丹後の地名

二箇(にか)
福知山市大江町二箇


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京都府福知山市大江町二箇

京都府加佐郡大江町二箇

京都府加佐郡有路下村二箇

二箇の概要




《二箇の概要》

二箇は由良川下流域の右岸、市原谷からの田中川との合流点付近に位置する。自治会は二箇上・二箇下に分かれる。南は北有路村、北は桑飼上村。東の谷奥に枝郷市原村がある。対岸は北有路村・三河村。幕末から明治初年にかけて市原谷村が独立した。由良川にかかる有路下橋

二箇村は江戸期〜明治22年の村名。二箇は明治22年〜現在の大字名。はじめ有路下村、昭和26年からは加佐郡大江町の大字、平成18年からは福知山市大江町の大字。


《二箇の人口・世帯数》273・96

《主な社寺など》
古墳時代の土器が出土し、室町後期の石子修理亮の居城と伝える山城がある。
享保18年田藩全藩にわたる惣百姓一侯が起こり、当村組頭又右衛門は打首、同源右衛門・百姓佐兵衛は獄門に処せられたが。源右衛門・佐兵術(赤松姓)は光国稲荷・鈴岡稲荷として妃られ、また後世赤松義民とたたえられ顕彰された。
氏神は十倉五社大明神
檀那寺は隣村南有路の臨済宗長橋寺・曹洞宗普門寺。
石子修理を祀る八幡宮(祭日八月一五日)などが鎮座していた。

《交通》
由良川に並行して主要地方道舞鶴福知山線が走る。

《産業》

二箇の主な歴史記録

《注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録》
 〈 一 有道郷 五十二町六段百一歩内
  十七町六段三百五十三歩  二ケ村 上ノ大方殿
  卅四町九段百八歩     四ケ村 山名有道殿  〉 


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 二ケ
氏神これまた十倉五社大明神なり。八幡宮阿里、古の城主石子氏を勧請のよし申し伝へるなり、愛宕山天王宮弥陀堂あり、石子修理亮在城の跡あり。
この在往来の海道船渡しあり、南有路、北有路、二ケ村これを二ケ村これを有路三ケと云ふ、この三ケ在年番に鮭簗を立る、秋彼岸に入りその日恵美子杭と云ひ川端両方にこれを打ちこれより往来の船一艘に塩四斗宛簗役とりたて、寒に入って簗をしまう、運上となし鮭六百尺これを納め銀に積って壱貫貮百目古来よりの議定なり。  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免六ツ七分
二ケ村 高六百弐拾六石六斗八升
    内三拾九石四斗八升八合六勺 万定引
    弐拾五石御用捨高
 古城 石子修理
 十倉五社大明神 氏神
 八幡宮 石子修理ヲ祭ル由 八月十五日祭
 愛宕山 柴庵
 天王社
 弥陀堂
 当村卜有路村卜年番ニテ鮭簗ヲ立取之遺上鮭六百尺銀ニテ一貫弐百目一尺ニ付弐匁ツツ 由良神崎ヨリ登ル船簗立候後舟道開買銀塩壱俵ツツ出シ通候由簗未立内ヨリ時節ニ至レハ川ノ上へ繩ヲ引置此以来ハ簗立候ト同断 是を恵比須繩ト云  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎二箇村(北有路より川を渡りて二箇村へ至る、桑飼村の南)
【十倉大明神】
【薬師堂】
 【付録】(愛宕社、牛頭天王、阿弥陀堂)  〉 

《加佐郡誌》

《大江町誌》
 〈 二箇地区の条里 府道舞鶴福知山線から由良川にいたる右岸地、標高五・○〜六・五メートルの低湿な水田地帯に分布する。標高比では最も低地帯である。有道郷の属域であるが阿良須条里の延長とは考えられず、方位はN20°Eを示す。付近には縄文土器を出土した宮の下遺跡をはじめ、二箇、赤穂谷、石ぶろ古墳などの遺物、遺跡が発見され、古代人の生活舞台であったことは疑う余地はない。現在の耕地の中には、(44)西前、(44)麻町、(45)石橋、(45)六反田、(45)鳥取、(46)鎌田、(50)大溝、(51)大坪、(52)町田らに条里地割の遺構を検出することができ、面積では九町が確認でぎる。
 当地区の東部を南北走する、府道西神崎−福知山線と、三河橋を結ぷ道路は、当条里の東限界線を踏襲して作られたものと考えてよい。

有路下橋 右岸の二箇下と左岸の三河を結ぶこの橋は、昭和二十年の終戦二か月前に舞鶴海軍陸戦隊が架設した木僑であった。
 二十八年災害で流失したが、二十九年府の施工によって鉄筋コンクリート床版潜没橋となった。完成は三十年の秋であった。当時の橋長は約八三メートルであったが、由良川改修に伴い、昭和四十一年の暮れから翌春にかけて継ぎ足し工事が施されたので、一四二メートルとなった。
有路下橋(三河橋)
2005.7.19当時↓

2013年は台風や大雨が連続した。
2013.9.18の同橋↓

2013.11.6。とうとう中央部が流失してしまった様子。↓
中学校の通学路にもなっている橋で、大迂回をして通学をしていたという。こうした場合は下流の舞鶴だったら市街地から往復タクシーを呼ぶ、代金はメーター通りだからタクシーは大赤字になる、しかし何の赤字補填もせず、タクシーを儲けさせてやったくらいの認識しかない。さすがのクソ役人天国で、親方日の丸族どもの感覚のズレはひどい。

沈下橋とか潜没橋とか呼ばれる橋で、洪水時は、この橋は5メートルばかりは水中に没する。このあたりは両岸とも堤防が作られておらず、はるか悠久の由良川のままの貴重な景観を残す箇所である。
由良川は水が出れば流される、か弱い木造橋ばかりであった、こうした橋でもあればまだマシで、渡船で渡るという所も多かった。今はもう渡船や木造橋は見られない。潜没橋もここと在田だけだろうか。

10トントラックでも通行可である。しかし車幅が制限されているので、写真のトラック程度(2トン車くらいか)で一杯の様子。



『舞鶴の民話3』
 〈 舟場 (由良川)
 鬼ガワラ集めで有名になった大江町へいこうと友がさそいにきた。秋晴れのいい日だ。十時三十分友と家を出る。土日でないので自動車はすいすいと走る。むかしの人たちが田辺から福知山へいくのに、いそぎの用があるとき、由良川の舟場より舟にのって上ったそうだ。友と話しているうちに大川橋にさしかかる。おとついの雨のためか増水して、ゆうゆうと流れている。
 むかし、由良川筋の運輸は専ら舟運に依存し、帆を張った高瀬舟が、由里−福知山間を頻繁に上下したというが、川を横切る渡船も、わらじ旅には欠かせないものであった。特に二ヶ村渡しは有名で、川向こうの宮津街道が開通する以前の主要道はここを渡っていたという。二箇村の由良川岸に、三角形に積み上げられた奇妙な石積がある。川の上を通る府道から、川上にむかって斜めに坂道がくだり、下の方にはていねいに敦つめられた石畳で、水面におよんでいる。この石積を地元では舟場と呼んでいる。昔からここに小舟がつながれたこともあるが、今は女たちの洗い場としてよく利用されてきた。しかしこの頃では格好の釣り場となっている。この舟場の上には、かつては「井戸の町」といわれ、油屋、豆腐屋、居酒屋などの立ち並ぶ船場町であったという。川に沿ってさかのぼってきた旅人が、この町でひと休みして渡し舟に乗った。又、享保十八年、田辺藩をゆるがした一揆で、その首謀者とされる二箇村義民が獄門に処せられ、首をさらされたのもこの渡し場であったと伝えられる。
 石畳は、永年の洪水にも耐えて、三百年の昔の間、昔の姿をそのまゝどっしりととどめている。三角形の石積の上に立って見つめる川面には、むかしの渡船場の情景が浮かんでくる。  〉 
義民顕彰碑
享保義民の顕彰碑

府道沿いの道端に建てられている。
(田辺城の殿様なんぞはアホくさい、あんものはきれいに忘れてよいが、こうした犠牲となった人々は決して忘れてはなるまい。)

 享保義民顕彰碑
昭和三十四(一九五九)年建立
 きびしい身分統制、重くのしかかる年貢、加えて打ち続く凶作に封建社会の農民の暮らしは苛酷なものであった。この顕彰碑は、そのような中で、村人たちが力を合わせ命をかけて圧政と闘った義挙を、後世に伝えようと願って建立された。
 江戸時代八代将軍吉宗の享保十七年頃、数年続いた旱ばつや洪水長雨冷害、いなご異常発生などで、西日本一帯に多数の餓死者が出た、享保の大飢饉である。この地方でも、年寄り子供まで山に入りくずの根を掘り木の実を拾って飢えをしのいだ記録が残されている。
 このような中で、村々では藩に年貴の減免を願い出たが受けつけてくれないばかりか、藩主が幕府の重職に就いたこともあって逆に増税するありさま、農民たちの怒りは遂に爆発し立ち上ったが田辺藩全領をゆるがす大一揆となったのである。
 享保十八(一七三三)年三月、村々は、年貢減免などの要求をかかげ、大挙して田辺の城に押し寄せた。
古記録に「三日の間、百姓一人も残らず田辺に集まり‥」とあるように、まさに金藩一揆となった。この勢いに押された藩は、年貢の大幅減免(平均一割二分余)を回答して、農民側一応の勝利となった。
 ところが、あと始末になると藩は圧力を強め、二箇村弾圧を強行するに至った。即ち、川口上組では、藩の圧力に抗しかねて、大庄屋預り米五百億上納を決め、村々に取り立てを下知した。水害のひどかった二箇村では到底これに応じ難く、寄り合い協議の未、代表十六人連判して、大庄屋へその撤回を申し入れた。こうした動きの波及をおそれた藩は、連判十六人を捕え、暮れの十二月二十一日、筆頭三人−年寄又右衛門・同源右衛門・その弟佐兵衛−を処刑、妻子は追放、残る十三人にも重い首料を科したのである。
 その後、村人たちは、命をかけて村を守った義民を、光国・鈴岡南稲荷に祀った。それより幾星霜、顕彰碑は黙して語らないが、人々が団結して暮らしを守ることの大切さを、私たちに訴え続けている。

平成八年二月 大江町・大江町観光協会  〉 
享保義民顕彰碑
この碑の裏側には次のように書かれている。

 〈 享保のころは全国的に飢饉がつづいて五穀はみのらず西国の餓死者は数十万に及んだという。由良川筋もまた連年の不作に悩み草根木皮までも食べて飢えをしのいだ。享保十八年農民の苦しみは極度に達し三月これにたえかねた郡内の百姓たちは一人も残らず田辺城へ集り上納の減免を願い出た。これより先ときの大庄屋赤松源右衛門弟庄屋佐兵衛は常々村民を励まし増産につとめるとともに年々領主へ減租を訴えて年久しかったが一こうに取上げられなかったので、ついに意を決して百姓総代庄左衛門ら仲間十六人の連判をもって貢租の減額と滞納銀の全免を強訴した。六月三人は連判筆頭の故をもって入牢させられた。八月これらの祈願によって領内平均二分四厘の減免が行われたが十二月二十一日兄弟は打首の上井戸渡場に梟首された。時に兄四十九才弟四十五才。その首は当夜村民がひそかに盗み去って葬った。百姓総代庄左衛門もまた同日斬首せられ残り十三人は首代として銀百二十匁づつ科せられた。後年村民はその徳を慕い、光国鈴岡両稲荷を建ててその魂を祀った。星霜すでに二百余年ここに顕彰碑を建てその霊を慰め併せてその徳を後世に伝えるものである。
 大江町有志  〉 

『由良川子ども風土記』
 〈 赤松義民について
大江町・有仁小六年真下一志
水がついても、きまっているだけの年貢はださなければならなかった。年貢を「まけてくれ」とむりやりにしつこくたのんだら、首を「パス」と切られたということだ。村にいるのがいやで、村からにげだした人もあった。村に一人もいなくなったというところもあった。村からにげだされたので、大名もすごく弱ったということだ。竹の子の皮、魚、すべてとれたものに年貢をかけられた。例えば、市原だと、サンショの実をだしたということだ。ぼくは、その時代の農民は困ったと思う。そして、もんくをいうだけで、打ち首にされたので農民はどうしようもないと思った。
享保十八年三月、百姓たちが年貢をまけてくれと、舞鶴までおしかけた。舞鶴では城の近くの道までぎっしりいっぱいになったということだ。その中心になったのが、赤松源右衛門、赤松佐右衛、新井又左衛門の三人だった。十二月になると、ニケ村の六人が、ろう屋にいれられた。この六人は許してくれたそうだが、三人は首を切られた。そして、木の上に置いてさらし首にされた。ところが、三人の首を村のだれかがぬすんでうめたそうだ。こんなことをすると「ひどいめに
合わすぞ」と見せしめのためだと思う。又佐衛門、源右衛門、佐右衛は、農民のために犠牲になったわけだが、年貢を百石ほどまけてもらったそうだ。ぼくは、なんで村の人たちのためになったのに、打ち首になったのかわからない。享保の時代はききんが続き、うえ死にした人々がたくさんでた。百姓一揆も起きた。大名のすることにもんくを言えば、重い罰をうけるきまりがあったので、どんなに苦しめられても、じっと歯をくいしばっているのがその時代の百姓でした。佐兵衛は、領ケ岡稲荷神社にまつられており、源右衛門は光国稲荷大明神社にまつられています。  〉 





二箇の小字


二箇(ニカ) 猪野田 田中 石橋 井戸 野菜間



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『大江町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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