で、又生糸つくりも行われていたという。 土地の女(主として後家)は、かつえ坂を越える旅人の荷物の持ち運びをして賃金を稼ぐ者、又村薮(川岸の竹薮)より竹の皮を取り売って生計をたてる女もいたという。… 〉 案内板 〈 中山城のこと 中世の山城である。丹後の国守一色佐京大夫義道の居城とされる。後に沼田幸兵衛清延が城主となる。標高60メートル、城郭巾約20メートル、延長500メートル東側は腰を没する深田、西側は険峻な急坂に竪堀、北側は大規模な空堀二ヵ所を設け、更に川を廻らす、南は建部本城に通じる地形は守るに有利な堅城であった。 本城にいた一色義道は織田信長の命によって攻めてきた細川・明智勢に戦い破れ中山城に入り再起を計った。 天正七年(一五七九)九月二十日、細川・明智勢、二千四百余騎をもって攻めたてたが落ちることはなかった。城代沼田幸兵衛の変心によって城に火をかけ総くずれとなり義道主従三十八騎、この下の由良川畔で自刃したと伝える。九月二十四日であった。 〉 中山の小字中山 宮ノ下 町並 寺ノ下 浦道 神崎道 渡場道 一ノ丸 東坪 西坪 寺ノ上 カツエ峠 堀端 上ノ坪 中ノ坪 下ノ坪 下ノ坪内町 中ノ坪内町 ヒエ田 卯ノ森 サイカセ 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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『田辺・みちしるべ』より |
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