旧・岡田上村
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京都府舞鶴市桑飼上・桑飼下・地頭・大俣・滝ケ宇呂 京都府加佐郡加佐町桑飼上・桑飼下・地頭・大俣・滝ケ宇呂 |
旧・岡田上村の地誌《旧・岡田上村の概要》 岡田上村は舞鶴市の西部。由良川の中流に位置する。 明治22年〜昭和30年の加佐郡の自治体名で、桑飼上・桑飼下・地頭・大俣・滝ケ宇呂の5か村が合併して成立した。旧村名を継承した5大字を編成。村名の由来は旧岡田荘のうち由良川上流の地域にあたることによるという。役場は地頭に設置した。 昭和30年加佐町の一部となる。村制時の5大字は加佐町の大字に継承された。同32年からは舞鶴市の大字となる。 《人口》877《世帯数》329。 《交通》国道175号線 《産業》 岡田上村の主な歴史記録《加佐郡誌》〈 岡田庄の上流部であるから名としたもので桑飼上、桑飼下、地頭、大俣、滝ケ宇呂の五ケ字から成っている。参考一、桑飼上、桑飼下の二ケ字はもと岡田下村字久田美共に、宇谷庄を成していたものである。二、地頭は後堀河天皇嘉禄の頃には洪厨熊浪村といひ、大俣も其の一部であったと言ふことが同地西飼社の旧記に載せてある。三、滝ケ宇呂は明正天皇寛永十二年(徳川家光の時)新に開墾せられた地であって明治四年地頭より独立したものである。四、大俣の奥に栃葉といふ派口があり、地頭の内に小俣といふ派口があったが、維新の際共に本村へ合併したものである。。 〉 《郷土史・岡田上》 〈 市町村制の公布 政府は、町村会が自由民権運動の推進運動の推進母体となることをおそれ、町村に対する国家統制を強めるため、明治二十一年四月、新しい町村制を公布した。しかし新しい町村制の施行は、それにふさわしい行政範囲と財政能力が必要であるため、いくつかの町村を合併しなければならなかった。合併には、新しい町村名など多くの難問もあったが、翌明治二十二年四月一日、加佐郡でも従来の一七二か町村を解体、連合戸長役場も廃止して新しく一町二四か村が発足した。そして、それぞれの町村はそれぞれに役場をもち、町村長と同議会を同時に設けたのである。これに基づき桑飼上村、桑飼下村、地頭村、大俣村、滝ケ宇呂村の五か村は合併して一村とし岡田上村と称する私たちの郷土が誕生したのである。なお役場は地頭におき、初代村長は岩田誼太郎が就任した。 〉 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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