丹後の地名

女布(にょう)
舞鶴市女布


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京都府舞鶴市女布

京都府加佐郡高野村女布

女布の地誌




《女布の概要》

女布は西舞鶴の南部。高野川支流・女布川の上流、千石山東麓に位置する。古くは禰布と記した。ニヨオは、アイヌ語の村の意ともいうが信じがたいとしている(加佐郡誌)。
山林地帯と農家・一般住宅・会社・工場などが混在している。新興住宅の女布新町や女布北町などがある。
弥生期の女布遺跡があり、西舞鶴発祥の地ともされる。
何とも不思議な地名で、全国的な注目が集まる。禰布なら漢字通りに読めばネフだが、現在ニョウと呼ばれるようにニフかも知れない。ネウでもニウでも丹生で、水銀産地の地名と思われる。
女布村は江戸期〜明治22年の村名。同22年高野村の大字となる。昭和11年舞鶴町、同13年からは舞鶴市の大字となる。


《人口》127《世帯数》52


《主な社寺など》
大日山の丘陵瑞の古墳、鉄剣と土器が出土したと伝える。
式内社日原神社
北部に御旅所の下森神社
この社の境内付近は女布遺跡で、弥生時代から平安期にわたる住居跡があり、弥生式土器片が出土
東隣の京田との境に白雲山があり、一色氏の部将森脇宗坡の居城跡がある。宗坡は永禄(1558〜70の頃、愛宕山に祠(愛宕権現社)を建てている。
真言宗御室派金峰山菩提寺
『ふるさと女布』
 〈 金峰山菩提寺(法光院)
 真言宗(円隆寺智恩院末寺)
本尊 薬師如来(伝・行基作)
開山 行基菩薩
巡礼歌 第十二番
 み吉野の外に一つの金峰山  雪ちる春を花かとそ思ふ
略縁起
 金峰山菩提寺は天平年間(729-750)行基菩薩の創建との言い伝えがある。元来天台宗であったが、その後、山伏持ちとなり、建武二年(1335)観覚法印が真言宗法光院を基立したと伝えられる。その後、堂宇が荒廃したので、ときの将軍足利尊氏が堂宇を建立したと伝えられるが、元禄三年(1690)火災に罹り全焼した。この時、本尊の薬師如来と後光の五如来を搬出したので、今に残っているという。翌年元禄四年、中興の開基印算法印が厨と方丈を再建した。明治の代に至り、檀家無き寺は廃寺にするようとの達しがあり、村人達はこの由緒ある寺をなんとか存続させたいと種々陳情した結果、廃寺は免れたが、その後無住となり、建物も老朽化して維持困難となったので、昭和二十七年解体し、薬師堂を建立、現在に至っている。
境内 百六拾九坪
鎮守社 金峰神社(天平年間行基菩薩勧請と云伝)
耕地 四畝三歩(大谷)
山林 九反壱畝拾歩(大谷、桂ケ谷)
宅地 壱畝弐拾歩(大谷)
   金峰山菩提寺廃寺について
 さきに述べたように明治の初期、檀家無き菩提寺を廃寺にするようにとの説論を受けて、当時の村人達は大変苦慮した。色々陳情するなど存続に尽力した当時の状況を、詳細に記述した「菩提寺護摩講結社縁起」によると、この経過は次の通りである。
   菩提寺護摩講結社縁起
 丹後国加佐郡女布村金峰山菩提寺ハ創立天平年間行基菩薩日本六十余州ニ於テ名山旧跡ヲ尋ネ四十九ケ所開基シ玉フ、其時当山ニ到リ玉ヒ山色森々トシテ善神守護ノ相アリケレバ、之ヲ感シ玉フテ五尺余ノ金色ノ薬師如来ヲ刻ミ又大日、阿悶、宝生、弥陀、釈迦ノ五如来ヲ造テ後光ニ納メ、又一宇ノ堂七宿坊(医王院、経ノ院、桂ノ院、不動院、法光院、金剛院、明王院)ヲ建立シテ安置シ奉リ自開眼供養ノ軌則ヲ執行玉ヒテ、次ニ当山の頂ニ素盞鳴ノ尊ヲ勧請シ天御中主神ヲ奥ノ院ト称シ是ヲ金峰神社午頭天王ト崇奉リ宿坊ヨリ守護シ来ル、爾後遥ニ年ヲ経テ文治年間山伏持チトナリ建武二年観覚法印真言宗法光院ヲ基立ス、康永元年将軍足利尊氏公堂宇建立、寺領拾貫文ヲ給フ、然ルニ将軍家追々衰微シテ天正十一年細川藤孝公丹後ノ国主トナリ此時改メテ天王領トシテ寺屋敷地六反歩並ニ毎年米五斗ヲ給フ、細川忠興公豊前国小倉ヘ移ル慶長九年京極高之公田辺ノ城主トナリ寛文八年牧野親成代テ田辺ノ城主トナル、従来ノ領主代々細川家ノ如クニ給フ、元禄三年九月二十日火災ニ罹リ堂宇不残焼失ス此時本尊薬師如来ト後光ノ五如来而已存遺ス。今ニ伝来ス是ニ同四年中興開基印算法印厩、方丈建立ス、明治四年ニ至ル迄牧野家代々領米ヲ給フコト如故、明治五年天下ノ諸侯封土奉還シ是時政府藩政ヲ廃シ府県ヲ置キ(三府七十五県)丹後国ハ豊岡県管轄(丹後国五郡、但馬国八郡、丹波ノ内三郡)トナリシトキ天王領ヲ廃セラレ、明治九年豊岡県ヲ廃シテ丹後国五郡丹波国天田郡ヲ京都府ノ所管トセラル、明治十一年一月三十日、住職福井恵舜病ニ崩ス、依テ同年二月五日付ヲ以該本寺智恩院住職森脇深宝兼務願書差出候処、同月二十五日戸長並ニ惣代之者宮津支庁ヘ御呼出相成御説諭ノ旨趣ハ無住ニテ無檀無録ノ寺院ハ将来永続ノ目的ナク寧ロ廃寺ノ儀出願候様ニト御説諭相成ル、而レトモ該件ノ如キハ固ヨリ即答ノ申上ガタキ議ナレバ帰村ヲ得テ篤ト談合ヲ遂ル迄御猶予願置村方並法類ヘ右御説諭ノ趣言述及ヒシ処果シテ承諾ヲ不得、爾後度々呼出サレ同様御説諭相成レトモ何分廃寺ノ件議ハ一同不腹ノ儀ニ依テ御請仕兼候旨御答申上置、帰村の途中如斯ノ件ハ大本山アリ勿論同所ヘ談合モ遂クベキ議ナレバ直チニ大本山山城国葛野郡御室仁和寺ヘ罷越右御説諭ノ條申述ル処、同寺ニ於テモ不腹ノ儀ナレバ黙止カタクトテ所轄京都府庁ヘ申出右廃寺ノ儀は村方熟議ニ不至ヲ御支庁ヨリ数々御説諭相成シ趣サレトモ、村方不腹ニシテ協議ノ決談ナラザルヲ押而御説諭ニ相成候趣伺出候処、某末同年六月二十八日宮津支庁ヨリ呼出シ之上該件ハ本庁ヨリ照会ノ儀モ有之ニ付、廃寺ノ論議ハ其侭閣候旨被申渡帰村ラレ申付、同十二年三月二日為永続同寺信徒ノ輩講社ヲ取結フ該起社ノ旨趣ハ固ヨリ区長所ヘ申出置例年護摩供ヲ執行ス、則是ヲ護摩講ト云
  明治十二年三月
…(署名)…  〉 

『ふるさと女布』
 〈 追記
 菩提寺(法光院)の護摩講は相当古くから執行されていたようで、それを明治十二年改めて組織作りをして、護摩講結社としたものと思われる。
 すなわち護摩講世話人の名簿の初めに「旧例ニテ三月十八日ニ菩提寺法光院ノ本尊薬師如来ノ霊前ニ於テ大護摩講供修行云々」と記されており、また青井村の古文書にも「例年女布村法光院ニテ五穀成就之御祈祷御座候ゆへ参詣仕相勤申候
 右年内相勤申候儀荒増書上申候へ共右之外年中御用勤数多候へ者不時之儀者書上不申候」 (舞鶴市史編さんだより一〇二号)
との記録があり、これらを推察すると、この近在の各村に広範囲にわたって信者があり、盛大な護摩講が行われていたことをうかがい知ることが出来る。  〉 

『丹後国加佐郡旧語集』
 〈 法光院。智恩院円隆寺末。縁起不知。伝来ハ足利尊氏公ノ比建立ト云。元来天台宗也。段々退転中比ハ百姓守護也又山伏持にも成。古昔ハ寺モ多シ今ハ此寺斗也。…  〉 

『加佐郡誌』
 〈 金峰山菩提寺、真言宗、天平年間創立、高野村  〉 

『丹哥府志』
 〈 【金峰山菩提寺】(真言宗)  〉 

『丹後国加佐郡寺社町在旧起』
 〈 女布村
金峯山菩提寺は真言宗田辺円隆寺末寺なり、開基退転故時代知れず、本尊薬師、行基の作。牛頭天王社並末社あり、古谷山隣松寺、桂林末寺、村中位牌所。日原明神、下森明神、石の地蔵、森脇宗坡。  〉 


曹洞宗古谷山隣松寺
『丹後国加佐郡旧語集』
 〈 桂林寺末  〉 

『加佐郡誌』
 〈 古谷山隣松寺、曹洞宗、寛永年間創立、高野村  〉 

『丹哥府志』
 〈 【古谷山隣松寺】(曹洞宗)  〉 

『ふるさと女布』
 〈 古谷山隣松寺
 曹洞宗(桂林寺末)
 本尊 釈迦如来
 古谷山隣松寺は桂林寺十五世宝谷舜鏡大和尚=慶安元年(1648)十一月二十一日 示寂=が開創、安政六年(1859)正月桂林寺三十世碓嵒タイガン永宗大和尚の開山になる。
 御詠歌
  西を見て小川のうへの隣松寺  古谷山とはいつもいふなり
  境内は一二五坪、本堂、観音堂、六地蔵、土蔵が完備し、檀家数六三戸である。
 女布はもと京田の臨済宗・善福寺の檀家であったが、寛永年間、善福寺が大火にあい焼失したため、寛永十年(1633)二月森脇庄左衛門が隣松寺を建立したとの伝承がある。
 宝谷舜鏡大和尚開創以来、碓嵒永宗大和尚開山に至るまでの約二百余年間の実情は、記録もなく詳らかではないが平僧寺であったと考えられる。平僧寺とは、首座が管理し、檀家の葬式には、桂林寺和尚が、引導授戒したものと思われ、一家寺としての独立は、永宗大師以来、百余年間に過ぎない。
 現住職で十三世となるが、二世より八世までの在職年数は短く、九世に至り弁成大和尚は在職年数も長く、温厚篤実、一般の帰依も深くまれに見る名僧であったため、観音堂の新築その他堂宇の改築も甚だ多かった。隣松寺の隆盛は、けだしこの人によって面目を一新したといわれている。
 昭和二十八年十二月十日、十二世透関至玄大和尚の示寂に伴い、大透建司和尚十三世とな。この間、昭和十二年位牌堂の改築、同四十九年本堂の草葺屋根をトタン葺に葺き替えるなど、また数々の仏具の整備、本堂の改修など檀家の寄進により寺院としての面目を一新しつつあることは喜ばしい限りである。…  〉 

上路神社
八幡神社
愛宕神社

《交通》


女布の主な歴史記録

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 女布村
金峯山菩提寺は真言宗田辺円隆寺末寺なり、開基退転故時代知れず、本尊薬師、行基の作。牛頭天王社並末社あり、古谷山隣松寺、桂林末寺、村中位牌所。日原明神、下森明神、石の地蔵、森脇宗坡。
  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免七ツ一分
女布村 高三百六十七石九升
    内弐石 万定引
    十石御用捨高
 古城 山脇相破
 日原明神 六月十一日祭 九社之内
 牛頭天王
 下森明神        九社之内
九社明神之卸旅所也中絶ス 村ヨリ東方山際ニ森
有リ芝原也耕サス
 隣松寺 古谷山 桂林寺未
             知恩院
 菩提寺 金峯山 法光院 円隆寺末
  緑起不知 伝来ハ足利尊氏公ノ比建立ト云元
  来天台宗也 段々退転中比ハ百性守護也又山
  伏持ニモ成 古昔ハ寺モ多シ今ハ此寺斗也
  本尊 薬師 恵心僧都作
  脇立 観音 弥陀 不動 毘沙門
   元禄年中焼失本尊斗残ル  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎女布村(由里村の次)
【日原神社】(延喜式)
日原神社、今日原大明神と称す。
【金峰山菩提寺】(真言宗)
【古谷山隣松寺】(曹洞宗)
 【付録】(森大明神、牛頭天王)  〉 

《加佐郡誌》
 〈 女布は古代には彌布と書いたが中古から今の名に改められた。ニョオはアイヌ語の村と言ふ意味のものであると高野村民政制度沿革調査書(手記)にあるけれども辞書には見えないから信じがたい。中筋村字京田との境に白雲山がある。此処は一色氏の臣森脇宗坡の城址であるとのことである。宗坡は中筋村の郷士であった。後に細川氏に敗られたけれども後胤と称するものが今なほ現存している。森脇庄左衛門は此一族の宗家である。此処の古谷山隣松寺及舞鶴町引土の愛宕祠は宗坡が建設したものである。又宗坡が娘であって丹波何鹿郡滋賀里村の郷士赤井氏に嫁せし者に就いて世俗に伝ふるところの伝説は第五篇口碑伝説の章に精しく述べてある。  〉 

《地名辞書》
 〈 或云、和名抄の高橋郷は今詳ならず、本郡に岡田村の首里を由理と云ひ、河辺村高野村の首里いずれも由里と云へり、由里の名義を詳にせず、或は疑ふ高橋は高野の誤にして、即田辺の南なる高野村かと。又云、和名抄の刊本に田辺郷を田造郷に謬る。今高野村大字女布(古訓メフならん)に延喜式目原メフ神社あり、又隣村池内の大字今田に延喜式倭文シツリ神社あり、舞鶴の南二里にして分水嶺あり真倉峠と云ひ、何鹿郡綾部山家に通ずる坂路とす。  〉 

《丹生の研究》
 〈 丹後の丹生
 丹後の舞鶴湾の咽喉部に大丹生がある。いまは舞鶴市域に加わっているが、近ごろの市域のことであるから、東舞鶴港から1時間も船にゆられなければ行きつかない僻地で、もとの行政区画の京都府加佐郡西大浦村大丹生と表示する方がふさわしい。訪れてみると、この大丹生は、舞鶴湾口の狭い海峡に面しているが、それでも小さな入海を抱いて波静かであり、海岸から2.5kmの谷奥まで楔形に耕地が拡がる。この谷のなかを大丹生川が流れているが、河の左岸つまり南側は黒色の土壌であるのに、右岸は水銀の鉱染をうけて赤い土があらわれ、それは部落の北にそびえる赤坂山につづいている。この土壌には水銀0.00051%が含まれ(昭和別年7月30日採取)、この僻地に大丹生が存在する理由を頷かせた。
 大丹生部落の南隅には海辺の白砂の上に大丹生神社が鎮まる。しかしこの社名は明治になつて郷名に基いて呼称されたもので、実体は山王社にほかならない。この村には別に海辺から約1kmの奥に今は奥の宮と呼ばれている熊野社がある。それからさらに奥に進んだ丘陵面に宮の尾という地名も残っているが、これ以上むかしの大丹生の人たちに信仰された神の正体を捜ることはできない。丹生の実状に即したニウヅヒメ祭祀は、すでに村民の生活が変つている以上、追求できなくなってしまった。古記録はむろんない。ただ古老(堂本松之助・上林新吾の両氏)に訊ねて、大丹生に対比して考えられがちな小丹生の名がどこにもないことは、確かめることができた。
 ところで、大丹生の北、
、舞鶴湾の湾口部に湾に面して浦丹生という小部落がある。これは丹後半島の東北岸に見出される蒲入(がまにう、与謝郡本庄村)とともに、丹後のどこかに丹生を設定しなければ解けない名称である。この疑問に対して、私は舞鶴市の南郊に位する女布(にょう)をまず取上げた。ここは国鉄西舞鶴駅から西南に2kmをはなれ、もと丹後国加佐郡中筋村に属していた。私は昭和37年11月6日に、前章で紹介した丹後の伊加里神社を探求に行ったとき、偶然足を踏みいれることができたが、そこは300m級の丘陵に包まれて北向きの姿を見せる別天地であった。部落の背後の山のかなたには、真言系修験の形跡を留める高野(こうや)の地があり、またこのあたり一帯の山の腰には水銀の分析値0.009%を示した試料が得られたほどの土壌が歴然としている。したがって、朱砂の産出を意味するニフという地名を漢字で女布と表記したと考えることができる。
 その後、友人の永江秀雄氏の指教によって、私は女布と称する地点がこの附近になおいくつか存在することを知った。京都府竹野郡網野町木津の下和田に女布(にょお)谷がある。これと山すじ1つを距てた西側の熊野郡久美浜町には、旧の田村の関部落に女布(にょお)という小字があり、女布権現山(343m)がそびえ、“女布の赤土”が有名であったという。しかしこれらの女布を丹生の異字とする考えにブレーキをかけたのは「出雲風土記」であった。この書の意宇郡の条に、神武官が配されていた48の官社を挙げてあるうちの1つ売布(めふ)社がそれである。今日、同名の社は上記の竹野郡や熊野郡の女布にも鎮座しているし、但馬・出雲にかけて分布している。この神社の正体を究明してみないと結論を急ぐことにはできないと、痛感している。…  〉 




女布の小字


女布 馬場 大坪 タコダ 城坂 家ノ下(家下 鳥ノ奥 大谷口 宮谷口 大谷 宮谷 横波 大所 八田 山ノ神 桂ケ谷 間奥 大石 大林 アサゴ 千石山 日原 横山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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