丹後の地名

野村寺(のむらじ)
舞鶴市野村寺


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京都府舞鶴市野村寺

京都府加佐郡高野村野村寺

野村寺の地誌




《野村寺の概要》

野村寺は西舞鶴の南部。高野川の上流に位置する。KTR宮津線、東西に府道志高西舞鶴線(旧河守街道)。
野村路とも記した(丹後旧語集)。往古は女布・城屋などをふくむ、現在の高野全域をさしていた。一色光範の子元範・清範・直範らが拠った地(加佐郡誌)という。
 野村寺村は江戸期〜明治22年の村名。同22年高野村の大字となる。昭和11年舞鶴町、同13年からは舞鶴市の大字となる。


《人口》376《世帯数》122

一里塚(左端)
《主な社寺など》
集落の北方キシガとよばれる丘陵上に二基の円墳・まるこ山古墳
「田辺大橋ヨリ壱里」と刻んだ一里塚(上写真の左端のもの。その右は道標で、「右 ふくち山 川口 左 城や うちくい」と書かれている)
氏神は山王社(現日吉神社)
菩提寺は丹波国何鹿郡安国寺村安国寺末高野山宝寿寺(臨済宗東福寺派)、文明12年(1480)清睦の開いたものと伝える。
『丹後国加佐郡旧語集』
 〈 安国寺末  〉 

『加佐郡誌』
 〈 高野山宝寿寺、臨済宗、文明二年創立、高野村  〉 

『丹哥府志』
 〈 【高野山宝寿寺】  〉 

『丹後国加佐郡寺社町在旧起』
 〈 野村路村
高野山宝寿寺、丹波安国寺末寺なり。  〉 

宝寿寺末善寿寺
中森神社
愛宕神社
山神社



《交通》


野村寺の主な歴史記録

《勘注系図》十七世孫・丹波国造明国彦命の注文に、

 〈 葬于加佐郡田造郷高野丸子山。  〉 

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 野村路村
高野山宝寿寺、丹波安国寺末寺なり。
  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免七ツ九分
野村路村 高三百六拾八石三斗四升
     内七石九斗一升五合 万定引
     五拾弐石御用捨高
 法寿寺 安国寺末
 釈迦堂
  当村ヨリ福井村江越道有クス子ジト云  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎野村寺村(女布村の次)
【高野山宝寿寺】  〉 

《加佐郡誌》
 〈 野村寺といふのは高野村の前身全体であって、もとはアイヌ族の部落であったやうである。後一色光範の子右衛門尉元範(此名一色家系譜に載っていない。或は庶子かも知れない。)といふものが此地に居り、かなり盛大な邸宅を営んでいたが兄詮範が山名時氏と戦ひ敗れて丹波郡吉原城(今の中郡峰山)にのがれたので之を随っていたが、何処かで戦死してしまった。その時一子があったのが其母と共に火を其邸宅に放ち出でて民間に隠れていたが後宗家の満範が再び時を得て加佐郡に帰り来った際用ひられて富み栄えた。それから二代を経て直範といふものがあった。宗家の義直に従ひ応仁の乱には山名宗全に党していたが味方の者が多く討たれたから供養のため帰国の後観音堂を建てた。此者天寿を全うして九十歳で此世を去ったが法名を宝寿院といったさうである。その後胤と称するものは源右衛門一軒のみ残っている。野村寺村の小字に大門屋元屋敷的場、観音堂(アマ谷の一部)の名のある事は右の言伝へと符節するやうである。当字には高辻、亀井、小谷の三名家があるけれども皆徳川時代になって始まったものである。因に当字の菩提寺を高野山宝寿寺といひ、後土御門天皇の文明十二年に清睦和尚の開いたものである。直満と何等の関係があるやうであるが今文書の証すべきものが残っていない。  〉 

《舞鶴の民話1》
 〈 野村寺の一里塚 (野村寺)
 高野小学校の前の校舎のあった前には、高野川が流れ、五月ともなると、うぐいの大群が卵を生むために川をのぼっていく。
 子どもたちは川に入り、手で大きなうぐいをとることが出来た。とっては川にはなし、浅瀬にぴんぴんはねるうぐいを川にはなしてやる。うぐいは嬉しそうに川をのぼっていく。
 道を野村寺の方にいく。宮津線の汽車の線路を越えてしばらく行くと、石の道しるべが立っている。
その石に「田辺大橋より壱里」ときざまれています。
今から四百五十年程前、日本の国の中で、戦が毎日のようになされていた、戦国時代といっています。この道しるべは、その頃建てられたといいます。
 田辺から京都に行くのに、田辺城の大橋から高野川をそってこの野村寺まで来ます。その距離が丁度一里(四キロメートル)なのです。そこから城屋に行き、まかべ峠を越えて由良川の右岸に出ます。由良川をのぼって、久田美−桑飼−有路−福知山にでて、山陰街道を通って京都に行くのです。
 今のように汽車がなかったので、お殿様の行列は、今云った道を「下に下に」とヤッコさんが声をかけ合いながら手やりを振り振りいき、そのあとに殿様の行列が続きました。田で動いている村の人達は、道ばたにすわって礼をして殿様の行列を見送るのです。
 もしも田の仕事を続けていたら、さむらいかやってきて、首をちょんと切ってしまうのです。
 その頃はさむらいが一番上で、百姓、物つくり(カマやクワ、着物を作る人)、物そ売る人の順で、さむらいのすることに文句いえなかったのです。
 このように設様はさんきんこうたいといって、江戸まで行ったのです。  〉 


《まいづる田辺道しるべ》
 〈 …更に川沿いの道を上って行くと、野村寺橋の袂に出てくる。この橋の袂、南側(右岸)に現在一里塚の里程を書いた石柱と、南無阿弥陀仏と書かれた名号塔道標が立っている。
 この内、一里塚の石柱については、地元の古老の証言によれば、「野村寺の川東小字カン尻の旧道に有ったものをこの橋袂へ移して来たものである」という。
 名号塔道標についても、はっきりしないがおそらく、此処へ移して来たものであろう。
 このことについて、享保年間の田辺絵図を見ると、高野川より東側、野村寺の村中で河守街道が二方向に分れており、「右」の道は真壁峠、福井村へ、「左」の道は城屋村、奥山村(奥城屋)へと続いている。
 名号塔道標は、おそらくこの追分に立っていたものと考えられる。では、この追分が、どこに有ったのか。はっきりわからないが、野村寺の小字名を調べて見ると、水道みちに架かる野村寺橋辺りより東側にかけて、小字札場という地名が残っている。
 「札場」とは、制札を書いた立て札が建てられていた場所をいい、江戸時代、人通りが多く、人見につきやすい町の入口や、交通の要衝である辻などに建てられていたもので、この札場が追分になっていたと推察される。
 上福井方面より楠祢寺峠を越えて来ている道は、この札場をすぎ、高野谷の中央に六地蔵を祀る古い道を通り、女布、七日市、池内谷へと続いていたものと考えられる。この古い道が、伝承として伝えられている中世の西国順礼の道ではなかったろうか。
 第二十八番成相寺より陸路高野谷に入り、池内谷を通り、与保呂、堂奥、小倉を経て第二十九番松尾寺へ詣でる古代の道であった確証はできないが、大変興味がある。
 この様に、野村寺は古くより交通の要衝であったと見え、野村寺の地名についても、高野村の前身が古くは野村寺といわれていたことからも窺い知ることができる。…




野村寺の小字


野村寺 コエジ 広丁 ユリ下 大クゴ 砂ゴ田 深迫 清水ケ谷 小西 善寿寺 鳥居河原 タワノ段 岡安 江ノ元 辻 坂尻 堀 アマ谷 スゴシリ 福西 中ノ森 岩坪 コウゾ谷 正学 藤ノ木 札場 家下 西ノ上 湯谷 上湯谷 大モン 柳ケ坪 元屋敷 花ノ木 ドイノモト カン尻 野畑 マカベ 片深 市原 マト場 キシガ 下湯谷 東アマ谷 片染

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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