西(にし)
付:海岸山見樹寺 |
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京都府舞鶴市西 京都府加佐郡舞鶴町西 |
西町の地誌《西町の概要》 西舞鶴市街地中央部。北は第3埠頭、南は愛宕山。住宅・会社・倉庫などの混在地域。国道175号が走る。愛宕山北東麓を西町通り(宮津街道)が通る。えらく細い見通しの悪い道に感じるがかつてはこの道をバスも走ったという。 地名の由来は田辺城の西にあたることによるという。西町は、江戸期〜明治22年の町名。田辺城下の1町。享保12年の丹後国田辺之図による町屋は、東西62間半、石橋より大野辺の口まで72間、幅2間半、家数68軒。寛保3年には66間(竹屋町文書)。宮津街道の宮津口があり、見張番所が置かれ(田辺旧記)、足軽長屋が建てられていた(旧語集)。 明治2年舞鶴町に所属。同22年舞鶴町の大字となる。昭和13年からは舞鶴市の大字。 《人口》168《世帯数》65 《主な社寺など》 愛宕山麓の寺院が密集する所で、西から 浄土宗海岸山見樹寺 滝谷山松林寺 玉岡稲荷神社 浄土宗滝詣山見海寺 日蓮宗長久山妙法寺が並ぶ。 見樹寺には約2mの石造の子育て地蔵がある。松林寺と見樹寺の間の小丘陵端には新屋敷古墳がある。 《交通》 国道175号線 西町通り 西町の主な歴史記録《舞鶴市史》〈 新町・西町は宮津街道の出入口に当り、旅人が出入りした。殊に巡礼などが多かったのではなかろうか。そのため旅籠屋も多く営業していた。寛保三年(一七四三)の調べでは、新町一一軒、西町五軒合わせて一六軒であった。 〉 −海厳山見樹寺(海岸山見樹寺)(瑞泰寺)− 《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 海厳山見樹寺は 浄土宗領主代々の菩提所なり 本尊阿弥陀 恵心の作 鐘楼堂これあり 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 浄土宗 見樹寺 海岸山 京都白川 智恩院ニ属 境内七百坪 其外山林有之 御菩提所 知行百石 当時派下 無常院 堂前善心感応之額 先御代被為掛 本尊 阿弥陀 慧心作 客殿 九間半ニ九間 書院 七間ニ二間 方丈 五間ニ弐間半 庫裏 十二間ニ四間 門 二間ニ一間半 鐘楼 二間ニ四方 関宿御入部後 見樹院様五拾回御忌ニ付御菩提 所御建立号見樹寺 住職鴻巣勝願寺より被招暁 誉上人来住御法事執行御上京御供千本屋敷の内 に寺有京御代り前隠居鳥羽法伝寺江移住後住ハ 船誉上人也 当寺前代御菩提所ニ而号瑞泰寺 初ハ北ノ方山際に門在し由 先御代今の所江被 移前の道広く成初ハ北の海端も通し由道広成海 際止鐘楼有鐘に銘有瑞泰ハ京極高知侯牌号也 元来武州豊嶋郡駒込村に有其後神田江移慶安元 戊子年今の所江移委細鐘に銘有略之 御所替之節霊所ハ残し被置毎年御代香碑使者来 霊所ハ寺の西之山際山を引ならし石を積上げ一段 高く成し牌殿四ヶ所扉破風ノ彫物等結構可寧成 造作也 下段北の方に高地侯追腹の士石塔五ツ あり 丹後守 元和八壬戊年(道腕) 南の見付 高知法諱 瑞泰院殿真厳可 八月十二日 修理太夫 寛永十三年丙子年 次 高三法諱 惣泰院殿雲山道徹 五月十三日 高知 寛文三癸卯年 次 姨 法諱 養福院殿法山寿慶 正月七日 元和四戊午年 次南向 高三法諱 法性院殿真廓道保 七月七日 享保二十乙卯年霊家及大破但州豊岡ヨリ畳レ石 塔斗 覚文三年正月追腹之士左之通 屋敷舟着南東角 家老録千石三十二才 葬礼供 船木左京亮真政 又三十三トモ跡目主馬 介六才三百石二十人 寺二而切腹 扶持 同所北ノ端 家老録千七百石三十 即日 伊庭右京進真勝 才又二十五才トモ跡目 宅ニテ 当才荘蔵百五拾石 ニノ九大腰掛西 禄六百石又三百石トモ 同断 伊庭縫殿介裏 二十才跡目 巽御城ニ而 舎弟百五拾石 小姓録三百石 同断 石束主殿真舟 拾八才 同断 源五兵衛末子 供 勤寺ニテ水原伝兵衛正盛 徒侍病身接木畑 預り四十五才トモ 六拾才トモ 玉露叢云寛文三丙子年五月廿日今年始テ殉死 御制禁之趣左之通 覚 一 殉死ハいにしえより不義無益の事なりと今し め置といヘども被仰出無之故近年追腹之者数 多在之向後左様之存念可在之者には常々其主 人殉死不仕候様ニ堅く可申含若以来於在之は 亡主不覚悟法度たるへし跡目の息も不令押留 儀不届可被思召者也 寛文三年五月廿日 京極西六条竜谷山 親鸞上人の弘法 亀山 院御宇文永九年上人の息女覚信尼公に始る 〉 《丹哥府志》 〈 【海岸山見樹寺】(西町、松林寺の次、浄土宗) 海岸山見樹寺は元瑞泰寺といふ、京極高知の開基なり、牧野佐渡守親成公の来るに及びて寺號を改めて見樹寺といふ、蓋考内匠頭信成の法名見樹院の字を用ふるなり。寺の後山京極氏の墳墓あり、南の正面に高知の碑(瑞泰院といふ)次に高三(惣泰院といふ)次に高直、其北に高直の為に殉死せし家士の石碑あり凡六人。 〉 《加佐郡誌》 〈 浄土宗の寺院京極家の菩提所であって初め端秦寺と称したが、京極家の豊岡転封によって一時廃せられたのを後牧野家の菩提所とせられて見樹寺と改称し、是より代々牧野家から座主を出す様になったと云ふ事である。此処には京極の臣の殉死の碑と牧野家翠芳、桂芳両院殿の廟碑とがある。 〉 『舞鶴』 〈 海岸山見樹寺 〉 〈 これも舞I町西町に在る浄土宗の寺院で始めは瑞泰寺と称した、京極家の菩提所で京極家が豊岡に移ってから端泰寺も亦豊岡に移り此處は一時廃寺になって居たが後牧野家の菩提寺となって見樹寺と改め代々牧野家から座主が出た、京極の臣殉死の碑や牧野家翠芳、桂芳両院殿の廟碑がある。 〉 《京都府の地名》 〈 見樹寺 (現)舞鶴市字西 旧田辺城下西部、愛宕山の最北、宮津街道が山麓に沿って西に迂回する場所にあり、寺のある台地からは舞鶴湾が一望のもとに見渡せる。 山号海岸山、浄土宗で本尊阿弥陀如来。京極高知の開基でもと瑞泰寺といい、京極家の菩提所であった。高知は田辺城防御をも考慮してこの地に寺院を建立したものと考えられる。牧野親成の時、牧野家の菩提所とし、寺号を改めて見樹寺とした(旧語集)。 境内には京極氏の墳墓(高知・高三・高直)があり、その北の方に高直のために殉死した家臣の石碑(銘「寛文三年正月追腹之士」)があった(旧語集)が、これらは現存兵庫県豊岡市の瑞泰寺に移されている。 現存寺内に牧野家の翠芳・桂芳両院の廟碑がある。なお、当寺の門に至る石段は、乗馬でも登れるよう各石段の幅が広くしてあるのが目立っている。 〉 −松林寺(笛原寺)− 《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 本寺京智恩院浄土宗松林寺 明応年中 岌円上人開基 本尊阿弥陀 安阿弥作 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 浄土宗 松林寺 滝野山 以前建辺山トモ 云り来迎院 京白川華頂山 智恩院末 浄土宗惣本寺鎮西流義 当寺境内三百坪 其外山林 人王六十七代三条院御宇長和元壬子年慧心僧都 草創 御初入以後見樹寺伴僧長伝入寺 二代目 東山寺梅珪和尚 第三代当住也 本尊 阿弥陀 安阿弥作 脇立 観音 勢至 客殿 庫裏トモニ九間ニ四間 鐘楼 一間半四方 門 観音堂 二間ニ一間半 親子対面之観音卜云縁記ニ委有略ス 住持伝来之写 人王六十七代三条院御宇長和元壬子年恵心僧都 此所ニ住居号滝野山来迎院笛原寺光蓮社岌円上 人阿公大和尚ヨリ浄土宗と成松原寺と改む 岌円 上人は大永五年遷化 二百十年ニ及 寺の南ノ谷に小滝あ り令水なり滝のと云 庭に大木あり今枯て無之 〉 《加佐郡誌》 〈 滝谷山松林寺、浄土宗、建部山中に在りしを遷せるもの、舞鶴町 〉 『舞鶴』 〈 瀧谷山松林寺 浄土宗の寺院で舞鶴阿字西町に存る、始め笛源寺と言って建部山中に在ったのであるが戦国時代に盗賊が屡々乱入して什宝を掠奪するなど維持が甚だ困難であったので応永年間領主が今の地に移した、元和八年京極丹後守の伯母松林院を葬ったので寺名を今の名に改めた、この寺に親子対面観世音といふのがある、極めて小さな像ではあるが霊徳顕著であるとして賽者が多い、縁起によると南都東大寺主良弁憎正幼にして鷲に攫へられ行くところを知らず、その母大いに悲嘆して三十餘年諸国を遍歴してその踪跡を探り終に東大寺で邂逅することを得たが良弁は生れてから母に授かった観音の小像を肌身離さず持って居たので母子の邂逅もこの観音の徳として東大寺畔に堂宇を建立してこれを安置したが延暦十三年勅を奉じて京都西七條に移し伽藍を建て平安寺と號したのを後更らに當寺に遷したのだといふ。 〉 『市史編纂だより』(53.3) 〈 松林寺墓地内古墳(新屋敷古墳) 西町の松林寺と見樹寺の間に、突出する小丘陵端に築造されたものである。現在は完全に破壊され、わずかに横穴最奥部が丘陵南方の崖に残っている。その横には採土の穴もあって、一見まぎらわしいが西方のものが古墳で、石材が一個残っている。また、石室に用いられたと推定される花崗石質の板状の石材が、墓地の東端部に積まれている。道端などに散在するものを合わせると6〜7枚を数える。塩谷古墳(中舞鶴)のものも花崗岩質の板状のものというから、ほぼ同時代に属する小形の円墳と考えられる。出土品は不明。 〉 《広報まいづる平成9.12.1》 〈 ふるさとの文化財と伝承第12回・松林寺の聖観音菩薩立像*ワシにさらわれた名僧*親子再会を願う対面観音 西地区の松林寺(西町)にある聖観音菩薩立像は、”対面観音”と呼ばれ、子供と離ればなれになつた親が再会の願をかけるものとして信仰されてきました。 対面観音と呼ばれる理由には、祭良時代の東大寺創建に携わった名僧・良弁(ろうべん)の伝説が深く関わっています。 【良弁伝説】 近江の国に生まれた良弁は、二歳のときワシにさらわれましたが、祭良の都で僧・義淵(ぎえん)に助けられ、やがて名僧となっていきます。 良弁の母親は、子供を探すため三十年余り諸国を巡礼。祭良にワシにさらわれたことがある名僧がいると聞さ、その地を訪れ、劇的な再会を果たします。そのとき親子の証拠なったものが、良弁が幼時から身につけていた観音像であるとされています。 【伝説の原型は舞鶴か】 平安時代初期にまとめられた仏教説話集(日本霊異記の上巻第九=六、七世紀)には、ワシにさらわれた女児が、丹波の北方の加佐郡(現在の舞鶴市)で父親に再会した話が収録されています。 この説話と良弁の伝説には「女児と男の子」「父親と母覿」などの違いはありますが、「ワシにさらわれる」と「親子の再会」とは同じであり、良弁の伝説は、霊異記の説話が原型となっているとも考えられます。 【東大寺から移す】 松林寺の縁起によると、良弁が身につけていた覿音像は東大寺、平安寺を経て松林寺に移されました。現在は、聖観音菩薩立像内に納められているのではないかといわれています。 松林寺の本堂には良弁伝説の欄間や”絵巻”が残されており、江戸時代には対面観音に切なる願いをかけた母親たちが、いかに多かったかを語っています。 《協力 舞鶴市文化財保護委員会会長の高橋卓郎さん》 【松林寺】 松林寺の前身は、平安時代に建部山に建てられた笛原寺(てきげんじ)とされ、十五世紀に現在の地に移り、松原寺となる。十七世紀初頭に松林寺となり現在に至る。観音像は高さ一b二aで一木造り。 制作年代は鎌倉時代以前とみられる。 〉 −滝詣山見海寺− 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 浄土宗 見海寺 滝溪山 浄土寺末 本尊 恵比須堂 正月十日 十月廿日 祭 開山源誉和尚延宝年中也 客殿 庫裏 鐘楼 門 文禄年林田源之浜と云者大橋の辺に居住其舎弟 蔵之允代々一向宗にして慶長元内申年朝代社丑 寅に当りて草庵を結ひ坊号釈ノ等庵と云 其子 二代目釈ノ了悦正保三丙成年洛東本願寺十三世 如上人寺号木仏御免真筆今に在り 了悦代今の 宣所に移る当住悦仙迄四代也 延宝五年十二月 廿日端光寺出火出火速に飛来り当寺類焼外に類 火無し寺斗二ヶ寺不思議成事也 共後猪子五郎 座敷調建る又其後堀市太夫三省門を建寄進て 源之浜ハ今の大橋北の角林屋先祖之由田の字を 略し家名とす 末の娘電屋孫左衛門先祖入聟に 成家を分て亀屋と云苗字ハ林田之由 〉 《加佐郡誌》 〈 滝詣山見海寺、浄土宗、延宝年中源誉和尚建立、舞鶴町 〉 『舞鶴』 〈 瀧詣山見海寺 〉 〈 舞鶴字西にあって浄土寺末で浄土寺と腹背相列んで居る、延宝年間の建立にかゝり開山は源誉和尚である、境内は舞鶴湾の勝景を眺望するのに適する。 〉 −長久山妙法寺− 《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 本寺京妙顕寺長久山妙法寺は 日蓮宗 権大僧都日賢上人 正親町オオギマチ院元亀年中(1570-1573正親町天皇将軍足利義昭丹後守護一色義道)開基 本尊釈迦 番神堂(一日二十四時間中ときをお守りする神さま) 鐘楼堂 二王門あり 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 日蓮宗 京小川ノ北具足山 妙法寺 長久山 妙顕寺末 妙顕寺開基日像上人於洛陽日蓮宗最初之寺也 後醍醐天皇の勅願所 当時境内千三百坪 人王百六代正親町院御宇元亀三壬申年開山権大 僧都日賢上人 本尊 釈迦 多宝 番神堂 五尺ニ三尺 拝殿 一間半四方 此内ニ宮殿有之 客殿 七間ニ六間 方丈 四間四方 庫裏 七間ニ五間半 弐階座敷佳景也 鐘楼 一間半四方 二王門 三間ニ一間半 縁記無之当往日達上人伝来之旧書ヲ見聞一書述 作有其文ヲ写ス 抑長久山妙法寺ハ宗祖日蓮大士の門流にして花 洛妙顕寺の末流也 其草創を尋るに昔慶長年中 開山権大僧都仏乗院日賢上人此地に遊歴し庵室 を営厚く妙経を敬持し広法要を宣す 時の大守 細川兵部大輔藤孝卿或時野遊に出給ひ近習の諸 士六七人同装束ニ而召連られ庵室に入来し絵ふ 折節日賢ハロに経を誦し堂前の塵芥を掃除す大 主日賢ともしろしめさす問て日住持ハ在寺なり や日賢答て則我なりと大主曰伝聞和僧花(此所 不見)化の持者として衆生を訓導すと善哉々々 且独り歌を能すと其実ならば忽に一詠を間んと 宣ふ 日賢少も不辞 世の中は風呂や柄杓にさも似り 入時斗我物にして 大守曰歌の意味尤面白し然と云へ共住所の体を 見るに軒にハ松柏打覆ひ枝を払体も見へす歌の 心と甚異なりと難し給ふ 日賢曰此松柏は国守 の樹にして枝は扨置木の葉も難取と大守大感悦 し給ひ是実の仏子成とて突給ふ所の杖を上此谷 西ノ方尾崎より南西の嶺迄東北の尾崎を一谷不 残永々是を寄附せん武運長久子孫繁栄の祈祷し 給ふと云々 日賢大守とは聊は不知して嘲嘆し て曰貴客の免許更に難受用と大守曰我ハ則兵部 大輔なりと宣ふ 日賢驚平伏尊敬す爾来大守信 敬他に異也 則今の山林境内是也 依之大守ハ替りましますといへ共任先例御代々 御免許の霊場也 其後寛永年中当山三世妙雲院 日実上人住職に当て檀頭上野与惣左衛門入道三 清三宝に帰依し為子孫栄世当来作仏堂宇建立の 大願を発しき 然といへども存生に其願満足せ す寛永二十一及末期子 後号与惣左衛門 を枕元に招 きて我日頃の大願なれハ雖死後長久山の地を開 き堂宇等必可造立と云々 仍両息輩ハ父の守遺命正保四丁亥年終に本堂客 殿庫裡番神鐘楼惣門二王等迄悉成就す 是則当 山建立開基也 今逸見与一左衛門先祖也 夫ヨリ 以来享保十八癸丑年迄九拾四年法灯日々耀き信 檀月々倍増す成後五百年の時到記那 上件者当山古記小紙等散在して難見分即文筆 雖不学唯為後代集一紙書写するのミ乞願ハ後 世博文達筆の賢師以此辺更ニ改メ写絵へと云 々 享保第十八癸丑暦六月吉辰 当山 第拾四嗣 法明院 日逢判 講中 時ノ檀頭 逸見与一左衛門 一村 忠兵衛 〉 《加佐郡誌》 〈 日蓮宗に属する京都妙顕寺の末派であって、慶長年中に権大僧都仏乗院日賢上人が此地に遊歴して庵を結び妙経を称したが、時の大守細川幽斎の知る所となって当山を建立せしめたものである。狂歌に巧であった為め、初めて大守が訪ふた時、世の中は風呂や柄杓にさも似たり 入る時ばかり我ものにして と即吟して太く大守を感悦せしめたと云はれている。境内には桜樹が多くて陽春の頃は観るもの足を絶たず非常に賑ふのである。 〉 西町の小字関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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