丹後の地名

旧・岡田中村
(おかだなか)
舞鶴市岡田由里・西方寺・富室・上漆原・下漆原・長谷・河原・下見谷


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京都府舞鶴市岡田由里・西方寺・富室・上漆原・下漆原・長谷・河原・下見谷

京都府加佐郡加佐町岡田由里・西方寺・富室・上漆原・下漆原・長谷・河原・下見谷

旧・岡田中村の地誌




《旧・岡田中村の概要》

岡田中村は舞鶴市の西部。由良川の左岸に位置する。大川神社より上流左岸側の支流・岡田川の流域に位置する村であった。
岡田中村は明治22年〜昭和30年の村名。岡田由里・西方寺・富室・上漆原・下漆原・長谷・河原・下見谷の8か村が合併して成立した。旧村名を継承した8大字を編成した。村名の由来は旧岡田荘のうち由良川中流域にあたることによるという。役場を河原に設置。
明治25年村内の岡田由里に岡田3か村組合高等小学校を設立したが、同43年これを廃校にし、共立尋常高等小学校を設置した。
岡田中小学校が遺称。(現在休校中。岡田下小学校は岡田中小学校の校区も含めた校区になっている。)
昭和30年加佐町の一部となる。村制時の8大字は加佐町の大字に継承された。同32年からは舞鶴市の大字となる。


《人口》687《世帯数》264。


《交通》

《産業》


旧・岡田下村の主な歴史記録

《加佐郡誌》
 〈 岡田庄の中流部であるから此名があるので、岡田由里、富室、西方寺、河原、下見谷、下漆原、上漆原、長谷の八ケ字から成っている。参考一、岡田由里、富室、西方寺、河原の四ケ字は中古猪熊村を成していたものである。二、西方寺は古志託郷又は凡海郷に属していた由、今観音堂がある。土人言ふ、「昔は西方寺と言ふ真言宗の一寺院があったが或時代京都に移して此一字と名称を残すだけであると」と。三、河原は古は香良と書いたが醍醐天皇の延喜四年二月から今の字に改めたものである。四、下見谷はもと河原の一部であったが明治四年に分離して独立したものである。五、長谷はもと上漆原の一部であったが明治四年に分離して独立したものである。六、応徳元年久田美村の城主村上陸奥守岡田庄を配して、猪熊村、熊之美(見)村とし、猪熊村は又字由里、西方寺、富室、漆原の四字に分ち、熊之美村は地頭、大俣、高津江の三字に分った。所が寛治元年に改めて、由里村、富室村、西方河原村、下漆原村、上漆原村の五箇村を以て猪熊村を配する事とした。そして後更に仁治元年西方寺村の内字河原、下見谷、寺尾を以て河原村と称し、一村を配する様にしたのである。  〉 

《ふるさと・岡田中》
 〈 …四月一日に新しく岡田中村は発足したか、どのような順序で新しい体制作りに入ったのか、役場に保存されていた書類などをもとに順を追って推測すると、西方寺村外九か村戸長役場時代の役場は西方寺上野弥一郎宅に置かれていたので、その役場をそのまま岡田中村の仮役場とした。そして、前の戸長であった木戸益蔵、和気安次と戸長役場の筆生であった藤樺庄左衛門が加佐郡役所の指示を受けながら新体制作りの業務を始めた。先ず初めに、村会議員選挙人名簿を作成して、四月二十六、七日の二日にわたり村会議員が選出された。
 五月三十日、行政組織、役場の位置、予算編成や村長、助役、収入役等の選任など重要案件について初村会を開会し、村長、助役の選挙を行い、村長に藤沢庄左衛門、助役に和気安次を選挙した。続いて村長は収入役に井上徳次を推薦して村会の承認を得て選任した。同時に村長は書記に木戸益蔵を任命し使丁一名を雇い、総勢五名の構成で発足することになった。(注・元戸長木戸益蔵は岡田中村の公民でなかった)
 役場を村の中央、河原に設置することになり、民家の山崎重蔵宅を借りて、七月一日、西方寺の仮役場を移動し、岡田中村役場として開庁した。けれども、役場の事務は吏員がさまざまな事務をかけもちで行い繁雑を極めた。
 明治四十二年五月、河原小字前田百七十九番地に役場庁舎を新築して移転した。瓦葺平屋建一棟、玄関付きで、事務室、会議室、宿直室、附属建物として土蔵一棟、物置一棟、道路側と上側は黒塗の杉板塀で囲い、桧丸太作りの門構えで、庭には桜、梅など、下手にはいちようの大木があって、一応田舎の役所らしい風格のある構えであった。現在の農協岡田中支店購買品倉庫が元の岡田中村役場であったが、今はその面影を全くとどめていない。
 大正末期ごろより以降の役場事務は、財産台帳、土地台帳、会計、出納、会議、税務、土地、土木、戸籍、兵事、選挙、学事、社寺、衛生、統計、勧業、文書の収発、受け付けといった事務で国の法令とその町村に合った条例・規程・規則等を設定して、村長以下吏員が分担していた。その外に赤十字社その他の団体の付託事務にも関与していた。役場には三役と書記二名の外、農会技手、蚕業技手と使丁の総勢八名で事務室が狭かった。その上、さらに信用組合が会議室を間借りして金融事業を行っていた。
 そこで、時代の進展に伴い、役場事務室の狭隘と信用組合の事業拡充のため合同庁舎を建築することになった。土地所有者山崎重蔵外五名から、敷地として百二十七坪の寄付を受け、敷地を造成し、昭和七年十月、建築に着手し、翌八年四月十五日、新庁舎に移転した。中央から左側が役場で右側は信用組合であった。現在の農協岡田中支店がその建物である。
 昭和十二年、日華事変が勃発し、さらに十六年、太平洋戦争に突入して、戦局の進展に伴い、供出、配給その他国民生活に必要な事務が激増したので繁多となっていった。大幅な書記の増員に加わえ、保健婦も置いて、戦時下における行政遂行の事務体制を整え、休日出勤や夜勤も多く、戦争遂行の国策に沿って吏員は一体となって業務にあたった。
 二十年、終戦となり戦後の事務は複雑多様化し、経済は急変し、財政もひっぱくする等、戦中戦後を通じてまことに困難な中にも村長以下職員一致協力し、村の自治を守ってきたが、時代の流れに沿って町村合併となり、村長、助役を除き、収入役と職員は新しく発足する加佐町が引き継ぐことになったのである。
 過去を振り返り町村制実施以来の、名誉職、有給吏員の報酬、給料を別表によって見ると、みんな薄給であり、特に注目に値するものとして、村長は無報酬で、しかも在任が長期にわたって続いていたということである。また、昭和恐慌(世界恐慌)時代の昭和六年には、三役で月額二円、書記で月額一円を減給し、十三年まで据え置かれたことは、当時の経済事情かいかに深刻であったかを窺い知ることができる。
 年を経てここに、昭和三十年四月二十日、町村制実施以来六十七年の長きに亘って続いてきた、わが郷土岡田中村は加佐町の誕生と共に、発展的解消とはいえ廃村となり、村としての歴史を閉じたのであった。
 そこで岡田中村では前日の四月十九日、役場庁舎二階において村理事者並びに職員、功労者、区長、村会議員、農業協同組合役職員、各種団体長ら約百余名が参集し廃村式を行った。村長の式辞に次いで村会議長が経過の報告を行い、村の全戸に記念品を配る手筈をして、式の後に小宴を開いた。岡田中村の名称が消滅することには参列者一同一抹の哀愁を覚えたが、時代の要請にこたえての新町の発足であることに大きな希望を託して散会した。  〉 




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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