鎌鞭山如来院(にょらいいん)
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京都府福知山市大江町仏性寺 京都府加佐郡大江町仏性寺 京都府加佐郡河守上村仏性寺 |
如来院の概要《如来院の概要》 宮津街道を大江町側から行くと「物成小学校跡」を過ぎて「鬼ヶ茶屋」の少し手前になる。道路ぶちに右の鬼がいる。この上手から登れる山麓台地上にある。(まうしろが大江山(千丈ヶ嶽)、鬼の横に駐車場がある、上にも駐められる) 山号は鎌鞭山、高野山真言宗、本尊薬師如来。近世には仏性寺と号して、字内宮の元伊勢内宮・皇大神社の宮寺であったという。麻呂子親王の鬼城征伐祈願の精舎と伝える。 本尊の薬師如来は六一年目ごとに開扉され、この時本尊の台下の小厨子に蔵する小薬師仏の右手に紅・白・青の絹糸を結び、参詣者に引かせたという。 親王使用と伝えられる鎌と鞭が納められていたが、鎌は二瀬川氾濫の水魔降伏のため淵へ投げ込人だといい、その場所を鎌淵とよんだ。室町期のものと想われる懸仏六面も保存する。もと一二面あったが近代に北原の熊野神社と分けたという。 鎌鞭は釜渕だろうか。二瀬川のそうしたヨドミ、水神の棲む釜のような形の深い渕の名ではなかろうか。この寺院は山よりも川に関係があるのであろうか。 その61年ぶりのご開帳が平成26年に当たっていた。一般公開されるというので行ってみた。5月18日に開扉法要が営まれたという、その次の日であった。参詣者で一杯かと思いきや、猫の子一匹いない↓、アレ間違えたかなと思いながらであった。 ほ〜らダレもいない。 61年ぶり、鉄製薬師如来本尊のご開帳寺伝によれば、如来院は奈良時代に創建され、薬師如来像は鎌倉時代に作られたという。鉄製で高さは約15センチ。普段は木製の厨子の中に安置されている。開扉の記念事業として、本堂の一部改修や蔵の増築をし、晋山式も行われて新しいご住職に代わられると、新聞にはあった。 しかし全体に綺麗にしてあるし、行ってみよう。 やはり公開されていた。ただ写真はダメですので、実際に足を運んでもらうより拝観方法はありません。下はその時もらった案内↓ 〈 本尊ご開帳法要について 如来院は用明天皇の第三皇子で、聖徳太子の弟にあたる麻呂子親王が、大江山の鬼賊征討を祈り、成就ののち、薬師如来の加護に感謝し、御持仏の薬師如来像を納めて開基したと伝えられる古刹です。 山号の鎌鞭山は親王愛用の兵法の謙と鞭を納めた故事に由来するといわれています。 寺伝によれば、平安時代中期(十世紀末)阿忍上人が中輿したとも伝えていますが、往時繁栄を今にとどめるのが本尊薬師如來座像と京都府の登録文化財となっている六面の金銅製の懸仏です。 当寺はもと八丁ほど奥の山の手にあったのを天和三年(一六八三)快尊上人のとき現在地へ移したと伝え、この快尊上人を如来院第一世としています。 このように、当寺が千年の歳月をこえて法燈を絶やすことなく今日を迎えることが出来ましたのは、ひとえに檀家のみなさま、ご先租のみなさまの深いお力添えのおかげであり、感謝に堪えないところです。 みなさまご承知のように薬師如来は人々の病をいやし病苦を救って下さる仏です。厳しい昔のくらし、とりわけ医学の恩恵をうけることが出来なかった大昔の人々ば、薬師如来の加護にすがりながら懸命に生きてきたのです。 この薬師如來は霊験が非常にあらたかなので、ふだんば何人も拝観を許されない秘仏となっております。当如来院の薬師如来も六十一年毎にご開扉される秘仏です。この薬師如来像の台の下には小厨子があり、この厨子の中にも非常に珍しいとされる鉄製の小薬師像が安置されており、六十一年のご開扉のときにはこの小薬師嫁も開帳されます。 この小厨子の四隅の脚は長寿の瑞祥とされる桃の実でつくられ、この小薬師ば五色の糸を手にするなど、長寿延命の願いを込められたものとして美術史上でも注目されています。 如来院住職 如来院総代一同 〉 ご本尊の大きな薬師様があって、その下にガラスケースに収められた小さな薬師様がおられた。秘仏はこの両方のようである。紅・白・青の絹糸も結ばれている。 薬師と不老長寿の思想が結びつくと知らなかった。いいことを勉強させていただいたのであった。 如来院の主な歴史記録《加佐郡誌》 〈 鎌鞭山如来院、真言宗、用明天皇第三皇子麻呂子親王建立。川守上村 〉 《宮津府志》 〈 鎌鞭山 佛性寺 号如来院 在加佐郡佛性寺村 眞言宗 高野山西院谷自性院末 本尊 薬師如来 一寸八分黄金佛 開基 麿子親王 中興開山阿忍上人 寺記ニ曰。用明天皇第三ノ皇子麿子親王開基本尊薬師者即チ皇子ノ護身佛也。薬師堂往古在二山上一距蓄卜今ノ堂地一八町餘也。皇子以二所持ノ鎌及鞭一埋二蔵ス於當山一故ニ以二鎌鞭一爲二山号一云々。後堂塔破壊矣。一條帝正暦元年摂州三尾邑人阿忍上人再二興ス堂宇於山下一乃チ今ノ堂地也。 〉 《大江町誌》 〈 丹後地方へはっきり仏教が流布してきたのは十世紀ではないかとされ、まず天台系の密教が入った。丹後地方最古の仏像は、宮津市金剛心院の宝生如来立像であり、その制作年代は九世紀後半、国宝である奈良元興寺の薬師如来立像との様式上の共通性が指摘されている。 平安時代の丹後への仏教伝播の中で最も注目すべきことは、七仏薬師信仰の普及である。前章「大江町の伝説」麻呂子親王伝説のところでのべてあるように、丹後には薬師如来を本尊とし、麻呂子親王によって開かれたと伝える寺が多いが、大江町でも清園寺と如来院がその伝承をもつ。薬師如来は、人格を高め衣食住を豊かにし、病苦災禍をとり除くなど十二誓願をたてた仏であり、その現世利益的な効能が人々に強くアピールし、古来厚い信仰をうけてきた。霊験のあらたかな仏であるから、霊威をおそれるのあまり秘仏として取扱われることが多く、人の目にふれないようにするため胎内仏をもつのも特徴である。また薬師如来は、薬師七仏本願経に基づいて分身七体があるとされ七仏薬師とよばれる。 丹後における七仏薬師信仰は、天台密教で説くものと異なり、奈良時代に既に伝えられていた七仏薬師経に基づく御霊信仰的性格が強いものであった。当時、薬師経は御霊の崇りを防除する経典という性格をもっていたのである。御霊信仰というのは、疫病の流行や飢饉など悪いことが起こるのは誰かの怨霊のせいだと考え、祟りがないようにその怨霊を鎮めようとする信仰である。奈良時代には中央で貴族の抗争がはげしく、失脚者が相次いだが、その背景に藤原氏の勢力拡張の謀略が存在していたとみられたところから失脚者が無実の罪をきせられて殺されたという噂がひろまり、当時の日本社会を襲った災害は、自然災害とは認識されずに無残な最期をとげた貴族たちの怨霊のなせる仕業と信じられてきた。 こうした怨霊の怒りをしずめ、世の中の非難をやわらげるために起こったのが七仏薬師への信仰であった。この七仏薬師信仰が丹後へ入ったのは十二世紀ごろとされるが、都から遠くはなれた丹後では、疫病や飢饉など生活不安にさらされた民衆たちは、都のように特定人の怨霊の仕業と考えるのでなく、大江山(三上ヶ獄)にすむ鬼の仕業と考え、その怨霊鎮圧の霊力をもつ仏として七仏薬師信仰を大江山の周辺にうけ入れていったのである。 大江町には麻呂子親王の開基と伝える寺として、清園寺と如来院があり、ともに薬師如来を本尊とする。ともに秘仏であり拝顔の余地もないが、清園寺の本尊は十一世紀の作とされ、典型的な定朝様を示し、中央仏師の手になる大江町内仏像中最高の秀作であると鑑定されている。また如来院の秘仏は、六一年に一回の開扉であるが、開扉のとぎ薬師像の手に結んだ紅白青の絹糸を参詣者に引かせる。これは藤原貴族が阿弥陀像の手に結んだ五色の糸を引いて、摂取浄土の思いをしながら往生をとげた故事と関連があるものといわれる。七仏薬師信仰が呪術的傾向をもち浄土教が普及した平安時代にあっても、この地方の浄土教は、薬師信仰的なものに変形してから受容されたことを物語り、十世紀以後貴族社会に流行した阿弥陀信仰の地方普及の一形態を示すものだとされる。こうした清園寺本尊の制作年代、如来院の開扉時の風習からみて、両寺草創の時期は、平安時代後期であったのではないかと推定できる。 寺伝 「磨子親王建立ニテ親王御守本尊七仏薬師随一卜云来リ候」(明細帖)とあって開基を麻呂子親王とし、正暦元年(九九○)阿忍上人が中興、初代快尊上人(天和三年(一六八三)寂)が、現在地より八丁程上の山の中腹にあった寺を現地に移し建立と伝える。 本尊 薬師如来は、麻呂子親王の念持仏といわれ、六一年ごとの開扉以外は一般の拝観を許さぬ秘仏である。詳細は文化財の項によられたい。 什物 懸仏六面(文化財工芸品として解説) 鰐口 宝永五年二月八日、七仏薬師と記銘あり。 鏡 元禄十二年の記銘がある。 銅鑼 貞享子年大吉日。施主仏性寺村内宮毛原村北原村内儀中為二世安楽。と在銘。 涅槃軸 元禄十二年の調度 写経 永正年間(一五○四−二一)、享禄年間(一五二八−三二)の書写 沿革 本堂長禄元年建立の棟札あり。現閣は明治三十二年建立。庫裡大正十四年、山門兼鐘楼昭和二十四年再建。 〉 《大江町誌》 〈 如来院文書 奉書三三・五p×四一九p 大江町字佛性寺にある古刹 鎌鞭山如来院(真言宗高野山金剛峯寺末)もまた麻呂子親王伝説を創建の由来とする。本尊の薬師如来は一寸八分(約六センチメートル)の黄金仏で、親王の護身仏であると伝える。如来院縁起は、こうした創建の由来を詳しく述べたものである。 返り点も送り仮名もついていない漢文であり、かなり難解なものであるが、その概略を紹介すると、 佛性寺如来院は、用明天皇の第三皇子丸子親王(麻呂子親王の別名)が建立されたものである。その由来をみると、河守庄三上之獄(大江山千丈ケ岳)に、英胡、迦樓夜叉、土熊という三鬼を首領とする鬼がいて人々を苦しめたので、朝廷では親王を大将として鬼賊討伐の軍勢が出された。京都を出て丹波路へ入って、馬堀にさしかかったとき、地底で馬のいななくのを聞き、ここを掘ると栗毛の龍駒が現れ、この馬に乗り山上ケ獄へ向かった。親王は、河守庄の日室山の険しい山に分け入って筒明神を拝されるが、この日室山は天照大神の分身の垂跡の地である。谷底は深く、ここに筒明神が祭ってある。 ここから二里ほどいくと笠脱縄手があり、下馬橋のところから五十町分け入ったところに三重瀧がある。この瀧の辺りに鬼が集まり住み家としている。親王は、薬師如来、日光月光菩薩、十二神将、七千夜叉、八万四○○○の眷族に祈られたところ、どこからともなく犬が鏡を頭にのせて親王の前に現れ、親王の四天王、黄披、双披、小頭(一書ニ小頸トモ)、綴方が先頭になって鬼を攻めたので、鬼はみな岩窟に逃げ込み姿が見えなくなった。そこで親王が鏡をとって見られると、鬼の住み家の中がはっきりと見えた。この明鏡を先にして犬を先導にして洞穴に入り鬼どもを討ったが、土熊は逃れて三上ケ獄の洞穴に入った。三重瀧の洞窟から、三上ケ獄の洞穴まで穴が通じている。その後、鏡を三上ケ獄の麓に祭り、犬鏡大明神とか大虫明神と称した。河守庄の庭森明神がそれで、伊勢神宮の鏡宮の変化である。親王は佛性寺を開かれ、親王の念持仏であった金の薬師像をつくり、七間四方の薬師堂に安置された。そのほか、拝殿、灌頂堂、護麻堂、法花堂、二階門など諸堂宇を建立した。薬師堂の下に淵があって、そこに親王が兵法に用いられた鎌と鞭を納められたので、山号を鎌鞭山といい、佛性寺の名は、涅槃経の一切衆生悉く仏性有りとの経典の本義から寺号として選んだものである。その後、この寺は衰微すること久しかったが「正暦元年接州(摂州か)三尾の阿忍上人が瑞相があったとしてこの地へ入られ、もと寺のあったところから八丁ばかり下のところへ寺院を再興された」というものである。 麻呂子親王伝説や、この伝説と薬師信仰の結びつきについての検討は通史編に譲るが、この如来院縁起の中で最も注目すべきことは縁起の末尾に「正暦元年九月八日 仁王六十六代帝 一条院御宇也」とあることで、この正暦元(九九○)年は、源頼光の大江山鬼退治物語で、鬼退治が行われたとされる年であることで、麻呂子親王伝説と源頼光の鬼退治物語の複合を示唆してくれる。また、この如来院縁起の中で、三上ケ獄に住む鬼が、鬼神と表現されていることも興味深い。これらについての検討も通史編に譲りたい。 この如来院には、この縁起のほかに、「佛性寺末寺の覚」という古記録が残る。これによると、如来院は、近辺に、目連寺(内宮)、成願寺(北原)、極楽寺(北原)、観音寺(毛原)、観□寺(前野)、蓮華寺(内宮)、長澄寺(北原)、志□寺(前野)の八ヶ寺を末寺としていたことがわかり、往時の隆昌がうかがえる。またこの「覚」に、佛性寺とあることや、縁起の中に、佛性寺の寺号は、「一切衆生悉く仏性有り」という経典の本義から取ったとあって、いま地名となっている佛性寺という名は、実は如来院の古名であったのではないかと推定される。 丹後国伽佐郡河守庄佛性寺縁起事 …略… 如来院 大江町字仏性寺七四二 真言宗 木造薬師如来坐像 一躯 本寺安置スル薬師像ハ秘仏トシテ六十一年一度開扉ス、薬師仏ノ台下ニマタ別ニ小厨子アリ。先年本堂造作修繕ニ際シトリ出シタルニ 厨子中マタ小薬師仏ヲ安置シアリ。六十一年目開扉ノトキハコノ小厨子モ開カレ、安置ノ薬師ノ小仏ノ手ニ結ベル絹糸ヲ長ク引キテ参詣者ニ引カセタリ。今龕中薬師像・右手ニ紅白青ノ絹糸ヲ結ベルヲ見ル。コノ風ハ藤原道長ノ臨終ニ際シ阿弥陀尊ノ手ニ五彩ノ糸ヲ結ビテ、摂取浄土ノ願求ヲナシタルヲ思上合ハサル、モノニシテ、中世ニ於テモ画像ノ阿弥陀尊像ノ手ニ五彩ノ絹糸ヲ縫ヒ、其ノ端ヲ引カシメシコト等同ジ思想ヨリ来ルトコロナルヲ思ハシム。 厨子ハ其大キサ底部横七寸、竪五寸五分、全高九寸七分ノ木製ノモノナレド、其造リ方甚ダ古撲ノ感アリ。厨子正面ニハ日月及雲ヲ扉ノ上ニ描キ、開ケバ其内部ニモ同様赤色顔料ヲ以テ描ケリ、図様亦簡朴ナリ。厨子ノ底板ノ裏ヲ見ルニ年号ヲ記セリ。墨色年ヲ閲シテ読ミ難キモノアリ。コレヲ判読スルニ、 天正十一年九月廿四日しゆぜん ノ文字ヲ見ル。即チ其年ヲ以テ修繕セルモノニシテ彩色等蓋シ其時ノモノナラん、厨子製作年代ハ是レヨリ遥カニ遡ルベキモノナルベシ。 底裏ニハ四隅ニ木実ヲ以テ脚ヲ作レリ。一種雅味アル方法タルヲ失ハズ。而シテ木実ハ年経リテ変色セリ卜雖桃ノ実ナル加シ、思フニ、コレ桃ノ実ナルヲ以テ特ニ薬師如来ノ厨子ノタメニ之ヲ附シタルナルベシ。 即チ桃実ハ長寿ノ祥瑞トシテ長生ノ思想卜連関シ、又魔ヲ除クノ呪物ダル信仰ハ、其起源ヲ支漢土ニ発 シ、我国ニ於テモ既ニ上代之ガ存在セルヲ知ルモノナリ。然ルヲ以テ長生療病ヲ祈ル薬師仏ノ厨子トシテ、コレヲ用ヒシモノトシテ興味アルヲ覚ユルナリ。(西田委員) 鉄造 薬師如来坐像 鎌倉時代 如来院は清園寺と同じく麻呂子親王が三上山の鬼賊を退治して発願した七仏薬師の一という伝承をもち、山号の鎌鞭山は麻呂子親王が当寺に、戦に用いた鎌と鞭を施入したことによるという。本尊薬師如来は六一年ごとに開扉される秘仏で、この鉄造薬師如来は本尊の胎内に納められているもので、手に五色の糸を結んでいるのは、開扉の際参詣の人々に引かせたものという。像は通形のものであるが、頭部に螺髪をつくらず縄文を表わす点が珍しい。造形的にも優れ、台座から光背まで当初のものを残している点も貴重である。 「丹後の錦」より(若杉)) 〉 《舞鶴市史》 〈 丹後の七仏薬師信仰 丹後国には八、九世紀から一○世紀にかけて、伝説と史実のあいだ、いろいろな説話が、それぞれかたちをかえて伝承されているが、それらのなかで多祢寺の縁記は宝永七年(一七一○)田辺桂林寺の一七世、華梁霊重が上梓した「田辺府志」(巻二)のなかの丹後七仏薬師の伝承を同一八世香邦叶蓮が享保二年(一七一七)二月漢文に書き改め清書したものである。この伝承は飛鳥時代、用明天皇の皇子で聖徳太子の異母弟麻呂子親王にまつわる鬼賊退治の説話で、時代的には多少錯誤はみられるものの九、一○世紀にまでさかのぼる薬師信仰が丹後地域に浸透密着しわ由縁を話したもので要約すると次のように述べられている。 丹後国加佐郡白久荘医主山多祢寺は密教の霊場で用明天皇二年、王子麻呂子(また釜麻呂親王という)が創立した寺である。親王は与謝郡河守荘三上山(鬼城)に住む英胡・軽足・土熊の三鬼が庶民を害したので、それを征伐する将軍に選ばられた。親王は葛城直磐村の広子の所生で天性雄健でとくに仏教を尊崇していた。それで鬼退治の出発に当って仏陀神明の妙力を頼むため七仏薬師の法を宮闕で修め小金体の薬師像一躯を鋳て護身仏とし、また伊勢神宮に詣り神徳の加護を祈った。丹後国に赴く途中不意に白犬が現われ親王に宝鏡を献上することがあり、これは祥瑞であると悦ばれた親王はようやく従者の黄披・隻披・小頚・綴方とともに鬼窟にたどりつき、首尾よく英胡・軽足は殺したが土熊は逃走して竹野郡の岩窟に逃げ込んだためついに見失ってしまった。このときさきの宝鏡を松の枝にかけたため土熊の姿がこれに歴然とうつり、そのため、これを退治することができた。その後宝鏡を三上山の麓に納めて大虫明神と号した。或説によると、この鏡は伊勢鏡宮の所変であったという。 鬼退治が終ってから神徳の擁護に報いるため天照皇大神宮の宝殿を竹野郡に営み、その傍に宮殿を造営した。これを斎大明神という。また仏徳の加護に報いるため、丹後国の七か所に七仏薬師を安置した(「丹後の七仏薬師像」)。 縁記の大要は大体以上の様で、このあと七仏薬師を奉安したのは丹後国の、(一)加悦荘 施薬寺(現与謝郡加悦町滝)、(二)河守荘 清園寺(現加佐郡大江町河守)、(三)竹野郡 元興寺(現竹野郡丹後町願興寺)、(四)竹野郡 神宮寺(現竹野郡丹後町是安)、(五)溝谷荘 等楽寺(現竹野郡弥栄町等楽寺)、(六)宿野荘 成願寺(現宮津市小田宿野)、(七)白久荘 多祢寺(現舞鶴市多祢寺)、であると記している。 この七か寺の名称は他史料には、あるいは日光寺(現中郡大宮町)円頓寺(現熊野郡久美浜町)如来院(現加佐郡大江町)福寿寺(現与謝郡野田川町)などとなっていて一定していない。なお、縁記にある大虫神社は農作物に被害を与える害虫を神の仕業と考え、これを祭神として麻呂子親王ゆかりの神像を祀ったという加悦町温江の式内大虫神社で、斎大明神は同じ麻呂子伝承をのこす丹後町字宮に所在の式内竹野神社にあたる。 このほか「多祢寺縁起」には往昔、境域に東西両塔・二重鐘楼・求聞寺堂・二王門・熊野権現を勧請した鎮守や、寂静院・吉祥院・西蔵院を長寺とする八か寺などがあり山麓には伝教大師自刻の不動明王を本尊とした浄土寺があったと記している。延暦元年(七八二)五月に住僧奇世上人が薬師の神呪により桓武天皇の御脳を癒した。このため帝力の余裕を得て旧観に復したので奇世上人が中興となったという。爾後永正十一年(一五一四)十一月三日不意に来冦した逆党の賊兵のため山中の什宝が略奪され、この時古記録が失われて今では、本堂・僧房・庫裡・仁王門と二、三の古区をのこすのみと結んでいる。 この縁記は、はじめに日々庶民に暴虐をつくす三上山の鬼賊を退治するという前提があり、この山が大江山に連なる河守荘となっているため麻呂子親王と源頼光が混同され伝えられている例も多い。しかし、その内容は前者は七仏薬師法による仏力の加護を根底にして、伊勢大神宮の所変にかかわる皇恩の浸透が丹後の大虫・斎両明神にまで及んで、退治のあとは修法の本義に基づき、七か寺に七薬師を分置したと伝えており、後者は鬼賊退治後ただちに都に凱旋して、あとに何も残さないという一過性のもので異質なものとなっている。多くの土民に仇をなす鬼が朝命によって退治され、その恩寵の余波が七仏薬師となって各地に定着し、これを通じて九、一○世紀のいわゆる皇威が各地に伸張してゆく状況を示唆する物語であるだけに、この仏教説話は古代の丹後を語る場合重要な意味をもつものと思われる。 薬師信仰の本願は普通・病苦・災禍を除き、心身の安楽を得るためのものとされ、中国随代から唐代にかけて成立した「薬師如来本願経」や、「薬師瑠璃光本願功徳経」が達磨や玄奘によって訳出され、順次我が国に渡来し修法の基本となっていたという。これに対して分身七仏薬師の造像をすすめる「薬師瑠璃光七仏本願功徳経」は唐の義浄が新らしく訳出したもので、これが渡来してからは前後の二修法が行われたとされている。 こうしたなかで、これにかかわる初見は「天武紀」朱鳥三年(六八八)五月条の、癸亥(二十四日)から天皇の病篤く、ために川原寺に於て薬師経(薬師本願経)を説かせ、また宮中で安居させたという記事である。 「類聚国史」に出示する記事のうちで、大同四年(八○九)秋七月乙巳(一日)と同五年(八一○)已卯(十一日)の平城天皇不予に対する修法は前者の「薬師本願経」で行われ、嘉祥元年(八四八)三月丁酉(十九日)の仁明天皇不予に関わる修法は、後者の「薬師瑠璃光七仏本願功徳経」で行われ「丁酉。於二清涼殿一修二七仏薬師一画二七仏像一。懸一一御簾前一」とある。このあと台密系寺院で多く修法される「七仏薬師法」は、鎌倉時代初期に成立した「覚禅鈔」によると、天暦十年(九五六)良源によって比叡山で行われたのが最初であったという(「八、九世紀の七仏薬師像」中野玄三)。 こうした一連の薬師信仰の史料を通じて多祢寺の縁記を見る場合、麻呂子親王と七仏薬師法渡来の時代的なへだたりから、その背景となっているものは天台系ではない八世紀か、またそれ以前の薬師法を考えなければならない。これらは後世の改宗を考慮に入れなければならないが、現在の丹後七仏薬師由縁の寺院には天台宗寺院が一か寺もないことからも、丹後の七仏薬師信仰は奈良時代前期にはすでに伝えられていた疫病を鎮めるための御霊信仰的なものであったといえる。 丹後の大江山連峰につらなる三上山の鬼を退治するため、まず小金銅の薬師像を鋳造して入部し、ようやく目的を達して七か寺、二社に足跡をのこした麻呂子皇子の伝承は仏教と固有信仰との習合を物語り、こうした体験を経て、都の仏教文化がはじめて丹後一円に広く浸透していったと考えられる。 〉 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『大江町誌』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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