丹後の地名

岡田由里(おかだゆり)
舞鶴市岡田由里

付:気比神社
付:枝宮神社
付:めがね橋

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京都府舞鶴市岡田由里

京都府加佐郡加佐町岡田由里

岡田由里の地誌




《岡田由里の概要》

岡田由里は舞鶴市の西部。由良川左岸に位置する。南端を由良川が東流し、川沿いに国道175号が走る。中央で北西へ府道西方寺岡田由里線が分岐する。舞鶴側から行くなら志高の先、採石場の越した所の信号機のある交差点の付近である。
岡田中学校、岡田郵便局がある。岡田川に西流する富室川が合流して由良川に注いでいる。以前は低い土地でよく水がついた所であるが、今はかさ上げされている。
近郷一六ヵ村の中心地で、備荒のための郷倉があり、稗を各村から集めたといわれる。
中世の岡田庄の中心地であったと思われ、丹後国田数帳に
 岡田庄 卅九町九段四歩内
 廿町四段 御料所庄主
 十町二段二百卅六歩        地頭下山殿
 五□百八十歩             大祥寺
 一□□段               大□分
 五町三段二百四十八歩         無現地

岡田由里村は、江戸期〜明治22年の村名。岡田由里は明治22年〜現在の大字名。はじめは岡田中村、昭和30年加佐町、同32年からは舞鶴市の大字となる。

《人口》197《世帯数》61。

《主な社寺など》
背後の山に枝宮古墳
岡田川合流点下流に縄文時代から弥生時代の岡田由里遺跡
由良川に面した水無月山には弥生時代の墳墓や住居跡
集落東端カウゲス地区には枝宮(えだのみや)神社
北部の府道沿いの滝尻地区に気比神社
東北方由利山に中世一色氏の麾下南部豊後守の拠った山城
北に隣接して荒張城址

《交通》
国道175号線

《産業》

気比神社

岡田由里から西方寺へ向けて「府道西方寺岡田由里線」登っていくと、「気比橋」がある。その手前右手の山裾に鎮座。「舞鶴市加佐運動公園」の看板があるが、そこからすぐ見える所である。気比橋(岡田由里)もともとはここではなく、「仲の森」、「一本木」を経て船に乗り字「小嶼」へ、またそこより今の「鍋迫」に遷宮したという。

「丹後風土記残欠」の気比社。「室尾山観音寺神名帳」の正三位気比明神とされる。
敦賀市の気比神宮の分社といわれる。気比神宮は北陸道総鎮守で、古事記・日本書紀にも説話がある旧官幣大社。祭神は伊奢沙別命。
気比神社(岡田由里)
気比神社は若狭にはいくつも見られるが、岡田由里に北陸道総鎮守が祀られるのは、かの方面との間に、ずいぶん古くから舟運が開け、人と物の交流が行われていたことを物語るものか。
しかし但馬にも式内社の気比神社(豊岡市)があり、その神社近くから銅鐸が4口出土している。『加佐郡誌』によれば、岡田由里の祭神は、気比武彦命だという。気比は本来は天日槍系の人々が祀った、ケの神様かと思われ、金属と水運、農業などの神様か。ケヒやケタとか、何かも一つ意味がわからない、間違いなくとほうもなく古い神社がひろくあちこちに祀られていて、これらは何か特別に敦賀の気比神宮と関係があるのかどうか。
《ふるさと岡田中》
 〈 気比神社
  所在地 岡田由里小字仙田に鎮座
由緒  越前国気比神宮より御分霊勧請奉祀したもので、丹後風土記残編に加佐郡神社凡て三十七座の内気比神社。丹後国神名帳に加佐郡正三位気比明神、気比明神祠由里区とあり(元和五(1619)未年二月二十八日の写本)
古より伝え聞く口碑によると「大神この地に遷り給うや、仲の森、一本木を経て船に乗り字小嶼に就すせ給う。因て字名を小嶼という、また、船ともいう船を留め給いし処にして船形に似たる遺跡なりという、該地より今の鍋迫に遷宮し給いたり」と。大神の御供米を作る社地、本社より約四丁西方本堂に七畝歩の宮田があり、個人持ちとすると、必ず祟りがあって自作する事能わず今尚宮田として現存する。
 気比神社記によると祭神七座、既ち伊奢沙別命・日本武尊・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・豊比売命・建内宿禰命同神者なりと。
 明治三十六年五月十六日、古社寺保存会長九鬼男爵、本社内神に安置してある御神像三体を拝した際、いずれもこの彫刻は、紀元千六百年より前の作であると鑑定され、気比神社の神号揮号の上これを受けた。
 社殿は神明造壱坪、上屋三坪五合、手水舎一坪、鳥居弍基、参篭所木造拾壱坪、狛犬一対等あり、境内坪数1、011坪氏子八十戸、境内神社に若宮神社、稲荷神社がある。

枝宮神社・気比神社  祭礼行事 岡田由里

練り込み行列
 幡・鉾・区長・東西・新発意・挟み箱・立傘・台傘・黒羽馬毛・白羽馬毛・大鳥毛・笛・櫓太鼓・前後に警護がつく
大名行列
 挟み箱(衣裳箱)二個二人・立傘・台傘(進行方向に見て立傘は右・台傘は左)二人・黒羽馬毛二人・白羽馬毛二人・大鳥毛五人以上何れも足元脚絆にわらじ

東西の文句       新発意の文句
  東西          ザイ
  南北鎮まり候      ソーロー
  今日最上吉日をもって  モッテ
  気比・枝宮神社さまへ  サマヘ
  当字として       シテ
  祭礼の式差し上げ候   ソーロー
  差し上げ候       サシアゲソーロー

 東西・新発意の衣裳・持ち物
  東西  鳥帽子をかむり 上下をつけ白足袋・扇子を持ち、新しい下駄
  新発意 赤頭巾をかむり、白足袋に新しい下駄、左手に花篭、右手に軍配うちわを持つ。

付記 大名行列に就いては西方寺でも例年行われているが、岡田由里では振り方が道中振り、西方寺では玄関振りを模したもので、振り方に違いがある。  〉 

由良川筋の村々は大名行列が好きなのかあちこちにある(あった)。

「舞鶴市民新聞」(89.10.13)は、
 〈 岡田由里地区
5年ぶり「奴道中」 道具を新調して秋祭りで

 五穀豊饒を神に感謝する市内岡田由里の気比、技官両神社の秋の祭礼が十日行われ、五年ぶりに復活した「奴(やっこ)道中」が地元の若者によって奉納された。奴道中に欠かせない白、黒の毛槍などが同地区(南部道夫区長、六十世帯)の人たちによって新調され、御披露目も兼ねてこの日の奉納となった。
 奴道中は、江戸時代に田辺藩主から同地区に毛槍や大鳥毛など道中道具が与えられたことから始まるという伝統行事。若者によって伝承されてきたが、道中道具の損傷がひどくなり、新調されるまで奉納が途絶えていた。
 奴道中は岡田中小学校四年、竹ノ内大介君が務める神の使者「新発智(しんぽち」を先頭に、新調された挟箱(一対)、三笠、代笠、黒、白の毛槍(各一対)、大鳥毛の順に各神社の参道で奉納された。江戸時代から伝わる奴道中そのままの形で行われ、久しぶりに復活した道中を地元の人たちが盛んにカメラに収めていた。  〉 

枝宮神社

岡田由里にはも一つ古い神社がある。「室尾山観音寺神名帳」の従二位枝明神である。
岡田由里から富室へ向けて入った所に鎮座している。大川神社の枝宮だそうである。
《ふるさと岡田中》は、枝宮神社(岡田由里)
 〈 枝宮神社
 当社は、保食尊を祭神とする大川大明神の枝宮である。古宮はこの社より東に当る御霊嶽にあった。中が迫を約三百メートル登った山中の御宮なるという平地に石をすえ、この大石を御神体として尊崇していた。御宮なるより約百メートル登った所に大なるという平地があり宮地に適する場所なるも、家路の近くに祀ってお蔭を受けんと、御宮なるが選ばれた。曰く枝宮大明神古宮のみたらし、富室川の流れは秋末には鮭魚御宮へ登る。人見る事を得ず若し見ても宜しからず神罰を受くる者多し。御敷地は志高薬師の谷川切、富室谷、由里城山谷川切、地頭おさの谷川まで古えの松よりたやの前を見下し、大川船は帆を下げ通行す。口碑によれば大雲川を遡江しきたる船、神霊の威光により宇谷の瀬を越す事能わず、よって大川大明神尊公の御代に明神を勧請し、現在の地に遷座すと云う、元宮地を古宮と称し明徳元(1390)庚午年と伝えている。
 境内は東は谷川、西は道、北は山裾、社の南面前は野形地で見晴らし良く神相応の境内である。西方に日宮・稲荷・梶屋の三社が鎮座する。東方には荒神座し、辰巳の方の川縁に礼拝所を設え、南山辺に百手の的場、坂の中ほどに鳥居を作る。
本社建立 延享三(1746)丙寅年再建、上屋は大正二年三月再建
石鳥居  宝暦十(1761)庚辰年建立 尊氏四代幾満御代
宝暦十二(1763)壬午年拝殿建立
境内社  日吉神社、稲荷神社、梶屋神社、荒神社、弁財天社、野々宮社
氏子数  地頭村五戸、富室村五十六戸、由里村五十戸計百十一戸であったが現在由里区八十戸
棟札 延享三(1746)丙寅年七月五日 遷宮 惣社大川大况中臣昌次
                 本願主 大庄屋南部新左衛門、村年寄、松味又蔵、中西茂右衛門
縁日は二月十二日、例祭は十月十二日で古式による大名行列、大刀振、笹踊り等が氏子により今も奉納される。  〉 

《城跡》
『ふるさと岡田中』
 〈 岡田由里城
当城は国道一七五号線から、府道西方寺岡田由里線を約一キロ入った処に由里谷がある。谷にむかって左手に小高い嶺峰が近く望見される。これが岡田由里城跡である。右手にはそれより峻嶮な山様を見せ一五六米の高さを誇る荒張城跡があり、その手前の臥牛山が由里別城(高さ約三十米)である。
由里城主は南部大膳介(三百八十石)とも、南部豊後守とも記されている(丹後山城城譜篇)。村高と比較しても由里村一村の村落城主であったことがわかる。
また、京都府誌には古城跡として由里村東北方由里山にあり、東西二十二間、南北十二間亀甲型をなし、中古南部豊後守が是に拠ると伝えられる。なお、同氏は一色氏の麾下にして本村を領したともある。由里小字松ケ鼻にある南部家墓所には、南部姓を刻す明応四(一四九五)年銘の五輪塔がある。同氏霊牌の裏面には明徳四(一五五七)年弘治三年と銘記されていることから、この頃の居城であったであろうと推察されるが、考証するものは何一つない。
天正七(一五七九)年細川藤孝・忠興父子が、織田信長の命に依り丹後国へ攻め込んだ時、加佐郡内の山城はほとんど潰滅されたようであるが、この時、当城も他の城と運命を共にしたであろうと思われる。城跡は約二十一アールで連郭式縄張で四郭からなっており、四周は概ね嶮しいが本丸裏西北方は絶壁である。斜面を約二十メートル下った所で山続きになっている。現在、本丸跡には稲荷神社が祀ってある。

岡田由里別城
荒張地区有堀久雄家の約十メートル上がった所に幅二十メートル余の台地がある。左手は高さ三十メートルの臥牛山で、右手は峻嶺荒張山があり両山の鞍部になっている。
この城跡には口碑もなく、ただ馬出しの様な廃墟があるだけである。
由里城の別城と言うより、荒張城との関連性を重くみるのが正しいと思われる。城跡は細長い山嶺を本丸にし、南側一メートル余り下って同じ長さの腰曲輪をもった簡素なものである。そして、西南へ下る尾根は先端で急勾配に落す。そこに小堀切が一か所あって、山麓を走る西方寺への往還に対しての防御になっていたようである。しかしここも農地改良工事の土取り場となって、先端の部分は削り取られている。

荒張城
岡田由里小字荒張地区にそびえる愛宕山頂には愛宕神社が祭祀されている。
この峻嶺も独立した山ではないが、四周から登るのに難しい要害の山である。頂上には南北五十数メートル幅十五メートル前後の広場を本丸とし、単郭ながら大手口は有堀家裏に、台場の南下大手道脇には狭小ではあるが腰曲輪を設けている。
この要害地にある荒張城には南北朝の初め南朝方の武将が拠った山城と言われ、城主は荒張氏と思われるが詳かではない。
丹後国中郡誌稿に依ると大日本史料第六編の四に「吉川彦次郎経久申、右今月四日馳向丹後国岡田庄荒張城大手致種々合戦云々…」建武四(一三三七)年九月十日とあり、また「神代彦五郎の攻略したる荒張城は由良川辺にて岡田庄」とあり、なお、南北朝編年史、吉川家什書等を参考にして、記載されている文を綜合して考察すると、
 当時わが国の朝廷は南北に分かれて相争い、当地においても豪族はそれぞれ南北に分かれて忠勤に励む一方相手方と相争った。即ち祇園前執行顕詮の家人越中房は南朝の綸旨を配布して北朝に抵抗したが、吉川彦次郎経久、径時親子は足利忠義の奉ずる北朝に味方し、南朝方の丹後国加悦庄高山寺城・同成相寺城を攻め、仁木頼章・祇園顕詮を降し、建武四(一三三六)年八月二十三日、越中房を誅殺し、高師直に報告して、足利直義より褒賞を授与された。勢いに乗じた吉川勢は九月四日荒張城を包囲したが、荒張勢はひるまず応戦しこれを撃退した。要塞堅固な荒張城を攻略することはできなかった。十一月十九日、小又来全は吉川径久に命じ、援軍を送る旨を知らせ、別将の到着するのを侍たした。
歴応元(一三三八)年四月二十七日、丹後国北党神代兼治が加勢し、山々の木の葉の繁るのを待って潜行し、急坂を攀じ登り一気に攻め立てた。不意を衝かれた荒張勢、一時は混乱を極めたが、さすが鍛え抜かれた荒張勢は勢を盛り返し、阿修羅の奮戦。しかし多勢に無勢、退けても、退けても新手の寄せ来る敵方に、さしもの荒張勢も敗退し山伝いに落ち延びた一族も詮議の厳しさに姓を変え、居を変えて再起を計った。
現在当地区在住の人々の姓に、荒木・荒堀・有堀等の荒張ゆかりの末裔が多いゆえんである。

滝城
府道西方寺・岡田由里線の岡田由里小字松か鼻にかかる気比橋から気比神社の横を通り二百メートル位入った所に加佐運動場がある。この運動場の奥が丘陵地になっている。その上部(高さ六十五メートル)に屋敷跡と見られる約長さ百メートル、幅二十メートルの広場がある。これが舞鶴市城跡地図に示されている滝城跡である。岡田由里・冨室・西方寺のほぼ中心地で、四方山に囲まれ盆地様の地勢で、裏山は城しく城塞として格好の場所である。小字滝は別名本堂ともいい、一般にはこの通称の方が多く使われ親しまれている。
その昔、この地に真言宗の一寺院があり、傍近の地を南の坊・西の坊と言い、往時は、堂塔支院の毅然とした建物があったと伝えられているが、唯口牌だけで詳細を知る古文書等は発見されていない。
思うにこの寺院は廃寺となって、荒れすさんだ跡を砦として改造し、三つの村を支配した山城の一つではなかっただろうか。荒れるに委せたこの城跡はただ地名として今に伝わるのみである。  〉 



《名所・メガネ橋
メガネ橋(岡田由里)

案内板に、
 〈 旧岡田橋河川水辺公園
道や川にも美しい表情を
旧岡田橋保存に至った経過
 由良川の支流、岡田川に架かる旧国道一七五号の岡田橋は、琵琶湖疎水の設計で有名な田辺朔即の設計と伝えられており、明治二一年に長さ一六・七m、幅五m、花崗岩の切石を積み上げた珍しい石橋として築造され、すでに撤去された近くの檜川橋とともに「めがね橋」の愛称で地元の人達に親しまれてきました。また、明治期の石橋として京都府内に現存する石橋は、舞鶴市の旧岡田橋と亀岡市の旧王子橋の二橋だけであり、現在まで石造の力強いアーチに支えられて、大型自動車の通過や百年の風雪に耐えてきた歴史的にも貴重な構造物であります。
 国道一七五号の移設及び岡田川の改修に伴い、旧岡田橋の撤去が予定されると、地元の人たちの「貴重な明治の遺産を残して」との要望が高まり、昭和六三年保存が決定し、周辺の環境整備と併せ水辺を生かした公園としてよみがえることになりました。…  〉 

洪水。かつての名物と言うべきか。少し上流の地頭あたりといい、ここといい、一階部分はこの季節よく水没していた。
昭和47年9月の洪水
昭和47年由の良台川風がで氾濫
昭和47年9月、岡田中学校東側の岡田川が由良川に注いでいる付近(岡田由里)
昭和47年9月16日夕方から台風20号が舞鶴地方を襲った。最大瞬間風速は35.8メートル、総雨量253.5ミリ(16日午前1時47分から17日午前9時まで)を記録。
由良川大川橋の最高水位は7.17メートルに達し、川筋一帯は泥の海と化した。この台風で全壊家屋5戸、半壊家屋12戸の被害を出し、3人が亡くなった。(『ふるさと今昔写真集』より、キャプションも)



岡田由里の主な歴史記録

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 油里村
枝の宮、桂の宮(気比か?)明神両社とも氏神なり南部豊後と云う者古へこの在を領するなり  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 岡田由里村 高四百壱石六斗五升
      内七石壱斗九升四台六勺 万定引
      拾八石御用捨高

 古城 南部豊後
 技ノ宮明神 富室村 由里村ノ内半分氏神
 桂ノ宮明神 由里村ノ内半分氏神  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎由里村
【枝か宮】
【桂の宮】
【南部豊後城墟】
 【付録】(日の宮、稲荷社、桃の宮、荒神、弁財天、野々宮、八幡宮、薬師堂、地蔵堂、水無月明神)  〉 

《地名辞書》
 〈 或云、和名抄の高橋郷は今詳ならず、本郡に岡田村の首里を由理と云ひ、河辺村高野村の首里いずれも由里と云へり、由里の名義を詳にせず、或は疑ふ高橋は高野の誤にして、即田辺の南なる高野村かと。又云、和名抄の刊本に田辺郷を田造郷に謬る。今高野村大字女布(古訓メフならん)に延喜式目原神社あり、又隣村池内の大字今田に延喜式倭文神社あり、舞鶴の南二里にして分水嶺あり真倉峠と云ひ、何鹿郡綾部山家に通ずる坂路とす。  〉 

《加佐郡誌》
 〈 岡田由里、富室、西方寺、河原の四ケ字は中古猪熊村を成していたものである。

応徳元年久田美村の城主村上陸奥守岡田庄を配して、猪熊村、熊之美(見)村とし、猪熊村は又字由里、西方寺、富室、漆原の四字に分ち、熊之美村は地頭、大俣、高津江の三字に分った。所が寛治元年に改めて、由里村、富室村、西方河原村、下漆原村、上漆原村の五箇村を以て猪熊村を配する事とした。そして後更に仁治元年西方寺村の内字河原、下見谷、寺尾を以て河原村と称し、一村を配する様にしたのである。  〉 


伝説など

《舞鶴の民話5》
 〈 幻の夢不動の滝 (岡田由里)
 大川神社をすぎ、南西に進むと志高があり、由良川に岡田川がそそぐ合流点の山麓に岡田由里があり、中世岡田荘の中心地であったと思われ、丹後国田数帳に、岡田荘 三十九町九段四歩内廿町四段 御料所庄主……とみえる。岡田川と由良川の合流点やや下流に縄文後期、弥生後期の古墳の遺跡である岡田由里遺跡がある。
 岡田由里小字滝に滝がある。滝の附近一帯は硬い岩盤の地質である。しかし数千年の歴史を秘めて流れつづける水によって、硬い岩肌はけずりとられて流路をつくり、大雨のときなど附近一帯が、とびちる水で壮観である。この滝に四メートル四方の滝壷があり、この滝壷に伝説がある。
 この滝壷の上にある岩盤には不動明王が祀られていて、住民の願いごとはなんでもかなえて下さる霊験あらたかな不動さんであった。願いごとがあるときは、ひょうたんの中に年齢、氏名、願いごとを書いた布切れをいれ、不動明王にお供えして、お祈りのあと滝壷に浮かしておくと、いつのまにかひょうたんの姿は消え、三日三晩の内に必ず御利益の夢見せがあり、数日後、ひょうたんが水無月山の裏手、由良川にポカリと浮かび、数日後にはひょうたんは消えてしまう。
 この伝説を再現しようと、老人有志が相計り、附近一帯を清掃し、滝壷の右手に小さい祠を作り、滝壷から丸い小石を拾い不動明王の身代りとし、酒や花を供え、般若心経を唱えて御霊を祭ることになった。この不動明王を「夢不動」と命名した昭和四十五年ごろのこと、この夢不動へ数年間老人有志が参拝し、千願心経をあげ信仰したけれど、だんだん信仰もうすらぎ、現在では祠も不動明王の御玉もなくなり、参拝する人もなくなった。御利益がないとなると、すぐに信仰する人もなくなる。不動明王はどう思っているだろうか。  〉 




岡田由里の小字


岡田由里 仲ノ森 安田 松ケ鼻 平田 滝 仙田 細首 六反田 壱番田 下市 置田 滝尻 山栃 荒張 カウゲス 由里ノ谷

《ふるさと・岡田中》
 〈 岡田由里
 大阪外大の吉田金彦教授は、京都新聞の「古代地名を歩く」の記事に、岡田由里を次のように記している。
カサ(加佐)はカム(神)サリ(到来)が語源で、加佐と云う語になった。由良川の河口には神崎、由良があり、共に神に関わる地名であり、由良は寄る、依る等の意味があって大陸や南国、隠岐や出雲の神々が由良港に寄り着き、由良川を遡って約十キロメートル鮭や鮎がよく採れるところで寄り着いたのが由里であった。否神々がより着かれるので由里という地名が生まれたのである。
 岡田中の玄関口である岡田由里の由良川に接するところを下市という。現在のような立派な道路のなかった昔、由良川の舟運は唯一の交通路であり、物資の輸送路であった。貢租、産物の積み出し、日用品の購入の中心となり自然に市がたった。岡田の谷の下でたった市で人々はこの地を下市と呼ぶようになった。下市から少し由良川を下がったところに三本松がある。志高との境に近いところで、国道の傍由良川寄りに三本の黒松の老松があった。いつも美しい姿を由良川に写し、旅する庶民の道標でもあり、この地を三本松といって親しまれたが、松喰い虫の被害を受け、今は二代目が淋しく息付いている。
 下市から冨室谷に向かって入ると、大川神社の分祀枝宮神社があり、この谷一円を枝宮という。神社の古宮があった山を、霊のいます山、御霊(おたま)岳という。城跡岡田の谷に入ると、荒張由里の谷等の小字があり、共に昔の古城の跡で荒張城、由里城の城跡があり山麓に広がる田園の小字名となっている。岡田川をはさんで西側の由良川畔にある水無月遺跡と岡田中学校付近の岡田上との境界一帯をという。この辺りは国道の改修により、大きく変貌しつつある。この地の上が置田仲の森等往時は由良川の入江で、永年の置土によってできた田圃を置田といい入江の中程にあった森の所が中の森と呼び伝えたという。
 由里の上に気比神社があり、東西に平田安田の小字がある。その昔気比神社の宮田があり、共に氏子が奉仕で世話をした。般若寺初代の霊重大和尚が宮中の古式に則り天平田、天安田の名称をつけ、この地の平安を祈ってつけた名であると伝えている。
 平田から加佐運動場に行くと、正面が滝城跡で、隣あって古寺の屋敷が残っている。この地を小字または本堂ともよんでいる。城または古寺に由来する名がついている。運動場の下に滝があるので小字名を滝と呼んでいる。  〉 



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福井県敦賀市





 
【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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