旧・岡田下村(おかだしも)
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京都府舞鶴市大川・志高・久田美 京都府加佐郡加佐町大川・志高・久田美 |
旧・岡田下村の地誌《旧・岡田下村の概要》 岡田下村は舞鶴市の西部。由良川の両岸に位置する。大川神社より上流側の村であった。岡田下村は明治22年〜昭和30年の村名。久田美・大川・志高の3か村が合併して成立した。旧村名を継承した3大字を編成した。村名の由来は旧岡田荘のうち由良川下流域にあたることによる。役場を志高に設置。明治44年岡田下尋常小学校を設立した。主に農業・養蚕を営んだ。昭和23年府立河守農業高校(現大江高校)の定時制岡田分校(農業科・家庭科)が村内に設立された。 岡田下小学校が遺称。(現在の岡田下小学校は岡田中小学校の校区も含めた校区になっている。児童の父母は外に出て働き、祖父母が農業に従事している家庭が多い、そうである。彼らは自分の家の田をジイちゃんの田んぼと呼ぶ。トウちゃんの田んぼとは呼ばない。ジイちゃんが亡くなったりすれと、その田をボクの田と呼ぶ) 昭和30年加佐町の一部となる。村制時の3大字は加佐町の大字に継承された。同32年からは舞鶴市の大字となる。 《人口》1009《世帯数》319。 《交通》 《産業》 旧・岡田下村の主な歴史記録《加佐郡誌》〈 岡田庄の下流部であるから名としたもので、久田美、志高、大川の三ケ字から成っている。参考。久田美の宇谷庄に属していたことは岡田上村の項に記してある。然し尚此外志高庄又は岡田庄に属していたこともあると云ふ。 〉 《岡田下村誌》 〈 名称の起源 孝徳天皇の時代に國郡里を定め国は郡を郡は里を統べ里は村を統治する大化改新が断行せられ五十戸を以て一里とし二十里を以て一郡の極限とした。しかし本村に関する記録を調べると、郷庄等の名称はあるが里と云ふものは見出し難い。然らば郷を用いらるゝようになったのは、何時代であったろうか。元明天皇の和銅六年の詔に郡郷の文字か見え出雲風土記に霊亀元年里を改めて郷となすとあるからどうしても奈良朝以後と推察する事が出来る。丹後風土記に依れば、由良川筋十二ケ町村は、川守、神戸、有道、志託、凡海の五郷に分れ志託郷は岡田上中下三村と有路下村の一部をも含んでいる。志託郷の名称由来に就ては、開化天皇の皇子産坐王こそ武勇絶倫で、当時丹後に玖賀耳御笠と称する凶賊が猛威を檀にしていたので産坐王は乃もこれを征服せんと騎馬堂々進軍し終に由良川のほとり 田圃に隠れていた凶賊を誅戮せられたと云ふ志託(したく)とは蹂りんの意味で王の軍勢が馬蹄にて強敵を蹂りんせし故事に依ると四道将軍の文献に見出した。次に庄名に就て探求すると伏見天皇正応元年八月調査の丹後国諸庄郷保総田数帳目録に、岡田庄の名称があるから志託郷の異名と見るのが當然である。降つて後光明天皇の正保年間に、組制を布いて、岡田庄は川口中組と改称せられ、岡田上 岡田中 岡田下の三村十七字明治四年七月に行った廃藩置県により一時舞鶴縣下に入ったが同年十一月二日豊岡県に属し従来の組制を廃して区制をとり明治九年八月に豊岡県が廃止せられて京都府管轄の宮津支庁に属し明治十四年に区制を戸長制に改め同十七年六月連合で戸長制を採って久田美 志高 大川を統合した連合戸長役場を志高宏言寺内の観音堂に設置した、かくして明治二十三年町村制の実施により元岡田庄の下流部にあるから岡田下村の名称は始めて出現したのである。 村史略 大化の新政以前における本村については、記録の確たるものが少い故、単に歴代の領司を挙げると、神服連海部直(孝霊天皇時代)笛建王(孝元天皇時代)旦波大姫主油基理(開化天皇時代)丹波道主命(崇神天皇時代)倭姫尊(垂仁天皇時代)五十建連石別命(景行天皇時代)朝延別念(成務天皇時代)速総別命(応神天皇時代)能野長曾部善次(雄略天皇時代)穴穂部尊(用明天皇時代)蘇我倉山田石川麻呂(皇極天皇時代)阿部内麻呂(孝徳天皇時代)等である。本村は元丹波国の一部であったが、元明天皇の和銅六年四月仁の丹波國の五郡を割いて丹後国を置かれるようになった。和銅年間より三百年下った寛仁年中に藤原経数次て藤原保昌が丹後守となり、高倉天皇の時代には平重盛も国守になっている。建武二年足利尊氏が叛するや、その族一色範光を以って守護に補したが、正平十六年に山名時氏が吉野朝に属して丹後国を定め。正平十八年には足利義詮に降り丹綾五圏と出雲、丹後の守護職となった。次にその子の師義や孫の満幸が其職を襲ったけれ共、満幸は将軍足利義満に背いたので、遂に誅せられ、守護職は再び一色族に授けられた。斯くて一色範光の孫満範は田辺(舞鶴市)を居城として丹後を治め、頼承けて子孫に及んだが一色義道は応仁の大乱に山名持豊に党し其子義春は早世して子が無かったので従弟の美季を嗣としたところ細川勝元の党若狭守護武田信賢が将軍義政の命をうけて、丹後守護を兼ねた為めに、武田軍と連年戦を交へた。戦止んで義季、義幸、義道と時代は流れたが、三代の馬鹿息子とやら義道は暗愚にして暴虐を極めたので、天正六年織田信長が細川藤享をして之れを討たしむるに及んで、さしも栄華を誇った一色族はあわれ一朝の露と消え細川家がこゝを領するに至つた。次で藤孝はこゝを忠興に譲り身は宮津に移ったが、慶長五年石田三成が大野木等に命じて田辺城を攻めた。折しも忠興は徳川家康に従軍して東国に在ったので、 藤孝は宮津より馳せ参し防戦大いに努めたのである。其後関ヶ原の戦功によって忠興は豊前豊後の三十九万石に栄転するに及んで、慶長五年十一月に京極高知が田辺藩主となった丹後一国十二万三千石の領主たる高知は、慶長七年百官を従えて威風堂々全領を初巡視したが、その得意や如何であったろう高知の死亡するやその遺命により丹後三分が行われて、長男高広は宮津七葛五千石 次男高三は田辺三萬五千石 養子高信は峰山一万三千石に封を定め、不動の家運を礎いたが、無常の風はこゝにも訪づれて田辺藩主は後七十年にして寛文八年但馬国豊岡に転封せられ、牧野親成を新藩主として迎えたのである。 牧野家は代々名君の誉れ高く藩政大いに振ったが十代弼成の時代に明治維新となり、遂に版籍奉還、廃藩置県を見るに至った。転じて本村字別の往古を展望する。… 〉 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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